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by monsieurk
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男と女――第六部(38)

 北京では日本人が住むところは街の東側に片寄っていて、商店は東単牌楼附近に集まり、将来このあたりに日本人街を形成するつもりのようであった。現に日本旅館や料亭の多くがこの表通りの裏路地にちらばっていた。北京に長く住み暮らして中国風に馴染んだ日本人は、近ごろ満州国や内地から入り込んできた抜け目のない連中にしてやられている様子だった。急ごしらえのカフェや飲食店が多く、すでに店を開いていた。
 金子はこうした状況を目にした感想を次のように述べている。
 「中国で暮らし、とりわけ、美しい北京を心から愛していて、日本へ帰る気もなくなっていたような人たちは、それを破壊しに来た日本の軍や、ぶったくりのような日本人のすることを、はらはらしながらながめ、内心では、憎んでいるのがよくわかる。」(『絶望の精神史』)
 中国研究家で、尚賢公寓という清朝時代の大官の邸跡の貸部屋に美しい中国人の妻と住んでいる村上知行に会ったが、彼は日本の非行を憎んでいたし、北京で中国人の子弟の教育に尽くしてきた清水安三や、上海で世話になった内山完造などもそうに違いなかった。
 「そういう人はまだ、ほかにもいただろう。『北京新聞』の東北弁の社長も、やはり、願わくば、北京で死にたいとおもっているような人柄であった。けっして、北京が日本の領土になってほしいとはおもわない人だ。こういう日本人の心を僕は、宝玉にもくらべがたいとおもったが、軍国日本から言えば、あきらかに非国民である。
 どこに国でもそうだが、とりわけ中国のなんでもない民衆のなかには、どうしても愛情をもたずにはいられないような、いかにも大国の民らしい人間がいる。そういう人につらい思いをさせたくないためにも、日本軍に侵略を中止してもらいたいと思う。
 たとえば、往年上海で、田漢や、唐槐秋とあそびあるいていて大世界の屋上にあがったとき、僕は急に便意を催し、田漢にさがしてもらって、くらい納屋のような便所へはいった。便所の中はうすぐらく、あちらこちらに、大きな樽がおいてある。その樽に腰かけて、用をたすのだ。
 みると、僕にむかいあって、一人の老人が腰かけている。黙ったまま。二人は用をたしている。老人はやがて、唐紙をとり出し、ゆるゆると二つに折っては、折り目から裂き、またそれを折って、四枚にした。なにげなくそれをながめていると、四枚のうちの二枚を、しずかに手をのばして僕のほうにさし出す。僕も、うなずいてそれをうけとったが、僕は、まだその老人の姿と、むずかしく説明するほどの行為ではないが、知る知らぬを越えた淡々とした好意のあらわれに、中国人の心の広く大きいものを感じたのが忘れられない。田漢たちに話すと、とんだりはねたりしておもしろがって笑った。」(同)
 北京では晴天がつづき、北京へ着いて二、三日すると緊張もほぐれて、城門の出入り毎に突きつけられる銃剣の閃めきにも驚かなくなった。勧められるままに紫禁城、天檀、鼓楼、赤壁などを見学した。紫禁城の見学には三日をかけて、その大がかりなことに驚嘆したが、主権者の虚栄心と脅しに平伏するだけで、三千代はかつて訪れた蘇州や杭州の淡々とした風情ほどの親しみを覚えなかった。
 彼女は紐先銘の弟が北京にいることを聞いて電話をしたが、弟は不在で、ついに紐の消息はつかめなかった。三千代は知らなかったが、南京が陥落したとき、彼は若い僧侶に変装して死地を脱出したのだった。中央軍軍政治学校教導総隊工営兵営長だった。
 三千代は金子とともに、中国人子女を教育する崇貞女学校校長の清水安三夫妻や、東京高師の同窓で上海で交遊のあった温桂英と面談し、また清朝の国務大臣をしていた人の娘の關梁好音の邸での純粋な中華風な茶会に招かれたりした。その席には康有為の娘の康同壁などが出席していた。
 少年時代から寄席に通い伝統芸能に親しんできた金子は、中国の民間芸能にも関心があり、京劇をせひ観たいと思っていた。しかし事変後、梅蘭芳は上海へ移っており、他のよい役者も南方へ行ってしまっていた。それでも西長安街の長安大戯院で、李宣誠が演じる「玉堂春」を、前門外の慶楽戯院では「宝軍山」を観ることができた。芝居小屋は芝居好きの庶民で一杯だったが、日本人の彼らを特別気にする風でもなかった。これに気をよくして大観楼影院で映画「生龍活虎」を観に行った。
 さらに王府井にある東安市場の茶楼で京津太鼓を聴いたが、これは蛇皮線弾きの巧みな手さばきにつれて、妙齢の美人が片手に四つ竹をもち、それで銭太鼓を叩きながら、三国志演義や金瓶梅の物語を節をつけて語るもので、大変面白かった。

 平成28年もお読みいただきありがとうございました。新年は4日から連載を再開いたします。
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by monsieurk | 2016-12-30 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)