ムッシュKの日々の便り

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カテゴリ:芸術( 218 )

男と女――第七部(20)

 別の日の小雨がそぼ降る夕暮、小説『安南の愛』の著者の阮進朗(グエンチュンラン)やヴィエアン中学校の若い校長で、『若い安南』の著者、陶登偉(ダオダンビイ)の招待で、香河に舟を浮かべて語りあった。後日、文部大臣兼宮内大臣の芒瓊(ファンキン)とも会う機会があり、教養ある安南貴族の奥ゆかしさを知ることができた。
 三千代にとって香河での舟遊びはじつに感慨深いものだった。詩集『POĒSIES INDOCHINOISES(インドシナ詩集)』(明治書房、一九四二年)に、詩篇「香河の夜の舟遊び(Canotage nocturne sur la Rivière des Parfums)」を載せている。

香河のうえを
舢板(サンパン)が滑っていくのも
感じない。

この静けさを破るのは
風景をきり拓いて進む魯の音と、
小舟の腹を打つ水音ばかり。

小舟にかかげられた茣蓙の下、ひそかに心を打ち明ける、
秘密の逢引きでもするように。

・・・・・・

黒いターバンを被った安南詩人が
今宵は、月が出ないと嘆く。
落花生油のランプの光を揺らしながら、
国のやるせなく悲しい歌をなぞりながら、

彼は私に描いてみせた
――私の肩に重くのしかかる悲しみを。
私が愛する男は、去り
戻ってこない。

舟腹に出ると、
霧雨が顔を打つ。
王城近くの
岸辺はただただ暗く
龍のかたちをした
雨雲がたなびいている。

 中国風の教養を身につけた文士たちとの交遊は興味深かったが、三千代は安南の若い作家や評論家たちの仕事に強い関心を抱いた。
 「漢詩漢文が縁遠くなった今日、新しい安南文学の中心地は、フランス政府の政治機関、文化機関の中心地ハノイにうつっていることは、当然のこととして考えられよう。(中略)安南文学は、それまで韻文学であった。ようやくここに散文小説の新しい誕生を見た。若い文士達は、安南語で、またフランス語で創作する。しかしまだ、文学専門雑誌を見ないようだ。主な発表機関は、仏字雑誌「印度支那」「エコー」安南語雑誌「チュン・バック」その他新聞等である。著名な少数の作家を除いては、作品を以って生計を立ててゆくことは困難だ。(中略)
 新しい安南小説家が、どんな欲求で、どんな動機で、何を手材にして文学をやるか。言うまでもなく、それは若い安南が持っている多くの悲しみと悩みである。手材として取上げられるものは、主として、迷信深い道教、仏教と、儒教精神でつくりあげられた因習的な古い家庭内に、フランス風な新しい思想が流れこみ、古い世代と新しい世代のまじりあう悩み、苦しみである。」(「仏印の文学」)
 古都フエに滞在中、阮王朝歴代皇帝の墓を訪ねたが、とりわけ明命陵の印象は強烈だった。「明命の墓の松や茨でおおわれた盛土の背後は、荒涼とした原野につゞいていて、薄明の時刻には餓虎が彷徨するという話だった。風の音にも、そんな気配が感じられて、思わず身がひきしまる思いがした。」(「ユエの印象」)
さらにフエから少し南へ行ったところにあるツーラン近くの会舗(ヘイホー)には、かつて日本人町があった。徳川の鎖国時代、山田長政たちが南方に飛躍したころのことで、仏印にも多くの日本人が進出したのだった。異国の地に没した日本人たちの墓がいまも残っているとのことだった。
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by monsieurk | 2017-03-08 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(19)

