フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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カテゴリ:取材体験( 12 )

 横浜本牧にある三溪園に蛍を観に行ってきた。三溪園は横浜の生糸貿易で財を成した実業家、原三渓(富太郎)が遺した庭園で、17・5hある日本式庭園に、17棟の日本建築が点在する。岸辺に杜若が植わる大池の東側、旧燈明寺から移築した三重塔の先の小川の周囲に闇が迫るころ、蛍がほのかな明かりを点滅しはじめる。d0238372_1652965.jpg
 鑑賞のための道には、所々小さな蛍光灯が置かれているだけで、蛍は川とそれを被う木々の間を低く高く飛び交い、灯りを点滅させる。そのたびに周囲で遠慮がちな歓声があがる。
 たまたま一匹が近くに飛んできて、葉の先にとまった。両手でそっとつつみ込むと、上手く捕えることができた。それを2歳半の孫の掌に移すと、逃げずにそこでも点滅を繰り返す。小さな掌を組み合わせた内側が明るくなったり暗くなったりする。灯りは幼い指を透かして外側へも洩れてくる。それを見ながら、梶井基次郎の「橡の花」の一節を想った。
 「しばらくして私達はAの家を出ました。快い雨あがりでした。まだ宵の口の町を私は友の一人と霊南坂を通って帰ってきました。(中略)我善坊の方へ来たとき私達は一つの面白い事件に打(ぶつ)かりました。それは蛍を捕まえた一人の男です。だしぬけに「これ蛍ですか」と云って組合わせた両の掌の隙を私達の鼻先に突出しました。蛍がそのなかに美しい光を灯していました。「あそこで捕ったんだ」と聞きもしないのに説明しています。私と友は顔を見合わせて変な笑顔になりました。やや遠離(とおざ)ってから私達はお互いに笑い合ったことです。「きっと捕まえてあがってしまったんだよ」と私は云いました。なにか云わずにはいられなかったのだと思います。」
 友人への手紙の形式をとった小説で語られる逸話である。孫が掌をひろげると、蛍は闇の空間に飛び去った。
 意図して蛍を見た最初は、いま孫を連れている息子がまだ幼稚園児で、夏休みに大分の湯布院へ出かけたときだった。わたしが子どものころは、吊った蚊帳のなかに蛍を放した記憶がある。焼け跡が残る東京でも、梅雨前にはあちこちで蛍が飛ぶのが見られた。採った場所の記憶がないのは、どこにでもいたからだろう。d0238372_1664631.jpg
 京都の岡崎ですごした6年間は、毎年すぐ近くの哲学の道沿いの疎水へ蛍がりに出かけた。蛍が飛びはじめると、どこからか情報が伝わってくる。若王子から銀閣寺参道までの間をゆっくりと蛍を見てあるく。途中、橋の袂に大きな桜が水面近くまで枝をのばしている処があり、そこは一段と闇が深く、蛍の光も栄えた。蛍の数は年によって多少があるが、疎水には蛍が好むカワニタが多く、京都名所の一つだった。今回はそれ以来の蛍見物だった。

 草を打(うつ)て蛍いつはる団(うちわ)かな
 堀川の蛍や鍛冶が火かとこそ
 ほたる籠破(や)れよとおもふこゝろかな

 いずれも蕪村の「夜半叟句集」から。
 
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by monsieurk | 2014-06-02 22:29 | 取材体験 | Trackback | Comments(0)

伊豆の宿

 年末年始を熱海と伊豆長岡の南山荘で過ごした。かつて大和館と呼ばれた老舗旅館で、明治40年(1907)10月の創業である。昭和40年(1965)、ここを愛した北原白秋の命名によって南山荘と名前を変えたのだという。
 離れの客室が22部屋。それぞれが丘の斜面に建てられ、長い廊下でつながっている。そのため玄関から部屋へ行くにも、部屋から風呂へ行くにも、廊下を伝い階段を上り下りしなくてはならない。ただその分各部屋は独立していて、隣に煩わされことはない。そうした環境が長期滞留者に好まれたのであろう、伊豆を愛した川端康成もここに滞在して作品を執筆した。
d0238372_1041496.jpg 川端が初めて伊豆を訪れたのは大正7年、旧制高等学校2年生のときである。彼はそれ以来、伊豆半島のほとんどの場所に足跡を残している。『伊豆の踊子』が書かれたのは24歳のときで、その4年後の1931年には『伊豆温泉記』を発表しているが、ここで取り上げられている伊豆の温泉場は33個所におよぶ。大和館にも触れてこう書いている。
 「温泉は勿論丸裸の皮膚で、ずぼりとつかるのだから、触覚の世界だ。肌ざわりの喜びだ。湯にもいろんな肌のあることは、女と同じである。
 私の知る伊豆の湯で、一番肌にいいのは長岡だった。宿は大和館だったと覚える。これは卵の白身のように、つるつると粘っている。女が入湯すれば、いかにも肌理が細かくなり、滑らかになりそうな感じだ。長岡へよく行く人に話すと、お世辞かもしれないが彼は、「ほんとうにそうらしいですよ。」と言う。(中略)
 湯ヶ島の西平温泉は、天城の山気らしく厳しい肌ざわりだ。
 熱海の湯ざわりには、黒潮の暖流が流れている。
 しかし私には、湯の肌ざわりよりも先ずは湯の匂いだ。
 宿のどてらに着替えると、袖に鼻をこすりつけて、綿にしみ込んだ湯の匂いを嗅ぐ。湯船に身を沈めて、湯の匂いを一ぱいに吸い込む。
 「この匂いが嫌いかね。それじゃ君は温泉が嫌いなんだよ。――煙草好きが匂いを楽しむように、いろんな温泉のちがった匂いを嗅ぎ分け給え。」と、私は同行の友人に言う。鼻が曲がる程烈しい匂いの温泉は、伊豆にはないようだ。
 湯の匂いばかりではない。温泉場程いろんな匂いのあるところはない。岩の匂い、樹木の匂い、壁の匂い、猫の匂い、土の匂い、女の匂い、包丁の匂い、竹林の匂い、神社の匂い、馬車の匂い――。温泉がもろもろの匂いを感じさせるのだ。東京の銭湯でも、上がったばかりの時は、鼻がよき利く理屈だ。
 「あの女は今・・・。」と、私はよく言って、友人に笑われる。全く温泉宿では、女のその匂いが感じられるのだ。温泉に長くいると、温泉を離れてもその匂いが鼻につくようになるのだ。」(「改造」昭和4年2月号初出)
 温泉好きだった川端の面目躍如といったところだが、この感じは『伊豆の踊子』というよりは、越後の湯沢温泉を舞台に芸者駒子との情交を描いた『雪国』の世界のものである。しかし伊豆の温泉場は最近どこも客が少ないという。
 川端康成が『伊豆の踊子』を書くために滞在した湯ヶ島西平温泉の落合楼こそ健在だが、川端が滞在しているのを知って、無名だった梶井基次郎が昭和元年の大晦日に訪れて、川端の紹介で翌日昭和二年元旦から逗留したのが湯川屋だった。梶井の滞在は1年5カ月に及び、毎日のように落合楼の川端を訪れては碁を打ち、『伊豆の踊子』のゲラの校正を手伝った。そのあと梶井は歩いて湯川屋まで帰ってくるのだが、真っ暗な夜道の記憶から名作『闇の絵巻』が生まれた。いまはその湯川屋も廃業してしまった。なお湯川屋に遺されていたいた梶井基次郎関係の資料は大妻女子大学に寄贈され、現在同大学の所蔵となっている。
 
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by monsieurk | 2014-01-03 22:30 | 取材体験 | Trackback | Comments(0)
 よみがえるNHK特派員報告 第4回
 「サイゴン陥落の記録」(1975年6月17日放送)

d0238372_652217.jpg 今回ご覧いただくのは1975年6月17日に放送されたNHK特派員報告「サイゴン陥落の記録」です。北ヴェトナムの正規軍は1975年4月30日、首都サイゴンに入城し、南のヴェトナム共和国は消滅しました。「サイゴン陥落の記録」は、特派員がこのとき最後まで現地に踏みとどまって取材した番組です。
 1973年1月にパリ停戦協定が合意され、ヴェトナムに一時平和が訪れたことは、前回お話した通りです。しかし協定で決まった国際会議の開催や、国際監視委員会の仕事は進まず、協定で実現したのはアメリカ軍の撤退だけでした。
 軍事顧問団7900人を除いて、アメリカ軍がいなくなったヴェトナムでは、皆が敵意をあらわにして、停戦協定はまったく無視されました。
 南ヴェトナムを実質的に支配するのは誰か。その後もサイゴン政府と南ヴェトナム解放戦線を中心とする臨時革命政府との間で陣取り合戦が続き、政治、軍事の両面で最後の闘争がはじまりました。その上、停戦協定の枠組みの外にあった隣国カンボジアでは、ロン・ノル政権に対する解放勢力クメール・ルージュの攻勢が激しく、これに対するアメリカ軍は爆撃を継続していました。
 この間アメリカ本国でも大きな変化がありました。1972年6月、民主党の全国委員会本部に盗聴器を仕かけようとした工作員が逮捕される「ウォーターゲイト事件」が起こり、大統領がこれを直接指示したことがジャーナリズムによって暴露されて、ニクソン政権は次第に力を失いつつありました。そしてパリでの停戦協定が結ばれた翌1974年8月、ニクソンは大統領を辞任、代わってフォード大統領が誕生しました。
 この年の暮れ、北ヴェトナムでは重要な決議がなされます。12月8日から翌年1月8日まで断続的に開かれた北ヴェトナム労働党の政治局会議では、南の状況を検討して、総攻撃をするかどうかが議論されました。戦争の指揮をとった北ヴェトナムのボー・グエン・ザップ将軍はこのときの決断をのちにこう語っています。
 「南部解放戦略、サイゴン攻撃作戦は党政治局会議で決定された。南ヴェトナム、サイゴンを解放することについて、2カ年計画を作成した。このあとただちに政治局拡大会議を74年12月の終わりに開き、そこではっきりと南部での総攻撃計画を決定した。」
 この攻撃計画にしたがって、1975年1月1日には南ヴェトナム解放戦線がフォックロン省のドンソアイを攻撃。これが大攻勢の合図となりました。3月には北ヴェトナム正規軍がダイグエン高原で本格的な攻勢にでて、南ヴェトナム政府軍は中部海岸沿いの都市を次々に放棄、3月25日には古都フエが陥落しました。28日には南部12省陥落。29日、ダナン陥落。そしてこの日、北ヴェトナム政治局は雨期が来る前の4月30日までに、サイゴンを解放する方針を決定したのです。
 こうして4月30日の決定的瞬間を迎えます。では、「サイゴン陥落の記録」をご覧いただきます。

