ムッシュKの日々の便り

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男と女――第八部(5)

 「小説和泉式部」は、彼女のこうした調査や執筆の過程と、主人公の和泉式部の生涯がないまぜに描かれる。これは森鷗外が『渋江抽斉』などの歴史物を書いた際に用いた形式で、三千代はこれを意識していた。それに加えて、ルポルタージュ『晴れ渡る仏印』を書いたことで、現在と過去を自在に行き来する手法を会得したのである。
 「小説和泉式部」は一九四三年前半には書き終え、八月に協力出版社から出版された。三千代の和泉式部への思いは次のようなものだった。
 「明日のことも、身の行末をも考えないほど人を愛し、人の心の醜さ、辛さ、冷たさをも、こころゆくまで味わいつくしたではないか。世の中の有為転変に身をまかせて、生きるがままに生きてきたこの人の人生に、いまさら思いのこすことは一つもないように思われてくるのだった。いずれは罪業からのがれられない人生の生き身のしるしに、からだ一つに罪業の泥を塗り、あやまちのしみをつけながら、猶、彼女の心だけは、彼女の素肌のように純潔で、よごれを知らず、咲に咲いて来たのだ。彼女の身のうちも外も、なにもかも燃えて、それが彼女の歌になったのだった。(中略)私は和泉式部の悲しみや不運が、彼女の千数百首の歌の身を以ってする装飾のように思われたし、その歌がまた、彼女の肉身を飾る血と涙の装飾のようにも思われるのだ。」
 この一節には、これまでの三千代自身の遍歴が重ねあわされている。彼女自身それを十分に意識していた。だからこそ和泉式部を主人公に小説を書こうとしたのである。
 「いま和泉式部を書き上げたあとで、ふりかえって考えると、私は、やはりほんとうの和泉式部を書かないで、自分を書いてしまったのではないかという気がされる。しかし、たとえ私の自叙伝に終わったとしても、私自身決して辿らなかった道筋を辿っている別の自叙伝なのだ。そういう自叙伝を、誰しも、三つ四つは持つことが出来るわけだ。」
 彼女は、自分が辿らなかった道をどのように思い描いていたのか。愛人を次々に替えながら情熱的な式部の生涯を考えれば、それはいまの金子との関係とは別のものである。だから三千代は式部の女盛ではなく、あえて彼女の晩年を取り上げたのである。三千代はこの先で、こうも述べている。
 「和泉式部を書いてしまった時、一つの心残りが、どうしてもあとに残った。和泉式部の燃えさかる業火のほとぼりの時代しか書かなかったことだった。若さ、奔放さ、得意さ、天馬空をゆくような花盛りの時代の彼女を書かずに、しずかな散華だけを書いたこの小説は、決して和泉式部の全貌ではない。
 「私、いつか和泉式部のいちばん華やかな時代を書こうと思います。弾正宮、帥宮との恋愛時代・・・」
 「つづけてすぐお書きになるの」
 私は、笑って首を横に振った。
 「多分、私がもっと年をとってから書けるだろうと思うのです。その小説が出来たら、両方の、まあ一人の和泉式部が書き上げられるかと思うのです。中年過ぎの和泉式部を先へ書いてしまいましたけど、若い和泉式部は、却ってあとになった方がよく書けるような気がするのです。・・・和泉式部だって、若い頃の帥宮との事件は、よほど晩年になってから書いてるようですものね。」
 奥付によれば、『小説和泉式部』初版は五千部印刷され、文壇でも話題となった。そして翌年には第七回新潮文化賞を授賞した。三千代が若いときの土方定一や台湾の青年将校、紐先銘との熱烈な恋愛を赤裸々に書くのは、先に引用した通り、戦後になってのことである。この言のとおり、三千代自身も歳を重ねたあとで、自らの華やかだった体験を筆に載せることになる。
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by monsieurk | 2017-04-24 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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