フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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カテゴリ:芸術( 212 )

男と女――第八部(4)

 「小説和泉式部」

 四十二歳になった三千代は、「どんどん火」を雑誌「むらさき」一月号に発表し、さらに「南方文化交作への協力」という座談会に出席して、仏印旅行の体験に基づいて、文化交流の面で作家が積極的に役割をは果たすべきだとの持論を展開した。この座談会の内容は「文化映画」に掲載された。
 彼女の創作意欲は旺盛で、「早春」を雑誌「オール読物」三月号に、五月には「婦人画報」に「嘘みたいだ」を掲載した。そしてこの間、前年から取りかかった和泉式部を主人公にした中編小説の執筆を続けた。
 女高師在学中から和泉式部の歌に惹かれていた三千代は、前年には、製薬会社「ミノファーゲン」の責任者として大阪にいる義弟の菊地克己が調べてくれた和泉式部の遺跡を訪ねて歩いた。
 小説は京都の盛り場、新京極にある華岳山誠心院(通称式部寺)を訪ねるところから始まり、彼女自身の行動と心の動きを通して、中年をすぎた式部の生き方を甦らせる。そこには彼女自身の波乱の半生が色濃く投影されている。
 「私が和泉式部の遺跡をたずねたのは、かりそめの好奇心や、単なる好学の気持からではなかった。それはただ、このなま身の肉体をもって、じかに式部のゆかりある地、ゆかりあるものに触れてみたいという切ない願望にほかならないのであった。それというのも、さきにも言った通り、私がいつのまにか心のなかに、式部の肉身をわがものとしてかい抱いでいたためであった」、「日本の女達の誰の乳房の下にも和泉式部が持ったような、純粋にあこがれ、夢を夢見る心が、脈々とほとばしり、鼓動をうっているのを感じる。」と執筆の動機を語っている。
 構想が芽生えたの一九四二年の秋のことである。前年の秋は仏印行の準備でゆっくりと武蔵野の秋を愛でる余裕がなく、この年の関西行でも秋の情緒を味わえないまま、和泉式関連の資料を少しずつ読みはじめた。
 そんなある日、「書物から目をはなして庭を眺めているうちに私は、歓楽や愛執の季節も過ぎ落葉するものはことごとく落葉しつくして、静謐にかえった境地を、しみじみと味わった。
 和泉式部の生涯のうちのこの季節を書いてみたらと、私は考えついた。式部の奔放な情熱時代を書くよりも、その方がいまの私には、ずっと自然にはいりこむことができそうであった。
 その時期の式部といえば、書物によって四五年のひらきはあるが、天延二年に式部が生まれたものとして、寛弘八年宮仕えを止めた彼女が、藤原保昌と結婚して、相携えて丹後に下った三十六歳の頃からはじまるのではないかと思う。保昌と結婚して、摂津に下り、後、丹後に下るという説もある。万延二年愛娘の小式部内侍に先立たれた時、式部の年は五十三歳を数える。落葉するものが落葉しつくして、見る限りまったく冬景色にかえったのは、その年であろう。」
 こうして狙いをさだめた三千代は、執筆を後押ししてくれる書店主の紹介で、歴史ものを得意とする作家と、平安文学に造詣の深い作家の二人に、赤坂の料亭で話を聞くこと機会をえる。その際に聞きだした事項をメモにするが、それは丹後路での式部の事績、保昌と一緒に住んだ場所、二人が別れた理由、保昌の性格などであった。二人には、「やあ、これをみんなわかったら博士になれますよ」と言われるが、それでも彼らは読むべきものを教えてくれ、所蔵している本を借してくれて、三千代の下調べは進んでいった。
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by monsieurk | 2017-04-21 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第八部(3)

