フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30

カテゴリ:漢詩( 4 )

元政 (2)

 妙顕寺の日豊上人のもとで剃髪した元政は修行にはげみ、4年後の明暦元年(1655)の秋に、洛南深草の旧極楽寺薬師堂跡に小さな庵をむすんで、『法華経』の研究と宗議の解明につとめた。「称心庵」と名付けた庵では、1歳年下の日可が仕えた。そして九条村に住んでいた父母を近くに迎えて孝養をつくした。『艸山集』巻十七の「偶成」は、こうした状況を述べた詩である。
  
  携親霞谷共藏身  親を携えて 霞谷にともに身をかくす
  一鉢雖空心不貧  一鉢むなしといえども 心貧ならず
  猶有詩魔來得便  なお詩魔の来て便を得るあり
  曾無酒障自傷神  かつて酒障の自ら神を傷むるなし
  養痾幸臥北堂下  痾を養いて幸いに北堂の下に臥す
  開巻又逢西竺人  巻を開いてまた西竺の人に逢う
  夜深夢醒推枕看  夜ふけ夢さめて 枕をおしてみれば
  窓燈始滅月痕新  窓燈はじめて滅して 月痕あらたなり

 物質的には質素な生活だが、心は決して貧しくはなく、それどころか充実していた。修行の日々の合間には、詩神がインスピレーションを授けてくれることもあった。さらに経典を開いて読めば、そこでは遠い唐天竺の先人の僧たちに出会うこともできた。
 元政はもともと蒲柳の質だったが、修行を重ねることで肉体が衰えていくことは悲しかった。結核性の疾患がさまざまな形で身体の各所にあらわれてきた。頭痛に襲われ、風邪をひき、腹痛を覚え、気鬱にもなった。吐血し、歩行も困難となって苦しむこともあった。それでも彼は薄い麻衣をまとい、乾した野菜や豆腐を珍味として、戒律きびしい生活を送った。
 深草の庵は静かに修行をするための場所だったが、やがてその徳を慕って一般の民だけでなく仏教をこころざす若い僧も多く集まるようになった。『艸山要路』はそうした門下生にために書かれた行学の指針で、十個の条約をもって風規をさだめて信仰の道をしめした。元政は深草の地を艸山とも称していたのである。
 彼は病弱をおして多くの著書をあらわした。『元元唱和集』、『艸山集』、『艸山要路』のほかに、信仰に関するものとしては『如来秘蔵録』、『本朝法華伝』三巻、さらに『大智度論』、『法苑珠林』の校訂などがあり、多くの和歌を収録した『艸山和歌集』も名高い。

 寄夢無常
  このよをはうつゝになしてたれもなをまくらのゆめをゆめとみるらん

 遠村蚊遣火
  かやりひのけふりたてすはゆうまくれありともみえしやまもとのさと

 和歌のこころも性霊論の基づく漢詩と違いはない。『艸山集』三十巻に収められた詩は千五十一篇にのぼるが、手元にはこれを参照するのに便利な本がある。それは姉崎正治博士が編纂した『彙編艸山詩集』全二巻(平楽寺書店、昭和18年)で、元政の詩をテーマ別に分類している。項目は、「信行篇」、「回向篇」、「孝心篇」、「病身篇」、「閑居篇」、「雅懐篇」、「吟行篇」、「四季篇」、「物象篇」、「礼讃篇」、「身延行記」となっていて、そのうちの「物象篇」には、身近な事物を詠ったユニークな作が集められている。

 蠅

 八月尚残暑  八月 なお残暑
  蠅飛満屋宇  蝿とびて 屋宇にみつ
  鉢盂揮不去  鉢盂 はらえども去らず
  几格遂亦聚  几格おいて またあつまる
  因懐費智謀  よっておもう 智謀をついやし
  盡籠放遠浦  ことごとく籠めて 遠浦〔遠い水辺〕に放たんことを

 蚊

  清夜殷々又轟々  清夜いんいん又ごうごう
  帳中夢醒心忽驚  帳中 夢さめて 心たちまち驚く
  起吹燈火上短棨  起きて燈火を吹きて 短棨にのぼす
  満窓如塵不分明  満窓ちりの如くにして 分明ならず
  開戸萬里河漢清  戸を開ければ 萬里河漢きよし