 VTR「サイゴン陥落の記録」(1975年6月17日放送)

 アメリカの参戦から13年。この間ヴェトナム側300万人、アメリカ側に6万人の戦死者を出した戦争はいったい何だったのか。第2次大戦後の冷戦構造のなかで起きたこの戦争は防ぐことができなかったのか。
 こうした疑問をめぐって、かつて敵味方に分かれて熾烈な戦いを繰り広げたアメリカとヴェトナムの指導者たちが30年振りに会って話し合う会議が、1997年6月20日から4日間ハノイで開かれました。出席者はアメリカ側からマクナマラ元国務長官以下13名、ヴェトナム側は外務次官で和平交渉の中心人物だったグエン・コ・タックやジャングル戦を戦い抜いたダン・ゴーヒエップ将軍など13名。彼らは互いに相手の意図をどう判断していたか、主な事件の真相、和平をめぐる秘密交渉、この戦争の教訓などについて率直な議論を交わしました。
 議論の内容は、NHKスペシャル「我々はなぜ戦争をしたのか、ベトナム戦争・敵との対話」として1998年8月に放送され、この番組を企画・構成した東大作(ひがし・だいさく)氏が本でくわしく伝えています。
 この対話はその後1998年にも、ハノイやイタリアで継続され、ヴェトナム戦争の真実が次第に明らかになってきています。結論は、この戦争が数知れない誤解のもとに戦われたということです。
 アメリカが北ヴェトナムへの本格的空爆を開始し、大量の地上軍投入を決意させた1965年2月のプレイク基地攻撃は、マクジョージ・バンディ大統領補佐官をはじめとする調査団のサイゴン滞在を狙ったものではなく、現場の指揮官の判断による偶然の一致だったと分かりました。
 さらにアメリカは、この戦争がヴェトナムにとっては日本やフランスの支配以来の悲願であった民族独立の戦いだったことを最後まで理解できませんでした。アメリカはあくまで冷戦のもとで、ソビエトや中国の後押しをうけた共産主義の北ヴェトナムが、インドシナ半島に覇権を確立しようとしていると見ていたのです。
 しかし私が戦時中のハノイで見聞したことは、明らかにそれとは異なったものです。当時の北ヴェトナムでは、戦時物資とともに多くのソビエト人や中国人の姿を見かけましたが、一般市民はもとより政府要人も、支援を受けていた彼ら外国人に対して、決して友好的ではありませんでした。こうした感情は中国の支配下に長らく置かれたヴェトナムの歴史を考えれば当然のことです。ヴェトナムにとって独立こそが目的だったのですが、アメリカにはそれが分からなかったのです。
 私が北ヴェトナムに行った当時、ハノイ市全体でエレベーターは2基しかなく、しかもそのうちの1基は故障で動きませんでした。そんな状態でも北ヴェトナムはアメリカとの戦争を戦い抜きました。それが出来たのはヴェトナムが基本的に農村社会だったからです。空爆が激しくなると、老人、子どもはみな知り合いを頼って農村へ疎開し、ジャングルに隠れ、多くの犠牲を出しつつ堪え抜いたのです。工業化されたアメリカにとっては、これもまた理解するのが難しいことでした。
 第1回の冒頭で、ヴェトナム戦争の報道に携わることで、ジャーナリズム、とりわけテレビの海外報道が強化されたと申しました。テレビの映像を撮るためには、どうしても現場に足を踏み入れ、戦場を取材し、民衆とじかに接しなければなりません。NHK特派員報告はどれもそうですが、この時期もっとも多く放送されたヴェトナムに関する番組の一本一本がそうして制作されました。
 そしてもう一つ強調したいのは、それが日本人特派員の目で見た現実であったという点です。取材のほとんどはアメリカ軍や南ヴェトナム軍の側から行わざるを得なかったのですが、そこには私たちのアジア観、歴史認識を反映していたと自負しています。
 20世紀の大きな分岐点であったヴェトナム戦争を考える上で、ご覧いただきたい番組はまだまだ沢山ありますが、今回のシリーズで取り上げた4本が、歴史を振り返るきっかけになるとすれば、かつて取材にあたった同僚たちも満足なのではないでしょうか。

 なお、1973年1月の北ヴェトナム取材については、以前、ブログ「ホアビン・ゾイ(平和が来た)~北ヴェトナム報告~」(2012.2.16)でも詳しく書いている。参照されたい。
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by monsieurk | 2013-07-10 22:30 | 取材体験 | Trackback | Comments(0)
 よみがえるNHK特派員報告 第3回
 「停戦・その後」(1973年1月30日放送)

 ニクソン政権が「ヴェトナム戦争のヴェトナム化」、つまりヴェトナムからアメリカ軍の名誉ある撤退を計画したことは、前回にお話した通りです。アメリカはこの政策に沿った和平を探るために、1968年5月、パリで北ヴェトナム側と第一回の準備会議をもち、5月12日からは正式会議が開始されました。場所はパリの凱旋門広場からのびる12本の通りの1つであるクレベール通りに面した国際会議場でした。
 しかし和平会談の場では、互いに相手を非難することに終始して進展がなく、これを打開するために、アメリカと北ヴェトナムはこの年の9月に秘密会談を開き、パリ会談をアメリカ、南ヴェトナム、北ヴェトナム、それに南ヴェトナム解放戦線を中心とした南臨時革命政府の4者からなる拡大会議に格上げすることで合意しました。会談はここにいたるまで28回、拡大会議になってからも、会談終了までになお174回の四者会談が続けられました。
d0238372_21464795.jpg 1969年9月2日、ヴェトナムの統一を念願していた北ヴェトナムの指導者ホー・チ・ミンが死去。このころアメリカのキッシンジャー大統領特別補佐官と北ヴェトナム代表団のレ・ドク・ト特別顧問は、状況を打開するために秘密会談を行います。これは1970年2月から1973年まで、23回にわたって行われました。
 1973年1月、当時NHK外信部長だった磯村尚徳氏と私は、北ヴェトナム政府の取材許可を得て、ラオスのビエンチャン経由でハノイに入りました。北側には和平協定の調印が近いことが分かっていて、許可を出したのではないかと推測しています。
 NHKでは南ヴェトナムへは現地特派員の他に、東京から取材陣を送り込んでいました。紆余曲折の末1973年1月23日に、レ・ドク・トとキッシンジャーの間で、和平協定の仮調印が行われ、27日にはすべての当事者がヴェトナム和平協定に調印しました。停戦発効は、現地時間1月28日午前8時とされたのです。
 これからご覧いただくNHK特派員報告「停戦・その後」は、この日の南ヴェトナムでの動きを追ったものです。

 VTR 「停戦・その後」(1973年1月30日放送)

