フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30

カテゴリ:芸術( 212 )

男と女――第七部(14)

 七月二十三日、日本軍が南部仏印に進駐すると、これに反対するアメリカは、日本を目標に発動機の燃料や航空機用の潤滑油の輸出を禁止した。日本は戦争の危機をおかしてまで、なぜ欧米に対抗しようとするのか。金子はあらためて日本民族を動かしているものを見極めるために、風土と結びついた日本の思想を学ぼうと考えた。
 「戦争がすすむに従って、知人、友人達の意見のうえに、半分小馬鹿にしていた明治の国民教育が底力を見せだしてきたのに、僕は呆然とした。外来思想が全部根のない借りもので、いまふたたび、小学校で教えられた昔の単純な考えにもどって、人々が、ふるさとにでもかえりついたようにほっとしている顔を眺めて、僕は戸惑わざるをえなくなった。古い酋長たちの後裔に対して、対等な気持しかもてない僕は、尊厳の不当なおしつけに対して、憤りをこめた反撥しかない僕は、精神的にもこの島国に居どころが殆どなくなったわけだった。
 そして、この頃までは、決して僕の方からゆずりたくない気持で、ごく自然に、戦争に反対し、戦争にまで追い込む国家機構に反対して、『鬼の児の唄』までの詩篇を書きつづけてきた僕は、一コスモポリタンの僕の考えよりもこの民族をうごかしているものが、もっとも緊密で、底ふかい、国土にむすびついたものにちがいないということにやっと気がつき出した。その頃から、僕は、日本思想というものを勉強しようとおもい立った。
 出版の統制がはじまっていて、日本主義の本ならば、手にはいりやすかった。宣長や、篤胤、佐藤信淵など、できるだけ本をあつめて、ぼつぼつよみはじめた。」、「日本主義の本は、だいぶよんで、腹へはいってきた。期待にはずれて、新しく僕をうごかすようなことはなにもなく、かえって、僕の日本主義に対する批判をはっきりさせただけだった。やはりこの戦争は、僕にとって、HONTE(恥辱)としてしかおもえなかった。マレー蘭印を通ってきた僕は、つぶさに植民地の支配者たちの積年の悪と、その結果をみてきて、解放しなければならないことを痛感し、英米との戦がそのイミでの示唆をもつならば、中国の戦争よりは無意味ではないかと考えたこともあったが、結局、それはうす汚い利害の争奪戦であることが、もっとはっきりした事実としてわかったことに終わった。」(『詩人』)
 十一月中旬、武田麟太郎の許へ陸軍徴用令が届いた。ジャワへ派遣される第十六軍の宣伝班として従軍するようにとの命令だった。
 十一月二十日には、日本橋人形町の料亭「梅の里」で送別会が開かれて、武田の指導をうけた女流作家としては、三千代のほかに、津田津世子、大谷藤子、円地文子、藤村千代などが顔をそろえた。武田は翌年一月、第十六軍の将兵とともに大阪港からマニラ丸に乗船して南をめざすことになる。
 十二月八日、日本時間の午前二時、日本軍はマレー半島に上陸を開始し、三時十九分にはハワイ・オワフ島の真珠湾に置かれたアメリカ海軍大平洋艦隊基地に対し、航空機と潜水艦による奇襲攻撃を敢行した。
 午前七時、NHKは臨時ニュースのチャイムのあと、「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部午前六時発表、帝国陸海軍部隊は本八日未明、西大平洋において、アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」と伝えた。ニュースを読み上げたのは宿直だった館野守男アナウンサーだった。
[PR]
by monsieurk | 2017-02-18 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(13)

