ムッシュKの日々の便り

monsieurk.exblog.jp ブログトップ

カテゴリ:芸術( 218 )

ロバート・キャパ(3)

 2009年7月17日付けのスペイン・バルセロナの新聞「エル・ペリオディコ・デ・カタルーニャ」の電子版は、キャパの問題の写真は、実際にはセロ・ムリアーノではなく、そこから凡そ56キロ離れたエスペホ(Espejo)付近で撮影されたものだという記事を掲載した。さらにエスペホ付近で戦闘が行われたのは、1936年9月22日から25日だけであり、したがってこの写真は本当に前線からは離れたところで撮られたとする説を報じたのである。
 この報道をうけて、アメリカの「ニューヨークタイムズ」紙は、2009年8月18日号に、ラリー・ローターの、「有名な戦争写真に持ち上がった新たな疑惑」と題した記事を掲載した。これは「エル・ベリオディコ」の記事のもとになったスペイン・バスク地方の「パイス・ヴァスコ大学」のコミュニケーション学部教授ホセ・マニュエル・ススペレギ(JoseManuel Susperregui)の調査研究を要約したものだった。
 ススペレギは調査結果を、著書の『写真の影(Sombras de la fotografia)』のなかでで公表していて、キャパの「崩れ落ちる兵士」についての新事実を明かしていて興味深い。以下にラリー・ローターの記事の主要な部分を訳出してみる。                     

 《スペイン内戦中のロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」は、撮影されてからほぼ四分の三世紀たったいまも、戦争写真のなかで最も有名な写真である。そしてもっとも議論を呼んできた写真でもあった。一人の兵士の死の瞬間のように見える写真はヤラセだった(faked)だという批判に絶えずさらされてきた。そして今日、スペインの一研究者による本が断言するところでは、キャパの賛美者や後継者が主張しているような場所、時期、そして、いかにして撮影されたかというという主張は、あり得ないというのである。
 パイス・ヴァスコ大学のコミュニケーション学部の教授、ホセ・マニュエル・ススペレギはその著書『写真の影』で、キャパの写真は、コルドバの北のセロ・ムリアーノで撮られたのではなく、凡そ35マイル離れた別の街の近くで撮られたと結論づけた。当時キャパがいたときは、ここは戦闘の前線からは離れており、ススペレギ氏は、「この《崩れ落ちる兵士》の写真は、この前線で撮られた他の一連の写真とともに演出されたことを意味する」と語っている。
 マンハッタンの「国際写真センター(ICP)」にはキャパの資料が保存されているが、そこの専門家たちは、ススペレギ氏の調査の見方の幾つかは興味深く、説得的でさえある。だが《崩れ落ちる兵士》のイメージは正真正銘のものであり、〔ススペレギ氏〕の結論にいきなり飛躍するのは躊躇するとしている。「難しいのは、人びとが言うように、もしここではなかったとしても、あそこであり、それは神によって、生み出されたものなのです」、「これを飛び越えるには、さらなる多く調査と研究が必要だと思います」と、センター所長のウィリス・E・ハーツホーンはインタビューで答えた。
 ススペレギ氏はその探究を、「崩れ落ちる兵士」と同じ状況で撮られた他の写真の背景を調べることからはじめたという。これらの写真では遠くに山の稜線が見える。そこで彼は、これらの鮮明なものを、E-メールでコルドバの周辺の街の図書館員や歴史家に送り、この風景を知らないかと訊ねた。するとエスペホ(Espejo)という地域から肯定的な返事が返ってきた。
 「私はこれが《崩れ落ちる兵士》に関係したものだとは、誰にも告げませんでした。というのも、この写真には思想的、感情的な問題が深くからんでいるからです」と、彼はビルバオの東部にある自宅での電話インタビューで言った。「しかし、一人の教師が送った写真を教室で見せたところ、一人の生徒がまさにその場所を知っていたのです」。
 ススペレギ氏がし残したことを取り上げたのはスペイン・バルセロナの新聞「エル・ペリオディコ・デ・カタルーニャ」だった。同紙は最近、エルペホに数人のリポーターを派遣した。彼らは写真を持ち帰ったが、それら写真では、現在の地平線がスペイン内戦がはじまって二か月も経たない1936年9月に撮られたキャパの写真の背景に写っているものとほぼ一致したのである。
 ICPのロバート・キャパ資料のキュレーター、シンシア・ヤングは、「崩れ落ちる兵士」がエスペホで撮影されたことを示す新たな証拠は、「強力であり、説得的ですらある」と語っている。そして彼女は、撮影場所に関して起こった混乱は、キャパが戦争カメラマンとしての最初の旅の間、「自分の写真のごくわずかなものにしかキャプションをつけず」、パリに戻って、エージェントや編集者が彼の写真を現像した時、「写真を撮った場所をほとんど思い出せなかった可能性が高い」とつけ加えた。「崩れ落ちる兵士」のネガの存在は知られていない。
 スペインの歴史家たちは、エスペホで激しい戦闘があったのは9月の終わりであって、22歳のキャパと、同僚で同伴者のゲルダ・タローがここに来たであろう、この月の初めには、いかなる戦闘も行われなかったと述べている。「9月末までは、ここでは一発の弾も発射されず、幾回かの空襲があっただけだ」と、このとき9歳だった村人の一人、フランシスコ・カストロは「エル・ペリオディコ」紙に語っている。「民兵は通りを散歩し、街の一番美味いハムを食べていたよ」。
 「崩れ落ちる兵士」に関する別の説明、ハーツホーン氏のように、同センターが賛意を示す説明の一つは、ハーツホーン氏のように、キャパの写真は、「戦闘の間に撮られたものではないが」、おそらくはキャパのために行われた訓練中、「訓練が実際の戦闘に変わった瞬間があり、この写真はその結果なのです」というものである。ハーツホーン氏は、「離れたところから民兵を狙った狙撃者(スナイパー)がいたという仮定はずっとあったのです」とつけ加えた。
 しかしススペレギ氏は、この意見は「完全に誤りだ」という。反対派の前線はここから遠く離れていただけでなく、この仮説を可能とするような「射撃能力は当時はなかった」として、コルドバの戦線で「狙撃銃が使われたという資料は、文書でも映像でも存在しない」と述べている。(中略)
 「崩れ落ちる兵士」の正統性に対する根拠に基づいた疑問は、1970年代の半ばに、フィリップ・ナイトリー(Philip Knightley)の著書『最初の 犠牲者(The First Casualty)』で出されたものだった。しかし民兵の死から20年後の1936年9月5日に、犠牲者がセロ・ムリアーノで死んだフェデリオ・ボレルというアナーキストの兵士だったと身元が確認されたことで、こうした論争に終止符を打ったように見えた。
 だがススペレギ氏はセロ・ムリアーノの場所を訪れて、そこが「一世紀をこえるような樹木が生い茂る森」で、キャパの写真に見られるような、ひらけた丘ではないことに気づいた。さらに彼の本では、あまり知られないアナーキスト系の雑誌に、1937年に発表されたフェデリコ・ボレルに関する記事を取り上げている。それによると仲間だった兵士が、ボレルは、「樹を楯にして射っていたが」、彼が殺されたときは、「楯にしていた樹の後ろで伸びあがり、乱れた髪が顔に落ちかかり、血が口から点々と滴っているのを見ることができた」とつけ加えている。(後略)》