 南部への旅

 南部仏印の旅行に出たのは、二月末か三月初めのことである。午後六時半に、ハノイ発サイゴン行の列車に乗った。
 汽車は速力は早いがよく揺れて、中年のフランス女性と同室だった。窓外の水田と竹藪が続くトンキン・デルタの風景は、灰色からやがて暮色に変わっていった。王宮のある古都フエ(三千代はフランス読みで「ユエ」と表記)には、翌日の午前十時半に到着した。
 駅には、啓定(カイデン)博物館長のソニー、理事官秘書コンパンの代理のルパージュ、それにユエ唯一の日本人で、写真館を営む中山の夫人が出迎えてくれた。
 フエの城外を流れる香河(リヴィエール・ド・パルファン)にかかるクレマンソー橋のたもとにある、立派なホテル・モーランに投宿した。滞在は五日の予定だったが、滞在中は博物館長のソニーが行動計画をつくってくれ厚遇をうけた。
 二月二十七日には、有職大臣で現皇帝バオダイ帝の叔父にあたるプータク(寶石)宅に、ソニーや中山夫妻とともに招かれ、格式高い安南料理のもてなしを受けた。
 三月初めに理事館長のダランジャンを訪問し、翌日には阮王朝十二代の当主バオダイ(保大)帝に拝謁することになった。
 「阮王朝の始祖阮福映(嘉隆・ジャロン帝)が、フランスの司教ピニョー・ドベーヌの義勇軍の助けを得て、紛乱していた安南を統一してから百四十年。現在はフランスの保護領となっているが、王朝は昔のまゝに残存している。一八八五年にフランスと支那との間で結ばれた天津条約まで、まだ支那が安南の宗主権を主張していたもので、古来安南はほとんど支那文化の影響下にあった。支那をそのまゝ見るような宮廷の外観、大官達の礼服を見ても、それはすぐうなづけるのだ。(中略)
 保大帝に謁見したのは、その支那式の宮殿ではなく、宮殿のうしろにつゞいて建て増された新式な洋風の大広間であった。
 皇帝はまだ二十七歳の、巴里にも留学されてフランス式な教養を身につけた、瀟洒な青年紳士であった。オール・バックに撫でつけた髪は無帽で、藍色紋織のゆったりした安南服を身につけていられていた。傍らに椅子を賜って少時雑談したが、皇帝は、別れ際に、三年に一度のユエの大祭、南郊(ナンジャオ)の祭がもうすぐだからそれまで滞在してはどうかといわれた。」(「ユエの印象」)皇帝のせっかくの勧めだったが、南郊が行われるのは月末で、南郊の祭を見学することはできなかった。
 フエは王城にふさわしい、典雅で、物静かな街だった。数日の滞在中に安南のもっとも高い心情にふれることができた。三千代は仏印の旅の様子を、旅行記『晴れ渡る仏印』のほかに、次章で紹介するフランス語の詩集『POĒSIES INDOCHINOISES(インドシナ詩集)』(明治書房、一九四二年)で、詩にしている。
 「フエ(Hué)」と題した詩篇は、バオダイ陛下に捧ぐとの前書きがついている。

私は忘れない、
この平安な時のなかで
私が忘れ
そして人びとが私を忘れることを。

いつの日か
私がすべてを忘れたとしても、
私は決して忘れまい
この静謐な古の都を。

この静けさ
この心の透明さは
私がいつの日からか探してきた
幻影に似ている。

私は決して忘れまい
古びた屋根、龍の石像、
印度ケイソウが匂う
人気のない黄昏を。

丸い空に、
四角い大地に、
そこに見出される月日が
やすみなく続いていく。

私は決して忘れまい
《クリソクロア クレガンス*》が住んでいる
街路樹を、
伝説と恋が咲き誇る
香気にみちたこの都を。

私は決して忘れまい
小舟の唄を、
夜の鳥が飛び交う
水面の上の際限のない呪いを。   *ルリタマムシの一種.
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by monsieurk | 2017-03-05 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(18)

