フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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男と女――第八部(3)

 一九四二年に陸軍報道班員としてシンガポールに送られた詩人の神保光太郎は、同じ年に報道班員として徴用された中島健蔵たちと、現地の人に日本語を教育するための「昭南日本学園」を創設した。
中島健蔵は『昭和時代』(岩波文庫)で、この徴用について、「徴用令状を受け取って最初に東京都庁〔正確には東京市庁〕に出頭したとき、はじめて自分たちのなかまには三木清、清水幾太郎がいることがわかった。われわれは当時の軍部には受けがいいはずがなかった。そこで、この徴用は、実は徴の字の下に「心」がついた『懲用』であろうといううわささえ飛んでいたし、多少の不安を抱いたまま四十人のなかまと一しょに輸送船に乗り込んだのである。」(『昭和時代』)
 シンガポールでは、中島は神保、作家井伏鱒二の三人で、ナッシムロードの大きな屋敷に一緒に住んだ。井伏は第一次徴用で、戦闘する部隊に同行してシンガポールに入り、第二次徴用の神保と中島は、戦闘が一応終息した後にシンガポールに到着した。
 神保光太郎は学校設立の体験を、『昭南日本学園』(愛之事業社、一九四三年)のなかで、次のように書いている。
 「私は新しき日本の占領地を、大東亜共栄圏のひとつとして更生しようとする平和建設の一翼である日本語の学校の責任者なのである。(中略)支配者の精神、日本の心を積極的に現地住民に識らしめんとするところにすべてが出発する。そして、これは当然、日本の植民地教育、又は、日本語学校の精神でもある。」(『昭和時代』)
 中島健蔵は神保より、この事業に積極的だったように見える。一九四二年四月二十九日の「陣中新聞」に寄稿した文章では、軍部に同調する、さらに言えば、阿る姿勢を鮮明にしている。
 「天長の佳節に方り、馬来及びスマトラ島住民の行くべき道は明らかになった。軍司令官閣下の談話に示された通り、両地区の住民は悉く、天皇陛下の赤子に加えられたのである。
 大日本帝国の有難き国体を彼等住民に理解させることは、新領土に駐屯する全皇軍将士にとって尊き責務である。そのためには、先ず国民たるの資格として、彼等に日本語を学ばしめ、日本語を使わなければならない。天長の佳節を期し、軍司令官閣下の談話に趣旨に基き、我等は此処に国語普及運動を起さんとなすものである。」(「日本語普及運動宣言」)
 占領地での日本語普及の動きに呼応するのが、宮崎嶺雄が持ってきた日本語の教科書の作成事業だった。金子は帰国する船中での義理もあって会合には出席したが、なにも話すことはなかった。
 金子の思いは、「日本学芸新聞」十一月一日号に書いた、「大東亜文学者大会に就いて」という記事に示されている。
 「大東亜の文学者を一堂に聚めるという日本文学報国会の企ては、政治的意義をのぞいても、糧を与えるという本質的意義がのこることなるとおもう。(中略)殆ど最初の経験としての日本の文学者は、与えるべき糧について慎重に考えて欲しい。与える方法にも相当技術を必要とするようにおもう。衝にあたる日本の文学者は、先ず共栄圏の他民族を出来うる限り知ってほしい。あくまでもその客観性に基づいて、ほんとうの糧となるものを考えてほしい。いくらでも言いたいことはあるが要約すれば、これは一つの危惧に外ならない。自分に重大なものは必ずしも他人に重大ではない。以上
――大東亜文学者会第一回は、事情によって中華、満洲、蒙古方面に限られてしまった。南方各地の人達は参加出来なかったことは残念である。南方の人達が来るに就いて御手つだいしようと思った私は、そんなわけで、何の役にも立たなかったことをお詫びし、幹事会(準備委員会)も御辞退するわけである。」
 南方の文学者たちが出席するならば手伝いたいというのは金子の本心であり、同時にこの企画自体に対しては、「自分に重大なものは必ずしも他人に重大ではない」というのが彼の真の思いだった。
 金子はこの年一九四二年(昭和十七年)の「中央公論」七月号に、詩「海」を発表したのを最後に、主要な雑誌に作品を発表できなくなった。
 「新潮」の編集者と会って、どの辺までなら発表可能かを探るために、新作の発表を打診すると尻込みされた。他の雑誌の編集者も同じような反応だった。詩人としての金子の存在自体が、雑誌にとって危険なものになっていたのである。日本放送協会から依頼されて、十篇ほどの唄が入ったマレー案内をつくったが、放送寸前に中止になった。
 中河与一が多くの文学者を、共産主義者、自由主義者、国家に忠実な者の三種類に分けたリストをつくって警視庁に提出したという噂が聞こえてきた。
 翌一九四三年五月、金子の唯一の弟子を自認する河邨文一郎が、北海道大学医学部を卒業して、東京帝国大学医学部の整形外科へ入局して上京した。赤門前の通称落第横丁に下宿した彼は、毎週のように吉祥寺の金子の家を訪問した。このころの金子の様子を以下のように語っている。
 「時局を論じ、文壇を罵倒し、私の詩作品に批評を乞い、そしてなによりも嬉しいことに金子さんの書き上げたばかりの新作をしばしば見せていただいた。しかし当時の金子さんには逼塞状況が迫っていた。反語や多義句をあやつって偽装を凝らした詩を発表しつづけることにも限界が近づいたといえる。特高が金子詩の本質をいつまで見破らずにいるか、第一、金子さんの作品を出版社が引受けなくなってきた。「海」を中央公論に発表したのが昭和十七年七月で、その後はジャーナリズムから急速に遠ざけられた。挫折感、敗北感が金子さんをさいなむようになったのを私は感じた。ヒステリックに、さあ、つかまえてくれ、と叫ぶか、後退しながらギリギリの線を絞りつつ抵抗を続けるか。とにかく言いたくは言わない、言えと強いられることはなおさら、いや絶対に言わないぞ、となれば、もはや黙るほかはない。ある晩、金子さんが突然言い出した。
「もう、これからはね、詩の発表はやめようかと思うんだ。発表はしないで、ただ書く。書いておく」と。」(河邨文一郎「体験的金子光晴抵抗詩論」、「こがね蟲」第四号)
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by monsieurk | 2017-04-18 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)