フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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カテゴリ:芸術( 213 )

男と女――第九部(7)

 平野村に移ってから書きはじめられた三千代の日記第五帖は、この年の大晦日から始まっている。
 「大晦日の夜だ。昼間の風も落ちて、外の静まりかへった冬景色が、雨戸を閉め切った部屋の中にゐても手にとるやうにはっきりと感じとられる。月光にきらきらした青白い雪の敷物の上に樹々が薄墨色の長い影をおとしてゐる。樹の間を透かした一ところに、凍りかけた湖の水が白金のやうな光沢で月光を弾き返してゐる。ほの明るい夜靄が湖面を対岸へかけて、それよりはるか裾野の傾斜の方へかけて夢のやうに気も遠くなりさうに立ちこめてゐる。(中略)
 ・・・この土地で最初の雪が降った。家をとりまいた落葉松の枯れた梢にはほこりのやうなこまかい雪の粒が走り過ぎた。そして、一株の芒の枯れ切った茎や葉におちかかってかすかな音を立てた。一日であたりの山や林や田畑の風景が変ってしまった。いよいよほんとうの意味の籠居だという気持を痛切に味った。」(「森三千代・日記」、雑誌「こがね蟲」第一巻」)
 平野村の寒さは想像以上だった。安普請の家はあくまで夏用なので板戸はなく、障子一枚で外気と接していた。そのため家のなかの寒さは尋常ではなく、手拭に掛けにかけた手拭は昆布のようにこ凍り、インク壺のインクも凍りつき、万年筆は息を吹きかけたくらいでは出てこない。書く前には万年筆を炬燵のなかに入れ、さらに軸をじっと握りしめて温めなくてはならなかった。
 雪に閉じこめられた平野村の住人たちは、冬眠さながらに家に閉じこもっていた。金子一家の四人も、六畳間に一つしかない炬燵に入って一日暮らした。それでも炬燵に入れる炭を、床下の保存場所から出さなければならず、玉蜀黍を粉にひいて団子に丸め、炬燵の灰に入れて蒸し焼きにする仕事もあった。団子は味噌汁に入れておじやにしても食べた。この玉蜀黍の団子が、平野村では数百年前からの常食だった。
 こうした玉蜀黍や炭にしても、平野荘の女主人から買わなくては手に入らなかった。三千代は執筆でためた貯金を現金にして持ってきたほか、モンココ本舗からも為替で月給を送ってきた。そのほかに着物や新品同様のシャツや股引なども運んできた。それらを代金に添えて食物や炭と交換しなくてはならなかった。
 平野屋は女主人のほかに、精神薄弱の三十代の長男とその妻、孫たち、嫁入り前の二人の娘、十代の次男の家族だった。女主人は率先して働き、大家族を養っていた。そのため玉蜀黍の粒一つかみ、馬鈴薯一つにしても、彼女の承諾がなければ手に入れるのは不可能だった。炭は平均一俵が四日ほどしかもたなかった。
 女主人は三日にあげず訪ねてきては、二時間も三時間も話し込んでいった。そんなとき三千代は辛抱強く相手になった。万一へそを曲げられたら、平野村での暮らしがたちまち行きづまってしまうのは明らかだった。食物はこの他に、村の猟師から獲物の山鳩を買ったり、山中湖で釣れる鮒などもときどき手に入った。
 金子は炬燵の上の台を机代わりにして、そこに薄いノートをひろげて詩や思いついたことを書いた。三千代は日記帳に日々の出来事や作品の草稿を書き、この機会に少しでもフランス語の勉強をしようと、ポール・モーランの紀行記『ニュー・ヨーク』と、アルフォンス・ドーデの小説『タルタラン・ド・タラスコン』の原書を、辞書を引き引き翻訳をはじめた。そして三千代のフランス語の実力では構文が分からない個所があると、乾に質問した。
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by monsieurk | 2017-05-24 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第九部(6)

