フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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カテゴリ:フランス(旅行)( 10 )

 アルルは観光の拠点で、ここからはローヌ川の河口にひろがる広大な湿地帯であるカマルグや、かつて法王庁が置かれ、現在は夏の演劇祭で有名なアヴィニョン、ローマの水道橋遺跡があるニームなどへバスが出ています。中世の城塞都市レ・ボー・ド・プロヴァンス(Les Beaux de Provence)もその一つで、アルルの東18キロに位置します。アルル滞在3日目は、バスでレ・ボー見物に出かけました。
 アルル駅前を出発したバスは途中、ドーデーの水車小屋のモデルがあるフォンヴィエイユの小邑を抜け、やがて坂道に差しかかると、アルピーユ山脈の岩だらけの景観が見えてきます。プロヴァンス語のbaouとは岩だらけという意味です。バスは30分で岩山の上にある街に到着します。
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 レ・ボー一帯は中世期に栄え、城主は近隣の80近い町や村を支配下におさめていました。その後レ・ボーの山城はプロテスタントの牙城となったために、1632年にルイ十四世の摂政だったリシュリューの手で破壊され、一度は滅ぼされます。そしてその10年後には、モナコの領主グリマルディ家に譲りわたされ、レ・ボー伯爵の名は現在もモナコ大公家に受け継がれています。
d0238372_19355723.jpg レ・ボーの街は岩山の上に築かれた城とそれを囲む城壁に守られた街とからなり、狭い道の両側には、教会、礼拝堂、そして家々が軒を連ねています。中世にはこの狭い空間に4000人もの人びとが住んでいましたが、現在の人口は500人です。ただ夏の観光シーズンには、その数百倍する観光客が押し寄せます。
 城壁の入口に近いイヴ・ブレイヤー展示場では、モナコの王妃だったグレース・ケリーの写真展が開かれていました。これはレ・ボーとモナコ大公家との特別の関係を示すものです。もう一つモナコとの関係でいえば、サン・トロフィーヌ教会の内部を照らすステンドグラスは、前モナコ国王レニエ三世が寄贈したものです。
d0238372_19355486.jpg 城跡の広場では、中世時代に用いられた巨大な石投げ機の模型の実演が行われ、あるいは罪人を晒し者にするために、首と両手を挟んで身動きできないようにする刑具の模型などがあり、子どもたちが自ら罪人になって大喜びしていました。
 私が2度目にパリで勤務していた1989年、NHKはここレ・ボーやカマルグのサント・マリード・ラ・メール、そしてマルセイユを舞台にした大型ドラマを制作し、私たち現地側もフランス人の俳優のオーディションを行うなど側面から支援しました。
 松本清張原作のドラマ『詩城の旅びと』で、ストーリーは一人の女性の投書から、ある新聞社が「プロヴァンス国際駅伝」を企画し、新聞社は陸上競技の国際的な権利をおさえる競技団体の会長と交渉をはじめます。しかしこの企画の裏には、投書の主の女性の隠された意図がひそんでいました・・・。
 投書の主、多島通子を富司純子さんが演じ、そのほかに緒方拳、中川安奈、根津甚八さんなどが現地にやって来て、大々的なロケーションが行われました。レ・ボーに来たのはその時以来で、懐かしい限りでした。
 アルル滞在はこうして順調に過ぎたのですが、最後の最後でフランスらしさを味わわされました。アルルの駅から帰りの特急列車に乗り込んだところ、予約した1等の席にはすでに人が座っています。私だけでなくアルルから乗った乗客全員の席がすでに塞がっています。車掌をつかまえて詰問すると、ダブル・ブッキングではなく、始発のニースで車両の都合がつかずに、本来3両あるはずの1等車を2両しか連結しなかったというのです。
 1等車両はすぐ満席となり、マルセイユ以降は予約があっても座れない状況になりました。車掌はやむなく、乗客を空いている席に次々に座らせる措置をとったために、予約は意味のないことになり、アルルで乗り込んだ私たちは立ちん坊で、席が空くのを待つはめになったというのが事の真相です。ようやく空席を見つけることができたのは、トゥールーズまで旅程の3分の1がすぎたモンペリエでした。こうして私たちの小旅行はフランス的といえばいかにもフランス的な事態のなかで幕を閉じました。

 昨年6月末のフランス報告からはじめたブログも、1年1カ月がすぎました。これから少々仕事が立て込む予定で、しばらく休載させていただきます。秋口に内容をあらためて再開いたします。
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by monsieurk | 2012-07-29 19:39 | フランス(旅行) | Trackback | Comments(3)