 一九四二年に陸軍報道班員としてシンガポールに送られた詩人の神保光太郎は、同じ年に報道班員として徴用された中島健蔵たちと、現地の人に日本語を教育するための「昭南日本学園」を創設した。
中島健蔵は『昭和時代』(岩波文庫)で、この徴用について、「徴用令状を受け取って最初に東京都庁〔正確には東京市庁〕に出頭したとき、はじめて自分たちのなかまには三木清、清水幾太郎がいることがわかった。われわれは当時の軍部には受けがいいはずがなかった。そこで、この徴用は、実は徴の字の下に「心」がついた『懲用』であろうといううわささえ飛んでいたし、多少の不安を抱いたまま四十人のなかまと一しょに輸送船に乗り込んだのである。」(『昭和時代』)
 シンガポールでは、中島は神保、作家井伏鱒二の三人で、ナッシムロードの大きな屋敷に一緒に住んだ。井伏は第一次徴用で、戦闘する部隊に同行してシンガポールに入り、第二次徴用の神保と中島は、戦闘が一応終息した後にシンガポールに到着した。
 神保光太郎は学校設立の体験を、『昭南日本学園』(愛之事業社、一九四三年)のなかで、次のように書いている。
 「私は新しき日本の占領地を、大東亜共栄圏のひとつとして更生しようとする平和建設の一翼である日本語の学校の責任者なのである。(中略)支配者の精神、日本の心を積極的に現地住民に識らしめんとするところにすべてが出発する。そして、これは当然、日本の植民地教育、又は、日本語学校の精神でもある。」(『昭和時代』)
 中島健蔵は神保より、この事業に積極的だったように見える。一九四二年四月二十九日の「陣中新聞」に寄稿した文章では、軍部に同調する、さらに言えば、阿る姿勢を鮮明にしている。
 「天長の佳節に方り、馬来及びスマトラ島住民の行くべき道は明らかになった。軍司令官閣下の談話に示された通り、両地区の住民は悉く、天皇陛下の赤子に加えられたのである。
 大日本帝国の有難き国体を彼等住民に理解させることは、新領土に駐屯する全皇軍将士にとって尊き責務である。そのためには、先ず国民たるの資格として、彼等に日本語を学ばしめ、日本語を使わなければならない。天長の佳節を期し、軍司令官閣下の談話に趣旨に基き、我等は此処に国語普及運動を起さんとなすものである。」(「日本語普及運動宣言」)
 占領地での日本語普及の動きに呼応するのが、宮崎嶺雄が持ってきた日本語の教科書の作成事業だった。金子は帰国する船中での義理もあって会合には出席したが、なにも話すことはなかった。
 金子の思いは、「日本学芸新聞」十一月一日号に書いた、「大東亜文学者大会に就いて」という記事に示されている。
 「大東亜の文学者を一堂に聚めるという日本文学報国会の企ては、政治的意義をのぞいても、糧を与えるという本質的意義がのこることなるとおもう。(中略)殆ど最初の経験としての日本の文学者は、与えるべき糧について慎重に考えて欲しい。与える方法にも相当技術を必要とするようにおもう。衝にあたる日本の文学者は、先ず共栄圏の他民族を出来うる限り知ってほしい。あくまでもその客観性に基づいて、ほんとうの糧となるものを考えてほしい。いくらでも言いたいことはあるが要約すれば、これは一つの危惧に外ならない。自分に重大なものは必ずしも他人に重大ではない。以上
――大東亜文学者会第一回は、事情によって中華、満洲、蒙古方面に限られてしまった。南方各地の人達は参加出来なかったことは残念である。南方の人達が来るに就いて御手つだいしようと思った私は、そんなわけで、何の役にも立たなかったことをお詫びし、幹事会(準備委員会)も御辞退するわけである。」
 南方の文学者たちが出席するならば手伝いたいというのは金子の本心であり、同時にこの企画自体に対しては、「自分に重大なものは必ずしも他人に重大ではない」というのが彼の真の思いだった。
 金子はこの年一九四二年(昭和十七年)の「中央公論」七月号に、詩「海」を発表したのを最後に、主要な雑誌に作品を発表できなくなった。
 「新潮」の編集者と会って、どの辺までなら発表可能かを探るために、新作の発表を打診すると尻込みされた。他の雑誌の編集者も同じような反応だった。詩人としての金子の存在自体が、雑誌にとって危険なものになっていたのである。日本放送協会から依頼されて、十篇ほどの唄が入ったマレー案内をつくったが、放送寸前に中止になった。
 中河与一が多くの文学者を、共産主義者、自由主義者、国家に忠実な者の三種類に分けたリストをつくって警視庁に提出したという噂が聞こえてきた。
 翌一九四三年五月、金子の唯一の弟子を自認する河邨文一郎が、北海道大学医学部を卒業して、東京帝国大学医学部の整形外科へ入局して上京した。赤門前の通称落第横丁に下宿した彼は、毎週のように吉祥寺の金子の家を訪問した。このころの金子の様子を以下のように語っている。
 「時局を論じ、文壇を罵倒し、私の詩作品に批評を乞い、そしてなによりも嬉しいことに金子さんの書き上げたばかりの新作をしばしば見せていただいた。しかし当時の金子さんには逼塞状況が迫っていた。反語や多義句をあやつって偽装を凝らした詩を発表しつづけることにも限界が近づいたといえる。特高が金子詩の本質をいつまで見破らずにいるか、第一、金子さんの作品を出版社が引受けなくなってきた。「海」を中央公論に発表したのが昭和十七年七月で、その後はジャーナリズムから急速に遠ざけられた。挫折感、敗北感が金子さんをさいなむようになったのを私は感じた。ヒステリックに、さあ、つかまえてくれ、と叫ぶか、後退しながらギリギリの線を絞りつつ抵抗を続けるか。とにかく言いたくは言わない、言えと強いられることはなおさら、いや絶対に言わないぞ、となれば、もはや黙るほかはない。ある晩、金子さんが突然言い出した。
「もう、これからはね、詩の発表はやめようかと思うんだ。発表はしないで、ただ書く。書いておく」と。」(河邨文一郎「体験的金子光晴抵抗詩論」、「こがね蟲」第四号)
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by monsieurk | 2017-04-18 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第八部(2)

