フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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カテゴリ:芸術( 212 )

男と女――第九部(16)

 金子が戦後に出版される詩集『落下傘』に発表する絶唱「寂しさの歌」を書いたのは、五月五日、端午の節句の日である。

    一

どこからしみ出してくるんだ。この寂しさのやつは。
夕ぐれに咲き出したやうな、あの女の肌からか。
あのおもざしからか。うしろ影からか。

糸のやうにほそぼそしたこゝろからか。
そのこゝをいざなふ
いかにもはかなげな風物からか。
・・・・・・・・・

    二

寂しさに蔽はれたこの国土の、ふかい霧のなかから、
僕はうまれた。

山のいたゞき、峡間を消し、
湖のうへにとぶ霧が
五十年の僕のこしかたと、
ゆく末とをとざしてゐる。

あとから、あとから湧きあがり、閉す雲煙とともに、
この国では、
さびしさ丈がいつも新鮮だ。

この寂しさのなかから人生のほろ甘さをしがみとり、
それをよりどころにして僕らは詩を書いたものだ。
・・・・・・

うつくしいものは惜しむひまなくうつりゆくと、詠歎をこめて、
いまになほ、自然の寂しさを、詩に小説に書きつゞる人々。
ほんたうに君の言ふとほり、寂しさこそこの国土者の悲しい宿命で、寂しさより他になにものこさない無一物。

だが、寂しさの後は貧困。水田から、うかばれない百姓ぐらしのながい伝統から
無知とあきらめと、卑屈から寂しさはひろがるのだ。

あゝ、しかし、僕の寂しさは、
こんな国に僕がうまれあわせたことだ。
この国で育ち、友を作り、
朝は味噌汁にふきのたう、
夕食は、筍のさんせうあへの
はげた塗膳に坐ることだ。

そして、やがて老、先祖からうけたこの寂寥を、
子らにゆづり、
樒(しきみ)の葉のかげに、眠りにゆくこと。
そして僕が死んだあと、五年、十年、百年と、
永恒の末の末までも寂しさがつゞき、
地のそこ、海のまわり、列島のはてからはてにかけて、
十重に二十重に雲霧こめ、
たちまち、しぐれ、たちまち、はれ、
うつろひやすいときのまの雲の岐(わか)れに、
いつもみづみづしい山や水の傷心をおもふとき、
僕は、茫然とする。僕はなえしぼむ。
・・・・・・・

小学校では、おなじ字を教はつた。僕らは互ひに日本人だつたので、
日本人であるより幸はないと教へられた。
(それは結構なことだ、が、少々僕らは正直すぎる。)

僕らのうへには同じやうに、万世一系の天皇がいます。

あゝ、なにからなにまで、いやになるほどこまごまと、僕らは互いに似てゐることか。
膚のいろから、眼つきから、人情から、潔癖から、
僕らの命がお互ひに僕らのものでない空無からも、なんと大きな寂しさがふきあげ、天までふきなびいてゐることか。

     四

遂にこの寂しい精神のうぶすなたちが、戦争をもつてきたんだ。
君達のせゐぢやない。僕のせいでは勿論ない。みんな寂しさがなせるわざなんだ。

寂しさが銃をかつがせ、寂しさが釣出しあつて、旗のなびく方へ、
母や妻をふりすててまで出発したのだ。
かざり職人も、洗濯屋も、手代たちも、学生も、
風にそよぐ民くさとなつて。

誰も彼も、区別はない。死ねばいゝと教へられたのだ。
ちんぴらで、小心で、好人物な人人は、「天皇」の名で、目先まつくらになつて、腕白のやうによろこびさわいで出ていつた。

だが、銃後ではびくびくもので
あすの白羽の箭(や)を怖れ、
懐疑と不安をむりにおしのけ、
どうせ助からぬ、せめて今日一日を、
ふるまい酒で酔つてすごさうとする。
エゴイスムと、愛情の浅さ。
黙々として忍び、乞食のやうに、
つながつて配給をまつ女たち。
日に日にかなしげになつてゆく人人の表情から
国をかたむけた民族の運命の
これほどさしせまつた、ふかい寂しさを僕はまだ、生れてからみたことはなかつたのだ。
しかし、もうどうでもいゝ。僕にとつて、そんな寂しさなんか、今は何でもない。

