ムッシュKの日々の便り

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男と女――第七部(19)

 南部への旅

 南部仏印の旅行に出たのは、二月末か三月初めのことである。午後六時半に、ハノイ発サイゴン行の列車に乗った。
 汽車は速力は早いがよく揺れて、中年のフランス女性と同室だった。窓外の水田と竹藪が続くトンキン・デルタの風景は、灰色からやがて暮色に変わっていった。王宮のある古都フエ(三千代はフランス読みで「ユエ」と表記)には、翌日の午前十時半に到着した。
 駅には、啓定(カイデン)博物館長のソニー、理事官秘書コンパンの代理のルパージュ、それにユエ唯一の日本人で、写真館を営む中山の夫人が出迎えてくれた。
 フエの城外を流れる香河(リヴィエール・ド・パルファン)にかかるクレマンソー橋のたもとにある、立派なホテル・モーランに投宿した。滞在は五日の予定だったが、滞在中は博物館長のソニーが行動計画をつくってくれ厚遇をうけた。
 二月二十七日には、有職大臣で現皇帝バオダイ帝の叔父にあたるプータク(寶石)宅に、ソニーや中山夫妻とともに招かれ、格式高い安南料理のもてなしを受けた。
 三月初めに理事館長のダランジャンを訪問し、翌日には阮王朝十二代の当主バオダイ(保大)帝に拝謁することになった。
 「阮王朝の始祖阮福映(嘉隆・ジャロン帝)が、フランスの司教ピニョー・ドベーヌの義勇軍の助けを得て、紛乱していた安南を統一してから百四十年。現在はフランスの保護領となっているが、王朝は昔のまゝに残存している。一八八五年にフランスと支那との間で結ばれた天津条約まで、まだ支那が安南の宗主権を主張していたもので、古来安南はほとんど支那文化の影響下にあった。支那をそのまゝ見るような宮廷の外観、大官達の礼服を見ても、それはすぐうなづけるのだ。(中略)
 保大帝に謁見したのは、その支那式の宮殿ではなく、宮殿のうしろにつゞいて建て増された新式な洋風の大広間であった。
 皇帝はまだ二十七歳の、巴里にも留学されてフランス式な教養を身につけた、瀟洒な青年紳士であった。オール・バックに撫でつけた髪は無帽で、藍色紋織のゆったりした安南服を身につけていられていた。傍らに椅子を賜って少時雑談したが、皇帝は、別れ際に、三年に一度のユエの大祭、南郊(ナンジャオ)の祭がもうすぐだからそれまで滞在してはどうかといわれた。」(「ユエの印象」)皇帝のせっかくの勧めだったが、南郊が行われるのは月末で、南郊の祭を見学することはできなかった。
 フエは王城にふさわしい、典雅で、物静かな街だった。数日の滞在中に安南のもっとも高い心情にふれることができた。三千代は仏印の旅の様子を、旅行記『晴れ渡る仏印』のほかに、次章で紹介するフランス語の詩集『POĒSIES INDOCHINOISES(インドシナ詩集)』(明治書房、一九四二年)で、詩にしている。
 「フエ(Hué)」と題した詩篇は、バオダイ陛下に捧ぐとの前書きがついている。

私は忘れない、
この平安な時のなかで
私が忘れ
そして人びとが私を忘れることを。

いつの日か
私がすべてを忘れたとしても、
私は決して忘れまい
この静謐な古の都を。

この静けさ
この心の透明さは
私がいつの日からか探してきた
幻影に似ている。

私は決して忘れまい
古びた屋根、龍の石像、
印度ケイソウが匂う
人気のない黄昏を。

丸い空に、
四角い大地に、
そこに見出される月日が
やすみなく続いていく。

私は決して忘れまい
《クリソクロア クレガンス*》が住んでいる
街路樹を、
伝説と恋が咲き誇る
香気にみちたこの都を。

私は決して忘れまい
小舟の唄を、
夜の鳥が飛び交う
水面の上の際限のない呪いを。   *ルリタマムシの一種.
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by monsieurk | 2017-03-05 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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