 この番組では停戦調印前後の北ヴェトナムの様子は出てきませんでしたが、私が取材した事実をお話いたします。
 ビエンチャンからハノイ入りした私たちは、凡そ1カ月のあいだ、首都ハノイや北部の重要な街ハイフォンなどを取材したのですが、1月26日になって急遽ハノイへ戻るように通告されました。なぜか、ハノイで何があるのか、いくら訊ねても、取材に同行している北ヴァトナム側のスタッフは、その理由を云いません。明日になれば分かるの一点張りです。
 翌1月27日の朝、ハノイは朝霧が濃く立ち込めていました。私たち外国人ジャーナリストは宿舎にあてられていた「トンニャット(統一)ホテル」(いまのホテル「メトロポリタン」です)の玄関の前に、6時に集合するように云われていました。
 乗用車で連れていかれたのは外務省でした。建物は古びていましたが、入口の石段には赤い絨毯が敷かれていて、上の部屋からは惶々と明かりがもれてきます。これは何かあると思い階段を駆け上がりました。
 そこは大広間で、アメリカとの戦争を戦い抜いた北ヴェトナムの首脳が全員顔を揃えていたのです。ファン・バン・ドン首相、ホー・チ・ミンなきあとの理論的指導者といわれるレ・ジュアン第一書記、そしてジャングル戦でさんざんアメリカ軍を悩まし、「赤いナポレオン」とあだ名されたボー・グエン・ザップ将軍などが笑顔で迎えてくれました。
 彼らはすでにシャンパン・グラスを手にしていましたが、私たちにもすぐにグラスが配られ、「じつは今日パリで、アメリカとの間で停戦協定が調印される。それを皆さんと一緒に祝いたいと思い来て頂いたのだ」というスピーチがありました。その後は、要人たちが私たちの中に入ってきて乾杯し、誰かれとなく握手するという光景が繰り広げられました。カメラマンは建物に入った時から一部始終をフィルムで撮影していました。当時は今とちがってフィルムの時代です。
 やがてボー・グエン・ザップ将軍と握手をし、そのうちファン・バン・ドン首相が寄ってきて、流暢なフランス語で“Tout est bien qui finit bien."「終わり良ければすべて良し」と云って、にっこり笑いました。いまでもあの声が耳に残っています。
 そしてこの日の午前10時から、市民に停戦合意の発表がありました。ハノイの全市民が、市内のところどころの木にくくりつけられたスピーカーの下に集まっていました。
走っている市内電車も止まり、人びとは電車から降りて耳をしませていました。やがてスピーカーから、「わがヴェトナムとアメリカは停戦条約に調印した」というアナウンスが流れると、聞いていた老人、菅笠の農民、アオザイ姿の女性たち、・・・集まっている皆の顔を涙が伝わりました。そして誰が言うとなく“Hoa bin zoi" という言葉がさざ波のように聞こえてきました。「ついに平和がきた」という意味です。じつに感動的な光景でした。
 北ヴェトナムの取材では、この他にも意外なことが色々とありました。ハノイに着いたその日、最初にいわれたのは、空襲警報が鳴ったなら、すぐに防空壕に入らなければならないということでした。そしてホテルの裏庭にある大きな防空壕に案内され、そこには数日前まで、アメリカのフォーク・ソング歌手のジョン・バエズが入っていたということでした。
 ハノイ入りした当初はアメリカ軍の北爆が続いていたのですが、ハノイ市内では午後2時ごろになると、家の窓に一斉に覆いが下げられます。聞いてみると、この時間市民はシエスタ、昼寝をする習慣を守っているというのです。これは戦場でも同じで、北でも南でも、兵士たちはこの昼寝をしますから、この時間にはあまり弾は飛んでこないということでした。
 取材中のある日、ソビエトのアエロフロート航空の制服を着たパイロットたちがホテルに着いたことがありました。誰か要人を運んできたのかとたずねると、運んできたのは旧正月を祝うための桃の花で、南ヴェトナムで育った花をラオスのビエンチャン経由で持ってきたということでした。激しい戦火を交わす一方で、同じ民族の間ではこうした交流も続いていたのです。
 私たちはこうした状況をすべて取材し、停戦協定が調印された翌日アエロフロートの定期便でビエンチャンに出て、そこからはタイ航空の民間機をチャーターして、タイの首都バンコクまで飛び、当時はまだ貴重だった衛星回線を使って、取材した映像を日本に届けました。これは世界的な特種となりました。30年前のことです。
 ただ、ご覧いただいた番組のなかで平山健太郎特派員が述べていたように、この停戦は「終わりの始まり」でしかありませんでした。アメリカ軍は撤退しましたが、1975年の正月早々、戦火が再燃し、ヴェトナム戦争は1975年4月30日のサイゴン陥落まで続くことになります。
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by monsieurk | 2013-07-07 22:30 | 取材体験 | Trackback | Comments(0)
 よみがえるNHK特派員報告 第2回
 「クリスマス・新年休戦」

 ヴェトナム戦争に関する報道は膨大な数に上りました。新聞やテレビから毎日伝わる情報やすぐれたルポルタージュが、ヴェトナムで戦われている戦争の実態を世界中に知らせる役をはたしました。そうしたなかで、映像のもつ力をあらためて認識させた一枚の写真があります。それがこれです。
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 男の頭にむけて銃弾が打ち込まれた瞬間を撮ったものです。撮影したのはアメリカのAP通信のカメラマン、エディ・アダムスです。
 1968年2月のテト攻勢のとき、サイゴンの中国人街ショロンで、一人の解放戦線の幹部が逮捕されました。男はシャツに半ズボン姿で一般市民のように見えましたが、ピストルを持っており、幹部であることが分かりました。捕まって国家警察本部長官グエン・ゴック・ロアンの前に連行されてきたとき、ロアンはいきなり腰のピストルを引き抜いて男のこめかみめがけて引き金を引いたのです。路上の処刑は明らかにリンチでした。
 この決定的瞬間を撮影した写真は世界中の新聞に掲載され、テレビで放送されました。それまではヴェトナムで行っているのは「正義の戦争」であり、それに自分たちの夫や息子が参戦していると信じていた多くのアメリカ国民は衝撃を受けました。この一枚の写真で、ヴェトナムで起こっていることは一体なにかと疑問を抱いたのです。
 テト攻勢はアメリカ国民が、直接ヴェトナム戦争の実態に触れた最初の機会となりました。東京を経由し、衛星を使って生々しい戦闘場面がアメリカの茶の間に飛び込んできました。新聞も連日、テト攻勢の深刻な現実を報道しました。すでに50万人を越えるアメリカ兵が投入されており、ヴェトナム戦争が厳しい状況にあることを人びとは知ったのです。
 アメリカ国民はこのときから、政府発表よりもテレビの映像を信じるようになりました。 衝撃はアメリカだけに留まりませんでした。1968年5月にフランスで起こった、いわゆる「5月革命」に端を発して、瞬く間に世界中を巻き込んだ反体制運動の底流には、こうしたヴェトナム戦争に反対する感情がありました。
 ジョンソンのあとを継いだリチャード・ニクソン大統領は、1969年1月の就任演説で、「対決から対話」への方針転換を打ち出しました。アメリカでは若者たちが戦争反対を唱えて体制に反撥し、社会は分裂の兆しを見せていました。そして何よりも重荷だったのが戦費の増大によるドルの下落です。
 こうした状況を打開するためにニクソンがとったのが、ヴェトナムからの名誉ある離脱です。それは戦争の主体をアメリカから南ヴェトナム政府軍に肩代わりさせる「戦争のヴェトナム化」、「米軍の撤退」、「平定作戦」、そして「パリでの和平交渉」を同時に進める政策でした。
 ニクソン戦略の焦点は、北ヴェトナム正規軍と正面から戦い、これを叩くことで和平交渉を有利にすることでした。そのため北ヴェトナムの正規軍が駐屯しているカンボジアや、ラオス領内にある南への補給ルートを徹底的に攻撃する決断を下しました。こうして和平交渉の一方で、戦果は一挙にインドシナ全体へ拡大したのです。
 これから見ていただくNHK特派員報告「クリスマス・新年休戦」は、1973年1月9日に放送されましたが、まさにいま申し上げたニクソン戦略が実行に移されていた1972年の暮れから正月にかけての、南ヴェトナムの様子を取材しています。

 VTR「クリスマス・新年休戦」(1973年1月9日放送)

 ヴェトナム戦争は日本にも大きな影響をもたらしました。
 戦争景気で束の間の繁栄を享受していたサイゴンには、番組でも紹介されたように、あらゆる物資が溢れていました。アメリカ軍から流れてきた酒や食料が、豊富な野菜や果物とともに、中国人街ショロンの市場では所せましと並び、品物の豊富さは戦時下であることを忘れさせるほどした。そしてこうした表面的な繁栄には日本製品も一役買っていました。
 戦時下のヴェトナムに進出した日本の商社は、バイク、テレビ、電気冷蔵庫などを売り込みました。当時、ヴェトナム人記者の一人は、「サイゴンを制圧したのは南ヴェトナム政権でも、解放戦線でもなく、日本のバイクだ」と云ったことがあります。
 こうした戦争特需で日本経済は潤う一方で、沖縄がアメリカ軍の爆撃基地になっている実態があらためて浮き彫りになり、1965年の北爆開始をきっかけに、アメリカのヴェトナム介入に反対する声が日本でも高まりました。この年の4月には知識人が戦争反対の声明を出し、6月にはヴェトナム戦争反対のための国民行動が行われました。「一日共闘」という言葉が生まれたのはこのときからです。
 市民運動としては、ベ平連と略称される、「ヴェトナムに平和を! 市民文化団体連合」が結成されて、これには知識人、一般市民、学生などが自主的に参加しました。ベ平連の若者たちは、1967年10月に、アメリカの航空母艦イントレピットから脱走した4人の水兵をひそかにかくまい、彼らがスウェーデンへ脱走するのを手助けするという事件が起きました。ベ平連の運動は、組織よりも個人の自主性を尊重するものとして、平和運動に新風を吹き込んだといわれます。
 新聞の投書欄には一般市民から多くの意見が寄せられ、その大半がヴェトナム戦争反対を訴えるものでした。こうした世論を背景に、革新政党や総評などは、10月21日を「国際反戦デー」として、毎年大規模な戦争反対運動をくりひろげました。1966年10月21日には、総評系の労働組合が戦争反対のストライキを行いましたが、労働者がストライキで戦争反対の意思表示をしたのは、これが世界で初めてのことでした。
 国際的な連帯も進みました。イギリス人の哲学者バートランド・ラッセルの呼びかけよって設けられた国際法廷が、1967年5月にスウェーデンのストックホルムで開かれ、ヴェトナムにおける戦争犯罪を裁きました。これには日本からも知識人が参加しました。
 こうした運動の高まりに、日本政府は神経を尖らせました。1965年5月に日本テレビの牛山純一氏が制作した「南ベトナム海兵大隊戦記」は、内容が南ヴェトナム政府に批判的だったことや、海兵大隊員が解放戦線の容疑者の首を切るシーンが問題とされ、政府、アメリカ大使館、南ヴェトナム大使館から抗議をうけて、第一回の再放送と予定されていた第二回、第三回が放送中止に追い込まれました。戦争が深刻化するにつれて、報道が世論にあたえる影響の大きさに、体制の側は強い懸念を抱きはじめていたのです。