僕、僕がいま、ほんたうに寂しがつてゐる寂しさは、
この零落の方向とは反対に、
ひとりふみとゞまつて、寂しさの根元をがつきとつきとめようとして、世界おいつしよに歩いてゐるたつた一人の意欲も僕のまはりに感じられない、そのことだ。そのことだけなのだ。

                    昭和二〇・五・五 端午の日

 金子はひと月に一度ほどの割合で上京した。体調のよくない義母須美が残っていたからである。雪がとけ、木炭バスが通るようになって、金子と乾は一度だけ名古屋まで旅行した。目的は次兄にあって、彼が社長をつとめる飛行機工場に、乾を名目だけの事務員に登録してもらうためだった。徴兵は免れたものの、いつ徴用されるかわからず、それを防ぐためだった。
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by monsieurk | 2017-06-20 20:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第九部(15)

 三千代たちが開墾したのは火山性溶岩の土地で、少しの面積を畑にするにも多くの労力がいった。さらに三千代は、村の養蚕の共同作業にも動員された。こうした慣れない激しい労働が、のちに三千代の身体をむしばむ原因になった。乾は徴兵逃れのために無理して罹った気管支喘息が取れなくなり、アドレナリンとヒロポンの注射が欠かせなくなった。薬は辺鄙な町の薬屋で手に入った。
  六月十四日の三千代の日記。
 「旧臘の端午の節句だ。村では菖蒲の葉とよもぎの一茎を結へて屋根の上に並べる。
 鳩の小母さん〔村の猟師の妻〕の家へ出掛けて行って約束の餅をわけてもらふ。石鹸を十幾切れもらふ。(中略)
 夜、文藝の谷口といふ人の書いた大戦当初のドイツ滞在記を読む。ヒトラーがチェッコを制圧して凱旋するところがある。ドイツが無条件降伏をしてから今日でもう何十日になるだらうか。ヒトラーは敵軍にうたれながいあひだ死体もみつからなかった。ソビエットはヒトラーの死を疑ったほどだ。そしてながい日のあとたしかにヒトラーと認められる黒焦げの死体のあったことが報知された。」
 新聞はこのときすでにタブロイド版四頁に縮小されていたが、四、五日遅れで平野村にも届いた。日本の新聞には報じられなかったが、ヒトラーがベルリンの地下壕で自殺したのは四月三十日。そして五月七日、ドイツ軍は連合国への無条件降伏の文書に調印した。これによって連合国側は日本への包囲網をさらに強めた。
 金子たちは疎開先で生きのびるための努力をしなければならなかった。梅雨までに種蒔きは終えるのが鉄則だという平野屋の女主人の言葉にしたがって、六月十六日には、玉蜀黍、馬鈴薯、十六いんげん、かぼちゃ、大豆を蒔き終えた。この日金子の妹の捨子からの来信があり、家が丸焼けになったと伝えてきた。彼らは隣近所の人たちと、身一つで小学校のプールに身体を浸しながら猛火をさけた。夜が明けると、家は丸焼けになり、本の堆積がくすぶり続けていて、それを見ると涙が出たとあった。
 これを読んだ三千代は、「いま急に心が淋しくたまらない気持になって、最後の一本の光〔煙草〕に火をつけて飲んだ。一筋の煙の消えゆくのもなごり惜しまれる気持で眺める」と日記に書いた。金子一家は汗だらけになって仕事をつづけたが、瘠せた土地では、玉蜀黍は一茎に一つしかならず、馬鈴薯は小粒の芋が四つくらいしかできなかった。それも折角の収穫近くなって豪雨につかり、芋は大部分腐ってしまった。収穫したあとにソバをまいた。百姓仕事は労多くして得るものは少なかった。
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by monsieurk | 2017-06-17 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第九部(14)