アルルII 展覧会

 アルルに来た目的の一つは、この街で毎年夏に催される写真展を観ることでした。アルルには写真を専門に学ぶ国立高等専門学校があり、今年は創設30周年にあたります。そのため今回の展覧会はこれまでになく大規模で、街の主な公共施設を会場に、30カ所で過去の名作からいま活躍中の若手実力派まで、世界中から集められた作品を観ることができます。ほとんどが有料ですが、27ユーロ(3000円)の切符を買えば、すべての会場で作品を鑑賞することが出来ます。
 私にとってとくに興味を引いたのが、《カルティエ=ブレッソンの世紀》と題したドキュメンタリーでした。これは作家で、ラジオのリポーターでもあるピエール・アスリーヌが編纂したもので、「決定的瞬間」を撮ったことで有名なアンリ・カルティエ=ブレッソンの作品をモンタージュしつつ、彼の生涯と作品を紹介したものです。
 かつて私もカルティエ=ブレッソンとのインタビューをまじえて同様のドキュメンタリーを制作したことがあり、興味はつきませんでした。どちらの出来栄えが良いかは語らないことにします。
d0238372_12355739.jpg もう一つの展覧会は、アルルで一番大きな「レアュチュ美術館」で催されているピカソとファッション・デザイナー、クリスチャン・ラクロワの協演の形をとった展覧会です。展示されていたのはピカソが1971年1月から2月にかけて一気に制作したさまざまな人物の顔と、それをもとにラクロアが舞台衣装用に制作したコスチュームでした。ピカソの独特の線の威力が存分に発揮された顔、顔、顔は圧巻でした。
 その他に眼をひいたのは、ごく初期に水彩で描かれた母親の半身像で、これを観てもピカソがごく若い時からじつに達者な筆遣いをしていたかが分かります。もう一点は、1954年の《ヴァイラリスの闘牛》で、これはピカソには珍しい木版で刷られています。
 アルルの街は曲がりくねった道の両側に建物がつづき、車一台がやっと通れるほどの道幅ですから、歩いてまわるのが一番です。夕方6時をすぎると、そうした道も通行止めになるところが多く、そこにテーブルと椅子が置かれて、レスストランのテラスに早変わりします。
 写真は「アレーヌ通り(rue des Arènes)」という、アレーヌ(円形闘技場)とフォーラム広場をむすぶ坂道で、ここには「狼の口(Gueule de Loup)」と「ケリダ(Querida)」という美味しい店が並んでいて、夕食(とはいえ8時過ぎからです)を食べたのですが、坂道におかれた椅子から転げ落ちないように気をつかいました。片やこの地方の郷土料理、もう一方は、タパスなどのスペイン料理の専門店で、二晩とも坂道を吹き下ろす風をうけながらの食事は最高でした。
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by monsieurk | 2012-07-26 12:40 | フランス(旅行) | Trackback | Comments(0)

