フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30

カテゴリ:メディア( 12 )

いまこそ日本語教育を

 NHKのラジオ番組、「地球ラジオ」は毎週の土曜日と日曜日の夕方に放送され、そのなかの「悠稀のもっと聴きたい」というコーナーに、5年前から定期的に出演してきた。この春の番組改定でコーナーがなくなることになり、3月28日が最後の出演だった。そこで最終回に話したことを採録する。

Q(倉益悠稀さん) 「悠稀のもっと聴きたい」も今回で最後です。今日は、「いまこそ日本語教育を」と題して、放送大学名誉教授のKさんに話をうかがいます。去年、日本を訪れた外国人観光客が1,340万人に達し、日本への関心が高まっていますが、日本語への関心も同じように高くなっているのでしょうか。

K 交際交流基金が運営する、パリにある日本文化会館の審議委員もつとめているのですが、ここは日本の文化を広く知らせる役割を果たしています。主な活動としては、展示会、講演会などと並んで、日本語教室を設け、フランス人をはじめ多くの外国人が日本語を学んでいます。

Q 先週の土、日は、この番組をタイのバンコクから生放送をしたのですが、日本語がわかる人たちが大勢集まってくださいました。いま外国で日本語を学んでいる人たちはどのくらいいるのでしょうか。

K 国際交流基金が3年ごとに行なっている調査では、前回2012年の時点で、世界の136の国と地域で、日本語を学んでいる人は398万5000人に達しました。この調査は、「語学教育として日本語を教えている学校やその他の機関」を対象にしたもので、テレビやラジオ、マンガ、雑誌、インターネットなどを利用して、日本語を独学で勉強している人を入れればもっと多いはずで、しかも最近は急速に増えているはずです。

Q 外国の人たちが日本語を学ぶ目的は何なのでしょうか。

K その点も調査がありまして、目的の一番は、「日本語そのものへの興味」で62.2%。2番目が「日本語でコミュニケーションをとるため」、これが55.5%。3番目が、「マンガやアニメ、J.POPなどが好きだから」が54.0%です。次いで「歴史・文学などへの関心」49.7%。「将来の就職のため」は42.3%で5位。「日本への留学」は34%で全体の7位です。
こうしてみますと、日本への知識面での興味が、実利的な目的を上回っています。また「マンガやアニメ、JPOP」への関心が「歴史や文学」の上に来ていて、日本のポップカルチャーが世界的に浸透していて、日本や日本語への興味や関心の入口になっていることが分かります。

Q 最近では日本の食文化への関心も高くなっていまね。

K 和食が去年の暮れに世界遺産になりましたし、寿司、ラーメン、餃子を食べたいという外国人によく出会います。ただ問題は、そうした興味や関心をどうやって日本語を学んでみようという気持にまでもっていくか。何と言っても文化を理解するには、言葉を学ぶのが一番ですから。

Q 私の場合も、英語を話したり読んだり出来るようになって、理解が深まった気がします。外国の人にもぜひ日本語を学ぶチャンスがあるといいですよね。

K 例をフランスにとれば、フランスの中学や高校でも外国語を教えますが、学生が学んでいる外国語の第1位は英語です。英語が世界の共通語になりつつあり、英語は別格として、ではその他の言葉はどうかというと、英語に次ぐ外国語の第2位が39.7%のスペイン語です。

Q 第3位以下はどうなっているのですか。

K 第3位がドイツ語。第4位がイタリア語です。そして、なんと第5位が中国語なのです。中国語を選択する学生が急速に増えていて、アルファベットを使うポルトガル語やロシア語の上で、全国で485の学校で中国語が教えられています。学校教育以外にも、中国は「孔子学院」という施設を世界中につくって中国語の普及に努めています。フランスでも全国に12箇所あります。
フランスにおける日本語の普及に関しては、高等教育機関「東洋語学校」に教師を派遣して、優秀な日本語や日本文化の研究者が育ってきましたが、中学校や高等学校のレヴェルで日本語を普及させるための日本側の協力が、もっともっと行われる必要があります。

Q 具体的には、どんな点の強化が必要なのでしょう。

K 日本語の学習者の398万人の内訳は、東アジアが54%、東南アジアが28%で、この両地域が圧倒的に多く、北アメリカの4.5%、ヨーロッパの2%と続きますが、日本語教育の問題点としては、教材が足りない、教師が足りない、施設や設備が不十分といった問題があります。とくに日本語教育が急激に拡大している東南アジアや、まだ日本語教育が余り行なわれていない、インドなどの南アジア、中米、アフリカなどのでは、教師、教材、施設などすべてが足りないという結果になっています。

Q 私も中東で生活した経験がありますが、日本のアニメなどへの関心は高いのに、日本語を学ぶ機会が余りないというのが実情ですね。

K 日本への関心が高まっている今こそ、外国の人たちに日本語を学んでもらう絶好の機会です。それにもかかわらず、教育にかける予算が絶対的に少ない。パリの日本文化会館でも予算が削られて、いままで購入していた図書や雑誌を削らざるを得ないという現状です。一国がどんな国を目指すかは、私たちの税金をどの分野により多く使うかで決まるわけで、こうした分野にもっともっと国の予算を投入してほしいと思います。

Q 「いまこそ日本語教育を」と題して、放送大学名誉教授のKさんに話をうかがいました。

K このコーナーも今日が最後ですね。

Q ええ、2年半やりました。お世話になりました。有難うございました。

K こちらこそ有難うございました。
[PR]
by monsieurk | 2015-04-01 22:30 | メディア | Trackback | Comments(0)

