フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30

カテゴリ:未分類( 1 )

乗合馬車の話

 画商のアンブロワーズ・ヴォラールが伝えている逸話がある。ある日、新聞「フィガロ」の社長マニャールは、乗合馬車の屋上に乗っていて、隣り人とたまたま言葉をかわした。十九世紀後半のパリは乗合馬車の全盛期で、当時の写真を見ると、大型馬車の屋上にも横向きに座席が設けられている。この日のパリは天気がよかったのであろう、大新聞の社主も陽気にひかれて屋上に上がったのである。
 馬車が花屋の並ぶマドレーヌ街を通りかかると、この隣人はきわめて独創的な表現で、人工庭園を描写してみせた。感激したマニャールは、思わず叫んだ。
 「ムッシュ、私はフィガロの社長です。いま貴方がおっしゃったことをそのままお書きくだされば、喜んで掲載いたします。」
 数日後、乗合馬車の屋上で同席した人物から原稿を受け取ったマニャールは、社員に向ってこういった。「私はマラルメと署名した、花についての紙切れを受け取ったが、あれは少々頭がおかしいよ。」
 座談は無類に面白いのに、その詩となるとチンプンカンだというマラルメの定説をあてこすった、うまくできた逸話である。真偽のほどは不明だが、乗合馬車が繁盛していた当時のパリでは実際こうした出来事も起りえたのだろう。
 フランスで有料の乗合馬車を誕生させたのは、『パンセ』の著者である科学者・哲学者のブレーズ・パスカルだった。当時、馬車は金持ちの乗り物で、なんとか庶民にも利用させたいと考えたパスカルは、1662年に8人乗りの馬車を用いて、一定の路線をあらかじめ定められた時刻表にしたがって走る乗合馬車を運行した。だが5ソル馬車と呼ばれたこの乗合は1677年には廃業してしまった。辻馬車との競合、それに客をえり好みしたための経営難が原因だったという。
 日本では源氏物語その他に登場するように、中世までは牛に車を曳かせる牛車は存在したが、馬車は発達しなかった。おそらくは日本産の馬が小さかったためであろう。
 幕末の開国後に西洋の文化が持ち込まれた日本で、最初に乗合馬車を商売にしたのは下岡蓮杖である。蓮杖は長崎の上野彦馬と並んで、日本で最初に写真術を学び、横浜に写真館を開いた人物で、明治2年に横浜―東京間に乗合馬車を運行した。下岡蓮杖については、『私たちはメディアとどう向き合ってきたか』(左右社、2009年)の第三章、「写真術をめぐる苦闘」で詳しく紹介した。
 蓮杖は本名を下岡久之助といい、1823年(文政6年)2月に伊豆下田で生まれた。幼いときから絵が得意で、13歳で江戸に出て狩野董川の弟子となり、董圓と名乗って絵を学んだ。
 彼の運命を変えたのは、ある日、師の使いで訪ねたさる大名屋敷で銀板写真を見せられたことである。その精妙さに感じ入った彼は、写真術を学ぶことを決心した。ちょうどこのとき、浦賀にペリーの黒船が来たのを知って、浦賀奉行の足軽となった。その後、故郷の下田が開港したのを機に下田へ帰り、下田に着任したアメリカ総領事ハリスの給仕として、玉泉寺に住み込むことに成功した。玉泉寺にはハリスの通訳をしていたヒュースケンがおり、蓮杖はヒュースケンから写真術の概略の説明をうけることができた。
 その後横浜に移り住んだ蓮杖は、下田で関係のあった貿易商の阿波屋万太夫の手引きで、アメリカ人の雑貨商ラファエル・ショイヤーを紹介されて、その館へ手代として住み込みこんだ。ショイヤーの商館に、イギリス人のジョン・ウィルソンが寄寓することになったが、ウィルソンはアメリカ滞在中、写真館を営んでいたカメラマンで、横浜で写真館を開いて商売にすることを考え、ショイヤーに空いている商館の紹介と写真材料の輸入を依頼しに来たのである。