 次回はご覧いただいたこの「クリスマス・新年休戦」のおよそ1カ月後の、1973年1月末に訪れた停戦をめぐってお伝えいたします。
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by monsieurk | 2013-07-04 22:32 | 取材体験 | Trackback | Comments(0)

よみがえる特派員報告Ⅰ

 古いファイルを整理していたら、2003年3月18日から21日まで、4回にわたってNHK・BSで放送した「よみがえるNHK特派員報告」について、スタジオで解説するためにつくった放送原稿が出てきた。このとき取り上げた4本の番組は、いずれもヴェトナム戦争のさなか、かつての同僚たちが銃弾の下をくぐって取材したヴェトナム戦争の記録である。以下、4回にわたりブログでお読みいただくことにした。なお、番組は「NHKアーカイヴス」で観ることができる。

 よみがえるNHK特派員報告 第1回
 「ミト街道、サイゴンの経済動脈」

 歴史的に見て、戦争のあるところジャーナリズムは育つといわれます。ヴェトナム戦争の激化とともに、アメリカや日本をはじめ、各国の新聞、テレビ、通信社の特派員はヴェトナム報道に身を投じました。
 1960年代、アメリカの介入で本格化し、1975年のサイゴン陥落で終わりを見たヴェトナム戦争では、当時30歳前後だった私たちも、この戦争取材でジャーナリストとして鍛えられたといえます。
 「NHK特派員報告」は、「海外特派員だより」に続いて、1964年4月からにはじまった30分のドキュメンタリーです。海外のホットなテーマを特派員が取材し、フィルムと音声を録音した6ミリ・テープ、それに取材原稿を東京に送り、ディレクターが番組に構成して毎週放送されました。当時の取材はヴィデオではなくフィルムの時代です。
 今回ご覧いただくのは「ミト街道、サイゴンの経済動脈」は、1969年10月28日に放送されたものです。

 1969年にヴェトナム戦争はどのような段階にあったのか。ここで歴史を簡単に振り返ってみます。
 1954年にヴェトナムから旧宗主国フランスが撤退したあと、冷戦下にあったアメリカは、ダレス国務長官が唱える共産主義勢力封じ込め政策の一環として、アメリカ軍の介入の度合いを強めました。1961年にケネディが大統領に就任する頃には内戦は次第に激化し、南ヴェトナムではアメリカが支援するゴ・ジン・ジェム政権に反対する人たちが南ヴェトナム民族解放戦線(NFL)を結成、民衆のなかからはカトリックの大統領のもとで弾圧されてきた仏教徒が立ち上がり、首都サイゴンや古都のユエで仏教徒のデモが起き、数人の僧侶がガソリンをかぶって焼身自殺をして抗議する事件が起こりました。
 事態は深刻化し、アメリカはゴ・ジン・ジェムに見切りをつけ、クー・デタに成功したドン・バン・ミン将軍が政権を掌握しますが、民族解放戦線はこの混乱に乗じてメコン・デルタ北部で大攻勢に出て、勢力の浸透をはかりました。
 アメリカではケネディ大統領が暗殺され、代わって登場したジョンソン政権は介入を一層エスカレートさせました。そしてこれにはきっかけとなる事件がありました。
 1965年2月、アメリカはマクジョージ・バンディ大統領特別補佐官をヴェトナムに送りました。安全保障問題担当の補佐官として、マクナマラ国防長官と並んで大統領への影響力を持った人物です。その彼がサイゴンに到着した翌日の未明に、ヴェトナム中部にある最大の拠点の一つ、プレイク空軍基地が奇襲攻撃をうけたのです。大量のヘリコプターが破壊されて、アメリカ人兵士8人が死亡、100名近くが負傷しました。
 ジョンソン政権はこれを北ヴェトナムや解放戦線の明らかな挑発と受けとめ、本格的な空爆を開始しました。そして3月には大量の地上軍を南ヴェトナムに派遣し、これまでの「軍事顧問団の派遣による後方支援」という立場を棄てて、自ら全面戦争に突入する道を選んだのです。この年の終わりには投入された地上軍は19万に達し、最高時には54万のアメリカ兵がヴェトナムの戦場に送られました。
 しかし、あとで分かるのですが、このときに北ヴェトナム側がプレイク基地攻撃をしかけたのはまったくの偶然で、これをきっかけに戦争が一挙に拡大したのは歴史の皮肉です。
 圧倒的な兵力を誇るアメリカや南ヴェトナム軍に、徹底的なゲリラ戦で対抗する北ヴェトナム軍と解放戦線の戦いは、民衆を巻き込んでエスカレートしていきました。
 北側が一気に攻撃をかけたのが、1969年2月のテト攻勢です。アメリカでは前年11月にニクソン政権が誕生し、国内では学生など若い人たちを中心にした反戦運動が盛り上がりをみせつつありました。
 テトとは旧正月の意味で、ヴェトナム人にとっては1年で最大の民族的行事です。テトの期間中は戦闘も中止され、兵隊は南ヴェトナム兵士も解放線戦側も家に帰って新年を祝う慣わしでした。しかし北側は1月30日の未明から全土で一斉に攻撃を仕かけました。
 サイゴンでもテトを祝う市民の列にまぎれて市内に入った解放戦線の決死隊20名が、31日午前2時47分にアメリカ大使館に攻撃を加えて侵入し、6時間にわたって占拠しました。攻撃は大統領官邸、タンソニェット空港、放送局におよび、市街戦がはじまりました。サイゴンはお祭り気分から一転して砲火とテロの街と化しました。
 全土で行われたテト攻勢では、激戦の末にアメリカ軍と南ヴェトナム軍が都市を奪回しましたが、北側の力や農村の多くを支配下に置いている実態を世界に示す結果となりました。
 これからご覧いただくNHK特派員報告「ミト街道、サイゴンの経済動脈」は、メコン・デルタとサイゴンを結ぶミト街道と呼ばれる国道4号線を舞台に、民衆の生活を通してヴェトナムの当時の状況を取材したものです。

 「ミト街道、サイゴンの経済動脈」のVTRを再生

 ヴェトナム戦争は、初めてジャーナリストに開放された戦争だったといえるかも知れません。NHKはサイゴンに支局を開設して取材拠点としましたが、取材に当たる記者、カメラマンはサイゴン市内に置かれたアメリカ統合広報局(JUSPAO)で、プレス・カードを交付してもらいました。最盛期には、JUSAOに登録された世界各国のジャーナリストは650人にも上りました。
 支給されるカードには、「支局長は大佐または中佐、支局員は少佐待遇をする」と明記されていましたが、これは戦場では、撤退する際の順序として、負傷兵をまず後方に送り、次に報道陣、最後に兵士が逃げるということを意味しました。この規定はアメリカ軍の場合は忠実に守られました。しかも希望すれば、米軍のヘリコプターがジャーナリストをどこへでも運んで行ってくれたのです。
 ヴェトナム戦争は前線のない戦争だったとよくいわれます。北や解放戦線の兵士はジャングルに隠れたり、村人のなかに紛れ込んだりして、アメリカ軍や南ヴェトナム正規軍に砲火を浴びせ、すぐジャングルに逃げ込んでしまいます。いつどこから待ち伏せ攻撃を受けるか分かりません。
 これはアメリカ軍に随行して取材するジャーナリストにとってもはなはだ危険な状況で、実際、少なからぬ日本人ジャーナリストが戦場で亡くなり、あるいは行方不明となりました。
 戦争には検閲がつきものですが、ヴェトナム戦争は検閲のない最初にして最後の戦争でした。こうした自由な報道で、戦争の現実の姿を赤裸々に伝えたことが、アメリカ本国はもとより世界中に反戦運動を起こすきっかけとなりました。当局側はこれを教訓に、その後のホークランド紛争や湾岸戦争では、徹底した取材制限と検閲を行うようになるのです。
 次回は1973年1月に放送されたNHK特派員報告「クリスマス・新年休戦」をお送りいたします。
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by monsieurk | 2013-07-01 22:33 | 取材体験 | Trackback | Comments(0)

