ムッシュKの日々の便り

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「ワレサ・連帯の男」

 詩游会の6月の映画鑑賞会では、同じくアンジェイ・ワイダ監督の「マレサ、連帯の男」(2013年公開、124分)を見た。
 前回の「灰とダイヤモンド」が扱っていた1950年代以後、ポーランドでは統一労働者党(共産主義)が政権を握った。冷戦下にあって、ポーランドは西側のNATO〔北大西洋条約機構〕に対抗する「ワルシャワ条約機構」の中心的存在であり、多くのソビエト軍が駐留していた。
 そして1970年代のポーランドは、共産主義体制のもとで、経済の停滞、言論の自由の剥奪など共産主義政権への不満が高まっていた。
 そんな中、1980年8月、グダニスクのレーニン造船所の労働者が政府の食肉値上げなどに抗議してストライキに突入。労働者代表のレフ・ワレサが政府と交渉して、統一労働者党の統制を受けない労働組合として「独立自主管理労組」を結成し、スト権、経済政策への発言権などを認めさせた。
 同年10月、全国の独立自主管理労組が結集して「連帯」(ソリダルノスチ)が結成され、ワレサが議長に就任した。政府側はこの大幅な譲歩の責任をとって、ギエレク第一書記が辞任した。
 その後を継いだヤルゼルスキー政権は、1981年以後、一定の経済改革を推し進めながら、その一方で「連帯」などの民主化運動は押さえつけた。
 しかし、沈黙を余儀なくされた反体制側は、1988年になると、消費者物価平均36%のアップと、賃金一律引揚げをセットとして、4月からは各地でストに突入した。ヤルゼルスキーは、与党であるポーランド統一労働者党(共産主義)の保守派を抑えて改革路線をとることにして、「連帯」との円卓会議を約束した。こうしたポーランド民主改革の動きは、当時、社会的停滞が目立っていたソ連にも影響をあたえずにはおかなかった。
翌1989年4月に、ヤルゼルスキー政権は「政治的複数主義」と「労働組合の複数主義」を認め、自主管理労組「連帯」を再度合法化した。「連帯」は1980年に結成されたが、81年のヤルゼルスキ政権の戒厳令施行によって弾圧されて事実上非公認とされ、活動家は地下に潜っていたからである。
 4月に開催された円卓会議での合意に基づいて、6月4日、複数政党による自由選挙が行われたが、これは東欧の社会主義圏では最初のことであり、特筆される出来事だった。
 選挙では政党としての「連帯」が圧勝し、政権をめぐる駆け引きがしばらく続いた後、改革を主導した統一労働者党のヤルゼルスキーが大統領となり、9月には、「連帯」に属するカトリック系知識人マゾビエツキが首相をつとめる連立政権が成立した。
 そして1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊し、東ヨーロッパの社会主義国の民主化が次々に起こった。
 ポーランドでも、12月30日には、憲法から「党の指導性」条項を削除し、国名をポーランド人民共和国からポーランド共和国に変更、国旗も戦前のものに戻した。
 ヤルゼルスキー大統領、マゾビエツキ首相という連立政権の成立によって出番を奪われた形となった「連帯」の指導者ワレサは、次第に政権への意欲を持つようになる。この背景には「連帯」内のワレサに近い労働者グループと、マゾビエツキに近い知識人グループの対立があった。連帯は二派に分裂し、1990年11月の大統領選挙では、ワレサ、マゾビエツキがともに立候補、他に第三の候補もあって票が分散して、いずれも過半数をとれず、決選投票でワレサがようやく大統領に選出された。
 映画「ワレサ 連帯の男」は、1980年代のはじめ、イタリアの女性ジャーナリストがレーニン造船所で働くワレサの家を訪れ、「連帯」の委員長として戦った彼を取材するところから始まる。ワレサは1970年12月に起きた食糧暴動の悲劇からはじまった自分の抵抗運動を語りだす。映画はワレサを主人公にして、ポーランドの現代史を描きだす。なお、レフ・ワレサは1943年9月29日生まれ。1967年にレーニン造船所で電気工として働き、1980年に「連帯」の初代委員長に就任。1983年にノーバル平和賞受賞。1990年にポーランド共和国初代大統領に就任。1995年まで任期をつとめた。
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 映画鑑賞会のあと、会員の一人、川瀬藤典氏から以下のような感想が寄せられた。氏の了解を得られたので、掲載させていただく。
  
先日は映画鑑賞会ワイダ監督作品「ワレサ 連帯の男」を見せていただきました。この映画に感動いたしました。そこで、いろいろと思いついた感想をメールさせていただきたくなりました。映画「ワレサ 連帯の男」は、ポーランドの労働者の抵抗による共産主義政治体制から民主化への道を描いた映画でした。それは奇跡的とも思える粘り強い運動による暴力のない方法です。それを表現する為、大筋はノンフィクションであっても、細かい場面はワイダ監督によるフィクションを含んだ手法により芸術的作品に仕上げられた映画と思いました。記憶に残った場面を順序が不正確ですが、いくつかあげて見ます。

①イタリア人女性記者がタクシーでインタビュー会場に行く場面当局らしき人達の尾行と盗聴、盗撮が行われていました。
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この導入部で推理映画を見るような緊張感とわくわく感を与えられ、まず映画に引きこまれました。

②ワレサがインタビューを受ける前に家庭で準備する場面。奥さんがよそ行きの白いシャツを準備したのにそれを着ずネクタイをしてあげようとすると、最初は受け入れても最後はノーネクタイで出かけた。
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なぜそうしたのだろうか?と思いました。これはワレサの世間的な型に嵌まる事を嫌う人柄を表し、また夫婦の機微を感じました。監督はここでワレサの人柄の一面を表すとともに、家庭とのあり様を示しているのかと思いました。

③映画は80年初頭、ワレサの自宅で、イタリアの女流ジャーナリスト、オリアナ・ファラチがインタビューを行う形で始まります。そこに、ただの電気工が労働者のトップになるまでの経緯がカット・バックで挿入される手法が用いられています。インタビューの最初では、ワレサは警戒して話したがらない様子です。タバコをふかし、足を組んでふんぞり返り、まるで記者の値踏みをしているように見えました。
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監督はなぜこういうふうに描いたのか?映画を見終わってから、よくわかりました。それはまとめの部分に書きました。

④回想場面で妊娠した奥さんの足を洗う場面
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ワレサの奥さんに対する深い愛を表現していると思いました。この場面の構図からなぜか、ふと受胎告知の絵画を連想いたしました。この事を友人に話すとマグダナのマリアがイエスの足を洗うというエピソードが聖書にあると教えてくれました。調べると、その他にも、最後の晩餐の後にイエスが弟子の足を洗うエピソードなど、足を洗うという事がキリスト教に深く関連付けされていると理解できました。そう考えると、まさに聖母マリアのイメージです。

⑤家庭から当局との暴動衝突、ストライキ突入・団体交渉や当局に出頭にあたって腕時計と指輪を奥さんに託す場面(何回も出て来きます)
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特に腕時計と指輪を置いた時の音が、ワレサの心の区切りをつける意味を感じさせられました。と同時にそれがお金に変えられる腕時計と指輪から労働者の暮らしぶりを思いました。

⑥ワレサとその仲間が体制側の集会で体制の提案に賛成し体制の犬となった労働者をその家庭に訪ねた場面で労働者のおかれた貧しく厳しい現実を表現し、そして体制の犬となった弱い労働者を赦す場面。
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ワレサの労働者をまとめていく方法を見たような気がしました。リンチされるかと怯える弱い労働者に対して、制裁を加えて怒るのではなく、まずは話を聞いて、自分のできること「電気の事なら俺にまかせろ」と言い困っていることを解決=労働者にとっては一種の奇跡を起こす力を示したのでした。弱い労働者の味方である事を示し、解決する力を示し信頼を得る方法でした。

⑦インタビューで当局に投獄された時の事を聞かれて、投獄への不満や抗議はせず、意外にも静かで周りの騒ぎに邪魔されず深く考えられると返答する場面。
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強がりかも知れないが、どんな窮状に陥ってもプラス思考で考えている強さを知りました。窮状こそが信念を強くしていくようにも思えました。

⑧当局が家宅捜査にやって来て奥さんが慌てて証拠を隠そうとしている場面でキリスト教ミサのテレビ放送が始まると奥さんが全てを投げ出してテレビにかじりつく場面。当局の助手までもがミサのテレビ放送に心を奪われ膝をついて祈ろうとした。
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ポーランド人にどれだけ深くキリスト教が沁み込んでいるかを象徴している画面ではないかと感じました。

⑨ストライキが長期となり膠着状態で労働者達が分散してしまいそうになった時、ミサを企画しストライキを維持した場面。
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ポーランド人にとってキリスト教が深く生活に根ざしていることを、ワレサは良く理解し、賢くキリスト教を利用して労働者の分散を防ぎ人々をまとめたと思いました。

⑩インタビューでリーダー論を述べている場面。ワレサは自分の事を「5ページも本を読んではいられないが、しかし5秒で決断できる能力がある」と述べる。
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ワレサは知識人ではないと宣言し、しかし現実に対処できる自信を示しています。⑪若い学生達が自分達は青二才と見られているのじゃないかと悩み、ワレサに協力を求める場面。
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知識人の実践へのかかわりへの限界性と自信の無さを表していると思いました。

