フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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カテゴリ:収穫物( 5 )

 いま雑誌「ユリイカ」(青土社)に、ステファヌ・マラルメの詩篇の翻訳を連載している。翻訳のもとになるフランス語のテクストは、1998年にガリマール社のプレイアード叢書として刊行された、ベルトラン・マルシャル編纂になる『マラルメ全集Ⅰ』(Mallarmé: Œuvres complètes Ⅰ. édition présentée, établie et annotée par Bertrand Marchal, Bibliothèque de la Pléiade, Gallimard,1998)に収録されたものに拠っている。これはマラルメの死後100年を記念して刊行された新たなマラルメ全集で、詳細かつ正確を期したものである。
 ただマラルメの詩のテクストに関しては、半世紀以上前に、鈴木信太郎先生によるテクスト・クリティック(本文批判)が行われていて、私たち日本の研究者はその恩恵に浴してきた。写真がその『ステファヌ・マラルメ詩集考』で、上巻は1948年9月、京都にあった高桐書院から、下巻は2年後の1951年4月に、東京の三笠書房から刊行された。d0238372_922077.jpg
 出版を企画したのは東京帝国大学仏文科で鈴木の教えを受けた淀野隆三で、上、下巻が別々の出版社なのは、淀野が発行人をつとめていた高桐書院が1948年に経営破綻し、その後淀野は三笠書房へ移り、企画を継続させからである。
 鈴木先生の『マラルメ詩集考』は、もともと学位論文として執筆されたものである。これについてご子息の鈴木道彦氏は、『フランス文学者の誕生 マラルメへの旅』(筑摩書房、2014年)で、こう述べている。
 「それら〔戦前の仕事〕のなかで特筆すべきものは、昭和十八年(一九四三)に東京帝国大学に提出された学位論文『ステファヌ・マラルメ詩集考』である。これは戦後に出版され、信太郎の主著と言ってもよいものになったが、マラルメの詩について可能は限りすべての異本を検討し、それらを厳密に比較して、あるべき『マラルメ詩集』とはどういうものかを探った研究である。
 信太郎がこのような研究方法に着目したそもそものきっかけは、大正十二年(一九二三)頃、絶版になっていたチボーデの『ステファヌ・マラルメの詩』をヴラン書店から入手して、「不遇の魔〔不運〕」という詩篇に夥しい異本があるのを知ったことにある。その後、昭和四年(一九二九)に発表されたマラルメの女婿の論文で、ほとんどすべての詩に数多くの異本があることが分かり、マラルメの詩の研究には、これらを精査することが不可欠であることを痛感したという。」、「これら〔詩のテクスト〕を文字通り一点一画も忽せにすることなく、厳密に検討し、それぞれの版について、カンマの有無、誤植の有無、行空きの有無、マラルメの書き癖の再現の仕方などの異同を指摘し、どのテクストに拠るべきかを述べたのが、この論文である。ここでは詩の分析や鑑賞ではなく、ひたすらテクストはどうあるべきかが問われていた。しかも問題になるのはフランス語原詩のテクストなのだから、これは専門的にマラルメを研究する者のみに向けた論文であり、本来ならフランス語で書かれるべき種類のものだった。」d0238372_94888.jpg
 この『ステファヌ・マラルメ詩集考』の出版のための清書原稿を、神田の古書店で入手したのはいまから10年ほど前のことである。それは200字詰め原稿用紙1464枚からなるが、清書をした人が誰かはいまのところ分からない。d0238372_955249.jpg
 学位論文として提出されたものを出版用に清書したものと思われ、フランス語のテクスト部分は、写真のようにタイプライターで打たれている。
 さらに鈴木先生自身による推敲、加筆も若干なされていて、さらに版元の赤鉛筆により指示も記入されている。そして本文とは別に「後記」が書かれているが、これは明らかに鈴木先生ご自身の書体である。最期には、
「戦災は蒙ったが本は焼かれなかった書庫に於いて、
 一九四七年一月二十一日」
と書かれている。