コンクラーベ

 ローマ法王、ベネディクト16世は今年85歳となり、去る2月28日、健康上十分な活動が出来なくなったとして、新たらしい法王に座をゆずる決断をした。法王が生前に退位した例は1415年以来凡そ600年ぶりであり、自発的な退位となれば、720年前の1294年のケレスティヌス5世にまでさかのぼる。いまは法王がいない異例事態で、20日以内に新法王を選ぶ選挙が行われる決まりである。
 法王を選出する会議はラテン語で「コンクラーベ」といい、現在117人いる枢機卿のうち80歳未満の人たちで互選を行い、3分の2以上の支持を得て、誰かが選出されるまで投票が繰り返される。
 前のヨハネ・パウロ2世が法王に選ばれた1978年10月、家族とたまたまローマを訪れていて、新法王が決まる瞬間を目にした。投票で新法王が決まった場合は、バチカンの小さな煙突から白い煙がのぼり、決まらなかった場合は黒い煙があがってサンピエトロの広場に集まった人びとに知らせる決まりだが、目にした煙は灰色で戸惑った記憶がある。やがて大聖堂の鐘が鳴りだし新報王の誕生を知ったのだった。
 ローマ法王には二つの顔がある。一つは全世界におよぶカトリック教会の首長としてのもの。もう一つは世界で一番小さな国土のバチカン市国の主権者である。バチカン市国は住民が800人余り、そのほとんどが聖職者で、広さはわずかに44ヘクタールだが、れっきとした独立国である。
 もちろん最も重要なのは、全世界で11億3000万人のカトリック教徒を教え導くことで、そのためにローマ法王を補佐する中央機関がローマ法王庁である。法王庁には会計院という大蔵省に当たる組織があって、莫大な資金が投資され運用されているといわれ、また情報網も世界中に張り巡らされていて、教会やトップクラスの信者から様々な情報が入ってくる。
 最初の法王はイエスの12人の弟子の一人だった聖ペトロで、ヨハネ・パウロ2世が264代目、退位したベネディクト16世は265代目である。ヨハネ・パウロ2世は、宗教的には保守主義者で、避妊や自殺などを強く非難したが、一方でキリスト教にとって節目の2000年には、歴史上の十字軍のイスラム教徒に対する行為や、ユダヤ人への差別を謝罪するなど和解と平和を大切にした。1990年に起きた湾岸戦争では、43回も戦争に反対する声明を出した。
 なかでも注目されたのが、ヨハネ・パウロ2世がポーランドの出身だったことである。当時のヨーロッパは、ソビエトを中心とする東側の共産主義の国々と、アメリカが後押しをする西側に分かれて対立していた。ヨハネ・パウロ2世は社会主義国であった祖国ポーランドを訪問して、ミサに集まった数十万の国民を前に、「あらゆるものを恐れる必要はない」と述べた。これがポーランドの人たちには、共産主義を恐れることはないという意味だと受け取れられ、そこからポーランドの労働者を中心にした「連帯」の民主化を求める運動が始まったのだった。これは当時のソビエトから見れば最悪の事態である。そんな中で起きたのが、1981 年5月13日の法王暗殺未遂事件だった。
 サンピエトロ広場で信者に祝福をあたえていた法王はピストルで撃たれ、2発の銃弾が当たったが、その後奇跡的に回復した。犯人はトルコ出身のメフメト・アリ・アジャで、イスラム教徒だったことから、当初は宗教的な理由ではないかとも考えられた。しかし当時イタリアの議会に作られた調査委員会の報告では、ソビエトの秘密機関の関与が示唆された。
 この暗殺未遂事件のあと、ポーランドの民主化運動は大きな盛り上がりを見せることになった。8年後には連帯の指導者ワレサがポーランドの大統領となり、民主化の波は東ヨーロッパ全体に広がり、やがて1989年11月のベルリンの壁崩壊をもたらした。ローマ法王暗殺未遂事件が、東西冷戦を終らせる一つの引き金となったのである。
 2005年2月、法王は自身の著書で、事件は共産主義者による犯行だったと認め、同じ頃、旧東ドイツの秘密機関スタージの文書のなかから、それを裏づける証拠が見つかった。そこには旧ソビエトのKGBが計画し、ブルガリアや東ドイツの秘密警察が関与したことが記されていた。
 こうした前任者のヨハネ・パウロ2世と比べて、ベネディクト16世は学者肌の法王で、信仰に徹した姿は熱心な信者からは信頼された。ただ、変化の激しい現代社会に対応する信仰の道を示し得たかどうかという点では、批判する声も少なくない。
 ベネディクト16世の在位中には、イスラム教世界でテロが激化するなどの動きがあったが、聖戦・ジハードを批判し、イスラム圏との間で摩擦を生んだ。またエイズに感染している人が多いアフリカで、避妊具を配布することはキリスト教の教義に反するとして、発言が問題視されたこともる。去年は法王庁の内部の権力闘争が背景にあると見られる、機密文書の大量流失が起こり、そうした心労も法王が健康を損ねた原因となって今回の退位につながったといわれる。
 ヨーロッパでは洗礼を受けたカトリック信者でも、日曜日に教会へ行く人が減っている。新法王はこうした課題を背負って船出するわけだが、枢機卿の多くはイタリアをはじめヨーロッパの出身で、これまで通りヨーロッパ出身の枢機卿が選ばれるのか。いま11億3000万の信者の6割近くを占めるのはアフリカや中南米だが、こうした地域出身の枢機卿が選ばれるか。さらには、離婚、避妊、中絶などを認めない従来の教義を重視する保守派か、それとも女性司祭を認めるなど、変化する現代社会の要請にもっと応えるべきだとする改革派が選ばれるのかも注目される。
 バチカンの煙突から白い煙が上がり、サンピエトロ大聖堂の鐘が新法王誕生を告げる日には、大聖堂前の広場は十数万の信者で埋め尽くされるはずである。
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by monsieurk | 2013-03-04 19:00 | 取材体験 | Trackback | Comments(0)
 私たちNHK取材班が北ヴェトナムに入国を果たした1973年1月中旬、ニュースの焦点はヴェトナム停戦が成立するかどうかに集まっていた。はたして北ヴェトナム側はどう考えているのか。この点に関しては、ハノイ到着の翌日表敬訪問した際に、対外文化連絡委員会のブ・クォック・ウィ委員長代理がふともらした一言が暗示的であった。「皆さんは本当によい時期においでになった・・・あなた方は、将来きっとよい回想録が書けますよ」。たしかに彼はそう語ったのである。
 これに次ぐル・クイ・キ、ジャーナリスト会議議長のブリーフィング、外務省情報文化局長ゴ・ディエン氏との単独会見などへの取材を通して、私たちは和平協定調印間違いなしとの確信を得たのだった。
 前年11月20日、アメリカのCBSテレビが、アメリカのキッシンジャーと北ヴェトナムのレ・ドク・ト代表との間で、第1回の秘密会談が行われたことをスクープした。会談場所はパリの郊外およそ20キロのジフ・イヴェットという小さな町にある、画家フェルナン・レジェの持家で、フランス共産党が会合などに使っている長屋風の家だった。このときから両国は停戦にむけて秘密裏に話し合いを重ねていたのだった。
 現地時間の1月26日の夜、私たちは2日間のハイフォンでの取材を終えてハノイにもどって来た。3日間の予定を1日早く切り上げて帰ってきたのである。ハイフォンをはじめ、地方でも取材したいものは沢山あった。しかし、ハノイを留守にすることが不安だった。何かがある。私たちの誰もがそう感じていた。それだから真っ暗な夜道を車をとばして帰ってきたのである。
 ハノイの宿舎に指定されていたホテル・トンニャットの回転ドアを押して入ると、一種異様な雰囲気がただよっていた。ハノイに駐在する電波ニュース(この度の取材では電波ニュースのカメラマンに協力してもらっていた)の石山支局長がとんできて、パリで停戦の仮調印が行われたらしいという。私たちはただちに取材に同行している対外文化連絡委員会のグエン・クイ・クイさんに確認を頼んだ。
 クイさんはロビーの脇にある電話室へ入っていった。対外文化連絡委員会や外務省に問い合わせてくれているのだろう。待ちどおしい時間だった。やがて出てきたクイさんは、固い表情でこう言った。
 「北ヴェトナム政府はいまのところ何の発表もしていません。したがって皆さんにお伝えすることは何もありません。ただ、外国の取材班のみなさんは、明日の朝6時にホテルの前に集合してください。それから空港へ取材にまいります。」
 仮調印はあったのか、空港では何を撮影できるのか、いくら尋ねても、「それは分かりません」の一点ばりである。普段は柔和で、よく冗談をとばすクイさんも、こうなったら梃でも動かない。確認の電報を日本に打つことも婉曲に断られる始末である。明日を待つほかなかった。
 翌1月24日午前6時。たちこめる濃い朝霧のなかで、外務省の前には20台ほどの自動車が集まっていた。報道陣や外国の友好団体の代表が乗りつけた車である。
 やがて、外務省の役人が乗った先導車が動き出す。われがちにその後へ車が続く。しかし。連れて行かれたのは空港ではなく、外務省であった。
 7時40分、外務省の赤い絨毯を敷きつめた大広間では、和平協定調印のためにパリへ出発するグエン・ズイ・チン外相の壮行会が開かれていた。普段の精悍な顔をほころばすファン・バン・ドン首相。重厚なレ・ジュアン党第一書記。死亡説までささやかれていたボー・グエン・ザップ国防相、赤いナポレオンとひそかに綽名されるこの稀代の戦略家が、部屋の片隅で南ヴェトナム臨時革命政府のグエン・バン・ティエン代表と抱きあっている。
 私たちは夢中でカメラをまわした。歴史的な瞬間だった。報道陣がどっと要人たちを取り囲む。あちこちで乾杯の杯があがる。このとき、杯を片手に近づいて来たファン・バン・ドン首相は私の耳もとで、“Tout est bien qui finit bien.(終わりよければすべてよし)”とささやいた。
 午前10時。ハノイの街角はどこも人波で埋まっていた。有線放送の拡声器を中心に幾重もの人の輪ができている。市内電車もとまり、乗客はみな顔を出して耳をかたむける。建物のバルコニーはどこも鈴なりである。白い顎ひげの要人、緑のヘルメットをかぶった兵士、すげ笠姿の若い女性。やがて北ヴェトナム放送が臨時ニュースで、和平協定の仮調印成立を伝えはじめた。
 「レ・ドク・ト特別顧問とアメリカのキッシンジャー博士は、昨日パリにおいて和平協定の調印に・・・」
 女性アナウンサーが事実を淡々と伝えていく。
 「ヴェトナム民主共和国とアメリカ両国は、この協定がヴェトナムおよび東南アジア、さらに広くアジア全体の和平に貢献するものと信じている。・・・」
 赤ん坊を高々とさしあげる若い夫婦、友だちと抱きあって喜ぶ若い女性、うっすらと涙のにじんだ目で拡声器を見つめている青年。この瞬間、四半世紀にわたる戦いに、事実上、終止符が打たれたのである。一人の子どもが低い声で、「ホアビン・ゾイ(平和が来た)」とつぶやいた。藤井カメラマンがまわすアリフレックスの音にまじって、その声は私の耳にはっきりと聞こえた。