アルルI ゴッホの遺産

 南仏のアルル(Arles)と近郊のボー・ド・プロヴァンス(Les Baux de Provence)へ3泊の小旅行に行ってきました。連日、雲一つない快晴で、ゴッホが求めた光に満ち溢れていたのですが、強烈過ぎていささか眼を痛めました。この文章もサングラスをかけて書いています。
d0238372_1226343.jpg アルルは紀元前6世紀に、ローヌ川沿いにギリシャ人が建設したという歴史を誇る街です。その後ローマ帝国の属州の重要な都市となり、水運の便がよいことから大いに栄えました。街自体はさして大きくありませんが、ローマ時代の遺跡である円形闘技場、古代の野外劇場、浴場跡、街をめぐる城壁、12世紀に建てられたサン=トフィーム教会と附属する回廊など、歴史的建造物に事欠きません。
 ただ19世紀になって鉄道が開通すると、ローヌ川を利用する輸送が激減し、アルルは経済的には衰退してしまいました。そのアルルを救ったのがファン・ゴッホでした。
 ブログ「ゴッホと浮世絵Ⅱ」(2012.6.27)で紹介したように、ゴッホは1888年2月21日に、私たちが下りたのと同じ駅に降りたち、この街へやってきました。
d0238372_12262040.jpg 彼が住んだ「黄色い家」は取り壊されて現存していませんが、有名な《夜のカフェ》の対象となったカフェは、「カフェ・ファン・ゴッホ」と名前を変えて店を開いています。街の中心の「フォーラム広場(Place du Forum)」に面していて、レストランやホテルが広場を囲んでいます。広場は朝から夜遅くまで観光客で一杯ですが、地元の人たちに聞くと「カフェ・ファン・ゴッホ」の評判はもう一つで、観光案内所でも、「あそこは高いし、店員の態度も横柄だ」とあまり勧めないとのことです。
d0238372_12261223.jpg ゴッホにちなんだ場所としては、ブルターニュにいたゴーギャンを呼んで、しばらく共同生活をしたあと、耳切り事件を起こして入院した市立病院(Hôtel Dieu)があります。ここはいま、「ゴッホの空間(Espace Van Gogh)」という名前の展示場になっていますが、建物やゴッホが描いた庭はそのままで、さまざまな色の花が咲き乱れていました。
 ゴーギャンと激論を交わしたあと、ゴッホが自分の耳たぶを切り落としたのは、1888年12月23 日の夜のことで、医師の手当てをうけたあと、この市立病院にしばらく入院しました。翌年になると、彼を知る人たちが精神病院に入れるよう陳情するようになり、そのせいもあって、ゴッホはアルルを去って、近くのサン=レミ=ド=プロヴァンスの精神病院へ入ったのでした。そのゴッホの事績を訪ねていま大勢の観光客がやってきて、それで街は潤っています。
 街を歩いていると、さまざまな言葉が耳に入ってきます。そして目立つのは中国人観光客の多さです。しかも彼らのほとんどが、夫婦に子ども一人、あるいは若い女性の2人連れといった個人旅行です。
 言葉を交わしたアルルの人たちはみな親切で、嫌な思いをさせられたことは一切ありませんでした。レストランの女性、バスの運転手さん、お店の人たち、古本屋の親爺さん・・・彼らの歌うような南のアクセントと笑顔はなんとも魅力的です。
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by monsieurk | 2012-07-26 12:29 | フランス(旅行) | Trackback | Comments(0)

熱狂ぶり

 毎年の夏恒例のトゥール・ド・フランス、フランス一週の自転車レースについては、2011年7月16日のブログで紹介いたしましたが、今年はレースの模様を直接見物してきました。
 トゥール・ド・フランスは1903年にはじまり、スポーツ競技としてはオリンピックに次いで長い伝統があります。今年はベルギーのリエージュを6月30日に出発して7月22日にパリのシャンゼリゼ大通りへゴールするまで、途中休みの日を入れながら、21日間フランス各地の街と街を結ぶコースを走り続けます。全行程は3479キロ、トータルで一番早かった選手は、マイヨ・ジョーヌ(黄色いシャツ)を着る栄誉に浴します。一等賞金は45万ユーロで、そのほかにも毎回の走行で、さまざまな賞金が用意されています。
 7月15日、革命記念日翌日の日曜日は、リムー(Rimoux)をスタートして、私たちが滞在しているピレネー山中の村マサット(Massat)を通り、二つの峠をこえてフォワ(Foix)をゴールとする山間部の難コースです。今年のトゥール・ド・フランスには沖縄出身のユキヤ・アラシロ(新城幸也)選手がユーロップカー・チームの一員として走っています。彼を応援するためにも出かけたのですが、これがなかなか大変でした。
 マサットは谷底にあるため、坂道を走り下りてくる自転車は一瞬で通り過ぎてしまいます。そこでコース最大の難所である標高1375メートルの「ペゲールの壁」といわれる地点まで出かけて行きました。
d0238372_12395398.jpg この地点の通過は午後4時半ころと予想されますが、家を車で出発したのが午前9時半です。途中道の両側はキャンピング・カーで埋め尽くされています。多くがトゥール・ド・フランスの「追いかけファン」とのことです。私たちが車をとめることができたのは、目指す峠の2キロ手前。そこに駐車して、あとはピクニック用の敷物と食糧をもって歩きました。途中にはキャフェ、パエリャの店、太った豚を串刺しにして丸焼きをつくっている店など、大きなテント張りの店がいくつも出来ています。幸い、峠にさしかかる手前のカーブのところに場所を見つけることができました。ここは傾斜度13度以上という急坂で選手たちもゆっくりと登ってくるはずです。
d0238372_12394719.jpg 通過までにはまだ6時間はあり、それを予想して本を持参したのですが、周囲は人人人で埋まり、本を読むどころではありません。地元フランスはもとより、イギリス、オランダ、イタリア、南アフリカ、オーストラリア・・・の旗を持って、出身国の選手を応援する人たちはすでに大盛り上がりです。私たちも道路脇に敷物を敷いて、ピクニックを楽しむことにしました。
 選手到着の1時間ほど前から「キャラバン」と呼ぶ、さまざまな企業の宣伝カーが、帽子、Tシャツ、お菓子、キーホルダーなどなどをばら撒いて通り過ぎます。これを受け取るのも楽しみの一つです。その後ラジオ局からインタビューされ、「日本からトゥール・ド・フランスを観にやってきたのだ」とリップ・サービスをしますと、アナウンサーは満足げでした。
 やがて頭上のヘリコプターの音が聞こえてきました。空からテレビの中継をするためです。急坂を登って最初に姿を見せたのはサンディー・カザル(フランス)で、地元選手の登場に沿道は大興奮です。次いでイザギール(スペイン)、少し遅れて3位のサガン(スロヴァキア)。そのあとしばらく間があって、20人ほどの一団が懸命に坂を上って姿を現しました。そのなかにユーロップカーの緑のユニホームを着た新城幸也選手も入っています。孫娘たちが日本語で、「ガンバレー」と声をかけると、気づいた彼はにっこりウインクをしてくれたそうです。
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 待つこと6時間、最後の選手が通過したのが先頭から15分ほどあと。かくして一日の見物が終わりました。選手たちの頑張りは感動的で、追いかけファンの気持がよく分かりました。ちなみに、豚の丸焼きは3匹がすべて食べ尽くされたとのこと、またテントのカフェは翌日午前2時まで店開きをしていたとのことです。
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by monsieurk | 2012-07-18 13:01 | フランス(旅行) | Trackback | Comments(0)