高橋和巳の問題提起

 高橋和巳の遺作『白く塗りたる墓』(筑摩書房、1971年) はテレビ局を舞台にした小説で、学園紛争で校内を封鎖をした女子大生を取材したテレビ局の取材をめぐって展開する。d0238372_6575216.jpg
 学校側は取材方法に問題があったとして、テレビ局に抗議文を送ってくる。それによれば、取材班は封鎖派の学生を取材車に同乗させ、食糧や封鎖に用いる資財の搬入に便宜をあたえ、研究室から大量に書物が紛失した際にも同じ車が用いられた疑いがあるというものであった。
 テレビ局では、こうしたことが実際にあったかどうか、上層部による聴き取り調査が行われる。その結果、書物の紛失の件は無関係だが、食料を差し入れたこと、立て籠もった学生のなかに病人が出て、その学生を取材班の車で病院へ運んだことは事実であることが分かる。これは1963年10月に、成田空港建設反対闘争で、TBSの取材班がドキュメンタリー番組を取材した際に起きた事件を念頭においたものである。d0238372_701574.jpg
 小説では取材班を含めた社内討論集会が開かれることになる。注目したいのは、この場で展開される「事実の公正な報道」をめぐる議論で、参加した記者の一人がこう発言する。
 「やはり報道の中立性というか、いやむしろイデオロギー以前の事実性というものを大切にする立場はあると思うし、それを守りたい。たとえば大学問題に例をとれば、内ゲバというものがあるでしょ。あるわけですよ。先程の新田さんの立場からすれば、それにどう対処するのかな。それはまた新田さんにおうかがいしたいが、私の立場では、やはり、そうした矛盾も冷静に、事実性の重みそれ自体を押し出すかたちで報道すべきだと思うんですよ。いろんな運動体がある。それぞれの運動体は自己を正当化し情宣する権利をもつ。しかし、思想というものは、その公的な顔によって決まるのではなく、その運動体および運動体に属する個個の人の行動の軌跡によって判定されねばならないと思うからです。だから事実は、依然として事実として報道されねばならない。その場合に、やはり、客観的な立場の想定は必要なわけですよ。その客観性への固執は書いた文章や撮ってきたフィルムが、ハサミを入れたりお倉にされたりすることに対する抵抗の原理として役立つ。母親が愛の観念を抱くのではなく具体的存在である子どもを抱くのであるように、われわれは事実を抱きしめなければならないし、テレビはまさしく、そのための非常に強力な手段だと思うんですよ。」
 それに対して、新田さんと呼びかけられた若い女性カメラマン(彼女が校内に立て籠もった女子学生たちを撮影した)は、「事実は確かに大切だと思います」と前置きして、次のように反論する。
 「でも、映像は事実そのものでしょうか。そうじゃないでしょう。それは事実の模写にすぎないと思うんです。これはいつも班長が言っておられることですけど、映像はむしろ言語だと考える方がいいって。言葉は事実や観念を指示はしますけれど、それはあくまでシンボルであって、物それ自体でもイメージそのものでもない。言語表現の場合には、違いがはっきりしているから混同は起こらないわけです。でも、テレビの映像になると、模写の度合いが高いから、人々はひょっと錯覚するんです、映っていることが事実そのものだと。でも本当はそうじゃありません。(中略)あくまでシンボルをあやつる主体性の問題になると思うんです。主体性のないシンボル操作ではたった一つの事実も構成的に把握することはできないと思うんです。あれもこれもと博引傍証して、結局なにも言っていない論文のような事実の模写像を羅列するすることが、報道の客観性を保証するとは、私は思いません。カメラの、レンズを向けられた視界内でも無選択性が、事実性を保証するとも思いません。むしろ大事なのは映像の文脈であり、映像に文脈をもたらすこちらの態度の一貫性だと思うんです。」
 ここでは「事実の報道」をめぐる3つの重要な問題が指摘されている。1つ取材対象との関係。取材する側は対象とどのような距離を保つべきなのか。
 2つ目は女性カメラマンが主張するように、現実を伝える言葉や映像はシンボルであって、事実そのものではないという点。それにもかかわらず、受け手の側はそれを現に起っている現実と錯覚しがちで、とりわけ「模写の度合いが高い」映像の場合は、そう思い込みがちであること。
 もう1つは、言葉や映像が事実そのものではなくシンボルであるならば、伝え手は事実を伝えるために、単に現実を写し取った言葉や映像を羅列するのではなく、一貫した文脈をもって、それを構成する努力をしなければならないという主張である。この場合は言葉や映像を構成する人間の、現実と向き合う姿勢、資質、思想などが問われることになる。
 最近の朝日新聞やNHKをめぐる事態を見るにつけ、高橋和巳によって40年前に提起された、ジャーナリズムのあり方に関する基本的な問題をあらため考えてみる価値がある。
[PR]
by monsieurk | 2014-10-31 22:30 | メディア | Trackback | Comments(0)

