ムッシュKの日々の便り

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男と女――第七部(8)

一九四〇年(昭和十五年)は政情不安のうちに明けた。前年十二月二十三日、第七十三通常国会が開会された。三日後には衆議院議員二百四十名余りが、阿部信行内閣の不信任決議に賛同し、翌日には決議文を首相に手渡した。年が明けた一月十四日、阿部内閣は陸軍の支持を失って総辞職、二日後に米内光政内閣が成立した。
 米内は第一次近衛文麿内閣で海軍大臣に就任して以来、幾度か海軍大臣に就任した良識派だった。親英米派の米内を総理大臣に推したのは昭和天皇だったという。中国大陸で戦闘を拡大する陸軍によって、政治が壟断されつつある現状を打開したい勢力の抵抗のあらわれだった。
 こうした政局は、文化面にも影響せずにはいなかった。その一つがこの年に結成された「文化再出発の会」である。若手の評論家で幾つかの雑誌の編集者をつとめてきた花田清輝は、著名なジャーナリストで、思想家中野正剛の弟の中野秀人や、岡本潤と語らって新たな文化運動を起こす目的でこの会を立ち上げ、機関誌「文化組織」を発行した。一月に創刊号が出されてから、「文化組織」は第八号まで続き、文化の再編を提唱した。
 これに対抗するように創刊されたのが「詩原」である。昭和十四年十二月、新宿にあった帝都座の地下の「モナミ」で、青柳優、岡本潤、伊勢八郎、壺井繁治、秋山清、それに金子光晴も加わって幾度か会合がもたれ、新たな雑誌の発行と同人の選定が行われた。『現代日本文芸総覧』の「解題」では、「詩原」について次のように紹介されている。
 「「詩原」は昭和十五年三月、赤塚書房から発行された第二次大戦前の最後のアナーキズム系詩人たちの雑誌だった。すでに「一定の色彩はない。各人各様の詩誌だ」と創刊号「編輯後記」にことわらなければとても発行できない時代になっていたわけだが、壺井繁治、大江満雄、小野十三郎、倉橋顕吉、永瀬清子、山本和夫、中野秀人、池田克己らが寄稿、小堀甚二訳のハイネ「アツタ・トロール」が二号にわたって掲載されている。太平洋戦争がはじまる直前の時代で、もう詩人達の反逆も影をひそめているが、アナーキズムの詩人たちの抵抗の姿勢ははっきりうかがうことができる。菊判六十ページ前後で定価三十銭。編輯発行人は東京中野区上高田一ノ二七七伊藤方の伊勢八郎、発行所は東京市小石川区駕籠町五の赤塚書房。」
 金子光晴は「モナミ」の集まりに必ず顔を出し、創刊号には「詩評」を、第二号(四月号)には反体制の詩「死神」を発表した。そして両号には詩集『鮫』の広告が載った。
一方の三千代は、「早稲田文学」の一月号に、「都会文学について」と題した文章を寄せた。
 二月になって、中支戦線に出兵していた弟義文が、腹部と左腕に貫通銃創を負って送還され、名古屋の病院に入院した。生憎と父の幹三郎が病気で動けないため、三千代が名古屋へ出向いた看病しなければならなかった。
 そんななかでも彼女の創作意欲は旺盛で、同人誌の「文学草紙」に「我等の展望」を書き、三月には、これまで雑誌に発表した作品を集めた『巴里の宿』を、砂子屋書房から出すことができた。二七四頁に、表題作「巴里の宿」をはじめ、「雨季」、「小紳士」、「猫」、「梵鐘」の五篇が収められている。
 「巴里の宿」は、「巴里に寄せる」、「白い金魚」、「カルチェ・ラタン」、「アイーシャ」、「血を抱く草」の短章からなり、パリの屋根裏部屋に住む女性の鯉江を主人公にして、自ら経験した苦難をフィクションをまじえて描いたものである。たとえばこんな個所がある。
 「私の、はじめて飛びこんだ巴里は、そういうところだった。
仕事といっても、仕事らしい仕事はない。一日か二日、多くて二週間、三週間の臨時仕事で、それも、日本人の間をたのみ込んで、一月に一度あるか、二月に一度あるか。・・・だから、指から血を流す仕事もしなければならなかったし、あてが少ないと思いながら、山勘仕事にものらなければならなかった。金を中心にして、血みどろになって争奪戦をしなければならないこともあった。それが皆、日本人同志のことで、一人分の餌を十人で奪い合わなければならなかったのだ。一人の仕事のあるところへは、十人の人間がたからなければならない。地獄。私はいく度、目をつぶったかしれなかった。(中略)巴里での私の生活の均衡(バランス)のあぶなっかしさのなかに、私は、女性の顚覆の危機を屡々経験した。そして悪戦した。私の争闘は、内容的には、そういうものであったから、私は、むしろ男になろうと努力したのかもしれない。そして、この争闘は、現在の私の基礎になっているから、あながち、徒労なものではなかったといえる。」
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by monsieurk | 2017-01-31 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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