 ハノイでは毎朝6時には目がさめる。街角ごとに設けられた有線放送の拡声器が鳴りだし、職場へ急ぐ人びとの自転車をこぐ音が部屋まではいのぼって来る。事務所や工場は6時半には仕事をはじめる。デパートもこの時間には開店する。おそらくハノイは世界で一番早起きの都会だろう。私たちも早い朝食をすませると、8時には取材をはじめる毎日だった。
 今度の取材に当たっては、撮影は電波ニュースの協力を得ることが条件となっていた。チーフに藤井カメラマン、日映にいたこともあるベテランである。私たちとともにハノイ入りした石垣氏がセカンドカメラマン。彼はラオスの解放区に入った経験がある。北ヴェトナム側も三人のスタッフを用意しておいてくれた。責任者のクイさん、対外文化連絡委員会の幹部で、独学とは思えないほど日本語が達者である。工作者のルオンさんはディエンビエンフーの戦闘に参加した歴戦の勇士。取材のアレンジを彼が担当する。そして通訳のチューさん。
 なにしろNHKにとっては19年ぶりの北ヴェトナム取材である。取材したいものは山ほどあった。最初の打ち合わせ会議で、こちらの希望は伝えてあった。だが、戦時下の北ヴェトナムでは取材制限も多い。またテレビのついては未経験のこの国の人びとに、私たちの意図がどれほど理解されるだろうかという不安もあった。
 ハノイを訪れた外国人の多くは、トンニャット・ホテルの一部屋を割り当てられる。フランス植民地時代の建築で、かつてメトロポールと呼ばれたこのホテルが、いまもハノイでは最高のホテルである。寝台から洗面所の部品にいたるまですべてが当時のままである。そのトンニャット・ホテルに、ある日取材を終えて戻ると、それまで見かけたことがなかったロシア人が10人ほど来ていた。男はみなパイロットの制服を着ており、みごとな身体つきの女性たちはスチュワーデスに違いなかった。
 ソビエトは何かの目的で特別便を用意したのである。調印のために北ヴェトナムの要人をパリへ運ぶのだろうか。私たちは色めきたった。
 だが、取材の結果明らかになったのは、アエロフロートの特別機に乗るのは要人ではなく、桃の花だという。ヴェトナムでは2月3日の旧正月、テトを桃の花を飾って祝う。だが、桃の花は暑い南ヴェトナムでは栽培できない。そのため毎年旧正月間近になると、北から南へ桃の花が空輸されるのだという。しかもこの「桃の特別便」は、どんなに戦火が激しかった年でも中止されたことはなかったという。私たちはここに同じ民族同士が戦うことの一面を垣間見た気がした。

 それにしても、なぜアメリカは敗北したのか。ある北ヴェトナムのジャーナリストは、この戦争をヘビー級とフライ級の戦いにたとえた。そのヘビー級がなぜフライ級に負けたのか。理由の一つは、アメリカが高度に発達した工業社会であり、ヴェトナムが典型的な農村社会だったことである。アメリカ政府のさる高官がハノイを石器時代に戻してやると本気で語ったことがある。しかし、ハノイは現に生き残ったのである。
 ヴェトナム戦争を通じてアメリカが投下した爆弾は、第二次世界大戦のおよそ三倍、去年の暮〔1972年〕の暮だけでも、広島型原爆の二倍に相当する爆撃が行われたという。これが日本のような都市型社会ならば、経済活動は停止し、戦争遂行能力はたちまち低下したに違いない。事実、ペンタゴンのコンピュータの計算では、そうなるはずだった。しかし、ヴェトナムはコンピュータとは無縁の国であった。なにしろ人口120万のハノイ全市にエレベーターは2基しかなく、しかもそのうち1基は現在このとき故障しているという。それでも人びとは何の不自由も感じずに生活できる国なのである。
 北ヴェトナムの経済の基礎は広大な田園にあり、人口の大部分はそこでそ生活している。さらにハノイに住む人も、必ず田舎に親類を持っている。あれだけの短期間に人口の分散を可能にした裏には、農村社会の結束の固さがあった。アメリカは最後までこの農村社会の思考形式と生活のリズムを理解することができなかった。
 ニクソン大統領が、「世界の無法者」ときめつけ、キッシンジャー大統領補佐官が、「まれに見る勇気ある人びと」と持ち上げた北ヴェトナムの人びと。だが、戦いをおし進めたのは、そうした画一的でいわば「顔のない」2千万の集団ではなく、血も涙もある一人一人の人間だったのだ。

 グエン・バン・ミンは兵士になる前は学校の教師だった。彼は去年〔1972年〕の7月10日に、ハノイにいる女友だちのホアに宛てて手紙を書いた。だが、この手紙は投函されることはなく、彼の遺体とともに南ヴェトナムのサイゴンに近いビンズオンで見つかった。
 「愛するホア、そちらでは、いま甘いジャスミンの花が満開でしょう。夏休みで学校は休みに入ったことと思います。君も授業から解放され、同僚の数学教師、ハイ君と休暇を楽しんでいるのではありませんか。そう思うと僕の心は痛みます。彼はハンサムだし、よい男です。君たちはもう愛の言葉をささやき合ったかしら。ホア、憶えていますか、川のほとりの木陰でねころびながら話し合った時のことを。君の長い髪が僕の頬をやさしくなでた・・・。君は彼と結婚すべきなのです。
 敵は野蛮で、仲間の多くが殺されました。先週はB52の猛爆で部隊の半分が死にました。恐ろしさのために、ときどき変な考えにとりつかれることがあります。数千里を一挙にこえて、君のところへ飛んでいく夢です。以前、僕は人を殺すことがどんなことか分からなかった。僕はそれをこの目で見ました。僕は殺したくない。でも、それは兵士としての義務なのでしょう。そこに選択の余地はありません。・・・」
 遺体のなかから見つけられた手紙は、南ヴェトナム軍の手で、北ヴェトナムに送り返されてきたのである。
 グエン・バン・ミンと同じような悲劇は、北側にも南にも無数にあった。人びとの悲しみを飲みこんだヴェトナムの地に、はたして本当の平和は訪れるのだろうか。

 以上は、40年前にNHK報道局編「ヴェトナム和平」に掲載したものを再録したものである。北ヴェトナムとアメリカによる和平協定の本調印は、1973年1月27日(現地時間)、パリの凱旋門に近いクレベール通りの「国際会議センター」で行われた。これによってアメリカ軍のヴェトナムからの撤退は実現したが、その後南北ヴェトナム軍の間で戦闘が再開され、ヴェトナムに平和が訪れるのは、1975年4月30日に北ヴェトナム軍がサイゴンに突入して、やがて統一が実現するのを待たなければならなかった。
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by monsieurk | 2012-02-16 23:52 | 取材体験 | Trackback | Comments(0)

ベルリンの壁崩壊(3)