 平野村の上空にも毎日のようにB29の編隊が飛来した。富士山を目標に飛んできて、ここで東西に別れて日本各地を空襲した。三月十四日には大阪が空襲されて十三万戸が焼失した。三千代は三月二十日の日記にこう書いた。
 「三月廿日
 薄曇り。屋根の雪がとけて雨だれの音を立てゝゐる。
 朝から警報が二度鳴り、敵機が頭の上をいく。今日は相当大きいらしい。
 一昨日は九州へ千機の艦載機、昨日は名古屋へ百余機。
 いまも富士颪にまじって敵機の轟音が連続的に聞こえてゐる。

 敵機低く影動かすや雪の青

 湖べりを半日めぐる春の泥」
 三日後の二十三日の日記には、「富士の裾野ははじめ右の方が長く、それからおなじになり今年は左が長くなった。湖(河口湖)は氷がとけて青い波を立てゝゐた。(中略)フランスの女と会って話す。コットさんの為になんか扶けにあるかもしれないと思ふ。女は立入らふとしない。淋しい気持で別れた」(森三千代「日記」第五帖)とあり、さらに二十六日(月)では、「主屋のおばあさんが来て、コットさんのことなど話す。」(同)と書いている。
 コットとは乾が学んだフランス語を学んだアテネ・フランセの創設者で校長でもあるジョゼフ・コットで、毎年の夏を平野村の農家の一部屋ですごす習慣だった。大柄な彼は七十一歳で、この年も夏になる前にやってきた。
 金子たち三人はフランス語が通ずることもあり、出掛けて行ってパリで暮らしたころの話などをすると、大いに喜んでくれた。ただ一、二カ月すると、コットは体調を崩し、河口湖畔にある河口病院に入院させることにした。そのためには入院願書を出す必要があったが、村の人たちは慎重で、保証人のなり手がなかった。そこで金子が署名、捺印し、コットは無事に入院することができて、戦争が終わるまで病院にとどまった。
 四月になると、少しでも食料を確保するために、三千代が先頭にたって家の前や裏山の空き荒地の開墾をはじめた。
 四月十八日。「切り倒した落葉松の横って〔ママ〕ゐる家の前の空地を耕作にかゝる。
 一抱えほどの火山岩をのけると蟻の巣だった。蟻は露はになった土の上を逃げまどふ。(中略)蟻の引越しの大騒ぎの中へ一鍬を打ち落すといふ残酷な興味が手伝ふ。
 塗りの箪笥や蝶貝の調度や長持や衣裳や大切なものをてんでにかついで逃げてゆく蟻の都のさまが手にとうやうにみえる。
 戦慄しながら我々は繁栄のあとのこはれた廃址を眺めたがるものだ。」(同)
 雪に閉ざされていた山中湖畔の土地も、四月になると雪解けがはじまった。戦時下でも自然は四季の歩みをやめなかった。辺りの木々も芽吹きはじめた。
 「平野村の落葉松はみんな芽を吹いた。玉レースのやうな緑色の新芽がいまは房の先のやうにひらきかゝってゐる。こぶしが白く花咲いた。こぶしの花の咲くのが種まき時のしらせだとおばあさんが語った。
 昨日の畑仕事でつかれたので今日は休み、みよや〔女中さん〕と若葉積み〔ママ〕にゆく。三ツ葉をみつけて、夕食のおしたしにした。かほり高く珍味。昼間に二度警報鳴る。一機飛行雲をひいて上を翔んでいった。」(同)
 金子も冬から春へと急速に歩みを進める湖畔の自然を楽しんだ。
 「五月になると、山の自然はうつくしさを増した。氷はとけはじめ、終夜嵐がさわいだ。水ぬるむ湖水の岸辺に、一尺鮒があみですくえるほど近くただよってきた。胡桃の花が散って早(さ)わさびが葉をひらいた。僕らは、一年の計をはじめて、裏山の荒地一反歩を開墾することにした。火山の溶岩流を蔽うて、すすきと茨が根を張っているので、一尺の開墾にも一日二日の激しい労力を必要とした。一家は汗だらけになって仕事をつづけた。蒔く種は、とうもろこしと、馬鈴薯だったが、この土地では、とうもろこしは一茎に一つしかならず、馬鈴薯は小粒の芋が四つ位しかできなかった。それも、折角の収穫近くに、豪雨につかって、芋はおおかたくさった。収穫のあとに、ソバをまいた。ソバの実のついた頃、富士嵐がきて、一たまりもなく細茎を折ってしまった。百姓の仕事は、労多くして効少く、さんたんたる結果に終った。」(金子光晴『詩人』)
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by monsieurk | 2017-06-14 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第九部(13)