 平野村

 乾の入営を逃れたいまは、一日も早く疎開することに相談がまとまった。食料品と衣料のほかに沢山の本を、モンココ本舗が調達してくれたトラックで送り出した。富永に離縁され、家に引き取った義母は体調が悪く、辺鄙な田舎に連れて行くことはできなかった。それで義母の姪にあたる者に看護してもらうのを条件に、裏の空家を借りて一緒に住んでもらうことにした。疎開話を持ち出した捨子は、夫の河野が国会を離れられず、疎開先へ送る荷物も多すぎて、すぐには疎開できなかった。
 金子一家の出発は十二月の初めだった。七日には東海地方を大地震と津波が襲い、死者凡そ千人、倒壊した家屋は二万六千戸にのぼり、人びとの気持を一層暗くした。
 金子と三千代、乾、それに北海道生まれのお手伝い、山崎美代の四人は、めいめいリュックサックを背負い、持てるだけの荷物を手に持って吉祥寺から中央線に乗った。途中、立川駅でしばらく停車すると、駅は人であふれ、皆殺気立った顔をしていた。その後大月まで行き、そこで支線に乗り換えて富士吉田駅に着いた。すると目の前に雪を被った富士山があらわれ、凍てつく空には粉雪が舞っていた。この日四人は富士吉田に一泊、翌日の午前中に木炭バスにゆられ、その先は一里半くらいの道を歩いて旭ケ丘まで行き、さらに半里ほど雪中を歩いてようやく平野村に着いた。半日がかりの旅だった。
 旅のあいだに、こんなことがあった。お手伝いさんの美代は、雛から育てた二羽の若鳥を連れて行くといって、満員列車のなかでも両脇にかかえていた。だが平野屋についてときには、鶏は押しつぶされて死んでいた。皆の食指は動いたが、美代は埋葬するといって聞かず、金子が根雪で固まった土に穴を掘って埋めた。
 戦前の山中湖一帯は、滅多に人も訪れない寒村だった。旅館に到着すると、「早速、H荘〔平野屋〕の女主人である老婆の案内で、それから丸二年間、彼らの住居となるバンガローに出掛けた。本館から徒歩で三分くらいの、落葉松とくぬぎの林の中に建てられた木造の安普請で、屋根はスレートでふいてあった。もともと避暑客用にH荘が作った建物で、六畳と四畳半の畳の敷いてある和風建築だった。そして小さいほうの部屋は申し訳程度の台所と、大便用の小室しかない便所、小さな風呂桶のおいてある浴室につながっていた。
 六畳間には、切りごたつがこしらえてあり、暖をとるのは、このこたつに当る以外なかった。家は粗末かつ簡略な造りだったが、木の葉を失った林ごしに、窓から、湖水がいつでも見えるし、本館をはじめ他の外界からも一応隔絶しているらしいのが、晴久(光晴)たちの期待にぴったりだった。
 H荘の老婆は物珍しさも手伝った、晴久一家を大歓迎した。」(森乾「金鳳鳥」)
 借りた家の間取りは、乾が書いているのとは違っていて、掘り炬燵が切ってある部屋は八畳で、そこが居間兼食堂。隣の六畳が三人の寝室。それに女中部屋の三部屋だった。
 迎えてくれた平野屋の女主人は、六十歳をこえているように見えたが、色艶もよく矍鑠としていた。彼女と家を借りるための契約をすませたが、その際三千代は、乾がいつ突然の発作に見舞われるかもしれない状態だという説明を怠らなかった。息子は学校へも行けず、徴兵にも応じられない不治の持病もちで、国の危急存亡の非常時に祖国に貢献できないことを心苦しく思っていると強調した。それほど慎重に構えないと、辺鄙な田舎でも油断はならないと三千代は思っていた。一家の動静や挙措がどこかで監視されていて、いきなり憲兵が踏み込んでくる可能性がまったくないとはいえなかった。
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by monsieurk | 2017-05-21 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第九部(5)