 河邨は金子の没後に刊行されることになった研究雑誌「こがね蟲」の第八号(一九九六年)に、この筆写ノートの全貌を公開した。それにつけられた「金子光晴『疎開詩集』について」で、この間の事情を明らかにしている。
 「私がこれまで「光晴疎開詩集」と呼んで書斎に秘蔵していたノートが、五十年の年月を経て日の目を見ることになった。(中略)
 サイズはやや横長の変型A5版で、厚さは一センチ、表紙はズック布のしっかりしたノートで、やや黄いばみ、薄汚れが目立つ。扉の中央には『詩集真珠湾 金子光晴』とあり、左下隅に「一九四一、三月、東京にて筆写― 文一郎」と記されている。扉をめくると十四篇の詩の目次が並び、一ページ十八行、百三十七ページだが、本文はおそらくGペンで、おそらくパイロットの青インクで書かれている。字体は急いだためであろう、落ちつきを欠いているが、それでもわれながら読みやすく、一語一句誤りなきを期す気くばりが伝わってくる。(中略)
 写本を作って地方へ疎開することを金子さんが思い立ったのは、いのちをかけた一連の詩稿を後世に残したかったからである。金子光晴に司直の手がいつ伸びるか、あるいは住家を空襲の火災がいつ襲うか、どちらにせよこれらの詩稿が烏有に帰すことはまちがいない。そこで「疎開先」として選ばれたのが、当時ほとんど唯一の弟子だった北海道の河邨文一郎(筆者)と、そのころ限定版の詩画集『水の流波』を上梓した長崎の版画家田川憲だった。」
 このとき筆写された詩集「真珠湾」は、「一九四〇年の女に 芯のくさった花に 新聞 真珠湾 天使 落下傘 風景 いなづま 洪水 大沽バーの歌 犬 短章三篇(八達嶺にて 北京 弾丸) 屍の唄 雷 鬼の児誕生」だった。金子がこのころに抱いていた危機感がどれほどのものだったかが分かる逸話である。
 一方、三千代の方は活発な執筆を活動を続けていた。「中央公論」四月号には、正宗白鳥などの大御所と並んで、下町を舞台にした人情話の「蔓の花」が掲載された。担当は畑中繁雄だった。さらに「早稲田文学」六月号に「山」、同じく「文学草紙」六月号には「蛇 作家について」を、そして「むらさき」の六月号から九月号にかけて「更科抄」を連載し、六月には単行本『あけぼの町』を昭和書房から上梓した。さらに「婦人画報」七月号に「若い日」、「新潮」八月号には「国違い」を載せた。これは南洋に出稼ぎに行った日本人女性を主人公にした作品で、金子から聞かされた話がもとになっている。そして九月には富士出版社からパリや南洋、中国での体験を作品にした『をんな旅』を刊行した。口絵には着物姿の三千代の近影を載せ、装幀を富永次郎が担当し、金子光晴がカットを描いた。さらに、六月に刊行された山崎民治の『これが支那だ 支那民族の科学的解析』(栗田書店)のためにも、挿画十八点を提供した。
[PR]
by monsieurk | 2017-02-15 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(12)

 金子光晴は、こうして帰国九年目にして詩壇に復帰した。年が明けた一九四一年(昭和十六年)一月三十日、「日本詩人協会」の結成を記念する「詩人会」が、有楽町の三業組合中央講堂で開催され、そこで自作を朗読した。
 詩人たちの集まりである「詩人協会」は、島崎藤村、河井酔茗、野口米次郎、三木露風、高村光太郎、北原白秋の六人を発起人として、一九二八年一月に発足した。だがその後二年あまりで活気を失い、自然解散の状態にあった。それを時流に合わせるように、詩の分野でも統合した協会をつくることになり、わざわざ「日本」の名を冠した「日本詩人協会」として再発足したのである。
 そして六月には、日本詩人協会編の『現代詩 昭和十六年春季版』が河出書房から出版され、十一月には同協会編の『現代詩 昭和十六年秋季版』が、翌十七年には春季版(一九四二年六月)、秋季版(同年十二月)が出版される。
 金子は三月になると、室伏高信が主幹をつとめる雑誌「日本評論」に、詩篇「のぞみ」を発表した。タイトルの「のぞみ」とは、中国大陸で泥沼化する戦争に加えて、南方進出によって英、米、オランダとの対立を決定的にしつつある日本の前途への望みではなく、歳を経るにつれて強くなる、南方回帰の想いをうたったものである。

「神経のない人間になりたいな

詩人の名など忘れていまひたいな。

目のふちのよごれた女たちとも
おさらばしたいな。
僕はもう四十七歳だ。
近々と太陽が欲しいのだ。
軍艦鳥が波によられてゐる

香料半島が流睇(ながしめ)をおくる

擱坐した船を
珊瑚礁の水が洗ふ

人間を喰ふ島の人間になりたいな。
もう一度二十歳になる所へ行きたいな

かへつてこないマストのうへで
日本のことを考えてみたいな。」

 詩から浮かび上がるのは、深い絶望と忘却への憧憬である。
 内閣は左翼関係の出版物およそ六六〇点を一括して発禁処分にした。この出来事に象徴されるように、金子の周辺の詩人たちの発表の場がますます狭められていった。
 ただ金子は四月、かつてゴムの栽培業者でのちに作家となり、ゴンクール賞を受賞したフランスの『馬来(マレジー)』を昭和書房から、七月にはクロード・フォーコニェとポール・シニャックの共著『エムデン最後の日』を刊行した。前者は南方ブームに乗ったもので、後者はドイツの有名な潜水艦を扱った小説だった。これらは明らかに生活費稼ぎの仕事だった。
 北海道大学の学生、河邨文一郎が詩集『鮫』に衝撃をうけて、訪ねて来たことは前に紹介したが、河邨はその後も上京する度に顔を出し、この年の三月十三日にも上京するとすぐに顔をだした。このとき金子が、ノートに書き溜めた詩篇を見せ、それを筆写して北海道に疎開させてほしいと申し出たのである。
[PR]
by monsieurk | 2017-02-12 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(11)