文献保存の話題2つ

 最近報道された文献保存に関する話題を2つ。
 ヴァチカン・ローマ法王庁の図書館は、今年2014年10月20日から、所蔵する手書き史料をデジタル化したものの一般公開をはじめた。Webサイト、https://www.vatlib.it/ からアクセスすることができる。
 ヴァチカンにある図書館には現在160万点をこえる蔵書が所蔵されているが、そのうちの手書き文献約8万冊、およそ4000万ページをすべてデジタル化する作業が進行中である。ヴァチカン図書館にある文献はキリスト教関連のもの以外にも貴重な史料が多く、ボッチチェルリが15世紀に描いたダンテの神曲の挿画や、江戸時代の弾圧のなかで殉教を誓った日本の信者たちの連判状などもあるという。d0238372_1011563.jpg 
 ヴァチカン図書館には江戸時代の潜伏キリシタンに関する史料を調査する「マレガ・プロジェクト」がある。マリオ・マレガ(1902-78)はイタリア出身の神父で、1929年に来日して長い間大分で伝道し、そのかたわら多くの古文書を蒐集して「豊後切支丹史料」を刊行した。
 ヴァチカン図書館の改修にともない、2011年に図書館に保管されていた21個の包みのなかから日本語の史料1万点が発見された。その内の2袋の史料はマレガ神父が「豊後切支丹史料」として刊行したものの原本で、他の19袋のものはこれまで公にされたことがない史料であることがわかった。
 これらの史料については、ヴァチカン図書館と日本の人間文化研究機構、大分県立哲史料館、東大史料編纂所が協定を結んで調査にあたることになっている。
 史料は1620年ころの文書が多く、殉教者や奉行所が置かれた長崎へ連行された信者の情報、踏み絵の方法、キリシタンから改宗したことを示す証文、逆に切支丹を信仰する農民たちの血判状もあるという。d0238372_104314.jpg
 進行中の作業は、こうした手書き史料などを一枚一枚スキャニングしてデジタル化していくのである。このデジタル化のシステムを提供しているのがNTTデータで、日本の国会図書館に導入したアーカイブソリューション「AMLD」をベースに、ヴァチカン図書館デジタルアーカイブシステムを構築したという。
 ヴァチカン図書館所蔵の史料は2世紀からのもので、羊皮紙やパピルスに書かれたもの、金銀で装飾されたものなどもあり、それらを傷つけないようにガラス板にはさんで、スキャニング作業を繰り返す。現在稼動しているスキャナーは3台だが、将来はこれを50台に増やす計画だという。それでもすべての文献をデジタル化するには、15年はかかる見込みで、必要な経費も5000万ユーロ(68億円)が必要で、これは世界中からの寄付による基金でまかなうことにしているという。
 募金用のホームページは、https://support.digitavaticana.org/contribution/language=ja)。
なお、「マレガ・プロジェクト」については、11月1日に、ヴァチカン図書館のパシーニ館長も参加して、大分県臼杵市の市民会館で調査の中間報告会が開かれる。

 話題その2。
 以前、このブログで記録媒体としての石英ガラスについて書いたことがあるが、朝日新聞10月21日掲載の記事によると、日立製作所が熱や放射線に強い石英ガラスに、ブルーレイディスク並みの密度でデータを書き込む技術を京都大学と共同して開発したという。データは3億年とい気が遠くなるほど長い期間保存できる。
 技術的には、レーザーを細く絞って石英ガラスにごく短時間照射すると、内部に1000分の1ミリほどの泡ができる。これをデジタルデータの単位として、泡を1000分の3ミリほどのピッチで平面に並べ、0.06ミリ間隔で100層分重ねる。すると約2.5センチ角で厚さ8ミリの石英ガラスに約1.5ギガバイトを記録できた。1000度の熱を2時間加えてもデータは破損されることはなかった。なお読み出しには光学顕微鏡を使うという。
 やがて「はやぶさ2号」とともに、H2ロケットで宇宙に打ち出される石英ガラスには、未来の地球人か宇宙人に向けた衛星開発者のメッセージや現在の地球、人類の姿が刻まれることになっているとのことである。
[PR]
by monsieurk | 2014-10-25 22:30 | メディア | Trackback | Comments(0)

マンガとバンド・デシネ

 フランスで日本の「マンガ」がブームであることは以前に紹介したが、フランスにも「バンド・デシネ(Bande dessinée)」と呼ぶ劇画の伝統がある。これは文字通りに訳せば「描かれた帯」、つまり長篇の「劇画」を指し、子どもだけでなく大人にも愛読者が多い。d0238372_157753.jpg
 その一つが、ベルギーの画家エルジェの『タンタンの冒険(Les aventures de Tintin)』で、タンタンとう名の少年が、犬の相棒ミルーを連れて世界中を冒険してまわるシリーズもので、1929年に最初の「タンタン、ソビエトへ行く」が出版されて以来、多くの世代に読みつがれてきた。もう一つのシリーズ『アステリックスの冒険(Une aventure d'Astérix, le Galois)』は、アルベール・ユデルゾがテクストを、ルネ・ゴシニが絵を担当して、1959年に最初の一冊が出版された。舞台は古代ローマ時代のガリヤ、つまり現在のフランスで、主人公アステリックスが大活躍し、それを通してフランスの歴史やフランス人気質を風刺をこめて描いている。作品は教科書にも載せられるほどフランス人の生活に根づいている。
 フランスのバンド・デシネは、社会的に高く評価されていて、年に一度、アングレームという街で大きな見本市が開かれ、真面目な批評の対象になる。少し前だが、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』もバンド・デシネになり大きな話題になった。プルーストの『失われた時を求めて』は、日本語に訳すと400字詰目原稿用紙で2万枚にもなる大作で、テーマや筋を忠実に再現した7冊のバンド・デシネとして刊行されたのである。d0238372_1592912.jpg
 最近のもので傑作と評判が高いのは、2004年に第1巻が刊行された『カメラマン(Le photographe)』である。これはカメラマンのギベール・ルフェーヴルが原案と写真を出し、フレデリック・ルメルシエが構成とテクストを担当したもので、全体は3部からなる。全巻がまとめて出版されたのは2010年のことである。この作品の最大の特徴は、写真と絵を組み合わせるという、d0238372_15123265.jpgバンド・デシネで初めての試みがなされたことだった。
 テーマは1978年に起きた「アフガニスタン紛争」で、写真家のルフェーブルが、現地で活動する「国境なき医師団」を追ったルポルタージュがもとになっている。アフガニスタン紛争では、1979年にソ連が軍事介入して、多くの犠牲者や難民を生んだが、現地の実情を「国境なき医師団」の活動に寄り添いつつ克明に記録し、写真で表現しきれない部分をリアルな絵にすることで伝えている。
 この作品を知ったのは偶然からだった。2004年2月に、放送大学のパネラーとして、香港で開催された「国際遠隔教育評議会(ICDE)」に出席したとき、ホテルで見ていたフランスのテレビで、読書案内の番組に登場した作者の二人が、自分たちのユニークなこころみを語っていた。帰国後すぐにフランスから作品を取り寄せて読んだ。
d0238372_15224954.jpg
 
