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ムッシュKの日々の便り

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男と女――第九部(6)

 平野村

 乾の入営を逃れたいまは、一日も早く疎開することに相談がまとまった。食料品と衣料のほかに沢山の本を、モンココ本舗が調達してくれたトラックで送り出した。富永に離縁され、家に引き取った義母は体調が悪く、辺鄙な田舎に連れて行くことはできなかった。それで義母の姪にあたる者に看護してもらうのを条件に、裏の空家を借りて一緒に住んでもらうことにした。疎開話を持ち出した捨子は、夫の河野が国会を離れられず、疎開先へ送る荷物も多すぎて、すぐには疎開できなかった。
 金子一家の出発は十二月の初めだった。七日には東海地方を大地震と津波が襲い、死者凡そ千人、倒壊した家屋は二万六千戸にのぼり、人びとの気持を一層暗くした。
 金子と三千代、乾、それに北海道生まれのお手伝い、山崎美代の四人は、めいめいリュックサックを背負い、持てるだけの荷物を手に持って吉祥寺から中央線に乗った。途中、立川駅でしばらく停車すると、駅は人であふれ、皆殺気立った顔をしていた。その後大月まで行き、そこで支線に乗り換えて富士吉田駅に着いた。すると目の前に雪を被った富士山があらわれ、凍てつく空には粉雪が舞っていた。この日四人は富士吉田に一泊、翌日の午前中に木炭バスにゆられ、その先は一里半くらいの道を歩いて旭ケ丘まで行き、さらに半里ほど雪中を歩いてようやく平野村に着いた。半日がかりの旅だった。
 旅のあいだに、こんなことがあった。お手伝いさんの美代は、雛から育てた二羽の若鳥を連れて行くといって、満員列車のなかでも両脇にかかえていた。だが平野屋についてときには、鶏は押しつぶされて死んでいた。皆の食指は動いたが、美代は埋葬するといって聞かず、金子が根雪で固まった土に穴を掘って埋めた。
 戦前の山中湖一帯は、滅多に人も訪れない寒村だった。旅館に到着すると、「早速、H荘〔平野屋〕の女主人である老婆の案内で、それから丸二年間、彼らの住居となるバンガローに出掛けた。本館から徒歩で三分くらいの、落葉松とくぬぎの林の中に建てられた木造の安普請で、屋根はスレートでふいてあった。もともと避暑客用にH荘が作った建物で、六畳と四畳半の畳の敷いてある和風建築だった。そして小さいほうの部屋は申し訳程度の台所と、大便用の小室しかない便所、小さな風呂桶のおいてある浴室につながっていた。
 六畳間には、切りごたつがこしらえてあり、暖をとるのは、このこたつに当る以外なかった。家は粗末かつ簡略な造りだったが、木の葉を失った林ごしに、窓から、湖水がいつでも見えるし、本館をはじめ他の外界からも一応隔絶しているらしいのが、晴久(光晴)たちの期待にぴったりだった。
 H荘の老婆は物珍しさも手伝った、晴久一家を大歓迎した。」(森乾「金鳳鳥」)
 借りた家の間取りは、乾が書いているのとは違っていて、掘り炬燵が切ってある部屋は八畳で、そこが居間兼食堂。隣の六畳が三人の寝室。それに女中部屋の三部屋だった。
 迎えてくれた平野屋の女主人は、六十歳をこえているように見えたが、色艶もよく矍鑠としていた。彼女と家を借りるための契約をすませたが、その際三千代は、乾がいつ突然の発作に見舞われるかもしれない状態だという説明を怠らなかった。息子は学校へも行けず、徴兵にも応じられない不治の持病もちで、国の危急存亡の非常時に祖国に貢献できないことを心苦しく思っていると強調した。それほど慎重に構えないと、辺鄙な田舎でも油断はならないと三千代は思っていた。一家の動静や挙措がどこかで監視されていて、いきなり憲兵が踏み込んでくる可能性がまったくないとはいえなかった。
by monsieurk | 2017-05-21 22:30 | 芸術
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