 『マレー蘭印紀行』には、百五十部限定のA版特装版(署名入り)箱入りで定価三円五十銭と、同年十二月二十日に出たB版普及版、一円六十銭がある。普及版の発売後二カ月で、さらに低価の普及版が出されたが、これによっても世間の注目が集まったことが分かる。
 こうした現象の背景には、松岡洋右の、「われわれの現在に政策は皇道の偉大な精神に基づいて日本、満州国および中国を結びつける大東亜共栄圏を樹立することにあります。(中略)大東亞共栄圏のなかに仏領インドシナと蘭印東インドを含めることは当然であります」という声明に象徴される、南方への関心の高まりがあった。
 『マレー蘭印紀行』は「歴程」に広告が載ったほか、「日本学芸新聞」の書評で取り上げられ、推薦図書にもなった。ただし心ある読者が読めば、この時期に刊行された諸々の南方関連の著作とは、似て非なるものなのはすぐに判ったはずだが、一般読者は流行の南洋紀行の一冊と受けとめたのだった。
 このことを気にしてか、金子は雑誌「婦女苑」十二月号に掲載したエッセイでこう書いている。「(ジャバ人は)自分の国にゐながら、他国人の奴隷になつてゐる。(中略)いつまでも旧い認識をとつて相手を観察することは一番危険である。いはんやジャバをマーシャル、カロリンのやうな、原始人と一列に考へ、一口に南洋土人と未開人あつかひにして片付けてしまうことは、将来を誤算するおそれがある。ジャバ人は、光栄ある過去の歴史をもつた立派な民族である。現在日本人よりも遅れた文化を持つてゐるのは、不幸にしてヨーロッパの侵略民族の争奪の槍玉にあがつて、土地を奪はれ、人民は奴隷に追ひ落とされて、ながらく、息の根を留められてしまつてゐたからである。ジャバの女性達は、どこかに日本の女性と共通性のあるけなげで、いぢらしくて、聡明ささへもつた美しい女性達なのである。」
 十月十二日、これまでしのぎを削って来た政党が一つになる、大政翼賛会の発会式が行われ、十九日には、大政翼賛会文化部長に劇作家の岸田國士が就任した。岸田の就任は、彼が陸軍士官学校出身であるというのが理由だったが、フランス流の教養の持ち主である彼がそのポストにあるかぎり、上からの極端な文化政策が幾分かは緩和されるだろうといった期待が、多くの文化人がもった。岸田本人もそうした役割をひそかに意識していた。しかし文化部をつつむ状況は、そんなに甘いものではなく、十月二十七日には、政府と翼賛会は、文化思想団体の一切の政治活動を禁止した。
 岸田は二年足らずで文化部長の席を去り、代わってドイツ文学者の高橋健二がそのあとを継ぐことになる。
 この年の十一月十日、宮城前広場で紀元二千六百年記念式典が挙行され。この模様はラジオを通じて全国に放送され、夜には提灯行列が行われた。
 二日後の十一月十二日には、高島屋の三階にあった特別室で、翼賛会の一機関となる日本女流文学者会をつくる準備会が開かれた。長谷川時雨をはじめ十数名が集まり、三千代も出席した。
 三千代は、十一月には小説集『南溟』(河出書房)を出版。十一月には『現代女流詩集』(山雅房)に「珊瑚礁」が収録された。これは「富士」、「雨と菖蒲」、「印度洋」、「珊瑚礁」、「聞こえるかい 坊や」、「馬来の夜」、「寞愁湖」、「溶けゆく鳥の群」の七篇からなる詩選集で、収録作品はすべてこれまでの詩集に発表されたものである。彼女はさらに「新潮」十二月号に、「バタビア日記」を寄稿した。
 暮れも押しつまった十二月二十八日、金子光晴の『マレー蘭印紀行』の出版記念会が開かれた。思ってもみなかった売れ行きもあって、大勢の人たちが集まり盛会だった。ただ金子自身はのちに、これは「マレー蘭印をめぐった時の旅行記で、軍事的なことはすこしもふれていないので、読者は失望したらしかった」(『詩人』)と書いている。
[PR]
by monsieurk | 2017-02-09 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(10)

