詩のこころ(5)
次は「峠」の項目から、石垣りんの「その夜」。茨木さんはこの『詩のこころ』で取り上げる詩篇を、「生まれて」、「恋唄」、「生きるじたばた」、「峠」、「別れ」に分類していて、これは人の誕生から死に相応するとしている。「峠」には分水嶺にさしかかった生き様をうたった詩が集められている。
その夜 石垣りん
女ひとり
働いて四十に近い声をきけば
私を横に寝かせて起こさない
重い病気が恋人のようだ。
どんなにうめこうと
心を痛めるしたしい人もここにはいない
三等病室にすみのベッドで
貧しければ親族にも甘えかねた
さみしい心が解けてゆく、
あしたは背骨を手術される
そのとき私はやさしく、病気に向かっていう
死んでもいいのよ
ねむれない夜の苦しみも
このさき生きてゆくそれにくらべたら
どうして大きいと言えよう
ああ疲れた
ほんとうに疲れた
シーツが
黙って差し出す白い手に中で
いたい、いたい、とたわむれている
にぎやかな夜は
まるで私ひとりの祝祭日だ。
――詩集『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』
茨木さんは、第四連の最後の二行、「ああ疲れた / ほんとうに疲れた」を、「実に率直に、ふだん言うように投げ出されていて、かえってハッとさせられます。」と述べている。孤独に耐えて生きている者の心の底からから思わず漏れた吐息である。
石垣りんは1920年(大正9)2月に東京で生まれた。4歳のときに遭遇した関東大震災で母を亡くし、その後18歳になるまで、3人の義母のもとで3人の妹と2人の弟の長女として育った。そして尋常小学校を卒業した15歳で、丸の内にあった日本興業銀行の給仕として勤めはじめた。最初は働いたお金で本を買ったりできた。彼女は小さい時から詩が好きで、時間が許せば図書館で詩集を読んだという。
だが戦中、戦後と時代の流れとともに、家計は彼女の肩にかかるようになり、銀行勤めは55歳で定年退職するまで続いた。この間、石垣は詩を書き続けて、それを職場の機関紙や新聞などに投稿し、やがて「断層」や「歴程」の同人になった。
自らの体験を含めて庶民の生活をうたった作品は多くの人の共感を得て、やがてH氏賞や田村俊子賞などを受賞し、多くの詩が教科書に載っている。2004年(平成16)に84歳で亡くなるまでに、10冊の詩集と4冊の散文集を残している。
もう一篇、「貧しい町」――
一日働いて帰つてくる、
家の近くのお惣菜屋の店先は
客がとだえて
売れ残りのてんぷらなどが
棚の上に まばらに残っている。
そのように
私の手もとにも
自分の時間、が少しばかり
残されている。
疲れた 元気のない時間、
熱のさめたてんぷらのような時間。
お惣菜屋の家族は
今日も店の売れ残りで
夕食の膳をかこむ。
私もくたぶれた時間を食べて
自分の糧にする。
それにしても
私の売れ残した
一日のうち最も良い部分、
生きのいい時間、
それらを買つていつた昼間の客は
今頃どうしているだろう、
町はすつかり夜である。