 病人をつくる

 家族で疎開する決心をしたとき、怖れていた徴兵令状が乾に届いた。一九四四年(昭和十九年)十二月二日の午後九時に、東京駅中央ホームに集合とあった。集合完了後は直ちに博多行の汽車に乗る予定であるところまでは分かったが、その先はどこへ連れていかれるかは不明だった。
 これ以降の経緯については、金子の『鳥は巣へ』、息子の乾の「金鳳鳥」(『父・金子光晴伝』)、それに三千代の「日記」第五帖(「こがね蟲」第一巻に公表)に詳しく書かれている。これらを参照しながら、親子三人の行動をたどってみる。
 三人は悲嘆にくれながらも、出征する乾のために国民服や戦闘帽はもちろん、雑嚢、日の丸の襷、千人針を用意した。出発までは一週間あるので、金子が交通公社勤務の知人に頼んで、二人分の博多行寝台券を手に入れた。息子をそこまで送っていくつもりだった。
 親子三人が泣く泣く日を送るうち、前日になった。そのとき金子がふと思いついた。乾を病人にしてしまえば、出征しなくとも済むのではないか。もともと喘息持ちの乾を本当の喘息にしてしまえばいい。このアイディアに三千代も飛びついた。
 彼らはさっそく実行することにした。金子は応接間の窓を全部閉めると、庭に降りて松の枝を四、五本折り、火鉢の灰の上につみあげた。松葉に火をつけ、狐つきをいぶり出す要領で部屋中を煙だらけにして、喘息をおこさせる算段だった。
 乾はもうもうと煙が立ち込める応接室に一時間以上頑張ったが、効果はさっぱりなかった。
 それならば風邪をこじらせて、肺炎にする以外にない。乾はパンツ一つになって我慢したが、緊張で身体は震えるものの、風邪の徴候はいっこうに現れなかった。次は風呂桶に水を張り、三十分以上そこに浸かったあと、本をいっぱい詰めたリュックサックを背負い、裸で駆け足をし、そのあとまた水風呂に入ってから、もう一度応接間の松葉いぶしを行った。一晩中こんなことを繰り返し、明け方近くに、やっと喉に少し喘音が聞こえるようになった。
 乾を寝床に寝かせると、明るくなるのを待って、三千代がバスで一駅離れた開業医を呼びに行った。医者が来ると、患者を看てもらう前に、二人が喘息持ちの息子の病状を大げさに訴え、なかば強制的に診断書を書いてもらった。
 あとで分かったことだが、医者はクリスチャンで平和主義者だったから、疑念を持ちつつ両親の心情にほだされて、診断書を書いてくれたのかも知れなかった。
 翌日の夜、金子は診断書をもって集合場所の東京駅へ向った。灯火管制下のホームは暗く、そこに召集された若者とその家族がつめかけていた。ようやく責任者を探し当てて、診断書を渡し事情を説明した。
 「もう列車の発車間際で、その男もいそいでいた。話をしながら診断書をとり出し、
「もし治りましたら、後から追わせますから。本人はほんとうに残念がって・・・」
 と晴久〔光晴〕は言った。声は緊張のせいか、悲痛に響いた。晴久はさらにつづけた。
「きょうの入営を息子はどんなにか楽しみにしていましたのに」
 彼が稀代のうそつきの名人だと知るよしもない引率者は感激した。
「しかし今回はどっちみち間に合いませんよ。博多へつくとすぐ北支行きの輸送船に乗るのです。現地訓練の部隊ですから。御子息には来年あらためて召集令状がいくことになります」
 男から別れると、晴久は小躍りしながら帰宅した。
「万歳だよ。全てうまくいった」
 彼はいきさつを全て話し、ちょっと考えこむように首をかしげながら付け加えた。
「ただまっくらなホームで、父や母が子供のそばで名残りを惜しんでいるのは可哀そうだったなあ。みんな裕〔乾〕と同い年の子供だからなあ」」(「金鳳鳥『父・金子光晴伝』)
 三千代も大勢の母親が自分と同じ苦悩を背負っていることを思うと後ろめたさを感じたが、計画の成功の喜びがそれに勝った。
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by monsieurk | 2017-05-18 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第九部(4)

 金子がモココ本舗へ月給を受け取りに行くと、妹の捨子は留守で、亭主の河野密がいた。河野はその後衆議院議員となり、国会が開会中のこの日は在宅していたのだった。河野は、「サイパン陥落はひどいショックで、東条首相の顔色は蒼白だった。日本はもうだめだ」と深刻な口調で打ち明けた。近衛内閣の大政翼賛会ができると、彼は軍部に受けのいい翼賛推進議員の一人として、「新体制」に意義を見出そうとした。しかしアメリカ軍の大平洋作戦が進むにつれて、戦争には批判的になっていた。
 七月十八日、ついに東条内閣が総辞職した。戦局は不利になる一方だった。七月二十一日、アメリカ軍はグアム島に上陸、守備隊一万八千人玉砕。二十四日、テニアンに上陸。守備隊八千人が玉砕した。
 八月になって、牛込に住んでいた山之口貘が、妻と乳飲み子の泉をつれて金子の家に引っ越してきた。山之口夫妻は二年前の七月、生後一カ月の長男の重也を亡くしていた。牛込よりも郊外の吉祥寺の方が安全だと考えてのことだった。
 だが十一月二十四日、最初の東京空襲で目標となったのは、東京の中島製作所と名古屋の三菱重工だった。中島製作所は航空機をつくっていて、吉祥寺からは五駅ほどの立川にあった。この空襲では金子の家は地震のように揺れ、轟音が鳴り響いた。皆は防空壕に飛び込んだが、山之口の妻は幼い泉を抱いて、壕に入らなかった。そのうちに爆撃もおさまったが、あと聞くと、彼女は恐怖で動くことができなかったのだと言った。東京空襲が吉祥寺の近くから始まるとは思ってもみないことだった。
 山之口一家は、やがて妻静江の実家がある茨城県結城郡石毛へ疎開していった。はたして生きて再会できるかどうか、心もとない思いだった。
 それから間もなくして、妹の捨子が疎開話をもってきた。富士山麓の山中湖畔に平野村という村があり、そこの平野屋旅館が所有している別荘二棟が借りられるという。自分たちはそのうちの一つを借りるが、金子たちも別棟に疎開してはどうかというのである。
 河野の同僚の社会党の代議士、佐藤がこの地方を地盤にしており、その手蔓だった。知り合いもなく、東京に居残るつもりだった金子一家にとっては渡りに船の話だった。
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by monsieurk | 2017-05-15 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第九部(3)

