フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30

カテゴリ:芸術( 213 )

男と女――第七部(25)

 四月、三千代はハノイからハイフォンへ行き、そこから汽船に乗って帰国の途についた。希望した昭南島(シンガポール)行きは果たせずじまいだった。
 危なっかしい飛行機をさけて帰途は船にしたのだが、台湾から瀬戸内海にかけて日夜アメリカの潜水艦が出没して、日本の商船や客船が沈没されていた。金子は外務省に日参して三千代が乗った船の名前を教えてもらい、中学生の乾と女中を置いて神戸に向かった。関西勤務になっていた義弟の菊地克己と一緒に、神戸のオリエンタルホテルの一室で、船の入港をやきもきしながら待った。このころにはアメリカの潜水艦が瀬戸内海にも姿をみせ、三千代の乗船した船が瀬戸内海に入ったという知らせを船舶会社から受け取ったが、安心はできなかった。事実、船はアメリカの潜水艦につけ狙われながら、ようやく四月十二日に神戸港に入港した。
 埠頭では金子と菊地克己が出迎えた。はしけに乗った、元気で逞しい三千代の姿が見えると、菊地がしゃくりあげて泣いた。金子にしても丸三カ月ぶりに見る彼女の姿だった。
 「おどろいた事は、ホテルの僕の宿に、身柄とともに買ってきた三つの大包みと、竹の笊に入れた土産物の物資で、すでにその頃の日本では、ざらに手に入らない布地や、珈琲豆、銀製品、砂糖、蓮の実の砂糖漬、その他、さまざまな品が床にひろげられた。(中略)そのうえ、うまれてまだ何ケ月もたたぬ豹の児を二匹、お土産にもらったりした。が、豹の児は、プノンペンの宿で飼いならした山猫に噛み殺されてしまった。それにそんなものを日本へもってかえっても、食べさせる肉などなく、その上育って大きくなれば、飼う場所もない。などと、話してもつきない土産話に花を咲かせた。」(「来迎の冨士」、『鳥は巣に』)
 帰国した三千代は精力的に執筆を再開した。三カ月の仏印旅行の体験で、書くべきことは沢山あった。発表順にあげてみると、帰国後一カ月足らずで、まず「安南」が「中央公論」五月号に掲載された。以下、「仏印の文学」(「新潮」、六月号)、「日本の花」(「文芸」、六月号)、「アンコール・ワットへの道」(「海」、大阪商船戦株式会社、六月号)、「安南皇帝」(「読売新聞」六月三日号)、「仏印の文筆家たち」(同五日号)、「仏印古蹟めぐり」(「むらさき」六月号から八月号、三回連載)、「コーロワ悲曲」、(「国際文化」、第二十号、七月号)、「仏印雑話」(「興亜」、七月号)、「アンコールを見る」(「南洋経済研究」、八月号)、「仏印の子供たち」(「国語の力」十月号)である。
 これらをまとめた上で、タイトルも一部変えて単行本としたのが『晴れ渡る仏印』(室戸書房)である。収録された作品は、「晴れ渡る仏印」、「仏印の黎明」、「仏印の文学」、「安南芝居」、「『金の亀物語』」、「『南郊の祭』」、「安南家庭を訪ねる」、「寶石氏の食卓」、「仏印の若い女達」、「日本色の安南」、「ハノイの学校」、「仏印の子供たち」、「仏印雑話」、「仏印古跡めぐり」、「アンコール・ワットへの道」、「アンコールを見る」、「カンボヂヤの都」であった。
[PR]
by monsieurk | 2017-03-23 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(24)

 もう一つの詩篇「アンコール・トム(Angkor Thom)」――

その感覚を失うほど
長い時間の微笑みで!

