フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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カテゴリ:時事( 15 )

 堀口一家は新たな任地へ行く間は、日本に戻って待機するという生活を繰り返しましました。そこでブラジルの次のルーマニアに赴任するまでの4カ月ほどを、いつものように東京大森の「望翠楼ホテル」を宿にしました。九萬一は毎日のように外務省へ通い、大學は訳詩にはげみ、文学仲間との交友も復活しました。
 そうしたなかで、彼にとって後に大きな意味を持つ出会いがありました。「文玄社」の詩歌部門の責任者だった長谷川巳之吉と接点をもったことです。そして大學は、この頃、書き溜めてきたフランス詩の訳稿をまとめ、「月下の一群」というタイトルをつけて新潮社に託しました。

 堀口一家が日本に滞在中の、1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が起ります。幸い大森の「望翠楼ホテル」は被災をまぬがれ、一家は前の晩から大學を訪ねてホテルに宿泊していた佐藤春夫ともども無事でした。「望翠楼」は高台の固い地盤の上に建っていてそれが幸いしたのです。
 一家は、12月初旬に熱田丸で横浜を発ち、パリ経由で任地のルーマニアへ向かいました。日本とヨーロッパ間の船旅は1カ月余りかかり、時間をもてあました大學は、最近買い込んだフランスの新進作家ポール・モーランの小説『夜ひらく』を翻訳することにしました。熱田丸がスエズ運河を通り、地中海に出て、マルセイユに到着したのは1月中旬です。堀口一家はここで下船すると、マルセイユで一泊したあと、汽車でパリに向かいました。パリ到着は1924年1月末のことでした。
九萬一、妻のスチナ、岩子、瑞典(この二人はスチナが母親です)の4人は、パリにしばらく滞在したあと、大學を一人残して任地のルーマニアのブカレストへ向いました。大學はパリに宿を定めると、先に渡仏していた画家の旧知の版画家長谷川潔や画家の鈴木龍一と再会を果たし、鈴木の案内で藤田嗣治のアトリエを訪問しました。

 父の九萬一は、ルーマニアの後スペイン公使となり、1914年7月に第一次大戦が勃発すると、パリの大學を呼び寄せました。このスペイン滞在中に大學が親しくなったのが画家のマリー・ローランサンです。1883年10月パリに生れたローランサンは、パリの南の郊外セーヴルにある国立製陶所で陶器の絵つけを学び、さらにパリ市立の学校でデッサンを学んで、1903年には画塾アンベール・アカデミーに入って本格的に絵の勉強をはじめました。当時の画塾には、ジョルジュ・ブラックやジョルジュ・ルパープが画学生として通っており、彼らを通してキュビスムの影響をうけました。

 ローランサンが1907年に、「アンデパンダン展」に出品した《招待》が好評で、その後、画商クロヴィス・サゴの店で、パブロ・ピカソと知り合い、ピカソは彼女をモンマルトルにあった若手芸術化の住まいだった「洗濯船」へ連れて行き、美術評論を書いていたギヨーム・アポリネールに紹介しました。二人はたちまち恋に落ちます。
 ところが1911年、アポリネールはルーヴル美術館から《モナリザ》を盗んだ嫌疑を受けて逮捕、拘留されるという事件が起ります。彼は無罪となりましたが、ローランサンの気持はこれをきっかけに冷めてしまいます。しかしアポリネールの方は彼女が忘れられず、その想いをうたったのが、名作「ミラボー橋」です。ローランサンは間もなく、エコール・ド・パリの画家として世に知られる存在となります。
 そんな彼女の転機となったのが、1914年6月にドイツ人の画家オットー・フォン・ヴェツチェンと結婚したことです。彼女たちが新婚旅行をかねてスペインとの国境に近いアルカションに滞在していた8月3日、ドイツの侵攻に対してフランスが宣戦を布告し、第一次大戦がはじまりました。結婚によってドイツ国籍となったローランサンはフランスに留まることができず、二人はピレネー山脈を越えてスペインへ亡命しました。
 堀口九萬一が公使としてスペインに赴任したのはまさにこの時期です。そして第一次大戦が勃発すると、パリにいた大學をマドリッドに呼び寄せたのでした。ある日、大學は弟の瑞典の肖像画を描いてもらうために、画家たちが共同でアトリエを構える建物を訪ね、そこで知り合ったのがマリー・ローランサンでした。二人はお互いのなかに同じ感性を見出し、たちまち意気投合しました。
 大學はやがて彼女から絵の手ほどきをうけるとともに、アポリネールをはじめ、「エスプリ・ヌーヴォー」と呼ばれるフランスの詩人たちの情報を教えられます。戦禍を避けて異郷に暮らす二人の交流は、1916年に、ローランサン夫妻がバルセロナに居を移すまで続きました。ある日、ローランサンは「日本の鶯」と題した詩を大學にくれたということです。

 彼は御飯を食べる
 彼は歌を歌ふ
 彼は鳥です
 彼は勝手な氣まぐれからわざとさびしい歌を歌ふ

 大學はローランサンから得た情報で、マックス・ジャコブ、アンドレ・サルモン、ピエール・ルヴェルディ、ジャン・コクトーたちの詩を知り、それらを翻訳することになります。
 父の九萬一は1925年(大正14)に外交官生活から引退し、一家は帰国します。大學はこの年の4月から、東京神田の文化学院大学部の教授となり、フランス近代詩の講座を担当することになりました。33歳にして初めて定職に就いたのです。彼が長谷川巳之吉の来訪を受けたのはこの頃のことです。長谷川は大學より1歳年上で、大正12年の初めに出版社「第一書房」を立ち上げていました。第一書房から出た堀口大學の最初の本は、ポール・モーラン著堀口大學訳『レヰスとイレエン』でした。
 
 長谷川は帰国した大學を訪ねると、大學は1年半も上梓されずになっていた「月下の一群」の原稿を新潮社から取り戻し、新しい訳を加えて配列をやりなおしているところでした。「月下の一群」という表題は、フランス象徴派の詩人ポール・ヴェルレーヌの詩からインスピレーションを得たものでした。長谷川は原稿を見せてもらうと、即座に出版を申し入れました。書物は、長谷川自身が装釘し、ノート用の上質フールス紙大判750ページの本文に、16葉の別刷挿絵の詩人たちの肖像入りという豪華本でした。値段は4円80銭でした。
 訳詩集『月下の一群』の出現は、フランスの新詩人の作品を紹介したというだけでなく、これまでになかった詩情と新たな日本語を文学にもたらした点で画期的なものとなりました。上田敏、鷗外、荷風の訳詩に連なるものとして世間に迎えられました。事実、高い定価にもかかわらず初版1200部は数ケ月で品切れとなり、長谷川巳之吉はすぐに廉価版を出しました。
 大學は随筆集『詩と詩人』のなかの「『月下の一群』の頃」のなかで、こんな逸話を披露しています。
 「1913年、父がメキシコの任地を去つて、スペインに新しいポストをもつことになつた。僕も一緒に欧州に移り、勉学の都合上、ひとりベルギー・ブリュッセルに滞ることになつた。この頃から僕のサンボリズムに対する傾倒が始つた。その最初がまずグウルモンであつた。グウルモンによつて與へられた智的有頂天は、僕の一生を通じての精神上の最大の事件として残るだらうと僕は信じてゐる。最初に譯したのが『シモオヌ』に呼びかける一聯の詩であつた。『月下の一群』中これらの譯篇は、いはば僕の最初の譯詩の試みだ。
 丁度、その頃、グウルモンの詩集《Divertissements》(「消閑」)が出版された折だつたので、別に一冊初版本を求め、これに試譯の稿を添へて、今度はこちらが得意然として、この新発見の詩人をマドリッドの父に報じてやつたりしたものだつた。知性と感性の二つとも卓抜なこの詩人は父にも氣に入つて、「消閑」一巻の贈りものは大いによろこばれたことであつた。」
 メキシコ時代、大學は父の手引きでフランス近代詩を読んで、たちまちその魅力のとりこになりました。九萬一はフランス高踏派の詩人たち、シュリ・プリュドム、ルコント・ド・リール、アルフレッド・ミュッセなどの詩篇を愛好しており、それらを息子に読ませて、難解な箇所の解釈や説明をしてやったのですが、外国にあった大學は、これらの詩篇を1篇ずつ日本語に訳していきました。
 そんな彼が父より早く、象徴派の理論的支柱と目されていたレミ・ド・グールモンの新刊詩集を手に入れて、幾篇かを日本語に移したものを添えて送ったのです。息子の得意に益して、父の満足は大きかったにちがいありません。

 グールモンの原詩、九萬一の漢訳、そして大學によるその和訳、さらにはフランス語からの直接訳の四つを並べて鑑賞すると、それぞれの言語のもつ感性の違いが分かって大変興味深いものです。
 九萬一は随筆集『游心録』(第一書房、1930年)や『外交と文藝』(第一書房、1934年)のなかで、フランス文学についてのエッセーやフランソワ・コペやアナトール・フランスを訪問した逸話を披露しています。そのなかに、ステファヌ・マラルメが友人の名前や住所を四行詩に詠い込んで、それを実際に封筒の上に書いて投函したというエピソードを紹介したものです。
 九萬一はこの話を文芸雑誌「フランス共和国」の編集長だったアドルフ・ブリソン(九萬一はブリッソンと表記している)の記事から引用しています。ブリソンは1860年にパリで生まれ、高等中学校を卒業するとすぐに雑誌の世界に身を投じ、「アナル」や「祖国」、「ゴーロワ」といった雑誌の編集長をつとめました。そしてインタビューという形式の記事をはじめたのも彼だといわれます。
 そのブリソンにデンマーク人の友人がり、あるときマラルメの許を訪れてアルバムに一篇の詩を書いてもらいました。しかし、その意味がもう一つ分からなかったので、知り合いのマラルメの弟子筋にあたる著名な詩人3人に、明確な意味の教示を手紙で依頼しました。帰ってきた返事は、それぞれまるで別々の解釈であったというのです。
 この逸話は、マラルメの詩の難解さを象徴するものだが、ブリソンはその上で、「マラルメが奇怪、異常を好んだことは豈にその詩ばかりではない。日常の行事が随分常規を脱して居たことは左の一事でもよく分かる。マラルメは手紙の宛名を御手のものの「詩」の型で書いて差出した事が屡ゝあった。例へば普通ならば、

   巴里、ボッカドール町六番地      アンリ・ド・レニエ殿

と書くべき筈の處を、左の如き四行詩で書いたものだ、

 Adieu l’orme et le châtaignier!
Malgré ce que leur cime a d’or
S’en revient Henri de Regnier
Rue, au 6 même, Boccador.