 四月十八日には最初の米軍機が、東京、名古屋、神戸に飛来した。その二日後の二十日、乾が徴兵検査を受けることになった。戦局の悪化で、徴兵年齢が一年繰り下げられたためであった。この日金子は、吉祥寺から本籍のある牛込区役所の検査場まで乾について行った。
 不摂生な生活に精神的な煩悶が加わって、乾の健康は極度に悪かったが、結果は第二乙種合格だった。その下の丙種も合格で、不合格は丁種だけだったが、これは身体に障害があるものか、重度の結核患者くらいだった。これで乾に遠からず召集の赤紙が届くことが確実になった。
 金子は五月五日の節句の日に、詩「さくら」を書いた。

    *
戦争がはじまってから男たちは、放蕩ものが生まれかはつたやうに戻つてきた。
敷島のやまとごころへ。

あの弱弱しい女たちは、軍神の母、銃後の妻。

日本はさくらのまつ盛り。

    *
さくらよ。
だまされるな。

あすのたくはえなしといふ
さくらよ。忘れても、
世の俗説にのせられて
烈女節婦となるなかれ。
ちり際よしとおだてられて、
女のほこり、女のよろこびを、
かなぐりすてることなかれ、
バケツやはし子〔梯子〕をもつなかれ。
きたないもんぺをはくなかれ。(「さくら」の第二連冒頭と最終連)

 詩にうたわれているように、女たちはもんぺ姿、男は国民服にゲートル、それに座布団をほぐしてつくった防空頭巾をかぶって防空演習に参加した。働き盛りの男はみな徴兵されていたから、近隣の防空演習の団長は退役した海軍大佐で、副団長には金子が推挙された。
 多くの家が雨戸を閉めて疎開していったが、東京に残って人たちは庭に防空壕を掘った。金子もご多分に漏れず、門口のコンクリートを張った下に、大きな穴を掘って防空壕にしようとしたが、いざというときに役にたつかどうか覚束なかった。
 六月十五日、マミアナ群島のサイパンが陥落して守備隊三万人が玉砕し、住民一万人が死んだ。翌十六日には中国の成都から飛び立ったB29が飛来して、北九州の八幡製鉄所を爆撃した。中国大陸からでは航続距離が北九州が限界だった。アメリカ軍はその後占領した南洋諸島で滑走路の建設をいそぎ、ここを足場に日本全土を空爆するようになる。
 六月十九日にはマミアナ沖海戦で海軍は航空母艦と航空機の大半を失った。大本営はインパール作戦の失敗を認め、作戦の中止を命令した。この作戦に参加した将兵十万人のうち三万人が戦死、戦傷病者は四万五千人にのぼったが、国民には知らされなかった。
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by monsieurk | 2017-05-12 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第九部(2)

 この出来事は、近い将来の空襲が必至という思いを抱かせた。さっそくデパートなどで、空襲の被害を知らせる展示が行われ、地方に縁者がいる人たちは、家を閉めたり他人に貸したりして疎開する者が急に増えた。
 「僕たち一家も、どこかへ疎開して、当面の危険から身を外そうか、どういうことになるか、このなりゆきを逐一見聞するために、このままうごかずに吉祥寺の家に頑張っていようかということで、毎日相談したものであったが、結局、居すわることに一応こころを決めた。一家三人の他に女中さんが一人、食糧難と、その他日用物資の欠乏がじりじりと、身に食込んでくるなかで、貧乏人のことだから闇物資を買うといっても多寡がしれたものであったが、こちらから求めないのに二、三、そんなルートができて、ときたま「ブウチャンキタ」などと、電報がきて、銀座まででかけて、豚肉五百匁ぐらいを手に入れ、親しい連中を招んで小さな饗宴をひらいた。「こんなインチキな戦争のために死んじゃ駄目だぞ」と、恫喝できたあの頃の僕らはまだ若かった。」(「疎開のあと先」、『鳥は巣に』)
 