 大戦勃発以来、日本はヨーロッパの戦争への不介入を宣言し、列強の眼がアジアから逸れている間に日中戦争で勝利することをめざした。だがそれに成功せず、戦争の手詰まり状況から、南進政策に踏みだした。
 一九四〇年七月に作られた「基本国策要綱」では、「大東亜新秩序」が打ち出され、武力行使によって、フランス領インドシナやオランダ領インドシナなど南方地域を支配することをめざす方針が打ち出された。これにはヨーロッパにおけるドイツが勝利を得たことが大きく影響していた。
 独仏の休戦協定が成立した三日後の六月二十五日、大本営はフランス領インドシナにある、蒋介石の国民党軍を支援のための物資輸送網、いわゆる「蒋援ルート」を切断し、東南アジア侵略の前進基地を築くために、監視員として陸軍、海軍、外務省出身者三十名を仏領インドに派遣した。この間、陸軍の首脳は親英米派の米内光政内閣の倒閣に動き、七月二十二日には第二次近衛文麿内閣が成立した。
 この後、陸軍主導のもとに南方進出の計画が練られ、日本はフランスに対して、国境監視、日本軍の仏印領内の通過、飛行場の使用などを要求し、両国の間で平和的進駐に関する協定が成立した。
 日本の北部仏印進駐は、タイをのぞく東南アジアのほとんどの地域を領有していたイギリスやオランダ、アメリカの警戒と反発をまねいた。依然としてドイツと戦争状態にあったイギリスは、ヴィシー政権をドイツの傀儡政権として承認しなかったし、ヴィシー政権を承認したアメリカも南方での日本の行動を認めなかった。
 その後、中国側に駐留して日本軍が、独断で国境を越えてフランス領インドシナ(仏印)に侵攻して、フランス軍との間で戦闘が起った。しかし日本軍はこれを制圧し、一九四一年には軍事協定を結び直して、新たな飛行場と軍港を確保した。さらに日本軍の南部仏印への進駐を要求し、フランスは日本の要求をほぼ受諾して、日仏印共同防衛に関する日仏議定書が交わされた。
 日本がこうした一連の行動で頼りにしたのは、ヨーロッパでの戦争で勝利を重ねるヒトラーのドイツだった。九月二十七日には「日独伊三国同盟」が締結され、調印式が東京の外相官邸とベルリンの総統官邸で行われ、ベルリンでは松岡外相が署名した。
 日本政府はこれによって間接的にイギリス、アメリカへ圧力を加えようとしたが、アメリカは鉄屑の対日禁輸をきめ、蒋介石軍に対する資金や物資の援助を増大させた。
 緊迫する世情をよそに、三千代の文学活動は波に乗った感じだった。九月には洛陽書院から短編集『はなびら』が出版され、「はなびら」、「街の童女」、「精霊流し」、「夫婦」、「眇」、「通り雨」が収録されていた。そして八月には、同人誌「文学草紙」に「あけぼの街」の連載をはじめ、これは翌年の五月まで十回合計十回連載された。その間、同じ「文学草紙」の十月号には、「日記から」も載せる充実ぶりだった。
 世間の関心が南方に向かうなかで、金子光晴の『マレー蘭印紀行』が、山雅房から上梓されたのは十月二十日である。厚紙の表紙のA版普及版で、定価二円五十銭(外地二円七十五銭)。金子光晴と森三千代の装幀で、扉には現地の写真一点、スケッチ二点と地図二点が付き、全二百七十六頁だった。内容は、昭和三年から四年にわたる海外放浪の途次、シンガポール、マレー半島、ジャワ、スマトラでの見聞をもとに、旅行中や帰国後に書き継がれたものである。金子は「跋」でこう述べている。
 「南洋の旅行記を山雅房の川内〔敬五〕氏の好意で出版のはこびになつた。
 この旅行記は、もつと早く出版したかつたのだが、都合が悪くて今日まで延びてしまつたので、少々今日の事情とは変わつたところが出来、一部を書直さなければならなくなつた。
 この旅行記に収めたものは、馬来半島ジョホールのゴム園と、スリメダンの石原鉱山を中心にしたもので、爪哇、スマトラの旅行記は附録程度に量が少ない。爪哇旅行については別巻をなす位のものがあるので、それは他の機会に一冊にまとめて、第二巻に相当するものを出したいと思つている。
 旅行記の方法は、自然を中心とし、自然の描写のなかに人事を織込むやうにした。幸いに、熱帯地の陰暗な自然の寂寞な性格が読者諸君に迫ることができたら、この旅行記の意図は先ず成功といふべきである。南洋案内、南洋産業地誌に類する書籍と併読されゝば、一層、具体的な効果をおさめえられると思ふ。たゞ行文拙劣、観察浮薄をまねかれず、精進の途にある一文筆人のこの一足跡に大方の批判鞭撻を待つものである。
 旅行中、激励教示をいたゞいた、シンガポール日報長尾正平氏、大木正二氏、三五公司現地員各位、爪哇日報松原晩香氏、バトパハ日本人会書記松村磯治郎氏、バトパハ芳陽館主人鎌田政勝氏、石原鉱業当時バトパハ支配人故西村氏、等に感謝を捧げる。」(『マレー蘭印紀行』)
[PR]
by monsieurk | 2017-02-06 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(9)