 その後、作品は第2巻、第3巻がつけ加えられて、2010年に全264ページとして出版された。第1巻を読んだ直後、その内容と形式に感心し、知り合いの編集者に日本語版の出版を勧めたのだが、そのときは実現せず、10年後の今年2014年4月に、絵や写真部分は原作のまま、地の説明文と「ふきだし」を日本語に訳したものが出版された。
 日本でも最近、社会派のマンガが創作されるようになった。だが原発事故の放射能の影響をに踏み込んだ『美味しんぼ』は、風評被害を助長するなどの理由で雑誌掲載をストップされてしまった。
 それでも福島原発事故については、竜田一人(たつた・かずと)の『いちえふ 福島第一原子力発電所労働記』が関心を集めている。竜田というのはペンネームで、作者は実際に福島第一原発の事故現場で作業員して働いた経験があり、外部からでは分からない福島第一原発の深刻な現状がくわしく描かれていている。
 マンガやバンド・デシネは、いまでは情報を伝える重要な媒体であり、問題意識をもって作品が創作されることを期待したい。知り合いのフランス人が、翻訳したといって、『いちえふ』を持って帰ったが、さてどうなることか。
[PR]
by monsieurk | 2014-07-17 22:30 | メディア | Trackback | Comments(0)

名取洋之助Ⅴ「限界」

d0238372_10323617.jpg 「NIPPON」と軍部との関係は、1940年(昭和15)9月、日本軍が北部イントシナ(仏印)へ進駐して以降いっそう緊密になった。さらに日本は同年9月27日に日独伊三国協定を締結したが、直後の12月に刊行された第24号には三国同盟締結を祝う広告が掲載された。そして次の第25号(1941年3月)は、「日本―アメリカ特集」とされた。
 この号は仏文学者でインドシナに滞在した経験のある小松清(小松のインドシナとの関係については以前のブログを参照)が編集長をつとめ、巻頭には改造社社長の山本実彦が、「A LETTER TO MR. ROOSEVELT(ローズベルト氏への手紙)」を執筆している。山本はここで日本の南方進出の正統性を訴え、同時にイギリスやアメリカがアジアを圧迫してきた歴史を縷々述べている。記事としてはこの他に、「日米問題」と題する座談会、「日本におけるアメリカ文学」が載っているが取り立ててみるべきものはない。
 1941年(昭和16)7月、日本軍が南部仏印に進攻すると、「NIPPON」の海外での販売体制が大きく変わることになった。「NIPPON」は外務省、陸軍省、参謀本部が買い上げて海外で配布するほかに、時期によって異同はあるが、アメリカのニューヨーク、ドイツのハンブルク、フランス・パリ、南米のサンパウロ、ブエノスアイレス、北京、そして中東のテルアビヴに販売代理店を置いていた。それが1941年12月30日発行の第28号からは、雑誌にアメリカの書店が見当たらなくなる。中国での戦火が拡大し、やがて太平洋戦争が始まるとともにアメリカでの販売が打ち切られ、代わって日本軍が支配下に置いた東南アジアへ向けて送り出されることになったのである。
 さらに1942年(昭和17)9月の第29号からは、版型が見開きB3からA3のサイズへと縮小され、用紙もザラ紙となり、表紙には題字として漢字の「日本」が追加された。こうした体裁の変更にともなって内容も変化した。記事のほとんどが英語で書かれ、これまでのようなフランス語、スペイン語は姿を消し、「A Course in Nippongo」という日本語学習の欄が設けられた。この企画の2回目では、帽子をかぶった日本人の横顔、「日の丸」の国旗、翼に日の丸をつけた飛行機、桜の写真が掲載されて、簡単な日本語による説明が行われている。さらにはこれまで英語でJapanと表記していた国名を、すべてNipponと変えている。
 スタートにおいては、欧米の知識人や一般の人びとに日本の実情を紹介する目的をもっていた「NIPPON」は、当時のいわゆる大東亜共栄圏向けの宣伝雑誌に変質していったのである。日本工房に招かれて、第30号以降の編集長をつとめた三浦逸雄は、当時の状況をこう回想している。
 「雑誌「NIPPON」はプロアメリカで自由主義の雑誌といわれ、内閣情報局や軍報道部からにらまれていた。・・・言論の圧迫は厳しかったが、戦争記事は載せなかったし、東条英機の演説は絶対にとりあげなかった。部数1万部以上の雑誌の検閲は厳しかったが、「NIPPON」は小部数だったので、そうした反骨も示せた。それでもたびたび情報局へ呼ばれて叱られたが、まいったのは、内容が軍の気に入らない号だと宇品港〔広島〕に積まれたままで輸送船に乗せてくれなかったことだ。」(中西昭雄『名取洋之助の時代』所収、朝日新聞社、1981年)
 三浦はイタリア文学が専門で、文芸雑誌「セルパン」の編集長をつとめるかたわら、『ムッソリーニ全集』の翻訳も手がけて、右よりと見なされており、そうした人物に編集をまかせることで当局の検閲に対処しようとしたのであろう。「NIPPON」は敗戦の前年である1944年(昭和19)9月の第36号まで続くが、この年に刊行できたのはこの一号だけであった。
 名取洋之助自身は戦時中の「NIPPON」について多くを語っていない。1963年(昭和38)に書かれた『写真の読みかた』に述べられているのは、次のような評価である。