 乾

 息子の乾は暁星中学四年終了で中退し、家でぶらぶらしていた。乾は血液型も金子と同じで、喘息が起きやすいアレルギー体質も遺伝しており運動はまったく不得意だった。
 フランス語教育が伝統の暁星でも、語学の時間は軍事教練に割かれ、ゲートルをうまく捲けない彼は配属将校の標的になった。訓練をサボるために、乾が「見学証明書」を書いてくれるように頼むと、金子は同じものを何枚も書いて印を押した。そして、「これ、硯箱の下に置いておくから、必要な時にぼくに言うんだよ。月日を書き入れてやるから。ぼくの字でないとまずいだろうからと言った。」(森乾「金凰鳥」、『父・金子光晴伝』)
 ある日、乾が校庭で行進の演習をやっていると配属将校が近づいてきて、いきなり拍車の金具のついた長靴で脛をけとばした。銃の担ぎ方が教えられた通りでないとか、歩き方がだらしないという理由だった。
 同級生の前での仕打ちに、乾は恐怖や憤怒、さらには屈辱を感じて身体がひとりでにふるえた。彼は二度と教練に出ない決心をして登校をやめた。身体が悪いと嘘を言って自室にこもり、それから半年ほどは万年床にもぐって本ばかり読んでいた。
 そんな一人息子を三千代は叱責した。彼女はそもそもこの戦争の善悪について、態度を決めかねていた。日本が仏印進駐をはじめると、アメリカ、イギリスはA・B・Cラインと呼ばれる石油禁輸の包囲網を敷いて、日本の自滅をはかった。百年前からアジアの国々を植民地化し、搾取している白人の大国に、同じアジア人として日本が挑戦するのは無理からぬことで、彼女が眼にしてきたイギリス領マラヤやオランダ領インドネシアから、白人たちを追放したことは痛快なことに思われた。これは当時の作家の多くが抱いた率直な感想だった。
 そう考えると、昼と夜をとり違えたような生活を送っている息子を見るに不安になり、息子を平気で放っておく金子のやり方に我慢がならなかった。
 「「もともと父ちゃんが悪かったのよ。何でも裕(乾)の言うままに放っておくから、こんな仕様もない子に育ってしまったのよ」
 「いや、あんたがいかん。そういうスパルタ教育はぼくは大きらいだ。こういういやな時代だ。ぼくが若者だったら、やっぱり裕のようにするね」
 と晴久(光晴)は眉間に青筋を立てて、裕をかばった。」(森乾「金凰鳥」、『父・金子光晴伝』)やがて乾は学校へ行かなくなり、卒業まで一年を残した四年修了時終了時で退学して、家で本ばかり読んでいた。
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by monsieurk | 2017-05-09 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第九部(1)