⑫家庭に多くの闘争の同志が入り込み、奥さんが怒りを爆発させた時「チフス発生の札」を扉にかけて和解する場面、またチフス発生の札は映画の最後のハッピーエンドの場面でも登場します。
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シリアスな場面をユーモアあるいは皮肉で切り抜けるワレサの聡明さを感じ取れます。それを描く事により映画全体の薬味としている、ワイダ監督の凄さを感じました。何故「ペスト」でなく「チフス」なのだと考えると、「チフス菌」という言葉に何か伏線がありそうな気がしました。調べると関係があるかどうか分かりませんが、同じポーランドのアンジェイ・ズラウスキ 監督「夜の第三部分」というチフス菌実験 の恐ろしい映画がありました。その他にもこんなエピソードがみつかりました。(映画と直接関係ないかもしれませんが知って良かったと思えた話なので書きます)ワイダ監督は大の日本好きで有名です。1920年に、孤児を助けた体験が、ポーランド人の間で語り継がれているそうです。ロシア革命の内戦中に多くのポーランド人がシベリアに抑留されて命を落とし、孤児が増えました。子どもたちを助けてもらうため、ポーランドはアメリカやイギリスに救命嘆願書を送りました。返事がきたのは唯一日本だけだったそうです。1920年から22年にかけて、計5回765人の孤児が日本で想像もつかない温かいもてなしを受けたそうです。たとえばそのひとつがチフスです。到着直後の子どもたちはチフスにかかり最悪の健康状態でしたが、日本赤十字の看護師たちや医師たち、さらに全国の日本人から寄付も集まり、子どもたちは2年後に全員が元気でポーランドの戻れました。その子たちは生涯にわたり「日本はとても良い国、日本人の精神がすばらしい」と伝え、いまもそれは語り継がれているそうです。
ワレサは、1981年に「ポーランドを第二の日本にしたい」と語っています。これはポーランドでは誰もが知っている名言となっているそうです。

⑬ワレサが当局のお偉方二人に連行される場面で、覚悟を決めたワレサが家族全員小さな子供達も連行の現場に立ち会わせた。
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親は子供に何を伝えるべきか、現実をしっかりと見ることなど深く教えてくれる場面ではないかと思いました。

⑭政治犯収容所での食事の場面で向かいの人の皿と交換して毒を盛られていないか警戒する場面。
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ワレサのあらゆる事に油断せず警戒を怠らない性格を表しているのかと思いました。

⑮政治犯収容所で情報統制の中でラジオを改造して世界の情報を獲得している場面。
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ワレサの電気工学への実践的な知識が実際に役に立っているとわかりました。

  「まとめ」
モノクロの記録映像とワイダ監督が創作したワレサの数々のエピソードがカラーの場面で散りばめられた映画でした。この手法をとることでこの映画においてワイダ監督は、ワレサという人物を英雄的存在ではなく、実際に存在した生き生きとした人物として描きました。⑩の場面ではインテリを痛烈に批判する人間であり、また③の場面での態度から傲慢不遜な性格、⑤や⑬の場面から妻を大事にする子煩悩な(現実に6人の子沢山)よき家庭人で、ここでは饒舌な自信家でもあるというように、さまざまな場面から、矛盾をかかえたワレサという人物像(人間そのもの)が浮かび上がってきます。ワイダ監督は「連帯」から立候補し上院議員も務めました。実際にワレサに会い、ワレサと行動を共にしていたのです。当時のポーランドは経済は破綻状態で政治的にも共産党体制は行き詰まっていました。ポーランドを救ったワレサはまさに救世主でした。これは言い過ぎかもしれませんが、①の聖母マリアのイメージがワレサ=救世主に繋がります。⑥の場面で示される体制側の犬となった労働者に赦しを与え、「俺にまかせろ」と奇跡の言葉を発する場面など救世主イエスキリストと重なります。英雄でない、特別な人でないワレサが救世主になり得た事、そしてこのようにワレサを表現する事でワレサが見る人にとって身近なものとなる事で、この映画が芸術作品として我々に感動を与えてくれる理由に思えました。2013年のワイダ監督87歳の晩年作品は、ポーランドの英雄を、あえて英雄化せずに人間としてのワレサを描き、混迷する現代に於いて「次なるワレサ」の出現を期待し願い、そして更に、特別な人でない普通の人が「次なるワレサ」になれるとも言っているようにも思えます。
充分にまとめきれてはいませんが、映画「ワレサ 連帯の男」を見て、沢山の事を感じさせていただけた事は、お伝えできたかと思っています。(川瀬藤典)

 一つ書き添えれば、ポーランドの民主化の動きを陰で支えたのは、当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ二世(在位1978年10月~2006年4月)だった。教皇は就任すると8カ月後には、祖国ポーランドを訪問して、首都ワルシャワの中心にある広場に集まった群衆に向って、「恐れるな」と訴えた。この4カ月後、「連帯」が主導するストライキが起り、民主化へ大きく動きだした。ポーランドは国民の98%がカトリック教徒といわれる国である。
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by monsieurk | 2017-07-17 22:30 | 映画 | Trackback | Comments(0)

詩游会の映画鑑賞「灰とダイヤモンド」

 前回のブログで紹介した、放送大学神奈川学習センターでの詩游会では、ときどき映画会も開いている。5月の第2回目は、ポーランドのアンジェイ・ワイダ監督の「灰とダイヤモンド」(1958年。103分)以下は、その観賞用に書いた背景説明の文章である、

 第二次世界大戦が終結した、1945年5月8日。ポーランドの地方都市。教会の前で二人の若者が暗殺を目的に待ち伏せをしている。相手は県の労働者統一党(共産党)書記シュチューカである。
 ポーランドは第二次大戦中の5年間、ナチス・ドイツの占領下にあり、国内の抵抗勢力は親ソビエト的な共産主義者(人民軍)と、愛国的な反共主義者(国内軍)に大きく二分されていた。両者は首都ワルシャワに迫るソビエト軍に呼応して、1944年8月1日に、凡そ7万人のポーランド人がワルシャワで蜂起した。しかし圧倒的兵力を残していたドイツ軍の反撃をうけて殲滅され、古都ワルシャワは破壊されてしまう。
 この結果、国内軍と共産党系の人民軍は分裂し、国内軍は共産党系に吸収されるのを恐れて、1945年11月には配下の軍隊に解散を命じた。
 映画の冒頭で待ち伏せしている二人の若者、マチェックとアンジェイは、この国内軍の残党で、解散させられた後は、地方の森を拠点にして、ソ連軍やポーランド統一労働党(共産党系)にたいしてゲリラ活動を行なっている。
 1945年5月8日、ナチス・ドイツが降伏して、共産党系のポーランド労働者統一党が国内の覇権を握った。するとかつて国内軍に属していたゲリラ・グループは、共産主義政権の樹立を阻止しようとして抵抗し、国内は内戦状態に陥った。映画の冒頭でも、テロ・グループは中央の指令で、県の指導者である共産主義者の暗殺をこころみるが、殺したのは人違いで、普通の労働者だった。
 こうした歴史的転換期を舞台にした映画「灰とダイヤモンド」は、二人の主要人物、狙われた労働者党の地方書記シュチューカと、テロをくわだてた国内軍系のゲリラ、マチェクを軸に展開する。シュチューカは、かつてスペイン内戦に参加して負傷し、第二次大戦ではソ連軍に加わってドイツ軍と戦った経歴の持ち主である。いまは地方共産党の責任者として、地方の行政まで握ろうとしている。
 一方のマチェクは、ワルシャワ蜂起に参加したが、追い詰められて地下水道を逃げまわった(これが映画「地下水道」のテーマである)体験を持つ。いまはワルシャワから地方に来て、共産党系の勢力にたいするテロ活動を行っている。これもワルシャワに残る国内軍の生き残りの組織からの命令で行動している。
 いまは立場の異なる二人だが、かつては共に祖国を解放するため、ナチスと勇敢に戦った過去があり、そのころを良き時代として思い出している。それがナチス・ドイツという敵がいなくなると、またちまち対立する関係になってしまうのだ。
 映画では、こうした当時の複雑な政治状況を背景に、上からの命令でテロを実行してきた若者が、人を愛することで過去の自分を捨てて、新たな生き方を選択しようとした瞬間に悲劇が起こる。
 マチェクと恋人が教会の廃墟で、十字架のキリストが逆吊りになっているところで語り合うシーンは、映画史上最高のものといわれる。
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原作はイエジー・アンジェイェフスキの『灰とダイヤモンド』(岩波文庫)
脚本は原作者とアンジェイ・ワイダ(ポーランド語ではヴァイダ)
原作では、1945年5月5日から8日までの4日間にわたる物語を、映画では約24時間の出来事に圧縮して展開している。
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by monsieurk | 2017-07-14 22:30 | 映画 | Trackback | Comments(0)