 『ステファヌ・マラルメ詩集考』は、マラルメの詩のテクスト確定作業のさきがけであり、道彦氏も指摘しているように、この研究がフランス語で発表されていれば驚異をもって迎えられ、世界のマラルメ研究を一歩も二歩も前に進めていたに違いない。いずれ歴史的な価値をもつこの生原稿は、どこかに寄贈したいと考えている。
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by monsieurk | 2015-01-18 22:30 | 収穫物 | Trackback | Comments(0)
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 写真はマドレーヌ・シャプサルとプレヴェールで、これもシャプサルのコレクションにあったものである。
 プレヴェールがコラージュに興味をもち、精力的に制作するようになったのは、1950年代後半である。彼はかつてモーリス・バケが撮った、やがて妻となるジャニーヌの写真〔両手を広げて空中に飛び上がっている〕を、エキゾチックな花や葉っぱで縁取りをして素敵なコラージュをつくり、夢中だった踊り子の、はち切れんばかりの若さを見事に引き立たせたことがあった。1950年代になってから、写真家や画家と共同で詩画集をつくり、それらを通してコラージュという手法にふたたび関心が向いたのである。
 プレヴェールは映画のシナリオを書くとき、よく色鉛筆で花や小さな人間や滑稽な場面のスケッチなどを書き添えていたが、あるときそれを見たピカソは、「君は描くことも、デッサンする知識もないけれど、君は絵描きだよ・・・」といったことがある。
 プレヴァールはパリで放送局の2階から道路に転落するという事故を起こしたあと、静養のためにニースに近いサン・ポール・ド・ヴァンスに滞在したが、ここでは仕事以外に何か手作業をするように医者に言われ、コラージュが恰好の作業となった。
 ルネ・ベルトは映画『わが兄ジャック』のなかで、「ジャックは次第にコラージュで自分を表現するようになりました。彼はまず詩でそれを試みました。人びとは彼の詩の幾つかはすでに言葉のコラージュだと認めました。精神のあり様は同じです。それぞれ異なる、予想もしない要素を関係づけ、活性化する能力を、ジャック・プレヴェールは最初に言葉で示したのです。他の人たち、シュルレアリストたちのなかにも、コラージュを用いた人はいます。マックス・エルンストはとても美しいコラージュをつくりました。でもプレヴェールのものは、それと同じではありません。彼は彼にしか属していない現実の要素に生気を吹き込むのです。彼のコラージュは、知的形而上学のそれではありません。そこにはマックス・エルンストのコラージュのあるものが持っている、オブセッションや幻覚といった性格はありません。ジャックのコラージュは完全に彼の詩情に属するものなのです」と述べている。
 コラージュを本格的にはじめてからは、プレヴェールには材料を探すことが楽しみになった。色々なイメージや着色版画や写真を探しながら、セーヌ川畔の古本屋をみてまわり、一つ一つを吟味して、心に響くものがあれば購入した。そして時間があれば、パリにいるときは郊外のサン・トゥーアンなどで開かれているノミの市や、ジャコブ通り、サン・ペール通りなどの古本屋をまわって、めぼしい雑誌を飽きずに探し、これはと思う絵や写真の複製が掲載されているものを買ってきた。
 パリ18区のヴェロン小路にあるアパルトマンの大きな机や、サン・ポール・ド・ヴァンスの家の仕事机に座って、まずそれらの雑誌から絵を鋏で切り抜く。机にはそれらを入れる箱、糊、ピカソがくれたフエルトペン、色鉛筆、パステルがのっている。友人に進呈する本の献辞と、花や星やその他お気に入りの絵を描き、グアッシュや水彩画の効果を生み出すためのものだった。
 コラージュをつくるには、「語りかけてくる」イマージュを見つけることが重要で、それを他人まかせにすることはできなかった。「何か私を悦ばせるものがあれば、それを切り抜いて、引き出しに入れておく。大事なのはそれが私を悦ばせてくれることだ。ときどき綺麗な本や、古いカタログを、「ほら、君にだよ」といって、持ってきてくれる人たちがいる。でもそのなかには取っておくようなものは何も見つからない。それが私を悦ばせるものなら、すぐに分かった。」(L’Expess, le 19 septembre 1963)
