フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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カテゴリ:芸術( 213 )

能と呼吸

 東京・渋谷と神奈川県の中央林間をつなぐ田園都市線沿線には、幾つかの大学や大学病院があり、それぞれ活発な広報活動を繰り広げている。利用する駅の無料配布ボックスで、昭和大学が出しているマガジン「Educe Vol.5」を見つけた。そこに同大学医学部第二生理学教室の本間生夫教授に関する興味深い記事が載っていた。
 本間教授は呼吸生理学が専門で、かねてから心と呼吸の関係をテーマに研究をつづけてきた。呼吸には、酸素を取り入れて体内の二酸化炭素を調節する「代謝性呼吸」と、温度などの外的環境の変化や体内環境の変化によって変わる「行動性呼吸」の二種類がある。そして「行動性呼吸」のなかに、喜怒哀楽などの情動にかかわる呼吸があり、本間教授の教室では、情動を司る脳の扁桃体の動きと呼吸の関連を調べてきた。
 そうしたなかで、本間教授は呼吸と「能」の関係に着目したという。西欧の演劇では心の動きは、身振りや手振り、あるいは表情の変化によって表現される。それに対して、能では演者の動きは静的で、表情は能面の下に隠されている。それにもかかわらず、演者の表象する感情は、観るものに的確に伝わってくる。これは「内的表象」とでも呼べるものだが、能の演者はどのような方法で、感情の起伏を表象しているのか。
 本間教授はここに自らのテーマである、心と呼吸の相関を解く鍵があると考えて、懇意である観世流の能楽師、梅若猶彦氏に『隅田川』を演じてもらい、脳の変化と感情の表出の関係を調べたという。
 観世元雅作の謡曲『隅田川』では、舞台の幕が揚がると、そこは隅田川の岸辺で、渡し守が、「これが最後の渡しだが、今日は大念仏で沢山人が集まる」と語る。ワキツレが、「都から来た面白い狂女を見た」といい、そこに狂女が、子を失ったことを嘆きながら登場する。そして対岸の柳の根元に人が大勢集まっているのはなぜかと問う。
 渡し守は、人買いに攫われてきた子がいたが、病気になってこの地で捨てられ死んだと告げる。その子は死の間際に、「自分は、京は北白河の吉田某の一人息子だが、父母と歩いていたとき、父が先に行ってしまい、母と二人になったところを攫われた。自分はもう駄目だが、京の人もここを通るにちがいない。道の傍らに塚をつくり、柳を植えてほしい」と頼んだ。憐れんだ里人はその通りにして、一年に一度念仏を唱えることにしたのだと語る。
 d0238372_011217.jpgそれこそ探し求めていたわが子と気づいた狂女は念仏を唱える。すると一瞬、子が姿を現したかに思えたが、母の前にあるのは塚と生い茂る草だけであった、という悲しい物語である。
 本間教授は、狂女を演じる梅若猶彦に協力してもらい、舞台上の能楽師の脳の活動を調べた。その結果、「表情はまったく変化していないのに、ただ呼吸だけが激しく変化していた。悲しい場面では、呼吸が激しく乱れ、扁桃体が激しく活動していることが分かった」という。悲しみや不安など情動の変化はすべて呼吸に伴って出現する。能の先達は、呼吸を変えると身体の様相が変わることを心得ていて、それを舞台表現に利用しているという。私たちは日常、緊張をほぐすのに呼吸を整える方法をとるが、能の内面表現もこの方法に則って実現されているのであるが分かった。
 本間生夫教授は自身も能を習い、フランスの劇作家ジャン・ジロドゥの『オンディーヌ』を現代能にしたという。ちなみに「オンディーヌの呪い」とは、先天性の無呼吸症候群を指すとのこと。なぜかはお調べください。
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by monsieurk | 2012-03-01 23:50 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

