フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30

カテゴリ:フランス(文化)( 21 )

パリの古書店再訪

 パリに行くと必ず立ち寄る古書店がいくつかある。パリ6区のリュクサンブール公園に近い、ヴォジラール通りとマダム通りが交わる角にある「ル・ポン・トラヴェルセ(Le Pont traversé)」もその一つで、こことは30年ほど前に、ステファヌ・マラルメに関する大量の新聞記事の切り抜きを譲ってもらって以来の付き合いである。d0238372_517283.jpg店は稀覯本を含めて、文学や美術関係の貴重な本を数多くそろえている。
 店の名前Le Pont traversée(渡ったられた橋)は、いまは亡き店主のマルセル・ベアリュ(Marcel Béalu)が、文学仲間ジャン・ポーランの小説のタイトルからとったものである。ベアリュは1908年生まれで、シュルレアリズムの影響を受けつつ詩人として文学生活をスタートし、第二次大戦中はピエール・セゲルスに協力して、雑誌「Poètes casqués・兜をかぶった詩人たち」を刊行した。
 多くの散文詩や小説を創作するかたわら、1949年に書店をサンセヴラン教会に近い7区のボーヌ通りに開いた。稀覯本などを扱うほかに、雑誌「Réalités secrètes・秘密の現実」を創刊した。いまの場所に店が移ったのは1955年のことである。
 写真で見るように、店の入り口は青いタイルを張った柱が立ち、そこに開閉する鉄格子の扉がはまっている。そしてヴォジラール通りに面したショー・ウインドーには、いつも詩人ジャック・プレヴェールの大きな顔写真が飾られている。d0238372_15425275.jpgd0238372_154444.jpg
 じつはこの店の前身は肉屋で、プレヴェールの一家は彼が子どもの頃この界隈に住んでいて、1912年にはヴィユ=コロンビエ通り7番地のアパルトマンに引っ越し、母親に頼まれてこの肉屋にはよく買い物に来ていた。彼の遊び場はいつもリュクサンブール公園だった。
 ベアリュはプレヴェールの8歳年下だが、詩人として彼を尊敬していた。プレヴェールの写真がいまも飾られているのにはそんな縁からである。
 生前、髪や太い眉毛も白いベアリュは、古書にまつわる逸話や文学談義を問わずず語りに聴かせてくれたが、1998年に亡くなった。いまは言うところの「年の差婚」だった妻のマリ=ジョゼが、訪ねるたびに元気な笑顔を見せてくれる。今度も彼女に会うのを楽しみにしている。
[PR]
by monsieurk | 2014-11-18 22:30 | フランス(文化) | Trackback | Comments(0)
 ラ・ボエシからモンテーニュに託された遺稿には『自発的隷従論』の草稿もあった。モンテーニュは「友情について」で、こう書いている。d0238372_14475765.jpg「 それは彼が、「自発的隷従」と名づけた論文であるが、それを知らぬ人たちがあとで「反体制論」とたいへん上手に名前をつけ変えた。これは彼がきわめて若い頃に、習作のつもりで、圧政者に対する自由を讃えて書いたものである。」d0238372_1448198.jpg
 モンテーニュは友人のこの著作を一度は公表することを考えたが、それを思いとどまった。「わたしは、この著作が、国家の社会的秩序を改良するどころか、それを変え、混乱させようとする人たちによって、自分たちで勝手に作り上げた書き物と一緒に――悪い目的のために――刊行されたのを見たので、それをここ〔『エセー』〕に入れることを断念した。」「自発的隷従」は1574年に一部が雑誌に掲載され、1576年にはその全文がMémoires de l'état de France sous Charles neuvième に載り、新教徒の手で書かれたヴァロア王朝攻撃の文書と一緒にされて利用された。モンテーニュはこうした事態をラ・ボエシの真意ではないと考えたのである。
 ラ・ボエシは自らの目的を次のようにのべている。
 「ここで私は、これほど多くの人、村、町、そして国が、しばしばただひとりの圧政者を耐え忍ぶなどということがありうるのはどのようなわけか、ということを理解したいだけである。その者の力は人々がみずから与えている力にほかならないのであり、その者が人々を害することができるのは、みながそれを好んでいるからにほかならない。」(山上浩嗣訳)
 ラ・ボエシによれば、「われわれは生まれながらにして自由を保持しているばかりであり、自由を保護する情熱をももっているのである。」自由は人間の本性なのである。その人間がなぜ自由を放棄して、自分から隷従することになるのか。それは教育の結果生じる習慣のせいであるという。
 「人間においては、教育と習慣によって身につくあらゆることがらが自然と化すのであって、生来のものといえば、もとのままの本性が命じるわずかなことしかないのだ、と。したがって、自発的隷従の第一の原因は、習慣である。(中略)さきの人々〔生まれながらにして首に軛をつけられている人々〕は、自分たちはずっと隷従してきたし、祖父たちもまたそのように生きてきたと言う。彼らは、自分たちが悪を辛抱するように定められていると考えており、これまでの例によってそのように信じこまされている。こうして彼らは、みずからの手で、長い時間かけて、自分たちに暴虐をはたらく者の支配を基礎づけているのだ。」
 こうして人びとは人間の本性であるはずの自由を棄てて、一人の者の言いなりになる。それどころか、ピラミッド型の隷従のメカニズムを進んで担うようになる。こうした事態はラ・ボエシの生きた16世紀だけでなく、21世紀のいまにも当てはまる。それも独裁者が支配する世界だけでなく、多様な意見が許容されているように見える私たちの世界でも行われている。だがラ・ボエシは事態を打ち破るのは難しくないという。
 「このただひとりの圧政者には、立ち向かう必要はなく、うち負かす必要もない。国民が隷従に合意しないかぎり、その者はみずから破滅するのだ。なにかを奪う必要などない、ただなにかを与えなければよい。国民が自分たちのためになにかをなすという手間も不要だ。ただ自分のためにならないことをしないだけでよいのだ。(中略)彼らは隷従をやめるだけで解放されるはずだ。みずから隷従し喉を抉らせているのも、隷従か自由かを選択する権利をもちながら、自由を放棄してあえて軛につながれているのも、みずからの悲惨な境遇を受けいれるどころか、進んでそれを求めているのも、みな民衆自身なのである。」
 わたしたちは心して耳を傾ける必要がある。 
ラ・ボエシの『自発的隷従論』は、モンテーニュの専門家、関根秀雄(『奴隷根性について』、白水社、1983年)と荒木昭太郎(『自発的隷従を排す』、「世界文學体系」第74巻、筑摩書房、1964年)によっても翻訳されている。