 ハノイの名所といえば、中心地にある小湖、北西郊外にある大湖、市民劇場、紅河にかかる東洋一長いドーメル橋、コットン(木綿)通りの角にある大伽藍、翡翠の寺、大仏寺、蓮寺、鴉寺などだった。三千代はそれらを見物し、有名な「金の亀物語」の舞台となったハノイ北方のコーロワ城址を二度も訪問した。
 彼女が訪れたハノイ市内のマッチ工場では九百人ほどが働いていたが、七百人は女性で、箱作り、軸の詰め込み、薬付け、上紙の張りつけなど、細かい仕事をみな女性がやっていた。一日の労働時間は十八時間で九時間交代、一日の労賃は三十銭から四十銭だということだった。
 その一方、フランス語を教える学校を出た安南のインテリ女性は、日本の役所や軍関係の事務所でタイピストや電話交換手としてきびきびと働いていた。仏領印度支那でも、ペタン元帥が提唱する「新フランス運動」に呼応して、フランス革命以来の「自由、博愛、平等」に代えて、「勤労、家庭。祖国」のスローガンが掲げられていた。その結果、ダンスなど娯楽は禁じられ、女性の華美な姿は見られなくなっていた。
日本の仏印進駐のあと、語学力を活かして、役所や商社で働くために日本からやってきた若い女性をよく見かけた。三千代は若い世代の活躍を目にしてうれしかった。
 ハノイに来て二十日あまり経った二月四日と五日に、空襲警報が続けて鳴った。彼女は中華料理店やホテルで食事中だったが、どちらもフランス軍機の音を聞きあやまった誤報とわかった。
 二月十日、明日からサイゴンへ出張するという小川総領事から、ハイフォン行きの手筈について指示をうけた。
 翌十一日の紀元節は、九時半に大使公邸に行き、御真影に拝礼し、異郷の戦時下に集まった在留邦人とともに慶事を寿いだ。帰り際、芳澤謙吉大使にハイフォン行の計画を話すと、翌日の晩餐に招かれ、その席で日本軍がシンガポールの一部を占領したというニュースを聞かされた。かつて金子とともに長く滞在したところだけに、感慨もひとしおだった。
 十四日、ハイフォンに向けて、オートライ(ガソリン・カー)で出発した。十五日は安南の正月(テト)にあたり、停車場は故郷へ帰る人たちでごったがえしていた。
 バスはそのなかを出発し、東洋一長いドーメル橋を渡り、二時間かかってハイフォンに到着した。ハイフォンは中国国境に近い港町で、日本からの船はみなこの港に着く。ホテルは、能見領事が予約してくれたコンチネンタルだった。この日は港や街を見物し、翌日は一人で街を歩きまわり、次の日はもうハノイへ戻る日程だった。
 ハイフォンでは日露戦争直後に仏印へ来たという古老の横山や、同じく長い滞在経験がある保田洋行(商社)の竹内から、それぞれの仏印観や将来の抱負を聞いた。竹内が経営している富士ホテルでご馳走になっているとき、ホテルの女将が部屋をまわって、シンガポール陥落のニュースを伝えくれた。
 十八日、ハノイへ戻ると、細かい雨が降っていた。数日留守にしたハノイが故郷のように思われ、三輪車のシクロを乗りまわして、雨に濡れた美しい並木の街を心ゆくまで満喫した。正月(テト)四日目の街は、三分の一ほどの店が扉を閉じたままで、軒下にはフランスの三色旗、赤字に星の中華民国の旗、それに日の丸の三本の国旗が出されていた。日の丸は、丸が大きさがまちまちだった。国旗掲揚はシンガポール陥落を祝うものだということだった。
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by monsieurk | 2017-03-02 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(17)