 以上が、ラリー・ローターが「ニューヨークタイムズ」紙で要約している、「崩れ落ちる兵士」をめぐって明らかになった事実である。
沢木耕太郎氏は新著『キャパの十字架』で、海外でのこうした議論や調査、研究の成果を活用しつつ、新たな事実を見つけ出そうとした。(続)
[PR]
by monsieurk | 2013-02-21 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

ロバート・キャパ(2)

 キャパの「崩れ落ちる兵士」は、フランスの雑誌「ヴュ」に載ったあと、購読者100万を誇る写真週刊誌「ライフ」が1937年7月12日号に掲載して、報道写真史上もっとも有名な一枚となった。スペイン共和国を守ろうとして叛乱軍の凶弾に倒れた兵士の死の一瞬は、スペインのその後の運命を象徴する作品として世界中に流布されたのである。
 ところが1975年になって、イギリス人ジャーナリスト、フィリップ・ナイトリーが、この写真はプロパガンダで、実際に兵士が撃たれた瞬間を撮ったものではないのではないかと疑義を呈した。だがこの疑問も、1996年に解消したかに思えた。崩れ落ちる兵士の身元が確認されたのである。
 この事実を見つけたのはスペインの郷土史家マリオ・ブロトンス・ホルダで、その調査によると、兵士はスペイン東南部の都市アリカンテに近いアルコイ出身のフェデリコ・ボレル(母方の姓はガルシア)で、当時24歳の青年だった。共和国軍の民兵となる前は製粉所で働いていたが、スペイン内戦が勃発して7週目の1936年9月5日、コルドバに近いセロ・ムリアーノの前線で戦死したことが判明した。
 マリオ・ブロトンス・ホルダもアルコイ出身で、自らも十代のとき前線で戦った経験があった。彼はマドリッドとサラマンカの軍事資料館で調査を行い、この日セロ・ムリアーノの戦線で負傷した者は大勢いたが、死んだのはただ一人フェデリコ・ボレルだけだった事実をつきとめたのである。
 フェデリコには、同じく兵士だったエヴェリストという弟がいた。この発見を受けて、イギリス人ジャーナリストのリタ・グロヴナーは、「オブザーバー」紙のために、エヴァリストの未亡人マリアにインタビューを行った。
 同紙の記事によれば、マリアは、「エヴァリストからフェデリコは戦死したと聞きました。夫は別の陣地にいたので、何が起こったか見ていません。でも、フェデリコが頭を撃たれ、とたんに両手を高くあげたまま地面に崩れ落ちるさまが見えたと、仲間から告げられたのです。即死だったという話です」と語っている。しかしインタビューでのマリアの話(エヴァリストが生前に語っていたこと)には、世界的に有名になったキャパの写真の影響がなかっただろうか。
 いずれにせよ、雑誌「ヴュ」によってスペインに送り込まれた1936年8月から、写真が雑誌の第445号(9月23日発行)に掲載されるまでの間に(おそらく9月初め)、キャパ(アンドレ・フリードマン)とゲルダ・タローは、スペインの戦線であの写真を撮ったのである。
d0238372_033367.jpg ゲルダは本名をゲルタ・ポホリといい、1910年、ドイツ・シュトゥットガルトのユダヤ系ポーランド人の中流家庭に生まれた。一家は1929年にライプツィヒに移り、二人の兄弟が反ナチス組織に加わり、百貨店の屋上から反ヒトラーのビラを撒いた。二人はすぐに地下にもぐったが、ゲルダはナチス突撃隊による一斉摘発で逮捕された。その後保護観察処分となって釈放されると、すぐに祖国を離れる決断をして1933年秋にパリにやってきた。
 パリに亡命した彼女は、1934年にハンガリー出身のユダヤ系で個性的な写真家アンドレ・フリーマンと出会って恋におちるとともに、彼から撮影技術を教えられた。そして最初はマリア・アイズナーが経営する「アライアンス・フォト」の写真編集者をしていたが、彼女のアイディアで二人は、「ロバート・キャパ」というアメリカ風の名前で、自分たちの写真を売り込むことを思いついた。写真の市場はヨーロッパよりもアメリカの方がずっと大きかったからである。
 こうして彼らの写真が注目されるようになると、やがてフリードマンが「キャパ」となり、彼女の方も、「写真家ゲルダ・タロー」という名前を使うようになり、二人はコンビでスペイン内戦の取材に送り込まれたのだった。
d0238372_034124.jpg

 彼らは取材対象を求めてスペイン内戦の前線をめぐるうち、コルドバに近いセロ・ムリアーノの丘で、共和派の民兵フェデリコ・ボレルの死に遭遇し、「崩れ落ちる兵士」を撮影したと信じられてきた。だがこれもまた事実ではなかったのである。(続)
[PR]
by monsieurk | 2013-02-19 20:27 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

ロバート・キャパ(1)