メキシコ革命Ⅱ

 マデロ政権の樹立は比較的スムースに行われ、政情は安定したか見えた。大土地所有者などの支配層は、その後着々と態勢を立て直し、一方で革命派は分裂を深めた。
 大統領選挙では国民の90パーセントの支持を得て政権の座についたマデロ(写真左)だったが、d0238372_8552539.jpg行政能力に乏しく大統領としては凡庸だった。彼は暴力ではなく秩序を保って改革を進めると宣言したが、ピリャやサパタに率いられる農民層は、すぐにも土地改革を行うことを要求した。しかしマデロには真の意味の土地改革を進める意思はなく、それが明らかになると、革命派はマデロを革命の裏切り者と断じ、大地主が所有する土地の3分の1を収用し、さらには革命に反対する者の財産を没収するとして、ふたたび武装闘争を開始した。
 マデロは政権を握ると、ピリャやサパタの農民を中心とした部隊を政府軍に組み込み、その指揮をディアス時代からの軍人であるウエルタ将軍に委ねた。ピジャたちは当然これに不満だった。ウエルタは彼らを烏合の衆として、彼らの戦力をいまだに続く反革命派との戦闘のなかで削ごうとした。写真は農民軍を率いるパンチョ・ビリャである。d0238372_8571451.jpg
 こうした戦いの最中、ピジャは規律違反を理由に逮捕され、ウエルタによって処刑される寸前、事態を知ったマデロドの指示で危うく死刑を免れるという事件も起った。映画『戦うパンチョ・ビラ』が描いているのは、まさにこの時点のメキシコである。
 一方でマデロ政権は、言論や労働運動の自由を保障したため、労働運動は都市を中心として労働運動は空前の盛り上がりをみせた。首都でアナーキスト系の労働運動の指導者たちによって「世界労働者の家」という組織もつくられた。こうした機運が経営者や外国資本に強い危機感を抱かせ、反マデロの動きを加速させる原因となった。左右からの反マデロの機運をとらえて動いたのが、駐メキシコ米国大使ヘンリー=レーン・ウィルソンだった。彼はマデロ政権の軍事的支えであるウエルタ将軍に働きかけてマデロから離反させ、政権転覆に踏み切らせたのである。こうして第2次革命ののろしは1913年2月9日、メキシコ市であがった。
 以後のメキシコの政情をめぐる混乱については、堀口九萬一を扱った拙著『敗れし國の秋のはて 評伝 堀口九萬一』(左右社、2008年)で詳しく書いたことがある。堀口九萬一はこのとき駐メキシコ臨時公使をつとめていたのである。
 2月9日は日曜日で、メキシコ市は朝から晴れていた。数日前から戦闘がまた始まるのではないかという風説が流れていたが、この日の早朝、市内で砲声が響いた。亡命したディアス前大統領の甥のフェリックス・ディアスと前陸軍大臣レイエスを獄中から救い出し、彼らを首領に戴いてマデロ政権を転覆させようとする武力蜂起だった。そして情勢が緊迫した午後2時頃、突然、マデロ大統領夫人の一行が日本公使館を訪ねてきた。
 東京の港区飯倉にある外務省外交資料館には、駐メキシコ臨時代理公使、堀口九萬一から発せられた公電や、本省からの訓電が所蔵されており、その主要なものは、『日本外交文書』大正2年(第1冊)中に、事項14「メキシコ革命動乱一件」としてまとめられている。
 堀口臨時代理公使から加藤高明外務大臣宛に、2月10日に打たれた公電は次のようなものである。
 「二月九日朝突然当市ニ革命騒動起リ曽テ Vera Cruz 叛乱ニ失敗シ入獄中ノ Felix Diazヲ戴キ政府ヲ顚覆セント企テ形勢容易ナラサリシカバ大統領夫人ノ父母ハ華族一同ト共ニ本官外出中ニ当公使館ヘ避難シ来リ居レリ右ハ如何取計フヘキカ何分ノ義御電訓ヲ国府尤モ勝敗ハ目下尚予見シ難シ帝國臣民中ニハ死傷ナシ其ノ保護ニハ十分注意シ居レリ」
 堀口九萬一が再婚した妻のスチナはベルギー人で、日ごろからマデロ大統領夫人と昵懇の間柄であった。そして公使館には九萬一の先妻との間の息子で、やがて詩人として有名になる大學も生活を共にしていた。
 この九萬一の報告に接した外務省は、2月12日付けで訓電を送った。内容は、大統領の両親一行が(大統領夫人だけは、その日のうちに大統領官邸に戻った)日本公使館に避難してきたのは、身辺の危害から逃れるためのものと思われるので、そのまま滞在させても差し支えない。ただし公使館に避難している間に政治的活動などをしないように十分注意ありたいというものであった。
 これに対して九萬一は翌日の公電で、彼らが当館に避難してきたのは、「平素ノ極メテ親密ナル交情ニ信頼シテ」のことであり、政治的な活動への懸念は皆無だと伝えている。
 9日に起きた軍事クーデタは、九萬一の公電にもあるとおり、モンドラゴン将軍とルイス将軍に率いられた部隊が、軍事刑務所に収監されている前大統領の甥で死刑判決を受けていたフェリックス・ディアスと、前大統領の側近であったベルナルド・レイエスを奪還する行動に出たことに端を発する。そして刑務所をまもる政府軍の抵抗にあって目的を達しないまま市街戦がはじまった。
 情勢は政府軍が優勢で、一進一退を繰り返してこの日は暮れた。ただ政府軍にとって痛手だったのは、戦闘で司令官のヒラール将軍が重症を負ったことである。マデロはその後任にヴィクトリアーノ・ウエルタ将軍を司令官に起用したが、これが大きな誤算だった。d0238372_913154.jpg
 ウエルタは反乱軍を包囲する一方、包囲されたモンドラゴンたちにひそかに使者を送って取引を行った。そしてこの陰謀の仲介役をつとめたのが、アメリカ大使のウィリアム=レーン・ウィルソンであった。
 マデロは政権につくと、メキシコで産出する石油に課税する方針を打ち出し、アメリカ資本の石油会社「タンピコ」の経営に大きな影響をあたえていた。さらにアメリカとの間ではコロラド川の船舶の航行とトラウァリロの水の供給の件で紛争が起っていたのである。
 マデロにツキがなかったのは、前年1912年11月、アメリカの大統領選挙でマデロに好意的な民主党のウドロー・ウィルソン(同名のアメリカ大使とは血縁関係はない)が大統領に選出されたが、彼の任期は3月から始まることだった。このときはまだ共和党のタフト大統領が政権の座にあり、大使の反マデロの行動を支持していた。
 メキシコでは内乱勃発以来一週間で死傷者は5千人をこえ、その多くは非戦闘員の市民だった。メキシコ市郊外のバルブエナの野原では、連日遺体を焼く煙がたなびいていた。
メキシコをめぐっては、いまだに石油の利権をもつイギリスや、内乱に乗じて武器を売りこもうとするドイツや日本の利害がからみあっていたが、アメリカのタフト政権は、ウィルソン大使の進言にもとづいて、ウエルタを大統領にすえ、これまでの投資を守ろうとしたのである。
 数日後、マデロ大統領と副大統領スアレスは、ウエルタ側に寝返った官邸の守備隊長アウレリアーノ・ブランケル将軍によって逮捕された。2月19日、ウエルタは大統領に辞職を迫ったが、マデロは殺されても断じて辞職はしないとはねつけた。この前日、大統領の兄のグスタヴォはウエルタから昼食に招待され、出向いたところをその場で逮捕され、その夜殺害された。
 その後の事態の推移は、堀口九萬一が書き残した「メキシコ革命騒動体験記」(『世界と世界人』、第一書房、1936年)に、日を追って詳しく述べられている。
 2月18日の夜、マデロはヴェラ・クルスへ送られ、そこからキューバへ国外追放になるというニュースが伝わり、日本公使館に非難していた大統領の家族は、一目大統領に会うために駅頭へ出かけて行った。だが大統領は姿を見せず、一同はむなしく公使館へ引き上げてきた。
 マデロは頑として辞職を受け入れなかったが、遂には、身の安全を保障するのと引き換えに辞表に署名させ、それを一時外務大臣のラスクラインがあずかり、無事国外へ出たのを見届けたのちに、ウエルタに手渡される手はずになっていた。しかしウエルタは約束を履行せず、この夜、マデロの辞職と自らが仮大統領となったことを公表した。そしてマデロと副大統領のピノ・スアレスは、22日の夜、逃亡をくわだてたとして殺害されたのである。
 九萬一の外務大臣宛の公電では、官報に「2月22日午後11時政庁監禁室ヨリ監獄ニ護送セラルル途中「マデロ」党員之レヲ奪ヒ取ラントシ其闘中殺害セラレタル旨」が発表されたと伝えている。同じ公電のなかで、北部において「マデロ」党が新政府に対して反旗を翻したことも述べられている。
 2月24日、前大統領フランシスコ・マデロの葬儀が行われた。九萬一は家族全員を連れて列席し、日本人居留民の多くも出席した。式は時勢をおもんばかって簡素なものであったが、多くのものが出席することで抗議の意を示したのだった。前内閣の閣僚の逮捕や逃亡のニュースが、しきりに新聞に報じられた。
 2月25日、九萬一は前日に続いてシリオン邸にマデロ未亡人を訪ねて、お悔やみと慰問の気持を伝えた。なおこの日の行動については、息子の堀口大學がのちに記した「白い花束」では記述が異なっている。
 大學によると、この日火曜日の朝、乗馬でメ故マデロ夫人の家へ行ってみると、「夫人の忠僕日本人黛某が出て来て、昨夜ヴェラ・クルスへ向けて出発されたと云ふ。そんなわけはない筈。多分何かの事情があって、身を隠されたものであろう。哀れな人の上に安き日あれ!」(「白い花束」堀口大學全集第6巻)。
 九萬一がマデロ夫人に会ったのは前日が最後であって、夫人は前日の夜にはどこかへ身を隠したというのが事実であろう。
 2月26日の午後、九萬一は妻のスチナや大學たちとともに、フランス墓地につくられたマデロの墓に詣でて献花をした。彼の墓は兄グスタヴォのものと隣り合っていて、労働者と見られる人たちが大勢墓にやってきて花環を置いていった。その一つには、「デモクラシーの犠牲」と書かれていた。
 一度は政権を握ったウエルタ将軍だったが、その後に独裁化がはじまると、アメリカのウィルソン大統領はウエルタ政権の不承認に転じて、駐メキシコ大使を更迭した。さらに武器援助も停止したため、1914年末には、ビリャとサパタは相次いで首都メキシコ市に乗り込み政権を掌握した。映画「戦うパンチョ・ビラ」は、彼らが政権奪取する寸前で終わっているが、彼らにも統治能力はなくメキシコは三度混乱に陥った。
 メキシコ革命が一つの終わりを告げたのは、革命派のなかでも立憲的な考えをもつカサランが政権の座に着いた1917年のことである。このとき「1917年憲法」といわれる憲法が制定され、そこでは土地、地下資源は国家に帰属すること、大土地所有の分割、農民や労働者の基本的権利の保護(8時間労働、最低賃金、ストライキ権、団体権の承認)、信仰の自由の保障、教会の特権的地位の否定など、世界初の民主的な内容を盛り込こまれ、メキシコ革命は大きな成果をあげたのだった。
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by monsieurk | 2015-04-25 22:30 | 映画 | Trackback | Comments(0)