この年十一月三日、明治節の日、「戦時の秋に捧げる文報の催し」として、第一回大東亜文学者大会が幕をあけ、満・蒙・華の代表が出席して、東京、大阪と会場を移しながら十日まで開催された。大会の議題は「大東亜戦争の目的完遂のため共栄圏内文学者の協力方法」と「大東亜文学建設」の二つだった。
 十一月一日に東京に着いた代表たちは、その日に参拝のために皇居と明治神宮に連れていかれた。翌日は、靖国神社を参拝したあと宮内庁へまわり、戦時下をたくましく生き抜く国民の見本として、明治神宮で行われている国民錬成大会を見物し、さらに朝日新聞社を訪問した。そして翌三日の午前十時から、一五〇〇名が参加した大東亜文学者大会が帝国劇場で開かれたのである。
 「大東亜戦争まさに熾烈なる日、東洋全民族の文学者ここに会し、団結一致永くわが東洋を蠹毒侵害せるいっさいの思想に戦いを宣し、新しき世界の黎明をもたらさんとす。実に史上未曽有の挙なり。われら精神の選士として深く思いをここにいたし、この大事に挺身し、東洋悠久の生命を世界に顕揚せんとす。時あかたも明治節の佳日をもって門出とする吾人の光栄なり。固き決意と勇猛心をもって本大会を全うせん、右宣誓す。」
 歌人土屋文明の司会のもとで、まず斉藤瀏がこう宣誓を述べ、島崎藤村の音頭で万歳を三唱した。この開会式で自作を朗読した川路柳虹は、「新しい朝の言葉」と題して、「ようこそ親しい隣邦の友だち・・・」という詩を朗読した。
 会議での発言はすべて日本語で行われ、他の国語は日本語に翻訳されたが、日本語の発言はいっさい翻訳されなかった。代表の多くはこれに不満を持ったが、なかには、「いまに日本語が東亜語となり、東亜文学、就中日本文学が世界に光彩をなたつだろう」(満州代表)、「日本語を知ることによって、はじめて大東亜の指導原理というべき八紘一宇の大精神にふれることができる」(台湾代表)といった阿(おもね)りの発言もあった。ただ中国の著名な作家、郭沫若や老舎、林悟堂などは瞑目して沈黙をつらぬいた。
 大会は、「東洋新生のための礎石は置かれたり、われらが心魂固く一致せり。今や大無畏の精神をもって邁進することをいっさいの敵国に告げん」云々という大袈裟な宣言を採択して幕をとじた。
 これからしばらくして、かつてマルセイユから帰国の折、シンガポールまで同船した宮崎嶺雄(船酔いに苦しみながらプルーストを読んでいた)から金子のもとに連絡があった。宮崎は岸田國士の門下生で、報国会の幹事をしているということだった。
 宮崎からは、インドネシア人向けの日本語の教科書をつくる相談会があるので、ぜひ出席してほしいという。宮崎からは帰国の途中、日本の文壇についていろいろ教えてもらった義理もあって出かけて行った。
 「出かけてみると、こんどはおおぜいで、知っている顔も二、三見うけた。このときは、高見順の独壇場であった。
 べつに、しゃべることもないので、黙っていると、インドネシアの事情について話してくれと、M(宮崎)が言った。むかしのインドネシアの話をすこし話した。それから尾崎喜八が芋の詩を朗読して、真杉静枝が感激して泣いたシーンをおぼえている。消極的であるうえに、頼みになりそうもない僕は、その後なにがあっても呼ばれず、こちらから出向くこともなく、やれ戦争賛美の詩を書けとか、ポスターを手伝えとか、なんとかかんとか言ってきたが、すっぽらかして返事も出さないので、そのまま、報国会とは縁のない存在となってしまった。
 文士たちも、内心はいやいややっていたのだろうとおもうが、そういう連中は張り切った連中におされて、引きもならず、進むにも気がすすまずで、ずいぶんいやなおもいをしたろう。みそぎだとか、ことあげだとか、それまでは、なんともなかった古語が、彼らの口から飛び出すと、とても場ちがいな、押しつけがましいいやな言葉になった。下地の反対な気持をもっているせいもあろうが、僕には、感覚的にやりきれないものに響いた。日本の文士はひよわだから、暴力に弱いのはしかたがないとあきらめた。」(『絶望の精神史』)
 積極的であったか否かは個々人によって多少の違いはあったにせよ、知識人の体制協力はいたるところで行われた。その一つの例が、占領下に置かれたシンガポール(昭南島)での日本語教育である。
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by monsieurk | 2017-04-15 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(31)