 第三句の「棨」は灯火、短くしておいた灯心を上げた、第五句の「河漢」は天の川の意である。蚊の羽音を蚊雷(ぶんらい)といったりするが、元政の詩は、耳のそばでする蚊の羽音はまるで雷のように響き、夢を破られて、やむなく明かりをつけて窓をあけると、空には満天の銀河がかかっていたというのである。(注)
 そして

 硯 

  片石鑿來開面門  片石うがち來りて面門を開く
  一時吐出數千語  一時に吐出す 數千語
  直将大海傾翻去  直に大海をもちいて傾翻し去る
  満耳潮音本妙論  満耳の潮音 もと妙論

 「雲」と題した多くの作品の一つ――

  來往従風變幻新  來往風にしたがいて 変幻あらたなり
  天衣片々絶繊塵  天衣片々せんじんを絶す
  無心出岫無心去  無心にしてしゅうを出で 無心にして去る
  渠亦飄然世外人  かれも又ひょうぜんたる世外の人

 竹を詠った三篇。

  虚心抱節掃塵氛  虚心節をいだきて じんふんを掃う
  吾識王猷愛此君  吾はしる 王猷がこの君を愛することを
  日暮揺々天色合  日暮ようようとして 天色合す
  只看平地起青雲  ただみる 平地に青雲を起すことを

  自有世界來  世界ありてよりこのかた
  即已有此竹  即ちすでにこの竹あり
  自有此竹來  この竹ありてよりこのかた
  此葉終不禿  この葉ついに禿せず

  我觀竹之心  我れ竹の心をみるに
  艸木之空者  草木の空なる者なり
  我觀竹之形  我れ竹の形をみるに
  幽人之友也  幽人の友なり

 元政はことのほか竹が好きだった。彼は寛文八年(1668)2月、46歳でなくなるが、死期を悟ると弟子に遺誡をあたえ、辞世の一首を残し、遺言によって称心庵の南に葬られた。墓は土饅頭の上に竹を三本立てただけのもので、竹を墓碑の代わりとした。
京都に住んでいたころ深草に友人がおり、京阪電車に乗って深草を訪ねた折はよくこの墓にお参りした。現在は瑞光寺の境内の真ん中をJR奈良線が横切っていて、境内から墓へ行くには、線路の下のトンネルを潜らなくてはならない。石垣に囲まれた墓には、いまも三本の細竹が植えられている。ただ周囲はかつて竹が原とも呼ばれたころの面影はまったくなく、すぐ後ろには青い屋根瓦のマンションが建ち、そのかたわらは駐車場となっている。

(注) 朝日新聞の「天声人語」で、蚊については、子規に次のような戯文があることを知った。「汝の一身は総てこれ罪なり、人の血を吸ふは殺生罪なり、蚊帳の穴をくぐるは偸盗罪なり、耳のほとりにむらがりて、雷声をなすは妄語罪なり・・・」。出典をご存知の方はお教えいただきたい。
[PR]
by monsieurk | 2011-12-04 09:00 | 漢詩 | Trackback | Comments(1)

元政(1)