恋、嫉妬、そして歎きを経めぐったあと
最後に帰ってくる微笑みで、

破滅のあとでさえ
青空に幻影のようなもの残すその微笑みで。

巨大で、複雑な、世界の終りの
名残を残すその微笑みで。

雷鳴のようなその微笑みで、
大嵐のときの微笑みで、
永遠に凍りついたかのようなその微笑みで、
おお! アンコール・トム! お前は私の生をそっくり虜にする。 

 パリで原寸大の模型を見て以来、待望だったアンコール・ワットを見学した感激は大きかった。五つの塔をバックにして、篝火の光のもとで、蛇の姿態をとりいれたという幽玄な踊りを見られたのも幸運だった。『晴れ渡る仏印』の口絵写真には、アンコール・ワットの遺跡の前で、真っ白な服を着てポーズをとる三千代が写っている。
 三千代たち一行は、翌日コンポン・トムを経てプノンペンへ向った。メコンデルタの平野がひらけ、床の高いカンボジアの家が散らばっている場所をすぎ、やがてメコンの支流を横切って、午後にはプノンペンへ着いた。ホテルは緑陰の蔭が深い街中のル・ロワヤルだった。
 到着早々、翌日の王宮見学のために、日本軍司令部へ許可をもらいに行った。そして夕食前に、ヴァー・プノンのあるペン塔を訪れ、高みからプノンペンの街を眺めた。
 ハノイもサイゴンも大きな並木のある緑濃い街だが、プノンペンの並木はそれよりもずっと大きく野性的だった。翌日は朝から王宮や銀寺などを見学し、二日間滞在したあとハノイに戻った。帰りの途中の街で売っていた豹の仔を、アダチ商会の小泉から贈られたが、二、三日で死んでしまった。
 残りのハノイ滞在中は演劇をいくつか観たほかに、ほとんど毎日のように小湖のほとりを散策した。ここには別名「翡翠の寺」と呼ばれる玉山寺があり、湖の水の青さが翡翠に似ていた。
 「時には考えごとをしながら、時には思うことなく、その時々の心境で湖畔の風情を味わいながら行きかえりしたものだった。そんな散策のある日こんな詩を書いた。

   「翡翠の寺(La pagode MÔT CÔT)」

  小湖(プティラック)は
  ハノイの眼。
  とりすました美女のまなざし。
  その眼のなかに
  一つの答を求めて
  わたしはさまよう。
  
  足の下に逃げまどう
  落葉。
  噴水のような
  梢の芽生え。
  春と秋ろの一時にくる
  この不思議な季節の交錯のように
  世紀の思想と感情がもつれあって
  私の心はほどけにくく
  私の歩みは行き悩む。
  疑うことが愛なのか。
  苦しむことが愛なのか。
  
  よそよそしげな水のおもて
  蛇神の伝説を秘めた
  翡翠の寺が
  白衣の老巫女のように
  そら耳をして立つ。」(「仏印古蹟めぐり」)
  
 のちに日本語で書いたこの詩をフランス語に訳し、「LA PAGODE DE MÔT CÔT」と題して、詩集『POĒSIES INDOCHINOISES』に収録した。
[PR]
by monsieurk | 2017-03-20 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(23)

 三千代は宿泊していたグランド・ホテルの主人に、プノンぺンの宮廷舞踏を見たいと相談した。すると、旧暦正月の仏前供養の奉納舞踏のために、プノンペンの後宮に養われている舞姫たちが滞在していて、彼女たちに踊らせることができるという話だった。
 三千代はさっそく手配を頼み、この日の夜、同行の四人のほかに、軍の所属で南方事情調査のために史料を集めている笹原たち一行、書筆の仕事をする萩須、さらにホテル・グランドに同宿していたスイス大使館の領事夫妻も招いて、遺蹟の前の広場で、篝火の光の下、舞姫たちの踊りを見物した。この光景は三千代にに忘れがたい印象を残した。
 「広場の真中には、赤毛氈が一枚敷いてある。あたりがあまり広々してゐるので、手巾でも落としてあるやうに見える。その横手に少しへだたつて、楽人たちが、楽器を前に円座をつくつてあぐらをかいてゐる。(中略)
 前奏の曲がはじまつて、やうやく間拍子が短かく、息がせわしくなってゆく。アンコール・ワツトの大廃墟を背景として、夜空の下の大野外劇がいまはじまらうとしてゐる。

 きらきらときらめきながら落ちてくる。正面入口の石の階段を、転ぶやうに駆け下りてくるのだとわかつた。敷かれた毛氈まで、はだしで音もなく走り出る。塔のやうに高い黄金の冠をかぶつた小さな舞姫の出場の姿だつた。きらきらきらめくのは、冠や、肩のぴんとはねた翼飾り、金の襷や胸いつぱいの刺繍、手首やくるぶしの金環であつた。一人につづいて次々に六人、三人は男すがた三人は女装で、蛇の律動を型どつたといわれる、手首や腰を極端にくねらせる幽玄神秘な踊をおどりはじめる。」(「豹」、小説集『豹』)
 そして『インドネシア詩集』に載せた詩「アンコール・ワット(Angkor Vat)」。

あるときは
空から降りたったように見え
あるときは
空に登って行くように見える。

またあるときは
飛翔するかのように。

アンコール・ワット、
それは永遠の若者だ、
旺盛に成長する今年の竹、
ルビーを溶かしながら空へと昇っていくアプサラス*。

誰が廃墟だなどと言えようか?
これを造った民が
すでに絶滅したなどと誰が言えよう?

手が壊れ、顔が侵蝕されていても、
それが、蝙蝠の汚物で汚された
朽ち果てた石の山などと、誰が決められようか? *廻廊に施された浮彫の女神像。
アンコール・ワット
私が辿り着けないところで
いまもその心臓が
力強く鼓動するお前。

尖った冠の傾け
口の端をまくりあげて
カンボジア風に微笑むお前。

たしかにそれを造った王も民もいない。
だがその祈りの中の願は
常に生きている
アンコール・ワット!
それが正しくお前だ!