 ハノイ

 散文作家として修練をつんだ三千代は、仏印旅行の間、克明なメモを取り、それをもとにして『晴れ渡る仏印』と題した旅行記を刊行した。奥付には、昭和十七年八月十日初版印刷、同十五日発売 初版三〇〇〇部 定価壱円六拾銭 発行者 藤岡孫市、東京市新橋四丁目四十六番地に室戸書房とある。アンコール・ワットの石塔を描いた表紙の本は、縦十七・五センチ、十二センチの大きさである。
 冒頭の「空路安南へ」は、次のように書き出されている。以下、新字新仮名に直して引用する。
 「羽田飛行場から二昼夜の空旅で、日本時間の四時半、ハノイ時間の二時半に仏領印度支那の首都ハノイのヂアム飛行場に、私は着いた。
 子供の時、よく、這っている虫を捕えて別なところへうつし、その虫が自分のいる場所を見定めようとしてくるくるまわっているのを眺めて面白がっていたことがあった。私はいま、それを思い出した。突然私を違った環境に運んできた何者かが、じっとどこかで眺めてたのしんでいるのではないかという気がした。
 すべては異っていた。一昨日までの生活が、嘘のようだった。厳寒の東京が二昼夜のあいだに、爽涼さとけだるさのいりまじった、ほどけてゆくような気候に変っていた。
 ハノイは静かな街だ。戦争の外に置き忘られたような静けさに私はまず驚いた。支那、ビルマ、馬来、ジャバと四方を戦争にとりまかれながら。そこだけ不思議な平和を保ってエア・ポケットになっていた。」(「空路安南へ」、『晴れ渡る仏印』)
 金子と三千代はこれまでの旅では、日本人や現地人が経営する旅館に泊まるのが常だったが、今回は公の役目を帯びていたから、ハノイ大使府の小川総領事の世話で、フランス人街のポール・ペール通り近くのスプランディッド・ホテル宿泊することになった。すぐ近くには安南人(当時ヴェトナムはアンナン、ヴェトナム人はアンナン人と呼ばれていた)やインド人の繁華街があり、散歩の途中で現地の人たちの日常生活を見ることができた。
 「紅河(ソンコイ)(ハノイ市の東を流れる、その名の通り赭い色をした大河)の河沿いの野天の市場には、女達の菅笠が茸の集りのように見える。彼女等は一様に恁茶(クナウ)染めの、裾が四つに切れた筒っぽの上着(アオ・トウ・タン)を着て、黒いだぶだぶの股引(グアン)を穿き、眼のくぼんだ菱形の顔をして、笊を前にしゃがんで、臭菜や、バナナや、川魚や、田螺などを売っている。」(「第一印象」)
 三千代の観察は行き届き、表現は的確である。
 ハノイは商業都市サイゴン(現ホーチミン)に対して、仏印の政治と文化の中心で総督官邸が置かれ、各種の学校や東洋文化の研究機関である極東学院やパストゥール研究所などがあった。極東学院は、密林に埋もれていたアンコール・ワットの大遺跡を掘り出した功績など、インドシナの文化研究で多大な功績を誇っていた。
 ハノイ到着後間もなく、総督府の文化局長シャルトンが、フランス人や安南人の文学関係者を集めて歓迎会を開いてくれた。三千代はその席で、日本と仏印双方が自国の文学を紹介し理解しあうことで、人間的に触れ合うことで両国の親和を深めることになるだろうと話した。そして会合に出席していたフランス人のトリエール夫人や安南の女流作家テイン・テュ・ウォンなどと知り合った。三千代の印象では、日本は仏印で好感を持たれているようだった。
 この会合のあとで総督邸でドクー総督と会見したが、その折に総督から、「シャルトン氏から聞いたが、たいへん成功だったようですね」と言われ安堵した。
 「仏印の人々が日本を知り、日本語をおぼえようとする熱心さにおどろくくらいだ。それだけ彼等が日本に親しみ、日本に希望を持っていることがわかる。
 日本人が町へ買物にゆくと、商品をこれだけまけるから日本語を一言二言教えてくれという。(中略)しかし、一般の日本語熱が高いにもかかわらず、まだ、誰でもが簡単に習いに行けるという施設は出来ていない。日仏印共同防衛の実がますます上がっている今日、両国の理解や親交は一層深められなければならない。それには、彼地に日本語を普及させることは重要な仕事である。フランス人や安南人に対して日本をほんとうに理解させるために、日本の各部門の文化を紹介することがどんなに重大かということは、先達ての日本畫の展覧会や宝塚少女歌劇の成功をみてもうなづけることであった。」(「教育と日本語」)
 三千代は疲れることなく、精力的に行動した。日仏国際処理委員会文化部長シャバスや作家のマダム・ラクロンジュたちと知り合い、幾つかの学校を訪問した。その一つのハノイ印度支那女学校は、会合で会ったテイン・テュ・ワン夫人が校長をしていて、六歳から十四歳の女子生徒二千人ほどが、十八クラスに分かれて学んでいた。初等の二年間が義務教育で、六カ月は安南語で授業をするが、その後はフランス語を学び、フランス語で授業がされていた。ただ義務教育が行われるのはハノイとサイゴンだけで、安南全体では四割しかないという話だった。
 仏印は長らく中国の影響のもとで独特の家族制度や官僚制度を保っていたが、宗主国となったフランスは、こうした伝統をうちこわした。なかでもフランスが打ち込んだ大きな楔がフランス式教育の普及だった。漢字のかわりにフランス語を教え、現地の言葉であるヴェトナム語をローマ字化した。これは識字率を高める役をはたしたが、実際はそれまで村落に一つはあった寺子屋が廃止され、人びとが教育をうける機会が極端に減ったのが実態だった。
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by monsieurk | 2017-02-27 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(16)