 このところ、報道写真家ロバート・キャパが話題である。
 横浜美術館では、2013年3月24日まで、《ロバート・キャパ+ゲルダ・タロー「二人の写真家」》展が開かれていて、展覧会の案内にはこうある。「1934年、パリで出会い意気投合した二人は、1936年に「ロバート・キャパ」という架空の名を使って報道写真の撮影と売り込みをはじめた。仕事が軌道に乗りはじめてほどなく、フリードマン〔キャパの本名〕自身が「キャパ」に取って代わり、タローも写真家として自立していくが、その矢先の1937年、タローはスペイン内戦の取材中に命を落とす。・・・」
 展覧会では、キャパの写真194点と、ICP(国際写真センター)が所有するゲルダ・タローの写真85点が展示されている。
 そして「文藝春秋」創刊90周年記念号には、ノンフィクション作家沢木耕太郎氏の「キャパの十字架」が掲載され、これをもとにしたドキュメンタリー「NHKスペシャル・沢木耕太郎推理ドキュメント運命の一枚」が2月3日に放送された。
 沢木氏の推理は、スペイン内戦で撮影され、報道写真家「キャパ」の名前を一躍有名にした「崩れ落ちる兵士」をめぐるもので、この一枚と前後して撮られた当時の写真(最近公表された)を分析して、新説を展開したものである。
d0238372_0281190.jpg

 沢木氏の推理を検討する前に、以前に書いた『アンリ・カルティエ=ブレッソン伝』(青土社、2007年)から、キャパに関係する部分を再掲することにする。

 キャパは本名をアンドレ・エルネー・フリードマンという1913年10月23日にハンガリー(当時はオーストリア=ハンガリーに二重帝国)のブダペストで生まれた。ユダヤ人の両親は洋服屋を営んでいた。ドイツ系のギムナジウムを終えたあと、1931年にはドイツ政治高等専門学校へ入学したが、在学中に共産党活動を行った嫌疑で逮捕された。釈放後はドイツに逃れ、ベルリンの写真通信社「デフォト」の暗室係りとなった。しかしナチスの進出とともにユダヤ人排斥が激しくなると、ベルリンを脱出してふたたび故郷にもどり、ヴェレッシュという旅行社のカメラマンの職をえた。さらにこの翌年には通信社の臨時雇いになることができた。
 彼の名前が注目されたのは、コペンハーゲンで演説するレオン・トロツキーを撮影することに成功したことである。そして1933年にはパリに移り、この年モンマルトルでシム(デヴィッド・シミン)と出会い、さらに彼の仲介で、アンリ・カルティエ=ブレッソンとも知り合い、彼らの友情は生涯つづくことになった。
 フリードマンは1936年ころから、ロバート・キャパの名前で写真を発表するようになった。スペイン内戦がはじまると、キャパは一緒に住んでいたゲルダ・タローとともにスペイン行きの途をさぐっていた。
 1936年8月、フランスの写真週刊誌「ヴュ(Vue)」のリュシアン・ヴォジェルが、ジャーナリストの一団をバルセロナまで飛行機で運び、そこから彼らを「ヴュ」の内戦特別号のための取材に向かわせるという計画をたて、キャパにも誘いがきた。彼はゲルダとともにこの飛行機でバルセロナに行き、すっかり変わった街の様子や、銃をもつ民兵たちの姿を撮影した。彼らはライカとローライフレックスの二台のカメラをもっていたが、ライカはおもにキャパが使い、ゲルダはローライフレックスで撮影した。彼らがバルセロナや戦線から送ってくる写真は「ヴュ」の紙面を飾り、スペインの現実を読者に強く印象づけた。
d0238372_0281971.jpg なかでも「ヴュ」の第445号(1936年9月23日発行)に、2頁にわたり、「スペインにおける市民戦争」のタイトルのもとに掲載された7枚の写真は、強いインパクトをはなっていた。左頁の5枚は、「彼らはいかに逃れたか」と題されたもので、それぞれが子どもを抱いて逃げる親や裸足の子どもたちの姿をとらえている。写真につけられたキャプションには、「聖書から写されたような場面、苦悩に満ちた面差しの避難する人びとの姿は旧約聖書の出エジプト記を思わせる」、「これはある地方の人びと全員が移住する姿である。彼らは重い足どりで歩んでいく・・・」とあった。
 そして右の頁は「彼らはいかに倒れたか」と題して、有名な「崩れ落ちる兵士」の写真2枚が載っていた。キャプションには、「強靭な膝裏〔ひかがみ〕、風を胸にうけ、銃を握り、彼らは切り株の覆われた斜面を下りていた・・・突然、その躍動が打ち砕かれた。弾が風をきって飛んできたのだ ―― 流れ弾が ―― そして彼らの血は祖国の土に飲み干された」と書かれ、「写真キャパ」とクレジットがあった。
 スペイン市民戦争のなかでもっとも迫力のある写真といわれるこの作品を、キャパはコルドバの戦線で撮影したとされる。添えられているキャプションからして、同一人物が撃たれた瞬間と、その直後に崩れ落ちるように見える2枚の写真は、添えられたキャプションが「彼ら」と述べているように、二人の別々の兵士を撮ったものと考えられる。だがはたして、このような偶然が二度も同じ戦線で、同じカメラマンの前で起こるものだろうか。
 しかも場所が同じであることは、斜面をおおう切り株や、雲のようす、遠くの背景からも容易に推察できる。ここからキャパのヤラセ説がささやかれることになるのである。(続)
[PR]
by monsieurk | 2013-02-17 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

詩画集Quelques poemes(続)

 小牧近江(近江谷木駉)の最初の著書である詩画集『Quelques poèmes』は滅多に眼にすることの出来ない稀覯本なので、掲載されている12篇のフランス語の原詩と翻訳を紹介する。詩篇を飾る藤田嗣治の挿画については、著作権があり、すべてを複製することができない。冒頭の数字は詩と線画が載っているページを示す。

1 à mon triste cœeur / des soirs / qui s’en sont allés / loin…/ loin…
 私の悲しい心に / 夜々が/ 過ぎ去っていった / 遠く…/ 遠く…
 (藤田の挿画、手の甲に顎をのせた物憂げな女の横顔)

2 pou vous Madame / je n’ai pas de voix / ma téte repose / lourde/ sur vos seins /
Voici mes larmes…
 夫人よ あなたのために /私は 声もなく / 頭を / ずっしりと / あなたの胸にあずける / ほら 私の涙が…
 (牡丹の花)