メキシコ革命Ⅰ

 4月14日の午後、NHKの「BSプレミアム」で放送された映画『戦うパンチョ・ビラ』(原題はVilla Rises)を観た。これは1910年から10年間続いた南米メキシコの革命を舞台にした作品で、革命軍のリーダーの一人パンチョ・ビラ(スペイン語の発音はパンチョ・ビリャ)と、彼に従った農民革命軍の行動を描いたものである。d0238372_784254.jpg
 舞台は動乱の続く1912年のメキシコ。アメリカ人の武器商人リーは、密輸の機関銃を政府軍に売り渡すため、メキシコの荒野に複葉機を着陸させる。取引は成功するが、着陸の際に車輪を壊したリーは、町の鍛冶屋ゴンサレスに修理を頼む。だが修理に一日かかると言われて、一晩彼の家に厄介になり、そこで出会った彼の娘フィナーに一目惚する。
 飛行機は無事に直って飛び立とうとするとき、町は政府軍に襲われ、ゴンサレスは大勢の人たちと共に捕らえられ、吊るし首にされてしまう。この一部始終を町の外から偵察していた反乱軍の一隊が逆襲をしかけ、銃撃戦の末に政府軍兵士を捕虜にし、リーも武器を売ったとして逮捕される。この反乱軍のリーダーこそがパンチョ・ビリャだった。飛行機は戦闘に役立つという副官フィエロの意見を聞き入れたビリャはリーを解放し、以後リーは反乱軍に加わって飛行機を使って味方を有利に導く・・・。
 映画の監督はバズ・クリーク。配役はビリャをユル・ブリナー、アメリカ人飛行士リーをロバート・ミッチャム、副官フィエロをチャールス・ブロンソンと、当時の人気俳優が演じている。
 メキシコ革命をテーマにした映画としては、1931年に『戦艦ポチョムキン』を製作したエイゼンシュテインたちが、凡そ1年間メキシコに滞在して撮影した『メキシコ万歳』が有名だが、これは諸々の事情から未完に終わり、1979年になって、ただ一人の生存者アレクサンドロフの手で完成、公開された。モンタージュ理論を実践したドキュメンタリー・タッチの傑作として知られている。
 1951年にアメリカで製作された『革命児サパタ』は、監督はエリア・カザンで、マーロン・ブランドが主人公のサパタを演じ、脚本を『怒りとブドウ』のノーベル賞作家ジョン・スタインベックが担当した。主人公エミリアーノ・サパタはビリャとともに、メキシコ南部で革命軍を率いた人物で、彼を通して反植民地運動と土地開放を主眼とするメキシコ革命の実態と歴史的意義を描こうとした力作である。
これに比べて、『戦うパンチョ・ビラ』は西部劇の色彩が濃く、映画としては二流だが、テーマであるメキシコ革命の時代背景は正確に設定されている。
 19世紀末から30年続いたディアス将軍の独裁政権が倒れ、フランシスコ・マデロが大統領の座に着いたのは1911年11月のことである。
 マデロはメキシコ北部コアウィラ州の大地主の長男として生れ、フランスとアメリカで高等教育を受けた。大学を卒業後は、父からアシエンダと呼ばれる広大な土地の経営を引き継ぎ、やがて政治活動に身を入れるようになった。
 ディアスが一度は民主化を宣言しながら、1910年に行われる大統領選挙に再度立候補し、他の候補を力で抑えようとするのを見て、マデロは結成された「再選反対党」の大会で大統領候補になった。ディアスは最初こうした動きを黙認していたが、選挙が近づき、国内で暴動事件が起るなど状況が緊迫すると、態度を一変してマデロを逮捕した。
 ディアスが7月10日に実施された大統領選挙で6選を果たすと、翌日に釈放されたマデロは10月にアメリカへ亡命した。マデロはアメリカから大統領選挙の不正を指弾し、11月20日を期して、武装蜂起するようにメキシコ全土に呼びかけた。動きを事前に察知したディアスは、武力を政府軍を動員して押さえ込みにかかったが、反乱は日を追って勢いを増し、政府軍と反乱軍の間で戦闘が頻発するようになる。
 北部ではパンチョ・ビリャ(本名ドロテオ・アランゴ)が貧農層を組織して勢力を拡大し、南部では小作人エミリアーノ・サパタが立ち上がって、大土地所有者から土地を奪取して、これを農民に配分することで力を急速に蓄えて、政府軍にゲリラ戦を挑んだ。農民を中心にしたビジャやザパタの戦闘部隊には、兵士の妻や子どもたちがつき従っており、彼女たちも銃をとって戦闘に加わり、負傷者を勇敢に助けた。
 マデロはこうした反乱のなか、翌1911年2月に帰国。反乱軍は各地で政府軍を破り、首都のメキシコ市でもディアスに退陣を迫るデモが起った。そして3月には、マデロを中心にすべての反ディアス派の軍事指導者が、北部メキシコのシウダード・フェレス(リオ・グランデ川を挟んで、アメリカの町エル・パソの対岸にある)近くに集まり、ディアス打倒の意志を確認した。
 事態がここに到って、ディアスは5月25日議会に辞表を提出し、フランスへ亡命した。この半年後の11月6日、マデロが大統領に就任した。これがメキシコ革命の前半期の出来事だが、アメリカ人ジャーナリストのジョン・リードは、1910年にメキシコで反乱が起こると、いち早くフランシスコ・ピリャが率いる農民革命軍のもとを訪れて、寝食をともにしつつ、その取材記事をアメリカの雑誌に送った。このルポルタージュをまとめたものが『反乱するメキシコ』で、ここには優れたルポルタージュの基本である、現場主義、徹底した資料の蒐集、深い洞察、優れた文体など、必要な要件がそなわっている。
 リードは後に1917年のロシア10月革命を取材して、世に知られたルポルタージュ『世界をゆるがした十日間』を書くことになるが、その実力はメキシコ革命のルポですでに証明されていた。(続)
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by monsieurk | 2015-04-22 22:30 | 映画 | Trackback | Comments(0)

憧れの久我美子

 パリ滞在中にメールで送られてきた古本屋のカタログで辻征夫の詩集『かぜのひきかた』(書肆山田、1987年)を見つけ、帰国後に届くように注文した。辻征夫の6冊目の詩集で、八木幹夫が『余白の時間 辻征夫さんの思い出』のなかで絶賛している。これは八木が名古屋にある古書店「シマウマ書房」の招きで、敬愛する辻征夫について2010年に行った講演を本にしたものである。そのなかにこんな個所がある。
 「私の家内は、初めて辻さんがうちに遊びに来たとき、あの人がそんなに尊敬する詩人なの? 偉そうには見えないんだけどって(笑)。とんでもないよ、あの人はすごいんだよって私が言って、その後で辻さんの作品を読むようになったら、すぐに「ああ、辻さんはすごい」って(笑)。『かぜのひきかた』(書肆山田)だとかいろいろな作品を読んで、家内も「詩を読んで泣いたの初めて」とすっかり感動しちゃった。辻さんという人はなにかのんきそうに見える実態と、書いているものが釣り合わない感じがする、なんてことも言ってました。」(同書、35頁)
 その『かぜのひきかた』に、「向島金美館」と題する詩がある。少年の辻がよく映画を観に通った映画館の思い出をテーマにしたもので、そこに懐かしい名前が出てきた。

久我美子のはな声
あのはな声は
あのホクロから出すのかしら
日あたりのいい縁側のテーブル
テーブルの下のスリッパはいた
久我美子の足

ごにょごにょ

動いて

むきあっているスリッパはいた
男の片足

ごにょッ

おさえた

(あれがラブシーンだったなんて!)

日あたりのいい縁側の
ガラス戸の外は愛の砂丘* 
  だったのかな
久我美子のせりふもほかの場面(シーン)も
なにひとつおぼえていないけれど

忘れられないのはハモニカのメロディーと
歌のことば
〽ソラハ
ドーシテ
アオイノカ
ヒグレノマチヲ
カラコロト
カゼガトオッテ
ユクカラカ

   ――「愛の砂漠」というのがこの映画のタイトルだった。
     歌には二番もあったようだが、おぼえていない。

d0238372_103840100.jpg 久我美子(1931.1.21~)は大好きな女優だった。旧華族久我家の生まれで、学習院中等部に在学中に東宝の第1期ニューフェイスに採用された。同期には三船敏郎などがいた。「愛の砂丘」は木下恵介監督がオリジナル・シナリオを書き、1953年に公開された作品である。
 久我さんはデビュするや、その気品ある振る舞いで多くのファンを得た。木下恵介監督「風花」(1959)、小津安二郎監督「彼岸花」(1958)、同「お早う」(1959)など多くの監督が彼女を起用し、1950年公開の今井正監督の「また逢う日まで」での岡田英次との窓ガラス越しの接吻は大きな話題を呼んだ。
 この映画は当時住んでいた大森にあった映画館で観たが、ここは面白い映画館だった。二階が理髪店になっていて、髪を刈ってもらいながら、目の前にあいたガラス窓から一階のスクリーンを見下ろすことができた。散髪が終わると急いで階段を駆け降りて、満員の会場に潜り込んで映画の続きに見入った。辻征夫少年が通った向島金美館のように、新しい映画がかかると映画館はいつも満員だった。
 久我さんが俳優の平田明彦氏と結婚したときは、中学生ながら心底がっかりした記憶がある。お元気だろうか。