 フランス語の原文は、Ētienne de La Boétie: Discours de la Servitude volontaire( Vrin, 2002)他の版がある。またフランス国立図書館に所蔵されている写本、Manuscrit De Mesmes, conservé à la Bibliothèque Nationale de France. Fonds français 839.は http://gallica.bnf.frで見ることができる。またフランス語原文は、Kindleを用いれば99円で購入して読むことができる。
[PR]
by monsieurk | 2014-03-03 22:30 | フランス(文化) | Trackback | Comments(0)
 16世紀中葉のフランスの思想家エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(Ētienne de La Boétie、1530-1563)の『自発的隷従論(Discours de la Servitude Volontaire)』が、「ちくま学芸文庫」から山上浩嗣の新訳で昨2013年11月に刊行され、12月には監修者の西谷修主催のシンポジウムが東京外国語大学で催され話題となっている。d0238372_1440417.jpg
 山上浩嗣の新訳は、もとは関西学院大学言語教育研究センターの「言語と文化」に、2004年から2007年にかけて3回にわたり連載されたものである。これに注目した西谷修の推奨で、翻訳に修正を加え、解題と付論を加えて「ちくま学芸文庫」に収められた。
 それにしても、なぜいま16世紀フランスの思想家の書が注目されるのか。西谷は文庫に付した解説「不易の書『自発的隷従論』について」で、こう述べている。
 「この小著の眼目は、圧政が支配者(しばしばただ一人の者)自身の持つ力によってではなく、むしろ支配に自ら服する者たちの加担によって支えられると論じた点にある。強権的支配や圧政が問われるとき、たいていの場合人は、支配者の側に圧倒的な力を想定しし、それによって弱者が受難を強いられると受けとめる。そして力の独占と専横、その圧政を被る犠牲者、言いかえれば加害者と被害者、強者と弱者といった図式があてがわれ、そこに善悪の判断を重ねて「強者=加害者」の悪を告発する、といった構えができる。
 だが著者〔ラ・ボエシ〕は、この図式よりも先に、支配秩序に関わる人びとの具体的な相を見る。支配者が一人ではそれほど強力で残忍だとは見えないにもかかわらず、古今東西どこでも「一者の圧政」が広まるのはなぜなのか。獣たちが檻を嫌うように人間の本性はもともと自由を好むものではないのか。それなのに、人びとは隷従を求めるかのように支配に甘んじ、支配されることのうちに自由や歓びを見出しているかのようだ。この不条理を前にラ・ボエシは、なぜ人びとはかくも従容として隷属を選びとり、ときにはそれを嬉々として支えさえするのか、と問う。要するにかれは、圧政の正邪を論じるのではなく、そのような支配を可能にしているからくりを「人間の本性」から探ろうとしている。その意味でかれは、政治論者であるよりも人文主義者(ユマニスト)なのである。そしてかれがそこに見出したのは「臆病と呼ばれるにも値せず、それにふさわしい卑しい名が見あたらない悪徳」であり、名指されることのなかったその悪徳にかれは「自発的隷属」という名前を与えたのである。」d0238372_14404594.jpg
 「自発的隷従」と訳されている原語はservitude volontaireで、辞書Petit Robertなどでは、servitudeはesclavage(奴隷状態)、servage(隷属)の同義語で、état de dépendance totale d'une personne soumise à une autre、「一人の人間が他の者に完全に服従している状態」と説明している。volontaireは「自由意志によって」、「自発的な」の意味だから、「自発的隷従」は逆説的表現である。ラ・ボエシは人間の本性は「自由」であるにもかかわらず、あえて自由を放棄して自ら進んで軛につながれようとする性(さが)を「自発的隷従」と名づけた。
 ラ・ボエシの名前はモンテーニュの『エセー』を読んだことがある人には馴染み深いはずである。二人の出会いは運命的なものだった。モンテーニュは『エセー』の第1巻第28節「友情について」で、「わたしたちは会う前からお互いの噂を聞いて、お互いに求め合っていた。わたしたちが耳にする噂はわたしたちの上に、単なる言葉以上の効果をもたらしていた。わたしはそれは何か天の配材だと信じている。わたしたちはお互いの名前を聞くことで抱きあっていた。そしてある街の大きなお祭りの集まりで、偶然はじめて出会ったとき、互いにすっかり魅了され、知り合い、結びつきあった。そしてそれ以来、わたしたちにとって、お互い同士ほど近しいものは何もなくなった。」(André Lanlyの現代フランス語訳による。)
 モンテーニュより3歳年上のラ・ボエシは1530年11月1日、フランス南西部のペリゴール地方の小邑サルラで生まれた。サルラはペリグー市から少し南に寄った小さいが昔から重要な街で、いまもルネサンス風の雰囲気を保ち、ラ・ボエシの生家もそのまま残っている。彼の父はペリゴール大法官代理職にあり、母はギュイエンヌ地方の法官の娘であった。しかし両親は彼が幼いときに亡くなり、聖職者である叔父のもとで法学、神学、ギリシャ・ローマの古典を学び、オルレアン大学法学部に進学した。
 1553年には法学士号を得た。モンテーニュは、ラ・ボエシが『自発的隷従論』を書いたのは16歳あるいは18歳のころとしているが、実際はオルレアン大学を卒業する際に書かれたという説が現在では有力である。
 その後、当時の慣例に則って高等法院評定官の職を購入し、1554年5月にはギュイエンヌ高等法院に評定官として着任した。1557年にはここでモンテーニュと同僚となり、友情を結んだ。モンテーニュが友人のラ・ボエシのなかでとくに高く評価したのは、その「古代の刻印を宿した魂」だった。ラ・ボエシはギリシャ、ローマの古典を読むだけでなく、進んで古代の人びとの知恵の秘密を解明し、その知恵を生き返らせ、生活のなかで実践していこうとする人文学者(ユマニスト)だった。古代の言語に魅せられた彼はラテン語やギリシャ語を愛し、自分でもラテン語で詩を書いた。
 ラ・ボエシが生きた時代は宗教戦争のただなかにあった。1560年12月にシャルル9世が14歳で王位について以後、新教徒ユグノーとカトリック教徒の衝突は激しくなり、その波はギュイエンヌ地方にも及ぶようになった。ラ・ボエシとモンテーニュは寛容を説いて両者の和解につとめたが、その最中の1563年8月、ラ・ボエシは突然病に倒れた。原因は赤痢か当時流行していたペストだと思われる。彼は妻の別荘へ向かう途中症状が悪化して、ボルドー近郊にあるモンテーニュの義弟の家に留まった。急いで駆けつけたモンテーニュは親友の床にずっと付き添ったが、看病の甲斐もなくラ・ボエシーは8月18日、モンテーニュに看取られながら33年の短い生涯を閉じた。死の床にあった彼はモンテーニュを相続人に指定し、蔵書と遺稿のすべてを託した。そのなかに「自発的隷従論」が含まれていたのである。(続) 
 