 「(前略)報道写真家の私が、こうして対世界的な仕事をしているのが刺激になって、日本に報道写真家が誕生することに成功したようです。今日一流の報道写真家といわれる土門拳、藤本四八、牧田仁などの諸氏が、当時、私と一緒に仕事をした人々の中から出ているのも、その一つの現れかもしれません。(中略)〔「NIPPON」は〕印刷の面で、グラフ雑誌のレイアウトの面では、最後まで注目される仕事をつづけました。レイアウトこそグラフ雑誌編集の心棒で、とくに組写真によって物を語るためには視覚を重視して組むことの重要性は第一に考えなければならなかったからです。「NIPPON」はそうした雑誌の校正と、それを的確に表現する印刷技術にはことに力を注いで、この二つの面では時代感覚の先駆をなしたといまも思っています。」
 雑誌「NIPPON」は、たしかに世界の潮流に伍して報道写真を日本に定着させ、フォト・ジャーナリズムの魁となった。さらにデザインのうえでも大木の足跡を残した。ただ「NIPPON」に掲載された写真をあらためて眺めてみると、そこには前線の兵士の実像や当時の日本占領下にあったアジアの民衆の姿は映っていない。国策に沿って発行せざるをえなかった雑誌の限界であった。
 名取によれば戦前に撮影された写真の多くが終戦の際に焼却されたという。だが今回の展覧会では名取が撮った写真の貴重なコンタクト(ベタ焼き)なども展示されていて注目される。名取は戦後も「週間サンニュース」や「岩波写真文庫」などを企画し、編集長格として写真ジャーナリズムの世界をリードした。
[PR]
by monsieurk | 2013-12-28 22:30 | メディア | Trackback | Comments(0)
 「NIPPON」は1934年(昭和9)10月の創刊号から1944年(昭和19)9月に最終号となった第36号を出すまでの9年11カ月の間、年間ほぼ4冊の割合で刊行された。合計36冊の雑誌は、その傾向から三つの時期に分けられる。創刊号から第12号(1937年7月)の第1期、第13号(37年10月)から第28号(41年12月)の第2期、そして第29号(42年9月)から最終第36号(44年9月)に至る第3期である。
 1937年(昭和12年)は世界の緊張が一気に高まった年である。前年7月に始まったスペイン内戦では、この年4月26日にスペイン北東部の山間の街ゲルニカがドイツ空軍のコンドル部隊の空襲をうけて、一日で人口7000人の街が破壊された。これは都市に向けて行われた初めての無差別爆撃であり、ニュースに接したパブロ・ピカソは、5月1日からパリで始まる万国博覧会のスペイン館のために、壁面を飾る大作《ゲルニカ》を制作した。そしてこの年7月7日の深夜には、盧溝橋で日本軍と中国軍が衝突して日中戦争が始まった。
 時代の変化は雑誌「NIPPON」の内容に敏感に反映された。名取洋之助はこの時期になると中国に滞在することが多くなり、雑誌の編集は飯島実、小林正寿、除村一学たちの手で行われるようになった。そして雑誌には中国関係の写真と記事が目立って多くなった。対象とする読者の対象も、第一期が主にヨーロッパや中南米であったのに対して、アメリカへと移っていった。
 「NIPPON」は第9号以降、毎号主なテーマを決めて編集するスタイルをとり、日中戦争に世界の関心が集まるなかで、中国に関する写真報道と記事が多くなっていった。こうした写真や記事がどんな視点で撮影され、執筆されているかを検証してみると、明らかに日本の国策に沿ったものになっていることが分かる。
 第14号(1938年2月)では、「中国(当時の呼称は支那)の農民」という特集が組まれている。写真の撮影は名取洋之助で、記事は中国通として知られる尾崎秀実が書いている。尾崎は中国共産党が行っている土地政策を評価し、中国での日本政府の政策を暗に批判した。これは日本に対して友好的な農民の姿を取り上げている名取の写真とは明らかに視点が異なっていた。尾崎はこのほかにも、第15号では「中国はいずこへ」、第16号「黄河と中国文明」を執筆している。
 このように一冊の雑誌で、写真と記事、あるいは記事と記事の間で、問題を取り上げる姿勢が統一されず、しかも政治や軍事に関するテーマが次第に少なくなっていった。編集には、評論家の長谷川如是閑、哲学者の谷川徹三、朝日新聞のコラムニスト杉山平助などが顧問として参加して、名取のブレーン役を果たした。当時彼らは自由主義者として知られ、テーマの選択には彼らの意見が反映されたと考えられるが、同時に日本の現状を世界に向けて発信するという雑誌の性格から検閲を意識していた。第18号(1939年7月)は「朝鮮特集」、第19号(同年10月)は「満州特集号」として発行され、友好的な「満州国」をアピールしている。写真は五族協和を謳いあげるために、日本人を中心に満面に笑みを浮かべた五つの民族の顔が並んでいる。満州問題をきっかけに国際的孤立を深める日本の満州政策を世界に認めさせようとする意図が明白である。雑誌は戦争の劇化とともに政府や軍の政策に沿った編集を行うようになっていた。
 この間、名取洋之助は軍との話し合いで、「上海事変」の取材許可を手に入れて、カメラマンを戦場に送り込むことに成功した。並行して、1938年(昭和13)11月には上海にプレス・ユニオン・フォトサーヴィスを設立し、外国へ写真を提供する仕事の拠点とした。さらに英文のグラフ雑誌「SHANGHAI」も創刊したが、この雑誌は反蒋介石の主張を打ち出す目的をもっていた。そして翌39年4月には、南支那派遣報道部をスポンサーにした英文の月刊誌「CANTON」が発刊された。これは香港の佳境や中国在住の外国人を対象に、日本がいかに中国を理解し、中国の近代化を援けているかを宣伝するものであった。
 1939年(昭和14)5月、これまで名取洋之助が主宰してきた日本工房は、「国際報道工芸株式会社」に改組され、組織強化と財政のテコ入れが行われた。(続)
[PR]
by monsieurk | 2013-12-26 22:30 | メディア | Trackback | Comments(0)