 ハンガリー政府がオーストリアとの国境を開けたという情報は、とりわけ東ドイツ政府に衝撃をあたえた。翌3日に開かれた定期会議の席上、書記長のホーネッカーは、「ハンガリーの連中は何をたくらんでいるのだ」と叫んだという。だがホーネッカー自身もハンガリーの意図を十分に分かっており、それだけに強い危機感をいだいた。
 夏休みが近づきつつあった。東ヨーロッパの人たちにとって、ブダペストやその北にあるバラトン湖は憧れの避暑地だった。豊富な食品や雑貨が手に入り、大きな湖の湖畔でのキャンプは人気だった。それに加えてハンガリーが西側世界への扉を開いたのである。5月から6月上旬にかけて、数百人が車を国境近くの森林に乗り捨てて、オーストリアへ徒歩で入ろうとしたが、運悪くハンガリーの国境警備隊に発見されてUターンさせられた。それでも国境警備隊の対応はにこやかで、彼らがいなくなると、あらためて国境越えをこころみて成功した人もあった。
 この時期に一つの計画が進行していた。アイディアを出したのはハンガリーの活動家メサロシュ・フィレンツだった。ハンガリー人とオーストリア人が国境でピクニックを行って、フェンス越しに食べ物を交換し合い、冷戦の異物であるフェンスの無意味さを世界に訴えようというものだった。彼はこの考えを新たに生まれた「民主フォーラム」のフィレプ・マリアに話した。フィレプはソビエト圏諸国の学生を対象とする一種の「政治的な避難所」を運営しており、国境でのピクニックというアイディアに賛同して、協力を申し出た。
 二人はピクニックの名称と場所、開催する日時を決めた。名称は「汎ヨーロッパ・ピクニック」、場所はハンガリー領がオーストリアのなかに食い込んだような地形にある街ショプロン。日時は1989年8月19日午後3時。二人はオーストリア=ハンガリー二重帝国の支配者の子孫、オットー・フォン・ハプスブルクと党政治局員のポジュガイ・イムレに、この計画のスポンサーになってくれるように話した。
 ポジュガイはこの計画が、ハンガリーが国境を開放して共産圏から離脱しようとしていることを世界に知らせる絶好の機会になると判断して、すぐネーメトに話した。ネーメトにも異存はなかった。二人はさらに、これを単なるピクニック以上のものにしたいと考えたのだった。
 ただ事は慎重に運ぶ必要があった。ホーネッカーからは、東ドイツの市民が不法に国境を越えようとしたら、逮捕して身柄を引き渡すようと強硬な申し入れがあった。
 7月、ヴァカンス・シーズンがはじまると、大勢の人びとがハンガリーに押し寄せてきた。ホテルは満員となり、バラトン湖の周辺や他のキャンプ地には無数のテントが張られるようになった。メサロシュやフィレプは、政党に属する活動家や学生、環境保護団体、市民団体などに協力を呼びかけて、鉄条網を突破する白い鳩(白バラもあった)を描いたポスターをつくり、人びとが集まる場所に貼り出してピクニックへの参加を呼びかけた。そしてピクニックの案内状がハンガリー内外のマスコミにファックスで送られてきた。
 ポジュガイは内相のホルバット・イシュトバンに協力を求めた。内相は警察と民兵組織を統括しており、ピクニックの成功には彼の助力が不可欠だった。ネーメト、ポジュガイ、ホルバットはひそかに話し合い、ピクニック当日は国境警備隊がショプロンの現場に近づかないようにすることが決められた。決定は国境警備隊の指揮官ジュラ・コチバを経由してショプロン地区の司令官に伝えられた。
 8月19日、ピクニック当日、午後2時ころにイヴェントがはじまった。国境近くの草原には主催者の予想に反して、数千人の人たちが集まってきた。オットー・フォン・ハプスブルクの姿はなかったが、彼のメッセージを娘が代読した。やがて人びとが国境のゲートの方へ走り出した。その数は300人ほどで、みな東ドイツ市民だった。
 警備隊は命令通りに会場には近づかなかった。検問所にいたのは検問担当の役人だけで、彼らは国境にむかって突進する東ドイツの人たちにあえて背を向けて、オーストリア人旅行者のパスポートを入念にチェックしていた。こうしてこの日、国境を越えた東ドイツ市民は600人を数えた。この模様は西ドイツテレビのZDFやソ連東欧向けに放送しているラジオ・フリー・ヨーロッパが現場から中継して、またたくまに知れ渡った。
 「汎ヨーロッパ・ピクニック」の出来事を西ドイツテレビで見たホーネッカーは、東ドイツ駐在のハンガリー大使を呼びつけて激しく抗議し、ハンガリーに留まっている東ドイツ市民を即刻強制送還するように要求した。この段階でハンガリー国内には15万人の東ドイツのパスポートをもつ人たちが留まっていた。
 肝心なのは強硬な東ドイツ政府ではなく、ソ連の出方だった。ネーメトたちは待った。それでもソ連からは何も言ってこなかった。「責任者はあなた方だ」と言ったゴルバチョフは、その言を守ったのである。
 ネーメトは3日後に外相のホルン・ジュラとともにボンへ飛び、コール首相、ゲンシャー外相と秘密裏に会談し、ハンガリーはワルシャワ条約機構との関係を絶って、東ドイツの国籍を持つ人たちが自由に出国することを認めるつもりであることを説明した。そのために西ドイツが、東側から脱出してくる人たちを受け入れる準備をしてほしいと述べた。
 コールは感謝の言葉を繰り返し、ハンガリーは見返りに何を望むかときいた。このときネーメトがどう答えたかは分からない。西側のマスコミでは、5億マルクの信用供与が提供されたという報道もあった。
 西ドイツ政府はハンガリーの首都ブダペストにあるブラケット教会の礼拝堂の裏にひそかにオフィスをつくり、そこで西ドイツのパスポートを東ドイツ市民に交付した。この非合法活動は、ハンガリー政府も西ドイツ政府も関与せず教会の神父の自発的意思にもとづく行為ということで実行された。教会の庭には、東ドイツの人たちがテントを張って何日も過ごしていた。その様子を撮影したドイツテレビのカメラが偶然その模様を映していた。そして西ドイツ政府は、オーストリアと国境を接するバッサウに数万人を収容できる大規模な移民センターを建設した。
 8月31日、ハンガリー外相ホルン・ジュラは、東ベルリンで東ドイツ外相のオスカー・フィッシャーと対決した。ホルンが、「オーストリアとの国境を完全に開放する」と告げると、フィッシャーは、「ハンガリーは東ドイツを見殺しにして、あちらの陣営に加わるというのか。どういう結果になるか、よく考えてみるのだな」と言い放ち、会談は決裂した。しかしこの数日前、ゴルバチョフはコールに対して、どのような事態が生じてもソ連は介入しないと通告してきていた。
 9月11日午前零時、ハンガリーとオーストリアの国境のゲートが完全に開いた。つめかけていた人や車が検問所を通って西へ西へと脱出した。この日だけで8000人以上の人が西へ向った。そしてその人数は日ごとに増え、オーストリアからは列車やバスで西ドイツの収容所へ送られていった。
 この大脱走の様子は連日西側のテレビで伝えられ、私はそれを見届けて東京へ帰任した。その後の動きはよく知られている通りである。
 月が替わって10月2日、東ドイツのライプチヒでは、「月曜デモ」がはじまり、10万人が参加した。デモはこの日から連日続けられ、翌3日になると、東ドイツは国境を完全に封鎖した。7日は東ドイツ建国40周年の記念日だった。来賓として出席したゴルバチョフは、ホーネッカーを含む東ドイツ社会主義統一党の政治局員との会合の席上、「一歩遅れた者は、その責を一生背負うことになる」と言った。
 10月18日、ホーネッカーは失脚し、エゴン・クレンツが後任の党書記長に選ばれた。11月1日、東ドイツはチェコスロバキアとの国境を開いた。しかし民衆の体制に対する不満の動きはおさまらなかった。4日、東ベルリンで50万人をこす人たちのデモが行われ、6日にはライプチヒのデモは100万人に膨れあがった。
 11月9日、クレンツは新たな改正案をまとめた。文書には、「旅券を所持している東ドイツのすべての人民は、いつでも、ベルリンを含むどこでも、国境警備のチェックポイントを通って出国することを認めたビザを取得する権利を有する。旅券を持たない人民も、出国の権利を付与する特別のスタンプを押した身分証明書を所持することができる」と書かれていた。そして党中央委員会はこの改正案を午後4時頃に承認した。実施は翌10日とすることになった。
 午後5時頃、スポークスマンのギュンター・シャポウスキーがクレンツの事務所に立ち寄った。彼は前の週から、毎日定例の記者会見を行うことになっていた。中央委員会での議論の経緯を知らないシャポウスキーが、「何か発表するニュースはないか」と訊ねると、クレンツは「こんなものがある」と言って二枚の文書を渡した。クレンツが中央委員会で説明し了承された内容だった。ただそれは翌10日にマスコミに向けて発表するはずの文書で、そこに書かれていた、「ab sofort(今から直ちに)」という文句が、翌日10日を意味することを彼はシャポウスキーに伝えなかったのである。それが故意か不注意だったのかはいまだに分からない。
 シャポウスキーは少し離れた会見場へ行く車の中で、一度だけ文書に目を通して会見に臨んだ。彼は記者会見の最後で、この旅行規則の緩和を発表した。そして記者から「いつからか」と質問されて、文書を見直した。そこには「今から直ちに」と書かれてあり、彼はそのまま発表したのである。
 クレンツが用意したこの旅行規則の緩和策が、東ドイツの新体制の思惑通りに運んでいたら、事態はどうなっていただろうか。壁が開放さたことに相違はないとしても、それは政権の手で秩序だって行われ、突然の発表に、興奮し、歓喜した民衆の力で壁が突破されて、「崩壊した」ことはなかったはずである。
 11月9日の夜に突如出現した衝撃的な映像が、「ベルリンの壁崩壊」というドラマを世界中の人びとに強烈に印象づけ、その後の事態を加速度的に押し進めていったのである。
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by monsieurk | 2011-11-06 21:51 | 取材体験 | Trackback | Comments(0)

ベルリンの壁崩壊(2)