 戦争もいつかは終わるに違いない。だがそれはいつになるのか。金子光晴はさらにこう書いた。
 
 「希望」

戦争がすんだら、とボコはいふ。
パリーの図書館に引きこもりたい。
戦争がすんだら、と父はいふ。
どこでもいゝ国でない所へゆきたい。
戦争がすんだらとチャコはいふ。飛行機で世界戦跡をめぐるのだ。
戦争がすんだらと三人はいふ。
だが戦争で取上げられた十年は、どこへいつてもどうしてもとりかへされないのだ。

 三月十日夕方、雪のなかを、岡本潤が長女の一子を連れて訪ねてきた。思ってもみなかった再会だった。岡本は息抜きと食料探しを兼ねて来たといった。
 炬燵にあたりながら東京の様子を聞いた。二人は平野屋旅館へ戻って、ジャガイモの団子を焼いたものと豆腐の味噌汁の夕食を食べ、また金子の家に行って話し込んだ。途中で玉蜀黍の饅頭をご馳走になった。
 乾がレコードをかけ、山中に銀座の街が出現した思いだった。蓄音機は三千代が新宿時代に手に入れた携帯式のもので、疎開先にもそれを持ってきたのである。レコードは当時の流行歌、「君恋し」や「センチメンタル・ブルース」、「パリの宿」、「パリ祭」などで、三人はときどきこれを聴いて楽しんできた。なかには「星条旗よ永遠なれ」もあり、乾がこれをかけたときは、さすがに三千代は慌てた。だが金子は、「ドイツ音楽だといえばいい」と平然としていた。
 岡本親子は金子の勧めで翌十一日も滞在することにした。珍しく手に入った鶏を金子が安全カミソリで器用にさばいて、カレーライスをつくってくれた。
 岡本はこの日、金子が書き溜めた詩を読んだ。ザラ紙のノート三冊ほどに、日々の感慨とともに書かれた詩を、二十世紀の隠者らしい気持が独特の言葉で書かれていると思った。その上で、これらの詩篇が世に出る日が来るのかという感慨も抱いた。
 翌日の十二日の午前十一時に、岡本親子はジャガイモ二貫目と三千代がもたせたトウモロコシ饅頭の弁当をもって帰って行った。
 岡本が訪ねてきた前日の三月九日から十日未明にかけて、東京はB29による大空襲に見舞われていた。焼夷弾や高性能爆弾の爆撃で二十二万戸が焼失し、江東区は全滅した。この空襲での死傷者は十二万人にのぼった。
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by monsieurk | 2017-06-11 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第九部(12)

 雪に閉ざされて朝から晩まで、炬燵に入って顔をつきあわせている暮らしは、金子にとっては、これまでになく心休まるものであった。その気持が溢れているのが「三点」の一篇である。

  三点

父とチヤコとボコは
三つの点だ。
この三点を通る円で
三人は一緒にあそぶ。

三点はどんなに離れてゐても
やがてめぐりあふ。
三人はどれほどちがってゐても
それゆえにこそ、わかりあふ

危いバランスの父とチヤコを
安定させるのはボコの一点だ。
異邦のさすらひは
ボコにはなれてゐる悲しさ。

父とチヤコのこゝろは
すさみはてた。
長江の夕闇ぞらの
まよひ鶏の声をきゝながら
星州坡(シンガポール)の宿で、
枕を並べて病みながら、
トラウピルのマンサルで
水ばかりのんでしのぎながら