 こうして何十、何百もの絵や写真が集まり、それらを組み合わせてコラージュが制作された。イマージュの意想外の組み合わせが、ナンセンスな笑いを誘い、現実の化けの皮をはがす鋭い風刺となった。頭が毛虫に齧られた果物になっている法王、雄山羊の頭をした天使たち、皮を剥いだ人体模型の頭をした幼いキリスト、猿の頭をした神父、猿の仮面と、歯をむき出し、馬鹿笑いをしている仮面を顔に張りつけられたポール・ロワヤルの二人の修道女。元になった絵は、パスカルの妹ジルベールが入っていた修道院の有名な二人を描いたものである。プレヴェールはさまざまの手法を駆使しながらコラージュをつくったが、そこには一貫して一つの主張が看て取れる。反軍、反ブルジョワ、反権力、反教会、反戦争の精神である。
 これらの作品はマーグ画廊の幕開けとして、「ジャック・プレヴェールのコラージュ」と題した展覧会で展示された。画廊を訪れた人たちは、シュルレアリスムの精神が横溢するモンタージュ、イメージの魅力、生き生きとした色彩に魅了された。展覧会ではルネ・ベルテが書いたテクストを添えたアルバムが販売された。このアルバム制作には、プレヴェールの経済的状態を慮ったアドリアン・マーグの配慮があったのである。
 マーグ画廊での展覧会に次いで、1963年から64年にかけて、「イマージュ」というタイトルのもとに、120点のコラージュの作品展が、フォーブール・サン・トノレ通りの「クヌードラー画廊」で開かれ、3回目は1966年に「ポシャード」画廊で開催された。このときは57点のコラージュが展示された。
 言葉による詩も映画の台詞もコラージュも、プレヴェールにとっては平凡な現実を彩る夢の実現であって、決して暇つぶしではなかった。彼の詩の数々は書物の形で残され、コラージュは死後に遺族の手で国立図書館に寄贈され、その多くはいま国の所有となっている。
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by monsieurk | 2014-12-24 22:30 | 収穫物 | Trackback | Comments(0)
 今回パリには4日間滞在したが、その間の最大の収穫は、ヴィーニュ古書店でジヤック・プレヴェールのコラージュを1点譲ってもらったことである。
 パリの定宿は5区のHôtel des Grandes Ecolesといって、パンテオンの裏手にある静かなホテルで、カルティエ・ラタンに近く、周辺には美味いレストランも多い。アンリ・ヴィーニュが開いている古書店は、サン・ジャック通りの坂をセーヌ川に向かって降りて行った右手にある。
 あいにくその日は雨だったが、会議が始まるまでの時間、2、3の古書店を覗いてみようと思いたって、最初に訪れたのがヴィーニュの店だった。ウインドーを見るとプレヴェールの詩集『ことば』の初版本と、彼が晩年に打ち込んだコラージュが1点飾られていた。さっそく扉を押して中に入ると、幸い旧知のアンリ・ヴィーニュがいた。
 挨拶もそこそこにコラージュを見せてもらう。写真がそれである。d0238372_8585697.jpg
 コラージュは、21×29.7センチの台紙に、10.5×15センチのコラージュが貼りつけられている。青い服を着た女が、口をあけれ迫る大蛇から逃れようと、木の幹の洞に身を隠そうとしている場面である。プレヴェーは女性、蛇、木の幹などを雑誌や新聞のなかから見つけては切り抜いて、それらを巧みに組み合わせて思ってもみない場面を出現させる。
 コラージュの下には、プレヴェールの自筆で、「À Madeleine Chapsal, de tout ♥ Jacques Prévert, Antibes été 1963 (マドレーヌ・シャプサルへ、♥から、アンティーブ、1963年夏)」と書かれている。
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 ヴィーニュによれば、女性ジャーナリストでのちに作家となったマドレーヌ・シャプサルから譲ってもらったコレクションのなかの1つで、彼女宛ての献辞がついていることに価値があるという。シャプサルがヴィーニュに譲ったコレクションはすべて、2013年5月に出たカタログに掲載されており、カタログにはシャプサル自身が序文を寄せている。
