ムッシュKの日々の便り

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アルベール・カミュ「砂漠」Ⅴ

 だが、私が言いたかったのはそれではない。私は、自分の反抗の中心に感じていたひとつの真実を、もう少し近くから点検してみたかったのだ。私の反抗はそうした真実の延長にすぎなかった。その真実とは、サンタ・マリア・ノヴェルラの教会の遅咲きの薔薇から、軽やかな服を着て、胸をひろげ、唇の濡れた、あのフィレンツェの日曜の朝の女たちへと赴く真実だ。その日曜日はどの教会の片隅でも、豊かな、眩い、水で真珠のように光った花が棚に飾られていた。そのとき私は、そこにご褒美と同時に一種の《素朴さ》を見出した。女たちと同様、これらの花には、気前のいい豪奢さがあった。そして私には、誰かを欲するのは、他の人を渇望することと、さして違うとは思えなかった。そこでは純な心があれば十分だった。ある男が自分の純な心を感じるのはそれほどあるものではない。しかし少なくとも、この瞬間、彼がしなくてはならないのは、自分をこれほどまで純粋にしたものを真実と呼ぶことだ。たといこの真実が他人には冒瀆と思えようと、私がその日考えていたのが、まさにその場合だった。私は月桂樹の匂いにみちたフィエゾールのフランチェスコ派の修道院で朝をすごした。赤い花、太陽、黄色と黒の蜜蜂で一杯の小さな中庭に、長いこと留っていた。一隅には緑色の如露があった。そこに来る前私は僧房を訪ねて、髑髏が取りつけられた僧たちの小さな机を見た。そしてこの庭は、彼らの霊感を証しだてていた。私は丘づたいにフィレンツェへ戻った。丘は糸杉と一緒に見える街の方へと降っていた。世界の素晴らしさ、女たち、これらの花々、私にはそれらが人間を正当化するもののように思えた。この素晴らしさは、極端な貧困が常に世界の豪奢や冨と結びつくことを知っている人間たちの素晴らしさであるかどうか、私は確信が持てずにいた。柱廊と花々の間に閉じ込められたフランシスコ派の僧たちの生と、一年中を太陽に当たってすごす、アルジェのパドヴァニ海岸の若者たちの生に、私はある共通の響きを感じていた。もし彼らが裸になる(se dépouiller)としたら、それはよりも偉大な生のためだ(それは別の生き方のためではない)。少なくとも、それが《無一物になる(dénouement)》という言葉の、ただひとつ価値のある使い方なのだ。裸でいることには、常に肉体の自由という意味がある。そして手と花々との一致 ―― 大地と、人間的なものから解き放たれた人間の愛おしい協調 ―― ああ! もしこの協調が、すでにして私の宗教でなかったら、私は必ずそれに改宗しただろう。こんなことを言っても、冒瀆にはならないだろう。―― それに、もし私がジオットの聖フランソワの内面的な微笑が、幸福の味を知る人たちを正当化すると言ったとしても、冒瀆したことにはなるまい。なぜなら、神話と宗教の関係は、詩と真実の関係と同じで、生きる情熱に被せられる奇妙な仮面なのだから。(続)
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by monsieurk | 2017-08-07 22:30 | | Trackback | Comments(0)
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