男と女――第七部(18)
彼女が訪れたハノイ市内のマッチ工場では九百人ほどが働いていたが、七百人は女性で、箱作り、軸の詰め込み、薬付け、上紙の張りつけなど、細かい仕事をみな女性がやっていた。一日の労働時間は十八時間で九時間交代、一日の労賃は三十銭から四十銭だということだった。
その一方、フランス語を教える学校を出た安南のインテリ女性は、日本の役所や軍関係の事務所でタイピストや電話交換手としてきびきびと働いていた。仏領印度支那でも、ペタン元帥が提唱する「新フランス運動」に呼応して、フランス革命以来の「自由、博愛、平等」に代えて、「勤労、家庭。祖国」のスローガンが掲げられていた。その結果、ダンスなど娯楽は禁じられ、女性の華美な姿は見られなくなっていた。
日本の仏印進駐のあと、語学力を活かして、役所や商社で働くために日本からやってきた若い女性をよく見かけた。三千代は若い世代の活躍を目にしてうれしかった。
ハノイに来て二十日あまり経った二月四日と五日に、空襲警報が続けて鳴った。彼女は中華料理店やホテルで食事中だったが、どちらもフランス軍機の音を聞きあやまった誤報とわかった。
二月十日、明日からサイゴンへ出張するという小川総領事から、ハイフォン行きの手筈について指示をうけた。
翌十一日の紀元節は、九時半に大使公邸に行き、御真影に拝礼し、異郷の戦時下に集まった在留邦人とともに慶事を寿いだ。帰り際、芳澤謙吉大使にハイフォン行の計画を話すと、翌日の晩餐に招かれ、その席で日本軍がシンガポールの一部を占領したというニュースを聞かされた。かつて金子とともに長く滞在したところだけに、感慨もひとしおだった。
十四日、ハイフォンに向けて、オートライ(ガソリン・カー)で出発した。十五日は安南の正月(テト)にあたり、停車場は故郷へ帰る人たちでごったがえしていた。
バスはそのなかを出発し、東洋一長いドーメル橋を渡り、二時間かかってハイフォンに到着した。ハイフォンは中国国境に近い港町で、日本からの船はみなこの港に着く。ホテルは、能見領事が予約してくれたコンチネンタルだった。この日は港や街を見物し、翌日は一人で街を歩きまわり、次の日はもうハノイへ戻る日程だった。
ハイフォンでは日露戦争直後に仏印へ来たという古老の横山や、同じく長い滞在経験がある保田洋行(商社)の竹内から、それぞれの仏印観や将来の抱負を聞いた。竹内が経営している富士ホテルでご馳走になっているとき、ホテルの女将が部屋をまわって、シンガポール陥落のニュースを伝えくれた。
十八日、ハノイへ戻ると、細かい雨が降っていた。数日留守にしたハノイが故郷のように思われ、三輪車のシクロを乗りまわして、雨に濡れた美しい並木の街を心ゆくまで満喫した。正月(テト)四日目の街は、三分の一ほどの店が扉を閉じたままで、軒下にはフランスの三色旗、赤字に星の中華民国の旗、それに日の丸の三本の国旗が出されていた。日の丸は、丸が大きさがまちまちだった。国旗掲揚はシンガポール陥落を祝うものだということだった。