 
[PR]
by monsieurk | 2014-02-28 22:30 | フランス(文化) | Trackback | Comments(0)

パリ古本屋の思い出Ⅱ

 前回のブログで書き洩らしたが、1993年11月にパリ市歴史図書館で開かれた「ボードレール、パリ」展はクロード・ピショワの監修で行われたもので、そのなかにマラルメが所有していた『悪の華』一冊が展示されていた。幸い主催者の厚意で、この貴重な書物を手に取って調べることができた。
 黒い布製の装幀を施された本は、1861年2月に初版と同じくプーレ=マラシ・エ・ド・ブロワーズ書店から出版された第二版で、表題が印刷された扉頁の左上に、S.Mallarméとサインがあり、詩集の最後には6篇の禁断詩集、「宝石」、「忘却の河」、「あまりに快活な女に」、「レスボス」、「地獄に堕ちた女たち」、「吸血鬼の変身」を、マラルメが独特の細かい書体で丁寧に筆写した紙片が綴じ込まれていた。これについてはマラルメの女婿エドモン・ボニオ博士が、家族間の言い伝えとして、「1861年、18歳のとき、マラルメは『悪の華』の再版を入手する件で、家族との間の慇懃だが粘り強い闘いで勝利をおさめた。彼はのちにそれに禁断詩集の筆写を合体して製本した」と述べているものである。いまはさる個人の所有になっている。
 ところでベルナール・ロリエと知り合ったのは、父マルクを通してであった。いまは亡きマルク・ロリエはパリの古書籍業界の指導的立場にあった人で、サン・ペール通りに、やはり小さな店構えの古書店を開いていた。私が19世紀象徴派の詩人ステファヌ・マラルメの本文批判(テクスト・クリティツク)をするために、詩の自筆原稿や雑誌に発表されたプレ・オリジナルを捜していることを知ると、協力を約束してくれたのだった。
 マルク・ロリエは大切な本を店の奥の書庫や自宅に置いていた。パリの古書店はどこも同じで、よほど親しくならないと見せてはもらえない。パリで古書を捜すには、店が定期的に出すカタログを取り寄せることだが、注文は早い者勝ちだから、せっかく必要な本を見つけても先を越される場合がしばしばである。一番いいのは信頼された古書店に欲しい本のリストを渡して気長に待つことである。ロリエは亡くなるまで、なにくれとなく助力してくれた。
 パリの古書店主には二種類あって、中心となるのは鑑札を持った人たちである。故マルク・ロリエも息子のベルナールも鑑札を持っており、彼らはパリ市経営の競売所「オテル・ドゥルオ」で古書の競売を主催することができる。
 「オテル・ドゥルオ」で月に一、二度開かれる古書の競売は、研究者や愛書家にとっては見逃せないものである。名の知れた蔵書家が亡くなって蔵書が処分さる場合や、鑑札を有する古書店主が集めた稀覯本がある程度揃うと競売が行われる。まず競売にかけられる本のカタログがつくられ、いつ競売が行われるかが新聞に公示される。競売に先だって下見をする日が二、三日設定され、このとき本の状態を見て、さらに競売の最低価格を教えてもらい、幾らまで競り上げるか、あらかじめ心積りをするわけである。
 競売には誰でも参加できるが、相手の多くが古書店主だったり、なうての蒐集家だったりするから、素人には競り落とす呼吸がなかなか難しい。
 1978年の6月、マラルメの詩の自筆原稿が数点競売に付されたことがあった。このときは仕事の都合でパリを留守にしていて競売に参加できなかったが、その後二年ほどして、競売を主催したピエール・クレティアンから、このとき落札した人物に事情ができて、詩篇「不遇の魔(Le Guignon)」の自筆原稿を手放してもよいと言っていると連絡があった。マラルメが1862年、20歳のときに創作した詩の自筆原稿がこうして招来されたのだった。この原稿については、拙著『マラルメ探し』(青土社、1992年)収録の「不遇の魔」を参照されたい。
d0238372_15224895.jpg マラルメの自筆原稿といえば、彼が心を寄せたメリー・ローランのために、自分でつくった楽譜挟みを見つけてくれたのはヴァレットだった。リュクサンブール公園に近いヴォジラール通りに店があったヴァレットは、19世紀末の有名な文芸誌「メルキュール・ド・フランス」を創刊したアルフレッド・ヴァレットの血筋を引き、自らも若いときは詩人として活躍して、フランシス・ポンジュなどと交遊のあった人である。その彼が捜してくれた楽譜挟みは、縦38センチ、横95センチという大型の帙で、表裏二枚の表紙を厚紙でつくり、その上に褐色のビロードを貼り、周囲を錦の小切れで縁取りしたものの間に楽譜を挟むようになっている。メリー・ローランは歌が好きで、よくピアノを弾いたことからマラルメは思い立ったのだが、単に楽譜挟みをつくっただけでなく、表紙に金粉でメリーを讃える四行詩を書いた手の込んだものである。いまも色鮮やかな金粉の四行詩を眺めていると、ひそかにこれを書いているマラルメの姿や、その心の奮えまでが伝わってくるようで、ほほえましい気持になる。メリー・ローランが所有していた「アルバム」が昨年暮れ、友人のベルトラン・マルシャルの手で復刻され、そこにもマラルメが幾つかのソネを書き込んでいるが、これはあらためて紹介することにする。
 ヴァレットはこの他にも、親友だったフランシス・ポンジュの大作『マレルブのために』の校正刷も譲ってくれた。この校正刷はガリマール書店から本が刊行されたあと、1965年2月にポンジュの手元に戻されたもので、詩人自身の手で多くの書き込みや訂正が施されている。残念なことにヴァレットは亡くなり、その後しばらくは奥さんがあとを引き継いでいたが、数年前に店は閉じられてしまった。
 そうしたなかで相変わらず親しくしているのが、サン・シュルピス通りに店をもつジャン=クロード・ヴランである。d0238372_1522384.jpg彼は半獣神を詠いこんだマラルメ自筆の短詩や、名刺の上に書いた四行詩、ナダールが撮影したマラルメの写真、それにゴーギャンの銅版画《マラルメの肖像》などを見つけてくれた。面白いのはこの銅版画には斜めに数本の線が刻まれていることである。つまりこれ以上は刷り増しはしない証に、原版に刻みをいれたことを示すものなのである。
 写真は昨年末パリへ行った折に、ヴランからもらってきた最新のカタログに載っているマラルメの『大鴉』の一冊である。これには挿画を描いたエドゥアール・マネが、ガシェ博士――絵画の蒐集家で、ゴッホの最後を診たことで知られる――に贈った献辞が書かれている。値段を聞いたが、とても手が出るものではなかった。
[PR]
by monsieurk | 2014-01-26 22:24 | フランス(文化) | Trackback | Comments(0)