山中湖畔の日々

編集者の逮捕

 一九四四年(昭和十九年)になると、戦局は明らかに不利になった。大本営は一月七日、インパール作戦を認可し、十八日の閣議で緊急国民勤労方策要綱を決定。二月になると、アメリカ軍はマーシャル群島のクエゼリンとルオットの二島に上陸し、激戦の末に両島の日本軍守備隊六八〇〇人が玉砕した。
 政府は二月十八日の閣議で緊急国民勤労方策要綱を決定し、言論への締めつけが一層厳しくなった。そのあらわれが、一月二十九日に起きた「横浜事件」だった。これは「東京を中心とする三十余名の言論知識人が横浜地方検事局思想検事の拘引状を携えた神奈川県の特高警察吏によって検挙投獄された事件の総称であり、被検挙者の所属は研究所員や評論家を含めた主として編集者よりなるジャーナリストであったところに特長があった。」(美作太郎「軍国主義とジャーナリズム」、『現代ジャーナリズム論』)である。
 このとき逮捕されたなかに、中央公論社の編集者、畑中繁雄も含まれていていた。畑中は一九四一年には雑誌「中央公論」の編集長に就任したが、四三年には軍部の圧力で辞任し、事件に巻き込まれたときは調査室員だった。
 畑中の逮捕理由は、マルクス主義者細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」(「改造」八・九月号)が共産主義の啓蒙を意図したもので、彼が主宰する共産党再建を話し合う会合に参加したというものだった。被疑者たちは警察で拷問され、虚偽の自白を強要された。
 畑中の逮捕は金子は衝撃をあたえた。弾圧が具体的な姿をとって身近に迫ってきた感じだった。
 二月中旬、東京都はビヤホール、百貨店、大きな喫茶店などを利用した雑炊食堂を開設した。さらに東京と名古屋には、防空法にはもとずく最初の疎開命令が出され、指定された区域内の建物を強制的に接収し、それを壊し防火のための空間をつくる作業がはじまった。
 横浜事件が起こった二月二九日には、東京の歌舞伎座や東京劇場、大阪の歌舞伎座、京都南座など全国十九の劇場に対して休場の命令が出され、三月五日から実施された。
 金子の身辺ではこんなことがあった。三千代が用事で丸の内に出かけたとき、東京の上空に米軍機が飛来した。これは爆撃のための試験飛行だったが、彼女が頭上を通過する米軍機を見上げていると、ハイヒールになにかがぶつかった。よろめいて傍らの並木の柵につかまり、辛うじて倒れるのを免れた。
 家に戻ってハイヒールを見ると、踵に小銃の弾が一つ食い込んでいた。米軍機は爆弾こそ落とさなかったが、機関銃の掃射の小手調べをしたらしかった。この日の米軍機飛来は動揺をおさえるために発表されなかったが、ハイヒールから取り出した弾は金子の家にずっと保存されていたという。
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by monsieurk | 2017-05-06 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第八部(8)

 作品発表の場を奪われたにもかかわらず、経済的には比較的安定していた。売れっ子となった三千代の稿料を当てにしなくても、モンココの給与に加え、菊地克己の口利きで宣伝部の嘱託となったミノファーゲン製薬本舗からの収入があった。ミノハーゲンは宇都宮徳馬が一九三八年に設立した会社で、宇都宮は旧制水戸高校時代にマルクス主義に傾倒し、京都大学経済学部では河上肇に師事して社会科学研究会に所属した。一九二九年に治安維持法違反で逮捕され、獄中で転向を表明したが、出獄後は軍需企業の株で大金を握ると、これを元手に製薬会社を設立した。事業に成功した宇都宮は、閉塞を余儀なくされている文化人の支援を惜しまなかった。金子も支援を受けた一人で、それらの金を岡本潤など困窮している詩人にまわした。