それは朽ち果てるわたしの身体の裡に棲んでいる、
私の不滅で純粋な愛のようだ。
[PR]
by monsieurk | 2017-03-17 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(22)

 アンコール・ワット

 サイゴンを朝六時に出発してアンコール・ワットに向けて出発したのは、三月になってからである。
 「近頃はガソリンの入手が非常に困難なので、サイゴンからアンコール・ワットまでの往復千三百キロの自動車旅は、よほどよい機会でもないと果されなかった。軍のトラックにお願して便乗させていたゞくつもりでいたがフランスのツーリスト・ビュローのハイヤーをサイゴンのA商会が斡旋してくれて、同行五人で出掛ける事になったわけだった。サイゴン大使府の佐藤領事からA商会に話があつたからだった。同行者は、芳澤大使の息子さん、A商会のI社員さん、軍属の人二人、それに私、五人とは、そうした顔ぶれである。
 時節柄手荷物は出来るだけ少なくして、小鞄一個づつだった。私は、水筒の水と、ボンボンを用意して来た。ボンボンを皆にまわして分けあつたり、水筒のなまぬるい水でのどをうるおしたりして、ほこりっぽい、のどのいらいらをしづめた。」(「アンコール・ワットへの道」)
 出発して五時間、メコン川の渡しにさしかかった。雨季には氾濫する大川に橋はなく、人も車も船橋にのせて川をわたす。その船橋は発動機船が引っ張って行くのだが、燃料は薪で、両岸に薪が一杯積み上げられていた。カンボジア人の労働者が薪を船に積み込むのに時間がかかり、その間、肌は太陽に焼かれ、汗が絶え間なくふきだしてきた。ようやく川を渡ると、やがてコンポン・チャムの街にはいった。
 ここは緑の芝生や美しい花壇に囲まれた、フランス風の卵黄色に塗られた瀟洒な家並が続く、清潔で閑散とした街だった。ちょうど午睡の時間で人通りもまれだった。
 街中のホテルに車を乗りつけて遅い昼食をとった。太ったマダムが出してくれたフランス料理は、思いがけず美味しかった。ここでガソリンを調達し、コンポン・トムを経て、サイゴンからおよそ十二時間でアンコール・ワットの遺跡の門前町シェムレアプに到着した。かつてピエール・ロチはメコン川のジャングルを遡り、サイゴンから五日かかった道のりを、坦々としたアスファルトの道を車を走らせて、十二時間で着くことができた。
 「シェムレアプは、森の中の静かな町だ。
 まったくフランス風なホテル・グランドで一泊した翌朝、いよいよ待望のアンコール見物をすることになった。前の晩、ホテルのテラスから、ジャングルを越えて菫色に五つの塔を夕闇の中に望見した。金色の星さえきらめき出してそれは、なにか神秘な宝石箱が、遠くかすんだ真盛りの花盛のように思われた。
 数年前、私は、巴里に居た頃、ヴァンサンヌ〔ママ〕公園で開催された植民博覧会を見に行った。植民博覧会のみものは、アンコール・ワットの原寸大の一部の模型だった。コンクリでつくった浮彫りの型が、まだ一部分出来上らずに、草のなかに投げ出されてあった。ほこりっぽい博覧会場の空高く、その夢のような石の宮殿が浮上っているのを見て、生涯に一度は、アンコールを訪ねてみたいという、あこがれに似た願望にかられたものだった。(中略)
 胸をときめかすアンコールの五つの塔が、朝日に染まって、行手の空に乗り出しながら、こちらへ向って近づいてくるように見える。それは、大きな牡竹筒に似た形をしている。この五の塔の建物は、即ちアンコール・ワットで、このアンコールの廃墟のうちで、いちばん構成の整った一画である。」(「アンコールを見る」)
 三千代はハノイを発つ前に、観光局長のラクロンジュからアンコール遺跡保存局長セデス宛ての紹介の名刺をもらってきていたが、早朝のことであり、彼を煩わすことなく、フランス語と英語ができるという利口そうなカンボジア少年を案内に雇って遺跡を見てまわった。
アンコール・ワットもアンコール・トムも、その他の散在する多くの石の建造物も、かつて大森林の侵蝕をうけて森林の中に埋もれていた。これを植物の下から掘り出したのはフランスの極東学院の仕事で、フランスが誇るに足りる業績だった。植物の生育する力は想像を絶していて、いまでもしばらく放置すると、堂塔伽藍はたちまち森林に埋もれてしまい、絶えず手入れをしなくてはならない。三千代は金子とともにジャバのボルブドールの石の曼荼羅を見たことがあったが、結構の雄大さにおいて、アンコール・ワットは遙かにそれをしのいでいた。
[PR]
by monsieurk | 2017-03-14 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(21)