パリ古本屋の思い出Ⅰ

 京都の画家林哲夫氏には、パリの古本屋を描いた「パリの古本屋」と題する水彩画の二つのシリーズがある。いずれも絵葉書にもなっていて人気が高い。この度第二シリーズのなかの一点、《L'Odeur du Book, rue Ramey》の原画をd0238372_9485976.jpg
分けていただいた。写真がそれで、林さんからの手紙には、「ユトリロが描いたコタン小路(サクレクールの東側)のすぐ近くにある古本屋です。まだ30代らしい夫婦がやっていました。まじめな品揃えでした。はじめて行ったときには外壁はボロボロだったのですが、昨年この絵のようにきれいに塗り替えられていました」と書かれていた。パリの下町の空気が絵のなかに漂うような作品である。「Bookの匂い」と英語まじりの店名にも若い店主の思いがうかがえる。
 林さんの手紙にある通り、コタン小路(passage Cottin)はパリ18区にあるサクレ・クール寺院の東側後方の石段を降りたところから続く短い道で、その先はラメ通り(rue Ramey)にぶつかる。ラメ通りはオルドゥネ通りとクリニャンクール通りを結ぶ比較的広い通りで、古書店はそこにある。手元の地図にはかつて訪ねた古書店の所在を点で印をつけてあるが、この通りには点がなく訪ねたことはない。
 パリの古書店については、かつて『世界の古書店』(丸善ライブラリー、1994年)に書いたことがあるが、重複するのを厭わず書いてみたい。
 パリ6区のゼーヌ通りは画廊が多いことで知られるが、この通りを北から南へ、サンジェルマン大通りを横切って少し行った右手に、ベルナール・ロリエの店がある。いまもパリに行った折は必ず立ち寄るところである。店の間口は3間ほどで、中央が入口のガラス扉、その左右は飾り窓になっている。この小さな空間を使って、ミニ展示会をやるのがロリエの趣味である。
 1993年の秋、店に足を踏み入れる前に窓越しに覗いてみると、ボードレールの『悪の華』初版本が2冊並べて展示されていた。そしてそれを見下ろすように、写真家のナダールが撮った、あの大きな目を見開いたボードレールの肖像写真が柱に飾られていた。
 扉を押して中に入るとベルナールがいて、はにかんだような、いつもの微笑で迎えてくれた。かつて仕事でパリに駐在していたときは毎週のように訪ねていたが、東京に帰任した後は年に2、3度会うだけだった。だが久し振りの再会でも久闊を叙すわけではなく、昨日別れたばかりのように、最近の収穫について話しはじめるのが常だった。この日は当然飾り窓の『悪の華』の初版本が話題の中心だった。ちょうどこのとき、パリ市歴史図書館では「ボードレール、パリ」と題する展覧会が開かれていて、自筆原稿など貴重な資料が展示され、研究者はもとより一般の人たちの関心を呼んでいた。ベルナール・ロリエはこれに合せて、手持ちのボードレール関連の本の一部を並べたということだった。
 フランス近代詩の礎となった『悪の華』の初版が刊行されたのは、1857年6月25日のことである。だがこの初版本は、その後8月に行われた裁判により、6篇の詩が良俗を損なう猥雑なものと断定され、当局に押収されてしまった。こうして『悪の華』の初版本は、滅多に手にすることができない稀覯本となってしまったのである。そうしたいわくつきの本が2冊並んだ様は壮観だった。
 じつはベルナールに『悪の華』初版本を見せられたのはこれが初めてではなく、以前にアンドレ・ショヴォ博士旧蔵本を譲ってもらったことがあった。これは当局の押収を免れた禁断詩篇6篇を含む完全本で、その上、詩人が作家某に1100フランの借金を申し込んだ自筆の手紙を、装幀の際一緒に挟み込んだ珍しいものである。ベルナールはもちろんこれを覚えていて、「お前のものと交換してやってもいいよ」と言ったが、当方はありがたく辞退した。(続)
[PR]
by monsieurk | 2014-01-23 22:30 | フランス(文化) | Trackback | Comments(0)