 思い返してみると、中村真一郎氏に初めてお目にかかったのは、1979年秋のことであった。大学の同期で岩波書店の編集者だった野口敏雄氏に連れられて、東京港区青山の仕事部屋を訪ねたのだった。中村氏は熱海に自宅があり、仕事や東京での用事のために青山にもマンションをもっていた。訪問の目的は、すでに書きあげていたステファヌ・マラルメに関する原稿を見ていただき、出来ればどこかの雑誌に発表する仲介をお願いするためだった。野口氏が、「それなら中村真一郎さんに頼んでみようと」連れていってくれたのである。中村氏はその場で目を通し、すぐに青土社の「ユリイカ」に推薦してくれた。こうして原稿は『ユリイカ』1979年11月号の「マラルメ特集」の一篇として掲載された。「『芸術の異端、萬人のための芸術――マラルメ世界の誕生』(同誌、pp.146-157)がそれである。
 このときの話で強く印象に残っているのは、東大のフランス文学科の授業は本来研究者を育てるために行われるべきなのに、いまはそれが行われていないと強く批判されたことだった。ネルヴァルの研究者・翻訳者としてデビューされながら、36歳のとき東大と明治大学の講師を辞して、作家生活を選んだことへの複雑な気持を垣間見る思いがした。
 もう一つは、『雲のゆき来』(筑摩書房、1966)がもっとも好きな作品で、ぜひフランス語で出版されるといいと思うと伝えると、自分としても会心の作の一つだといって嬉しそうな顔をされたことである。
 『雲のゆき来』は、著者が江戸初期の僧侶・詩人、元政(1623-68)を探求する経緯と、友人の紹介で偶々知り合った新人女優、楊嬢(マドモワゼル・ヤン、父はドイツ人の学者で母は中国人という設定)との道行きがない交ぜになって進行する物語である。
 著者が元政の名前を知ったのは30年も前に読んだ芥川龍之介の本だった。その漢詩集をあらためて読んで興味を惹かれる。
 「彼のどれも似たような詩句を、次つぎと読み進めているあいだに、私はいつのまにか、単純で自由な不思議な快い世界へ、自分の心が運ばれて行っているのに気がついた。それは確かに「詩的体験」だった。――・・・詩的体験とは言葉の響きと映像との調和が読者の心のなかへ生まれさせるひとつの夢だろう。そして元政上人は三世紀後の一文士の或る夜の心のなかに、確実に言語によって別世界を開いてくれたのだ。」(同書、15頁)
 元政(げんせい)は出家前の名前を石井元政(いしい・もとまさ)といった。石井家は九条家に仕えた地下官人の家柄だったが、元政の兄が彦根藩に出仕し、姉も藩主の側室になったことから、元政自身も十三歳のときに彦根藩士となった。しかし二十六歳のときに思うところがあって出家し、日蓮宗の僧侶となった。その後、洛南の深草に隠棲して瑞光寺を建て、仏道に精進するとともに多くの詩文を著して、その名は広く知られるようになった。
 遺稿の詩文集『艸山集』巻十六に、次のような詩がある。

  愛山又出門  山を愛しまた門を出ず
  投杖倚松根  杖を投じて松根による
  秋水界平野  秋水 平野をさかいし
  暮煙分遠村  暮煙 遠村をわかつ
  露昇林際白  露昇りて 林際白く
  星見樹梢昏  星見えて 樹梢くらし
  自覚坐来久  おのずから覚ゆ 坐して来ることの久しきを
  蒼苔已有痕  蒼苔 已に痕あり