 今年2013年のブログはこれが最後です。みなさま良い歳をお迎えください。
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by monsieurk | 2013-12-30 22:30 | 映画 | Trackback | Comments(0)

天井桟敷の人びと(8)

d0238372_1229835.jpg 『天井桟敷の人びと』の上映会が開かれたのは1945年3月2日の夜である。会場はパリ16区にあるシャイヨー宮の劇場だった。上映会は、戦争中捕虜となったり、収容所に入れられたりした人たちを救済する夕べと銘打たれていた。プレヴェールとカルネは一階の椅子席で多くの招待客とともに観ることにした。映画の紹介アナウンスは俳優のジャン・ジューヴェが買って出てくれた。
 上映がはじまったが、カルネは音声を調整するために客席と映写室との間を幾度も往復しなければならなかった。劇場がざわざわしだしたのは、映画が第二部の後半にさしかかったところで、終わりまではまだ30分以上残っていた。椅子をきしませて立つものが一人、二人と増え、最後には半分以上が出て行ってしまったのである。あとで分かったことだが、パリではまだ車もガソリンが不足していて、夜遅く家に帰りつく手段は地下鉄しかなく、その時間を心配した人たちが心を残しつつも席をたったのだった。
 上映には全部で3時間8分かかり、途中の幕間をいれると、夜遅くはじまった試写会では、地下鉄の終電に間に合わなくなってしまうのである。カルネもプレヴェールもこの日の試写では、観客の本当の反応がどんなものかを知ることができずに不安だった。
 一週間もたたないうちに一般公開がはじまった。上映は最初、「マドレーヌ劇場」と「コリゼー劇場」の二館だけだったが、二館とも初日から満員になった。批評家のジョルジュ・サドゥールは、終戦後発行部数を10万部に伸ばしていた「フランス文芸」誌の3月17日号で次のように書いてくれた。
 「マルセル・カルネの傑作であり、ジャック・プレヴェールの傑作である。彼らはそれぞれその業と能力を自家薬籠中のものにしており、3時間を越える映画でもって、一般的には小説家の専売特許とされる複雑さでもって、さまざまな人物と状況を描き出すことに成功した。彼らは自分たちの才能を十全に開花させ、おそらく完璧さの点では、今後もこれを超えるものは出ないだろう。実在の人物と虚構の人物、台詞劇と無言劇、サイレント映画とトーキー映画、舞台と現実、芸人と庶民、ひとことで言うなら芸術と人生の壮大にしてデリケートな絡みが、この映画の魅力を生み出している。それが抽象的なテーマとしてではなく、肉体的なアクションとして生き生きと表現されている。この10年間に世界でつくられた映画のなかで、最も重要な作品の1本である、映画史のエポックを画す名作である。」
 さらにガブリエル・オーディジオは、「行動(アクション)」紙で、「もし映画に芸術という言葉が発せられるなら、これこそがその例だ」と絶賛した。
d0238372_12291637.jpg なおこの上映会に、ガランスを演じたアルレッティの姿はなかった。彼女は前年1944年10月20日、パリの有名な「ランカスター・ホテル」で逮捕されたのである。容疑は対独協力だった。
 逮捕後11日間は、かつてマリー・アントワネットも入れられた「コンシェルジュリ」に拘留され、その後はノルマンディーに所有する別荘で監視下におかれた。彼女が追放委員会の裁判で「1941年にドイツ人将校と知り合い、愛人関係にあった」として戒告処分をうけたのは1946年11月6日のことである。この間彼女は一切の活動はもとより、パリへ戻ることも許されなかった。アルレッティが、「私の心はいつもフランスにある、でもcul(お尻)はインタナショナルよ」と言ってのけたはこのときのことである(この件については、2011年12月11日のブログ「セリーヌとアルレッティ」を参照のこと)。
 この間、映画の方は大成功をおさめつつあった。そして世間は、映画ばかりではなくプレヴェールの詩に触れる機会が多くなった。
 これより前の1944年7月26日、プレヴェールはサン・ジェルマン・デ・プレにあるカフェ「フロール」気付で送られてきた一個の小包を受け取った。
 紐でしばった紙包を開けてみると、謄写版で印刷し、番号を打った22枚の紙片が厚紙の表紙にはさまれて入っていた。表紙にはラベルが張ってあり、丸まった美しい書体で、「ジャック・プレヴェール詩撰集」と書かれていて、次のような手紙が添えられていた。
 「昨年、私が「道徳」の時間に行った読書のあとで、私の学生たち(ランスの高等中学校の哲学級)がこの出版を思いつきました。彼らは幸運に支えられて、これを実現しました。まずテクストについていえば、私の書斎にあるもので満足しなければなりませんでした。私としては、「銃床を空に」が欠けているのが嘆かわしい限りです。野外学校が私たちに速記術を教えてくれなかったのが残念でなりません。次に印刷ですが、上々というわけにはいきません。奥付にある通り急いで印刷したものですから。・・・この初版は豪華出版というわけではなく、あなたのことを好きな若者たちの愛情の証しにすぎません。」(Œuvres complètesⅠ、pp.987-988)
 手紙にはエマニュエル・ペイエという署名があった。ペイエはランスの高等中学校の哲学教師で、以前からプレヴェールの詩に親炙していた。ペインの教え子たちは彼が所蔵していた雑誌からプレヴェールの詩8篇を探し出し、それをタイプライターで謄写版に打って200部印刷したのである。
 奥付によれば、印刷されたのは1944年7月10日。このとき連合軍はノルマンディーに上陸したあと、パリをめざして進軍中で、彼らが住むランスはまだドイツ占領下にあった。ランスが解放されるのは50日後である。
 プレヴェールの詩は、ドイツ占領軍やヴィシー政府ににらまれていたから、それを印刷し出版するのは大きな危険を伴った。収録されている8篇は、「フランス・パリにおける頭の晩餐会を描写する試み」(「コメルス」1931年夏)、「出来事」(「GLMノート」、1937年11月)、「朝寝坊」(「スート」1936年7月)、「風景変換係」(「試みと闘い」1938年2月)、「この愛」(ラジオ番組「ジャック・プレヴェールとの散歩」で、ピエール・ブラッスール〔『天井桟敷の人びと』でフレデリック・ルメートルを演じた〕が朗読。後に「フランス文学の横顔」1943年4月に収録)、「聖なる書」(「メリディアン」1943年6月中旬号)、「外出許可」(「学生の木霊」1943年9月18―25日号)、「果核の季節」(「スート」1936年2月)であった。
 このささやかな私家版の『ジャック・プレヴェール詩集』がもとになって、彼の最初の詩集『パロル(ことば)』が、若い友人のルネ・ベルトレの手で、「日の出書房(Le Point de Jour)」から出版されるのは1946年5月である。
 詩集は次々に読者の手にわたり、詩集としては空前の出版部数をやがて記録することになる。
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by monsieurk | 2013-04-22 22:30 | 映画 | Trackback | Comments(0)

天井桟敷の人びと(7)