パリ日本文化会館の活動

d0238372_17262883.jpg パリにある「日本文化会館」の審議委員会が12月9日に開かれ、委員の一人として出席した。日本文化会館は国際交流基金が運営に当たっており、1982年に当時のミッテラン大統領と鈴木首相の間で、パリに日本の文化会館をつくることが合意され、1997年9月に開館した。それから丸15年がたつ。
 ここは日本の文化をフランスだけでなくヨーロッパの人たちに知ってもらうための窓口を目指しており、展覧会、舞台公演、日本映画の上映、日本語教室、さまざなま分野の人たちの講演や討論会などを行ってきた。
 いま海外の若い人たちを中心に「クール・ジャパン」が流行していて、マンガなどのポップ・カルチャーやファッションを中心に、日本の新しい文化が受け入れられている。フランスでも本屋には必ずといってよいほど「Manga」のコーナーがあり、パリなどで日本週間が開催されると、人気アニメにあやかったコスチュームの若い人たちが大勢集まる。こうした「クール・ジャパン」が日本への関心を広めた功績は大きいが、日本文化会館の活動は日本に対して関心を持つ人に対する、伝統的な文化の紹介と普及に力を入れてきた。
 大きな反響を呼んだ一つに「縄文展」がある。縄文時代の土器や埴輪を展示した展覧会には当時のシラク大統領が訪れて、予定の時間をオーバーして熱心に見てまわった。フランスと日本の交流を示した「黒田清輝から藤田嗣治まで~パリに学んだ洋画家たち」も大きな反響を呼んだ。
 今年2013年の目玉は、「加賀百万石―金沢に花ひらいたもう一つの武家文化」で、加賀宝生流のお能、加賀象嵌と呼ばれる金工細工の実演などが12月14日まで行われている。加賀象嵌には19世紀末に流行した「アール・ヌヴォー」が影響をあたえるなどの交流があり、展覧会や講演会は日本人の美意識がよく理解できると好評である。
 今年2013年の来館者は18万人に達すると予想され、一番多いのは図書館の利用。次いで日本語講座、映画会、展覧会の順だが、公演では文楽の舞台が大きな関心を呼びんだ。また桂文枝氏が襲名記念に行った公演では、落語の面白さが十分伝わったし、知的な交流としては、ノーベル賞文学賞を受賞した大江健三郎さんの話が関心を呼んだ。大江氏はフランスの作家で哲学者のジャン=ポール・サルトルを読んで文学をやろうと決心し、大学では16世紀の作家ラブレーの専門家の渡辺一夫先生に師事して、ユマニスムの精神を学んだことが、後の大江さんの文学に影響をあたえた。その意味でフランスと深くつながっている。
 フランスの「ヌヴェル・キュイジーヌ」は、フランス人のシェフたちが日本食の味付けや盛り付けの美しさにショックをうけて、フランス料理の改革がはじまったものだが、いまでは味噌を隠し味にするシェフが沢山おり、家庭料理にも和食の味が取り入れられつつある。日本文化会館にあるキッチンを利用した料理教室では、多くのマダムやムッシュが日本料理を学んでいる。去る12月4日にアゼルバイジャンで開かれた会議で、和食がユネスコの無形文化遺産に正式に登録されたこともあり、ますます関心を呼ぶと予想される。
 9日に開かれた審議委員会は竹内佐和子館長の諮問機関で、フランス側、日本側それぞれ10人ほどの委員がおり、会館の運営や事業について来年以降も力を発揮するための方針を話し合った。フランスの中学や高校で日本語を教えるところを増やす方策や、フランスの研究機関との連携、あるいは日本文化をフランスの地方やアフリカ諸国にむけてどう発信するかなどが課題として浮かび上がった。こうした拠点は世界中に22あるが、パリの日本文化会館が一番大きく、これまでここを訪れた人は開館以来130万人に達する。日本の文化やその精神を広く世界の人たちに知ってもらえるのは嬉しいことである。
[PR]
by monsieurk | 2013-12-10 22:30 | フランス(文化) | Trackback | Comments(0)

子どもたちのための詩集

 フランスのガリマール社から出ているfolio junior poésieという青少年用の本がある。著名な詩人の作品を一冊ごとに収録した叢書で、ヴィクトル・ユゴー、アルチュール・ランボーなどともに、ルイ・アラゴン、マックス・ジャコブ、ロベール・デスノス、ジュール・シュペルヴィエル、アンリ・ミショーなど現代詩人も入っている。それぞれ100ページほどだが、子どもたちの興味をひく詩が選ばれている。
d0238372_1221152.jpg ジャック・プレヴェールの一冊を買ってきた。カミーユ・ヴェイユの選になるもので、「ジャック・プレヴェールの〈奇妙なよそ者たち〉とその他の詩」というタイトルである。〈奇妙なよそ者たち〉という詩の原題は Ētranges étrangers で、形容詞と名詞が同じ単語の語呂合わせになっていて、いかにもプレヴェールらしい。
 「まえがき」は、プレイヤード版の『プレヴェール全集』全2巻を編纂したダニエル・ガジグリア=ラステルとアルノー・ラステルが書いている。詩人の本質をついたよい紹介文なので訳してみよう。