 元政がある日の夕暮れ時に瑞光寺の山門を出て、近辺を散歩したときの情景だが、同時にそれは自の来し方をかえりみた感慨ともなっている。
 『雲のゆき来』の語り手は、元政のこうした詩を読んだ感想を次のように述べている。
「平明で目立たないような表現が静かに次つぎと眼の下を流れ過ぎて行く間に、そのたゆまぬ囁くような響きが、心を優しく慰めてくれる、そういう喜び、とでも云ったら、幾分か私の体験の性質を伝えることになるかも知れない。そして、その響きには独特の山林の気のようなものがあり、人気のない谷間の道を、遠い陽に照らされながら、どこまでも同じように風景の続くなかを歩いているのに似た快感といったら、更に私の感動の性質に近付くような気がする。」(同、17頁)
 元政は意図して平明な言葉で身辺の情景や感慨を詠ったが、そこには帰化人で詩人の陳元贇の影響があった。元政は37歳の万治2年(1659)に、前年亡くなった父親の遺骨を納めるために、79歳の母を連れて身延山詣での旅にでた。その途次、次姉の嫁ぎ先であった尾張藩士川澄氏のもとで、尾張藩に使えていた陳元贇と出会った。旅の様子を記した『身延道の記』には、八月十五日に、川澄の家を訪ねたことが、「夜なかばかりに。名古屋のゆかりのもとに。門うちたゝきてみる。みなよろこぼひていねすなりにけり」と書かれていて、その翌日、
 「十六日。ひたけておく。けふはこゝにやすみてといへは。つれ〱なぐさめにと。明人元贇をよぶ。やかてきたりぬ。このくにゝ年へて。言葉よくかよへり。いとめづらいき物がたりして、太祖の事などくづし出たり。皇明通紀をよむこゝちす。我名をとふを。元政といへば。わが兄弟なりとたはふる。」(『深草元政集』第一巻、98-99頁、古典文庫、1977)と記されている。両者の名がともに元ではじまることから「私たちは兄弟だ」と元贇が冗談をいったのである。このとき元贇73歳、元政37歳だった。
 こうして交友がはじまり、二人は京都と名古屋の間を幾度か往復して、四年後には両者が唱和した詩を集めた『元元唱和集』が版行された。そこに収録された五言古詩「李梁谿ガ酒ヲ戒ムルの詩ヲ和ス」の序に、「蓋シ性霊ヨリ流ルル者ハ徳有ルノ言也。模擬ヨリ出ル者ハ必ズシモ徳有ラザルノ言也。性霊ヨリ流ルル者ハ整斉ナラズト雖モ痕ナシ。模擬ヨリ出ル者ハ是レ整斉ナラズト雖モ未ダ必ズシモ痕ナクバアラズ。」(『詩集日本漢詩』第十三巻、370頁、汲古書院、1988年)と説かれている。
 ここでいう「性霊」とは精神を指すが、「模擬」と対比されていることから、真似ではない自分の心の純粋なあり方の意味に用いられている。その根拠としてもう一文をあげれば、『艸山集』巻二の「南紀の澄公に復する書」では、「余、細かに公の此書を読むに、皆な性霊より流る。模擬より出る者に非ず。」とあって、その後に同じ文言が繰り返され、そして、「余、文章を知らずと雖も、此二つの者において、暗中に模索しても亦た知りぬ可し。何となれば言は即ち心の跡なり。跡に因つて心を求むれば、中〔あた〕らずと雖も遠からじ。此に由つて之くを言へば、文章を好む者の道徳を本とせずして、徒らに古人の唾餘を拾うて以つて巧みを得たりと為るは、恥づべきの甚だしきなり。」(同書、50頁)と敷衍されている。
 元政は陳元贇と交際するなかで、明の詩人、袁中郎(袁宏道、1568-1610。三兄弟の真ん中なので中郎と称せられた)の存在を教えられて、その詩集『袁中郎詩集』を読み、袁が説く「性霊説」の詩論を知ったのである。
 袁中郎は、兄の宗道、弟の中道とともに「三袁」と呼ばれた優れた詩人で、彼らは王土視の神韻説や沈徳潜の格調説に対抗して「性霊説」を唱えた。明の時代には、詩の格調を重視して盛唐の詩を模倣する擬古的な詩論が流行していた。これに対して袁中郎たちは、詩で大切なのは詩人の心の霊妙な働きであって、格調などという外的表現形式を模倣することではない。性情の自由な流露と自然な表現を尊ぶことこそが詩作の要諦だと主張した。
 元政がどれほど『袁中郎全集』に熱中したかは、『艸山集』の巻十四、「燈に対す」で次のように述べていることからも分かる。
 
  病來耿不寐  病來 耿として寐られず 
  対燈背佳月  燈に対して佳月に背く
  臥読袁中郎  臥して袁中郎を読み
  欣然摩短髪  欣然として短髪をなでる
  影暗呼添膏  影暗くして呼びて膏〔あぶら〕を添うれば
  灼々花新結  灼々として花新たに結ぶ
  (後略)
 
 消えそうになった燈に油をつぎ足し、燈火を明るくして、寝ながら夜通し『袁中郎全集』に読みふけったというのである。こうした読書が元政本来の詩精神と呼応して、身近なものを自在に詠う、それまでなかった詩興を誕生させた。
 例えば「清貧」と題した詩。

  濁界人皆苦  じょく界 人みな苦しむ
  清貧我獨安  清貧 われひとり安し
  竹風堪避暑  竹風 暑さを避くるに堪え
  柴火足防寒  さいか 寒をふせぐに足り
  放志太空窄  志を放てば 大空せまく
  容身一榻寛  身をいれるに 一榻〔とう、寝台〕ひろし
  糟糠猶不厭  糟糠 なおいとはず
  百味盡盈盤  百味 ことごとく盤にみつ
  