 どんなに郵便配達夫を困らせたことやらと、マラルメの傳記々者は附け加へて居る。」と書いています。しかし、ブリッソンの心配は杞憂で、郵便はすべて宛て先にきちんと届けられたのでした。
 象徴派のステファヌ・マラルメの詩は、初期の詩篇の幾つかは上田敏などにより翻訳されていましたが、マラルメが扇の面や写真、復活祭の卵の上、そして相手の名前や所番地を詠み込んで角封の上に書いた四行詩について日本に紹介したのは、九萬一のこの文章が最初でした。九萬一はブリソンの記述に沿って、揶揄する意味で取り上げていますが、マラルメは洒落た言葉や思いもよらない韻律を駆使する短詩の制作に真剣に取り組んだのです。とくに宛名を詠み込んだ「郵便つれづれ」は出来上がるたびに手帳に控えておき、これらの内の27篇が、まずアメリカの雑誌「ザ・チャップ・ブック」にフランス語のまま掲載されました。
 これがまとまってフランスで出版されるのは1921年のことですが、ブリソンはそれよりも前にマラルメの試みを聞き知っており、それを雑誌で披露したのです。そしてそれに目をつけた九萬一のフランス文学に対する造詣の深さは、当時の日本の水準をはるかに超えていました。
 ちなみに、引用されているアンリ・ド・レニエ宛ての詩は、

 「さらば 楡の樹、栗の樹よ
  その頂は黄金に色づいてはいるが
  ボッカドール通り六番地の
  アンリ・ド・レニエを思い出そう」

 とでも訳せます。
 翻訳ではとうてい繊細な技巧と味わいを写すことはできないが、マラルメは次第にこうした技巧にのめり込んでいったのでした。そして、九萬一のこの文章がマラルメの四行詩を紹介した最初のものであったのは間違いありません。
 九萬一は、1925年(大正14年)に外務省を退官、以後は、好きな著作と読書、それに講演という日々を送り、敗戦の年1945年10月10日に亡くなりました。大學は会葬の礼状を次のように認めました。

 「長城九萬一死去の際は、早速懇篤な御弔詞とお供物を賜はり有難うございました。恭しく霊前に供へさせて戴きました。御承知のやうに元気な人でしたが、風邪心地でもんの四五日臥床してゐるうちに、流星の速さで衰弱し、何の苦痛もなく忽然他界いたしたのでした。枯木の朽ち折れるやうな、見るから安樂な往生でした。」としたあとに、二つの挽歌が印刷されていた。

挽歌一

越えの故山に逝きましぬ
いくさの果てを見とどけて
紅葉とともに散りましぬ
子の養ふを待ちもせで

挽歌二

帰するが如き逝きましぬ
山の時雨の日ぐれ時
眠るが如くみまかりぬ
敗れし國の秋のはて

 堀口九萬一、80歳の生涯でした。
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by monsieurk | 2016-04-22 22:30 | 時事 | Trackback | Comments(0)
 無罪となった九萬一は復職し、1899年(明治32年)、ベルギーへ赴任中に、ベルギー人のスチナ・ジュッテルランドと再婚。翌年11月、今度は辞令をうけて、南米のブラジルへ赴任します。身分は二等書記官でした。
 日本とブラジルの間では、3年前の明治28年に通商協定が結ばれ、2年後に珍田捨巳が初代の日本公使として着任していました。九萬一が赴任したとき、公使館には5、6人の公館員がいるだけでした。ブラジル全土の在留邦人も数えるほどしかいなかった時代です。九萬一の着任後の大きな仕事の一つは、ブラジルが日本人の移民先として適しているかどうかを調査することでした。
 ところが赴任4年目の年、重要な案件が生じます。ブラジルの九萬一のもとに、外務大臣となった小村寿太郎から暗号電報が届いたのは、明治36年(1903年)12月20日のことです。
電報の内容は、ブラジルの隣国アルゼンチンが、イタリア・ゼノアの造船所で2隻の軍艦を建造中だが、これをロシアに先んじて譲り受ける交渉を行うようにというものでした。事実このときロシアは、アルゼンチンが注文した二隻の装甲巡洋艦「リヴァダヴィア(Rivadavia)」と「マリアノ・モレノ(Mariao Moreno)」を入手すべく、アルゼンチン政府と交渉中で、この情報がイギリス政府から日本にもたらされたのです。
 1902年には、日英同盟が結ばれていましたが、イギリスの思惑はロシアの南進政策にたいして日本を加担させるのが大きな目的でした。
 アルゼンチンが軍艦建造をイタリアに注文したのは、チリとの間で戦争の危機が高まり、チリがイギリスに軍艦を注文したのに対抗するためです。しかしその後ブラジルが仲裁に入って戦争の危機が回避されると、両国とも建造中の戦艦が不要となり外国への売却を希望したのです。
 ロシアは購入代金の分割払いを主張し、即時一括払いを求めるアルゼンチンとの間で交渉は難航していまいた。こうした状況を知った小村寿太郎は、海軍の意向をうけて、大蔵大臣に説いて、閣議決定をへず大蔵大臣の責任で購入代金を即金で支払う決断をとりつけて、こうした国内での根回しの上で、堀口九萬一宛に訓電をうったのです。
 九萬一は昭和15年の春、アルゼンチンから経済使節団が来日した折に、東京中央放送局(JOAK)の依頼で、軍艦譲受けにまつわる秘話を放送していますが、それを昭和16年3月に日露戦争回顧談として発表しています。(「「日進」「春日」譲受け秘話」、『世界の思ひ出』所収)。
 回顧談によると、アルゼンチンとの交渉は次のように行われたということです。
 
 電報に接した九萬一は、公館が近く、家族ぐるみの付き合いをしていたアルゼンチン公使を訪ね、軍艦買受の交渉に出向くのに当たって、外務大臣に面会できるように取り計らってほしいと頼みました。すると公使はその場で電文を書いて、本国に打電してくれたのです。これには社交的な妻スチナと四歳になった岩子の存在が大きかったのです。アルゼンチン公使の家にも同年輩の娘がいて、両家の交際を親密なものにしていたのです。
 九萬一は翌十二月二十一日にブエノス・アイレス行きのイギリス客船があるのを知ると、ただちにリオデジャネイロを出航し、二十五日夜にはブエノス・アイレス港につきました。通常、客船は夜間には入港しないため、艀を特別に手配してもらって上陸し、ホテルに荷物を預けると、そのまま馬車を駆って外務大臣の私邸をめざしました。
 幸いこの日はクリスマス当日です。外務大臣邸では夜にもかかわらずパーティーが続いていて、外務大臣は遠来の客を迎えてくれたといいます。
 九萬一は、日本が二隻の軍艦を入手したいこと、代金は即時に支払う用意のあることを伝えました。すると外務大臣は、軍艦売却は海軍大臣の所管であり、彼と話をする必要があるが、海軍大臣も今夜はまだ起きているだろうと言って、自ら電話をかけて翌日の面会の約束をとりつけてくれました。翌日は海軍大臣のほかに、大統領にも謁見することができました。両者ともに軍艦を日本に売却することに異存はなく、午前中に契約書の調印を終えることができたのです。
 九萬一は、この旨をすぐ本国へ暗号電報で報告しました。彼の記憶では午後四時ごろのことであったと述べています。
 外務省資料館には、外務省記録「各国へ軍艦建造並ニ購入方交渉雑件」(分類番号:5.1.8.1-4)が保存されています。ただ記録は、イギリスで行われた契約交渉、林駐英公使への訓電や契約交渉に関する報告電報で、堀口九萬一臨時公使との間のやり取りは残されていません。したがって、アルゼンチンで行われた交渉の経緯については九萬一の回想が唯一のもので、日露戦争前夜の秘話と伝える貴重な証言です。
 
 譲渡契約が成立すると、2隻の代金1,493万7000円が、翌27日にロンドンで支払われました。こうして2隻の巡洋艦「リヴァダヴィア(Rivadavia)」と「マリアノ・モレノ(Mariao Moreno)」は日本のものとなりました。ただ艦内の艤装はまだ終わっていず、諸々の工事は日本へ回航する途中で行うことになりました。アルゼンチン海軍の大尉が、船大工や船員の監督としてイタリアのゼノアから乗船し、この工事にあたりました。ちなみに回航の責任者は、終戦時に首相となる鈴木貫太郎でした。「日進」、「春日」と命名されたイタリア製の巡洋艦は7,700トンと小型でしたが、旗艦三笠以下の第一戦隊に編入されて、黄海海戦や日本海海戦では六・六艦隊の一翼をになうことになり、横須賀を出航しました。
 ブラジルにあった九萬一にとって、日露戦争の経過は最大の関心事でした。日本軍はこの年の暮れには、多大の犠牲をはらって203高地を占領しました。
 ロシアはバルチック艦隊を喜望峰をへて日本海にまわし、一大海戦のときが迫っていました。こうした戦況は本国から送られてくる電報で知らされてはいましたが、強大な軍備をほこるロシア相手の戦争の成り行きに不安はかくせませんでした。歴史が示すようにその後の戦況は、奇跡的に日本優位で推移しました。明治38年(1905年)3月の奉天会戦では、日本側が5万人、ロシア側16万人の死傷者を出しながら、日本の勝利で決着し、「日進」、「春日」が参戦した日本海会戦では、バルチック艦隊は全滅。一方日本側の損害は水雷三隻沈没だけでした。
 