 前に触れたようにタイトルをつけたのは武田麟太郎だった。最初この作品集は「人民文庫」から刊行されるはずだった。しかし「人民文庫」が潰れるという曲折をへて、ようやく出版された。彼女にとっての最初の小説集で喜びは大きかった。
 短篇「雨季」の主人公は、ジョクジャで手広く商売をしてきたトーコー桜の経営者曽根がモデルで、異国に生きる日本人が遭遇する有為転変や心理的葛藤を、南国の退廃的風景を背景にした作品である。
 他の三篇は帰国後の日本での生活を題材にしていて、「小紳士」は息子の乾をモデルにした少年を主人公にしたもので、「猫」と「梵鐘」は、三千代も一時暮らした新宿の場末で見聞したさまざまな人間模様を描いている。
 一方の金子も創作意欲は盛んだった。詩としては、「歴程」四月号に「0―鬼区」を、「中央公論」五月号には「真珠湾」を発表し、これと並行して六人の詩人の詩を集めた詩選集の編纂が進められた。『現代詩人集Ⅰ』(山雅房、一九一五年)である。
 これには小野十三郎の詩選集「今日の羊歯」、吉田一穂「海市」、高橋新吉「戯言集」、中野重治「浦島太郎」、金子光晴「落下傘」、山之口貘「結婚」が収められている。
 金子光晴の「落下傘」には、「鱶沈む」、「刃物」、「痰」、「銅貨(ドンベ)」、「街」、「女たちへのいたみうた」、「新年」、「小品」、「牧野信一君の死に」、「無題」、「落下傘」、「天使」、「夕」、「大埠頭にて」、「古い港に」、「水の流浪」の十六篇が載った。
 六月二十三日、「日本学芸新聞」の主催で、第一回の「詩研究会」が東京京橋の八重洲園で開かれた。金子も会に出席して選者となった。このころの彼は外出のときはトンビを羽織り、いつも下駄ばきだった。

 南方進出

 これより前の六月二十二日、フランスがドイツに降伏したというニュースが新聞で大々的に報じられた。
 ヨーロッパでの第二次大戦は、前年九月一日にドイツ軍がポーランドに侵攻してはじまったが、ドイツが前年にチェコスロバキアを解体すると、イギリスとフランスは三月末に、ポーランドの独立が脅かされた場合はポーランドを支援するという保障をあたえていた。それにもかかわらず、英仏の対独宣戦布告が、ドイツ軍の行動開始から三日遅れたのは、ドイツに対する宥和志向が政権内にあったあらわれだった。その上、英仏両国は宣戦布告をしたあとも、ドイツ軍に対して効果的な軍事行動をとらなかった。イギリス空軍がドイツ軍に投下したのは爆弾ではなく、ヒトラーを批判し、戦争の終結を呼びかけるビラだった。このようにして、一九三九年九月から四十年春までの間、ドイツと英仏の間では本格的な戦闘は起こらず、「奇妙な戦争」状態が続いた。
 しかし四月になると、ドイツは北欧作戦と同時にオランダ、ベルギー、ルクセンブルクのベネルックス三国と、フランスへの攻撃を開始した。フランスとイギリスの同盟軍はマジノ線に防御線を敷いたが、ドイル軍は防御が手薄なアルデンヌの森から戦車部隊を投入したためフランスの防御線は崩壊し、六月十四日、ドイツ軍はパリに無血入城した。
 ボルドーに撤退していたルブラン大統領は、十六日にはポール・レイノー首相に代わってペタン元帥に組閣を命じ、ペタン内閣は二十二日に屈辱的な休戦協定を受諾した。
[PR]
by monsieurk | 2017-02-03 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(8)