3 en baisant / mes yeux mouillés / vous avez bu / tout mon sang / vous oublierez /
est-ce possible ?
 涙で濡れた私の瞼に / くちづけしながら / 貴女は私の血をみな / 飲みほした /
貴女がそれを忘れてしまうなんて / そんなことはあり得ようか ?
 (赤子を膝に抱き、指でつまんだサクランボであやす母)

4 ce petit sculpteur / s’amuse à pétrir / la tête d’argile / laissez faire l’enfant /
la dame clôt ses yeux / ce n’est pas / une tête morte / elle sourit
 この小さな彫刻家は / 粘土細工の頭を / 作って楽しんでいる / 子どもの好きにさせて置きなさい / 夫人は眼を閉じて / その頭は死んではいないと / 微笑む
 (左手の蝋燭にマッチで火をつける右手)

5 il pleut / il pleut / je voulais lire / à haute voix / il pleut / il pleut / j’aime mieux /
sentir / l’odeur du livre
 雨が降る降る / 雨が降る / 大きな声で / 読み上げたい / 雨が降る降る/ 雨が降る /
書物の匂いを / もっと感じたい
 (羽をやすめる四羽の頭の黒い鳥)

6 c’est vous / mademoiselle? / vous bercez ma tête / un peu / c’était la fraicheur du matin / discrète / elle glissait / dans la chambre
 貴女ですか / お嬢さん?/ 軽く / 私の頭を揺すってくれたのは / それは朝のひそかな冷気が / 部屋に / 忍びこんできたのだ
 (首をさげる馬)

7 elle / a fermé / le piano / le thé refroidit / dans le salon / personne / et la fleur
tombe / en silence
 彼女は / ピアノを / 閉じた / 誰もいない / サロンでは / 紅茶が冷め / 音もなく / 花が散る
 (蝶を追う裸の子)

8 le piano / entraîne / mon cœur / ne me faites pas / pleurer ainsi / dans cette chambre / sans lumière
  ピアノが / 私の心を / かきたてる / 私をこんなに / 泣かさないでくれ / 光のない / この部屋で
 (和傘を右手でかかげつつ綱渡りをする女)

9 et / j’ai laissé / couler / les pleurs / dans le soir / noir / personne ne me voyait /
dans le soir / noir
 そして / 私は / 涙を / 流しつづけた / 夜の / 闇のなかで / 誰も私を見ていなかった / 夜の /
闇のなかで
 (雪の上のつがいの鴨)

10 elle l’aime / j’ai été aimé / une fois / aussi / je me souviens / alors / mon chagrin
est infini
 彼女は / 彼を愛している / そして / 一度は / 私も愛されていたのを / 思い出す/
だから / 私の悲しみは果てしない
 (組んだ両手に顎をのせ、じっと前を見つめる女の顔)

11 elle m’a fait la grâce / de sourire / j’ai baissé / les yeux / le ciel était couvert /
mon cœeur aussi / comme toujours / le drapeau flottait / sur toit / du ministère
 彼女はやさしく / 私に微笑んでくれた / 私は / 俯いた / 空は雲におおわれ/
私の心も同じだった / いつものように / 役所の / 屋上では / 旗がなびいていた
 (母牛と乳を飲もうとしている子牛)

12 jusqu’à la rivière / l’allée descend / voici / tout en fleurs / les pêchers / le vent glisse / la voile / toute blanche / est / la voile
 川まで / 小道はくだっている / 満開の / 桃の / 花 / 風はそよぎ / 真っ白な / 帆 /それは / ヨットの帆
 (地面の果物に頭を押しつけている羊)

 奥付は以下の通りである。
Achevé / de composer / et d’imprimer / pour la première fois / le quinzième jour de Novembre mcmxix / sur les presses de / FRANÇOIS BERNOUARD / imprimeur-librairie / 71, Rue des Saints-Pères, 71 / (Fleurus: 18-13) / A PARIS.
 これによれば初版の版組と印刷は1919年11月15日に終る、パリ6区と7区の境にあるサン=ペール通り71番地にあったフランソワ・ベルヌアールの店から刊行された。210部限定で、うち5部は和紙に印刷された。
 誌画集『Quelques poèmes』は、東京渋谷の松涛美術館で開かれた展覧会「藤田嗣治と愛書都市パリ~花ひらいた挿画本の世紀~」(2012年7月31日から9月9日)で展示され、その後9月15日から11月11日まで、北海道立近代美術館でも開催されている。展覧会の図録には、詩画集の表紙と7ページ分が複製されている。 またこの詩画集についての最初の研究は、林洋子「藤田嗣治の1910年代:詩集Quelques poèms(1919)をめぐって」(東京都現代美術館紀要第5号、pp.7-14)で、ここでは全ページが複製されている。
秋田在住の小牧近江の研究者が、最近オリジナル本を新潟の古書店から入手したとのことである。売価は248,000円だったという。
[PR]
by monsieurk | 2012-11-01 08:00 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

詩画集 Quelques poemes(詩篇いくつか)