瀧口修造とデュシャン

 千葉市美術館で開催されている「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展を見てきた。瀧口の研究家で、彼の作品を数多く蒐集している土渕信彦氏と、マン・レイの研究者でコレクターの石原輝雄氏と一緒だった。石原氏のことは以前にブログ(「マン・レイになってしまった人」)で紹介したことがある。
 瀧口修造(1903-1979)は、慶應義塾大学の英文学科の学生として、帰国したばかりの西脇順三郎の下で薫陶をうけ、1920年代後半にシュルレアリスムの詩人としデビューした。
 瀧口は1930年にアンドレ・ブルトンの『超現実主義と絵画』を翻訳したが、これが日本で最初の本格的なシュルレアリスムの紹介だった。同じ年には小林秀雄がランボーの『地獄の季節』を翻訳している。やがて戦争へと傾斜する時代のもとで、二人の歩みは次第に対照的な軌跡を描いた。一人はあくまでも批判的態度を堅持し、他方は古典へと回帰していった。
 瀧口は戦前、戦後を通じて美術評論を中心に活動して、日本の前衛芸術の牽引役をになった。さらに1960年以降は、文筆によるだけでなく、自動筆記によるデッサンやデカルコマニー、さらには写真や映画も製作した。フランス語のデカルコマニー(décalcomanie)とはdécalquer(転写する)に由来するもので、紙と紙の間に絵具を挟んで全面に圧力を加えると、絵具は押しつぶされて広がり、作者の意図しない形態を生み出すことができる。瀧口は転写画の偶発性に惹かれたのである。こうした創作は、他人の作品の批評に飽き足らなくなった瀧口のやむにやまれぬ自己表出だったともいえる。
 今回の展覧会では300点をこえる作品と資料を見ることができるが、それらは大きく3部に分かれていて、第1部は、デュシャンの出世作ともいえる≪階段を降りる裸体≫の版画や、代表作≪彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも≫(通称「大ガラス」、1923年製作)の部分の版画、男性用便器にサインしたレディ・メイド≪泉≫以後の作品で構成され、第2部は瀧口とデュシャンの交流を示す資料と、瀧口によるデュシャン関連の作品、第3部ではマン・レイ、ジャスパー・ジョーンズ、荒川修作など、瀧口と交流しその影響をうけた作家たちの作品が展示されている。
 瀧口修造がマルセル・デュシャンについて最初に触れたのは、西脇順三郎の『超現実主義詩論』の付属として書かれた「ダダよりシユルレアリスムへ」(1929年)である。『幻想画家論』(1959年)に収められた「マルセル・デュシャン」では、「デュシャンを一層有名にしたのは、むしろかれの反絵画的行動である。ダ・ヴィンチのモナ・リザの複製に髭をつけたという話はダダの伝説になっているし、1917年、便器に署名してニューヨークのアンデパンダン展に持ちこんで拒絶されたのもかれである。デュシャンはいわゆる「レディ・メイド」のオブジェの認識と機械思想〔マシニズム〕とを近代芸術のなかに導き入れた最初の人である」(コレクション瀧口修造、第1巻、168頁)と紹介している。ここに言及されているデュシャンの作品の多くは、展覧会で観ることができる。
 瀧口がデュシャンの面識を得たのは、1958年にヨーロッパを旅行して、スペインのバルセロナに近いダリの自宅を訪ねたときであった。このときの様子は、『ヨーロッパ紀行1958』に綴られている。「タクシーで帰ろうとしてダリの家を眺めるとテラスからかれの上半身が見えたので、私は駆けだしていって別れをつげた。すると玄関へ出てきて、「はいれ、紹介する人がある」という。思いがけぬダダの元老マルセル・デュシャンがテラスの籐椅子にかけてにこにこしていたのである。」(同書、222頁)
 これが生涯ただ一回の邂逅だったが、以後二人は手紙のやりとりを通して親交を深めた。国や言葉を異にするとはいえ、同じ精神の共鳴(résonance)と呼ぶべきものだった。今回の展示はそれをよく示している。
 瀧口修造の感性をよくあらわしていると思ったものに、「瀧口修造ゆかりの作家とマルセル・デュシャン」のコーナーに飾られている、「マン・レイあて追悼文」(1976年、宮脇愛子氏蔵)がある。鬼才マン・レイはデュシャンと並んで、瀧口が愛し影響を受けたフランスの芸術家で、1976年に亡くなった。

 マン レイ様

 拝啓
 失礼ながら まず あなたのお名前について 私が
 年来、奇異に感じてきたことを申し上げたいのです。
  これは私の頑な考えなのですが、人の謂わゆる本名が
 必ずしも本名らしくなく、むしろ俗名のように見えがち
 だということです。日本の諺に「名は体を表わす」
 などといいますが、私には到底信じ難いことで、というよりは
 名がその物自体を定義することなど思いもよらず、
 況んや 人の名がその人を体現することは不可能だからです。
  しかし 唯一の例外はあなたの本名としてのマン・レイ
 だと思うのです。いったい、あなたの誕生と
 命名に何が起ったのでしょう?
  あなたは画家としても、写真家としても著名ですが、しかし
 多くの人は、困ったことに、あなたのお仕事を二通りに
 評価しがちです。しかし 私の考えでは、あなたこそ事実上、
 肉眼と暗箱とを、素手で、つまりまさしく
 人間〔マン〕の光線〔レイ〕を通じて つないだ唯一の芸術家なのです。
 マン レイ、その名は あなたの 生まれながらの
                          発明です。
 人間 MAN よ、それをなし遂げたのは
                      あなたです!
                   敬意をこめて
                      滝口修造
                       一九七三年十一月末日
 プラトンは対話編『クラチュロス』の中で、言葉が事物の本質をあらわすか、それとも習慣・約束に基づくものかどうかを問題にした。名前の正しさは本性的であるとするクロチュロスに対して、ソクラテスは名前の正しさは現実には使用する人たちの取り決めによると主張した。「追悼文」の瀧口はソクラテスの側に立つわけだが、唯一の例外がマン・レイである。彼の場合は名が体を表し、瀧口はその奇跡を愛でるのである。