 この結果をうけて8月、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の仲介により、アメリカのポーツマスで、日本全権の小村寿太郎とセルゲイ・ウィッテの間で平和交渉が行われ、9月5日には日露講和条約が調印されました。
 九萬一はこの情報をどのような気持で受けとめたのでしょうか。残された記録からは知るよしもありませんが、ロシア公使の鼻をあかして2隻の巡洋艦を購入し、明治維新以来最大の危機である対ロシア戦争に貢献できたことは、外交官としての仕事冥利であり、祖国を遠く離れていただけに満足感もひとしおであったに違いありません。
 九萬一がブラジル勤務を終えて帰国したのは明治38年12月、日露講和条約が締結された2カ月後です。このとき初めて、大學と長女の花枝はスチナと異母妹の岩子に会いました。

 九萬一の次の任地は明治42年(1909年)に赴任したメキシコです。この中米の大国で30年余りにおよぶディアス大統領の独裁に変化の兆しがみえたのは1908年のことです。
 長年、権力の坐にあったディアス大統領は、アメリカ人の雑誌記者との会見で、メキシコ国民は民主主義を実現するまでに成長したので、来る1910年の大統領選挙には出馬する意思はなく、反体政党の出現を歓迎すると語りました。
 このディアスの不出馬宣言をうけて、フランシスコ・マデロは立候補を表明します。大統領選挙が近づくにつれて、国中で暴動事件が起こるなど緊迫した状況になると、ディアスは態度を変え、大統領選挙人選挙投票日の直前にマデロを逮捕し、投獄してしまいました。こうしたなかで、7月10日に大統領選挙が実施され、ディアスが6選をはたしました。マデロは翌日釈放され、10月にはアメリカへ亡命しました。
 しかし事態はこれで終わりませんでした。マデロは亡命先のアメリカから、行動目標を発表して大統領選挙での不正を指弾し、11月20日午後6時を期して、武装蜂起するようメキシコ全土に呼びかけたのです。
 北部ではパンチョ・ビジャが貧農層を組織して勢力を拡大しており、南部では小作人のエミリアーノ・サパタが立ち上がり、大土地所有者から土地を奪取して、これを農民に配分することで力を急速に蓄え、政府軍にゲリラ戦を挑んでいましだ。農民を中心にしたビジャやザパタの戦闘部隊には、妻や子どもたちがつき従っており、彼女たちは銃をとって戦闘に加わり、負傷者を勇敢に助けました。
1911年2月になると、マデロが帰国し、反乱軍は各地で政府軍を破り、首都のメキシコ市でもディアスに退陣を迫る示威運動が起こりました。ディアス大統領はこの年5月に、フランスへ亡命しました。
 そして半年後の11月6日には、マデロが大統領に就任しました。こうした状況の中で、息子の大學がメキシコにやってきて一家は公使館で一緒に生活することになりました。

 メキシコの政情は、マデロが大統領に就任して安定したか見えたのですが、支配層はその後着々と態勢を立て直し、一方革命派は分裂を深めていきました。大統領選挙では国民の90パーセントの支持を得て政権の座についたマデロは、行政能力に乏しく、大統領としては凡庸だったといわれています。マデロは誠実な人物でしたが、下層階級の要求に応えることはなく、外国資本や大土地を所有する支配層が求める社会の秩序を守ることもできなかったのです。こうした左右からの反マデロの機運をとらえて動いたのが、駐メキシコ米国大使ヘンリー=レーン・ウィルソンです。
 彼はマデロ政権の軍事的な支えであるウエルタ将軍に働きかけて、マデロから離反させ、政権転覆に踏み切らせたのです。第二次革命の狼煙は、1913年2月9日、メキシコ市であがりました。
 これは堀口九萬一のメキシコ滞在中の最大の政治的事件でした。革命と戦乱の20世紀の幕開けとなった「悲劇の十日間」といわれるこの事件について、九萬一はいくつかの記録を残しています。なかでも昭和11年(1936年)に刊行した『世界と世界人』に収められている「メキシコ革命騒動體験記」はこの顛末を、当時の日記をまじえて詳しく伝えています。

 事件は1913年(大正2年)2月9日に起きました。この日は日曜日で、朝7時ごろ九萬一の以前からの知人が公使館にかけつけてきたといいます。
 以下は彼の日記です。

 「朝の七時頃、不断からの知友で、メキシコに広大な米の田圃を持ってキング・オブ・ライスと呼ばれているイタリアイタリア人ダンテ・クッシ氏が、自動車を飛ばして公使館へ来て、今、市の中央に革命が起っている! と告げた。自分達が革命勃發の報道を初めて耳にしたのは、實にこのイタリア人からであった」とあります。
 息子の大學ものちにこの革命の顛末を、「白い花束」(全集六巻)に書いていて、大部分は父九萬一の記述にもとづくものです。ただ革命勃発の一報を誰からきいたかについては記述が異なっています。
 大學によれば、公使館に第一報をもたらしたのは、くだんのイタリア人ではなく、妹岩子の友人アントワネット・リヴースであったというのです。リヴースは二頭馬車に乗って駆けつけてくると、市の中心部で戦争が起こったから、今朝の約束のテニスはどうしたらよいだろうかと尋ねた。これが真相だといいます。大學の記憶では、花のような14歳の少女の口から革命騒ぎを聞き知ったというのですが、代理公使である九萬一と、息子の大學は別々の人から情報を知らされたというのが真相かもしれません。大學は九萬一の記述を読んでいて、その上でなお妹の友だちの名前を上げているのを見ると、その可能性は高いと推測されます。大學が事態を知らされた時刻が同じ朝の7時頃であったというのは、九萬一の記述にあわせたとも考えられます。
 九萬一によれば、この後すぐに近くのオーストリア公使館の現地人スタッフが来て、公使からの伝言として、市内で戦闘が行われている旨を知らせると、あわただしく帰っていったと述べています。
九萬一は急いで朝食をすませると、マデロ大統領夫人を慰問すべく、市の西チャブテベックにある大統領官邸を馬車で訪問しました。
 戦闘勃発の一報を聞いて、九萬一が早速、大統領官邸に夫人を見舞ったのは、妻のスチナが、日ごろからマデロ大統領夫人と昵懇の間柄であったからです。夫人から大統領自らが出陣したことで、事態は沈静化に向かっていると知らされ、日本公使館公邸に戻ってきました。
 しかし反乱軍の勢力は予想以上に強大で、この日の午後には、彼らは一度退去した国民宮殿を奪い返し、ここを根拠地として政府軍と対峙することになりました。政府軍の士官が反乱軍に内通した結果でした。

 市内には砲撃の音が響き渡り、市民たちはみな家に隠れて路上からは人影がなくなり、時折、自動車がフル・スピードで走り去るばかりでした。こうして情勢がにわかに緊迫した午後2時ころ、突然、大統領夫人一行が日本公使館を訪ねてきました。
 9日の早朝に起きた軍事クーデタは、モンドラゴン将軍とルイス将軍に率いられた部隊が、軍事刑務所に収監されている前大統領の甥で、死刑判決を受けていたフェリックス・ディアスと、前大統領の側近を奪還する行動に出たことに端を発していました。そして刑務所をまもる政府軍の抵抗にあって目的を達しないまま市街戦がはじまったのでした。
 情勢は政府軍が優勢で、一進一退を繰り返してこの日は暮れました。ただ政府軍にとって痛手だったのは、朝の戦闘で司令官のヒラール将軍が重症を負ったことでした。マデロはその後任にヴィクトリアーノ・ウエルタ将軍をあてたのですが、これが大きな誤算でした。ウエルタは反乱軍を包囲する一方、包囲されたモンドラゴンたちにひそかに使者を送って取引を行いました。そしてこの陰謀の仲介役をつとめたのが、アメリカ大使のウィリアム=レーン・ウィルソンだったのです。
 マデロ大統領も、夫人たちが日本公使館へ避難していることを知っていて、自身でときどき電話をしてきて、両親や夫人の安否を尋ね、政府の士気はきわめて高いなどと伝えてきました。
 2月11日、この日は午前10時から午後6時まで激しい市街戦が行われ、死者300人、負傷者は500人に達しました。夜は政府軍、反乱軍ともに攻撃をやめますが、街は真っ暗で人一人通る気配はありません。
 この日の夜、大統領からの電話で、夫人だけが大統領官邸に戻っていきました。いつまでも他国の公使館に身を避けていては、政府軍の士気にもかかわるとの配慮でした。ただ大統領の両親や妹たち一家は引き続きとどまっていました。
 2月12日。早朝から砲撃の音が響き、緊張でぐっすり寝ていた人たちは、その音で眠りを破られました。大勢が寝泊りしている公使館では食料が底をつきはじめ、決死の人たちが隣町のタクバヤまで自動車を走らせて、食料品の調達にでかけなければなりませんでした。帰ってきた自動車を調べると、二、三箇所に銃弾の痕があったといいます。
 
 九萬一の日記には、「他国の公使館でも、各自その本国へ電報を出したいのだが、誰もそれを持って電信局へ行くものがいない。ところが外交官仲間に、日本公使館からは、毎日必ず一回は電信局へ使いの者が行くといふ噂が立った。すると各国国の公使たちは、数日溜つていた電信を持つて日本公使館へやつて来て、「おついでにどうぞ宜しく御願ひいたします」と頼む始末だった。今では一里の道の往復が全く命がけの仕事となつて来た。
 それにも拘らず日本公使館からは毎日欠かさず電報を出した。各国は日本公使館を非常に徳として、本當に助かつたと感謝し、同時に日本人達は国家のといえば、死を冒すことなんか何とも思わない勇気をほめた」と書かれています。