 ジャック・プレヴェールは目を覚ましつつ夢を見る人です。頭は星やときには月の上にありながら、足は地上にあります。彼は公認の思想や先入観は太陽を陰らせることを知っていました。そして彼のテクストは、いまあることに満足せず、「それとは別のこと」を想像し、出来事を引き起こし、風景を変え、真冬を春に変えることをわたしたちにうながします。彼ほど体制順応や思想の押しつけと闘った人はいませんでした。彼は叩かれる子どもたちの味方で、有害な教訓で子どもをしつけるのをやめさせようとしました。子どもは模範的だったり、神童であったりする必要はなく、女性も黙っている義務などなく、多くの場合彼女たちはとても強いと断言していました。道路掃除の人、労働者、門番、靴磨きなど、不当に蔑まれる職業の人たちを大切にしました。彼は愛国主義や人種差別を憎悪しましたし、動物にもやさしい目をそそぎました。彼らは利口だし感情豊かな生き物だと考えていました。こうした闘いに、彼は言葉で挑みました。ことばの力、ことばの衝撃力、ものの見方におよぼす影響をよく知っていたからです。彼はことばの意味とナンセンスの面白さをよく考え、決まり文句や息がつまる演説はもうたくさんだといいます。そんなものは人を奴隷にし、前進すること、別の見方をすることの邪魔になるだけです。プレヴェールはことばに新たな意味をあたえ、害をなすことわざを、役に立って人を元気づけるものにつくり変えました。ときに適切でときには突拍子もない、でも誰にでも分かるユーモアで色づけして文体を練り上げました。ことばを通したこの批判的な眼差しは、いままさに発見しかのように世界を見ることを教えてくれます。だからこそ彼はいつまでも古びることがなく、彼の詩を読むと、いま起き上がったばかりのように生き生きとなり、自由の風がわたしたちを前進させ、遠くへと運んでいってくれるのです。

 こうした「まえがき」のあとに、若い読者は次のような詩の数々を読むことになる。

  オーベルヴィリエ

  Ⅰ 子どもたちの歌

オーベルヴィリエのおとなしい子どもたち
きみたちは貧困の油まみれの水に
頭からとびこむ
そこには兎の腐った切れはしや
お腹がパンパンに張った猫の死骸が浮いている
でも若さがきみたちを守ってくれる
きみたちは悪意が充満した情け知らずの
世の中の特権階級だ
オーベルヴィリエの悲しい世界
お父さんとお母さんは働きずくめ
でも貧乏をのがれることができない
貧困のオーベルヴィリエ
貧困の全世界
オーベルヴィリエのおとなしい子どもたち
プロレタリアのおとなしい子どもたち
貧困のおとなしい子どもたち
全世界のおとなしい子どもたち
オーベルヴィリエのおとなしい子どもたち
夏が来た ヴァカンスだ
でもきみたちには海岸も
コート・ダジュールも大空もない
あるのはほこりまみれのオーベルヴィリエ
きみたちは街の通りで
貧困のサイコロを投げて遊ぶ
子どもなのに何もすることがない
でも誰もそれをとがめられはしない
オーベルヴィリエのおとなしい子どもたち
プロレタリアのおとなしい子どもたち
貧困のおとなしい子どもたち
オーベルヴィリエのおとなしい子どもたち。

  Ⅱ 水の歌

すばしこい子ネズミのように
オーベルビリエの子ネズミのように
貧困が道をかけていく
オーベルヴィリエの狭い道を
水が歩道の上を流れる
オーベルヴィリエの歩道を
水は急ぐ
追いかけられているみたいに
逃げ出したいんだとみなが言う
オーベルヴィリエから逃げ出して
田舎に行って
野原や森の中を流れ
森や野原の小川の
仲間たちに合流するために
これは労働者たちのつつましい夢
オーベルヴィリエの労働者たちの。

  Ⅲ セーヌ川の歌

セーヌ川は運がいい
川には心配事がない
川はゆっくり流れる
昼も夜も
川は源から流れ出す
ゆっくりと音もなく
コケも生やさず
川床をはずれることもない
そして海へと向かう
パリを通って
セーヌ川は運がいい
川には心配事がない
川岸にそって散歩するように流れると
川岸はみどりの美しい服をきて
金色の光がおどっている
そんな川にノートルダムは焼きもちを焼く
ノートルダムはいかめしくて動くこともできない
石をつんだ天辺から
下を流れるセーヌ川を見下ろす
でもセーヌ川は気にもとめない
川には心配事がない
川はゆっくりと流れる
昼も夜も
ル・アーヴルに向かって流れて行く
海に向かって流れて行く
夢のように通りすぎる
パリの貧困の
秘密の真ん中を。

 フランスの子どもたちはこうした詩を暗唱しながら成長する。日本の子どもたちもすぐれた詩を沢山読む機会があれば、彼らの未来は明るいのだが。

(注、オーベルヴィリエはパリの北の郊外で、かつてはスラム街があった。プレヴェールはここを舞台にしたドキュメンタリー映画のナレーションを執筆したことがある。またル・アーヴルはセーヌ川が海へ流れ着くところにある港町)


 
[PR]
by monsieurk | 2013-12-07 22:30 | フランス(文化) | Trackback | Comments(0)
 マルローは裁判という個人的経験から植民地インドシナでのフランス人の横暴と不正を知り、これに復讐する気持で二度目のサイゴンにやってきた。その後新聞の発行を通して植民地行政の実態を知り、言論によってそれを糺そうとした。だが改革を進めるには、直接相手にする出先機関だけでなく、本国の植民地政策そのものが問題なのを痛感させられた。そしてこの思いを決定的にする事件が起こった。
 フランスの海外植民地では、法律によって地元の農民が税金を納められない場合は、村の有力者がその責任を負わされることになっていた。この法律は第一次大戦中は厳格に施行されたが、平時では大目にみられていた。ところがサイゴンの南にあるミトで大量の未納者が出て、地元の有力者がその責任を問われて代理納税を要求された。未納者の多くは都会に流出してそちらで税金を払っていたのだが、地元の役所は税収が減ることを嫌って、彼らを納税者名簿から削除せずにしていた。地主たちは陳情し抗議したが、当局はとりあわなかった。何人かの地主は家産を失い、フランスへの恨みが残った。
 カンボジア農民への課税は、直轄地であるコーチシナの2倍だった。しかもカンボジアの高等弁務官は、シャム湾に臨むホテル建設の費用を捻出しようとして、この年(1925年)に税額を引き上げた。おとなしいカンボジア人もこれには激昂して、バルデスという村で徴税使を殺す事件が起こった。
 軍隊が派遣されて300人の村人が検束され、10日間にわたる厳重な尋問の末に18人が起訴された。裁判の結果は死刑1名、無期懲役4人、7名が重労働となった。
 マルローはこの裁判を取材するためにプノンペンまで行った。サイゴンに戻った彼は皮肉をこめて次のような記事を書いた。

