フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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男と女――第七部(1)

 第七章

 緊迫する世相

 金子と三千代が北支の旅からいつ帰ったか、二人の残したものから特定することはできない。たが金子がこの年(一九三八年、昭和十三年)の「中央公論」六月号に発表した詩篇「洪水」の最後に、「一九三八・一・一五作」との記述があり、この詩が帰国直後に書かれた可能性が高い。このことから、二人は一月十日前後には帰国したと推定される。
 三千代は帰国するとすぐに、出発前に武田麟太郎が逗留するといっていた箱根底倉の宿へ電話をした。すると来てほしいという返事があり、すぐに梅屋旅館へ訪ねて行った。
 その後の二人の間がどうなったかは、三千代の「女弟子」や「銀座を行く武麟」からはうかがうことができない。ただこのころ、三千代が麟太郎の麹町の家の前で矢田津世子と偶然出会ったことがあった。それが二人の鞘当として文壇仲間の噂になった。噂を流したのは武田本人だったという。
 息子の乾は両親の仲について、次のように述べている。
 「実際は、おそらく、土方定一との情事を除いては、三千代に、良人と子供を犠牲にしてまで燃焼する情熱がなかったのではなかろうか?三千代も分別盛りになっていたし、うたかたの恋よりも少女時代から憧れていた小説家としての大成の方が魅力があったのかもしれない。(中略)三千代の小説の語彙の豊富さは、三千代が原稿紙を前にして坐っている傍で、光晴が頭をひねり、口先でぼそぼそ言う手助けが大いに貢献していたようだ。」(「夜の果てへの旅」)
 三月になって、金子一家は北多摩郡吉祥寺街一八三一番地に転居した。これには以下のような経緯があった。以前、三千代は金子とともに乾を連れて井の頭公園へ遊びに来たことがあった。息子を電気自動車に乗せて遊んだ帰りに、百坪単位で売地が近くに並んでいるのを見つけると、地主の吉祥寺の町長の家を訪ね、その一つを購入することに決めた。一度に払う金はなかったが、美貌の三千代が気に入った町長の井野は、何年もかかる月賦で譲ってくれた。
 そしてこの年、金子の実兄の知り合いで、東中野に住む横山という裁判官が大審院長になったのを機会に、手狭になった家屋を売りに出すというのを聞くと、破格の安値で購入し、それを解体して吉祥寺の土地に運んで再建した。
 ただ吉祥寺のこの辺は、電気こそ通っていたが、ガスや水道は引かれておらず、水は井戸を掘ってモーターで汲み上げ、炊事には薪を焚かなければならなかった。
 世相は一層緊迫してきた。四月一日には国家総動員法が公布され、さらに警視庁検閲課が出版の統制を強化することを決定した。
 金子は「文芸春秋」時局月報(五月号)に、「シンガポールの裏街から――軍港街につどう諸人種気質」を発表した。これはタイトルの通り、シンガポールに滞在中に見聞した、タミール人、インド人、ベンガル人、華僑などの気質や生活ぶりを伝えたものである。なかでも支配者の列強を除けば、東南アジアの経済の実権を握っている華僑については次のように書かれている。
 「彼ら〔中国人〕は少し油断したら、何でも持ってゆく、とがめれば返す。返せば、あとは同等だ。恩怨はないではないかという顔つきで、よくいえば、実に淡々として、今度会っても、どこを風が吹くかという顔をしている。くよくよ思い悩む良心などはてんで持ち合わせていざることだ。支那人のこれと一連の性格は、よく研究したら面白いとおもう。支那通や、支那研究者が、支那人が国民として老成しており、個人として大きく円満だと考える点も、実際的に支那人とかかわりあったものが、老獪で無節操で始末の悪い国民だとするのも、彼らの同じ生活態度の二面観察にほかならないとおもう」、「事変前、蒋介石の大きな巾着はこの南洋華僑で、そのためには猛烈な働きかけをしたこと、いつか「南洋華僑の排日」という題で、本誌上に略述したとおりである。(中略)しかし、大きな土人購買層は、彼らの悪辣と、懸値(かけね)商法に嫌悪をおぼえていたので、少し高値でも正札つきの日本商品に信を置くような時代になってきて、華僑自身も長年の習慣を反省しつつ日貨に対抗しようとしている。」そして、「最後に、われら同胞について一言すれば、永年の排日貨と、不況にいためつけられながらも、すこやかに発展している。しかし、何としたことであろう。沢庵一本の注文に、雑貨屋の番頭さんが、タクシーに乗ってわざわざとどけにきてくれるとは・・・。」
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by monsieurk | 2017-01-10 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)