 元政の生涯は17世紀前半、徳川幕府の基礎が固められた時期にあたるが、世紀を同じくする漢詩人たち、祇園南海、新井白石、荻生徂徠、服部南郭たちが専ら唐詩を手本にしたのに比べるときわめて異質である。それはやがて来る18世紀の、菅茶山、市河寛斎、柏木如亭といった日常的リアリズムを重視する詩人たちの先駆であり、江馬細香もまたその驥尾に付した存在だった。
[PR]
by monsieurk | 2011-11-30 00:42 | 漢詩 | Trackback | Comments(2)

細香の恋愛詩(2)

 頼山陽は安永9年12月27日(1781年1月21日)に広島藩の儒学者、頼春水の子として大阪で生まれた。2歳のときに父が故郷広島藩に儒者として召抱えられたために、広島へ移った。
 山陽は幼い頃から詩文の才があり、歴史に興味をもつ少年だった。その後、父春水が江戸在勤になると、叔父の頼杏坪について学び、18歳の時江戸へ遊学した。広島に帰国した寛政12年(1800年)9月、突如として脱藩をくわだてて上洛したが、追ってきた杏坪に発見されて連れ戻され、廃嫡された上に自宅に幽閉された。彼が育った家は広島市中区袋町に現存し、幽閉されていた部屋もそのまま残されている。ここはいま「頼山陽史跡資料館」として公開されている。
 この幽閉で山陽は学問に目覚め、3年間は著述に専念した。『日本外史』の初稿ができたのはこのときで、以後20年の歳月をかけて文政10年(1827年)に完成することになる。
 山陽は謹慎を解かれた後、父春水の友人であった菅茶山に招かれて、茶山が岡山に開いていた廉塾の塾頭となった。文化6年(1809年)、山陽30歳のときである。そして32歳で上洛して京都に居を構え、そこで塾を開いた。細香が山陽に出会ったのはそれから4年後のことである。
 山陽のところは一種のサロンの様相を呈していた。細香は7度上洛して、直接彼の教えをうける機会を得た。京都滞在はたいてい半月から1カ月におよび、詩酒の会や花見、紅葉がりの吟行に同行した。

 「砂川ニ飲ミ、賦シテ山陽先生ニ呈ス」と題した詩は、そんな一日の様子を描いたものである。

  好在東郊賣酒亭  好在なれ 東郊の売酒の亭
  秋残疎雨撲簾旌  秋 残して 疎雨 簾旌をうつ
  市燈未點長堤暗  市灯 未だ点ぜず 長堤暗く
  同傘歸來此際情  同傘 帰り来る この際の情

この詩については、中村真一郎氏が、 M. Vigden夫人が1981年にロンドンで行われたシンポジウム「江戸文化とその近代の遺産」に際して翻訳した英文を紹介している。

  A little drink enjoyed in the east of the town;
Windy rain of the late autumn
hitting the blinds and banners.
City lights were still unlit,
and the lanterns dark
We shared an umbrella all the way――
    such tenderness! (中村真一郎『江戸漢詩』、281頁)

 細香の詩はすぐにも英訳できるほど近代的色彩の強いものであることが分かる。なお、夫人は「長堤暗」を、“and the lanterns dark”としているが、郊外に遊んでそこで見つけた酒亭で飲んだ後、小糠雨の中、暗い堤を相合傘で戻ってくるという、時間の経過が表現されていないきらいがある。これは表徴的な漢語と英語の差なのだろうか。あるいは夫人は、「堤」の字を「提」と混同して、「二人が提げている提灯が暗く」と解釈したのであろうか。
 この遊山は文政7年9月15日のことで、山陽の門人木村力山の招待で行われたものだったという。これには山陽夫妻とともに山陽の母も同行していた。しかし詩では、山陽夫人や母親の姿はみごとに消されてしまっている。これは単に修辞上の処理だけではないようである。
 次は山陽との別れを詠った詩。

 唐崎松下拝山陽先生(唐崎の松下に 山陽先生に拝別す)

  儂立岸上君在船  われは岸上に立ち 君は船にあり
  船岸相望別愁牽  船と岸と 相い望みて 別愁ひく
  人影漸入湖煙小  人影 漸く湖煙に入りて 小さく
  罵殺帆腹飽風便  罵殺す 帆腹 風に飽きて便たるを
  躊躇松下去不得  松下に躊躇して 去ることを得ず
  万頃碧波空緲然  万頃の碧波 空しく緲然たり
  二十年中七度別  二十年中 七度の別れ
  未有此別尤難説  未だ有らず この別れのもっとも説き難きは