 サイゴン

 三千代が乗った汽車は三月一日にフエを発って、予定より四十分遅れてサイゴン駅に着いた。サイゴンのホテルはどこも満員だったが、佐藤領事がカチナ通りのホテル・コンチネンタルを予約しておいてくれた。ホテルへ行ってみると、前夜の宿泊客の荷物がまだ部屋に残っていたが、そこへ鞄を入れて食堂で食事をとった。三月のサイゴンは真夏の暑さだった。
 滞在は四、五日の予定で、そのあとアンコール・ワットに行く計画だった。さっそく大使府へ行き、内山公使や蓑田総領事に挨拶し、アンコール・ワット訪問について助言を頼んだ。陥落間もない昭南島(占領後シンガポールはこう呼ばれた)へもぜひ行きたいので、援助してほしいと伝えた。
 昭南島行きを強く望んだのは、第十六軍の宣伝班員として南方に来ている武田麟太郎との再会を期待してのことだったかもしれない。二人は知るよしもなかったが、武田は二月十一日の紀元節を洋上で迎え、間もなく仏印中南部のカムラン湾に入港し、そこで時間待ちをした。これが二人が一番接近したときだった。
 武田が乗船していた輸送船団は、十五日のシンガポール陥落の報を聞いたあと、十八日未明、カムラン湾を出航して南下し、月末には目的地であるジャワ島に着いた。
 三千代が大使府での挨拶を終えてホテルへ戻ってくると、午後三時すぎのカチナ通りは人出が多くなっていた。熱暑のサイゴンでは、フランス人も安南人も中国人も、みな午睡(シエスタ)をとるから、午後の初めは人通りがなくなるのである。
 この日の午後は、アンコール・ワットに同行する芳澤大使の息子と打ち合わせ、夕方には、ポワン・ド・ラ・ブラーグル(おしゃべり岬)で観光局の山口と会い、月を見ながら歓談した。ここはサイゴン川がショロン運河へ分かれていく地点にある三角州で、船の形をした酒場があった。対岸の椰子林から上った月が、大小の船が川面に影を落としていた。
 船の多くはショロンの精米所から米を積むサンパンで、米はショロンの華僑が一手ににぎっていた。後日、サイゴンの中心から西におよそ六キロのところにあるショロンの精米所を、三菱商事支店長の鈴木や社員の西方に案内を頼んで見学した。
 ショロンは人口からいえば仏印第一の地域で、人口は二百万だが、人頭税を逃れている者を含めれば三百万はいるといわれていた。

 「ショロンの米蔵(Magazin de riz à Cholon)」

米は蔵を一杯に満たし
ごうごうと音をたてている。
精米機にかけられた米は
粒にされ、
選別され、
走り、崩れ落ち、噴出し
そして白く輝く
山となって現れる。

ショロン、それは
米の山
米の谷、
米の奔流、
米の洪水だ。

東方の民を太らせる
食糧
沢山の子どもたちが
大きくなるために
小雲雀のように
丸い口をあけて
米をほしがる。
沖合でも
山の彼方でも

メコンのデルタの残りの米は
アジアを太らせ、
アジアの様相を変え、
アジアの心を輝かせ
アジアの人びとの頬をつやつやと光らせる。

苦力に運ばれた米袋の
腹に鏝を差しこみ、
私は米を手に取り
掌のくぼみにのせる。

私は一粒一粒のエネルギーを
ぎゅっと握りしめる、
米粒は不思議な力をもっている、
それは人びとや、投資家を走らせ
考えさせ、創造者にする。(原文はフランス語、”POĒSIES INDOCHINOISES")

 ショロンとは安南語で大市場の意味で、メコン・デルタで生産される米は、みなここに運ばれてきた。仏印全体の米の収穫高は六百万トンで、そのうち輸出されるのは百五十万トンないし百八十万トンといわれ、仏印の米は三井が、タイの米は三菱が取り扱っていた。これらは日本をはじめ東南アジア諸国に輸出されて、アジアの人たちを養っていたのである。
 三千代は風物や自らの心情だけでなく、こうした現実を見逃さずに詩によんだ。彼女のうちには、かつて旅した各地で目にしたアジアの民衆の姿が浮かんでいたに違いない。 
[PR]
by monsieurk | 2017-03-11 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(20)

 別の日の小雨がそぼ降る夕暮、小説『安南の愛』の著者の阮進朗(グエンチュンラン)やヴィエアン中学校の若い校長で、『若い安南』の著者、陶登偉(ダオダンビイ)の招待で、香河に舟を浮かべて語りあった。後日、文部大臣兼宮内大臣の芒瓊(ファンキン)とも会う機会があり、教養ある安南貴族の奥ゆかしさを知ることができた。
 三千代にとって香河での舟遊びはじつに感慨深いものだった。詩集『POĒSIES INDOCHINOISES(インドシナ詩集)』(明治書房、一九四二年)に、詩篇「香河の夜の舟遊び(Canotage nocturne sur la Rivière des Parfums)」を載せている。