 三千代は帰国後、『晴れ渡る仏印』や詩集『インドシナ詩集』のほかに、安南の伝説を十六篇蒐集した『金色の伝説』を協力出版社から出版した。初版は五千部で、日本での仏印ブームを象徴する出来事だった。
 三千代が安南の伝説に魅せられたのは、ハノイ滞在中に作家の小牧近江(本名は近江谷駉)と出会って話を聞いたのがきっかけだった。小牧はこのときハノイにある国策会社「台湾殖産」の子会社である「印度支那産業」の調査課長・副参事だった。
 小牧は一八九四年五月に秋田県の土地崎港に生まれた。小学校を卒業後、父の意向で東京の暁星中学校に進学し、二年生のとき父に連れられてフランスへ行った。父の栄治は秋田港の築港や火力発電などの事業を手がけた土地の名士で、やがて衆議院議員になった。このときの渡欧は第一回の万国議員会議に出席するためだった。
 小牧は一九一〇年十月にパリの名門アンリ四世校に編入し、年下の小学生に交って勉学を続けた。だが二年後に父が事業に失敗して送金が途絶え、学校を放校されてしまった。その後は、フランスの会社で働きながら、苦学してパリ大学法学部を卒業した。
 第二次大戦をパリで体験した小牧は、戦後世界の平和を説く作家アンリ・バルビュスの「クラルテ運動」に共鳴し、その一員となって帰国した。一九二一年二月、二十六歳のとき、故郷土崎港の小学校で同級だった、金子洋文、今野賢三たちと、一九二一年に雑誌「種蒔く人」を創刊し、日本のプロレタリア運動のさきがけとなった。
 その後も精力的に左翼運動を進めたが、日本が中国大陸へ進出すると同時に、特高につけまわされる生活を余儀なくされ、トルコ大使館勤務をへて、一九三九年八月、フランス時代の外務省の伝手を頼って仏印へ渡ったのである。
 「印度支那産業」は、仏印の鉱産物、米、綿花、南京袋つくるジュート(綱麻)を現地の農民に栽培させて、それを日本に輸入する仕事をしていた。社員は支店長以下四十四人いたが、フランス生活の長い小牧は抜群の語学力と知識でフランス人や安南の人にも信頼が厚かった。
 そんな小牧近江が三千代に教えてくれたのは、民衆のあいだに伝えられてきた安陽王をめぐる物語だった。
 安陽王は長年覇権を競う雄王朝を倒して蜀を建国し、ハノイの北方の地古螺社(コーロア)に城を築いた。しかし何度やっても城は途中で崩れてしまう。そんなある日、金色の亀があらわれて、城には雄王朝の呪いがかけられていると告げる。王は亀の助けを借りて悪霊を退治し、城はようやく完成した。三年後、亀は南へ帰って行くが、城の守りとして自らの爪を一つ残してくれた。王はそれを引金にした弩(いしゆみ)をつくり、これがある限り城は安泰だった。
 だがこれを知った雄国の王は、息子の仲始(トンチュイ)をコーロアの城へ行かせ、安陽王の一人娘媚珠(ミイチョウ)と結婚させる。二人は幸せに暮らしたが、父の言いつけに背くことが出来ない仲始は、妻をだまして弩を受け取ると、帰国して父王に渡してしまう。さしもの安陽王も落城を覚悟し、娘の媚珠を馬に乗せて、二人で海まで落ちのびるが、そこに金の亀があらわれて、事の顛末を語って聞かせる。
 娘に裏切られたと思った父は、彼女の首を刎ようとする。媚珠の「私は何も知りません。もし私が罪人なら死んだあと塵となり、潔白ならその証に真珠となるでしょう」との言葉が終わらぬうちに、王は刀を一閃しては首を刎ねてしまう。海に流れた彼女の血を吸った牡蠣は見事な真珠を宿した。
 誤ちを悟った王は亀に導かれて海に入り、二度と地上へは戻らなかった。のちに悲劇を知った仲始は後悔と悲歎のあまり、井戸に身を投げて死んだ。
 史実をもとにしたこの伝説に興味をもった三千代は、関係する本を集め、悲劇の地コーロアを二度も訪ねて、帰国後これを作品にした。
 折からの南方ブームもあって、この物語は宝塚歌劇団の手で舞台化されることになった。歌劇は十月二十七日から十一月二十四まで、有楽町の宝塚劇場で上演され、看板には、「森三千代作、〈大東亜共栄圏 仏印の巻〉安南伝説・歌劇(雪組)「コーロア物語」(全十八景)」とあった。宇津秀男構成、内海重典演出で、出演は雪組の看板スター、春日野八千代、月丘夢路、千村克子そのほかだった。
 宝塚に肩入れしていたモンココ本舗は、金子が劇場ロビーの飾りつけやデザインを担当し、一日全館を借り切って社員全員に観劇させた。舞台は好評で、翌月一月元旦から二十七日まで続演となった。
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by monsieurk | 2017-04-09 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(30)