 九萬一の記述に多少誇張があるとしても、軍事クーデタが起きて以来、こうした光景が繰り返されたと思われます。なお、この日、3、4発の流れ弾が公使館の窓ガラスを破りましたが、幸い人びとに被害ありませんでした。
 マデロ大統領にツキがなかったのは、前年の11月、アメリカの大統領選挙でマデロに好意的な民主党のウドロー・ウィルソン(同名のアメリカ大使とは血縁関係はありません)が、大統領に選出されたのですが、彼の任期は3月から始まることでした。このときはまだ共和党のタフト大統領が政権の座にあり、ウィルソン大使の反マデロ行動を支持していたのです。
 内乱勃発以来6日目で、死傷者は5000人をこえ、その多くは非戦闘員の市民でした。メキシコ市郊外のバルブエナの野原では、連日遺体を焼く煙がたなびいていました。

 2月16日、アメリカ大使ウィルソンはマデロ大統領に辞任を迫りましたが、大統領はこれを拒絶したという噂が伝わってきました。九萬一とスチナは大統領官邸を訪れて、マデロ夫人を慰問しました。スチナはその後衣服を取りに公使館へ来て、すぐ大統領官邸に戻って行っていきまた。
 2月19日、ウエルタは大統領に辞職を迫りますが、マデロは殺されても断じて辞職はしないとはねつけました。そこで大統領を脅迫するために、今夜にも大統領の家族がいる日本公使館を攻撃するという噂を流し、それを三人ほどの居留民が伝えに来ました。
 向こう見ずなウエルタのことでしから、本当に攻撃するかもしれないと考えた九萬一は、直接ウエルタに会って真意を確かめることにしました。そう思い立つとすぐに車を用意させて、荒井通訳官と、万一のために医薬品の入ったカバンを携帯した鈴木医師、それに予備の運転手とともに、ウエルタが占拠している大統領官邸へ乗りつけたのでした。このときの様子は、九萬一の筆によれば次のようなものでした。

 「名刺を出してウエルタに面會を求めた。彼はすぐに出て来て、余を応接間へ案内した。そこで自分はフランス語で「風聞によれば、貴下の命令に依つて今晩マデロ大統領の両親、及びその家族達の避難してゐる日本公使館を焼打ちすると云ふ事だが、それは實際の事であるかどうか、率直に云つて欲しい」と、彼は切り出しました。するとウエルタは言下に、そんな風説は全然虚報であるから安心して頂きたいと答へた。そして彼は言葉を續けて、閣下の御安心を得る為、部下の兵隊をして、日本公使館を警護せしめる事に致しませうと云つた。自分はそんなことをすれば公使館から食糧の買出しに出る者や、電信を出しに行くものや、大統領の家族を慰問に来る多くの人達が、一々誰何(すいか)されたりなどして、却て迷惑でもあり不便でもあるから、公使館を警護する代りに、公使館所在の地区一帯即ちカルチエ・ロマ区を遠巻きに警護して貰ひたい申し出た。・・・」(同書、二六四頁)
 ウエルタは了解し、副官にこの命令をすぐ電話で伝えるようにとりはからったということです。九萬一はこれを見るとさらに言葉を続けました。
 「日本には昔から『窮鳥懐に入る。猟夫もこれを殺さず』と云ふ諺があつて、逃げて来て、救ひを求むものには、一視同仁これを庇護するのが日本の國風である。たとへマデロ大統領の家族でなくとも、危急の場合に日本公使館へ逃げて来たメキシコ人なら、誰彼の差別なく皆庇つてやる。今度のことも要するにメキシコ人に對する日本人の同情の發露である。殊にメキシコのこの頃のやうに、革命が頻発し、朝にして其の夕の測られざる形勢にあつては、誰が明日、ともすれば、或は貴下の家族が、今日のマデロの家族と同じ運命の道を辿つて日本公使館へ逃げ込んで来ない事を断言出来やうや? その時に於ては勿論自分は同じ方針で、貴下の家族を庇護してやる心組でゐる。自分がメキシコメ人を庇護するこの眞意を了解して頂きたい」と意氣込んで話しました。すると、ウエルタは、今回マデロ家族に對して手厚い擁護を與へられた事は、日本公使に對して深く感謝する處であると述べたといいます。(同書、二六四―五頁)
 
 会談のあと、九萬一はウエルタの了解をとりつけて、政庁の一室に監禁されているマデロと面会することができました。両親や妹たちが日本公使館で無事にいることを伝えると、大統領は幾度も感謝の言葉を口にしました。
 こうした捨て身のウエルタ訪問は好結果に終わりましたが、公使館に戻ってくると、大統領の兄のグスタヴォが、昨夜のうちに砲兵工廠で銃殺されたという悲報が待っていました。両親や妹たちは悲嘆にくれていました。前日の17日、ウエルタは大統領の兄グスタヴォを昼食に招待し、その場で逮捕したのである。彼はその夜殺害されたのです。マデロが頑として辞職を受け入れなかったために、身の安全を保障するのと引き換えに辞表に署名させ、辞表は一時外務大臣のラスクラインがあずかり、無事国外へ出たのを見届けたのちに、ウエルタに辞表が手渡される手はずになっていました。しかしウエルタは約束を履行せず、この夜、マデロの辞職と自らが仮大統領となったことを公表しました。
 2月20日、この日、外交団はそろってウエルタ仮大統領を国民宮殿に訪ね、マデロ大統領と副大統領に危害を加えないよう申し入れを行いました。これに対してウエルタは、誓って両名の生命は保障すると言明し、夜7時、マデロ大統領の家族は日本公使館を引きあげて、シリオン夫人の家に移りました。
 しかしマデロと副大統領のピノ・スアレスは、22日の夜、逃亡をくわだてたとして殺害されたのです。九萬一の外務大臣宛の公電は、メキシコの官報に「二月二十二日午後十一時政庁監禁室ヨリ監獄ニ護送セラルル途中「マデロ」党員之レヲ奪ヒ取ラントシ其闘中殺害セラレタル旨」が発表されたと伝えています。
 2月24日、前大統領フランシスコ・マデロの葬儀が行われ、九萬一は家族全員を連れて列席し、日本人居留民の多くも出席しました。式は時勢をおもんばかって簡素なものでしたが、多くの人たちが出席することで、抗議の意を示しました。前内閣の閣僚の逮捕や逃亡のニュースが、しきりに新聞に報じられました。2月26日の午後、九萬一は妻のスチナや息子の大學と、マデロの墓に詣でて献花をしました。大統領の墓には、労働者と見られる人たちが大勢墓にやってきて花環を置いていった。その一つには、「デモクラシーの犠牲」と書かれていたということです。

 以上が、日本の代理公使堀口九萬一が体験したメキシコ革命の顛末です。16カ月続いたマデロの政権はこうして幕を閉じたのでした。
 九萬一はこの年4月に、帰国命令をうけてメキシコをあとにしました。本国の外務省でも彼からの報告によって、殺害されたマデロ前大統領やその一家と九萬一との深い関係を知っており、彼のためにもメキシコでの任務を解くことが望ましいと判断したのです。(続)
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by monsieurk | 2016-04-19 22:30 | 時事 | Trackback | Comments(0)
 さる3月27日、新潟県長岡市の中央図書館の招きで講演を行った。昨年は長岡出身の堀口九萬一の生誕150年、没後70年目にあたり、それを記念する会であった。当日は市内の長興寺のお墓で、九萬一の孫、堀口大學のお嬢さんである堀口すみれ子さんにお会いして一緒に華をたむけた。このときの講演の内容を3回にわけて掲載する。

「サムライ外交官 堀口九萬一」

 堀口九萬一の生涯は、懸命に近代化を急いだ日本の歩みとぴったり重なります。幕末、わが国は欧米列強の圧力を辛うじて撥ねのけて、近代化の道を推し進めましたが、これには優れた人材が必要でした。このため明治新政府は多くの外国人を雇い入れ、同時に人材をひろく全国に求め、試験によって優秀な若者を選抜しました。九萬一は学力を唯一の武器に長岡から中央を目指した一人でした。
 「明治の煙突二本論」という言いかたがあります。国家がまだ若かった明治にあって、こうして選抜された人材は、体制側、反体制側双方に供給されたという説です。言うまでもなく体制側の煙突は太く、九萬一は難関をくぐり抜けて体制のなかに地位を得たのでした。その一方で、もう一本の煙突は反体制側に人材を提供しました。平民社を結成して、日露開戦の気運のなかで非戦論を主張しつづけた堺利彦や幸徳秋水、普通選挙運動の先頭に立った尾崎行雄といった人たちです。年齢としては、尾崎が九萬一の6歳上、堺、幸徳は5歳年下で、彼らはみな同時代人です。
 反体制を貫いた人たちの生涯や事績にくらべて、体制のなかにあって仕事をした堀口九萬一の存在はあまり知られておりません。そこで私は『敗れし国の秋のはて 評伝 堀口九萬一』(左右社、2008年)を書いたのですが、タイトルの「敗れし国の秋のはて」というのは、息子の大學が、父九萬一の死去にあたって書いた2篇の挽歌のなかの文句です。外交官で漢詩をよくし、フランス語に通じ、文学の素養も深かった九萬一は外交官として国家に忠誠をつくし、仕事にはげんだ九萬一は、私には興味のつきない存在です。