名取洋之助Ⅲ「NIPPON」

d0238372_1018013.jpg 名取洋之助が中心となったグラフ雑誌「NIPPON」の創刊号は、1934年(昭和9)に刊行された。巻頭には「軽井沢・日本」と題したルポルタージュを掲載したが、これは避暑地で過ごすイギリスやフランスの駐日大使館関係者を扱ったもので、多くの写真によって、避暑地の優雅な光景が写し出されている。このほかに特集として、「東京市と市長」、「日本の近代建築」があり、さらに文学、美術、舞踏、音楽、産業界の現状を伝えている。これに「日本経済飛躍の概括的原因」と題する論文、「日本の織物工業」をめぐるルポルタージュ、歌舞伎、新劇、映画、日蝕、自動車道路、水泳、旅行案内と続いている。
 画期的なのは、詩人堀口大學のスペイン語による詩「印象」が掲載されていることである。堀口大學は外交官の父九萬一の任地である南米で過ごしたことから、スペイン語に堪能だった。
 これらの多様な内容が、120点の写真と英語、フランス語、スペイン語の記事とで紹介された。全体は64ページ、アート紙を用いた豪華な写真入り雑誌がこうして誕生した。文化の分野を中心とした内容は初期には大体踏襲されており、欧米諸国の読者をターゲットとしていたことがわかる。
 「日本工房」は雑誌発行と並んで、スタッフが撮影した報道写真を世界中の通信社に販売する体制も整えた。名取がドイツで学んだ「写真通信社(エージェント)」の日本版であった。工房は宣伝部をもたない会社や商店の宣伝広告の企画、ポスター、パンフレットの制作を手がけたが、これだけでは事業を継続する資金が足りなかった。そこで名取は知り合いの鐘紡社長の津田信吾に、雑誌発行の資金を援助してくれるように頼んだ。鐘紡は商品の多くを外国に輸出しおり、日本は近代的工業国のイメージに乏しく、品質が悪いという先入観を打破する上でも、日本の現実を紹介する雑誌は役立つと考えたのである。これは当時の産業界全体の願望でもあった。
 だが日本を海外に紹介する豪華雑誌の出版は、自助努力や私企業からの援助だけでは成り立たなかった。そのため名取と営業担当の影山稔雄は、外務省情報部や陸軍省の新聞班と接触した。「日本工房」の側には資金調達のほかにもう一つの思惑があったと、影山は述べている。
 「時代の雲行きがあやしいので、創刊号ができたときから軍部をバックにして応援してもらおうと考えた。参謀本部、陸軍省新聞班、海軍省軍事普及部の将校を赤坂の星カ丘茶寮に呼んで、名取さんと一席設けたことがあった。海外への輸送がむずかしくなったときに便宜をはかってもらうためと、できれば財政支援も頼みたかった。海軍は乗り気でなかったのを覚えている」(日本工房の会編、「NIPPON 先駆者の青春 名取洋之助とスタッフの記録」1980年)
 「NIPPON」刊行に当たっては、陸軍省が資金援助をあたえたほかに、外務省の外郭団体である「財団法人国際文化振興会」も、関係者が記事を書き、一定部数を買い上げ、やがて日本工房の経営が苦しくなると資金を提供した。こうして写真家たちの熱意から企画された雑誌「NIPPON」は、資金調達の面で、陸軍省、外務省、さらに財界の一部と深い結びつきを持つことになった。(続)
[PR]
by monsieurk | 2013-12-24 22:30 | メディア | Trackback | Comments(0)