 「雑誌L'Express(レクスプレス)が創刊されたときから、夫のジャン=ジャック・セルヴァン=シュレヴェールは、新刊本を出した作家たちにインタビュする役割を私にあたえた。彼らの言葉を雑誌に掲載するためである。1960年代、70年代に私が出会った人たちは、アルベール・カミュ、モンテルラン、ルネ・シャール、ジャック・プレヴェール、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、ジャン=ポール・サルトル、トルーマン・カポーティなど大勢にのぼった。世界的に著名な作家たちに親切に迎えられる機会が、若いジャーナリストにとってどれほど貴重なものか、私は十分意識していなかった。彼らが語る言葉は、知的で、深みがあり、ときに面白く、また感動的だった。
 雑誌に掲載されたインタビュー記事を本にしないかと提案してくれたのは、偉大な出版人ルネ・ジュリアールである。これが私にとって貴重な原石を選び出す機会となった。それは他に比べるもののない宝物だった。(『個人としての作家』、ジュリアール社、1960年。『小さな音楽を送って下さい』、グラッセ、1984年)
 そして今、学識豊かな古書店主で蒐集家でもあるアンリ・ヴィーニュが、これまで活用されて来なかった貴重な資料が、私の書棚に眠っていることを教えてくれたのである。それはこれらの作家から私宛てに送られてきた自筆の手紙などである。手紙は大きさも筆跡もさまざまだが、いずれも私への献辞、挨拶、お礼などで、どれもエレガントな調子や独特の文体に溢れている。
 こうした貴重な証言類が散逸してしまうのを恐れて、アンリ・ヴィーニュと私は、これらの価値を認めて、それを大事に保存してくれる人たちに提供することにしたのである。」
 マドレーヌ・シャプサルは1925年パリで生まれた。母は有名なオートクチュールのデザイナー、父は高級官僚だあった。22再のときジャン=ジャック・セルヴァン=シュレヴェールと結婚。1953年に夫が知識人を読者に持つ週刊誌「レクスプレス」を創刊したのをきっかけに、文芸ジャーナリストとして参加し、以後25年にわたって同誌に記事を書いた。 
 こうした取材の過程でシャプサルの手元に保存された作家の自筆原稿、手紙、あるいはインタビュを録音したテープなどが、コレクターの手に渡ることになった。プレヴェールのコラージュが売り出しから1年以上たった今まで残っていたのは奇蹟のようなものである。
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by monsieurk | 2014-12-21 22:30 | 収穫物 | Trackback | Comments(3)

旅行案内書「ベデカー」

 最近、旅行案内書「ベデカー」を2冊、手に入れた。1冊はフランス語版の『パリとその周辺』、もう1冊は英語版の『南フランス』で、いずれも1914年発行の版である。第一次大戦で被害をこうむる以前のフランスの様子を知る上で、格好の資料である。
 『パリとその周辺』の序文の冒頭には、次のように書かれている。
 「われわれの旅行案内『パリとその周辺』は、1865年に初版が出版されたが、読者に実用的かつ信用できる案内を提供するのを目的としている。これによって時間と費用を節約しつつ、この街の主な観光場所を見てまわることが可能となる。景観の変化を考慮するだけでなく、案内書の客観的価値を高めるために、美術館や権威ある人たちの協力を仰いだ。それでも蒐集品の多くが更新され、バス、路面電車などの変更も頻繁に行われるため、完全な正確さを期すには、出版直前まで内容を見直しても十分ではない。」
 「ベデカー」はその名の通り、ドイツの作家で編集者のカール・ ベデカー(Karl Baedeker、1801-1859)d0238372_1181596.jpgが創刊したもので、第二次世界大戦までは、ヨーロッパでもっとも利用された旅行案内書だった。カール・ベデカーは最初、イギリスのジョン・マレーが出版した『大陸案内』をドイツ語に翻訳し出版していたが、やがて独自の方法で案内書をつくることにした。その最初が『ライン川案内』(1836年)であった。
 その後ベデカーはヨーロッパの主な地域の旅行案内書を、ドイツ語、フランス語、英語で次々に刊行した。ある書誌研究家の調査によれば、1842年から1944年の間の出版件数は、ドイツ語版447冊、フランス語版226冊、英語版266冊に上るという。d0238372_1193341.jpg