 九萬一は、慶応元年(1865年)、越後長岡の藩士、堀口良治右衛門、母千代の長男として長岡城下で生まれました。良治右衛門の身分は足軽でした。慶應4年、戊辰戦争が勃発し、4月11日に江戸城が無血開城されたあと、掃討戦は4月末には長岡藩の藩境に達しました。河井継之助が率いる長岡藩は奥羽北越列藩同盟に加盟し、官軍と戦う決意をかためます。5月19日にはじまった長岡をめぐる攻防では、人口6000を数えた城下一帯が戦場となり、そのほとんどが灰燼にきしました。この戦のなかで、銃卒隊の一人として戦った堀口良治右衛門は戦闘で命を落とます。
 長岡藩の人びとは、明治維新後、辛酸をなめますが、「苦境を乗り越えるには、教育が大事」と、食べるものを節約して教育の充実にあてました。長岡藩の惨状に、支藩の三根山藩から救援に米100表が送られてきますが、大参事小林虎三郎たちの方針で、この米を旧藩士たちに配らず、それを売った資金で学校を設立することにしました。この逸話は山本有三の『米一俵』という戯曲で描かれたとおりで、九萬一もその恩恵をうけて成長しました。母一人となった堀口九萬一は、寺子屋で読み書きを学び、明治になって学区制が整うと、小学校に入学。賊軍だった長岡藩の遺児は、教育をたった一の武器として逆境を乗り越えようとします。彼は優秀で、よく漢学を勉強しました。この頃の九万一に関しては、遠山運平、ペンネームを「夕雲」という人の聞き書き、「堀口九萬一翁立志篇」というものがあります。これは遠山が出していた雑誌「日本大正解」の昭和17年5号に載っているもので、この長岡の地で一生懸命勉学には励んだかを、九萬一自身が語ったものです。この長岡中央図書館の所蔵されていた、コピーを親切に送ってもらいました。寺子屋では入塾するとすぐに、三字経、孝経、千文字を教え、その後は唐詩選、四書、五経の素読が主な課目でした。そして師匠が書いたものを手本に、同じ文字や文章を繰り返し練習しました。当時紙は貴重品でしたから、墨で真っ黒になった紙を一枚ずつ木の枝にかけて乾かし、それをまた使ったということです。こうして九萬一は小学校、長岡中学校へと進み、学生のかたわら授業生として小学生を教えました。

 九萬一の運命が開けたのは明治18年のことです。この年の1月、司法省法学校の第4期の学生を募集するという公示がありました。司法省学校は、正式に司法省仏国法律科専門学校といい、フランス法の修得する準備過程で、フランス語を教授するところでした。明治5年に、司法省の嘱託として来日したデュ・ブスケや、のちに日本の民法制定に貢献したギュスターヴ・ボアソナードなどのフランス人教師が、フランス語と並んで自然法哲学、刑法、商法など法学教育をほどこしました。さらには今日でいう一般教養科目も教えたのです。優秀な学生は次々とフランスへ留学し、逆に成績不良の者は容赦なく退学させられ、欠員が生じると選抜試験が行われて、常に20名の定員が守られていたのです。縁故にない九萬一にとっては、官僚の登竜門である司法省法学校への入学は大きなチャンスを意味しました。
 東京にいる友人の伝で、司法省法学校に入学試験の科目を問い合わせると、試験は『論語』の弁書(べんしょ)と司馬光の『資治通鑑』の白文訓点であると知らせてくれました。入学試験には全国から1500人余りの受験者があったということです。入学後は語学や法学をはじめ、洋学を中心に教育が行われることになっていましたが、試験科目は予想通り、『資治通鑑』と『論語』でした。受験者が多く試験と採点に日数がかかり、結果はなかなか発表にならず、数日後合格者がようやく発表されると、そこには九萬一の名前もありました。
 こうして堀口九萬一は明治18年10月に、晴れて司法学校の官費生となり、フランス語や法学の基礎を徹底的に叩き込まれることになりました。講義はお雇い外人教師によってフランス語で行われ、寄宿舎内での会話もフランス語ですることを義務づけられ、その上、毎日日記をフランス語で書いて提出し、厳しく添削されました。
 法学校は、九萬一の在学中に東京帝国大学法学部と合併されましたが、この時代の九萬一について資料が乏しくよく判らないのですが、大きな野心をいだいて、ひたすら勉強に励む日々が続いたのだろうと思います。そんな中、彼が25歳になった明治22年(1889年)に、かねて婚約中の友人の妹である江坂政(まさ)と結婚しました。このとき彼女は数えの18歳で、結婚後まもなく二人は本郷区森川町1番地に、借家をみつけて移り住みました。ここは東京帝国大学の赤門のまん前で、この家で明治25年1月8日に長男大學が生まれました。大學という名前はここから来ています。
 大學誕生の翌年7月、九萬一は晴れて東京帝国大学法学部を卒業しました。司法省法科学校に入学して、東京帝国大学を卒業したのは、さきに述べたように途中で学校が合併したためで、卒業後はただちに司法官試補に任ぜられて新潟へ赴任しました。ただ新潟にいたのはわずか2カ月だけで、法曹界の空気になじめずに辞任し、9月には外務属官となって東京に帰任することになりました。こうして外交官となった彼は、すぐに領事官補として朝鮮の仁川への赴任を命じられ、家族を残して朝鮮へ向かいました。

 日本と朝鮮の関係は明治政府の誕生以来緊張していました。朝鮮の宮廷や政権内部には、日本が日清戦争に勝利したあとの三国干渉で、多くの占領地を返還するという事態になったとき、これを日本からの圧力を弱める好機とみて、王妃の閔妃(びんぴ)を中心に、ロシアへ接近して日本を牽制しようとする勢力が台頭しました。
 こうした情況の中、明治28年9月に、予備役陸軍中将の三浦梧楼が、特命全権公使として朝鮮に赴任したことで、事態は大きく動き出します。三浦を公使に推薦したのは井上馨で、病床にあった外交の重鎮、陸奥宗光はこの人事に反対でした。しかし長州出身の三浦の起用は、伊藤博文、井上馨、山県有朋たち長州閥によって決定されたのです。
 三浦は着任すると、朝鮮王宮の勢力図を逆転させて、日本の影響力をもう一度確保しようと考えました。そのために起こしたのが「王城事変」でした。これは三浦が着任したおよそ1カ月後の10月8日の明け方、日本兵や多くの民間人が京城の王宮に乱入して、親ロシア派の閔妃(びんぴ)を殺害するという前代未聞の事件です。三浦より1カ月早く朝鮮に赴任していた堀口九萬一は、否応なくこの事件に深くかかわることになりました。
 今日参照できるものだけで122通の公電が、外務省と朝鮮や各国在外公館の間でやり取りされました。これらはすべて『日本外交文書』第28巻第1冊の、「王城事變」の項に収録されています。この異常な事件は、どのような経緯をへて実行に移されたのか。私の本では、外務省資料や事件に加わった人たちの残した回想、堀口九萬一自身が後年公にした文章をもとに、九萬一がはたした役割を明らかにしました。
 三浦公使は、当時、孔徳里で蟄居状態にあった大院君を担ぎ出して、韓国政権の実権を握る閔妃の勢力を排除しようと計画したのです。大院君は若い国王高宗の実父で、長らく摂政の立場にあったのですが、高宗の妃の閔妃とその一族が力を持つにつれて権力を失っていきました。そしてこのとき、大院君は事実上幽閉されていたのでした。九萬一は、彼の目から見た事件の様子を記録に残しています。それが『外交と文芸』(第一書房)に収録された「十月八日事件の発端(無言の問答)」です。

 事件10日ほど前、公使の三浦は、九萬一を呼ぶと、「此の際どうしても国王の厳父大院君を再起せしむる外に方法が無い、さうして、それは一日も早い程よいのだ。處が困った事には大院君はある嫌疑のために三、四ヶ月以来孔徳里の離宮に幽閉されてゐる。・・・内外人を問はず、大院君に對しては一切面會禁断だ。・・・その他に又一つ厄介なことは、是非共筆談が必要なことだ」と言いました。そしてこの任務を、漢文を自在にこなす九萬一にやってもらいたいという頼みでした。筆談が必要なのは、通訳を介して行うことができない交渉であるとともに、朝鮮では要人のまわりで立ち聞きが普通に行われ、情報が漏れるのを防ぐためでもあるというのです。
 領事官補の九萬一にとって、これは公使からの命令に等しいものですから、彼に一も二もなく承諾して、和服に着替えて観光客になりすまし、馬夫の格好をした領事館づきの巡査一人をつれて、馬で孔徳里を目指しました。巡査は朝鮮語を流暢に話せました。
 このとき同じく朝鮮に居て、九萬一とも交流のあった与謝野鉄幹も、詩歌集『うもれ木』に収められている「孔徳里」のなかで、閔妃暗殺事件に触れて、大院君訪問のことを述べています。与謝野鉄幹は自分と鮎貝(あゆかい)房之進が面会に同行したと受け取れる取れる記述をしていますが、彼がこの訪問を行った事実はありません。残る問題は、鮎貝房之進が九萬一に同行したか否かですが、資料の上からこの点を確認する手だてがありません。ここでは、九萬一の「十月八日事件の発端(無言の問答)」の記述をもとに、事実をたどってみることにします。

 京城から孔徳里までは馬でおよそ一時間の道のりでした。九萬一は、朝鮮観光に来た日本人で、帰国を前にぜひ殿下に拝謁したいと思ってきたが、朝鮮語を知らないので筆談を許されたいと申し出ました。大院君はこれを了承して、侍従に筆と朝鮮紙の巻紙を持ってこさせ、筆談が始まりました。
九萬一は、まず即興の七言絶句を書きました。すると大院君は微笑しながら、これに続けて詩を書き加えたといいます。九萬一の言によると、このあとは散文のやりとりとなり、もし三浦公使が大院君を助けるならば、自分は祖国の救済にあたるという言質を引き出すことに成功しました。最後に大院君は、真紅の大型の名刺を手渡し、これを三浦公使に渡して、次に来るときには三浦公使の名刺を持ってくるように言ったといいます。そして筆談に用いた巻紙五本を燃やそうとするのを九萬一は押しとどめ、面談の記念と三浦公使に諒解させるためにも必要であると述べて、それを拝領してきたというのです。
 堀口九萬一が述懐する事の次第は以上のようなものです、当時、公使館に勤務していた九萬一の上司の内田領事の報告とは、幾つかの点で食い違っています。最大の疑点は、九萬一が筆談の巻紙を持ち帰ったのは事実かどうかですが、これは確かではありません。