 「シエムレアップの夜(LA NUIT DE SIEMRĒAP)」

今夜は十七番目の名月の夜だ。

いま私はやってきた
アンコール・ワットの遺跡にすぐそばに。
私の視線の彼方では、
月明かりの夜のなか、遺跡の周りが
静かに沈みこんでいくように見える。

遺跡を訪れるのは明日
宝石箱のように、遠い霧のなかの真っ盛りの花々のように
目の前にやがて開かれる未知のものを楽しむのだ。
まだ見たことのない
私の心の秘密に
はじめて出会うかのように。

でも周囲のこの単調さは何だろう?
月は高くのぼりこんなにも小さく見える。

シエムレアップの街の小さな劇場からは
仏陀に似た様子で踊るカンボジア娘たちの
赤に染めた掌と曲げた指とで踊る
音楽は聞こえない。
私を取り囲むのは
虫の声ばかり。

この私が、咲き誇る夢を探すのは
ただ心の廃墟のかなだけ。
あなたに手紙を書くが
この手紙は決してあなたに届きはすまい。

今宵は歎きつつ
いまの私の生きざまを愛しむ
そして、それを誰かに聞いてほしいのだ。

 「アンコール・トム(ANGKOR THOM)」

感覚を失うほどの
長い時のほほえみ!

恋、嫉妬、そして歎きを経めぐり
最後に帰ってくるほほえみ。

破壊のあとでさえ
青空に幻影のごときものを残すそのほほえみ。

巨大で、複雑な世界の終りの
名残の味がするほほえみ。

雷鳴のようなそのほほえみ、
大嵐の瞬間のほほえみ、
永遠の凍りついたかのようなそのほほえみで、
おお、アンコール・トム! お前は私の生をすっかり虜にする。
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by monsieurk | 2017-04-06 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(29)

