ムッシュKの日々の便り

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男と女――第六部(37)

 北京

 二人にとって初めての北支の旅について、三千代も詩やエッセイ、紀行文を残していている。「曙街」1~3(「都新聞」、一九三八年五月日日~三日)、詩「声――北支所見」(「輝ク、一九三九年一月号)、紀行文「北京晴れたり」、「北京浅春記」、「万寿山の菓子」、「八達嶺驢馬行」(『をんな旅』所収、富士出版社、一九四一年)である。これらは他の紀行文と同様、彼女の一人旅の形をとっているから金子は姿を見せない。一方金子は、帰国後に発表した幾つかの詩のほかに、戦後になって『絶望の精神史』(光文社、昭和四〇年)のなかで旅での想いを記した。
 二人は天津に一週間ほど滞在したあと、十二月二三日に、奉天発の満鉄の列車で北京へ向かった。「北京正陽拈に着いたのは、旧臘廿三日の午前十一時十五分で、時間表通りの正確な着拈であった。事変後開通してから、二三時間、時としては四五時間も予定より遅れた列車が、この頃やっと規定通りに発着するようになったということであったが、猶、奥地への旅をひかえている私には、そんなことにも行先の心強さを感じた。」(「北京晴れたり」、『をんな旅』)
 北京駅に降りたってみると、街の雰囲気は天津とはまるで違っていた。
 「天津ではひとまずまとまっていた感情が、北京へ着いてからなぜか支離滅裂になってしまった。北京には、天津のような租界といううしろ盾がないうえに、うねうねした漆喰壁の胡同(フートン)(小路)の奥に散在して、ひっそりと日本人達が住っているという希薄感がその理由の一つかもしれないが、そればかりとは思われない。日本を出発する時、否、こゝへ着くまで予想もしなかった一種底深い静けさが、うす気味悪く北京市を領していたからであろう。」(同)
 二人は駅で拾ったタクシーで邦字紙の北京新聞社を訪ね、社長のKの紹介で王府井にある洋風旅館のC飯店に落ち着くことが出来た。中国人が経営する旅館で、部屋にはバス、トイレがあり、場所も北京随一の繁華街で便利だった。
 翌朝は、疲れと寝心地のよさから十時ころに起きて顔を洗おうとすると、湯も水も出ない。呼び鈴を鳴らすと、老人のボーイが部屋に来てしきりに何かをしゃべる。言葉が分からないので鉛筆を渡すと、卓上の新聞の端に、「今天十時、人接収」と書き、すぐにここを立ち退いてもらいたいという。この大きな旅館は接収されることになり、満員の客たちは全員立ち退き、従業員も三十分後には全員が後片付けの後引き揚げるということだった。しかたなく二人は解いたばかりの荷物をまとめて、近くのホテルに行ってみたが、C飯店を追われた客で満員だった。
 やむなくKに電話をして、彼の骨折りでようやく交民巷の外れの正陽門拈わきのF飯店に空き部屋をみつけることができた。安っぽい旅館だったが、バスもついていて、ボーイたちも愛想がよかった。ただ一階には日本人経営のダンスホールがあり、夜眠ってからも日本の流行歌が聞こえてきた。
 かつて北京は、一九一九年の「五・四運動」や一九三五年の「一二・九」運動など、日本の侵略に対する抵抗の発祥の地であった。一九三七年八月八日、日本軍の入城以後八年間にわたって占領されたが、国民党政府はこの間教育を保全するために北京と天津の高等教育機関の南遷や西遷を決め、国立の北京大学、精華大学、天津の私立南開大学などの名門大学に在籍する大勢の教職員と学生たちは、数千キロの長距離を移動して南方の武漢や内陸の昆明へ赴いた。戦乱をさけて市内を脱出した避難民も数多悔いた一方で、大多数の市民は北京にとどまるしか選ぶ道はなかった。
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by monsieurk | 2016-12-27 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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