 音楽評論家の蘆原英了に次のような文章がある。
 「私の母の弟の藤田嗣治がパリへたったまま、世界大戦になって音沙汰が知れなくなってしまった。一九一九年、ベルサイユ条約が結ばれてから、少しずつ叔父の様子が知れてきた。それから間もなくの頃、私たち兄弟のところへ叔父から小さな品物が送られてきた。兄のところへは叔父が挿画を描いた薄い詩集が届いた。日本の局紙を四、五枚、葦のような草で綴じた、ほんとに十頁くらいのものだったが、その一枚一枚に叔父の、それこそ細い細い線で、女の顔や雪景色などが描かれていた。それははじめて見る叔父のパリへいってからの絵で、きわめて新鮮なおどろきを与えられた。これが後のフジタの独特の線画になるわけだが、墨一色で、なんともいえぬ美しさであった。
 その詩集の著者が小牧近江さんで、俳句のような短い詩が一頁に二、三行ずつあった。この詩集はたしか三十部ぐらいの限定版であったと思う。(中略)この詩集はわが家では戦災で焼けてしまった。・・・小牧さん自身、もうこの詩集を持っておられないとのことであるから、この詩集の稀覯価値はたいへんなものであると思う。」
 これは小牧近江の『イソップ三代目』(第三文明社、1973年)の「あとがき」に載ったものである。小牧近江(1894 -1978)については、2011年10月28日のブログ「ハノイ再訪」や2012年1月5日の「反戦小説としての『肉体の悪魔』」で紹介したが、本名を近江谷小駉(おうみや・こまき)といい、プロレタリア運動の魁となった雑誌『種蒔く人』の創刊者としてしられる。
 彼は1910年(明治43年)夏、16歳のときに暁星中学を中退して、ブリュッセルで開かれる第1回万国議員会議に出席する代議士の父栄次に連れられてフランスに渡り、アンリ四世校の寄宿生となった。だが帰国した父は事業に失敗し、仕送りが途絶えて授業料も払えなくなり、放校されてしまった。その後はパテ商会で働きながら、無料の夜間労働学校に通い苦学を続けた。そのうちに父の知人である石井菊次郎大使の口利きで、大使館で受け付けなどの雑用係として働くことになった。
 1914年6月には、大使館での仕事のかたわら、パリ大学法学部に入学することができた。ただこの年8月3日に第一次大戦が勃発。開戦後、旬日のうちにドイツ軍は国境をこえてフランスに侵攻した。大使館では急遽在留邦人を集めて戦況報告会を開き、会合には100人ほどが集まった。そこには商社の関係者にまじって、滞仏中の作家島崎藤村や在仏1年目の画家藤田嗣治などの顔があった。アヴニュ・オッシュにあった大使館には、石井大使、佐分利貞男二等書記官、杉村陽太郎外交官補など8名が勤務しており、情報の収集に大わらわだった。
 大使館としては非常時に在留邦人が危険なパリから退去することを望み、帰国する者には400フラン、他の地へ移住するなら200フランを貸し付けると伝えた。これによって多くの邦人が帰国するかロンドンなどへ避難したが、藤田嗣治は絵を描くためにフランスへ来たといって、パリに残る決断をした。そして集会の帰りがけに、それまで描きためた大切なスケッチブックを近江谷に預けたという。大使館にいる彼に託した方が少しは安全と考えたのであろう。このとき藤田は27歳、近江谷20歳で、彼らがいつ、どのようにして知り合ったのかは、詳細は不明である。ただこのエピソードからみて、二人が大戦前に知り合っていたのは間違いない。
 開戦から1カ月後、日本大使館は戦火を避けて、フランス政府とともにパリから南西部にあるボルドーへ移り、近江谷もパリを離れたために折角入学した大学へはしばらく通うことができなかった。
 パリに残った藤田は画家仲間の川島理一郎と14区の場末、シテ・ファルギエールに住んでいたが、開戦で日本からの送金が途絶え生活は困窮した。冬になると暖をとるためにキャンバスの枠を燃やすほどで、絵もさっぱり売れなかった。
 膠着状態が続いた戦争は、翌1915年になると英仏連合軍側が優勢となり、フランス政府や各国外交団もパリにもどった。近江谷もそれにともなって大学に復学し、1918年にはパリ大学法学部を卒業して学士号を得ることができた。
 藤田の方はこれより前の1917年6月、シェロン画廊で初の個展を開くことができた。展覧会をしきったのはフェルナンド・バレーで、藤田が結婚したばかりの相手だった。近江谷はこのとき画廊を訪ねて、二人の交流は再開した。
 1918年11月11日終戦。翌19年1月からパリで講和会議が開かれ、日本は戦勝国の一員として西園寺公望を首席全権とする代表団を送り、近江谷も語学の能力を買われて代表団に採用され、松岡洋右の下で新聞係として働いた。彼はこのころロマン・ロランの平和主義を通じて左翼思想に共鳴しており、新聞係のなかでは「ボルシェヴィキ」の渾名で呼ばれていた。
 パリ講和会議が1919年6月に終わると、近江谷は帰国を考えるようになった。そのとき藤田から一つの提案があった。二人の交友の記念に詩画集をつくろうというのである。近江谷の詩に藤田が挿画を描く。出版はフランソワ・ベルヌアール(François Bernouard)が興した「ラ・ベル・エディシオン(La Belle Edition)」が引き受けてくれることになった。
 ベルヌアールは生涯に400を超える本やプラケット(小冊子)を出版したが、当時のプラケットには、デユヒィ、ドラン、ローランサン、マチスなどが挿画を描いたものがあり、この名門出版社から無名に近い日本人の本が出版されたのは驚きである。藤田は初の個展に次いで、この年の秋の「サロン・ドトンヌ」に6点の絵が入選して、パリ画壇にデビューしたから、目利きのベヌアールが先行投資の意味で企画したのかも知れない。こうして詩画集《Quelques poèmes》が世に出ることとなった。巻末にナンバーを入れた210部の限定出版だった。
 冒頭の蘆原英了の記述にあるとおり、近江谷駉(小牧近江)の蔵書から、この記念すべき詩集は散逸してしまったが、近年になって孫の桐山香苗さんが精巧なレプリカ(複製版)をつくり、私にも一冊下さったのである。
 表紙には、Quelque poèmes / par Monsieur / Komaki Ohmia / décorés par Monsieur / Foujita./ se trouve / A LA BELLE Edition ? / 71, Rue des Saits-Peres, 71 / A PARIS とある。A5版(21.0×14.0cm)、表紙を含めて20ページ。ヤシ科の植物の繊維で中綴じした冊子には、各ページに近江谷のフランス語の詩と藤田の線描が、12ページにわたって1点づつ印刷されている。
 表紙にdécorésとあるとおり、藤田の素描は詩の内容とは直接関係なく、本を飾るイメージの役割をはたしている。写真で複製したように、一筆がきのような繊細な線で、女性の横顔、子どもを抱く母親、傘をもって綱渡りをする女、牡丹、鴨、馬、牛などを描き、漢字で「嗣治」の署名している。
 近江谷の詩はどれも数行の短いもので、写真のページの詩は、「en baisant / mes yeux mouillés / vous avez bu / tous mon sang / vous oublierez / est-possible? (涙で濡れた私の瞼に / くちづけしながら / 貴女は私の血をすべて / 飲みほした / 貴女はそのことを忘れてしまう / そんなことはありうるだろうか?)というものである。句読点を省いた詩が、ガラモン体を模した美しい活字で印刷されている。
 近江谷駉は、この詩画集を土産に1919年12月帰国の途についた。そして故郷である秋田県土崎で友人とともに『種蒔く人』を創刊し、日本にヨーロッパ反戦思想を紹介する。そしてパリでは「コマキ」と呼ばれていたことから、姓と名を逆にした小牧近江のペンネームを用いることになる。
 藤田はサロンでの成功をきっかけにパリ画壇へデビューをはたすが、彼を一躍有名にした白地に面相筆による線描を生かした画風は、そもそもこの小冊子からはじまったのである。その意味でもこの詩画集は貴重である。

d0238372_2102062.jpg

[PR]
by monsieurk | 2012-10-26 08:00 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