父はチヤコをうらふと
たくらみ、
チヤコは父から逃れんと
うらはらな心でゐた。

だが、一万里へだてた
遠いボコの一点が許さなかつた。
三点をつなぐ大きな円は
地球いつぱいにひろがつた。

ニツパ椰子の葉をわたる
夜半のしぐれのなかに
父は、ボコの声をきいた。
それはバツパハの河口の泊(とまり)。

ケイ・フラマンの鎧扉の内で
チヤコは、ボコの夢をみた。
悪夢のやうな夜の船出で、
まつしぐらにチヤコはかへりついた。

三つの点はちゞまつてゆき、
ぢれぢれと待焦れつゝ
やがてしまひこまれた。
小さな一家のなかに。

父は毎日、本をよみ、
チヤコは原稿にむかひ、
ボコは背丈がのぎていつた。
三点を通ふ円は、―― 愛

この運命的なつながりを
世俗よ。
ふみあらすな。

戦争よ。
破砕(くだ)くな。
年月よ。
もつてゆくな。

父とチヤコとボコは
三つの点だ。
この三点を通る
三人は一緒にあそぶ。

チャコよ。私たちはもう
もう一つの点、ボコを見失ふまい。
星は軌道を失ひ、
我々はばらばらになるから。
三本の蝋燭の
一つも消やすまい。
からだをもつて互いに
風をまもらふ。

 貧困のどん底で、三千代を金をとって、知人に渡すことまで考えた放浪生活、その間は乾を三千代の両親にあずけて淋しい思いをさせた暮らしの軌跡。そして戦時勃発後は、家族三人の絆を強めて、戦争の狂奔する世間背をむけつつ、戦争に対峙しようとする金子の姿勢が率直に吐露された詩である。
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by monsieurk | 2017-06-08 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第九部(11)

 次は「チャコ」こと森三千代の「臨終の章」――

  (生きてゐて死に直面するやうなことがないと、どうして云えへませう。そんな時を
  おもつて私は、この詩をつくりました。)
  
一枚のマントを羽織つて、雪の上をさまよふ。
まだ降りしきる
牡丹雪。
マントの下で私の乳は凍るおもひ。
こんな晩、私は、ヰ゛ヨンをまねて
私の愛したものたちにのこしてゆく
遺言を書かう。
私の貧しい形見わけを。
Hさんへ。黙つてゐるダイナマイトのやうな追想を
未来に仮想するこひびとへ。私の半分燃えた蝋燭を。
私のお母さんへ。まだ若い、私の髪の毛一握りを
私の妹ハコちやんへ。私の蛇の皮の靴と、銀の耳かざりとを。
私の最愛の坊やへ。
・・・多分、私のもつてゐるものは、なに一つ、おまへに用はないだらふ。
おまへは、おまへの時代の先頭に立つ一人の旗手であることを。

 このときでも、土方定一との激しかった恋の思い出は、三千代の胸の奥でくすぶり続けていた。そして「ボコ」こと息子、乾の詩――

 三人の仲間こんなに一致した他の何ものもない。今ではもう、誰が先に生まれたのか恐らくは分裂したアミーバのやうに一緒にこの世に生れ出た吾等親子三人が細かい神経でそれぞれ他の二人をきづかひ離れまいと一生懸命でこの寒い夜を抱きあふけんけんがくがくの争ひ、この世かぎりの乱闘だが、次の瞬間には眼を見合せての微笑。“もう喧嘩はしまいね。”だが、したつていゝのだ。小鳥が互いに背をすりあつて羽虫をとりあうやうに三人の仲間にとつてそれは憂ひ、やるせない今を忘れるこのたまらない外界の大きな圧迫の唯一のはけぐちをみいだしあふすべだもの。

 乾は父と母のことを次のように思いっていた。

  ○
            ボコ作
  
かいちいやうなこはいやうな
気短かなやうな気永なやうな
丈夫なやうな弱いやうな
ぜいたくなやうなけちなやうな
なまけもののやうな勉強家のやうな
おしやべりなやうなむつつしやのやうな
かしこいやうな、ぬけたやうな
神経質のやうな、のんき坊主のやうな
活溌のやうな無精もののやうな
       それはチヤコ
   そして、それは、
       父にもあてはまる。
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by monsieurk | 2017-06-05 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第九部(10)