 「旅支度(TENUE DE VOYAGE)」

ああ! もう一度、
トランクに新しいラベルを加え、
私は旅立つ。

ある朝、私は人力車で遠くへ運ばれていった
霧雨に湿ったハノイから、
私を眠らせてくれた
パゴダの伝説よりも甘く悲しい胸から離れて。

ハノイ、
祖国よりも親しい名前、
それは気まぐれな空爆の下で
慌ただしい日々を生きるハノイだった・・・

のどかに流れる紅河の水に
自分の血の一滴を
私は落とした。
そのときからハノイは私と不可分なものとなった。

私がトランクに詰めるのは、
哀しげな竹藪を映す水田の
はるかな縁へ持っていくのは、
服でもなく、ノートでもなく、
化粧品でも、缶詰でもない、
それはプロペラの爆音の下で咲く一輪の花、
私の姿に似た悲しい花だ。

 「星座(LA CONSTELLATION)」

マンゴーの大枝の上の、
長柄を下にした大熊座、
隣には北極星
バルコンの左には南十字星。

今宵はなんという夢見る夜!
なんと深い郷愁に充ちた夜!
白いバルコンの上には、主人と招待客が
夜遅くまでグラスを空にしながら語り合う。

甘美な酒、《コワントロー》のなかに
空が身を傾けている
心地よく、甘やかに、爽やかに
星々が私の舌の上ではじける。

頭上では
星座が知らぬ間に半周していた。
いや、バルコンが一晩中歩きまわったのだ
空の周囲を。

長柄を横にした大熊座、
北極星が天空を
半周して滑りこみ
南十字星は、いまバルコンの右にある。
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by monsieurk | 2017-04-03 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(28)

 フランス語で書かれた『インドシナ詩集』には、三千代が旅した仏印各地で見聞した風景や文化風土、そこに生きる人びとの印象を主にうたった詩が、ハノイにはじまり、巡った順に並んでいる。

 「夜の樹々(LES ARBRES DE NUIT)」

ガンベッタ大通りの黄昏に
月が昇る、
オレンジ色の細い月が。

夜の樹々
身をよじらせ
闇の底から塊をなして立ちあがる、
空に祈るために手を合わせながら。

  ――ああ! この夜、
  私たちは眠れずに、苦しんでいる、
  私たちは呻く力も息をはずませる力もない。
  
そして樹々はかすかにざわめき、
やがて静かになる。
ひとりの安南女が両膝を抱えて、
黒い影の足元にいる。

夢もなく歌もなく、
夜霧の底なしの深さのなか、
無意味な眠りに
まどろみながら・・・

 「花々(LES FLEURS)」

幸せな日に
花を買いたくなるように!

少し曇った人生に、
不意に薄日がさす。

花々が萎れてしまうまで、それを撫でていよう。
「小湖」のさざ波のうえで
短い命の光を拾い集めよう。

水を渡る風に吹かれながら
私は黒髪を梳かそう。

 「桃の花(FLEUR DE PÊCHER)」

静かなたたずまいの安南で、
香しい風に運ばれた桃の花が
私の頬をそっと撫ぜた。
そしてすべてが火を燃えた・・・
おまえ!
昼の白い月の下、
静かに燃えるその火の歌に
身を委ねよう。

 「美しい土地(BELLE TERRE)」

私は飛行機でやってきた。
飛行機は富士山をかすめ、
多彩な色の雲のなかに
突込み、通りすぎる。

眼下には壮麗なパノラマが展ける。
突然、私は尺蛾のように落下する、
花粉をまき散らしながら。
ここはインドシナだ!

あなたたちに何をもたらすことができよう?
フランス語も安南語も話せず、
交易の品も面白い話もない私は。
私は、何ももたない蝶だ。

微風のなかには、パゴダ
そして緑の水田。
私は降り立つ、真摯なままの心を抱いて、
それをあなた方に捧げよう。
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by monsieurk | 2017-04-01 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(27)

 二十六篇の冒頭は、「J'AI VU LA CHERE FRANCE PARTOUT(私はいたるところに親愛なフランスを見た)」で、そのフランス語の原文と訳を引用してみる。

 J'AI VU LA CHERE FRANCE PARTOUT

Dédié à S. E. Monsieur le Vice-amiral J. DECOUX,
Gouverneur Général de l'Indochine

D'un coin de la ville de Hanoï,
Je passe tout d'un coup dans une rue de Paris.
Partout respire
La chère France!

Des arbres des boulevards, des pavés même,
Je me souviens de tout.