能と呼吸

 東京・渋谷と神奈川県の中央林間をつなぐ田園都市線沿線には、幾つかの大学や大学病院があり、それぞれ活発な広報活動を繰り広げている。利用する駅の無料配布ボックスで、昭和大学が出しているマガジン「Educe Vol.5」を見つけた。そこに同大学医学部第二生理学教室の本間生夫教授に関する興味深い記事が載っていた。
 本間教授は呼吸生理学が専門で、かねてから心と呼吸の関係をテーマに研究をつづけてきた。呼吸には、酸素を取り入れて体内の二酸化炭素を調節する「代謝性呼吸」と、温度などの外的環境の変化や体内環境の変化によって変わる「行動性呼吸」の二種類がある。そして「行動性呼吸」のなかに、喜怒哀楽などの情動にかかわる呼吸があり、本間教授の教室では、情動を司る脳の扁桃体の動きと呼吸の関連を調べてきた。
 そうしたなかで、本間教授は呼吸と「能」の関係に着目したという。西欧の演劇では心の動きは、身振りや手振り、あるいは表情の変化によって表現される。それに対して、能では演者の動きは静的で、表情は能面の下に隠されている。それにもかかわらず、演者の表象する感情は、観るものに的確に伝わってくる。これは「内的表象」とでも呼べるものだが、能の演者はどのような方法で、感情の起伏を表象しているのか。
 本間教授はここに自らのテーマである、心と呼吸の相関を解く鍵があると考えて、懇意である観世流の能楽師、梅若猶彦氏に『隅田川』を演じてもらい、脳の変化と感情の表出の関係を調べたという。
 観世元雅作の謡曲『隅田川』では、舞台の幕が揚がると、そこは隅田川の岸辺で、渡し守が、「これが最後の渡しだが、今日は大念仏で沢山人が集まる」と語る。ワキツレが、「都から来た面白い狂女を見た」といい、そこに狂女が、子を失ったことを嘆きながら登場する。そして対岸の柳の根元に人が大勢集まっているのはなぜかと問う。
 渡し守は、人買いに攫われてきた子がいたが、病気になってこの地で捨てられ死んだと告げる。その子は死の間際に、「自分は、京は北白河の吉田某の一人息子だが、父母と歩いていたとき、父が先に行ってしまい、母と二人になったところを攫われた。自分はもう駄目だが、京の人もここを通るにちがいない。道の傍らに塚をつくり、柳を植えてほしい」と頼んだ。憐れんだ里人はその通りにして、一年に一度念仏を唱えることにしたのだと語る。
 d0238372_011217.jpgそれこそ探し求めていたわが子と気づいた狂女は念仏を唱える。すると一瞬、子が姿を現したかに思えたが、母の前にあるのは塚と生い茂る草だけであった、という悲しい物語である。
 本間教授は、狂女を演じる梅若猶彦に協力してもらい、舞台上の能楽師の脳の活動を調べた。その結果、「表情はまったく変化していないのに、ただ呼吸だけが激しく変化していた。悲しい場面では、呼吸が激しく乱れ、扁桃体が激しく活動していることが分かった」という。悲しみや不安など情動の変化はすべて呼吸に伴って出現する。能の先達は、呼吸を変えると身体の様相が変わることを心得ていて、それを舞台表現に利用しているという。私たちは日常、緊張をほぐすのに呼吸を整える方法をとるが、能の内面表現もこの方法に則って実現されているのであるが分かった。
 本間生夫教授は自身も能を習い、フランスの劇作家ジャン・ジロドゥの『オンディーヌ』を現代能にしたという。ちなみに「オンディーヌの呪い」とは、先天性の無呼吸症候群を指すとのこと。なぜかはお調べください。
d0238372_0105523.jpg

[PR]
by monsieurk | 2012-03-01 23:50 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