 ヒトラーの命令で、ディートリヒ・フォン・コルティッツ将軍が、パリ防衛司令官として着任したのは1944年8月9日である。
d0238372_1217527.jpg コルティッツが、リボリ通りのホテル「ムーリス」に置かれた司令部で仕事をはじめて間もなく、警察隊長がゲシュタポ隊員1200名を連れてパリを脱出してしまった。それでなくても十分ではない占領軍は一層手薄になった。一方レジスタンスの武装勢力はフランス国内軍(FFI)に統合され、統一レジスタンス運動(CNR)の内部には軍事行動委員会がもうけられた。
 ノルマンディー上陸以後の戦いでは、連合軍と連動したフランス国内軍やマキ(レジスタンスのゲリラ組織)による自力解放が相次いだ。ただフランス国内軍は武器の調達に苦しみ、早すぎた蜂起と武器不足のために、数千人が犠牲となったヴェルコール(イタリア国境に近いアルプス地方)などの悲劇も起こった。
 8月中旬、パリの鉄道員、郵便局員、警察官がストライキに突入した。パリ一区のヴァンドーム広場に通じるカステグリオーンネ通りでは、大学生や高等中学生の有志に支援されたレジスタンスの兵士が、敷石をはがしてバリケードを築いて撤退する占領軍を阻止しようとした。
 フランクールにあるパテの撮影所では、ジャック・ベッケルの『装飾』の撮影が行われていたが、現場は興奮状態だった。カメラマンやスチール写真の担当者は、映画撮影のかたわら、生のフィルムや機材をいつでも持ち出せるように準備していた。連合軍はパリにむかって進軍しており、パリ突入の様子を記録したいと意気込んでいた。
 市内での最初の銃撃戦は8月18日に起きた。この模様はフィルムや写真に撮影された。自転車に乗った人たちが、フィルムをカルドゥッチ通りにある現像所に持ち込んで現像すると、こんどはそれをビュツト=ショーモンの作業場まで運び、ロジェ・マルカントンとシュザンヌ・ド・トロワが編集した。
 パリに残っていたアンリ・カルティエ=ブレッソンやロベール・ドアノーたち20人ほどの写真家も、カバーする地域を分担して、パリ解放の様子を取材することにした。カルティエ=ブレッソンが最初の銃撃戦で撮影した一枚の写真には、機関銃を掃射するレジスタンスの兵士の後ろに、背広にネクタイをしめ、帽子をかぶった男をはじめ、大勢の市民がそれぞれの格好で集まっている。地面にすえられた機関銃からは硝煙があがり、耳をふさいでいる男の姿もある。そして翌19日には、蜂起した人びとが警視庁やパリ市庁舎を占拠した。
 市民の蜂起は20日になって本格化し、中立国スウェーデンの外交官ノルドリング総領事はコルティッツ将軍と面会して、パリを破壊することは歴史が許さないと申し入れた。この日、占領軍との間で一時的に休戦協定が結ばれたが、抵抗派内部に対立があり、休戦を主張したグループも、22日には休戦協定を破棄して戦闘を再開した。
 連合軍総司令官アイゼンハウアーは、まさにこの日パリ進撃を決断し、自由フランス軍のルクレール将軍が指揮する第二フランス機甲師団に、パリへ一番乗りをはたす命令を下した。
 24日、第二機甲部隊は国道20号線を通ってオルレアン門からパリに入った。ドイツ占領軍は市の中心部にいる小規模の守備隊以外はほとんど退却しており、抵抗らしい抵抗はなかった。ルクレールの進軍を阻んだのは歓声をあげる群集だった。
d0238372_12165948.jpg 彼らは郊外から市内にかけて、機甲部隊がようやく通れるくらいの隙間をあけて、道の両側をびっしり埋めつくしていた。「ルクレール万歳」、「ドゴール万歳」と口々に叫び、「メルシー、メルシー」と繰り返した。女性はハンカチを振り、花や食べ物を投げ入れ、戦車によじ登って解放軍兵士に抱きついた。
 翌25日には、パリ地区ドイツ軍司令官コルティッツ将軍と連合軍の間で降伏文書が交わされて休戦が成立した。26日、ドゴールがシャンゼリゼ大通りを行進し、銃声が鳴り響くなかノートルダム寺院でミサをあげ、パリ解放を祝った。
 8月19日から解放の日まで、パリで展開された勇敢な戦いを記録したフィルムの編集は26日に終り、ピエール・ボストがコメンタリーを書き、ピエール・ブランシャールがそれを録音してドキュメンタリーは完成した。この記録映画が解放されたパリでの最初の上映作品となった。
 パリは電力が不足しいて夜間でも停電が起こったが、映画が上映される劇場への電力供給は最優先されて、このときパリにいた成人の半数は映画を観たといわれる。
 カルネが平和到来後の一番乗りを目指した『天井桟敷の人びと』はなかなか完成しなかった。解放前に組織された「フランス映画解放委員会(CLCF)」は、9月4日に占領中に、コンティナンタル社と契約した映画関係者8名の名前を公表し、リストの先頭にはマルセル・カルネの名前があげられていた。
 ノルマンディー上陸作戦から4カ月後の10月には、フランス全土がほぼ解放された。終戦後、政権を握ったドゴールは、秩序の回復と同時に国有化を含む社会の再編を徐々に行っていった。そうしたなかでヴィシー派を正式な裁判にかけることは、臨時政府にとって最重要の課題だった。粛清がはじまると、対独協力を理由におよそ1万人が略式処刑されたが、そのうちの半数は解放後の報復行為で殺されたとされる。ヴィシーの要人たちは特別高等裁判所で裁かれた。ドイツへ労働力を提供し、捕虜の銃殺名簿をドイツ側に提出したピュシューや、他の中心人物たちが裁判のあと処刑され、ペタンは死刑判決をうけたが、高齢を理由に無期禁固に減刑された。
 10月27日、ドゴールが要請し、彼の出席の下で、コメディー・フランセーズで、「レジスタンスの詩人たちに捧げる夕べ」が開催された。ドゴールは、詩人ルイ・アラゴンが「アカデミー・フランセーズ」入りをするのが望ましいと語り、アラゴンはいまや政府公認の作家となった。そして戦争中も何ごともなかったように絵を描き続けたパブロ・ピカソが、この3週間前に共産党へ入党した。
 粛清の動きが少しずつ沈静化するなかで、『天井桟敷の人びと』の残りの仕事が再開された。編集、映像と音声の同調作業、音楽取りと、台詞と音楽のミキシングなどがスタジオで行われ、終わったのは12月に入ってからだった。総製作費は4250万フラン、当初予算を1390万フランも超過していた。
 1944年12月22日に、パリ郊外のジョワンヴィルにある映画会社ゴーモンで、関係者だけの最初の試写が行われた。ゴーモンが映画の配給に関心をもっていたからである。試写に同席したカルネは、「私は文字通り熱狂的な〔試写の〕光景から帰ってきた」と書いている。試写のあとで、二つの時代を描いた二つの映画を一部、二部として同時に上映すること、入場料は通常の二倍の80フランとすることが決まった。
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by monsieurk | 2013-04-19 20:45 | 映画 | Trackback | Comments(0)

天井桟敷の人びと(6)

d0238372_0383998.jpg 第二部「白い男」の時代は1847年で、フュナンビュル座を去ったフレデリック・ルメートルは別の劇場で名声を博していた。フュナンビュル座のバティストのパントマイムの人気も高まる一方で、客席は天井桟敷までいつも満員だった。そして毎晩のように特別席にお忍びで来る女性がいた。モントレー伯爵夫人となったガランスだった。イギリスに渡っていた彼女は、一時パリに戻ってきたのである。
 自分の劇場が休演日の夜、ルメートルが楽屋にバティストを訪ねてきて、久しぶりの再会を喜ぶ。そこにはナタリーもいた。座長の娘である彼女はバティストと結婚して、一人息子をもうけていた。その場でルメートルは、バティストに耳打ちする。
 「毎晩、君を見に来る女に気づかなかったか? その女はガランスだ」
 「・・・・」
 「パリに来ているが、また旅立つそうだ。」
 舞台でナタリーと踊る場面がくる。舞台に出て行ったバティストは客席に気をとられて、パントマイムができない。とっさに袖に引っ込んだバティストに、ナタリーが思わず声をかける。
 「バティスト! バティスト!」。
 異変に気づいた観客が騒ぎだす。バティストは楽屋を飛び出して、ボックス席に駆けつけるが、ガランスの姿はもうなかった。
 バティストは宿に引き籠り、フュナンビュル座は休演となった。それでもある日、シェイクスピアの『オセロ』を演じているルメートルの評判を聞いて、バティストは舞台を見に行く。そして芝居が終り、観客が出てきたところで、バティストはガランスを見つける。
d0238372_0384225.jpg ガランス「もう会ってくれないものと思っていたの・・・」
 バティスト「ぼくこそ、あなたを永久に失ったものと・・・」
 ガランス「あなたのことを忘れたことはないわ。夢にまで見たわ。おかげで齢もとらず、馬鹿にもならず、堕落もしなかったのよ。空虚で孤独な生活だったけど、悲しんではいけない、幸せなのだと思っていたわ。私を本当に愛してくれた人もいたのだからと・・・」
 二人は熱い口づけを交わす。そこへナタリーが息子を連れてやって来る。部屋のドアを開けると、バティストとガランスが一緒にいるのに愕然とする。ガランスは黙って部屋を出て行く。「ガランス!」、バティストが叫ぶ。声もだせないバティストにナタリーがいう。「答えて、バティスト、ねえ、いつもあなたはあの女を想っていたの? いつも一緒だったの? 夜も・・・夜もそうだったの?」。バティストはナタリーをふりきり、部屋を飛び出していく。
d0238372_0385434.jpg 「ガランス!」、大声で叫びながら彼女の後を追うバティスト。だが大通りは人で溢れかえり、彼女の姿は見えない。紙ふぶきが舞い、人びとが踊る雑踏のなかを、なおも叫び続けるが、叫び声はむなしくかき消される。ガランスが乗り込んだ馬車は遠ざかっていき、バティストの声は届かない。そこへ古着屋のジェリコが現われ、バティストの腕をつかまえて、大声で笑いながら――
 ジェリコ「ガランスか! さあ、もうお帰り、バティスト、すべては終ったのだ! 家へ帰りな!」
 バティスト「放せ!」
 バティストはジェリコの手をふりはらって、なおもガランスを追いかけようとする。だが、ジェリコは腕を放さない。
 ジェリコ「恥を知れ、バティスト! わしは一人寝とも忠告屋とも恥ずかしがり屋とも申すのじゃ・・・身持ちのよさが誇りでな!(高笑い)」
 バティスト「放せ! お前は嫌いだ!」
 バティストはなおも必死に馬車を追いかけようとするが、カーニバルの群集はいよいよ狂乱のるつぼと化し、その渦の中にバティストを飲み込んでいく・・・そして幕が下りる。

 ところで、この最後のシーンは、今回の展覧会でも公開されたプレヴェールのもともとのシナリオでは、次のようになっていた。

 バティスト「黙れ!(彼は古着屋を壁に投げ飛ばす。ジェリコは崩れ落ち、うめく。連れている犬と、古着や古ぼけた傘などがまわりに散らばっている)」
 ジェリコ「(うめきながら)無防備な哀れな年寄りを叩くなんて、恥を知れ!」
 バティストとガランスが彼から離れると、立ち上がる。
 ジェリコ「これはみんな、なんのためだ、誰のせいだ? 淫売女のせいだ! 腐った世のなかには、モラルもなにもあったものじゃない・・・堕落と淫売女だけじゃないか。(怒って)やつたを閉じこめて、鞭打つ必要がある!(彼は杖を拾うと、それを振るわせながら)そう、鞭をくれてやるんだ!」
 そして彼はよろめく足で二人のあとを追い、犯罪大通りで追いつくと、
 ジェリコ「バティスト、よく聞くんだ。もう家へお帰り、ニンジンが煮えている、お祭りは終わりだ。お帰り、そしてお前の淫売女は、彼女に相応しい通りに置いていくんだ。
 バティストは次第に蒼白になり、彼につかみかかる。
 バティスト「黙れ!」
 ジェリコ「お前の女には通りこそが相応しい・・・」
 バティストはわれを忘れ、ジェリコの杖を奪うと、恐ろしい一撃を頭に見舞う。
 ジェリコ「(倒れながら)ああ、イエス様、マリア様・・・」
 ガランス「バティスト・・・」
 彼女はバティストに抱きつく彼は倒れて動かないジェリコをじっと見ている。
 バティスト「(夢のなかのように)」彼は死んだ・・・」
 ガランス「(彼の頸を抱きながら)可哀相なバティスト!」
 人びとがなにごとかと近づいてくる。そして幕。(Les enfants du paradis, un film de Marcel Carné、Editions Jean-Pierre Monza. p.159)
 
