フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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男と女――第七部(16)

  仏印旅行

 一九四二年(昭和十七年)は例年にない寒さで年が明けた。一月中旬、外務省の柳沢健から三千代へ、国際文化振興会嘱託の婦人文化使節として、仏印へ行ってほしいとの打診があった。
 国際文化振興会は日本が国際連盟を脱退したあと、外務省が民間に呼びかけて、国際的孤立化を防ぐ目的で一九三四年に設立された半官半民の組織であった。定款には、「国際間ノ文化ノ交換殊ニ日本及東方文化ノ海外宣揚」を目的とすると謳われているように、書物の提供、人物交流、映画制作などを通して、日本の工業力や文化を海外に伝える役割を担っていた。
 一九三七年にはニューヨークに日本文化会館をつくるなど、開戦前は欧米向けの活動が多かった。だが一九四一年以降は、大東亜共栄圏の掛け声のもとに、日本文化の中国や東南アジアへ浸透に力を注ぐようになっていた。
 柳沢健は福島会津若松の出身で、大学生のときに島崎藤村や三木露風に師事し、詩人として認められた。その後は大阪朝日新聞の記者をへて、一九二三年、三十四歳のときに外務省に入り、二年後には念願のフランス勤務となった。その後はイタリア、メキシコに駐在し、本庁の文化事業部の課長を務めていた一九三五年、日本ペンクラブの創設に尽力し、初代会長には尊敬する島崎藤村が就任した。
 一九三六年にジャン・コクトーが来日した際、三千代は宿泊先の帝国ホテルを訪ねて、フランス語の詩集『PAR LES CHEMINS DU MONDE』を進呈したが、そのとき彼女を紹介してくれたのが柳沢健だった。その後の彼女の活躍に注目していた柳沢は、軍が進駐した仏印と、文化面での関係改善のために、三千代に白羽の矢を立てたのである。フランス語で日常会話ができるのも大きな理由だったが、金子はこの話にすぐ賛成した。
 「軍ではなく外務省からで、宣撫ではなく、親善のためだということで、僕は、ゆくことをすすめた。軍の残虐のあとで、日本人を訂正する役目を果たすように、僕は、そのことについて充分、彼女に言いふくめた。」(『詩人』)
 三千代は持ち前の好奇心からすぐ話に乗った。宣伝隊として南方に行っている武田麟太郎に会う機会があるかもしれないという思惑もあった。武田が南方へ出発したあと、二人は手紙に暗号を忍ばせて連絡を取りあっていたのである。
 三千代が仏印行きを応諾すると、外務省で小川仏印総領事との面接があり、各種伝染病の予防接種やビザ申請などがあわただしく行われた。
 こうして三千代は、一月十五日、軍の小型機に乗って羽田空港を飛び立っていった。軍の進出につれて仏印への民間人の渡航は増加していたが、船旅が普通だったから、三千代は特別待遇だった。
 「彼女が羽田から発ってゆくのを僕は見送った。迷彩をほどこした、あぶなっかしい、不格好な飛行機が空にあがるのを、はてしなく心細い気持でながめた。その前の飛行機は、南支那海のうえで分解してしまった。」(『詩人』)
 金子は、「死なせにやったかな」と思おうと涙が浮かんだ。それから最初の連絡が来るまでの二週間、寝苦しい夜が続いた。
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by monsieurk | 2017-02-24 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)