名取洋之助Ⅱ「組写真」

d0238372_12324765.jpg 名取洋之助を中心にした「日本工房」は1933年(昭和8)8月に設立された。同人として集まったのは名取のほかに、写真家の木村伊兵衛、写真評論家の伊奈信男、グラフィック・デザイナー原弘、プランナー役の俳優、山内光(岡田桑三)であった。名取はさっそく「ライカによる文芸家写真展」や「報道写真展」を開催し、こうした活動を通して報道写真を日本に根づかせようとした。
 報道写真とはもともとドイツの新即物主義の芸術運動から生まれた「ルポルタージュ・フォト」という言葉を翻訳したものである。報道写真は写真の即物性を生かして、現実の伝達に徹しようとするものだった。だが一枚の写真は、観る人の知識の程度や置かれた環境によって解釈が異なる。こうした写真の性質が、ときに伝達手段として混乱を引き起こす。これは報道写真にとってはの見逃せない宿命だった。
 この弱点を克服するために考え出されたのが「組写真」である。一枚では多義的である写真を何枚か並べることで、その意味を限定し、しかもある物語を表現できるようになる。さらにカメラマン、あるいは編集者の意図したように読ませることも可能となる。こうして「組写真」が報道の有力な手段として活用されるようになった。しかもこの方法を用いれば、表面的な事実だけでなく、人間の内面や抽象概念までも表現できると考えられた。
 ソビエトの映画作家プドフキン(Vsevolod I. Pudovkin)は、「街頭をいくデモ行進について、明瞭な観察を得ようとする傍観者は、まず屋根にのぼって全体をみわたし、規模を見定めたあと、三階から彼らが持っているプラカードやポスターの文字を読む。そしてその後で、行進の列の中に入って参加者の顔を見る。すなわち正確な状況を把握するためには、三度その位置を変えるが、カメラはこの観察者の立場にたつことによって、能動的な観察者に変わる」と述べている。
 これは現実を撮影する基本であり、組写真の意図にそっくり当てはまる。写真は一枚では使いにくい表象記号だが、幾枚かを組み合わせることによって、この使いにくさ、曖昧さからある程度脱することができた。
 名取たちがドイツで学び、日本に輸入しようとした報道写真とはこうしたものであった。しかし「日本工房」は同人の対立から、設立からわずか一年足らずの1934年3月には解散してしまった。名取と別れた伊奈、原たちは「中央工房」をつくり、名取は解散の2カ月後には「日本工房」を再建して、メンバーを新しくするとともに、報道写真雑誌「NIPPON」を創刊した。新たなメンバーは写真を名取洋之助、渡辺義雄、堀野正雄らが撮り、雑誌のレイアウトは資生堂宣伝部で活躍していた山名文夫が担当した。この他には営業と実務を飯島実と影山稔雄が受け持った。その後、デザイナーの河野鷹思、亀倉雄策、カメラマンに土門拳が参加するが、20歳前半の彼らは、この第二次日本工房で育っていったのである。(続)
[PR]
by monsieurk | 2013-12-22 22:30 | メディア | Trackback | Comments(0)
 日本に「報道写真」の考えを持ち込み、新しいデザインと写真の発展に大きく寄与した名取洋之助(1910-1962)の生涯と仕事を紹介する回顧展「報道写真とデザインの父 名取洋之助展」が、東京・日本橋の高島屋で12月18日から29日まで開かれている。
 名取洋之助とはいかなる人物だったのか。以下に放送大学で行った講義「報道写真雑誌『NIPPON』」を要約して紹介する。