 展覧会の会場は美術館の7階と8階だが、関連企画として、土渕信彦氏の企画・構成による「瀧口修造の光跡 Ⅲ 「百の眼の物語」」が開かれている。ここでは土渕氏の個人コレクションである、瀧口のデカルコマニー44点と関連資料を見ることができる。展示されたデカルコマニーの制作年代は1960年から1973年におよび、色彩を用いたものから墨絵風のものへ変化していく様子を追うことができる貴重な展示である。こちらの方は展覧会よりも早い12月25日までの開催。お見逃しなく。
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by monsieurk | 2011-12-14 23:47 | 芸術 | Trackback | Comments(3)

携帯写真

 リビアでは42年の長きにわたって独裁政治をおこなってきたカダフィ大佐が殺害された。その最後の瞬間は携帯電話のカメラで撮影され、世界中に流布された。昨年暮れから北アフリカや中東を舞台に続いた独裁政権打倒の運動には一つの特徴がある。人びとは携帯やiPhoneなどの端末をインターネットにつなぎ、ツイッターやフェイスブックで仲間と連絡をとりあった。そして写真や動画を撮って、インターネット動画サイトで公開した。
 世界中の殆どの人が持っている携帯やiPhoneのカメラは、露出など細かい設定が不要で、いつでもどこでもシャッターを押して、現実を映像として切り取ることができる。街でなにか事が起れば、人びとが一斉に携帯のカメラを向ける光景は日常茶飯で、ネット上には無数の「携帯写真」のホームページが開かれている。そうした携帯写真は1839年にフランスで発明されて以後の写真史にあって、どのような意味を持つのだろうか。
 