香河のうえを
舢板(サンパン)が滑っていくのも
感じない。

この静けさを破るのは
風景をきり拓いて進む魯の音と、
小舟の腹を打つ水音ばかり。

小舟にかかげられた茣蓙の下、ひそかに心を打ち明ける、
秘密の逢引きでもするように。

・・・・・・

黒いターバンを被った安南詩人が
今宵は、月が出ないと嘆く。
落花生油のランプの光を揺らしながら、
国のやるせなく悲しい歌をなぞりながら、

彼は私に描いてみせた
――私の肩に重くのしかかる悲しみを。
私が愛する男は、去り
戻ってこない。

舟腹に出ると、
霧雨が顔を打つ。
王城近くの
岸辺はただただ暗く
龍のかたちをした
雨雲がたなびいている。

 中国風の教養を身につけた文士たちとの交遊は興味深かったが、三千代は安南の若い作家や評論家たちの仕事に強い関心を抱いた。
 「漢詩漢文が縁遠くなった今日、新しい安南文学の中心地は、フランス政府の政治機関、文化機関の中心地ハノイにうつっていることは、当然のこととして考えられよう。(中略)安南文学は、それまで韻文学であった。ようやくここに散文小説の新しい誕生を見た。若い文士達は、安南語で、またフランス語で創作する。しかしまだ、文学専門雑誌を見ないようだ。主な発表機関は、仏字雑誌「印度支那」「エコー」安南語雑誌「チュン・バック」その他新聞等である。著名な少数の作家を除いては、作品を以って生計を立ててゆくことは困難だ。(中略)
 新しい安南小説家が、どんな欲求で、どんな動機で、何を手材にして文学をやるか。言うまでもなく、それは若い安南が持っている多くの悲しみと悩みである。手材として取上げられるものは、主として、迷信深い道教、仏教と、儒教精神でつくりあげられた因習的な古い家庭内に、フランス風な新しい思想が流れこみ、古い世代と新しい世代のまじりあう悩み、苦しみである。」(「仏印の文学」)
 古都フエに滞在中、阮王朝歴代皇帝の墓を訪ねたが、とりわけ明命陵の印象は強烈だった。「明命の墓の松や茨でおおわれた盛土の背後は、荒涼とした原野につゞいていて、薄明の時刻には餓虎が彷徨するという話だった。風の音にも、そんな気配が感じられて、思わず身がひきしまる思いがした。」(「ユエの印象」)
さらにフエから少し南へ行ったところにあるツーラン近くの会舗(ヘイホー)には、かつて日本人町があった。徳川の鎖国時代、山田長政たちが南方に飛躍したころのことで、仏印にも多くの日本人が進出したのだった。異国の地に没した日本人たちの墓がいまも残っているとのことだった。
[PR]
by monsieurk | 2017-03-08 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(19)

 南部への旅

 南部仏印の旅行に出たのは、二月末か三月初めのことである。午後六時半に、ハノイ発サイゴン行の列車に乗った。
 汽車は速力は早いがよく揺れて、中年のフランス女性と同室だった。窓外の水田と竹藪が続くトンキン・デルタの風景は、灰色からやがて暮色に変わっていった。王宮のある古都フエ(三千代はフランス読みで「ユエ」と表記)には、翌日の午前十時半に到着した。
 駅には、啓定(カイデン)博物館長のソニー、理事官秘書コンパンの代理のルパージュ、それにユエ唯一の日本人で、写真館を営む中山の夫人が出迎えてくれた。
 フエの城外を流れる香河(リヴィエール・ド・パルファン)にかかるクレマンソー橋のたもとにある、立派なホテル・モーランに投宿した。滞在は五日の予定だったが、滞在中は博物館長のソニーが行動計画をつくってくれ厚遇をうけた。
 二月二十七日には、有職大臣で現皇帝バオダイ帝の叔父にあたるプータク(寶石)宅に、ソニーや中山夫妻とともに招かれ、格式高い安南料理のもてなしを受けた。
 三月初めに理事館長のダランジャンを訪問し、翌日には阮王朝十二代の当主バオダイ(保大)帝に拝謁することになった。
 「阮王朝の始祖阮福映(嘉隆・ジャロン帝)が、フランスの司教ピニョー・ドベーヌの義勇軍の助けを得て、紛乱していた安南を統一してから百四十年。現在はフランスの保護領となっているが、王朝は昔のまゝに残存している。一八八五年にフランスと支那との間で結ばれた天津条約まで、まだ支那が安南の宗主権を主張していたもので、古来安南はほとんど支那文化の影響下にあった。支那をそのまゝ見るような宮廷の外観、大官達の礼服を見ても、それはすぐうなづけるのだ。(中略)
 保大帝に謁見したのは、その支那式の宮殿ではなく、宮殿のうしろにつゞいて建て増された新式な洋風の大広間であった。
 皇帝はまだ二十七歳の、巴里にも留学されてフランス式な教養を身につけた、瀟洒な青年紳士であった。オール・バックに撫でつけた髪は無帽で、藍色紋織のゆったりした安南服を身につけていられていた。傍らに椅子を賜って少時雑談したが、皇帝は、別れ際に、三年に一度のユエの大祭、南郊(ナンジャオ)の祭がもうすぐだからそれまで滞在してはどうかといわれた。」(「ユエの印象」)皇帝のせっかくの勧めだったが、南郊が行われるのは月末で、南郊の祭を見学することはできなかった。
 フエは王城にふさわしい、典雅で、物静かな街だった。数日の滞在中に安南のもっとも高い心情にふれることができた。三千代は仏印の旅の様子を、旅行記『晴れ渡る仏印』のほかに、次章で紹介するフランス語の詩集『POĒSIES INDOCHINOISES(インドシナ詩集)』(明治書房、一九四二年)で、詩にしている。
 「フエ(Hué)」と題した詩篇は、バオダイ陛下に捧ぐとの前書きがついている。