Egalement des pots de fleurs sur les fenêtres et des stores rayés imprégnés de vos amours.

Partant de mon pays natal,
Je suis venue dans une pays natal,
Que vous avez apportée de France.

De l'odeur de votre pay natal,
Ne vous doutez vous pas que je sens mon pays natal !
Vos sentiments de nostalgie
Résonnent aussi à mon oreille avec leur harmonieuse mélodie.

J'appelle avec vous tous, d'une seule voix
La France et Paris,
Désirant rappeler la moitié de ma vie
Vécue là-bas.

Dans tous les coins de Hanoï,
Battent les cœur chaleureux.
Nous n'en sommes pas à notre première recontre.
Eh bein ! N'est-ce-pas que nous nous sommes déjà rencontrés en France?  

 「私はいたるところに親しいフランスを見た」

               インドシナ総督、海軍少将、J.ドクー氏に献ず

ハノイの街の一隅から、
私は突然パリの通りに出た。
いたるところに親しいフランスが
息づいている!

大通りの樹木も、舗道の敷石さえも、
みな憶えている。
窓辺の花の鉢、あなた方の愛が染み込んだ縞模様の日除けも。

私は祖国を発って、
もう一つの祖国へやって来た。
あなた方がフランスから持ってきた
祖国の匂いのなかで生きるために。

あなた方の祖国の匂いから、
私が自分の祖国を感じるのを疑わないでほしい!
あなた方の郷愁は、私の耳にも
調和あるメロディーを響かせる。

あなた方みなと声を合せて
フランスとパリを呼ぶ、
彼の地で過ごした
私の半生を呼び戻したいと望みつつ。

ハノイの隅々で、
熱い心が鼓動している。
私たちはここで初めて出会ったのではない、
だって! 私たちはもうフランスで会ったではありませんか!
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by monsieurk | 2017-03-29 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(26)

 インドシナ詩集 

 三千代が仏印に滞在していた二月、単行本の旅行記『新嘉坡の宿』(興亜書房)が出版された。さらに三月には小説集『国違い』が刊行され、帰国後の九月末から年末の間に、フランス語の詩集を明治書房から上梓した。
 表紙には、「MITIYO MORI / POĒSIES INDOCHINOISES / Librairie Meiji-Shobo / Surugadai ・Kanda・Tokio」とあり、次ページには「DESSINS TSUGUJI FOUJITA」とあり、実際、藤田嗣治による線描絵が十点挿入されている。
 冒頭にはレター・ヘッドつきの便箋に、仏領インドシナ総督ジャン・ドクーの自筆の手紙が序文として掲げられ、そのあとにフランス語の詩二十六篇を収めている。
 詩集『POĒSIES INDOCHINOISES』を最初の取り上げたのは牧洋子で、『金子光晴と森三千代――おしどりの歌に萌える』(マガジンハウス、一九九二年)のなかで、二十六篇のうちの十篇を翻訳して紹介した。ここではそれとの重複を避けつつ、幾つかの詩篇を訳してみる。ジャン・ドクーの「序文」は以下の通りである。

 「最近のインドシナ旅行から、マダム森三千代がその思い出を、このほど独特の魅力を湛えた詩として私たちにもたらしてくれました。
 彼女は、日本の知的エリートの主要な特徴の一つである、人間や物事に対する鋭いヴィジョンを付与されていますが、マダム森は、日本民族が持つ観察眼に加えて、女性特有の感性のすべてをそれに加えています。フランス語を使ったり、西欧の学問に触れることから遠ざかっていたにもかかわらず、疲れを知らぬこの旅人は、インドシナのさまざまな地方の雰囲気と、同時に、彼女自身が眺めたさまざまな場所の魂を、きわめて適切な形式で表現しています。
 経歴そのものが日仏文化の親和性の統合を示す藤田画伯が、その輝かしい才能をもって「インドシナ詩集」の挿画を提供しているのは、これ以上ないことです。詩集を飾っている挿画は見て楽しいとともに、精神にとって心地よいものとなっています。
 読者は詩のなかに、とりわけ感動的なある調子を見出さずにはいられないでしょう。最近ペタン元帥は、「時を超える作品は愛なしにはつくれない」と言いました。皆さんが以下に読まれる繊細な作品の全体には、マダム森のわが国にたいする真摯な愛が、そして藤田画伯と同様、彼女がインドシナのいたるところに浸透しているのを感じたと述べている、フランス精神に対する讃嘆の念がこめられています。
 「私はいたるところに親しいフランスを見た」――これが『インドネシア詩集』の最初の詩の、不思議な喚起力をもつタイトルです。こうして日本の女性詩人は、無名の者であれ、著名な者であれ、死者であれ生者であれ、この遠いアジアの地において、われわれフランスの真の顔を抽出し、光を当てようとしたすべての人びとに、彼女独自の賛辞を捧げています。そこには、そうした人びとの時を超えて生き続ける深い印が刻まれているのです。
 インドシナでフランスの仕事をなしとげた無名の職人たちすべての名において、ここに、マダム森に対して感謝の念を表明する次第です。