 唐崎は琵琶湖の西岸にある岬で、ここには一本の松があり、その下に唐崎明神が祭られていた。「罵殺帆腹飽風便」は、船が帆に追い風を一杯にはらんで走るのを見て強くののしった、という意である。細香を唐崎まで送った山陽たちは、ここから大津へ向う船便で引き返し、細香は彼らを見送った後、徒歩で琵琶湖畔を北上して、堅田から対岸の木浜へ渡ったと考えられる。いま琵琶湖大橋がかかっている付近に、湖東と湖西をつなぐ渡船があったのである。そしてこの唐崎での別れが二人の今生での最後となった。
 頼山陽は天保3年(1832年)に53歳で亡くなった。細香46歳のときである。
 細香はその後も詩作を続けたが、晩年の作には衰えを詠ったものが多くなる。

 丙辰冬杪余嘔血若干合戯有此作(丙辰冬杪 余 嘔血すること若干合 戯れに此の作有り)

  嘔血歳残慿枕時  嘔血す 歳残 枕による時
  只憐病状似先師  ただ憐れむ 病状 先師に似たるを
  人間司命冥官録  人間 司命 冥官の録
  無用如吾毎被遺  無用 われの如きは つねにわすれらる

 「冬杪」は冬の終わり。「司命」は人の生死を支配するもの、そして「冥官録」とはあの世の名簿、閻魔帳である。細香の喀血は動脈硬化が原因だったとされるが、病状が慕っていた山陽に似ていることをむしろ喜んでいたのである。彼女が亡くなったのは文久元年(1861年)9月4日の早朝、75歳だった。

  吾年七十四  わが年 七十四
  情味冷於灰  情味 灰よりも冷ややかなり
  無病身仍痩  病い無きに 身はなお痩せ
  綿衣欲窄裁  綿衣 せまく裁たんと欲す

 細香は生涯独身を通した。
[PR]
by monsieurk | 2011-11-27 09:54 | 漢詩 | Trackback | Comments(0)

細香の恋愛詩 (1)

 前回、マラルメの「白い睡蓮」で、橋の上にいる夫人を詩人が舟から眺める場面を紹介したが、夫人ははたして、詩人の存在に気づいていなかったのだろうか。
 小林太市郎氏の解釈はこうである。「「白蓮」についてはなお言うことがすこしある。それはあのばあい、下から詩人がじっとのぞいていることを、夫人はよく知っていたにちがいないことである。知っていて、かの女もまたかれとおなじように息をころして、裾をひろげていつまでもじっと立っていたのである。それはかの女としてもたのしかった。そしてうごくことによって、すなわちじぶんと彼とを行為の世界のなかで出会わせることによって、その純粋無垢のなんともいえぬたのしさを打ちこわすことを、かの女もまたおそれたのである。・・・すなわち二人は言わずかたらず黙契して、たがいに粗大な行為に出る具をあえてせず、身体ははなれたまま、それが接する以上の微妙にふかい楽しみにじっとひたっていたのである。」(小林太市郎全集第1巻、87-88頁)
 小林氏の想像が正鵠を得ているか否かは別にして、マラルメの散文詩とは逆に、男女の直接的行為を詠った詩に次のようなものがある。