私は忘れない、
この平安な時のなかで
私が忘れ
そして人びとが私を忘れることを。

いつの日か
私がすべてを忘れたとしても、
私は決して忘れまい
この静謐な古の都を。

この静けさ
この心の透明さは
私がいつの日からか探してきた
幻影に似ている。

私は決して忘れまい
古びた屋根、龍の石像、
印度ケイソウが匂う
人気のない黄昏を。

丸い空に、
四角い大地に、
そこに見出される月日が
やすみなく続いていく。

私は決して忘れまい
《クリソクロア クレガンス*》が住んでいる
街路樹を、
伝説と恋が咲き誇る
香気にみちたこの都を。

私は決して忘れまい
小舟の唄を、
夜の鳥が飛び交う
水面の上の際限のない呪いを。   *ルリタマムシの一種.
[PR]
by monsieurk | 2017-03-05 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(18)

 ハノイの名所といえば、中心地にある小湖、北西郊外にある大湖、市民劇場、紅河にかかる東洋一長いドーメル橋、コットン(木綿)通りの角にある大伽藍、翡翠の寺、大仏寺、蓮寺、鴉寺などだった。三千代はそれらを見物し、有名な「金の亀物語」の舞台となったハノイ北方のコーロワ城址を二度も訪問した。
 彼女が訪れたハノイ市内のマッチ工場では九百人ほどが働いていたが、七百人は女性で、箱作り、軸の詰め込み、薬付け、上紙の張りつけなど、細かい仕事をみな女性がやっていた。一日の労働時間は十八時間で九時間交代、一日の労賃は三十銭から四十銭だということだった。
 その一方、フランス語を教える学校を出た安南のインテリ女性は、日本の役所や軍関係の事務所でタイピストや電話交換手としてきびきびと働いていた。仏領印度支那でも、ペタン元帥が提唱する「新フランス運動」に呼応して、フランス革命以来の「自由、博愛、平等」に代えて、「勤労、家庭。祖国」のスローガンが掲げられていた。その結果、ダンスなど娯楽は禁じられ、女性の華美な姿は見られなくなっていた。
日本の仏印進駐のあと、語学力を活かして、役所や商社で働くために日本からやってきた若い女性をよく見かけた。三千代は若い世代の活躍を目にしてうれしかった。
 ハノイに来て二十日あまり経った二月四日と五日に、空襲警報が続けて鳴った。彼女は中華料理店やホテルで食事中だったが、どちらもフランス軍機の音を聞きあやまった誤報とわかった。
 二月十日、明日からサイゴンへ出張するという小川総領事から、ハイフォン行きの手筈について指示をうけた。
 翌十一日の紀元節は、九時半に大使公邸に行き、御真影に拝礼し、異郷の戦時下に集まった在留邦人とともに慶事を寿いだ。帰り際、芳澤謙吉大使にハイフォン行の計画を話すと、翌日の晩餐に招かれ、その席で日本軍がシンガポールの一部を占領したというニュースを聞かされた。かつて金子とともに長く滞在したところだけに、感慨もひとしおだった。
 十四日、ハイフォンに向けて、オートライ(ガソリン・カー)で出発した。十五日は安南の正月(テト)にあたり、停車場は故郷へ帰る人たちでごったがえしていた。
 バスはそのなかを出発し、東洋一長いドーメル橋を渡り、二時間かかってハイフォンに到着した。ハイフォンは中国国境に近い港町で、日本からの船はみなこの港に着く。ホテルは、能見領事が予約してくれたコンチネンタルだった。この日は港や街を見物し、翌日は一人で街を歩きまわり、次の日はもうハノイへ戻る日程だった。
 ハイフォンでは日露戦争直後に仏印へ来たという古老の横山や、同じく長い滞在経験がある保田洋行(商社)の竹内から、それぞれの仏印観や将来の抱負を聞いた。竹内が経営している富士ホテルでご馳走になっているとき、ホテルの女将が部屋をまわって、シンガポール陥落のニュースを伝えくれた。
 十八日、ハノイへ戻ると、細かい雨が降っていた。数日留守にしたハノイが故郷のように思われ、三輪車のシクロを乗りまわして、雨に濡れた美しい並木の街を心ゆくまで満喫した。正月(テト)四日目の街は、三分の一ほどの店が扉を閉じたままで、軒下にはフランスの三色旗、赤字に星の中華民国の旗、それに日の丸の三本の国旗が出されていた。日の丸は、丸が大きさがまちまちだった。国旗掲揚はシンガポール陥落を祝うものだということだった。
[PR]
by monsieurk | 2017-03-02 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(17)