  仏印旅行

 一九四二年(昭和十七年)は例年にない寒さで年が明けた。一月中旬、外務省の柳沢健から三千代へ、国際文化振興会嘱託の婦人文化使節として、仏印へ行ってほしいとの打診があった。
 国際文化振興会は日本が国際連盟を脱退したあと、外務省が民間に呼びかけて、国際的孤立化を防ぐ目的で一九三四年に設立された半官半民の組織であった。定款には、「国際間ノ文化ノ交換殊ニ日本及東方文化ノ海外宣揚」を目的とすると謳われているように、書物の提供、人物交流、映画制作などを通して、日本の工業力や文化を海外に伝える役割を担っていた。
 一九三七年にはニューヨークに日本文化会館をつくるなど、開戦前は欧米向けの活動が多かった。だが一九四一年以降は、大東亜共栄圏の掛け声のもとに、日本文化の中国や東南アジアへ浸透に力を注ぐようになっていた。
 柳沢健は福島会津若松の出身で、大学生のときに島崎藤村や三木露風に師事し、詩人として認められた。その後は大阪朝日新聞の記者をへて、一九二三年、三十四歳のときに外務省に入り、二年後には念願のフランス勤務となった。その後はイタリア、メキシコに駐在し、本庁の文化事業部の課長を務めていた一九三五年、日本ペンクラブの創設に尽力し、初代会長には尊敬する島崎藤村が就任した。
 一九三六年にジャン・コクトーが来日した際、三千代は宿泊先の帝国ホテルを訪ねて、フランス語の詩集『PAR LES CHEMINS DU MONDE』を進呈したが、そのとき彼女を紹介してくれたのが柳沢健だった。その後の彼女の活躍に注目していた柳沢は、軍が進駐した仏印と、文化面での関係改善のために、三千代に白羽の矢を立てたのである。フランス語で日常会話ができるのも大きな理由だったが、金子はこの話にすぐ賛成した。
 「軍ではなく外務省からで、宣撫ではなく、親善のためだということで、僕は、ゆくことをすすめた。軍の残虐のあとで、日本人を訂正する役目を果たすように、僕は、そのことについて充分、彼女に言いふくめた。」(『詩人』)
 三千代は持ち前の好奇心からすぐ話に乗った。宣伝隊として南方に行っている武田麟太郎に会う機会があるかもしれないという思惑もあった。武田が南方へ出発したあと、二人は手紙に暗号を忍ばせて連絡を取りあっていたのである。
 三千代が仏印行きを応諾すると、外務省で小川仏印総領事との面接があり、各種伝染病の予防接種やビザ申請などがあわただしく行われた。
 こうして三千代は、一月十五日、軍の小型機に乗って羽田空港を飛び立っていった。軍の進出につれて仏印への民間人の渡航は増加していたが、船旅が普通だったから、三千代は特別待遇だった。
 「彼女が羽田から発ってゆくのを僕は見送った。迷彩をほどこした、あぶなっかしい、不格好な飛行機が空にあがるのを、はてしなく心細い気持でながめた。その前の飛行機は、南支那海のうえで分解してしまった。」(『詩人』)
 金子は、「死なせにやったかな」と思おうと涙が浮かんだ。それから最初の連絡が来るまでの二週間、寝苦しい夜が続いた。
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by monsieurk | 2017-02-24 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(15)

 金子もこの臨時ニユースを聴いた。
 「不拡大方針をうたっていた戦争は、底なし沼に足をつっこんで、十二月八日、ラジオは、真珠湾奇襲を報道した。僕の一家が、そのとき、余丁町の借家から吉祥寺一八三一番地の家へ移ってきてまもなくだった。母親も、子供も、ラジオの前で、名状できない深刻な表情をして黙っていた。
 「馬鹿野郎だ!」
 噛んで吐きだすように僕が叫んだ。戦争が不利だという見通しをつけたからではなく、まだ、当分この戦争がつづくといううっとうしさからであった。どうにも持ってゆきどころがない腹立たしさなので、僕は蒲団をかぶってねてしまった。「混同秘策」がはじまったのだ。丁度、その日、新劇に出ていた元左翼の女優さんだった女の人がとびこんできて、
 「東条さん激励の会を私たちでつくっているのよ」
と、いかにも同意を期待するように、興奮して語った。東条英機は、女たちの人気スターになっていたのだ。僕は床のなかで、その話をききながら、眼をとじた。国土といっしょにそのまま、漂流してゆくような孤独感――無人の寂寥に似たものを心が味わっていた。」(『詩人』)
 戦後に書かれた『絶望の精神史』(光文社、カッパ・ブックス、一九六五年)では、開戦の日のことが、「僕は、アメリカとの戦争が始まったとき、二、三の客を前にしながら、不覚にも慎みを忘れ、「ばかやろう!」と大声でラジオにどなった。」と述べられている。
 だが息子の乾が父を回想した『金鳳鳥』によると、乾が開戦を知ったのはこの臨時ニュースではなく、この日の夜七時ごろだったという。彼はこの日、暁星学園中等部の授業を終えたあと、フランス語の補習に通っている水道橋の「アテネ・フランセ」へ行った。着いたときは短い冬の陽はとっぷりと暮れていた。
 「アテネ・フランセ」は外国人教師が多く、フランスがドイツに占領されたあとも、英語とフランス語を夜間に教えていた。教室は若い男女で一杯で、入営を控えながらフランス人の女性教師の授業に出席する者もあった。
 乾が真珠湾攻撃を知ったのはこのときで、控室でミスター・ライエルというイギリス人教師が「ジャパン・タイムズ」を膝に置き、髪の毛をかきむしっていた。翌日「アテネ・フランセ」に行くと、彼の姿はもうなかった。逮捕され捕虜収容所に送られたという噂だった。
 皆が皆、奇襲攻撃など初戦の勝利に酔っていた。文学者の多くも例外ではなかった。十二月二十四日、文学者愛国大会が開かれると三百五十人が参加した。
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by monsieurk | 2017-02-21 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(14)