 ことの発端は、ハンガリーでの環境破壊反対の小さな動きだった。
 ドナウ川はスロバキアから国境をこえてハンガリーへと流れるが、両国はドナウ川の航路の改修、水力発電所とダムの建設について協定を交わした。スロバキアは上流のカブチコヴォに、ハンガリーは下流のナジマロシュにダムを建設する計画で、工事は一般には知らされないままひそかに進められた。だが1980年になって事実を知ったジャーナリストのヤーノス・バルガが、雑誌「ブバール」に、ダム建設がドナウ川の破壊につながるとの警告記事を発表し、友人の映画監督が厳重に警備された工事現場を撮影することに成功した。やがてこれがダム建設を中止させ、さらには共産主義政権を倒壊に追い込む運動のスタートとなったのである。
 私たちの取材に対して、ヤーノスはダム建設に反対した理由を、「スロバキアに出来る予定のダムによって、ドナウ川がハンガリーへ流れ込む地帯にひろがる河川沖積湿地帯の地下水の水位低下をまねき、生態系に悪影響をあたえることが分かった。さらにこれによって15万ヘクタールの森が水に沈み、川の流れが遅くなるため、大量の沈殿物が発生して水源として使えなくなることが分かったからだ」と語った。
 ドナウ川はブダペスト市民をはじめ500万人の飲み水をまかなってきた。しかし「青きドナウ」と讃えられた川は褐色に濁り、この頃になると水道の水源を遠く離れた山地に求めざるをえない状態となっていた。
 ヤーノスの論文が雑誌に載ると露骨な弾圧が加えられた。素人の調査に基づくもので科学的根拠を欠くとして、以後論文の掲載は妨害され、ヤーノスには監視がついた。しかし彼はあきらめなかった。ジャーナリストの職を辞し、環境問題の勉強を始めるかたわら、1984年2月に、「ドナウ・サークル」という団体をつくり、地下出版物を発行して支持者を増やしていった。
 ベルリンの壁が崩壊する以前、東欧諸国の環境破壊はどこも深刻な状態だった。しかし共産主義政権下では、西側に追いつき追い越せのスローガンのもとに、それは無視されていた。
 ベルリンの壁が開かれてしばらくすると、西ベルリンの空気が臭くなった。原因は青い排気ガスをまきちらして走りまわる排気量595CCのプラスチック製のトラバントなど東ドイツ製の車だった。排気ガス浄化装置をつけていない上、ガソリンの質が劣悪で、空気はたちまち汚染されてしまったのである。
 チェコの首都プラハから北へ80キロ、東ドイツとの国境に近いモストは東側でもっとも汚染された街といわれた。街の運命が一変したのは、近くから褐炭の層が発見されたときからである。これがチェコ最大のエネルギー源とされ、街の近くには巨大な露天掘りがいたるところで行われた。褐炭は石炭のうちでも炭化度が低く大量に掘り出す必要があり、しかも層が薄いために採掘場はどんどん移動する。その度に畑や森がつぶされた。ついに露天掘りの現場がモスト市に迫ると、市街そのものが3万5千人の住民もろとも移転することになった。新たにつくられたモスト市は人口が7万人に増え、周辺に褐炭を利用する火力発電所、重化学工業の施設が続々建設され生産が競われた。その結果がすさまじいばかりの大気汚染である。北ボヘミヤ地方だけで年間凡そ100万トンの二酸化炭素が排出された。
 モストからさらに北へ20キロほど行った森林地帯では、木々が白骨のように白く立ち枯れていた。向いの山でも背後の山でも、枯死したモミの木が幽霊のように立っている光景は異様だった。しかも白骨化した森は延々百数十キロにわたって続いていた。酸性雨の被害なのは明らかだった。
 モミは「ボヘミヤの女王」と呼ばれ、名高いチェコ製ヴァイオリンの貴重な材料だが、こうした被害が材料の確保に影響をあたえているということだった。これらの東側の環境破壊は壁崩壊後の取材で分かったことで、「文藝春秋」1990年9月号に、「『壁のむこうの』環境破壊」と題して書いた通りである。
 話をドナウ川の環境汚染に戻せば、ヤーノスたちは「ドナウ・サークル」という環境保護団体を立ち上げて、運動は次第に市民の関心を呼ぶようになった。彼らはダム建設中止を政府に要望し、ドナウ川と恐竜の名前をもじった「ドナザウルス」と題した活動の記録をビデオにした。これは共産主義政権下では公開を禁じられたが、やがてビデオ・レンタル店にも置かれるようになった。
 最初は百人規模だったデモが、千人、1万人と集まるようになり、1988年夏には10万人をこす人たちが、「ダム建設の是非を国民投票に」と叫んで行進した。これは1956年の「ハンガリー動乱」以来最大のデモとなった。そし10月、盛り上がる世論を押さえきれずに、国会でダム建設の是非を問う議論がおこなわれ、投票に際しては19人が反対、31人が棄権した。政府の政策には満場一致の賛成が原則の国会で公然と反対の声があがったことは体制側に強い衝撃をあたえた。
 ハンガリーでは、東ヨーロッパ経済相互援助機構(COMECON)の国以外に、西側との貿易が盛んに行われて市民は比較的豊かな生活を送っていた。共産主義政権下でもブダペストの幾つかの有名レストランでは、白手袋をしたボーイが客たちにサービスし、自慢のトカイ・ワインを味わうことができた。
 改革派が実権をにぎった社会主義労働者党は、共産主義とは相いれない株式市場を開設し、個人企業の創設を促進する新たな法律を制定し、固定価格を廃止して自由価格の導入を奨励した。こうした一連の経済改革が政治にも影響をあたえずにはおかなかった。
 1989年10月、ハンガリー社会主義労働者党は党名を「ハンガリー社会党」と改め、党内では「複数政党制」を認めるかどうかが議論され、東側でははじめてこれを認める決定がなされた。ただ新たに生まれる政党を公式に「政党」と認めることは時期尚早だった。それは一党独裁というにマルクス・レーニン主義の大原則に違反することになり、近隣諸国の反発や反対が目にみえていた。そこで彼らは新党の名前に一工夫が加えた。新党を、「・・・クラブ」、「・・・運動」と呼ぶことにしたのである。
 こうして市民の間から先ず「民主フォーラム」というグループが立ち上げられ、最初の政治団体が結成された。これには環境保護の運動を担ってきた人など多くの知識人が参加した。街のカフェでは誰もが「民主主義」について公然と議論していた。
 これには前年11月に、改革派のネーメト・ミクローシュが首相に任命されたことが大きくかかわっていた。ネーメトはこのとき40歳。アメリカのハーヴァード経営学大学院(ビジネス・スクール)に1年間留学した経済の専門家で、穏やかな見かけの陰に信念と粘り強さを秘めていた。
 ネーメトと二人三脚を組んだポジュガイ・イムレは、対照的に思ったことを口にする人物で、ブダペスト大学で政治社会学を教え、テレビに出演して堂々の議論を展開した。政権の中枢に入って政治改革を担当することになったポジュガイは、「共産主義を変えるときだ」という持論を隠さなかった。一方で党書記長のカーロイ・グロースは、ネーメトやポジュガイが主導する急激な改革には慎重な態度を崩さなかった。
 共産主義に終止符を打つのはそれほど簡単なことではなかった。ハンガリーは1958年の苦い経験に悩まされ続けてきた。その年、自由をもとめる市民が武装蜂起して共産主義政権の打倒をはかった。そして武装蜂起を鎮圧するために送り込まれたソ連軍の戦車を相手に、ブダペストで数週間にわたる激しい市街戦が繰り広げられた。この動乱で2万5000人が死亡し、20万人が国外に亡命した。当時のハンガリーの政権も民族主義の立場から蜂起した民衆を弾圧するために手を貸したのである。
 ネーメトやポジュガイにとって、この轍を踏まずに改革を実現するには、なによりもゴルバチョフの了解をとる必要があった。彼らは1988年の暮れから89年の初めにかけて、外部の協力を得ることなく、できるだけ目立たないように黙々と変革への準備を進めた。その上でネーメトはゴルバチョフに手紙を送り、3月第1週にモスクワで秘密に会談する約束をとりつけた。ネーメトがこの時期を望んだのは、3月後半にカーロイ書記長が同じくモスクワを訪問することになっていて、それ以前にゴルバチョフの意向をただす必要があったからである。
 最初20分の予定だった会談は3時間におよんだ。ネーメトの回想によれば、彼が考えているハンガリーの民主化計画について話すと、不意をうたれたゴルバチョフは、動揺し怒りだしたという。総選挙の実施については、それは社会主義に対して一撃を加えようとするものであり、「そんなことをしたら、正しい社会を創造するという党の権利を踏みにじることになる。その判断を一般大衆に委ねるなんて・・・そんな成り行き任せは駄目です」といった。ゴルバチョフは改革推進派だと考えていたネーメトの予想に反して、彼は根っからの社会主義者だった。だが最後にゴルバチョフは口調を変えると、「しかし、同志ネーメト、その責任者はあなたです。私ではありません」と言った。ハンガリーの進むべき道を決めるのはソ連ではなく、ハンガリー自身だということを意味した。
 ネーメトは単刀直入に訊ねた。「もし総選挙の日付を発表し、選挙を実施したら、ソ連は1956年と同じように介入しますか」。ゴルバチョフは一瞬のためらいもなく、「ニエット(いいえ)」と答えた。そして、かすかに笑いながら、「少なくとも、私がこの椅子に坐っている限りは」とつけ加えたという。
 1989年5月1日のハンガリーのメーデーでは、首脳たちが並んでパレードを検分する式典の代わりに、「人民のピクニック」を実施することになった。公園にテントが持ち込まれ、食べ物や飲み物が準備された。党主催のピクニックには数万人の人たちが集う予定だったが、実際には千人しか集まらなかった。閣僚も首相のネーメト以外は誰も顔をみせなかった。
 逆に「民主フォーラム」など新たな政党が催した集会には10万人をこえる人たち参加し、お祭り騒ぎになった。ジャズバンドの演奏の合間には、皆が改革計画について議論し合った。党主催のピクニックでは、書記長のカーロイがネーメトの率いる内閣を槍玉にあげて、社会主義の大義を裏切るものだと非難した。だがネーメトは動じなかった。
 翌5月2日の朝、ハンガリー政府は、西隣のオーストリアと接する国境沿いに設置されている電流の通じた鉄条網の一部を切断した。経済的に維持できないというのが表向きの理由だったが、その意図は明らかだった。
 ネーメトのこの発言から数時間後、鉄条網を大きな金鋏で切る兵士の写真が通信社の手で配信された。イギリス首相チャーチルが「鉄のカーテン」と称したものが、初めて破られた瞬間だった。
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by monsieurk | 2011-11-03 23:59 | 取材体験 | Trackback | Comments(0)