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ムッシュKの日々の便り

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アルベール・カミュ「砂漠」Ⅵ

 話しを先へ進めようか? フィエゾールでは、赤い花々を前に生きる人たちが、僧坊には、瞑想を培う頭蓋骨を置いている。彼らの窓にはフィレンツェが広がり、机の上には死が乗っている。絶望のなかのある種の持続は、喜びを生むことがある。さらにある気候のもとで生きるとき、魂と血は混じりあい、信仰の場合と同じように、義務に無関心で、矛盾の上に易々として生きことがある。だから、ピサの壁の上に、《アルベルトはぼくの妹と恋をしている(Alberto fa l'amor con la mia sorella)》と陽気な手で書かれ、そこに名誉の奇抜な観念が要約されていても、イタリアが近親相姦の地であり、少なくとも、この方がずっと意味はあ深いのだが、近親相姦を告白する地であっても、私は少しも驚かない。なぜなら美から背徳へ至る途は、曲がりくねってはいても、確実な途だからだ。美に沈潜した知性は虚無を糧としている。その偉大さが喉をしめつけるような風景を前にした観念は、その一つ一つが人間の上に引かれた抹消を示す線だ。そして人間はやがて否定され、覆われ、覆いつくされ、圧倒的な確信によって次第にぼやけて行き、世界を前にしても、その色も、太陽も、真実を受動的にしか知ることができない、形のない染み以外のなにものでもなくなる。真に純粋な風景は、魂には無味乾燥で、その美は堪えがたい。石と空と水からなるこの福音書では、甦るものは何もないと告げられている。以来、心のなかにある素晴らしい沙漠で、この国の人たちへの誘惑がはじまる。高貴な光景を前にして育った精神の持主たちが、美によって希薄になった大気のなかでは、偉大さが善に結びつくことがあることを納得しないとしても、なんで驚くことがあろうか。知性を完成する神をもたぬ知性は、知性を否定するもののなかに一つの神を求める。ボルジアはヴァチカンに着くや、こう叫んだ。《神がわれわれに教皇の位を委ねたいま、それを満喫しなくてはならない》。そして彼は言った通りにしたのだ。急ぐことだ、とはよく言ったものだ。そして人びとはそこに、満ち足りた人間に固有の絶望をすでに感じている。
 私はおそらく間違っている。なぜなら、フィレンツェでは、私も私以前にやってきた多くの人たちも、結局は幸福だったのだ。だが、幸福とは、もしそれが一人の存在と彼が営む実生活と間の単純な一致でないとしたら、一体なんだろう? それに、持続への望みと死の宿命を二重に意識することでなければ、人間を生に結びつけるどんな正当な一致があるだろうか? 少なくとも人は何も当てにせず、現在を、私たちに《おまけ》として唯一与えられた真実として考えることを、そこから学ぶだろう。私は人びとがこう言うのを耳にする。イタリア、地中海、古代の国々では、すべてが人間の尺度に適っていると。では人びとはどこで、如何にしてその途を私に示してくれるのか。私の尺度と私の満足とを探すために、目を見開いたままにさせてほしい。というよりも、そう、私は、フィエゾール、ジェミラ、太陽に輝く港を見る。人間の尺度? 沈黙と死んだ石。その他の残りはすべて歴史に属する。(続)
by monsieurk | 2017-08-10 22:30 |
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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