 ハノイ

 散文作家として修練をつんだ三千代は、仏印旅行の間、克明なメモを取り、それをもとにして『晴れ渡る仏印』と題した旅行記を刊行した。奥付には、昭和十七年八月十日初版印刷、同十五日発売 初版三〇〇〇部 定価壱円六拾銭 発行者 藤岡孫市、東京市新橋四丁目四十六番地に室戸書房とある。アンコール・ワットの石塔を描いた表紙の本は、縦十七・五センチ、十二センチの大きさである。
 冒頭の「空路安南へ」は、次のように書き出されている。以下、新字新仮名に直して引用する。
 「羽田飛行場から二昼夜の空旅で、日本時間の四時半、ハノイ時間の二時半に仏領印度支那の首都ハノイのヂアム飛行場に、私は着いた。
 子供の時、よく、這っている虫を捕えて別なところへうつし、その虫が自分のいる場所を見定めようとしてくるくるまわっているのを眺めて面白がっていたことがあった。私はいま、それを思い出した。突然私を違った環境に運んできた何者かが、じっとどこかで眺めてたのしんでいるのではないかという気がした。
 すべては異っていた。一昨日までの生活が、嘘のようだった。厳寒の東京が二昼夜のあいだに、爽涼さとけだるさのいりまじった、ほどけてゆくような気候に変っていた。
 ハノイは静かな街だ。戦争の外に置き忘られたような静けさに私はまず驚いた。支那、ビルマ、馬来、ジャバと四方を戦争にとりまかれながら。そこだけ不思議な平和を保ってエア・ポケットになっていた。」(「空路安南へ」、『晴れ渡る仏印』)
 金子と三千代はこれまでの旅では、日本人や現地人が経営する旅館に泊まるのが常だったが、今回は公の役目を帯びていたから、ハノイ大使府の小川総領事の世話で、フランス人街のポール・ペール通り近くのスプランディッド・ホテル宿泊することになった。すぐ近くには安南人(当時ヴェトナムはアンナン、ヴェトナム人はアンナン人と呼ばれていた)やインド人の繁華街があり、散歩の途中で現地の人たちの日常生活を見ることができた。
 「紅河(ソンコイ)(ハノイ市の東を流れる、その名の通り赭い色をした大河)の河沿いの野天の市場には、女達の菅笠が茸の集りのように見える。彼女等は一様に恁茶(クナウ)染めの、裾が四つに切れた筒っぽの上着(アオ・トウ・タン)を着て、黒いだぶだぶの股引(グアン)を穿き、眼のくぼんだ菱形の顔をして、笊を前にしゃがんで、臭菜や、バナナや、川魚や、田螺などを売っている。」(「第一印象」)
 三千代の観察は行き届き、表現は的確である。
 ハノイは商業都市サイゴン(現ホーチミン)に対して、仏印の政治と文化の中心で総督官邸が置かれ、各種の学校や東洋文化の研究機関である極東学院やパストゥール研究所などがあった。極東学院は、密林に埋もれていたアンコール・ワットの大遺跡を掘り出した功績など、インドシナの文化研究で多大な功績を誇っていた。
 ハノイ到着後間もなく、総督府の文化局長シャルトンが、フランス人や安南人の文学関係者を集めて歓迎会を開いてくれた。三千代はその席で、日本と仏印双方が自国の文学を紹介し理解しあうことで、人間的に触れ合うことで両国の親和を深めることになるだろうと話した。そして会合に出席していたフランス人のトリエール夫人や安南の女流作家テイン・テュ・ウォンなどと知り合った。三千代の印象では、日本は仏印で好感を持たれているようだった。
 この会合のあとで総督邸でドクー総督と会見したが、その折に総督から、「シャルトン氏から聞いたが、たいへん成功だったようですね」と言われ安堵した。
 「仏印の人々が日本を知り、日本語をおぼえようとする熱心さにおどろくくらいだ。それだけ彼等が日本に親しみ、日本に希望を持っていることがわかる。
 日本人が町へ買物にゆくと、商品をこれだけまけるから日本語を一言二言教えてくれという。(中略)しかし、一般の日本語熱が高いにもかかわらず、まだ、誰でもが簡単に習いに行けるという施設は出来ていない。日仏印共同防衛の実がますます上がっている今日、両国の理解や親交は一層深められなければならない。それには、彼地に日本語を普及させることは重要な仕事である。フランス人や安南人に対して日本をほんとうに理解させるために、日本の各部門の文化を紹介することがどんなに重大かということは、先達ての日本畫の展覧会や宝塚少女歌劇の成功をみてもうなづけることであった。」(「教育と日本語」)
 三千代は疲れることなく、精力的に行動した。日仏国際処理委員会文化部長シャバスや作家のマダム・ラクロンジュたちと知り合い、幾つかの学校を訪問した。その一つのハノイ印度支那女学校は、会合で会ったテイン・テュ・ワン夫人が校長をしていて、六歳から十四歳の女子生徒二千人ほどが、十八クラスに分かれて学んでいた。初等の二年間が義務教育で、六カ月は安南語で授業をするが、その後はフランス語を学び、フランス語で授業がされていた。ただ義務教育が行われるのはハノイとサイゴンだけで、安南全体では四割しかないという話だった。
 仏印は長らく中国の影響のもとで独特の家族制度や官僚制度を保っていたが、宗主国となったフランスは、こうした伝統をうちこわした。なかでもフランスが打ち込んだ大きな楔がフランス式教育の普及だった。漢字のかわりにフランス語を教え、現地の言葉であるヴェトナム語をローマ字化した。これは識字率を高める役をはたしたが、実際はそれまで村落に一つはあった寺子屋が廃止され、人びとが教育をうける機会が極端に減ったのが実態だった。
[PR]
by monsieurk | 2017-02-27 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(16)