             仏領インドシナ総督 ジャン・ドクー」
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by monsieurk | 2017-03-26 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(25)

 四月、三千代はハノイからハイフォンへ行き、そこから汽船に乗って帰国の途についた。希望した昭南島(シンガポール)行きは果たせずじまいだった。
 危なっかしい飛行機をさけて帰途は船にしたのだが、台湾から瀬戸内海にかけて日夜アメリカの潜水艦が出没して、日本の商船や客船が沈没されていた。金子は外務省に日参して三千代が乗った船の名前を教えてもらい、中学生の乾と女中を置いて神戸に向かった。関西勤務になっていた義弟の菊地克己と一緒に、神戸のオリエンタルホテルの一室で、船の入港をやきもきしながら待った。このころにはアメリカの潜水艦が瀬戸内海にも姿をみせ、三千代の乗船した船が瀬戸内海に入ったという知らせを船舶会社から受け取ったが、安心はできなかった。事実、船はアメリカの潜水艦につけ狙われながら、ようやく四月十二日に神戸港に入港した。
 埠頭では金子と菊地克己が出迎えた。はしけに乗った、元気で逞しい三千代の姿が見えると、菊地がしゃくりあげて泣いた。金子にしても丸三カ月ぶりに見る彼女の姿だった。
 「おどろいた事は、ホテルの僕の宿に、身柄とともに買ってきた三つの大包みと、竹の笊に入れた土産物の物資で、すでにその頃の日本では、ざらに手に入らない布地や、珈琲豆、銀製品、砂糖、蓮の実の砂糖漬、その他、さまざまな品が床にひろげられた。(中略)そのうえ、うまれてまだ何ケ月もたたぬ豹の児を二匹、お土産にもらったりした。が、豹の児は、プノンペンの宿で飼いならした山猫に噛み殺されてしまった。それにそんなものを日本へもってかえっても、食べさせる肉などなく、その上育って大きくなれば、飼う場所もない。などと、話してもつきない土産話に花を咲かせた。」(「来迎の冨士」、『鳥は巣に』)
 帰国した三千代は精力的に執筆を再開した。三カ月の仏印旅行の体験で、書くべきことは沢山あった。発表順にあげてみると、帰国後一カ月足らずで、まず「安南」が「中央公論」五月号に掲載された。以下、「仏印の文学」(「新潮」、六月号)、「日本の花」(「文芸」、六月号)、「アンコール・ワットへの道」(「海」、大阪商船戦株式会社、六月号)、「安南皇帝」(「読売新聞」六月三日号)、「仏印の文筆家たち」(同五日号)、「仏印古蹟めぐり」(「むらさき」六月号から八月号、三回連載)、「コーロワ悲曲」、(「国際文化」、第二十号、七月号)、「仏印雑話」(「興亜」、七月号)、「アンコールを見る」(「南洋経済研究」、八月号)、「仏印の子供たち」(「国語の力」十月号)である。
 これらをまとめた上で、タイトルも一部変えて単行本としたのが『晴れ渡る仏印』(室戸書房)である。収録された作品は、「晴れ渡る仏印」、「仏印の黎明」、「仏印の文学」、「安南芝居」、「『金の亀物語』」、「『南郊の祭』」、「安南家庭を訪ねる」、「寶石氏の食卓」、「仏印の若い女達」、「日本色の安南」、「ハノイの学校」、「仏印の子供たち」、「仏印雑話」、「仏印古跡めぐり」、「アンコール・ワットへの道」、「アンコールを見る」、「カンボヂヤの都」であった。
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by monsieurk | 2017-03-23 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)