 われわれはこれ〔判決〕を繰り返すことはないだろう。法律が植民地で発布される前に、さまざまな規則が手直しされる必要がある。私としては、次のような原則にそった規則が望ましいと考える。
 (1)有罪となったものは、すべて断首される。
 (2)しかるのちに弁護士によって弁明される。
 (3) 弁護士は断首される。
 (4)そしてさらに・・・・
  さらになにかを追加するとすれば、
 (5)弁護士に雇われた速記者はみな、わずかな財産をも没収され、契約は破棄される。
 (6)もし速記者に子どもがあれば、貧しいド・ラ・ポムレー氏の損害とその利益のた
  めに、子ども一人当たり千ピアストルを支払う。
 (7)その夫は断首される。
  そしてまた上記の(1)へ戻る。(「鎖につながれたランドシーヌ」第14号、1925年12 月17日または19日)

  
 マルロー帰国のニュースが「鎖につながれたランドシーヌ」紙上に載ったのは、この記事が書かれた直後のことである。そこには、「アンナン人の求める自由を政府から手に入れるよう、フランス人に働きかける遊説を行うために」マルローはフランスへ戻ると書かれていた。だが本当にそうだったのか。
 「インドシナの地を脱出することは、周囲の人びとに申しわけないと思った」とクララは書いている。「鎖につながれたランドシーヌ」は、その後2ヵ月間はグエン・フォーによって継続され、マルローの書いた記事は、彼が去ったあとも第19号と第21号に掲載されたが、新聞そのものはその後廃刊となった。そしてモナンはこの後、「青年アンナン党」の仕事に打ち込むことになる。
 マルローはインドシナでの新聞発行をどう考えていたのか。1974年になって、ジャン・ラクチュールに宛てた手紙でこう書いている。「ジャーナリズムは、われわれの文明にあっては、今日性(アクチュアリテ)がもたらす力でもって生きている。それは特別な力であって、1ヵ月前の日常はもはや死んでいる。衰弱ではなく死なのだ。」
 インドシナへ赴く前にマルローが志したのは評論やエセーの執筆だった。だがサイゴンで新聞を発行してみて、集団で仕事を行い(「ランドシーヌ」は7、8人の編集者でつくられていたという)、締切り時間に追われる仕事に魅せられた。なにより購読者からの直かに反響が寄せられることが大きな魅力だった。こうしてマルローは新聞発行という「叙事詩的な行為」にのめり込んでいった。
 しかし帰国する船中で彼が書こうとしたのは、インドシナに関するルポルタージュではなく、往復書簡の形をとったエッセーだった。それがマルローの作家としての第一作となる『西欧の誘惑(La Tentation de l'Occident)』である。
[PR]
by monsieurk | 2013-10-04 22:30 | フランス(文化) | Trackback | Comments(0)
 1925年7月29日、空席だったインドシナ総督に、社会党のアレクサンドル・ヴァレンヌが任命されたことが発表された。
 ヴァレンヌは弁護士兼ジャーナリスト出身の社会党員で、国民議会の副議長をつとめ、自由主義者として名声が高かった。そういう人物ならばインドシナの植民地政策を一新してくれるかもしれないと、マルローとモナンは喜び、その一方で総督府の役人たちは不安を隠さなかった。
 ヴァレンヌがインドシナへ着任したのは、「鎖につながれたランドシーヌ」の刊行直後の11月18日である。当日のサイゴン港にはコニャック以下の顕官がいならび、恒例では新総督は金モールのついて礼服を着て姿をあらわすはずであった。ところがヴァレンヌは黒い背広姿でタラップを降りてきた。「金モールの代金を払うのはアンナン人だからね」と新総督は言った。
 「鎖につながれたランドシーヌ」は、編集長の名前で、「新総督アレクサンドル・ヴァレンヌ氏への公開状」を掲げ、政庁のこれまでの罪業を洗いざらい書きたてた。
 植民地評議会は副総督の意のままであり、商工会議所も同様である(評議会議長はシャヴィニー、商工会議所の方はド・ラ・ポムレー)。もう一つの重要な機関である農業会議所にいたっては、副総督はメンバーの選挙に干渉して、自分に都合のよい人間を強引に当選させたと、公開状は書いていた。
 新たに着任した総督のもとで開かれた最初の植民地評議会では、アンナン人の議員やモナン(彼も議員)が次々に立って、政府に提出した報告書の偽造問題を追及した。背広の新総督が、過去の腐敗に手術を施してくれるだろうと期待したのである。しかしヴァレンウは、「改革よりは法の執行の方が先である」と言明し、サイゴンに10日滞在しただけで、任地のハノイへ去った。
 この前夜、アンナン人の植民地評議会の議員、グエン・ファン・ロンは600人の現地人を集めて新総督との意見交換会を開いた。ヴァレンヌはこの会で、言論の自由にたいする著しい圧迫があるなら調査すると約束したが、同時に「もしアンナン人が言論の自由を濫用ないし悪用するなら、結果はもっと悪くなる」と警告した。
 新総督の姿勢は、マルローやモナン、そして現地の人びとが期待したものとは違っていた。かつての社会主義者も、総督として赴任してきた以上は、フランス本国に楯ついて植民地を解放する政策をとるはずもなかった。
 落胆したマルローは、紙面でヴァレンヌのことを「昨日の社会主義者」と呼んで罵倒した。のちに本国でヴァレンヌに会ったクララは、この当時の彼の態度を理解できなくもないと語っている。しかしこのとき24歳のマルローにそんな余裕はなかった。新総督の着任だけが最後の切り札だったが、それが裏切られたのである。マルローが本国へ帰国する旨の記事が載ったのは、それから間もなくのことである。
[PR]
by monsieurk | 2013-10-02 22:30 | フランス(文化) | Trackback | Comments(0)
 マルローたちを窮地に追い込んだ背景には、彼らが植民地行政の腐敗を容赦なく暴いたことに加えて、アジアを揺り動かしつつある革命の機運があった。