 プレヴェールは、実在したジャン=バティスト・ドビュローが杖使いの名手であり、彼が酔漢を杖で殴り倒して裁判沙汰になった史実を生かし、それによってバティストとガランスの絶望的な先行きを示そうと考えたのである。だがカルネは、もう少し余韻を残して映画を終らせたかった。そのためにプレヴェールと話し合って、映画をいま見るような結末に変更したのだった。
 『天井桟敷の人びと』の撮影は、パリのスタジオでの撮影を終えると、一行はニースに移動した。ニースの「ヴィクトリーヌ撮影所」の野外セットは雨ざらしのまま放っておかれために、補修に80万フランの費用がかかった。
 数多くの夜間のシーンの撮影には、「犯罪大通り」のセット全体を照明する必要があった。だがドイツ占領当局は、灯火管制を理由に野外撮影を許可しなかった。それでも映画の進行上、最低でも二つの野外シーンは、どうしてもはずせなかった。
 一つはバティストが、「大劇場」で上演されている『オセロ』を観に行く場面で、これには劇場の正面を明々と照明する必要があった。もう一つは、フレデリック・ルメートルが、バティストに小さなホテルを紹介して、そこで彼がガランスに再会するシーンで、これらのセットをスタジオの内部に組む必要があったが、それには「ヴィクトリーヌ撮影所」のスタジオは小さすぎた。そのためカルネと一行は、またまたパリへ移動するはめになった。
 セットを組み、撮影をはじめるには二週間が必要だった。こうして仕事を再開した6月6日、自由フランス軍も参加した連合軍がノルマンディー上陸作戦を敢行したのである。
 カルネはこのニュースを知ると、『天井桟敷の人びと』を間もなく実現するはずのパリ解放後、最初に上映する映画にしたいと望んだ。マルセル・カルネは回想録でこう書いている。
 「事実、〔連合軍〕上陸のニュースを知るや、私にはたった一つの望みしかなかった。ようやく見いだされる平和の最初の映画とするために、映画を終わらせるのを出来るだけ長く引っ張ることだった。このときから、停電、輸送手段の不足、見つからない音響効果のための装置を探すこと等々、完成の遅延をもたらすものはすべて歓迎ということになった。この遅延を逆に利用して、一本の映画の代わりに二本の映画をつくろうとした。」(Marcel Carné: La Vie à belles dents、pp.191-192)
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by monsieurk | 2013-04-16 22:30 | 映画 | Trackback | Comments(0)

天井桟敷の人びと(5)

 1943年8月16日、南仏ニースの「ヴィクトリーヌ撮影所」で、プレヴェールの脚本、マルセル・カルネ監督の映画の撮影が開始された。製作はフレッド・オラン、撮影は名カメラマンのロジェ・ユベールをマルク・フォサールが補佐した。
 そしてこのときから映画のタイトルは、「フュナンビュル座」から「天井桟敷の人びと」へと変更された。ジュール・ジャナンが書いたジャン=バティスト・ドビュローの評伝のタイトル、「天井桟敷」にヒントを得たものだった。「天井桟敷(le paradis 天国)」とは劇場の一番上の立見席を指し、そこにはボックス席や平土間の席の切符を買う金はないが、本物の芝居好きがつめかけることで知られていた。
 プレヴェールのシナリオが完成したとき、「犯罪大通り」の野外セットはまだ完成しておらず、撮影は室内シーンから開始されることになった。ただ撮影開始にあたって、もう一つの難問が未解決だった。映画のアイディアを提供したジャン=ルイ・バローがドビュロー役をやることになっていたが、コメディー・フランセーズ座との契約で、ポール・クローデルの『繻子の靴』を演出するため、身体が空かないというのである。
 マルセル・カルネは、一時ジャン=ルイ・バローの出演をあきらめて、当時ミュージック・ホールのパントマイム芸人として人気が出つつあったジャック・タチを、代役に立てることも考えた。しかしバローとコメディー・フランス座の話し合いがつき、予定通り彼がドビュローを演じることになった。こうして『天井桟敷の人びと』の第一話「犯罪大通り」の撮影がはじまった。
 1830年ごろのパリ。人、人でごった返す大通り。大小さまざまな劇場や寄席が軒を並べ、小屋の前では芸人たちが舞台衣装をつけて呼び込みに懸命である。とあるテント張りの小屋の表には、井戸から上半身を見せた女の裸体姿の絵がかかっていて、それを指しながら呼び込みの男が叫んでいる。
d0238372_0214220.jpg 「さあ、いらっしゃい! 見てらっしゃい! 〈真理〉はここにあり。一度ごらんになったら最後、昼はまぼろし、夜は夢・・・さあ、いらっしゃい、見てらっしゃい。一糸まとわぬ全裸の美女、生まれながらの艶姿・・・」
 呼び声につられて、二、三人の男が入っていく。奥には筒状の井戸が置かれ、そのなかに一人の女が身を沈めている。しかし見えるのは肩先だけである。
 呼び込みの男の声が、威勢よく聞こえてくる。「見てらっしゃい。目の保養をしたい殿方、美を解する殿方には絶対の見もの・・・」(Jacques Prévert, Les Enfants du Paradis, un film de Marcel Carné. Editions de Monza, p. 53)
 主人公ドビュローの登場は次のような次第である。派手な呼び込みが行われているフュルナンビュル座の前に、ガランスとラスネールがやってきて群がっている野次馬に加わる。呼び込みが行われている小さな舞台の片隅の酒樽に、静かに腰かけているピエロのバティストの目がガランスにじっと注がれる。
d0238372_0214792.jpg ガランスの隣にでっぷり太った商人風の男が立っている。彼を挟むようにシルク・ハットをかぶったラスネールが立ち、男の金の懐中時計をねらっている。舞台がはじまり、バティストを残して役者たちは小屋に引っ込み、野次馬も散りはじめる。すると商人風の男が懐中時計がないと騒ぎ出し、隣にいたガランスの腕を捉まえて、「泥棒だ」と叫ぶ。駆けつけた警官がガランスを連行しようとしたとき、ピエロのバティストが、「ぼくが・・・ぼくが証人だ!」と叫ぶ。
 警官「きみは何を見たのかね?」
 バティスト「何もかも!」
 バティストは樽から降りて、パントマイムを演じはじめる。
 ガランスと腹の突き出た中年男とラスネールの三人を一人芝居で演じながら、時計の盗んだのはガランスではなくラスネールであり、彼はもう逃げ去ってしまったことを、手振り身振りで見事に伝えて、野次馬たちの拍手喝采を浴びる。
 濡れ衣の晴れたガランスは、野次馬たち一緒に去りながら、舞台の下からにっこり笑って胸に挿した一輪のバラをバティストに投げる。バティストはハッとしながら、それを受け取る。彼も〈真理〉の小屋掛けで彼女を見て以来、その魅力のとりこになっていたのだ。
 やがて物語の舞台回し役である、古着を商う「ラッパのジェリコ」や、バティストを慕うフュナンビュル座の座長の娘ナタリー、盲人の乞食「絹糸」(実は目の見える)などが登場して、「犯罪大通り」で繰り広げられる人間模様が次第に織り上げられていく。
 夜眠れないバティストは「絹糸」に連れて行かれた酒場で、ラスネールと一緒に来たガランスを見かけてダンスに誘う。ラスネールの子分に絡まれて、一度は外に放り出されるが、戻ってきた彼はその子分を蹴りの一撃でやっつける。店を出た二人はパリが見下ろせる高台を散歩しながら、互いの気持を確かめ合う。
d0238372_0215135.jpg バティスト「ぼくの命はあなただ・・・名前は?」、「ガランス、花の名のようなね」、「・・・ガランス、愛しています。あなたも、ぼくを愛してくれますか?」、「子どもみたいね、そんな愛し方は夢の中よ」、「夢も現実も同じだ。だから生きていけるのだ」、「・・・好きよ」。二人は唇をかさねる。「恋なんて簡単よ」、そうガランスが言ったとき、突然、雷が鳴り、雨が降り始める。・・・(ibid.87)
 撮影は順調に進んで、1943年9月6日には戸外セットでの仕事がはじまった。だが二日後の9月8日、撮影は中止されてしまった。それには第二次大戦の戦況が影響していた。この年の7月25日、連合国軍がシチリア島に上陸し、イタリアのファシズム体制は崩壊、辞職したムッソリーニは逮捕された。モンゴメリー元帥指揮下のイギリス・カナダの合同軍はイタリア半島の南端カラブリアに上陸、一週間後にはアメリカ軍がこれに続いた。ムッソリーニのあとを継いで首相となったバドリオ元帥は、シチリア島のカッシビーレで停戦協定に調印し、これが9月8日に発表されたのである。
 イタリアが停戦したあともドイツ軍はあくまで抵抗する姿勢を示した。緊迫する情勢のなかで、ドイツに協力的なヴェシー政権は、カルネ監督以下の撮影隊に『天井桟敷の人びと』の撮影を中止して、撮影機材やフィルムとともにただちにパリへ引き上げるように命じた。降伏したイタリア系の「ヴィクトリーヌ」が共同出資者だというのが理由だった。
 カルネは戸外に組んだ巨大なセットを使って、あと一週間撮影が出来るように、映画産業組織員会のポール=エミール・ガレーに斡旋を頼んだが効果はなかった。こうして『天井桟敷の人びと』の製作は中断を余儀なくされたのである。プロデユーサーのアンドレ・ポールヴェは家系にユダヤ人の血が流れていることが発覚して、社会的活動を全面的に禁止された。それでも彼はひそかに人を介してパテ社と粘り強く交渉し、その結果パテ社が『天井桟敷の人びと』の製作を引き継ぐことになった。
 1944年3月15五日、パリ17区のフランクール通りのパテのスタジオで、撮影が再開され、バティスト役のジャン=ルイ・バロー、ルメートル役のピエール・ブラッスール、ガランスのアルレッティ、無頼詩人ラスネールのマルセル・エラン、ナタリー役のマリア・カザレスは元気な顔を見せた。ただ古着屋のジェリコを演じるロベール・ル・ヴィガンは、対独協力者として欠席裁判を受け、まだ全部のシーンを撮り終えないままドイツへ逃げてしまった。そこで急遽ベテランのピエール・ルノワール(ジャン・ルノワール監督の兄)をジェリコ役に起用して撮り直しが行われることになった。
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by monsieurk | 2013-04-13 22:21 | 映画 | Trackback | Comments(0)

