ムッシュKの日々の便り

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アルベール・カミュ「砂漠」Ⅲ

 そう、人びとによって明らかにされた教訓を、イタリアは風景によっても惜しみなくあたえる。しかし幸福が欠けることはよくある。なぜなら、それは常に不当なものだからだ。イタリアに関しても同じだ。その恵みは、たとえ唐突であっても、常に直接的とは限らない。他のどの国よりも、イタリアは一つの経験を深めるように誘う。とはいえ、それは最初にすべてを委ねているように見える。それというのもイタリアは、第一に、詩をふんだんに撒き散らし、その真実を一層うまく隠してしまう。その最初の妖術は忘却の儀礼だ。すなわち、モナコの夾竹桃、花と魚の臭いで一杯のジェノワ、リギュリア沿岸の青い空。それにピサ。ピサとともにリヴィエラの、いささか下品な魅力を失くしたイタリア。それでもイタリアは相変わらず気さくだし、どうしてその官能的な魅力に身を委ねずにいられよう。ここにいる間、私は何にも強制されず(私は割引切符のせいで、《自分が選んだ》街にしばらく留まらなくてはならず、追い立てられる旅行者の喜びを奪われている)、最初の夜は、愛することと理解することの忍耐が、際限のないように思えた。私はその夜、疲れと空腹をかかえてピサの街に入った。駅前の大通りで私を迎えたのは、群衆に向けて、歌謡曲を雷鳴のように吐き出している十数のスピーカーだった。群衆のほとんどが若者だった。私にはこのときすでに、自分が何を期待しているかが分かっていた。この生の躍動のあとにあるのは、いつもの奇妙な瞬間だろう。店仕舞いしたカフェ、突然また戻ってきた静寂。私はそのなかを、暗い小路を通って街の中心に向かうのだ。黒や金色に光るアルノ河、黄色や緑色の遺跡、人気のない街。夜十時のピサは、沈黙と水と石の不思議な書割に変わる。突然で巧妙なこのからくりを、どう描写すればよいだろう。《それは同じような夜だよ、ジェシカ!》。このユニークな丘の上に、いまこそ神々が、シェイクスピアの恋人たちの声とともに姿をあらわす・・・夢が私たちに相応しいときは、夢に身を委ねることを知る必要がある。人びとがここへ探しにくるものより、もっと内面の奥にある歌。その最初の和音を、私はすでにイタリアの夜の底に感じていた。明日、明日にさえなれば、朝には野が丸く円を描くことだろう。だが今宵は、私はここで、神々のなかの神であり、「恋に運ばれる足どりで」逃れ行くジェシカの前で、自分の声をロレンツォの声と混じり合わせる。だがジェシカは口実でしかない。この恋の躍動は彼女を超える。そう、私が思うに、ロレンツォは、愛すことを許されるのに感謝するほどには、彼女を愛していない。でもなぜ今宵はヴェニスの恋人たちを思い、ヴェローナを忘れているのだろう? それは、ここでは不幸な恋人たちを慈しむように促すものが、何もないからだ。恋のために死ぬほど虚しいことはない。必要なのは生きること。生けるロレンツォは、たとい薔薇に囲まれていようと、地下に埋葬されたロメオよりもずっとましだ。だとすれば、生きているこの愛の祭りで踊らずにいられようか ―― 私はその日の午後、いつだって訪ねられるピアッツア・デル・ドゥオの丈の低い草の上で眠って過ごした。水は少し温いが、絶えず流れている街の泉で喉を潤し、鼻が高く、口元は高慢だが、笑っている女の顔を振り返って見る。こうした秘儀が、より高次な啓示を準備しているのを理解するだけでいい。それはディオニソスの秘儀をエレウシスにもたらす輝かしい行列だ。人間が教訓を準備するのは喜びのなかでだし、陶酔が頂点に達したとき、肉は意識を持ち、黒い血と、その象徴である聖なる神秘との交わりが成立する。この最初のイタリアの情熱のなかで汲み取られる自我の忘却こそが、私たちを希望から解放し、私たちを歴史から奪い去る教訓を準備する。美の光景を前にした肉体と瞬間との二重の真実、待ち望まれた唯一の幸福にしがみつくように、それに執着ぜずにいられよう。その幸福は私たちを恍惚とさせ、同時に滅び去らなくてはならない。(続)
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by monsieurk | 2017-08-01 22:30 | | Trackback | Comments(0)
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