 創業者のカール・ベデカーが1859年に亡くなると、事業は三男のフリッツに引き継がれ、所在地もコブレンツからライプツィヒに移された。それでも持ち運びに便利な旅行案内として、コートのポケットに入るサイズ(8折り判、縦16・0×横11・5cm)や赤色の表紙、天、地、小口をマーブル模様に染めた形態は終始変わらなかった。
 「ベデカー」はいち早く日本にも輸入されて、洋行する人たちに重宝された。1900年(明治33)、文部省給費生としてロンドンに留学した夏目漱石、1913年(大正2)年に恋愛事件から逃れるようにパリへ渡った島崎藤村、1921年(大正10)精神医学を学ぶためにベルリンへ出かけた齋藤茂吉などは、滞在する都市の「ベデカー」を携えていた。漱石は渡欧してくる友人茨木清次郎に宛てた手紙(1901年12月18日付け)で、旅装や下宿の探し方を箇条書きにしてアドバイスしているが、そのなかに「ベデカーの倫敦案内は是非一部御持参の事」と書いている。彼らはみなベデカーの旅行案内を片手に、見知らぬ街を歩きまわったのである。
 1914年版の『パリとその周辺』に戻れば、市内の交通機関として、地下鉄、バスと並んで、路面電車(tramway)が出てくる。路面電車は1855年からパリ市内を走っていて、時代ととも動力は、馬車、蒸気機関、圧搾空気、電力と進化したが、市民や観光客の足として大いに利用されたが、1938年に姿を消した。公共交通機関としてはセーヌ川を行き来する船(bateau-omnibus)が2路線あった。1つはシャラントンとオトゥーユを結び、もう1つはテュイルリーとシュレーヌ間を運航していた。「ベデカー」によれば、利用者は船内で料金をはらい、鉄製の白いコインを受け取って、下船のときにそれを返す仕組みだった。料金は路線により異なるが、シャラントン~オトゥーユ間は、夏が20サンチーム、冬は10サンチームだった。寒い冬に船を利用する客は割引料金で乗れたのだろう。このセーヌの足は1900年のパリ万国博覧会のとき、多くの外国人観光客が利用しものだが、やがて他の交通機関の発展とともに廃止されてしまった。
 『パリとその周辺』には16枚の地図と、市街を細かく表示した図39枚、それに地下鉄やバスの路線図がついている。旅行者はこれらを頼りに目的地を探し出せるのだが、この正確な地図を利用したのは旅行者だけではなかった。
 第二次大戦中の1942年4月から5月にかけて、ドイツ軍はイギリスのカンタベリー、ヨーク、バース、エクセターを空爆した。これは連合軍によるリューベック爆撃への報復とされるが、このときドイツ軍が爆撃の目標として選んだのは、軍事施設ではなく、ベデカーの『イギリス案内』に載っている星印のついた名所旧跡だった。それを破壊することでイギリス国民の戦意を挫くのが目的だったことが、戦後のニュルンベルク裁判で明らかにされ、イギリスはこれを「ベデカー爆撃」と呼んで非難した。それほどベデカーの記述は正確だったのである。
 19世紀中葉から20世紀初めのフランスを研究テーマとする私などにとって、世の中の様相が一変した第一次大戦以前の「ベデカー」は貴重な資料である。
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by monsieurk | 2014-06-20 22:29 | 収穫物 | Trackback | Comments(0)
 神田神保町で催された秋の古本祭りで、イヴ・モンタンが行ったリサイタルのパンフレットを落札した。表紙は黒シャツ、黒ズボン姿の若いモンタンが舞台上で飛び跳ねている写真で、両手、両足を広げ、口も大きくあけて何かを叫んでいる。そこに“très amical Y Montand”と自筆のサインがあり、裏表紙にはジャック・プレヴェールの詩が印刷されている。この詩は現行のPléiade版2巻本全集では、“Un rideau rouge se lève devant un rideau noir(黒い幕の前で赤い幕が上がる)・・・”と題されている長い詩の後半部分で、元のタイプ原稿では、そのものずばり“Yves Montand”というタイトルがつけられていた。
 詩の前半部分では、

  この大きな青年は、活発で、率直、そして明晰
  男らしく、優しく、愉快で、