 「マライの健ちゃん」

 十二月になって、大阪から上京した小野十三郎とともに、同じく作品発表の機会を奪われた、秋山清、岡本潤、壺井繁治、植村諦が吉祥寺の家を訪ねてきた。
 植村は本名を植村諦聞(たいもん)といい、仏教専門学校の出身で水平社運動や朝鮮独立運動に加わった経験があった。秋山や小野と「弾道」や「詩行動」で活動したが、一九三五年に逮捕されて以降以来十年間も獄中にあった。皆が顔を合せるのは久しぶりで、中野重治にも電報をうったが、中野が来たのは彼らが帰った後だった。
 金子は暮れになって、少年向けの絵物語『マライの健ちゃん』を中村書店から出版した。初版の三万部でよく売れた。戦後、抵抗詩人として金子の評価が高まるなかで、この絵本や、先に触れた翻訳、『馬来』や『エムデン最後の日』をもとに、日本の東南アジア侵攻に反対した金子が、この時期に変節したとの批判がなされた。
 『マライの健ちゃん』は、医師としてジョホールのゴム園から招へいされた父についてマライ〔マレー〕に行った健ちゃんが、現地の少年と親しくなる様子を、その自然や風土を背景に描いたものである。
 櫻本富雄は、「ゴムはみんな大東亜共栄圏でとれるんですね」という健ちゃんの発言を取り上げて、大東亜共栄圏を肯定するものと批判し、鶴岡善久は、日本人学校で学びたがったり、日本語を学ぼうとするマライの子どもを、勤勉な少年だと評価するのは、占領地での日本語の強制を肯定するものだと論じた。
 『マライの健ちゃん』はA5判五十ページの本で、金子の文章とともに七十八点の挿画がついている。最初は挿画も最初は金子が描いたが、出版社の意向とあわず、神保俊子が描きなおしたものである。たとえば冒頭に近い十二頁の、健ちゃんが船着き場に着いた場面では、本文は「船つきばには、ゴム園のをぢさん達や、荷物をもつマライ人の下男たちがむかへにきてをりました。 / お父さんやお母さんは、そのをじさん達と、ごあいさつをしてゐました。
 「よく来たね。これからはをじさんとお友達になるんだよ。」
と、頭をなでてくださるをじさんもあります。」とあり、これに二枚の挿画が添えられている。大きな一枚は、挨拶をかわす父母と出迎えの日本人に交って荷物を下げて、日の丸の旗を持つ現地人が描かれ、もう一枚では、日の丸を持った健ちゃんが出迎えたおじさんと言葉を交わしている。こども向けの絵本では文章以上に、神保俊子の絵が強いインパクトを持っている。
 金子は絵本をつくるにあたって、なぜマレーを選んだのか。彼にはベルギーやパリで感じた疎外感から、西欧列強に収奪されるアジアの人たちへの共闘意識があり、ある種のアジア主義を抱いていたことは前にも述べた通りである。「大東亜共栄圏」が日本の軍国主義が唱える建前であるのを承知のうえで、東南アジアの解放を夢見たのだった。金子は戦後になって、「詩人の僕は、今日でも東南アジア民族の解放と、人種問題と、日本人の封建性の指摘と、戦争反対の四つの課題に創作目的の重点をおくことにしている」(『日本の芸術について』)と述べている。
 金子のなかでは、東南アジア民族の解放は戦前戦後を通して一貫したテーマであった。ただマレーを舞台にした健ちゃんの物語が、挿画とともに子どもたちにどんな影響をあたえるか。戦争に反対する詩の発表を自ら封印した金子が、『マライの健ちゃん』では、時勢に妥協したという指摘には理由があった。
 一九四三年九月以降、すべての出版書籍が日本出版会の審査を通る必要があり、不承認件数が三十パーセントを越えていた。『マライの健ちゃん』と同じ月に出版された『大東亜戦争絵巻 マライの戦ひ』(岡本ノート株式会社出版部)の巻末には、陸軍報道部の山内大尉なる人物が書いた「監修にあたりて」が載っているが、そこでは、「未曽有の決戦下に於いての幼児や児童に対する教育は慎重に考へなければならぬ。特に国家観念の正しい認識は将来帝国の盛衰を左右する重要事項であつて日常の無邪気な生活の内にこれを正純に植付ける事が必要である」と述べられている。『マライの健ちゃん』はこうした時勢のなかで発行された。金子の絵本も結果として、この当局の指針に沿った形で世には出されたのだった。
 金子は「戦争に就いて」(「コスモス」一九五〇年二月号)で、「戦争に協力しなかったということを僕の名誉のように押しつけるのは少々困りものだ。それが僕の不名誉だった日々の長さの無限をしか考えられなかったことを誰もが忘れているわけではないと思うと、白々しさしか感じられない。僕らのうえに英雄のいることも、僕らが英雄になることも望むことではない。僕が、反戦詩を街頭に立って読みあげなかったことで、僕は戦争に協力していたと同じだったのだ。戦争に加担しなければ生きていられなかったのだ」と書くことになる。
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by monsieurk | 2017-05-03 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第八部(7)

 第二次「疎開詩集」

 金子が河邨文一郎に、詩集の二度目の疎開を頼んだのはこの年の十一月である。河邨は次のように紹介している。
 「昭和十八年十一月のある夜、吉祥寺で金子さんは私に、第二次の「疎開詩集」をもちかけた。その目次は次の通りである。

 ★詩集「熱帯詩集」
 ニッパ椰子の唄(a) 洗面器(a) おでこのマレイ女に(a) ボイテンゾルフ植物園にて(a) 無題――シンガポールにて 月光不老旗 馬拉加(a) ――シンガポール羅衛門にて ――シンガポール市場にて 映照 MEMO――序詞のための 街 緑喜(改題「のぞみ」) 無題(a) 牛乳入珈琲に献ぐ(a) 女たちへのエレディ 混血論序詩 ボロブドール佛蹟にて 芭蕉 無題 どんげん 雷 エスプラネードの驟雨 孑孑の唄
 ★詩集「真珠湾」
 第一部 真珠湾(a) 湾 天使(b) 落下傘(a) いなづま(b) 洪水(b) 犬(b) 北京(b) 八達嶺で(b) 弾丸(b) 屍の唄 甍 太沽バーの歌(b) 新聞(b)
 第二部 鬼の児誕生(b) 鬼の児放浪 ふく毒なし 疱瘡 風景(b) (でこぼこした心のなかみが・・・欄外メモ) 瘤 地獄 鬼 戀(a) (おぼろめく夕闇に・・・欄外メモ) 海 無題(a) 緘 奇蹟 骸骨の歌(a) 冥府吟
あとがき