 閔妃暗殺は、実際にはどのようにして行われたのか。
 事件は九萬一が大院君との面会に成功した9月29日から一週間後の、10月7日から8日にかけて起こりました。大院君の離宮は10人余りの韓国警備兵に守られていましたが、彼らを脅迫して倉庫に閉じ込め、制服制帽を奪って同行した巡査たちに着せ、三浦の命を受けたもののほか、大勢の壮士たちも一緒になって、無理やり大院君を引き出しました。8日の午前3時ころ、大院君を乗せた輿を日本人たちが守って孔徳里を出発し、途中からは日本の守備隊も加わり、一行は午前7時近くに京城市街に着き、日本人の一行は用意した梯子をかけて塀を乗り越え、斧で扉をうち破って宮城内部へ侵入しました。
 宮女の一人から王妃のこめかみに禿げ跡のあることを聞きだし、殺害した3人の女性の遺体をあらためて見ると、一人の遺体に禿げの跡があることが分かった。生き残った女性たちの見せると、口々に王妃に間違いないと証言しました。遺体の衣服の隠しからは、朝鮮国王よりロシア皇帝に宛てて、ウェーバー・ロシア公使の残留を依頼する書状がみつかったのです。日本側の証言では、このことを告げられた大院君は手をうって喜んだとされます。王妃の遺体は門外の松林に運び、薪を積んだ上に横たえて火をつけて焼き捨てました。

 この事件は伊藤博文内閣に衝撃をあたえました。京城には新聞「ニューヨーク・ヘラルド」の、著名なアメリカ人の特派員コックリルがいあわせ、待衛隊教官のアメリカ人ウイリアム・マック・ダイ(ジェネラル・ダイ)から閔妃殺害の事実を知らされると、すぐ本社に記事を打電しようとしました。しかし三浦公使は電信局に圧力をかけて記事を差し止めさせたのです。しかし10月14日には、情報はワシントンに届けられて事件は各国の知るところとなり、日本政府はその対応に追われました。
こうして事件に関係した日本人56人を一刻も早く帰国させることになりました。56名は全員同じ船で仁川を出発して宇品(広島)港へ護送されました。ただ、「彼ら被告が宇品埠頭に現れるや、各地より集合した歓迎者は沿道堵列をなし、被告一同に寛大な同情と情熱的な歓迎を表した」と退韓命令を受けた一人は書いています。
 明治29年(1896年)1月14日、閔妃殺害に加担したとされる陸軍の将校たちを裁く軍法会議が開かれました。そして1月20日からは、広島地方裁判所で、岡本柳之助、三浦梧楼、杉浦溶、堀口九萬一らに対する予審が開かれました。九萬一の妻は、彼が事件にかかわった9日後に、結核が悪化して長岡で亡くなりました。収監されていた九萬一は葬儀に立ち会うことも出来ませんでした。
 明治29年2月19日、軍法会議は8名の将校に対して無罪の判決を下し、裁判所でも三浦以下48名全員に免訴の決定が下りました。「容疑者の誰も彼らによって企てられたとされる罪を実際に犯したことを証明する十分な証拠が無い」という判断で、被告たちは全員釈放されました。犯罪は3人の朝鮮人の仕業ということにされて、真相は闇に葬られたのです。九萬一はその後、外交官の職に復帰したが、この事件にかかわったことは、彼のその後の進路に影響を与えたと考えられます。(続)
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by monsieurk | 2016-04-16 22:30 | 時事 | Trackback | Comments(0)

ガリア書房閉店

 今月初め、京都のガリア書房の右衛門佐(よもさ)時雄さんから、今年7月をもって店を閉めることにしたという電話があり、追いかけるようにして、「フランス書目録104号」が送られてきた。
 京都大学に勤務したときから、百万遍にあるガリア書房には、本の取り寄せなど大変世話になってきたから、まことに残念な知らせだった。
 最終号となるカタログ104号の表紙裏には、右衛門佐さんの次のような挨拶が印刷されている。ご本人の了解のもとに、一部を紹介させていただく。d0238372_1110552.jpg
 「新年度早々残念なお知らせで恐縮ですが、当ガリア書房は本年7月をもちまして閉店することになりました。インターネットの普及にともない洋書輸入の業態も大きな変容を余儀なくされてまいりましたが、ネット販売の隆盛やネット上でも文献データの公開、大学研究費予算の大幅な削減、フランス学習者研究者の減少など複合的な要因が重なり、ガリア書房も遂に幕を下ろす時が参りました。
 京都百万遍の地に熱い想いを込めて当社を設立しましたのが革命二百周年祝祭前夜の1989年4月、あれから26年という年月が経過しましたが、閉店するにいたった今年は奇しくも帝政崩壊の二百周年にあたり、いささか運命的なものを感じない訳にはいきません。ただこの間、季刊として欠号なく発行して参りましたこの「フランス書目録」を始め、各種の書誌情報を恒常的にご提供できましたことは、多少なりとも皆様方のご学習ご研究のの一助になったのではと、自らに言い聞かせている次第です。」
 右衛門佐さんは夫人と二人三脚でガリア書房を経営し、関西を中心に全国のフランス語・フランス文学の研究者や学生に、フランス関係の新刊情報を提供し続けてくれた。
 最終号を見ても、書誌情報のカバー範囲は、歴史、法律、経済、社会、教育、フェミニズム、哲学・思想、文学、語学・言語学、芸術・演劇・映画におよび、しかも文学関係で言えば、文学全般・比較文学、古典文学・中世文学、16世紀文学、17世紀文学、18世紀文学、20~21世紀文学と細分されていて、各時代の作家や詩人の作品、さらに著者や作品を対象とした研究書がリストアップされている。
 私たち読者や研究者は、自分が専門とする文学はもとより、その周辺にかかわる最新の研究を知ることができ、必要があればガリア書房を通して、フランスその他海外から本を取り寄せてもらうこともできた。
 挨拶文にある通り、日本におけるフランス文化・フランス文学をめぐる状況は、ここ10年ほど大きく変わった。それも年を経るごとに厳しくなる一方である。
これに加えてインターネットが普及し、個人が海外の出版元へ直接本を注文し取り寄せることが出来るようになった。本の取次ぎ販売を主とするガリア書房が閉店を決断されたのもやむを得ない事情と拝察する。ただ一フランス文学の研究者としては、今後、必要な書誌情報をどうやって手に入れればよいのか、途方に暮れている。海外の出版社も、ネット上に新刊案内を公開しているが、個人が毎年出版される膨大な本の情報を探し、必要なものを選び出すことは至難の業である。
 右衛門佐さんは最終号の編集後記で、こんな苦労話も披露している。
「想い起せば当初はまだタイプライターでしたので版下の制作には大変な苦労がございました。(中略)毎号最終頁を打ち終わる頃には疲労困憊しておりました。/ 数年が経ちガリア書房もコンピューターの導入を目指しましたが、日本語と仏語など欧州特殊文字の混在したデータを扱えるソフトが見つからず行き詰まっていたところ、遂にマッキントッシュ用の「ファイルメーカー」というデータベースソフトに辿り着きます。当時は2万件程度のデータしか扱えませんでしたが、丸一年まけて書籍管理や販売管理などのシステムを独学で構築しました。これが極めて優れもののソフトで、その後データも無制限に扱えるようになり、目録の制作にもこの最終号まで充分威力を発揮してくれました。」
 こうした努力のお陰で、フランスをはじめ世界各地で出版される本の情報をいち早く知ることができた。26年間、大いに助けられました。有難うございました。
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by monsieurk | 2015-04-04 22:30 | 時事 | Trackback | Comments(0)

ワイツゼッカーの遺言

 リヒャルト・フォン・ワイツゼッカー氏が1月31日に亡くなった。ワイツゼッカー氏は西ドイツ時代の1984年に大統領になり、それから10年間、大統領の地位にあった。その間、第2次大戦の敗戦から40周年目にあたる1985年5月8日に、連邦議会で行った演説で、「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」と語って、ドイツ国民にナチス・ドイツが過去に冒した過ちを直視するように訴えたことはよく知られている。d0238372_9461639.jpg 
 今年は終戦から70年目にあたるが、ワイツゼッカー氏の訴えは、彼の遺言として、現在の世界を考える上で大変重要である。
「荒野の40年」と呼ばれるこの演説は、世界中の言葉に翻訳され、日本でも永井清彦氏の翻訳で岩波ブックレットなどで読むことができる。ワイツゼッカー氏はこの中で、「罪の有無、老若いずれを問わず、私たち全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされているのです。問題は過去を克服することではありません。そんなことが出来るわけはありません。後になって過去を変えたり、起らなかったことにするわけには行きません。しかし過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」と語っている。
 戦争中、ナチス・ドイツは600万ともいわれるユダヤ人を殺した過去がある、そうした忌まわしい過去に対して、戦争中の犯罪に直接関わらなかった若い世代も、過去の歴史をしっかりと学ぶことで、自分たちが生きている現在、さらに将来の方向も見すえることが出来るという考えである。
 イギリスの歴史学者E・H・カーも、『歴史とは何か』で、「歴史とは現在と過去との絶えざる対話だ」と、同じような考えを述べている。
「イスラム国」が現在行なっているテロ行為はおぞましい限りで、決して認めることはできない。同時に、私たちがいま現実に起っていることを正確に理解するには、「イスラム国」がなぜ生まれてきたのかを歴史的に見ることが必要である。
 中東は第1次大戦中の1916年5月、イギリス、フランス、ロシアの間で秘密に結ばれた「サイクス・ピコ条約」によって、戦後にオスマントルコ帝国が崩壊すると、不自然な国境で分断された。この事実も、「イスラク国」の武装闘争の動機の1つである。
 2001年の同時多発デロを受けて、アメリカのブッシュ政権は2003年にイラク戦争を行い、フセイン政権を倒した。その結果、この地域には権力の真空状態が生まれ、イスラム過激派の台頭を招いた。中東問題の専門家によれば、「イスラム国」の中枢には、かつてフセイン政権にいた人たちが多いといわれる。当時アメリカにも、現在の事態を懸念する人たちもいたが、同時テロの恐怖と復讐心に支配されていたブッシュ政権には、こういた声は届かなかったのである。
 テロの再生産を防ぐのは簡単ではない。しかしその第一歩は、現実を正確に理解することである。目の前で起っている事実を歴史的な文脈の中で理解すること、そこから「寛容の精神」が生まれ、「憎しみの連鎖」を断ち切ること、それを期待したい。
以前のブログ「Je suis Charlie」(2015.1.11)でも触れたが、大学時代の恩師、渡辺一夫先生は、あるエッセーで、「寛容は不寛容に対する時、常に無力であり、敗れ去るものであるが、それはあたかもジャングルのなかで人間が猛獣に喰われるのと同じことかもしれない。ただ違うところは、猛獣に対して人間は説得の道が皆無であるのに反し、不寛容な人々に対しては、説得のチャンスが皆無ではないということである。そこに若干の光明もある」と述べていす。テロに屈しない強い姿勢とともに、寛容の精神を決して失わないこと、それがいま求められているのだ。
 ワイツゼッカー氏も、先の演説の最後で、「若い人たちにお願いしたい。他の人たちに対する敵意や憎悪を駆り立てられることがないようにしてほしい。互いに敵対するのではなく、互いに手を取り合って生きていくことを学んでいただきたい」と訴えている。理不尽な蛮行に出会うと、私たちは感情的な行動に出がちだが、それを立ちどまらせるのは理性の力以外にない。二人が訴えているのは、「知ること」の大切さであり、理性的に行動する勇気なのだ。
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by monsieurk | 2015-02-14 22:30 | 時事 | Trackback | Comments(0)