突然の終幕

 フランスに持参したPCが故障し、突然情報化社会の外へほうりだされました。「便り」はこれでひとまず幕引きにしたいと思います。帰国後、タイトルを改めて再開したいと思いますが、エール・フランス航空が7月29日から8月上旬までストライキに入るとのことで、帰国がいつになるかままなりません。ただこうして情報化社会の外の住人になったいまから、本当のvacances が始まるのかもしれません。
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by monsieurk | 2011-07-24 17:04 | フランス(旅行) | Trackback | Comments(0)

マサット村

 16日土曜の夜から日曜日まで、マサットの山荘へ行ってきました。マサットはトゥールーズから車を飛ばせば1時間半の距離ですが、そこはもうピレネーの山懐に抱かれた村です。ここはクリストフ(娘の夫)の祖母の出身地で、彼らはパリに住んでいた13年前に土地付きの古民家を買い、その後トゥール-ズに移ってからは暇ができると息抜きにやってきます。写真で見るように、石積みの家は築100年をこえ、購入後にいろいろと手を入れて住み心地をよくしてきました。電気の暖房も全室に備わっていますが、一階のサロンには大きな暖炉があり、冬などは薪が燃える色がやわらかく部屋を照らします。クリスマス(Noël)には暖炉のわきに、山から切ってきたモミの木を立ててクリスマス・ツリーの飾りつけをします。
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by monsieurk | 2011-07-18 14:01 | フランス(旅行) | Trackback | Comments(1)

「金の鳩」

 旅行2日目は、近くのサン=ポール=ド=ヴァンス(Saint Paul de Vence)を訪ねました。カフェのテラスで、クロワッサンとコーヒーの朝食をとったあと、「バスなら1ユーロ。車は駐車場を探すのに一苦労する」というホテルの人のアドヴァイスに従って、9時30分発のニース行きの路線バスに乗ることにしました。バスはホテルから歩いて5分のロン・ポワン(複数の道が交わる交差点)にあるバス・ターミナルから出ています。
 ニースまでは1時間10分の道のりですが、坂道を7分ほど下ると、もうそこがSaint Paul Village(サン・ポール村)というバス停です。サン=ポール=ド=ヴァンスは、ヴァンスの旧市街と同じように中世につくられた城塞で囲まれた街です。
 ここへは過去にも来たことがあるのですが、今回の目的は「金の鳩」(La Colombe d’Or)というホテル兼レストランの位置関係をあらためて確認することでした。
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by monsieurk | 2011-07-16 01:49 | フランス(地域) | Trackback | Comments(0)