 診断書は今度も役所で受理された。この日の夜は河野の家で厄介になり、翌日平野村へ帰ることにした。雪のなかを歩いてきた二人の靴は、靴底がはがれて履くことができなかった。金子は捨子にフエルト製の草履を借り、それを履いて支線の駅から雪のなかをまた歩いた。
 だが十分も歩かないうちに、ひと足ごとに雪に埋まる草履は鼻緒が切れた。しかたなくリュックの紐と股引の紐で足にくくりつけた。尻から下のズボンはずぶぬれで、脚の感覚がなくなっていた。二人はたまたまリュックに入れたあったハップの壜をとりだして、それを下半身と足に塗った。
 ハップはモンココ本舗が、金子の友人の医師林躁(のちの推理作家木々高太郎)に頼んでつくった塗布薬で、保温効果があり、華北や満蒙の兵隊の凍傷避けに用いられていた。家を出る際に三千代が思いついてリュックに入れたものだった。それを塗りつけて雪のなかを歩き、ほうほうの態で平野村に帰り着いた。ハップの効があったのか、凍傷にもならなかった。

 詩集「三人」

 二〇〇七年一月二十日に放送されたNHK・ETV特集「父とチャコとボコ~金子光晴・家族の戦中詩」は、金子の未刊詩集を扱ったものであった。この詩集は、金子の研究家原満三寿が古書市で発見したもので、外箱の背と表に「詩集三人」と書かれ、B6大の厚さ二センチほどのノートに、金子作の二十四篇の他に、三千代と息子乾の作も含めた三十八篇の詩が、黒インクを用いた金子の自筆で丁寧に清書されていた。見つかった手作りの詩集は、疎開先の平野屋の貸家でつくられたものであった。 金子はこれに清書した二十四篇のうち八篇を、戦後になって改作して発表したが、残りの十六篇は全集にも未収録で、これが『詩集「三人」』として、講談社から刊行されたのは二〇〇八年のことである。詩篇には、親子三人が肩を寄せて過ごした疎開当時の様子を取りあげたものが多い。
 そのなかに一篇、金子の詩「雪」――

鼠色の雪が
匍ふ。
空間を攀ぢのぼつて。
雪はそらを埋める。

きえてゆくやうな雪。
こまかい雪が、
そのふかさに
落込んだやうな静さで、
東西南北をとざす。

雪よ。
ふりこめよ。もつと。
父とチヤコとボコの三人は、
雪でつぶされさうな小屋の
薪火をかこんでぢつとしてゐる。
隣家からもへだてる
この大きな安堵のために
雪よ。もつともつとつもれ。

雪よ。虱のやうに
世界にはびこれ。
そして音信不通にせよ。

父は、戦争の報導と、
国粋党達から
母は、虫のよい
無思慮な文人達から
そして、ボコは、あの陰惨な
非人間な国の義務から。

 同じ思いは「青の唄」でもうたわれている。

レンズの青さが
湖をふちどる。

青ぞらのなかの
青い富士。
希臘の神々のならぶ
富士。

その清澄のなかに
僕ら三人はくらす。

つみあげた本の高さが
ボコをみおろす。

こゝろの奈落をのぞいては
父は、むなしい詩をつくる。

チャコはひとりで、
ペネロペの糸をつむぐ。
・・・・・

僕ら三人は肉体を
明るい精神に着換へる。
光で織つた糸の
玉虫いろの衣。

僕ら三人は、この世紀の
惨酷な喜劇を傍観する。

僕らはもう新聞もいらない。
それは、遠くを霞ませる
青一いろ。――おゝ、国よ。
この三人を放してくれ。

国籍から。
法律の保護から
国土から。
僕ら三人を逐つてくれ。
あの青のなかに
永遠にとけてゆくため。

もしくは三輪の小さな
をだ巻の花となるため。
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by monsieurk | 2017-06-02 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第九部(9)