 七月二十三日、日本軍が南部仏印に進駐すると、これに反対するアメリカは、日本を目標に発動機の燃料や航空機用の潤滑油の輸出を禁止した。日本は戦争の危機をおかしてまで、なぜ欧米に対抗しようとするのか。金子はあらためて日本民族を動かしているものを見極めるために、風土と結びついた日本の思想を学ぼうと考えた。
 「戦争がすすむに従って、知人、友人達の意見のうえに、半分小馬鹿にしていた明治の国民教育が底力を見せだしてきたのに、僕は呆然とした。外来思想が全部根のない借りもので、いまふたたび、小学校で教えられた昔の単純な考えにもどって、人々が、ふるさとにでもかえりついたようにほっとしている顔を眺めて、僕は戸惑わざるをえなくなった。古い酋長たちの後裔に対して、対等な気持しかもてない僕は、尊厳の不当なおしつけに対して、憤りをこめた反撥しかない僕は、精神的にもこの島国に居どころが殆どなくなったわけだった。
 そして、この頃までは、決して僕の方からゆずりたくない気持で、ごく自然に、戦争に反対し、戦争にまで追い込む国家機構に反対して、『鬼の児の唄』までの詩篇を書きつづけてきた僕は、一コスモポリタンの僕の考えよりもこの民族をうごかしているものが、もっとも緊密で、底ふかい、国土にむすびついたものにちがいないということにやっと気がつき出した。その頃から、僕は、日本思想というものを勉強しようとおもい立った。
 出版の統制がはじまっていて、日本主義の本ならば、手にはいりやすかった。宣長や、篤胤、佐藤信淵など、できるだけ本をあつめて、ぼつぼつよみはじめた。」、「日本主義の本は、だいぶよんで、腹へはいってきた。期待にはずれて、新しく僕をうごかすようなことはなにもなく、かえって、僕の日本主義に対する批判をはっきりさせただけだった。やはりこの戦争は、僕にとって、HONTE(恥辱)としてしかおもえなかった。マレー蘭印を通ってきた僕は、つぶさに植民地の支配者たちの積年の悪と、その結果をみてきて、解放しなければならないことを痛感し、英米との戦がそのイミでの示唆をもつならば、中国の戦争よりは無意味ではないかと考えたこともあったが、結局、それはうす汚い利害の争奪戦であることが、もっとはっきりした事実としてわかったことに終わった。」(『詩人』)
 十一月中旬、武田麟太郎の許へ陸軍徴用令が届いた。ジャワへ派遣される第十六軍の宣伝班として従軍するようにとの命令だった。
 十一月二十日には、日本橋人形町の料亭「梅の里」で送別会が開かれて、武田の指導をうけた女流作家としては、三千代のほかに、津田津世子、大谷藤子、円地文子、藤村千代などが顔をそろえた。武田は翌年一月、第十六軍の将兵とともに大阪港からマニラ丸に乗船して南をめざすことになる。
 十二月八日、日本時間の午前二時、日本軍はマレー半島に上陸を開始し、三時十九分にはハワイ・オワフ島の真珠湾に置かれたアメリカ海軍大平洋艦隊基地に対し、航空機と潜水艦による奇襲攻撃を敢行した。
 午前七時、NHKは臨時ニュースのチャイムのあと、「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部午前六時発表、帝国陸海軍部隊は本八日未明、西大平洋において、アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」と伝えた。ニュースを読み上げたのは宿直だった館野守男アナウンサーだった。
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by monsieurk | 2017-02-18 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(13)