Je suis Charlie

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 1月9日、南フランスの都市トゥールーズに住む娘から電話があった。「今度の事件はいつ何処で起るか分からないし、不安はある。でもこうした事件を二度と起こさせないためには、私たちは決してテロに屈しないという意思表示をすることだ。表現の自由を守るために立ち上がるフランス人は立派だし、誇りに思う」と話していた。
 そして、これからフランス人の夫と大学生と高校生の2人の娘とともに、「Charlie Hebdo」事件への抗議のための集会に参加するということだった。
 その後の報道によると、1月10日土曜日の午後2時30分から、自主的な呼びかけによる集会がトゥールーズ市の中心である、ジャン・ジョレス通りと市役所前のキャピトル広場で開かれ、10万人をこえる人たちが集まったという。
 この日は同様の集会が、ナント、ポー、ニース、オルレアンなど各都市で行われた。夕方に内務省は、フランス全土で70万人が集会に参加したと伝えた。写真は集会のなかで掲げられた一枚のプラカードで、「風刺(カリカチュア)、それは私たちの文化だ!!! シャルリー・エブドに連帯を。決して絵筆を棄てはしない」と書かれている。d0238372_824594.jpg
 参加者の多くは、「Je suis Charlie(私がシャルリー)」という、黒地に白で文字が書かれた紙を掲げていたが、これは無料配布のファッション・マガジンのアート・ディレクター、Joachim Roncinが、事件発生の1時間後にインターネットに掲載したもので、たちまち世界中に広まった。Charlieはもちろん襲われた新聞社の名前だが、そもそもはチャーリー・チャップリンのファーストネームで、新聞社も彼の風刺精神にちなんで命名したものである。デモの参加者のなかには、同じプラカードを掲げたスカーフ姿のイスラム教徒の若い女性たちも多く見かけられたという。
 渡辺一夫先生のエッセーに、「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」という長いタイトルの一篇がある。「寛容と不寛容とが相対峙した時、寛容は最悪の場合に、涙をふるって最低の暴力を用いることがあるかもしれぬのに対して、不寛容は、初めから終わりまで、何の躊躇もなしに、暴力を用いるように思われる。今最悪の場合にと記したが、それ以外の時は、寛容の武器としては、ただ説得と自己反省しかないのである。従って、寛容は不寛容に対する時、常に無力であり、敗れ去るものであるが、それはあたかもジャングルのなかで人間が猛獣に喰われるのと同じことかもしれない。ただ違うところは、猛獣に対して人間は説得の道が皆無であるのに反し、不寛容な人々に対しては、説得のチャンスが皆無ではないということである。そこに若干の光明もある。」、「人間を対峙せしめる様々な口実・信念・思想があるわけであるが、そのいずれでも、寛容精神によって克服されないわけはない。そして、不寛容に報いるに不寛容を以てすることは、寛容の自殺であり、不寛容を肥大させるにすぎないのであるし、たとえ不寛容的暴力に圧倒されるかもしれない寛容も、個人の生命を乗り越えて、必ず人間とともに歩み続けるであろう、と僕は思っている。」(岩波文庫「渡辺一夫評論選 狂気について」)
 テロに屈しない強い姿勢とともに、寛容の精神を決して失わないこと、それが求められている。
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by monsieurk | 2015-01-11 09:00 | 時事 | Trackback | Comments(2)

カタルーニャの住民投票

 前回のブログで書いたように、滞在しているトゥールーズから、スペインのカタルーニャ地方はピレネー山脈をこえるとすぐそこで、車で走ると2時間足らずで国境である。この地方一体はかつて同じ文化圏に属し、交流も深く、11月9日から25日まで行われた、カタルーニャ地方の独立をめぐる住民投票は大きな関心を呼んだ。
 独立をめぐる住民投票といえば、今年の9月18日にイギリス連邦のスコットランドで行われた住民投票では、僅差でイギリス連邦に留まるという結果になった。だがカタルーニャの場合は、中央政府が住民投票は憲法違反だとして実施に反対し、憲法裁判所も住民投票に待ったをかけた。
 スペインは地方の独自色が強い国で、とくにカタルーニャ州はマドリードが代表する中央とは歴史的にも文化的にも異なっている。1936年7月、フランコ将軍のクーデタではじまったスペイン内戦では、選挙で選ばれた共和派の人民戦線内閣は最後はカタルーニャの州都バルセロナに拠点を置いたが、1939年1月にフランコ軍に制圧されて、人民戦線を支持する多くの人びとが雪深い冬のピレネーを越えてフランス側に逃れた。そしてアサーニャ大統領も辞任し、政府自体もフランスへ亡命した。その後3月27日にはマドリードが陥落。4月1日、フランコ将軍は内戦の終結を宣言したのだった。
 こうした歴史からも、カタルーニャの人たちの独立の気持は強く、自分たちの将来は自分たちで決めたいとして、自治州政府のマス首相は中央政府の反対を押し切って住民投票を行ったのである。カタルーニャ州の住民は、定住している外国人も含めて凡そ500万人。投票した人は11月9日、1日だけで凡そ231万人だった。その後も投票は規模を縮小して25日まで続けられ、独立を望むとした人が全体の81%に達した。投票者の数は、先に行われたヨーロッパ議会選挙(これは公式な選挙)とほぼ同じだから、住民の意思は反映されたと言える。
 もう一つの特徴は、州全体で投票所が1317個所設けられて、運営はすべてボランティアの手で行われて、4万人の人たちが自主的に参加したことである。ここにも自分たちの将来は自分たちで決めたいという強い気持が見てとれる。
 中央政府がこの結果を認めないのは、スペインの憲法は住民投票を認めていないからだが、憲法は1960年以来一度も改正されたことがない。マス首相は2012年の州議会選挙で住民投票を公約に掲げ、今年9月に関連法を成立させた。そして今回の選挙で住民の意思を明らかにすることで、憲法を改正し、住民投票を可能にするべきだと主張している。
 中央政府がカタルーニャ州の独立を認めたくない理由の一つは、カタルーニャ州が独立するといった事態になれば、独立の機運の強いバスク地方などでも同じ動きが起きかねないという懸念がある。もう一つの大きな理由は経済力の問題で、この地方は昔から製造業が発達して経済力があり、それが離れて独立することはスペイン全体にとったは大きなマイナスとなる。逆に言えば、カタルーニャの人たちにしてみれば、自分たちの税金が他の地域には廻るのは納得できないというわけである。
 マス首相は最近フランスの新聞に投書して、その中で、「自分たちが目指すのは、自由で多様性を認める国をつくることだ、決して地域のまわりに国境の壁を築いて、その中に立て籠もるつもりはなく、EUという共同体のなかに抱かれた開かれたものを目指す」と訴えている。これは注目すべき考えで、EU・ヨーロッパ連合の理念の一つは、人間一人一人、あるいは各地域の多様性を認めることです。スペインの中央政府が、こうした要求にどう対応するのかに関心が集まっている。
 スコットランドでも9月の住民投票で事が終わったのではなく、11月14日には、女性弁護士で独立推進派のニコラ・スタージョン氏がスコットランド国民党の党首に選ばれ、自治政府の首相の座に着いた。さらに9月の住民投票から2カ月間で、党員は25,000人から80,000人に増え、いま住民投票を行えば独立派が多数になるのではないかと言われている。
 地域の多様性、自主性をどう考えるか、ヨーロッパでは大きな議論になっている。
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by monsieurk | 2014-11-30 22:30 | 時事 | Trackback | Comments(0)