マティスの礼拝堂

 今日7月14日は革命記念日で、パリのシャンゼリゼ大通りでは、例年通りパレードが行われました。先頭を行進したのは制服に身を固めた理工科大学校(Ecole Polytechnique)の学生たちで、ナポレオンから授かった「祖国・栄光・科学」という学校のモットーが書かれた旗を捧げていました。昨日アフガニスタンで5人の兵士が自爆テロの犠牲になった直後だけに、サルコジ大統領はパレードのあと、テレビ局のインタビューで派遣軍の安全に万全を期すと語っていました。今夜はパリを初め各地で花火が打ち上げられ、皆はそれを楽しみにしています。
 フランスは今日から日曜日まで連休です。昨夜は午後8時に旅行から戻ったのですが、反対車線はプロヴァンスやコート・ダジュール、あるいは国境をこえてスペインへ出かける車で渋滞していました。私たちは日にちをずらしたおかげで大した渋滞にもあわず、片道660キロを往復することができました。
 トゥールーズを朝7時に出て高速道路A8に乗り、ニームでスペイン方面へ行く道と分かれて、地中海沿いをモンペリエ、エックス・アン・プロヴァンス(マルセイユの北です)、カンヌと通り過ぎ、ニースの手前のカーニュ・シュール・メールで高速を降り、山へ向かって30分走って目指すヴァンス(Vence)に到着したのが13時半。途中で15分の休憩を2度とりましたから、丁度6時間で着いたことになります。
d0238372_1494772.jpg ホテルは旧市街のすぐそばのグラン・ジャルダン(Grand Jardin)広場にありました。地下の駐車場に車を入れ、レセプションで受け付けをすませたあと、目の前の城門から旧市街に入って食事をしました。
 ヴァンスの旧市街は中世につくられた城塞で囲まれた街で、迷路のような細い石畳の道の両側に5階建ての家が軒をつらねています。一階はレストランや名産品を売る店などが多く、絵や彫刻を展示したギャラリーが並んだ一角もあります。
 街のいたるところに山からの湧水が噴水や水飲み場として流れ出しています。観光客は暑いさなか喉をうるおし、顔を洗って一息ついていました。私たちは旧市街の見物もそこそこに「マティスの礼拝堂」を目指しました。

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by monsieurk | 2011-07-15 02:13 | フランス(旅行) | Trackback | Comments(1)

ご婦人の団体観光

 パリからトゥールーズへ向かう機内で、私と同年配あるいは少し年上の日本のご婦人たち20人弱のグループと乗り合わせました。聞けば「南西フランスの旅」というグループ旅行に参加したとのことで、祖母の付き添いという大学生の青年がまじっていました。ヨーロッパ各地の主だったところはすでに旅した経験があり、今回はパリのあと、トゥールーズを起点にして、中世からの城塞都市「カルカッソンヌ」、画家のトゥールーズ・ロートレックの出身地として有名な「アルビ」、避暑地「カンヌ」、そしてピレネー山脈のなかにある「アンドラ公国」などを巡る旅とのことです。
 カルカッソンヌはオード川の右岸にある中世の城塞都市シテで、街をめぐる城壁の内部に石積みの家々が立ち並んでいます。一時は荒廃しましたが、作家のプロスペール・メリメの提唱で、19世紀になって建築家ヴィオレ・ル・デュクの指導の下で大々的に修復されて、昔日の輝きを取り戻しました。いまでは南仏一、ニの観光地で、夏のヴァカンス・シーズンには「光と音」というイヴェントが催されます。城壁内の広場では中世の騎士に扮した地元の人たちが合戦を再現し、中世の吟遊詩人の歌や踊りも披露されて人気を呼んでいます。私が最初に取材で訪れた1970年代は、ホテルやレストランもそれほど多くはなかったのですが、いまでは城内に五つ星のホテルや高級レストランもつくられ、件のご婦人もカルカッソンヌに宿泊して、夜のイヴェントを楽しみにしているということでした。
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                                     by Jean-Pol GRANDMONT

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by monsieurk | 2011-06-30 03:00 | フランス(旅行) | Trackback | Comments(0)

出発前に

 今回のフランス旅行の目的の一つは、写真のVenceという街に滞在して、ここにあるMatisseが建てた小さな教会堂と、ここから5キロほどにある Saint Paul de Venceという丘の上にある街を訪ねることです。Saint Paul de Venceは今度評伝を書いたJacques Prevertがよく滞在したところで、ここではイヴ・モンタンとシモーヌ・シニョレが出会い、プレヴェールの立会いで結婚式をあげました。かつて、ここでイヴ・モンタンにインタビューしたこともあります。彼がやっていたカフェも存在します。
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by monsieurk | 2011-06-24 19:30 | フランス(旅行) | Trackback | Comments(0)