瀧口修造とデュシャン

 千葉市美術館で開催されている「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展を見てきた。瀧口の研究家で、彼の作品を数多く蒐集している土渕信彦氏と、マン・レイの研究者でコレクターの石原輝雄氏と一緒だった。石原氏のことは以前にブログ(「マン・レイになってしまった人」)で紹介したことがある。
 瀧口修造(1903-1979)は、慶應義塾大学の英文学科の学生として、帰国したばかりの西脇順三郎の下で薫陶をうけ、1920年代後半にシュルレアリスムの詩人としデビューした。
 瀧口は1930年にアンドレ・ブルトンの『超現実主義と絵画』を翻訳したが、これが日本で最初の本格的なシュルレアリスムの紹介だった。同じ年には小林秀雄がランボーの『地獄の季節』を翻訳している。やがて戦争へと傾斜する時代のもとで、二人の歩みは次第に対照的な軌跡を描いた。一人はあくまでも批判的態度を堅持し、他方は古典へと回帰していった。
 瀧口は戦前、戦後を通じて美術評論を中心に活動して、日本の前衛芸術の牽引役をになった。さらに1960年以降は、文筆によるだけでなく、自動筆記によるデッサンやデカルコマニー、さらには写真や映画も製作した。フランス語のデカルコマニー(décalcomanie)とはdécalquer(転写する)に由来するもので、紙と紙の間に絵具を挟んで全面に圧力を加えると、絵具は押しつぶされて広がり、作者の意図しない形態を生み出すことができる。瀧口は転写画の偶発性に惹かれたのである。こうした創作は、他人の作品の批評に飽き足らなくなった瀧口のやむにやまれぬ自己表出だったともいえる。
 今回の展覧会では300点をこえる作品と資料を見ることができるが、それらは大きく3部に分かれていて、第1部は、デュシャンの出世作ともいえる≪階段を降りる裸体≫の版画や、代表作≪彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも≫(通称「大ガラス」、1923年製作)の部分の版画、男性用便器にサインしたレディ・メイド≪泉≫以後の作品で構成され、第2部は瀧口とデュシャンの交流を示す資料と、瀧口によるデュシャン関連の作品、第3部ではマン・レイ、ジャスパー・ジョーンズ、荒川修作など、瀧口と交流しその影響をうけた作家たちの作品が展示されている。
 瀧口修造がマルセル・デュシャンについて最初に触れたのは、西脇順三郎の『超現実主義詩論』の付属として書かれた「ダダよりシユルレアリスムへ」(1929年)である。『幻想画家論』(1959年)に収められた「マルセル・デュシャン」では、「デュシャンを一層有名にしたのは、むしろかれの反絵画的行動である。ダ・ヴィンチのモナ・リザの複製に髭をつけたという話はダダの伝説になっているし、1917年、便器に署名してニューヨークのアンデパンダン展に持ちこんで拒絶されたのもかれである。デュシャンはいわゆる「レディ・メイド」のオブジェの認識と機械思想〔マシニズム〕とを近代芸術のなかに導き入れた最初の人である」(コレクション瀧口修造、第1巻、168頁)と紹介している。ここに言及されているデュシャンの作品の多くは、展覧会で観ることができる。
 瀧口がデュシャンの面識を得たのは、1958年にヨーロッパを旅行して、スペインのバルセロナに近いダリの自宅を訪ねたときであった。このときの様子は、『ヨーロッパ紀行1958』に綴られている。「タクシーで帰ろうとしてダリの家を眺めるとテラスからかれの上半身が見えたので、私は駆けだしていって別れをつげた。すると玄関へ出てきて、「はいれ、紹介する人がある」という。思いがけぬダダの元老マルセル・デュシャンがテラスの籐椅子にかけてにこにこしていたのである。」(同書、222頁)
 これが生涯ただ一回の邂逅だったが、以後二人は手紙のやりとりを通して親交を深めた。国や言葉を異にするとはいえ、同じ精神の共鳴(résonance)と呼ぶべきものだった。今回の展示はそれをよく示している。
 瀧口修造の感性をよくあらわしていると思ったものに、「瀧口修造ゆかりの作家とマルセル・デュシャン」のコーナーに飾られている、「マン・レイあて追悼文」(1976年、宮脇愛子氏蔵)がある。鬼才マン・レイはデュシャンと並んで、瀧口が愛し影響を受けたフランスの芸術家で、1976年に亡くなった。

 マン レイ様

 拝啓
 失礼ながら まず あなたのお名前について 私が
 年来、奇異に感じてきたことを申し上げたいのです。
  これは私の頑な考えなのですが、人の謂わゆる本名が
 必ずしも本名らしくなく、むしろ俗名のように見えがち
 だということです。日本の諺に「名は体を表わす」
 などといいますが、私には到底信じ難いことで、というよりは
 名がその物自体を定義することなど思いもよらず、
 況んや 人の名がその人を体現することは不可能だからです。
  しかし 唯一の例外はあなたの本名としてのマン・レイ
 だと思うのです。いったい、あなたの誕生と
 命名に何が起ったのでしょう?
  あなたは画家としても、写真家としても著名ですが、しかし
 多くの人は、困ったことに、あなたのお仕事を二通りに
 評価しがちです。しかし 私の考えでは、あなたこそ事実上、
 肉眼と暗箱とを、素手で、つまりまさしく
 人間〔マン〕の光線〔レイ〕を通じて つないだ唯一の芸術家なのです。
 マン レイ、その名は あなたの 生まれながらの
                          発明です。
 人間 MAN よ、それをなし遂げたのは
                      あなたです!
                   敬意をこめて
                      滝口修造
                       一九七三年十一月末日
 プラトンは対話編『クラチュロス』の中で、言葉が事物の本質をあらわすか、それとも習慣・約束に基づくものかどうかを問題にした。名前の正しさは本性的であるとするクロチュロスに対して、ソクラテスは名前の正しさは現実には使用する人たちの取り決めによると主張した。「追悼文」の瀧口はソクラテスの側に立つわけだが、唯一の例外がマン・レイである。彼の場合は名が体を表し、瀧口はその奇跡を愛でるのである。

 展覧会の会場は美術館の7階と8階だが、関連企画として、土渕信彦氏の企画・構成による「瀧口修造の光跡 Ⅲ 「百の眼の物語」」が開かれている。ここでは土渕氏の個人コレクションである、瀧口のデカルコマニー44点と関連資料を見ることができる。展示されたデカルコマニーの制作年代は1960年から1973年におよび、色彩を用いたものから墨絵風のものへ変化していく様子を追うことができる貴重な展示である。こちらの方は展覧会よりも早い12月25日までの開催。お見逃しなく。
[PR]
by monsieurk | 2011-12-14 23:47 | 芸術 | Trackback | Comments(3)

携帯写真

 リビアでは42年の長きにわたって独裁政治をおこなってきたカダフィ大佐が殺害された。その最後の瞬間は携帯電話のカメラで撮影され、世界中に流布された。昨年暮れから北アフリカや中東を舞台に続いた独裁政権打倒の運動には一つの特徴がある。人びとは携帯やiPhoneなどの端末をインターネットにつなぎ、ツイッターやフェイスブックで仲間と連絡をとりあった。そして写真や動画を撮って、インターネット動画サイトで公開した。
 世界中の殆どの人が持っている携帯やiPhoneのカメラは、露出など細かい設定が不要で、いつでもどこでもシャッターを押して、現実を映像として切り取ることができる。街でなにか事が起れば、人びとが一斉に携帯のカメラを向ける光景は日常茶飯で、ネット上には無数の「携帯写真」のホームページが開かれている。そうした携帯写真は1839年にフランスで発明されて以後の写真史にあって、どのような意味を持つのだろうか。
 