 河邨は金子の没後に刊行されることになった研究雑誌「こがね蟲」の第八号(一九九六年)に、この筆写ノートの全貌を公開した。それにつけられた「金子光晴『疎開詩集』について」で、この間の事情を明らかにしている。
 「私がこれまで「光晴疎開詩集」と呼んで書斎に秘蔵していたノートが、五十年の年月を経て日の目を見ることになった。(中略)
 サイズはやや横長の変型A5版で、厚さは一センチ、表紙はズック布のしっかりしたノートで、やや黄いばみ、薄汚れが目立つ。扉の中央には『詩集真珠湾 金子光晴』とあり、左下隅に「一九四一、三月、東京にて筆写― 文一郎」と記されている。扉をめくると十四篇の詩の目次が並び、一ページ十八行、百三十七ページだが、本文はおそらくGペンで、おそらくパイロットの青インクで書かれている。字体は急いだためであろう、落ちつきを欠いているが、それでもわれながら読みやすく、一語一句誤りなきを期す気くばりが伝わってくる。(中略)
 写本を作って地方へ疎開することを金子さんが思い立ったのは、いのちをかけた一連の詩稿を後世に残したかったからである。金子光晴に司直の手がいつ伸びるか、あるいは住家を空襲の火災がいつ襲うか、どちらにせよこれらの詩稿が烏有に帰すことはまちがいない。そこで「疎開先」として選ばれたのが、当時ほとんど唯一の弟子だった北海道の河邨文一郎(筆者)と、そのころ限定版の詩画集『水の流波』を上梓した長崎の版画家田川憲だった。」
 このとき筆写された詩集「真珠湾」は、「一九四〇年の女に 芯のくさった花に 新聞 真珠湾 天使 落下傘 風景 いなづま 洪水 大沽バーの歌 犬 短章三篇(八達嶺にて 北京 弾丸) 屍の唄 雷 鬼の児誕生」だった。金子がこのころに抱いていた危機感がどれほどのものだったかが分かる逸話である。
 一方、三千代の方は活発な執筆を活動を続けていた。「中央公論」四月号には、正宗白鳥などの大御所と並んで、下町を舞台にした人情話の「蔓の花」が掲載された。担当は畑中繁雄だった。さらに「早稲田文学」六月号に「山」、同じく「文学草紙」六月号には「蛇 作家について」を、そして「むらさき」の六月号から九月号にかけて「更科抄」を連載し、六月には単行本『あけぼの町』を昭和書房から上梓した。さらに「婦人画報」七月号に「若い日」、「新潮」八月号には「国違い」を載せた。これは南洋に出稼ぎに行った日本人女性を主人公にした作品で、金子から聞かされた話がもとになっている。そして九月には富士出版社からパリや南洋、中国での体験を作品にした『をんな旅』を刊行した。口絵には着物姿の三千代の近影を載せ、装幀を富永次郎が担当し、金子光晴がカットを描いた。さらに、六月に刊行された山崎民治の『これが支那だ 支那民族の科学的解析』(栗田書店)のためにも、挿画十八点を提供した。
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by monsieurk | 2017-02-15 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(12)

 金子光晴は、こうして帰国九年目にして詩壇に復帰した。年が明けた一九四一年(昭和十六年)一月三十日、「日本詩人協会」の結成を記念する「詩人会」が、有楽町の三業組合中央講堂で開催され、そこで自作を朗読した。
 詩人たちの集まりである「詩人協会」は、島崎藤村、河井酔茗、野口米次郎、三木露風、高村光太郎、北原白秋の六人を発起人として、一九二八年一月に発足した。だがその後二年あまりで活気を失い、自然解散の状態にあった。それを時流に合わせるように、詩の分野でも統合した協会をつくることになり、わざわざ「日本」の名を冠した「日本詩人協会」として再発足したのである。
 そして六月には、日本詩人協会編の『現代詩 昭和十六年春季版』が河出書房から出版され、十一月には同協会編の『現代詩 昭和十六年秋季版』が、翌十七年には春季版(一九四二年六月)、秋季版(同年十二月)が出版される。
 金子は三月になると、室伏高信が主幹をつとめる雑誌「日本評論」に、詩篇「のぞみ」を発表した。タイトルの「のぞみ」とは、中国大陸で泥沼化する戦争に加えて、南方進出によって英、米、オランダとの対立を決定的にしつつある日本の前途への望みではなく、歳を経るにつれて強くなる、南方回帰の想いをうたったものである。

「神経のない人間になりたいな

詩人の名など忘れていまひたいな。

目のふちのよごれた女たちとも
おさらばしたいな。
僕はもう四十七歳だ。
近々と太陽が欲しいのだ。
軍艦鳥が波によられてゐる

香料半島が流睇(ながしめ)をおくる

擱坐した船を
珊瑚礁の水が洗ふ

人間を喰ふ島の人間になりたいな。
もう一度二十歳になる所へ行きたいな

かへつてこないマストのうへで
日本のことを考えてみたいな。」

 詩から浮かび上がるのは、深い絶望と忘却への憧憬である。
 内閣は左翼関係の出版物およそ六六〇点を一括して発禁処分にした。この出来事に象徴されるように、金子の周辺の詩人たちの発表の場がますます狭められていった。
 ただ金子は四月、かつてゴムの栽培業者でのちに作家となり、ゴンクール賞を受賞したフランスの『馬来(マレジー)』を昭和書房から、七月にはクロード・フォーコニェとポール・シニャックの共著『エムデン最後の日』を刊行した。前者は南方ブームに乗ったもので、後者はドイツの有名な潜水艦を扱った小説だった。これらは明らかに生活費稼ぎの仕事だった。
 北海道大学の学生、河邨文一郎が詩集『鮫』に衝撃をうけて、訪ねて来たことは前に紹介したが、河邨はその後も上京する度に顔を出し、この年の三月十三日にも上京するとすぐに顔をだした。このとき金子が、ノートに書き溜めた詩篇を見せ、それを筆写して北海道に疎開させてほしいと申し出たのである。
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by monsieurk | 2017-02-12 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(11)