 詩のなかのチャコは三千代の呼び名で、お茶の水の女高師の学生だったことに由来する。乾のボコは、幼いとき自分をボクと言えずにボコといったからだった。二十歳になった息子を子ども扱いしているが、一人息子を溺愛する金子と三千代の偽らざる心境だった。
 三人は話し合いの結果、徴兵を逃れるのに前年と同じ手を使うことにした。金子は雪の戸外から杉の小枝を、両手に一抱えも折ってきた。乾はまた裸にされ、杉葉を燻した煙をたっぷり吸わされた。三千代は村外れに中山茂という医師がいるのを聞いて、土産をもって訪ねて顔見知りになっていた。
 乾の喘音が少し聞こえるようになると布団に寝かし、金子が医者を迎えに行った。半ば強引に連れてこられた白髪の瘠せた老医者は、とまどいつつも診断書を書いてくれた。
 翌日、金子と乾は十キロの雪道を支線の駅まで歩き、満員列車で上京すると、牛込区役所に行った。乾は父親が届を出す間、区役所とは肴町通りの反対側にある古本屋の竹中書店で、立ち読みしながら待っていた。彼にとってこれが古本屋の見納めだった。一週間後には、この辺り一面焼夷弾の爆撃で焼野原になってしまったからである。
 
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by monsieurk | 2017-05-30 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第九部(8)

 部屋には東京から運んできた本が積まれてあり、乾は近代社の『世界戯曲全集』第十二巻に入っているシラーの『群盗』を夢中で読んだ。そんなとき訊ねられると、彼の学力では答えることが難しいこともあり、三千代の質問をうるさがった。すると滅多に怒らない金子が、「乾、黙らんか!きょうはあんたがいかんよ」と大きな声でどなった。乾が言い返すと、父親は炬燵の上のテーブルを拳で二、三度叩いた。その拍子に、鉛筆を削るために開かれていた肥後の守のナイフで小指を切ってしまった。三千代がすぐに手当をして大事に至らなかったが、傷痕はあとまで残った。
 
 二度目の赤紙

 雪は根雪になってバスも止まり、人の訪れも絶えた。そんななかを、三月十日の夕方、前触れもなく岡本潤が長女一子を連れて訪ねてきた。食糧探しを兼ねて来たといい、金子を喜ばせた。
 掘り炬燵にあたりながら空襲つづきの東京の様子を聞いた。夕食は平野旅館でジャガイモの団子と豆腐の味噌汁を食べた。食後はまた金子の家に来て、手製の玉蜀黍の饅頭を馳走になりながら、乾がかけるレコードを聞いた。蓄音機は三千代が新宿時代に買った手巻きの古い携帯用で、それを持ってきていたのである。
 レコードは「君恋し」や「センチメンタル・ブルース」、「パリ祭」などだった。この山中に銀座の街が出現したような感じだった。岡本親子は夜十一時ごろ旅館の方へ戻り、風呂に入って寝た。
 翌十一日も金子の勧めで平野村に滞在した。珍しく手に入った鶏を、金子が安全カミソリの刃でさばいて、カレーライスをつくってくれた。炬燵に入りながら話しをし、金子が平野村へ来て書いたという詩を読んだ。二十世紀の隠者らしい気持が、独特の言葉で書かれていたが、岡本はこれらの詩が読まれるときがはたして来るのかどうかと危ぶんだ。
 岡本たちが帰って間もなく、怖れていた乾に宛てた二度目の赤紙が届いた。金子はこのときの思いを、「富士」という詩にしてノートに書くつけた。

 富士

重箱のやうに
狭つくるしい日本よ。

すみからすみまで
いぬの目の光つてゐるくによ。

あの無礼な招致を
拒絶するすべがない。

人別よ。焼けてしまへ。
誰も、ボコをおぼえてゐるな。

手のひらへもみこんでしまひたい。
帽子のうらへ消してしまひたい。

父やチヤコとが一晩ぢう
裾野の宿で、そのことを話した。

裾野の枯林をぬらして、
小枝をビシビシ折るやうな音で
夜どほし雨がふりつゞける。

づぶぬれになつたボコがどこかで
重たい銃を曳きづり、あへぎつつ
およそ情けない心で歩いてゐる

どこにゐるかわからぬボコを
父とチヤコがあてどなくさがしにでる。
そんな夢ばかりのいやな一夜が
ながい夜がやつとあけはなたれる

雨はやんでゐる。
ボコのゐないうつろな空に
なんだ。おもしろくもない
あらひ晒しの浴衣のやうな
富士。
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by monsieurk | 2017-05-27 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第九部(7)

