ムッシュKの日々の便り

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アルベール・カミュ「砂漠」Ⅳ

 もっとも忌まわしい唯物主義は、一般に考えられているものではない。それは死んだ観念を生きた現実と見なし、私たちの裡で永久に死すべきものに向ける執拗で明晰な注意を、不毛の神話の上で逸らそうとするものだ。思い出すが、フィレンツェのサンチシマ・アヌンツィアータの死者たちを祭った教会の中庭で、何かに心を奪われたことがあった。それは悲哀と思われたが、実は怒りだった。雨が降っていた。私は墓石や奉納物の上の碑銘を読んだ。それらは優しい父や、忠実な夫のものだった。あるいは最良の夫で、同時に抜け目のない商人だった。あらゆる美徳の鑑であった若い女性は、《まるで生まれた国の言葉のように( si come il nativo)》フランス語を話し、彼女は一家の希望だった。《しかし喜びは地上の束の間のものだ (ma la gioia e pellegrina sulla terra)》。ただこうしたものは、まったく私を動揺させなかった。碑銘によると、ほとんどすべての人が死を甘受していた。それは彼らが別の義務を受け入れていたから、きっとそうなのだ。今日では、子どもたちが中庭に入り込み、死者の美徳を永遠たらしめようとする墓石の上で、馬跳びをして遊んでいた。そのとき夜の帳が降りてきた。私は背を柱にもたせかけ、地面に腰を下ろしていた。さっき一人の僧が通りかかり、私に微笑みかけた。教会のなかでは、オルガンが幽かに奏でられ、その旋律の熱っぽい色彩が、ときどき子どもたちの叫び声の背後で聞こえた。たった一人、柱を背にしている私は、喉をしめつけられ、最後の言葉として信仰を叫ぶ者のようだった。私のすべてが、こうした忍従のようなものに抗議していた。《しなければならぬ》と碑銘は告げていた。しかしそうではない。私の反抗こそ正しかったのだ。地上の巡礼のように、無心で、没入するこの喜び。私はそのあとを一歩一歩ついていかなくてはならなかった。その他のことには、私はノンと言った。全力でノンと言った。碑銘は虚しく、人生は《昇る陽もあれば沈む陽もある》と私に教えてくれていた。だが今日では、その虚しさが私の反抗から何を奪っているのかは分からず、むしろ反抗の意義が加わるのを強く感じる。(続)
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by monsieurk | 2017-08-04 22:30 | | Trackback | Comments(0)
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