ムッシュKの日々の便り

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アルベール・カミュ「砂漠」Ⅱ

 魂の不滅性、それが分別ある多くの人びとの精神を占めているのは事実である。だがそれは、彼らがその樹液を使い果たしてしまう前に、彼らにあたえられた唯一の真実、つまり肉体を拒否してしまう。なぜなら肉体は、彼らに問題を課したりはしない。少なくとも、彼らは肉体が提案する唯一の解決策を知っているからだ。真実は必ず朽ち果てるものだし、だから真実は、彼らがあえて正視しようとしない、ほろ苦さと気高さをまとっている。分別のある精神は、肉体よりも詩を好む。なぜなら詩は魂の事柄だからだ。人びとは、私が言葉遊びをしていると感じるかもしれない。しかし人びとは、私が、真実から、詩をもっと高度なものにしようと努めているだけだということを理解してくれるだろう。その詩とは、チマブエからフランチェスカにいたるイタリアの画家たちが、トスカナの風景のなかで培ったあの黒い焔であり、それはちょうど、大地に投げだされた人間の明晰な抗議のようなものだ。そしてこの大地の繁栄と光は、絶えず、存在しないひとつの神ついて人間に語る。
 無感心と無感覚のおかげで、一つの顔が一つの風景の無機質の偉大さに合致することがある。スペインの一部の農民たちが、彼らの土地のオリーブの木に似てくることがあるように、ジオットの描く顔は、魂が己れ自身をあらわしている滑稽な影を奪われて、終いには、トスカナ色が溢れているその唯一の教訓のなかで、トスカナ自体に合致してしまう。その教訓とは、情緒を犠牲にした情熱の遂行、禁欲と享楽の混合、大地と人間への共通の反響であって、それによって人間は、大地と同じように、悲惨と愛の途中で自分を定義する。それで心が安堵するような真実などありはしない。そして私は、次のことが確かなのを知っている。それはある夕暮のことだったが、そのとき影が、沈黙の大きな悲しみが、フィレンツェの原野のブドウやオリーヴの樹木を浸しはじめていた。だがこの地方の悲しみは、美の注釈以上のものではない。そして私は、夕暮をぬって走る汽車のなかで、自分のなかで何かがほどけるのを感じた。今日でも、こうした悲しみの顔を思い浮かべて、なお、それが幸福と呼ばれるのを、私は疑うことができるだろうか。(続)
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by monsieurk | 2017-07-29 22:30 | | Trackback | Comments(0)
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