ムッシュKの日々の便り

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男と女――第七部(13)

 河邨は金子の没後に刊行されることになった研究雑誌「こがね蟲」の第八号(一九九六年)に、この筆写ノートの全貌を公開した。それにつけられた「金子光晴『疎開詩集』について」で、この間の事情を明らかにしている。
 「私がこれまで「光晴疎開詩集」と呼んで書斎に秘蔵していたノートが、五十年の年月を経て日の目を見ることになった。(中略)
 サイズはやや横長の変型A5版で、厚さは一センチ、表紙はズック布のしっかりしたノートで、やや黄いばみ、薄汚れが目立つ。扉の中央には『詩集真珠湾 金子光晴』とあり、左下隅に「一九四一、三月、東京にて筆写― 文一郎」と記されている。扉をめくると十四篇の詩の目次が並び、一ページ十八行、百三十七ページだが、本文はおそらくGペンで、おそらくパイロットの青インクで書かれている。字体は急いだためであろう、落ちつきを欠いているが、それでもわれながら読みやすく、一語一句誤りなきを期す気くばりが伝わってくる。(中略)
 写本を作って地方へ疎開することを金子さんが思い立ったのは、いのちをかけた一連の詩稿を後世に残したかったからである。金子光晴に司直の手がいつ伸びるか、あるいは住家を空襲の火災がいつ襲うか、どちらにせよこれらの詩稿が烏有に帰すことはまちがいない。そこで「疎開先」として選ばれたのが、当時ほとんど唯一の弟子だった北海道の河邨文一郎(筆者)と、そのころ限定版の詩画集『水の流波』を上梓した長崎の版画家田川憲だった。」
 このとき筆写された詩集「真珠湾」は、「一九四〇年の女に 芯のくさった花に 新聞 真珠湾 天使 落下傘 風景 いなづま 洪水 大沽バーの歌 犬 短章三篇(八達嶺にて 北京 弾丸) 屍の唄 雷 鬼の児誕生」だった。金子がこのころに抱いていた危機感がどれほどのものだったかが分かる逸話である。
 一方、三千代の方は活発な執筆を活動を続けていた。「中央公論」四月号には、正宗白鳥などの大御所と並んで、下町を舞台にした人情話の「蔓の花」が掲載された。担当は畑中繁雄だった。さらに「早稲田文学」六月号に「山」、同じく「文学草紙」六月号には「蛇 作家について」を、そして「むらさき」の六月号から九月号にかけて「更科抄」を連載し、六月には単行本『あけぼの町』を昭和書房から上梓した。さらに「婦人画報」七月号に「若い日」、「新潮」八月号には「国違い」を載せた。これは南洋に出稼ぎに行った日本人女性を主人公にした作品で、金子から聞かされた話がもとになっている。そして九月には富士出版社からパリや南洋、中国での体験を作品にした『をんな旅』を刊行した。口絵には着物姿の三千代の近影を載せ、装幀を富永次郎が担当し、金子光晴がカットを描いた。さらに、六月に刊行された山崎民治の『これが支那だ 支那民族の科学的解析』(栗田書店)のためにも、挿画十八点を提供した。
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by monsieurk | 2017-02-15 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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