 かつてNHKのETVカルチャースペシャル『写真と生きた20世紀――アンリ・カルティエ=ブレッソン91歳の証言』(1999年10月9日放送)を制作したとき、パリ・リヴォリ通の仕事場で、この伝説の写真家と対談する機会があった。
 カルティエ=ブレッソンの代名詞となった「決定的瞬間」は、1952年に出版された写真集の英語版のタイトルとして用いられたのが最初で、オリジナルのフランス版は”IMAGES À LA SAUVETTE” であった。このフランス語は「逃げ去る映像」というほどの意味で、それを英語版で、THE DECISIVE MOMENT(決定的瞬間)と訳したのは、けだし名訳であった。このときからカルティエ=ブレッソンの名は不朽のものとなり、写真を撮る人たちは「決定的瞬間」を求めて、カメラのシャッターを切るようになった。
 写真集『決定的瞬間』は、アンリ・マティスが表紙をデザインし、126枚の写真とコメント、それに「ルポルタージュ」、「主題」、「構図」などについて自説を述べた文章が収められている。
 カルティエ=ブレッソンは「主題」に関して、「重要なのは、さまざまな事実の中から、隠れた現実を示している真の事実を選び取る仕方であり、自分自身が認識したものに対して自分の立場を定めることである」と述べ、また「構図」については、「構図は必然性がなければならず、内容から切り離すことはできない」と言い、「(構図に)黄金比を適応するには、撮影者がその目ですばやく目測する以外にない」と語っている。つまり「構図」は撮影と同時に決定されるというのである。
 彼は対談でも、「絵画(素描)が瞑想なのに対して、写真は射撃だ」と言い、また「モータードライブによる連続撮影やズームレンズなどを使うのは邪道だ」とも語った。事実、カルティエ=ブレッソンにとっては、カメラの小さなファインダーの中に、黄金分割の構造が見て取れたときがシャッター・チャンスであり、その瞬間を逃さずにシャッターを切る。彼はそうした瞬間を予期して、場所と時間を選び、獲物が射程に入るのをハンターがじっと待つように、その瞬間が訪れるのを待つのである。
 だがこうした写真術は、類まれな感性と訓練によって、カメラが目の延長、身体の一部にまでなった特別の人が撮る写真にこそ当てはまることなのではないのか。
 繊維会社を営む裕福な家に生まれたカルティエ=ブレッソンは、小さいときに「ブロウニー・ボックス」型のカメラを買い与えられ、それで夏休みの写真を取ってアルバムをつくったという。ただ彼の興味はすぐには写真に向かわず、当時の芸術を席捲していたシュルレアリズム運動の洗礼を受けたあと、アンドレ・ロートのもとで本格的に絵を学んだ。
 詩人のランボーに憧れていた彼は、その後22歳のときアフリカへ渡って仕事に従事したが、病を得てフランスに帰国。マルセイユで療養生活を送っていたとき、小型カメラ「ライカ」と出会った。1931年のことである。このときから彼は写真を表現手段とする決心をした。機動性と速写性に富んだ「ライカ」は、絵画を描くうちに培われた構図への鋭い感覚と、シャッター・チャンスへの嗅覚を発揮するのに最適だった。ライカが持つ機能があって初めて、自らの現実認識を写真として定着することを可能にしたのである。それは文字通り「決定的瞬間」の出現であった。だがはたしてこの「決定的瞬間」は、本当に一瞬の勝負の成果なのだろうか。
 カルティエ=ブレッソンが創立者の1人であった写真通信社「マグナム」には、彼をはじめ多くのカメラマンが撮影した膨大な写真のコンタクト・プリント(「べた焼き」)が保存されている。上記のテレビ番組を制作する過程で、カルティエ=ブレッソンのコンタクトの一部を見せてもらうことができたが、写真集に掲載された作品の前後にも、ほぼ同じポジションで撮られた写真がある。発表された写真はコンタクトの中から1点だけ選ばれたものなのだが、ではコンタクトの意味をどう考えればいいのだろうか。
 フランスの映画監督アレクサンドル・アストリュックは、1948年に「カメラ万年筆論」を唱えた。小説家が万年筆を使って自分の思想を作品として具現化するように、映画の監督や脚本家は、カメラを使って自分の思想を表現するのだと主張したのである。
 この考えは、アンドレ・バザンによる作家論という形で具現化され、1950年代末に「ヌーヴェル・ヴァーグ」が誕生する要因の1つとなった。バザンは、映画とは「その裏張りが映像をとどめておくようにつくられた特異な鏡だ」とも述べている。ヌーヴェル・ヴァーグの作家たちにとって、自分が世界を見る眼差しがフィルムそのものであり、その視線をいかにフィルムのなかに「保存」するかが問題であった。これが「カメラ万年筆」論の本質であった。
 そしてヌーヴェル・ヴァーグ運動の旗手の1人だったエリック・ロメールは、「もし歴史が弁証法的なものだというのが本当ならば、保存することの価値が、進歩の価値よりも現代的である瞬間がやってくる」と語ったことがある。ここでロメールが保存しようとするのは、対峙する現実と自分とに流れる「時間」であり、保存されるものは、カルティエ=ブレッソンのいう「消え去る映像」なのである。
 じつはその点で、デジタル技術の登場が大きな意味をもつ。これは映像撮影と保存の上で大きな展開をもたらした。デジタル技術を装着した「万年筆としてのカメラ」は、ムービーであれ、スチルであれ(その最先端が携帯電話に付属したカメラである)、小型化によっていわば身体と一体化され、究極の速写性と保存性を与えられたのである。これを手にした私たちは、現実に向けた自らの眼差しを、いつでも記録することが可能になった。こうして写し撮られた映像は、現実の上を一瞬に流れた時間であり、そこに成立していた私たちと対象との関係である。
 さらにデジタル・カメラの簡便性と記録容量の大きさが事態を一変させた。人びとは1点きりの「作品」をつくるという意識をもつことなく現実を無造作に切り取る。こうしてデータ・フォルダーに小さな映像として保存された1コマ1コマの総体が、ある時間の経過の中で成り立っていた対象と撮影者の関係を表している。フィルムの時代には、1コマを選び出すための素材であったコンタクト・プリントそのものが、前面にせり出してきて意味を帯びてくる。そのとき「決定的瞬間」に要求された「構図」へのこだわりは減じられ(これには携帯電話の画面が概ね縦長で、しかも1対1.618 の黄金比をなしていないことが微妙に影響している)、無造作にシャッターが切られ、多くの映像が記録されていく。
 携帯カメラを手に入れたことで、誰もが現実に注意深く目を向けるようになった。同時にそれは自分を見つめることにつながっている。データ・フォルダーの中に連なる小さな映像――それはまことに「特異な鏡」なのだ。
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by monsieurk | 2011-10-25 13:28 | 芸術 | Trackback | Comments(1)