 平野村に移ってから書きはじめられた三千代の日記第五帖は、この年の大晦日から始まっている。
 「大晦日の夜だ。昼間の風も落ちて、外の静まりかへった冬景色が、雨戸を閉め切った部屋の中にゐても手にとるやうにはっきりと感じとられる。月光にきらきらした青白い雪の敷物の上に樹々が薄墨色の長い影をおとしてゐる。樹の間を透かした一ところに、凍りかけた湖の水が白金のやうな光沢で月光を弾き返してゐる。ほの明るい夜靄が湖面を対岸へかけて、それよりはるか裾野の傾斜の方へかけて夢のやうに気も遠くなりさうに立ちこめてゐる。(中略)
 ・・・この土地で最初の雪が降った。家をとりまいた落葉松の枯れた梢にはほこりのやうなこまかい雪の粒が走り過ぎた。そして、一株の芒の枯れ切った茎や葉におちかかってかすかな音を立てた。一日であたりの山や林や田畑の風景が変ってしまった。いよいよほんとうの意味の籠居だという気持を痛切に味った。」(「森三千代・日記」、雑誌「こがね蟲」第一巻」)
 平野村の寒さは想像以上だった。安普請の家はあくまで夏用なので板戸はなく、障子一枚で外気と接していた。そのため家のなかの寒さは尋常ではなく、手拭に掛けにかけた手拭は昆布のようにこ凍り、インク壺のインクも凍りつき、万年筆は息を吹きかけたくらいでは出てこない。書く前には万年筆を炬燵のなかに入れ、さらに軸をじっと握りしめて温めなくてはならなかった。
 雪に閉じこめられた平野村の住人たちは、冬眠さながらに家に閉じこもっていた。金子一家の四人も、六畳間に一つしかない炬燵に入って一日暮らした。それでも炬燵に入れる炭を、床下の保存場所から出さなければならず、玉蜀黍を粉にひいて団子に丸め、炬燵の灰に入れて蒸し焼きにする仕事もあった。団子は味噌汁に入れておじやにしても食べた。この玉蜀黍の団子が、平野村では数百年前からの常食だった。
 こうした玉蜀黍や炭にしても、平野荘の女主人から買わなくては手に入らなかった。三千代は執筆でためた貯金を現金にして持ってきたほか、モンココ本舗からも為替で月給を送ってきた。そのほかに着物や新品同様のシャツや股引なども運んできた。それらを代金に添えて食物や炭と交換しなくてはならなかった。
 平野屋は女主人のほかに、精神薄弱の三十代の長男とその妻、孫たち、嫁入り前の二人の娘、十代の次男の家族だった。女主人は率先して働き、大家族を養っていた。そのため玉蜀黍の粒一つかみ、馬鈴薯一つにしても、彼女の承諾がなければ手に入れるのは不可能だった。炭は平均一俵が四日ほどしかもたなかった。
 女主人は三日にあげず訪ねてきては、二時間も三時間も話し込んでいった。そんなとき三千代は辛抱強く相手になった。万一へそを曲げられたら、平野村での暮らしがたちまち行きづまってしまうのは明らかだった。食物はこの他に、村の猟師から獲物の山鳩を買ったり、山中湖で釣れる鮒などもときどき手に入った。
 金子は炬燵の上の台を机代わりにして、そこに薄いノートをひろげて詩や思いついたことを書いた。三千代は日記帳に日々の出来事や作品の草稿を書き、この機会に少しでもフランス語の勉強をしようと、ポール・モーランの紀行記『ニュー・ヨーク』と、アルフォンス・ドーデの小説『タルタラン・ド・タラスコン』の原書を、辞書を引き引き翻訳をはじめた。そして三千代のフランス語の実力では構文が分からない個所があると、乾に質問した。
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by monsieurk | 2017-05-24 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)