一九四〇年(昭和十五年)は政情不安のうちに明けた。前年十二月二十三日、第七十三通常国会が開会された。三日後には衆議院議員二百四十名余りが、阿部信行内閣の不信任決議に賛同し、翌日には決議文を首相に手渡した。年が明けた一月十四日、阿部内閣は陸軍の支持を失って総辞職、二日後に米内光政内閣が成立した。
 米内は第一次近衛文麿内閣で海軍大臣に就任して以来、幾度か海軍大臣に就任した良識派だった。親英米派の米内を総理大臣に推したのは昭和天皇だったという。中国大陸で戦闘を拡大する陸軍によって、政治が壟断されつつある現状を打開したい勢力の抵抗のあらわれだった。
 こうした政局は、文化面にも影響せずにはいなかった。その一つがこの年に結成された「文化再出発の会」である。若手の評論家で幾つかの雑誌の編集者をつとめてきた花田清輝は、著名なジャーナリストで、思想家中野正剛の弟の中野秀人や、岡本潤と語らって新たな文化運動を起こす目的でこの会を立ち上げ、機関誌「文化組織」を発行した。一月に創刊号が出されてから、「文化組織」は第八号まで続き、文化の再編を提唱した。
 これに対抗するように創刊されたのが「詩原」である。昭和十四年十二月、新宿にあった帝都座の地下の「モナミ」で、青柳優、岡本潤、伊勢八郎、壺井繁治、秋山清、それに金子光晴も加わって幾度か会合がもたれ、新たな雑誌の発行と同人の選定が行われた。『現代日本文芸総覧』の「解題」では、「詩原」について次のように紹介されている。
 「「詩原」は昭和十五年三月、赤塚書房から発行された第二次大戦前の最後のアナーキズム系詩人たちの雑誌だった。すでに「一定の色彩はない。各人各様の詩誌だ」と創刊号「編輯後記」にことわらなければとても発行できない時代になっていたわけだが、壺井繁治、大江満雄、小野十三郎、倉橋顕吉、永瀬清子、山本和夫、中野秀人、池田克己らが寄稿、小堀甚二訳のハイネ「アツタ・トロール」が二号にわたって掲載されている。太平洋戦争がはじまる直前の時代で、もう詩人達の反逆も影をひそめているが、アナーキズムの詩人たちの抵抗の姿勢ははっきりうかがうことができる。菊判六十ページ前後で定価三十銭。編輯発行人は東京中野区上高田一ノ二七七伊藤方の伊勢八郎、発行所は東京市小石川区駕籠町五の赤塚書房。」
 金子光晴は「モナミ」の集まりに必ず顔を出し、創刊号には「詩評」を、第二号(四月号)には反体制の詩「死神」を発表した。そして両号には詩集『鮫』の広告が載った。
一方の三千代は、「早稲田文学」の一月号に、「都会文学について」と題した文章を寄せた。
 二月になって、中支戦線に出兵していた弟義文が、腹部と左腕に貫通銃創を負って送還され、名古屋の病院に入院した。生憎と父の幹三郎が病気で動けないため、三千代が名古屋へ出向いた看病しなければならなかった。
 そんななかでも彼女の創作意欲は旺盛で、同人誌の「文学草紙」に「我等の展望」を書き、三月には、これまで雑誌に発表した作品を集めた『巴里の宿』を、砂子屋書房から出すことができた。二七四頁に、表題作「巴里の宿」をはじめ、「雨季」、「小紳士」、「猫」、「梵鐘」の五篇が収められている。
 「巴里の宿」は、「巴里に寄せる」、「白い金魚」、「カルチェ・ラタン」、「アイーシャ」、「血を抱く草」の短章からなり、パリの屋根裏部屋に住む女性の鯉江を主人公にして、自ら経験した苦難をフィクションをまじえて描いたものである。たとえばこんな個所がある。
 「私の、はじめて飛びこんだ巴里は、そういうところだった。
仕事といっても、仕事らしい仕事はない。一日か二日、多くて二週間、三週間の臨時仕事で、それも、日本人の間をたのみ込んで、一月に一度あるか、二月に一度あるか。・・・だから、指から血を流す仕事もしなければならなかったし、あてが少ないと思いながら、山勘仕事にものらなければならなかった。金を中心にして、血みどろになって争奪戦をしなければならないこともあった。それが皆、日本人同志のことで、一人分の餌を十人で奪い合わなければならなかったのだ。一人の仕事のあるところへは、十人の人間がたからなければならない。地獄。私はいく度、目をつぶったかしれなかった。(中略)巴里での私の生活の均衡(バランス)のあぶなっかしさのなかに、私は、女性の顚覆の危機を屡々経験した。そして悪戦した。私の争闘は、内容的には、そういうものであったから、私は、むしろ男になろうと努力したのかもしれない。そして、この争闘は、現在の私の基礎になっているから、あながち、徒労なものではなかったといえる。」
[PR]
by monsieurk | 2017-01-31 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(7)