 「ランドシーヌ」紙とそれを継いだ「鎖につながれたランドシーヌ」は、ガンディーの独立運動と中国革命に関する記事をどこよりも多く載せ、かつ詳細に報じた。それが総統府に強い危機感を持たせたのである。「ランドシーヌ」はガンディーの運動を支持したが、フランス人植民者にとっては、ガンディーもまた「共産主義の手先」だった。
 実際に「ランドシーヌ」の記事を読んでみると、インドについてのルポルタージュが掲載されていて、その多くがガンディーが提唱し、実践する非暴力の抵抗に関するものである。その影響をうけて、インドシナでも固有の言語や伝統文化の復活、とくに学校での国語教育の機会の拡大が求められていた。されにこれを契機に、現地人による産業の振興を人びと考えていたのである。
 行政と結びついた保守派の新聞はそこに危険を察知して、しきりにガンディー批判をくりひろげた。体制側のこうした逆宣伝にたいして、マルローとモナンは、ガンディーは暴力には終始反対しており、「それ〔暴力〕は忍耐、寛容、友愛という彼の主義にまったく反するもの」だと反論した。さらにガンディーがもたらす精神は、必ずアジア全体に広がっていくと主張した。ただマルローたちは、インドの民族運動とインドシナのそれとは進め方の点で異なっていると考えていた。ガンディーはヨーロッパの植民地主義者と手をにぎることなく、独立を獲得しようとしていたのにたいして、インドシナの現地人指導者たちは、フランスの制度を通して目的を達成できると考えていた。それが大きな違いだというのである。
 ガンディーの独立運動は、1920年代のインドシナに影響をあたえたが、広東からはじまった中国革命の影響の方が比較にならないほど大きかった。インドシナは長く中国の支配下にあり、幾世代にもわたってここに住む中国人も多く、インドシナの知識人のほとんどは中国語を解した。
 アンナン人(ヴェトナム人)でパリ大学法学部教授のファン・ヴァン・トゥロンは、6月30日付けの「ランドシーヌ」紙に寄せた文章で、中国の現状をこう分析した。
 中国はつい最近まで征服された国民であった。アンナンと同様に、ヨーロッパの征服者の支配のもとに多くの屈辱をなめてきた。だがいまや、「自分の力を自覚し、その尊厳を取り戻しつつある」。中国は日一日と、国際舞台で重要な地位を占めつつあり、「世界が無視できない力となった。中国にたいしては、もはや昨日までのように、声高に脅しの身振りで話しかけることはできない。(中略)中国で起っている出来事を注意深くフォローしよう。それは必ずや世界に影響をあたえる結果を引き起こすであろう。われわれの運命は極東のすべてと分かちがたく結びついている。」
 スランス人植民者は、中国革命の余波がインドシナに押し寄せてくるのを恐れたから、マルローやモナンが中国情勢を積極的に伝えることに危機感を募らせた。事実、「ランドシーヌ」紙は、上海の五・三〇事件にはじまる激動をことこまかに報道した。6月17日付けの第1面には、北京発の電報が掲載されている。
 「さまざまな職業の人たちや商人からなる一万人の列が、反英デモを行った。中国人商人はイギリス商品のストックを焼き払った。(中略)次にストに突入するのは、イギリス人に雇われているボーイたちである。これは外国人の家に雇われているメイドの同情ストを誘発するであろう。中国人の大きなうねりが、外国人のあいだに強い懸念を生み出しつつある」。そして同じ号の最終ページには、香港で混乱を避けるために孤児院に避難した大勢の難民を写した写真も掲載されていた。
 この電報は香港の国民党政府が配信したもので、インドシナで発行されている各紙に届けられたが、掲載したのは「ランドシーヌ」紙だけであった。マルローたちの新聞は唯一、中国全土を巻き込むことになる政治的激動を現地からの電報の形で伝えつづけた。クララの回想によると、これらの英文電報をフランス語に翻訳したのはもっぱら彼女だったという。掲載された電報を一つ一つ読んでいくと、国民党と共産党に指導されたストライキやデモの波が、広東から香港、さらに沙面〔広州の珠江の島。英仏の租界があった〕へと拡大していく様子が手に取るようにわかる。
 彼らは日々変化する中国情勢をフォローするとともに、問題の本質をインドシナの人たちに理解してもらうことに努めた。その一つが孫文の息子孫科〔スゥン・コ〕との対談である。孫は、「国民党が共和主義政党であった共産主義の機関ではなく」、「中国の自由こそがその唯一の目的である」と語り、この目的を達成するには、「すべての人間を戦列に加えなければならない。共産主義者がそのなかに含まれているのは事実である。だがそれによって、国民党の政治綱領が曲げられることはあり得ない」と述べている。
 この対談にくわえて、モナンは国民党を擁護する文章を書いた。
 「フランスは反個々民党系の軍閥に武器を売っているが、こうした行為は内戦を激化させるだけである。国民党の勝利はすなわち民主的かつ民族的な政府の勝利なのだ」。中国革命にたいするこうした視点は、「ランドシーヌ」の基本線であって、一連の報道を共産主義の脅威とするのは誤りであると力説した。だが保守派の新聞はそうは受け取らなかった。
 そして中国の動向にも変化が起きていた。香港と広東のストは継続していたが、地方の反抗は下火になりつつあり、国民党と共産党の間でも深刻な対立が生じつつあった。この時期の中国を考える場合もっとも重要な国共の対立を、マルローとモナンはどう捉えていたのか。少なくとも新聞からは明らかにすることはできないが、やがてマルローは小説『征服者』では、この問題を中心のテーマにすえることになる。
 「ランドシーヌ」が廃刊に追い込まれた、それでもマルローが新たに活字を入手して、「鎖のつながれたランドシーヌ」を再刊したのはこうした時期であった。マルローは再刊第一号に論説を書き、副総督コニャックを嫉妬に狂う夫になぞらえ、「ここでは言論の自由とは、新聞を郵便局でかっぱらうことであり、あるいはその郵送そ拒否させることであり、治安警察をつかって印刷工を脅迫することである」と、漫画入りで揶揄した。
[PR]
by monsieurk | 2013-09-30 22:29 | フランス(文化) | Trackback | Comments(0)