  もうイヴ・モンタンと名乗っていた
  さてさて彼の心に死の影はなく
  死がこの肉体には何が隠されているのかと問う暇さえない
  それとも死の方が一目惚れしてしまったのか

 と、モンタンが紹介されたあとで、パンフレットに掲載された後半部分が続く。

  彼女(死)は立ち上がり
  もう一度倒れこむ
  今度は男の腕の中
  でも男はそこにじっとしていない
  彼は舞台に登場するや
  もうホールの
  観客たちのまっただなかにいる
  彼はあらわれるとすぐに
  ロマンスを踊らせる
  そしてたちまち
  ロマンスも彼も
  観客の心もどこか他所へとんでいく
  気晴らしのためでなく
  高くついた単調な一日に
  とどめの一撃を加えようと
  劇場にやって来た
  常連や玄人の
  一番疑り深い者の
  心さえ惹きつける
  ・・・・・
  彼は人魚や小魚たちのために歌う
  気取らない美しい声で
  簡単なエコーをつけて
  それが彼を喜ばせ
  それが彼を歌好きにする
  空と地を動員し
  足と手を動員する
  こうして
  突如実現した豪奢な催眠術で
  横になった観客たちの
  長い列車を牽引する彼は機関士なのだ
  それで
  観客たちは
  「ユーモア」と
  晴れと雨と
  幸福と不幸と
  若さと人生と
  そして「愛」の
  時刻表の通りに
  旅へといざなわれる

 ジャック・プレヴェールがイヴ・モンタンと出会ったのは、彼がシナリオを書き、マルセル・カルネが監督した映画『夜の門』(Les Portes de la nuit)に、彼を主役に抜擢したときだった。映画は最初、ジャン・ギャバンとマルレーネ・ディートリッヒの共演で撮影されるはずだったが、プレヴェールが当初の内容を変更して、対独協力者とレジスタンスの男の対決というテーマにしたために、ディートリッヒが出演を断り、ギャバンも彼女に同調したために、新たな主役を探さなくてはならなくなった。そのときプレヴェールとカルネが目をつけたのが、ミュージック・ホールで人気の出はじめていたイヴ・モンタンだった。
 映画は1946年9月に撮影が終わり、12月2日月曜日にマリニャン映画館で封切られたが、評判と興行成績は散々だった。落ち込むモンタンを、プレヴェールは、「心配するなよ、うまくやったぜ」と言って慰めたという。このときからモンタンは飾らないプレヴェールに私淑し、プレヴェールは歌手モンタンの実力を高く評価した。
 入手したパンフレットは、おそらく1950年代に「オランピア劇場」で開かれたリサイタルのときのものと思われる。パリのキャピュシーヌ大通りにある「オランピア劇場」はミュージック・ホールの殿堂で、パンフレットによると、モンタンはこのとき第1部、第2部で全24曲を歌っている。そのうちプレヴェール作詞のものは、「愛し合う子どもたち」、「ブロードウェイの靴磨き」、「枯葉」、「バルバラ」の4曲。このほかに「画家、リンゴそしてピカソ」という詩を朗読している。
 「愛し合う子どもたち」と「枯葉」は映画『夜の門』の主題歌だったが、モンタンの期待にもかかわらず、映画のなかでは歌うことができなかった因縁の曲である。そのときから数年して、プレヴェール作詞コスマ作曲のシャンソンは、「バルバラ」を含めてモンタンの代表的な持ち歌となった。
 モンタンは1968年のオランピアでのリサイタルを最後に歌手活動を停止し、俳優業に専念した。そのモンタンが再びオランピアの舞台に立ったのは、1981年10月のことである。じつに13年振りの舞台に世界中から観客がつめかけたが、私は幸い切符を手に入れることができた。
 満60歳のモンタンは以前と同じように、黒シャツ黒ズボンで舞台に立った。その声はまったく艶を失っておらず、円熟味を増していた。このときの舞台は、かつて2枚組みのLPレコード“Y. Montand――Olympia 81”(Philips、レコード番号25pp40/41)に収録されて出ていたことがある。そのうちの一つ“A bycyclette(自転車乗り)”は、いまYouTubeで見ることができる。
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by monsieurk | 2011-11-09 12:33 | 収穫物 | Trackback | Comments(0)