手漉き和紙

 ユネスコの補助機関が、「和紙 日本の手漉和紙技術」を無形文化遺産に登録するように勧告し、11月にパリで開かれる政府間委員会での登録決定が確実となった。去年の「和食」についで、和紙を漉く技術が世界の文化遺産として認められることになる。
 植物の繊維から紙をつくることは、紙のルーツといわれる中国をはじめ、世界各地で行われてきた。紙の専門メーカー「株式会社竹尾」が創立80周年を記念して、1979年11月に発行した『Handmade Papers of the World(世界の手漉き紙)』を寄贈されたことがある。d0238372_914912.jpg
 これは世界各地の手漉きの紙のサンプルを集めた貴重なコレクションで、その多様さは驚きだが、なかでも日本の和紙は、手触り、薄さ、丈夫さの点で群を抜いている。
 世界文化遺産としては、2009年に雅楽や京都祇園祭の山鉾行事、小千谷縮などとともに、島根県の石州半紙が登録されているが、今回は和紙を漉く技術そのものが登録の対象で、和紙としては、「本美濃紙」(岐阜県美濃市)と「細川紙」(埼玉県小川町、東秩父村)が加わることになる。
 美濃紙はコウゾを原料として、縦と横に交互に揺らしながら紙を漉く。そのために繊維が複雑にからみあい、丈夫でしかも薄い紙を漉くことができるのが特徴とされる。現在この技術を保持している職人さんは8人。これを機に後継者の養成に力を入れるという。
 一方の細川紙もコウゾだけを原料にして漉き、柔軟で丈夫なことから、江戸時代には商人の大福帳として多く用いられて重宝された。だが明治になって洋紙の生産がはじまると、需要はその方にとられて次第に生産量が落ち、いまでは職人はわずか7名という状態だという。
 日本の和紙は19世紀のヨーロッパで、画家や作家、詩人のあいだで垂涎の的であった。浮世絵の流行が、日本から輸入した陶器などの輸送の際の詰め物にされた北斎マンガや浮世絵の版画が切っ掛けだったことはよく知られるが、じつはこれらの木版が刷られていら和紙の丈夫さも、いち早く注目されたのである。ヨーロッパでは中世以来、羊皮紙(犢皮紙)がもっとも長もちする印刷媒体だったが、和紙もこれに劣らず長い保存にたえ、しかもはるかに軽量で大冊をつくることができることから珍重された。��
 フランス語の辞書には、大文字のJapon は「日本」、小文字の japonには、「日本製陶器」とならんで「和紙」という語釈があてられている。和紙を用いた印刷物はこのように一般化したが、なにせ輸入品だったから和紙を用いた本は特別なものであった。
 19世紀フランスの詩人ステファヌ・マラルメの詩集『半獣神の午後(牧神の午後)』は、画家エドゥアール・マネの挿画4点を添えた豪華本で、1876年4月、195部限定で出版された。この詩集の広告に、「日本の奉書紙に、金で表題が箔押しされ、椿色と黒の紐で結ばれている」とあるように、表紙には少し厚手の灰色の和紙が、詩句を印刷した頁には薄手の和紙が用いられていた。
 これほど世界で珍重されてきた日本の手漉き和紙の伝統が、あらためて認められることは慶賀すべきことである。
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by monsieurk | 2014-11-03 22:30 | 時事 | Trackback | Comments(0)

隠された事実・中東混乱

 今日の「イスラム国」の台頭にいたる中東情勢は、1988年8月のイラン・イラク戦争が終結し、その結果として1990年8月2日に起ったサダム・フセインのクウェート侵攻、そしてそれを阻止しようとした1991年1月の湾岸戦争に端を発している。
 1991年1月の湾岸戦争のときはスタジオで解説にあたっていた。1月17日朝、アナウンサーの質問に答えている最中に、イラクの首都バグダッドを攻撃するミサイルの映像がとび込んできた。「砂漠の嵐」作戦の開始だった。湾岸戦争には多くの謎があったが、その一つはそもそもイラクのサダム・フセインが、なぜ隣国クエートへ侵攻したのかだった。
 1990年12月にフランスで緊急出版された『湾岸戦争』は、現在進行中の事態について数々の新情報をもたらしてくれた。著者のエリック・ローランは作家でルポラーター、もう一人のピエール・サリンジャーは、ケネディのスピーチライターをつとめたあと、ABCテレビのパリ特派員となり、取材先で顔をあわせたことがあった。d0238372_1592444.jpg
 当時フセインは経済再生のために、OPECに対して原油価格の値上げを要求していたが、アメリカのクラスピー駐イラク大使は面談したフセインに、「アメリカはイラクに対して経済戦争を宣言することはない」と発言し、イラクを訪問した農産地出身の上院議員のグループは、政府はアメリカ産小麦の買い入れに信用供与を約束したと伝えた。さらに国務次官補のジョン・ケリーは議会で、アメリカはクウェートを守るために軍事力を行使する義務を負っていないと証言した。この発言は英国BBCで放送され、バグダッドにも届いていた。これらがフセインに、アメリカがクエート合併に青信号を出したとの誤解を与えたという説を、サリンジャーたちは紹介していた。事実、イラクのクウェート侵攻はケリー発言の2日後に行われた。
 同書にはさらに、イラクに軍需物資を提供してきた西側企業の一覧が載っており、イラクを軍事大国に育て上げたのが他ならぬ西側やソビエトであったことを暴露した。取材対象に深く食い入って湾岸戦争の内側を暴露した本書は、それ自体が貴重な情報源だった。
 湾岸戦争は作戦開始から1か月余りの2月28日に終結した。その直後、シュワルツコフ総司令官の記者会見が衛星中継で送られてきた。そのなかで司令官は、「メディアが上陸作戦を書きたててくれて本当に助かった。メディアに感謝している」と語ったのである。当初アメリカ軍は海から上陸作戦を敢行すると見せかけて、陸上部隊を砂漠から進攻してイラク軍の側面をつき完璧な勝利を得たのである。
 記者会見のあと、記者たちがシュワルツコフに、「他にわれわれに隠したことはないのか」と食ってかかる映像が流れてきた。その場面を見ながら、湾岸戦争が徹底した情報管理の下で戦われ、メディアは結果として情報操作に協力したことを痛感させられた。政治権力だけでなくあらゆる権力は、都合の悪いことは隠したがる。メディアの側がそれを突き崩すには洞察力が必要だが、それはものごとを歴史的文脈で眺めることで養われる。
 次回は、そもそもメデイアが伝える事実とはなにかを考えてみたい。
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by monsieurk | 2014-10-28 22:30 | 時事 | Trackback | Comments(0)

活版印刷

 大分の友人が車で出勤の途中に聞いた、FM放送の内容を知らせてくれた。この前会ったとき、活版印刷のことが話題になっていたからである。放送は金沢で活版印刷をはじめた松永紗耶加さんという女性の話題だった。
 松永さんは自分の作品を活版印刷で出版しようとして、富山の高橋印刷を探し当てて印刷を依頼した。その後、もう一度自作の印刷を頼むと、高橋さんから、道路の拡張工事のため印刷所をやめると云われた。活字は溶かされて金属として売られると聞き、松永さんは印刷の道具を譲り受け、その後高橋さんの許に通って、版の組み方、活字の並べ方など一から教えてもらった。こうして2012年に、金沢市で印刷所「ユートピアノ」を立ち上げ、いまは注文をうけて名刺などを活版印刷でつくっている。放送はこんな内容だったという。
 活版印刷は凸状に文字を彫った金属(主に鉛合金)の活字の一字一字に、インクをつけて紙に写す印刷方法で、明治初期からずっと印刷の主流だった。d0238372_1540473.jpg だが1970年代にオフセット印刷がはじまると急速にすたれ、いまではほとんど用いられなくなった。活版印刷では紙に活字を押しつけて印刷するので、紙にかすかに凹凸がのこり、その手触りや風合いはオフセット印刷とはまったく別物である。70年代以前の古書からは、こうした手触りを感じることができる。
 安保反対運動が盛んだった1960年代初め、編集長をつとめた「東大教養学部新聞」は、新橋にあった「時事新報」系の印刷所で刷ってもらっていた。当時すでに「時事新報」は印刷しておらず、主に学生新聞やチラシなどの印刷を行っていたが、月に一度、輪転機の騒音につつまれながら、ベニア板で仕切られた校正室で赤インクまみれに校正をしたものだった。たしかゲラを4校まで取り、そのたびに年輩の植字工の人が活字をひろって版組を修正してくれた。d0238372_15424294.jpg 4校に朱を入れて、校了のしるしに、ゲラをまるめて旗のようにして版組の端に立てた瞬間の安堵感を忘れないでいる。
 宮澤賢治はこうした植字作業を、『銀河鉄道の夜』で描いている。主人公のジョバンニがアルバイトをしている活版処での場面――
 「中はまだ昼なのに電燈がついてたくさんの輪転器がばたりばたりとまわり、きれで頭をしばったりラムプシェードをかけたりした人たちが、何か歌うように読んだり数えたりしながらたくさん働いて居りました。
 ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子に座った人の所へ行っておじぎをしました。その人はしばらく棚をさがしてから、
「これだけ拾って行けるかね。」と云いながら、一枚の紙切れを渡しました。ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平たい函をとりだして向うの電燈のたくさんついた、たてかけてある壁の隅の所へしゃがみ込むと小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。」
 文字が左右反対になった大小の活字がいっぱい並ぶ活字棚(ウマと呼ぶ)から、必要な活字を探し出して文章を組み立てる作業は、慣れないと簡単にはできない。宮澤賢治は1921年(大正10) 1月、上京して日蓮宗の国柱会本部で高知尾智耀と会い、本郷菊坂に下宿して、街頭布教を手伝うとともに、印刷の校正や筆耕をし、時間があると童話を書いた。
 そして1924年(大正13)4月には、詩集『春と修羅』を自費出版した際は、印刷を頼んだ花巻の「大正印刷所」で活字拾いの手伝いをした。こうした体験が、『銀河鉄道の夜』の印刷所の場面に生かされている。ちなみに『銀河鉄道の夜』の初稿が書かれたのは1924年12月のことである。
 活版印刷をめぐるもう一つの話題――
 2011年3月11日の大震災は各地に大きな被害をもたらした。群馬県高崎市にある広栄社印刷所は、オフセット印刷と平行して活版印刷も行っていたが、高崎は震度5強の地震に襲われ、厖大な活字がすべて活字棚から落下してしまった。これを元に戻すのは至難で、活版印刷をやめることを考えたという。
 この話がネットなどで伝わると、群馬県を中心として活動しているNPO法人「ジョウモウ大学」が、d0238372_1544529.jpg成人を対象とした授業の一環として、広栄社印刷所の活字を元にもどす作業をすることにした。授業では2011年12月から希望者を募り、復旧作業がはじまった。やがて印刷所は活版印刷を続けることができ、いまでは「ジョウモウ大学」に「活字部」が誕生して、活版印刷の技術を継承して印刷の依頼にも応じているという。活版印刷で刷らるものは仕上がりが違い、そのよさを知った人たちから注文が増えている。
 調べてみると、活版印刷を行っている印刷所は各地に点在する。念願であるステファヌ・マラルメの詩篇を翻訳し終えたら、小部数を活版印刷で刷って本をつくるのが夢である。
 
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by monsieurk | 2014-06-11 22:30 | 時事 | Trackback | Comments(0)