フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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男と女――第七部(20)

 別の日の小雨がそぼ降る夕暮、小説『安南の愛』の著者の阮進朗(グエンチュンラン)やヴィエアン中学校の若い校長で、『若い安南』の著者、陶登偉(ダオダンビイ)の招待で、香河に舟を浮かべて語りあった。後日、文部大臣兼宮内大臣の芒瓊(ファンキン)とも会う機会があり、教養ある安南貴族の奥ゆかしさを知ることができた。
 三千代にとって香河での舟遊びはじつに感慨深いものだった。詩集『POĒSIES INDOCHINOISES(インドシナ詩集)』(明治書房、一九四二年)に、詩篇「香河の夜の舟遊び(Canotage nocturne sur la Rivière des Parfums)」を載せている。

香河のうえを
舢板(サンパン)が滑っていくのも
感じない。

この静けさを破るのは
風景をきり拓いて進む魯の音と、
小舟の腹を打つ水音ばかり。

小舟にかかげられた茣蓙の下、ひそかに心を打ち明ける、
秘密の逢引きでもするように。

・・・・・・

黒いターバンを被った安南詩人が
今宵は、月が出ないと嘆く。
落花生油のランプの光を揺らしながら、
国のやるせなく悲しい歌をなぞりながら、

彼は私に描いてみせた
――私の肩に重くのしかかる悲しみを。
私が愛する男は、去り
戻ってこない。

舟腹に出ると、
霧雨が顔を打つ。
王城近くの
岸辺はただただ暗く
龍のかたちをした
雨雲がたなびいている。

 中国風の教養を身につけた文士たちとの交遊は興味深かったが、三千代は安南の若い作家や評論家たちの仕事に強い関心を抱いた。
 「漢詩漢文が縁遠くなった今日、新しい安南文学の中心地は、フランス政府の政治機関、文化機関の中心地ハノイにうつっていることは、当然のこととして考えられよう。(中略)安南文学は、それまで韻文学であった。ようやくここに散文小説の新しい誕生を見た。若い文士達は、安南語で、またフランス語で創作する。しかしまだ、文学専門雑誌を見ないようだ。主な発表機関は、仏字雑誌「印度支那」「エコー」安南語雑誌「チュン・バック」その他新聞等である。著名な少数の作家を除いては、作品を以って生計を立ててゆくことは困難だ。(中略)
 新しい安南小説家が、どんな欲求で、どんな動機で、何を手材にして文学をやるか。言うまでもなく、それは若い安南が持っている多くの悲しみと悩みである。手材として取上げられるものは、主として、迷信深い道教、仏教と、儒教精神でつくりあげられた因習的な古い家庭内に、フランス風な新しい思想が流れこみ、古い世代と新しい世代のまじりあう悩み、苦しみである。」(「仏印の文学」)
 古都フエに滞在中、阮王朝歴代皇帝の墓を訪ねたが、とりわけ明命陵の印象は強烈だった。「明命の墓の松や茨でおおわれた盛土の背後は、荒涼とした原野につゞいていて、薄明の時刻には餓虎が彷徨するという話だった。風の音にも、そんな気配が感じられて、思わず身がひきしまる思いがした。」(「ユエの印象」)
さらにフエから少し南へ行ったところにあるツーラン近くの会舗(ヘイホー)には、かつて日本人町があった。徳川の鎖国時代、山田長政たちが南方に飛躍したころのことで、仏印にも多くの日本人が進出したのだった。異国の地に没した日本人たちの墓がいまも残っているとのことだった。
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by monsieurk | 2017-03-08 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)