  雲鬂髤鬆亂欲飛  
  花簪錯落散珠璣
  柔肌應是嫌些隔
  閑却盈盈一架衣

 秋田藩の家老だった匹田松塘の詩集『竹枝詞三十首』の中の一首で、『竹枝詞三十首』の成立については、中村真一郎氏が『江戸漢詩』(岩波書店、1985年)で紹介している。
 「当時、秋田藩に非常に文化的な家老、匹田松塘(1779-1833)がいて、・・・その松塘大夫が或る年、江戸藩邸で病臥していると、看病していた若侍たちが、御家老が眠っていると思って、「娓々トシテ、狭斜猥褻ノ事」を話し合った。若者らしい猥談で夜の閑つぶしをしたのである。すると狸寝入りをしていた松塘は、翌日、早速、その前の晩の若侍たちのお喋りを「竹枝詞三十首」に作って、彼等に見せた。「衆、皆、慚懼驚愕ス」。それがやがて評判になり、物好きが出版しようということになった。」(194頁)
 ところでこの詩のどこが「皆を慚懼させる」ほど猥褻なのか。解は最後にとっておくことにする。
 中村真一郎氏の『江戸漢詩』は、漢詩が隆盛をきわめた江戸時代の代表的な漢詩人の作品を取り上げて紹介した好著で、この本をきっかけに江戸漢詩への関心が起り、岩波書店は1990年から93年にかけて『江戸詩人選集』全10巻を刊行した。選集に取り上げられたのはみな男性詩人だが、中村氏は同書でこう書いている。
 「近世後期における学芸の普及は、多くの女性の知識人をも生み出すに至った。・・・全国各地に結成された学芸団体では、どこでも女性がその主要メンバーとして活躍していた様は、たとえば美濃の詩の結社の白鷗社の集りの情景のスケッチが、今日まで残っているが、それを見ると若い女性の江馬細香が、男性たちに伍して堂々たる態度で、詩を語っている姿が目立っている。」(221頁)
 江馬細香は天明7年(1787年)4月、美濃国安八郡藤江村(現岐阜県大垣市藤江町)で生まれた。父の江馬蘭斎は大垣藩の藩医であった。蘭斎は杉田玄白に『解体新書』の講義をうけた蘭医で、自宅に蘭学塾の好蘭堂を開いて多くの門弟を教えた。そのかたわら当時の知識人の常として詩作を好み、細香にも幼いときから読み書きや詩作の手ほどきを行った。細香は墨竹画と漢詩の修得にはげみ、その詩が当時の漢詩集に紹介されるまでになった。
 江馬細香の生涯と作品については、門玲子氏の長年の研究に負うところが大きい。門氏は研究の成果を、まず評伝小説『江馬細香』(1979年、卯辰山文庫)にまとめ、ついで細香の現在残されている漢詩348篇すべてを訳注を施した上で、漢文学の専門家、故入谷仙介教授の監修のもとに、『江馬細香詩集「湘夢南遺稿」』上下巻(汲古書院、1992年)として刊行した。
 細香の人生に大きな転機が訪れたのは文化10年10月、彼女が27歳のときである。美濃を遊歴中だった頼山陽がある日江馬蘭斎のもとを訪れ、細香と会い、二人の間に恋が芽生えた。これより前、山陽は美濃滞在中に細香の詩を読んで、蘭斎に宛てた手紙で、「才情驚入候・・・柔艶之趣有之堪感吟仕候」と褒めていた。蘭斎はさっそく娘を山陽に入門させたのである。
 山陽はしばらくして結婚を申し込んだが、蘭斎はこれを断ったといわれる。その理由は分からない。山陽は細香との結婚をあきらめて他の娘を嫁にしたが、二人の間の関係はその後も続いた。細香は詩稿がある程度まとまると、それを京都の山陽のもとへ送り、山陽からは朱筆で添削し、批点、圏点をほどこし、評を書いたものが送り返されてきた。
 たとえばその一つ、

 夏夜

  雨晴庭上竹風多  雨晴れて 庭上 竹風多し 
  新月如眉繊影斜  新月眉のごとく 繊影斜めなり
  深夜貪涼窓不掩  深夜 涼をむさぼり 窓をおおわず
  暗香和枕合歓花  暗香 枕に和す 合歓の花

 一読して情景が目に浮かぶ詩だが、そこに若い女性らしい艶冶な色気が感じられる。それはもっぱら第四句から来ていて、どことも知れぬ暗闇の中から、寝もやらずじっと頭をのせている枕辺に花の香が漂ってくるというのである。しかも花は「合イ歓ブ」と書く「ネムの花」。なんとも艶めかしい詩興である。
 山陽はそれを十分に分かっていながら、「窓不掩」の脇に、「不養生ナルヘシ」と書いて寄こした。照れくさかったのであろうか。そして末尾には、「合歓ハ夏開候カ、僕ハ春ノ詩ニ作申候、朱実候ニヤ、猶御シラヘ可被下候、白陸ノ詩ニハ春カト覚申候、覚違ニヤ」と朱で注が書かれていたが、これは山陽の思い違いで、合歓の花は夏に咲き(フランスの家の庭の合歓が夏に花をつけたのは、以前写真で紹介した通りである)、俳諧でも夏の季語となっている。
 細香は古典にもよく通じていた。とくに『源氏物語』は彼女の愛読書だった。そこからこんな詩が生まれた。