  仏印旅行

 一九四二年(昭和十七年)は例年にない寒さで年が明けた。一月中旬、外務省の柳沢健から三千代へ、国際文化振興会嘱託の婦人文化使節として、仏印へ行ってほしいとの打診があった。
 国際文化振興会は日本が国際連盟を脱退したあと、外務省が民間に呼びかけて、国際的孤立化を防ぐ目的で一九三四年に設立された半官半民の組織であった。定款には、「国際間ノ文化ノ交換殊ニ日本及東方文化ノ海外宣揚」を目的とすると謳われているように、書物の提供、人物交流、映画制作などを通して、日本の工業力や文化を海外に伝える役割を担っていた。
 一九三七年にはニューヨークに日本文化会館をつくるなど、開戦前は欧米向けの活動が多かった。だが一九四一年以降は、大東亜共栄圏の掛け声のもとに、日本文化の中国や東南アジアへ浸透に力を注ぐようになっていた。
 柳沢健は福島会津若松の出身で、大学生のときに島崎藤村や三木露風に師事し、詩人として認められた。その後は大阪朝日新聞の記者をへて、一九二三年、三十四歳のときに外務省に入り、二年後には念願のフランス勤務となった。その後はイタリア、メキシコに駐在し、本庁の文化事業部の課長を務めていた一九三五年、日本ペンクラブの創設に尽力し、初代会長には尊敬する島崎藤村が就任した。
 一九三六年にジャン・コクトーが来日した際、三千代は宿泊先の帝国ホテルを訪ねて、フランス語の詩集『PAR LES CHEMINS DU MONDE』を進呈したが、そのとき彼女を紹介してくれたのが柳沢健だった。その後の彼女の活躍に注目していた柳沢は、軍が進駐した仏印と、文化面での関係改善のために、三千代に白羽の矢を立てたのである。フランス語で日常会話ができるのも大きな理由だったが、金子はこの話にすぐ賛成した。
 「軍ではなく外務省からで、宣撫ではなく、親善のためだということで、僕は、ゆくことをすすめた。軍の残虐のあとで、日本人を訂正する役目を果たすように、僕は、そのことについて充分、彼女に言いふくめた。」(『詩人』)
 三千代は持ち前の好奇心からすぐ話に乗った。宣伝隊として南方に行っている武田麟太郎に会う機会があるかもしれないという思惑もあった。武田が南方へ出発したあと、二人は手紙に暗号を忍ばせて連絡を取りあっていたのである。
 三千代が仏印行きを応諾すると、外務省で小川仏印総領事との面接があり、各種伝染病の予防接種やビザ申請などがあわただしく行われた。
 こうして三千代は、一月十五日、軍の小型機に乗って羽田空港を飛び立っていった。軍の進出につれて仏印への民間人の渡航は増加していたが、船旅が普通だったから、三千代は特別待遇だった。
 「彼女が羽田から発ってゆくのを僕は見送った。迷彩をほどこした、あぶなっかしい、不格好な飛行機が空にあがるのを、はてしなく心細い気持でながめた。その前の飛行機は、南支那海のうえで分解してしまった。」(『詩人』)
 金子は、「死なせにやったかな」と思おうと涙が浮かんだ。それから最初の連絡が来るまでの二週間、寝苦しい夜が続いた。
[PR]
by monsieurk | 2017-02-24 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)