d0238372_12301323.jpg 1920年代前半、ワイマール共和国時代のドイツでは、ベルリンを中心に自由で革新的な芸術が華ひらき、現代文化の発信地となった。この時代はまた写真ジャーナリズムの黄金期でもあった。「 ベルリーナ・イリュストリールテ・プレッセ(Berliner Illustrierte Presse)」や「ミュンヘンナー・イリュストリールテ・プレッセ(Műnchener Illustrierte Presse)」は、200万部の発行部数をほこり、ドイツ国内だけでなく全世界に販売された。
 そんな世界で一人日本人が仕事をしていた。名取洋之助である。名取は1910年(明治43)に東京で生まれ、慶応義塾普通部に進み、やがて17歳でドイツ・ミュンヘン美術工芸学校に留学した。在学中に演劇や美術工芸に興味をもったが、やがて名器と呼ばれる手持のカメラ「ライカ」と出会って、写真に熱中するようになった。そして1930年(昭和5)にエルナ・メクレンブルクと結婚。彼女は機能美を追及するバウハウス(Bauhaus)系のグラフィック・デザイナーであった。バウハウスは1919年に設立された総合的な造形学校で、ワルター・グロビウスを校長に、パウル・クレー、ワシリ・カンディンスキー、オスカー・シュレーマーといった芸術家が教授陣に名を連ねる現代芸術の拠点であった。ここでは機会や技術によってもたらされる感覚や思想を評価し、この考え方は建築や造形芸術に大きな影響をあたえつつあった。名取洋之助がドイツへ渡った理由の一つもこうした新しい芸術理念に興味を惹かれたからである。
 ある日、妻のメクレンブルクがたまたま撮影した「焼け跡で自分の作品を探す工芸家」の写真が、週間グラフ雑誌「ミュンヘンナー・イリュストリールテ・プレッセ」に掲載されたことから、写真で金が稼げることを実感した名取は、写真を一生の仕事にすることを決意したという。
 名取は写真家として実績を積み、やがてドイツ有数の出版社ウルシュタイン社の契約カメラマンとなり、1932年(昭和7)には同社の特派員として日本に送られて、祖国の生活や文化をあらわす写真を撮った。3カ月におよぶ滞在と外国の出版社のために日本の現実を取材した経験が、2年後に創刊する写真雑誌「NIPPON」に結びついていく。
 1933年はヒトラーが政権の座についた年である。ヒトラーのナチス政権はドイツ国内での外国人ジャーナリストの活動を厳しく制限する政策をとり、ドイツの写真雑誌の編集社も体制に忠実であるかどうかで選別された。その結果ドイツの雑誌はトップの座を、フランスの写真誌「Vu」(1928年創刊)とアメリカの「ライフ」(1936年創刊)にとって代わられることになる。「 ベルリーナ・イリュストリールテ・プレッセ」の編集長をしていたユダヤ人のコルフはドイツを追われるとニューヨークに渡り、週刊誌「タイム」と経済紙「フォーチュン」を出版していたタイム社の社長ヘンリー・ルースの要請に応えて、アメリカ向きの週間グラビア誌を企画し、1年がかりで創刊した。これが「ライフ」だった。
 ヒトラーが政権を握った1933年8月、名取洋之助は中国東北部(満州)を中心に取材中に、ウルシュタイン社特派員の肩書きのまま日本に戻り、祖国で写真家として仕事をする決意を固めた。「生きた現代の日本を、新しい写真で外国に知らせる仕事を組織的にやってみよう」(名取洋之助『写真の読み方』、岩波新書、131頁)と考えたのである。
 時あたかも「満州事変」が起こり、孤立を深める日本の動向に世界の注目が集まるようになっていた。(続)
[PR]
by monsieurk | 2013-12-20 22:24 | メディア | Trackback | Comments(0)
d0238372_114349.jpg トゥールーズの地下鉄の入口では、毎朝、フリー・ペーパー「Direct Matin」が配られている。これに毎週月曜日、ジャン=マリ・コロンバニ(Jean-Marie Colombani)の「ブロック・ノート」が掲載される。
 コロンバニはフランスでもっとも信頼できる新聞「ル・モンド」の政治記者として鳴らし、その後同紙の編集長・社長にもなった。パリ特派員時代には交流があって、大きな出来事の背景説明を聞かせてもらった仲であった。彼は2007年に「ル・モンド」を退くと、ウェブ・マガジン「Slate.fr」の編集責任者として、ニュースの解説やエセ-に健筆を振るうようになった。「Direct Matin」の記事は、このSlate.frから転載したものである。
 「Slate(スレート)」は1996年、アメリカでスタートしたウェブ上だけで読めるマガジンで、初代編集長は「ニュー・レパブリカン」の元主筆マイケル・キンズレーがつとめた。その後2004年からはワシントン・ポスト・グループの傘下となって今日に至っている。
 フランス版「Slate.fr」は、コロンバニ、エリック・ルゼール、ジャック・アタリなど4人のジャーナリストが2009年に創設したもので、彼ら4人が資本の50%を持ち、残りのうち15%をSlateグループが所有している。このように資本の上でも、ジャーナリストたちが自由にものを言える仕組みが担保されている。
 コロンバニがこの点にこだわったのには、「ル・モンド」での苦い経験があった。「ル・モンド」紙はフリー・ペーパーの台頭やテレビ・ラジオの攻勢で、2004年には発行部数が前年比4.2%減の34万部まで落ち込み、赤字が拡大して外部資本が導入された。その結果、新聞の独立性を保障するために、記者会が株式の40%を持ってきた伝統が崩れたのである。コロンバニたちが「Slate.fr」を立ち上げる際に、株式の半数を自分たちジャーナリストが保有することに拘ったのはこの経験によるものだった。「Slate.fr」は政治・経済だけでなく文化、芸術など広い分野をカヴァーして、鋭い分析と解説が売りもので毎月350万人が訪れる人気のサイトに成長した。運営資金は広告収入で賄われ、誰でも無料でアクセスできる。(「ル・モンド」紙にも電子版があるが、記事全部を読むには登録料を払う必要がある)。
 コロンバニの最新の「ブロック・ノート」は、「バラク・ケネディとジョン・フィッツジェラルド・オバマ」と題した、アメリカ民主党の二人の大統領を取り上げたものである。
 「世界のいたるところでジョン・フィッツジェラルド・ケネディの暗殺から50年の記念行事が行われ、民主主義を標榜する国々ではリーダー・シップのあり方が議論する機会となっている。だが現代における最後の政治的神話だったバラク・オバマ神話はいまや消えつつある。
 二人のアメリカの大統領を比較することは容易だ。今日の目から見れば、ジョン・ケネディは、わたしたちが信じたほどよい大統領ではなかった。そしてバラク・オバマはわたしたちが望んだほどよい大統領ではなかった。
 二人はそれぞれのやり方で、新たな飛躍への期待、新たな息吹、政府のクオリティーと民衆の賛同との合致を実現するかに見えた」。だが彼らは二人ともその期待を裏切ったと、コロンバニは言うのである。
 ケネディについていえば、ヴェトナム戦争へのコミット、キューバ危機の際にとった一連の行動は再検討される必要があり、オバマに関しても、アメリカが多文化社会を実現して、「古いヨーロッパ」は文明の博物館の棚に片づけられる恐れがあったのに、その期待も裏切られそうだと述べている。
 ケネディーは1962年のキューバ危機では、核戦争勃発を賭してソビエトのフルシチョフに最後通告を送り、これが功を奏してソビエトはキューバに建設中のミサイル基地を撤去したとして、「断固とした外交のできる政治家」として名をあげた。だがケネディーは核戦争に踏み切る決断をしていたことが後の資料で明らかになった。このとき核戦争が回避され、人類が生きのびられたのは、ソビエト側の賢明な判断と対応によるものだった。
 コロンバニによればオバマの弱点も外交にあって、彼の「leadership from behind(裏で操る姿勢)」は、逡巡・ためらいの現れにほかならない。事実は、これはシリア制裁をめぐる一連の行動によって露呈してしまった。
 アメリカ民主党の伝統(コロンバニは、フランスなら左派と呼ばれると注記している)を体現する二人の大統領の資質と行動を、私たちは厳しい目で見守る必要がある。過去も、そしてこれからも、アメリカ大統領が世界の動向に巨大な影響をあたえることに変わりはないからだ。これがコロンバニのコラムの結びである。
[PR]
by monsieurk | 2013-12-03 22:30 | メディア | Trackback | Comments(0)