 ここで天使に擬せられている少年については、十四歳になった息子の乾が念頭にあることは間違いない。邪まなことや疑うことを知らない彼らは、神なき世をわが物顔に支配しようとしている権力あるものたちの言うままになろうとしている。
 詩はこうした状況への危惧と悲憤をうたっているのだが、真意は象徴的手法でぼかされているため、一読した限りは単なる抒情詩としか受け取られかねない。この時期の金子の詩は多少とも、みなこうした韜晦がほどこされていた。
 一方の三千代は、一月に中国旅行の見聞記「声――北支所見」を「輝ク」一月号に載せ、七月には一年ほど前から話し合いをしていた同人誌「文学草紙」を創刊した。同人は彼女のほかに、古谷綱武、古谷文子、鎌原正巳、高野三郎、須賀瑞枝の六人だった。創刊後も中野の飲み屋「ピカ一」で会合をもった。三千代はその第一号に「弱年」を発表した。この他にも、「梵鐘」(「文学者」八月号)、「猫」(「文学草紙」八月号)、「街の童女」(「文学者」十一月号)、「精霊流し」(「文学草紙」十二月号)などを発表したが、いずれも短い散文であった。
 なかでも目につくのは、「輝ク」の十二号に発表された「傷病戦士の慰安会」で、タイトルの通り戦争で傷ついて兵士たちを慰めるために開かれた慰安会のルポルタージュで、時代を反映した作品である。
 実生活では、二人が社員として名前を連ねる「モンココ」の本社が中野へ移り、河野夫妻はその近くに転居し、大鹿卓夫妻は杉並に移転した。金子にとって痛手だったのは、詩集『鮫』の出版に尽力してくれた本庄睦男が、肺結核が悪化して七月二十三日に亡くなったことだった。享年三十五歳の若さだった。
 ヨーロッパでは、この年の春以降イギリスとフランスはドイツに対抗するため、ソビエト連邦をヨーロッパの安全保障体制に引き入れようと努力した。スターリンはそれと引き換えにポーランドへの権益を要求したが、これは拒否された。
 一方、ヒトラーはダンチッヒの併合とポーランド廻廊を通過する鉄道と道路を引き渡すように要求し、ポーランドがこれを拒否すると、ポーランド侵攻の準備をはじめた。そして八月二十三日、突如独ソ不可侵条約締結が発表され、ヨーロッパの人たちは来るべき戦争を覚悟しなければならなかった。
 ヒトラーは同じ日、ポーランドへの攻撃開始の日を定め、ポーランドの使節が八月三十日までにベルリンに来るよう要求した。しかしポーランドは交渉に消極的だった。
 一九三九年九月一日、ナチス・ドイツの軍が突如ポーランドにたいする電撃作戦を開始した。イギリスとフランスは翌二日総動員令を発令してドイツに宣戦を布告した。こうして第二次世界戦争がはじまった。この戦乱でフランスやベルギーがどうなるのか、とりわけ世話になったルパージュ一家の運命が、金子と三千代には気がかりだった。
[PR]
by monsieurk | 2017-01-28 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(6)

 十二月の「日本学芸新聞」のアンケート「長期戦下の文化国策に直言する」では、「我々としてはただ寛厚を庶幾するほかは仕方がないだろう。文化国策に直言するよりはむしろそれに順応する文化人一般に直言したいことの方が多い。一例がペン部隊の事にしても、当局の意図や人選振を批判するよりも、文壇の元締め根性の方が問題だ。長期戦下で元締めたちとその努力範囲に一任することは文化に関する仕事の限りでは返って冗が多いことになるのではないか」と答えている。
 要するにペン部隊をつくって国に奉仕させようとする内閣情報部への批判を避けつつ、それに迎合する文化人をやり玉にあげるのだが、いかにも隔靴掻痒で、苦しげである。十二月四日には、従軍ペン部隊の第二陣として、長谷川伸、中村武羅夫など九名が南支へ向かった。
 一九三九年(昭和十四年)一月四日、近衛文麿内閣が総辞職して、翌五日には平沼騏一内閣が成立。六日にはドイツのリッペントロップ外相が、日独伊三国同盟を正式に提案した。日本は三国相互の武力援助はソビエト連邦だけを対象とし、その他の国に対しては状況によって対象とするという妥協案をもってこれを受け入れることに決した。
 戦時色が日常生活にもさまざまな影を落すようになったが、金子の創作意欲は衰えなかった。新年には詩篇「章句――ジャン・モレアスに」を「新女苑」一月号に発表したのにはじまり、「天使」(「中央公論」四月号)、「泥濘の歌」(「文芸日本」六月号)、「混血論序詩」(「文芸」六月号)、「ニッパ椰子の唄」(「文学者」十一月号)「八達嶺」(日本学芸新聞」十一月二十五日号)などが主なものである。これらの多くは後に詩集『落下傘』(一九四八年)や『女たちへのエレジー』(一九四九年)に収録されることになる。
 このうちの「天使」は時勢にそぐわないタイトルの詩だが、いったいどんな意図で書かれたのだろうか。まずは詩の一部を紹介する。