 目次にのみあってノートに記載洩れのもの。
 第一次詩篇にすでに書かれ、第二次には記載洩れのもの。」(「こがね蟲」第四号)

 河邨によって筆写された「疎開詩集」は、一九九四年になって、そのファックシミリ版が雑誌「こがね蟲」第八号に発表された。それによると、「真珠湾」の第二部に収められている「鬼の児放浪」は九月三日につくれれたもので、その最後は次のようになっている。

「鬼の児は いま、ひんまがった
じぶんの骨を抱きしめて泣く。
一本の角は外れ
一本の角は笛のやうに
天心を指して嘯く。
「鬼の児は俺ぢやない、
おまへたちだよ。」」

 そして「疱瘡」は――

「――十年のあひだえんぜるはみ下してゐた

十年のあひだ、天地は疱瘡を病んだ。
十年のあひだ、瓦礫がこげ燻るつてゐた。
十年のあひだ、鬼の児をのぞいて 心をもつてゐる
 ものはなかつた。
人と鬼どもからまもるその心を。

鬼の児よ。 はぢけた柘榴(ざくろ)。――十年のあひだ 人
 は殺しあふ夢しかみなかつた。」

 最後の「冥府吟」の日付は十月二十日で、詩集の跋文として用意された「あとがき」は、次のようになっていた。
 「主として戦争中に作られた詩篇をあつめたもの。この時代の困難のために、この詩集は日のめをみないだろう。詩集は朽ちるかもしれない。しかし、詩集にある魂はくちないだろう。それは作者の天稟のためではなく、この魂は人間がみな抱いている真実だからだ。いつかまた人は自分をふりかえる時がくるだろう。それはもはや文学だけの問題ではない。人間の名誉の問題だ。  著者」
 ここには皆が戦争に引きずられていく時代への怒りと、それに一人で立ち向かう覚悟がこめられている。 
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by monsieurk | 2017-04-30 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第八部(6)

 この年の八月、彼女が以前「婦人画報」に載せた「嘘みたいだ」が、文学報国会発行の『辻小説集』(八紘社杉山書店)に再掲された。この短編集には二百七名が執筆していて、三千代の作品は十行ほどのもので、仏印へ向かう飛行機から、香港上空で目撃した情景を伝えるものである。
 「(前略)十年後、昭和十七年一月十五日、陥落直後の香港の空を翔びながら私は、おやと眼をこすった。真青な海面に檣だけ突出たり赤腹を返したりして沈んでいる。あの英国の船共だ。そっくり置換った日章旗の船。嘘みたいだ。私は佐藤〔英麿〕に手紙で知らせてやりたい。――因業な家主のいない香港は、住みいゝ所になりました。南方の港はみなそうなりますよ。ああそれには、たくさんの、たくさんの、日章旗を立てた船が必要ですよ。」
 そして十月に出された『辻馬車』には、詩「ふねをつくれ」を寄稿した。
  
「ふねをつくれ ふねをつくれ。
うなり出す無数の蜂をのせて海に浮く鋼鉄の巣。航空母艦。それは一隻でも多い方がいゝ
 のだ。
幻の整列。たちまち海を白泡にし 聖なる憤りで空と海を引つ裂く。天から降りて来た艦 
 隊。戦艦。駆逐艦。水雷艇。それは一隻でも多い方がいゝのだ。
新鮮な果物をいっぱい盛った果物皿のやうな満腹の輸送船は、往き かへり 擦れちがふ。
 それは一隻でも多い方がいゝのだ。
ふねをつくれ ふねをつくれ。」
 
 これは当時世間で叫ばれたスローガン、「戦艦献納愛国運動」に乗ったもので、三千代の文章はまさに文学報国会の方針に沿うものだった。このときのアンソロジー『辻詩集』に収録されたのは二百八篇で、すべてが戦争詩だった。詩部会の会員三百三十九名のうちの三分の二が寄稿したことになる。しかし金子光晴の名前はそこにはなかった。
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by monsieurk | 2017-04-27 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)