  衆艶一時難併開  衆艶 一時に併せて開きがたし
  葵花忽被妒風摧  葵花 忽ち 妒風をこうむりてくだかる
  紅閨多少春宵夢  紅閨 多少 春宵の夢
  我愛空蝉蝉脱来  我は愛す 空蝉の蝉脱し來るを
 
 光源氏のまわりでは、多くの花々が時を同じくして咲くのはむずかしい。葵の花(正妻である葵上)は別の花(六条御息所)の嫉妬の嵐(妒風)にあって打ちくだかれてしまった。源氏に愛された女人たちの閨では、どれほど多くの春の夜の儚い夢が結ばれたことか。慎み深く賢明な空蝉が、薄絹を(蝉が抜け殻を脱ぐように)脱ぎ捨てて、源氏の手を巧みに逃れたことを、私は好ましく思う。
 これに対する山陽の評は、「其第一次不能蝉脱可惜(それ第一次は蝉脱するあたわず、惜しむべし)」とあった。
 「燈下読名媛詩婦」と題したこんな詩も送られた。「名媛詩婦」とは中国の女流詩人四百余名の詩を収めた全三十巻の詩集である。細香がこの詩集を所持していたことは分かっている。

  静夜沈沈著枕遅  静夜 沈沈として 枕に著くこと遅し
  挑燈閑読列媛詞  灯をかかげて 閑かに読む 列媛の詞
  才人薄命何如此  才人の薄命 何ぞ かくの如き
  多半空閨恨外詩  多半は空閨 外を恨むの詩

 第三句、第四句は、「才能豊かな女人たちはどうしてこうも薄命なのか。その大半は空閨をたもち、夫(外)を恨んだ詩である」という意味である。山陽とは離れて暮さなければならなかった江馬細香の実感がこもっている。
 さらには激しい詩もあった。
 
 拈蓮子打鴛鴦(蓮子を拈じて鴛鴦を打つ)。拈じては捻る、あるいは摘むの意である。

  双浮双浴緑波微  双浮双浴 緑波かすかなり
  不解人間有別離  解せず 人の間に別離のあるを
  戯取蓮心擲池上  戯れに蓮の心を取りて 池上になげうち
  分飛要汝暫相思  分かれて飛び 汝が暫く相思わんことをもとむ

 つがいの鴛鴦が池に並んで浮かび、水浴びをしている。そのまわりには緑のさざ波が広がっていく。彼らは人間の世には別離というものがあるのを知らぬげに寄り添っている。思わず蓮の実をとって、池に投げつけた。驚いて二手に分かれて飛び去った鴛鴦よ、しばらくはそのままで、互いに相手を思うことでもしてみるがいい。
 山陽は、「真女子語又未経道処慧心香口安能拈破(真の女子の語なり、また人の未だかつていわざるところなり、慧心香口にあらざれば、いずくんぞ能く拈破せん)」と絶賛した。慧心香口とは女性のかしこい心と美しい表現の意味である。
 細香の詩にはひそかな恋情を詠ったものが多く、それらは心のうちで山陽に宛てたものだった。山陽もまた彼女を門人として以来、病を発するまでの十八年間、たゆまず熱心に指導を続けたのだった。

 さて冒頭の匹田松塘の詩だが、雲鬂髤鬆とは、女の髷がこわれ、豊かな漆黒の髪が乱れた様を表している。雲鬂は耳ぎわの髪の毛、髤、鬆はともに髪の乱れた様を表す。その乱れ方がまるで髪が四方へ飛び散りそうなすさまじい様子だというのである。当然、髪に差した花簪は落ちて、飾りの珠は飛び散ってしまっている。肌と肌をぴったり合わせるのに、隔てとなる衣服などない方がいい。そのせいか華やかな衣服は枕屏風にかかっている・・・漢詩でもこうした情景を描けるという一例である。
[PR]
by monsieurk | 2011-11-24 23:04 | 漢詩 | Trackback | Comments(1)