 『マレー蘭印紀行』には、百五十部限定のA版特装版(署名入り)箱入りで定価三円五十銭と、同年十二月二十日に出たB版普及版、一円六十銭がある。普及版の発売後二カ月で、さらに低価の普及版が出されたが、これによっても世間の注目が集まったことが分かる。
 こうした現象の背景には、松岡洋右の、「われわれの現在に政策は皇道の偉大な精神に基づいて日本、満州国および中国を結びつける大東亜共栄圏を樹立することにあります。(中略)大東亞共栄圏のなかに仏領インドシナと蘭印東インドを含めることは当然であります」という声明に象徴される、南方への関心の高まりがあった。
 『マレー蘭印紀行』は「歴程」に広告が載ったほか、「日本学芸新聞」の書評で取り上げられ、推薦図書にもなった。ただし心ある読者が読めば、この時期に刊行された諸々の南方関連の著作とは、似て非なるものなのはすぐに判ったはずだが、一般読者は流行の南洋紀行の一冊と受けとめたのだった。
 このことを気にしてか、金子は雑誌「婦女苑」十二月号に掲載したエッセイでこう書いている。「(ジャバ人は)自分の国にゐながら、他国人の奴隷になつてゐる。(中略)いつまでも旧い認識をとつて相手を観察することは一番危険である。いはんやジャバをマーシャル、カロリンのやうな、原始人と一列に考へ、一口に南洋土人と未開人あつかひにして片付けてしまうことは、将来を誤算するおそれがある。ジャバ人は、光栄ある過去の歴史をもつた立派な民族である。現在日本人よりも遅れた文化を持つてゐるのは、不幸にしてヨーロッパの侵略民族の争奪の槍玉にあがつて、土地を奪はれ、人民は奴隷に追ひ落とされて、ながらく、息の根を留められてしまつてゐたからである。ジャバの女性達は、どこかに日本の女性と共通性のあるけなげで、いぢらしくて、聡明ささへもつた美しい女性達なのである。」
 十月十二日、これまでしのぎを削って来た政党が一つになる、大政翼賛会の発会式が行われ、十九日には、大政翼賛会文化部長に劇作家の岸田國士が就任した。岸田の就任は、彼が陸軍士官学校出身であるというのが理由だったが、フランス流の教養の持ち主である彼がそのポストにあるかぎり、上からの極端な文化政策が幾分かは緩和されるだろうといった期待が、多くの文化人がもった。岸田本人もそうした役割をひそかに意識していた。しかし文化部をつつむ状況は、そんなに甘いものではなく、十月二十七日には、政府と翼賛会は、文化思想団体の一切の政治活動を禁止した。
 岸田は二年足らずで文化部長の席を去り、代わってドイツ文学者の高橋健二がそのあとを継ぐことになる。
 この年の十一月十日、宮城前広場で紀元二千六百年記念式典が挙行され。この模様はラジオを通じて全国に放送され、夜には提灯行列が行われた。
 二日後の十一月十二日には、高島屋の三階にあった特別室で、翼賛会の一機関となる日本女流文学者会をつくる準備会が開かれた。長谷川時雨をはじめ十数名が集まり、三千代も出席した。
 三千代は、十一月には小説集『南溟』(河出書房)を出版。十一月には『現代女流詩集』(山雅房)に「珊瑚礁」が収録された。これは「富士」、「雨と菖蒲」、「印度洋」、「珊瑚礁」、「聞こえるかい 坊や」、「馬来の夜」、「寞愁湖」、「溶けゆく鳥の群」の七篇からなる詩選集で、収録作品はすべてこれまでの詩集に発表されたものである。彼女はさらに「新潮」十二月号に、「バタビア日記」を寄稿した。
 暮れも押しつまった十二月二十八日、金子光晴の『マレー蘭印紀行』の出版記念会が開かれた。思ってもみなかった売れ行きもあって、大勢の人たちが集まり盛会だった。ただ金子自身はのちに、これは「マレー蘭印をめぐった時の旅行記で、軍事的なことはすこしもふれていないので、読者は失望したらしかった」(『詩人』)と書いている。
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by monsieurk | 2017-02-09 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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