 天使

  一

 しゃぼん玉があがるやうに
嬰児(あかんぼう)たちが
そらにうまぶ。

神の煉乳(コンデンス・ミルク)で育つた
薔薇の膚は
風邪をひかなあい
むつきもいらない。

その背には
雉鳩のつばさ。

・・・・・・・

  二
  
 だが、いま、嬰児たちは顔蒼褪め
アビオグラムのなかを遁れまはる。

成層圏まで、父なる主宰者はゐまさず
嬰児たちは孤児となりはてた。
塵や、木の葉や、新聞紙とともに、かれらは
宙に吹きちらされる。

口いつぱい蟹の泡を噴き
うろたへ、
逆さになり、くるくる廻り、
べたべたなキャンディを手に握り、
肉柱のにほふ甘つたるいからだ、
すつぱい林檎。
円光(ニンプ)を背負つた
無心な天使らは
地球にやすらふところがない。

踏んづけるほどおつぱいが押しあつても
天使らを養ふものはゐない。
気球のあがる
屋上のたたきのうへで、
飴いろのにぎやかな一群を
秋空たかく、私は
かなしげに見送る。

あれは邪(よこしま)と
疑をしらぬもの、
えらばれた扈従たちよ。
いずくにゆく。

 昼の月、
浮雲とともに
神の声色、遠雷のつぶやく
くにざかひのそらを天使らは
おそれげもなく
膝で
匍いまはる。
[PR]
by monsieurk | 2017-01-25 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(5)

 「落下傘」は「洪水」とは違って、詩集『現代詩人集Ⅰ』(山雅房、一九四〇年)や戦後の『落下傘』(日本未来派発行所、一九四八年)に収録されたテクストとの間に異同はない。ただ冒頭の、「ながい外國放浪の旅の途次、はるかにことよせて望郷詩一篇」という前文と、詩を飾ったカットの作者を示す註、「深澤索一畫」は削除されている。
 東南アジアや、パリ、ベルギーで苦労した金子が、ときに望郷の念にかられたのは事実だった。日本からの距離が遠くなり、時間が経つにつれて故国は理想化されるもので、金子の場合も例外ではなかった。故国は何よりも言葉が通じ、顔色で相手の考えが分かる国、同伴する三千代とは違って「女たちの貞淑な国」であり、「額の狭ひ、つきつめた眼光、肩骨のとがつた、なつかしい朋党達がゐる」。金子はそこを「戦捷の国」と呼び、落下傘で降りてゆく。
 ここに描かれている日本や日本人は、戦時中どこにでも見られた一般的風景であり、人びとである。しかしその「戦捷の国」が、いま途轍もない破滅に向っていこうとしていて、北支の旅で、「ひもじいときにも微笑む / 躾」をうけたはずの人たちが、戦場で豹変するのを目撃した。そして「草ぶきの廂にも / ゆれる日の丸」がいつしか出征する人たちを送るものとなり、残された者も、忠君愛国のスローガンのもとに一色に染まりつつあった。
 金子の反戦意識は生理的な恐怖に発していた。戦争はまずは自分や家族の死をもたらす。そしてこの恐怖は、戦争によって人間性を奪われ殺人者と化す兵士への嫌悪に結びつく。戦後になって、友人の郁達夫が日本軍によって殺されたのを知ったとき、金子はこう書いた。
 「戦争中、僕が周囲で見てきた軍人の凶暴な性格は、上の命令で仕方なしに歪められた性格とばかり僕は見ることができない。上から下まで区別なく、日本人は、ある低い沸点で同様に沸き出し、本来の卑屈さ、乱破(らっぱ)根性がむき出しになるのだ。兵隊たちがいずれも素朴な、好人物の人の息子とわかっていても、その性格は絶対に信用できず、その行為は、どれほど憎んでもあまりがある。」(『日本人について』)
 七月、日本ペンクラブが国際ペンクラブを脱退。八月には内閣情報部の要請で、漢口攻略戦の取材を目的に、初めてペン部隊が結成され、陸軍班二十四名、海軍版八名が戦地へ派遣されることになった。
 金子もこうした情況を考慮せずにはいられなかった。「中央公論」七月号の掲載された「無憂の国――爪哇素描」は、ジャワ島の見聞記だが、文末には小文字の但し書きが添えられている。「猶バンドン、ガロ、トサリ、スラバヤ等に就いて天然を、人事を語りのこしたことが沢山あるが、紙数を限られてゐるのでそれを説尽すことができない。ただ、邦商の発展のかげには、東洋の覇者としての日本の爪哇一般は好意をもつてゐて、我らに頼ろうとする傾向があり、自然安値と云ふ条件においても感情的に日本品を欣ぶためであることを一言書添へておきたい。」
 現地の人たちが日本の品を買う傾向が増えているのは事実だったとしても、それが「東洋の覇者」への信頼によると、あえて書き添えた部分はいかにも不自然である。出版統制を慮る編集者畑中と金子があったに違いない。
[PR]
by monsieurk | 2017-01-22 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)