 かつてNHKのETVカルチャースペシャル『写真と生きた20世紀――アンリ・カルティエ=ブレッソン91歳の証言』(1999年10月9日放送)を制作したとき、パリ・リヴォリ通の仕事場で、この伝説の写真家と対談する機会があった。
 カルティエ=ブレッソンの代名詞となった「決定的瞬間」は、1952年に出版された写真集の英語版のタイトルとして用いられたのが最初で、オリジナルのフランス版は”IMAGES À LA SAUVETTE” であった。このフランス語は「逃げ去る映像」というほどの意味で、それを英語版で、THE DECISIVE MOMENT(決定的瞬間)と訳したのは、けだし名訳であった。このときからカルティエ=ブレッソンの名は不朽のものとなり、写真を撮る人たちは「決定的瞬間」を求めて、カメラのシャッターを切るようになった。
 写真集『決定的瞬間』は、アンリ・マティスが表紙をデザインし、126枚の写真とコメント、それに「ルポルタージュ」、「主題」、「構図」などについて自説を述べた文章が収められている。
 カルティエ=ブレッソンは「主題」に関して、「重要なのは、さまざまな事実の中から、隠れた現実を示している真の事実を選び取る仕方であり、自分自身が認識したものに対して自分の立場を定めることである」と述べ、また「構図」については、「構図は必然性がなければならず、内容から切り離すことはできない」と言い、「(構図に)黄金比を適応するには、撮影者がその目ですばやく目測する以外にない」と語っている。つまり「構図」は撮影と同時に決定されるというのである。
 彼は対談でも、「絵画(素描)が瞑想なのに対して、写真は射撃だ」と言い、また「モータードライブによる連続撮影やズームレンズなどを使うのは邪道だ」とも語った。事実、カルティエ=ブレッソンにとっては、カメラの小さなファインダーの中に、黄金分割の構造が見て取れたときがシャッター・チャンスであり、その瞬間を逃さずにシャッターを切る。彼はそうした瞬間を予期して、場所と時間を選び、獲物が射程に入るのをハンターがじっと待つように、その瞬間が訪れるのを待つのである。
 だがこうした写真術は、類まれな感性と訓練によって、カメラが目の延長、身体の一部にまでなった特別の人が撮る写真にこそ当てはまることなのではないのか。
 繊維会社を営む裕福な家に生まれたカルティエ=ブレッソンは、小さいときに「ブロウニー・ボックス」型のカメラを買い与えられ、それで夏休みの写真を取ってアルバムをつくったという。ただ彼の興味はすぐには写真に向かわず、当時の芸術を席捲していたシュルレアリズム運動の洗礼を受けたあと、アンドレ・ロートのもとで本格的に絵を学んだ。
 詩人のランボーに憧れていた彼は、その後22歳のときアフリカへ渡って仕事に従事したが、病を得てフランスに帰国。マルセイユで療養生活を送っていたとき、小型カメラ「ライカ」と出会った。1931年のことである。このときから彼は写真を表現手段とする決心をした。機動性と速写性に富んだ「ライカ」は、絵画を描くうちに培われた構図への鋭い感覚と、シャッター・チャンスへの嗅覚を発揮するのに最適だった。ライカが持つ機能があって初めて、自らの現実認識を写真として定着することを可能にしたのである。それは文字通り「決定的瞬間」の出現であった。だがはたしてこの「決定的瞬間」は、本当に一瞬の勝負の成果なのだろうか。
 カルティエ=ブレッソンが創立者の1人であった写真通信社「マグナム」には、彼をはじめ多くのカメラマンが撮影した膨大な写真のコンタクト・プリント(「べた焼き」)が保存されている。上記のテレビ番組を制作する過程で、カルティエ=ブレッソンのコンタクトの一部を見せてもらうことができたが、写真集に掲載された作品の前後にも、ほぼ同じポジションで撮られた写真がある。発表された写真はコンタクトの中から1点だけ選ばれたものなのだが、ではコンタクトの意味をどう考えればいいのだろうか。
 フランスの映画監督アレクサンドル・アストリュックは、1948年に「カメラ万年筆論」を唱えた。小説家が万年筆を使って自分の思想を作品として具現化するように、映画の監督や脚本家は、カメラを使って自分の思想を表現するのだと主張したのである。
 この考えは、アンドレ・バザンによる作家論という形で具現化され、1950年代末に「ヌーヴェル・ヴァーグ」が誕生する要因の1つとなった。バザンは、映画とは「その裏張りが映像をとどめておくようにつくられた特異な鏡だ」とも述べている。ヌーヴェル・ヴァーグの作家たちにとって、自分が世界を見る眼差しがフィルムそのものであり、その視線をいかにフィルムのなかに「保存」するかが問題であった。これが「カメラ万年筆」論の本質であった。
 そしてヌーヴェル・ヴァーグ運動の旗手の1人だったエリック・ロメールは、「もし歴史が弁証法的なものだというのが本当ならば、保存することの価値が、進歩の価値よりも現代的である瞬間がやってくる」と語ったことがある。ここでロメールが保存しようとするのは、対峙する現実と自分とに流れる「時間」であり、保存されるものは、カルティエ=ブレッソンのいう「消え去る映像」なのである。
 じつはその点で、デジタル技術の登場が大きな意味をもつ。これは映像撮影と保存の上で大きな展開をもたらした。デジタル技術を装着した「万年筆としてのカメラ」は、ムービーであれ、スチルであれ(その最先端が携帯電話に付属したカメラである)、小型化によっていわば身体と一体化され、究極の速写性と保存性を与えられたのである。これを手にした私たちは、現実に向けた自らの眼差しを、いつでも記録することが可能になった。こうして写し撮られた映像は、現実の上を一瞬に流れた時間であり、そこに成立していた私たちと対象との関係である。
 さらにデジタル・カメラの簡便性と記録容量の大きさが事態を一変させた。人びとは1点きりの「作品」をつくるという意識をもつことなく現実を無造作に切り取る。こうしてデータ・フォルダーに小さな映像として保存された1コマ1コマの総体が、ある時間の経過の中で成り立っていた対象と撮影者の関係を表している。フィルムの時代には、1コマを選び出すための素材であったコンタクト・プリントそのものが、前面にせり出してきて意味を帯びてくる。そのとき「決定的瞬間」に要求された「構図」へのこだわりは減じられ(これには携帯電話の画面が概ね縦長で、しかも1対1.618 の黄金比をなしていないことが微妙に影響している)、無造作にシャッターが切られ、多くの映像が記録されていく。
 携帯カメラを手に入れたことで、誰もが現実に注意深く目を向けるようになった。同時にそれは自分を見つめることにつながっている。データ・フォルダーの中に連なる小さな映像――それはまことに「特異な鏡」なのだ。
[PR]
by monsieurk | 2011-10-25 13:28 | 芸術 | Trackback | Comments(1)
line

フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31