 蓮杖の写真熱を知っていたショイヤーは、ウィルソンに彼を弟子にするよう頼んでくれたが、ウィルソンは多忙を理由に断った。それでもあきらめきれない蓮杖は、ウィリアムの通訳兼助手をつとめていた宣教師ブラウンの娘ジュリア(のちにイギリス領事館員ラウダーと結婚してラウダー夫人となる)に、間接的ながら写真術の初歩を教えてもらうことができた。
 やがてウィルソンは日本を離れることになり、写真機材一式を蓮杖に譲ることにした。金のない蓮杖はショイヤーの館で描き上げた88枚の絵と交換にすることを申し出ると、ウィルソンはその条件を受け入れた。こうしてカメラと薬品一式を手に入れた蓮杖は、ショイヤーの館の一室を借りて写真の研究に没頭した。その後は横浜の戸部に借りた家に移り、便所を暗室にするなどして研究を続けた。そして遂に1862年(文久2年)、横浜弁天通りの角地に写真館を開設して、「全楽堂」と「相影楼」の看板を掲げた。40歳のときであった。
 蓮杖は流行しはじめた写真撮影で得た資金を阿波屋万太夫に融通して、写真乾板用の良質の種板ガラスをはじめとする写真材料を輸入して身代を築き、その資金を元手に、他にも出資者を募って馬車屋の開業を考えたのである。馬車の輸入はショイヤー夫人の紹介でアメリカ人商人に依頼して、横浜―東京間に馬車の定期便を走らせることになった。
 『横浜どんたく』上、下(有隣堂、昭和48年)は、幕末から明治初年の横浜の出来事を、当事者や昔を知る古老たちが語った興味尽きない本である。その上巻の「最初の商業」に、「最初の写真師」として下岡蓮杖の談話が載っている。彼はその最後の部分で、乗合馬車をはじめた顛末を語っている。
 「横浜はだんだん開けて来て、交通はますます忙しくなって来たのに、当時の交通機関というと、海には帆掛船か艪で押す船、陸には駕籠よりほかに乗る物はない。不便きわまったありさまでしたから、西洋人の乗っているような馬車を拵えて、これを江戸~横浜の間に用いたらよかろうと、6千円の資本で、乗合馬車の開業を願い出たら、早速に許可になりました。ところが、これとほとんど同時に、江戸でも紀州の人、由良守正が、後藤象次郎の後援を得て、江戸から横浜への乗合馬車を出願した。私はこれを聞きつけて、早速後藤の邸へ赴き、利益を説いて、由良の計画と私の計画とを合併して貰いたいと願った。さすがに後藤さんだ。早速承知されて、一万円を出してくださったから、両方合わせて一万六千円で、馬車二十五台と馬六十頭とを買い入れて開業しました。横浜での発着所は、吉田橋際の、ちょうど、いま寄席のある所で、間口八間、奥行二十間という大きな家を建てました。東京の方は新橋の側に、三井の持で松坂屋という店の閉店した跡を、月四十円で借りておりました。当時、東京~横浜間の馬車代は三円で、今から見ると法外な値段でした。それで一時は儲けたが、そのうち鉄道が開けたので、やめてしまいました。」(同書、190-191頁)
 横浜~品川間に鉄道が開通したのは明治5年5月7日。横浜発、午前8時と午後4時。品川発は、午前9時と午後5時で、運賃は片道上等が1円50銭、中等が1円、下等が50銭だった。片道35分で、馬車のように激しく揺れることもなく、すこぶる便利だった。所要時間は残っている時刻表から計算したのだが、現在と比べても早すぎるのではないだろうか。実際にはどのくらいかかったのか。ご存知の方はお教えいただきたい。
 下岡蓮杖はこのほかにも、日本ではじめて牛乳屋を開店するなどさまざまな事業に手をだした。好奇心と商売っ気一杯に、近代化にまい進する幕末明治の日本を生きた人物だった。

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 6月末からはじめたブログをお読みいただきありがとうございました。来年も続けますが、いつか通読できる形にする所存です。みなさま良い年をお迎えください。
[PR]
by monsieurk | 2011-12-31 15:18 | Trackback | Comments(0)