天井桟敷の人びと(4)

 プレヴェールは1943年2月17日、ディシナ社と2本の映画を製作する契約を交わした。『フュルナンビュル座』の準備を進めていたカルネとプレヴェールには、映画を構成する要素が多く、登場人物も大勢になることが予想された。
 ドビュローとフレデリック・ルメートルの舞台を描くのには、彼ら二人のスターを取り囲むさまざまな人物を登場させる必要があった。そのため映画は通常の長さではとても納まりきらない。『悪魔が夜来る』の成功をうけて、プロデューサーのポールヴェは、大抵のことは認めてくれたが、採算が確保できるかが最大の問題であり、映画の長さは直接これに関係した。二人から話を聞いたポールヴェは、このテーマで時代を異にする2部からなる映画を製作することにした。
 契約を結んでからは、プレヴェールは本格的に脚本に取りかかった。今度の作品はこれまでのような原作の脚色ではなく、シナリオも台詞もすべてオリジナルなものを創作しなければならないが、それだけにやり甲斐もあった。
 『フュルナンビュル座』のテーマは彼に馴染みの世界だった。1830年代の芝居の世界は遠い過去ではなく、子ども時代に垣間見たものだった。18歳のときサッシャ・ギトリが演じる『ドビュロー』の舞台を観ていた。さらに彼が25歳のとき、ジャン・エプスタイン監督の映画『ロベール・マケールの冒険』が上映され、これは19世紀の芝居の世界で起こった史実をもとにした作品だった。
 1823年7月、アンビギュ=コミック座で初演された三幕物のメロドラマ『アドレの宿』は、ならず者の主人公ロベール・マケールがさまざまな悪事を働くが、最後は天罰が下るという勧善懲悪の芝居だった。ところがこの芝居でフレデリック・ルメートルが演じたマケールが人気者となり、復活を望む声が多く寄せられたことから、ルメートルを中心にした新たに四幕六景の『ロベール・マケール』が上演された。これはマケールと相棒のベルトランが次々に引き起こす騒動と、彼らが繰り返す政治や社会批判が人気を呼んで大ヒットとなった。
 ロベール・マケールは社会の既成秩序に反抗する一典型として、バルザック、ヴィクトル・ユゴー、フロベールといった作家も感心を寄せ、エプスタインはこの芝居をもとにして1929年に映画を製作したのである。
 プレヴェールがこの映画を通してロベール・マケールの存在を知り、どれほど興味を惹かれたかは、親友のイヴ・タンギーの結婚式の証人になったとき、マケールの扮装をまねて右目に黒い眼帯をしていたことでも分かる。プレヴェールはやがて『フュルナンビュル座』のシナリオに、ルメートル役の役者が劇中劇の『アドレの宿』の場面で、ロベール・マケールを演じる場面を挿入することになる。
 19世紀の芝居の世界は、若いときに舞台俳優を志したプレヴェールの父の世代にまでつながっていた。芝居の世界に生きる夢がかなわなかった父は、一時息子が跡を継いでくれることを望んだように、フレデリック・ルメートルやドビュローの世界は、父を通して彼の子ども時代まで続いていたのである。
 プレヴェールは、19世紀の20年代から30年代の「犯罪大通り」の人間模様を描くために、ドビュローとルメートルという実在した演劇界の大立物に加えて、第三の人物ラスネールを見つけ出した。そのモデルになったピエール=フランソワ・ラスネールは、1800年12月にリヨンで生まれ、少年のころから窃盗などの犯罪を重ね、父親に「お前の行く末はギロチン台だ」といわれた。
 長じては刑務所入りを繰り返し、そこから雑誌にシャンソンや詩、あるいは時事評論を投稿して一部の人たちに注目され、最後は金を奪うためにパリで老婦人とその息子を殺害して逮捕された。そして裁判では父親の予言通りにギロチンで処刑されたのだった。プレヴェールはこのラスニエールを物語に登場させることで、犯罪大通りのもう一つの側面、悪と破壊の情念を表現しようとしたのである(実在の彼については2012年2月20日のブログ「ピエール=フランソワ・ラスネール」を参照)。
 そしてこれら三人の人物の運命を結びつけ、複雑にからみあわせる役として、どうしても一人の女性を生み出す必要がった。プレヴェールがこの役柄を思いつくのに大きな影響をあたえたのが、妖艶な女優アルレッティの存在だった。
 彼は最初からアルレッティの出演を想定して、ガランスという謎にみちた魅力的な主人公をつけ加えることにした。『フュルナンビュル座』のシナリオの骨格は、こうして次第に固まっていった。
 プレヴェールの回想によれば、ヴァレットの小修道院付属の住居で、プレヴェールを中心に、美術担当のアレクサンドル・トロ-ネ、作曲家のジョゼフ・コスマはアイディアを出し合いながら、シナリオ制作の作業を行った。占領下で、いつ警察のユダヤ人探索の手が伸びるかもしれない緊迫した状況のなかで、彼らは一カ所に集まって生活しつつ仕事を進めたのだが、これが団結を強め、仕事の濃度を高めるのに役立った。      
d0238372_838445.jpg プレヴェールがあるシーンのストーリーを書くと、そのシーンに合わせてコスマが音楽をつくり、メロディーをその場でピアノで聞かせる。メロディーに合わせて、プレヴェールがまたストーリーを変えていくというやり方だった。そしてトローネがこれに相応しい舞台装置のデッサンを描く。それがまたプレヴェールの想像力を刺激した。こうした相互作用の効果は抜群だった。
 南の自由地域とパリの間を一番往復したのはマルセル・カルネだった。1830年代の「犯罪大通り」の風俗や歴史を知るのに欠かせない資料を、パリに関する豊富な歴史資料を所蔵する「カルナバレ博物館」へ行って集めてくるのが彼の主な仕事だった。こうして集められた材料は仕事場に変わった食堂に集められ、みながそれを活用した。
 プレヴェールとトローネの友人である画家のマイヨが衣装を担当することを引き受けた。彼にはこれが最初の映画の仕事だったが、さまざまなアイディアを出した。女主人公ガランスのハート形のイヤリング、ナタリーが首のまわりつける十字架、バティストのぴったりした服、ラスネールのしゃれた服装。だがそれもエドゥアール・ド・モントレー伯爵の前では輝きを失ってしまう・・・こうした登場人物を象徴し、プレヴェールが考える物語の展開に意味をあたえることになった。さらにマヨの彼の妻は服飾店のランヴァンの勤めていて、布地のストックを融通してくれることができた。
d0238372_8383779.jpg トローネの装置にはデッサンと建設で3カ月を要した。一番重要なのは「犯罪大通り」で、大勢の登場人物を仕込むために、80メートルの大通りのセットに加えて、その先にさらに20メートルのだまし絵の書割をつくる必要があった。トローネはこのための色彩による下絵を描いた。彼は建築家である前に画家だったから、装置はいつも模型ではなく絵で示された。
 このデッサンに基づいて、カンヌのラ・ヴィクトリーヌ撮影所では、『悪魔が夜来る』のセットに代わって、映画『フェナンビュル座』の巨大なセットが出来上がりつつあった。装置の組立はレオン・バルサックが指揮した。トローネは小修道院の住居を離れることができなかったからである。
プレヴェールは映画の封切り後の1945年4月、「アクシオン」誌上で、セシール・アゲの質問にこう答えている。
 「あなたはこの物語を書くのに長い時間を費やしたのですね。
 ――6か月。長い時間です。でも映画も長いものです。
 ――仕事はどんな具合に進めたのですか?
 ――共同で・・・いつもの通り。
 ――共同で?
d0238372_8383242.jpg ――そう、他の人たちと、同じ家で・・・監督のマルセル・カルネ、衣装をデザインしたマヨ、装置を担当したバルサックとトローネ、彼は働くのを禁じられていたんだが、そして音楽家のジョゼフ・コスマたちと一緒に。コスマもトローネ同様働く権利はなかったのだけれどね。彼らはみなこの仕事を愛していたし、そのやり方を心得ていた。・・・
 ――みなさんはお互いによく理解し合っていたのですか?
 ――奇跡みたいにね。シナリオが出来上がり、映画の準備が整ったとき、カルネが撮影をはじめたわけだ。それは恐ろしく困難な仕事だったが、彼はこれまで以上に見事にやってのけた。間違いなく最良の出来だった。彼は驚くべき監督だよ。その上、人間としてはとても謙虚なのだ。私は彼が大好きで、もう7本も一緒に映画をつくった。」
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by monsieurk | 2013-04-10 22:30 | 映画 | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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