フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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カテゴリ:本( 136 )

 瀧口修造の研究家で、彼のデカルコマニーの蒐集家である土渕信彦氏が、フランスの雑誌「MĒLUSINE」を送ってくださった。土淵氏のコレクションについては、ブログ「瀧口修造とデュシャン」(2011.12.14)で触れたことがある。
 mélusine とは、ケルト神話に出てくる下半身が蛇の美女である。この奇妙な名をもつ雑誌の最新刊第36号の内容は二本立てで、前半が「MASCULIN / FEMININ(男性 / 女性)」、後半の特集が「LE SURREALISME AU JAOPN(日本におけるシュルレアリスム)」である。
 この特集を企画した、マルティーヌ・モントーと永井敦子上智大学教授は、冒頭の論文「アセファール(無頭人)から禅へ」(「アセファール」とは1930年代に新しい宗教を求めてジョルジュ・バタイユがつくった秘密結社)で、「わたしたちは、9篇の論文を通して、シュルレアリスムと日本の間の相互影響、それが日本の思想、文学表現(エクリチュール)、美術にあたえた衝撃の一面を明らかにする。
 1925年、ヨーロッパから帰国した西脇順三郎は、ヨーロッパ文学の新らたな風潮を日本に紹介した。こうしてシュルレアリスムは、瞬く間に成功を見た。500人ほどの文学者や画家が運動に参画したが、その熱狂ぶりは、1868年の維新以来の開国のなかでも特筆すべきものであった。」と、シュルレアリスム運動が日本に受容された様子を要約している。
 9つの論文とは、土淵信彦「瀧口修造――その生涯と作品」、「山中散生の生涯と詩」、「俳諧、ジャポニスム、シュルレアリストが見た日本」、「写真による超現実の探究」、「メタ美学の政治、シュルレアリスムと日本の植民地主義」、「オクタビオ・パスによる日本の伝統と西欧のモデルニテ」、「シュルレアリスムと禅、アンドレ・ブルトンにおける禅の指向」、「岡本太郎《太陽の塔》の起源と探究、1930年代におけるシュルレアリスム」で、文学や美術でのシュルレアリスムの実践が、これほど多角的に論じられ、フランス語で紹介されたのは初めてのことである。
 土渕氏の論文については、「詩人であり評論家でもあった瀧口修造は、生涯にわたってシュルレアリスムに強く影響されたが、その造形芸術の創作を年代を追って詳述している。著者は、マルセル・デュシャンが彼に及ぼした大きな影響、とくに晩年における影響を強調している」と紹介されている。
 土渕論文には、瀧口が創作した「デカルコマニー(décalcomanie)」(紙と紙などの間に絵具を挟み込み、その上から圧力をかけることで、作者の意図しない偶発的な形を絵画の創作)も複製されていて、フランスの読者の興味を惹くのは間違いない。
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 これは瀧口修造の「デカルコマニー」の一例で、特集の最後には、北園克衛、山中散生、飯島耕一たちの詩もフランス語に訳されて収録されている。
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by monsieurk | 2016-05-13 22:30 | | Trackback | Comments(0)

詩華集『篝火(TORCHE)』

 詩選集『篝火』の誕生には、金子光晴の妻、森三千代が光晴の留守中に、東京帝国大学の文学部美学科の学生だった土方定一のもとに走った事件が深くかかわっている。この件についてはブログ「男と女――金子と森の場合(ⅩⅤ)」(2016.01.20)に書いたとおりである。
 金子と森の間には息子乾がいたが、その息子を長崎にいる三千代の両親にあずけ、三千代一人を東京に残して、金子は詩人の国木田虎雄夫妻とともにおよそ一カ月、上海など中国を旅した。帰国してみると三千代は家に居ず、土方と同棲していたのである。金子はそんな三千代を連れもどし、息子乾と三人の生活をふたたびはじめるが、三千代は二日こちらにいれば、三日むこうに泊まるといった生活をやめず、帰ってきても、金子が身体に触るのを拒みつづけた。
 その後間もなく彼女が高熱で倒れた。猩紅熱だった。三千代は隔離病院に入院させられ、回復するまでに四十日ほどかかったが、その間金子は生活のための金策に歩きまわったすえに、妻を取り戻すために、日本を脱出してパリへ行くことを持ち出した。すると三千代はあっさりと承知したのである。ただ条件として、出発前に土方と約束している茨城県高萩へ二人で旅行することを持ち出し、金子はこれを受け入れた。それで二人が関係に終止符を打ち、仲間うちでも評判になっているコキュの立場が終わるならばと思ったのである。
 こうして瓢箪から駒のように、金子にとっては二度目、森三千代には初めての渡欧話が決まった。するとそれを知った詩人仲間から記念詩集を刊行する話が出て、井上康文と尾崎喜八が中心となって購入予約の募集をはじめた。金子光晴・森三千代渡欧記念示詩華集『篝火(TORCHE)』がつくられた経緯はこうしたものであった。
 詩集は奥附によると、昭和三年(一九二八年)六月二十八日印刷、七月一日発行で、編集兼発行者は井上康文。印刷兼発行所は詩集社、発売所、素人社で、定価は一円二十銭とある。
 詩集では表題に次いで、フランス語で、「TORCHE ANTHOLOGIE DES NOUVEAUX POETES JAPONAIS (新しいら日本詩人たちの詩撰集)」とあり、その下にローマ字で、参加した著者の名前が記されている。それはABC順に、井上康文 / 金子光晴 / 勝 承夫 / 中西悟堂 / 尾崎喜八 / 陶山篤太郎の六名である。
 これに次ぐに二頁には「序言」が載っており、彼らの意気込みが知れるので全文引用してみる。
 「詩の大河は一つの過渡期に逢著したかのやうに、今やその流れを休めてゐる。来るべき河床の傾斜を待つてゐるのか、沼澤の安易を眠つてゐるのか、それは停滞して、夏の太陽の下で生温くなつてゐる、この間に起らないとは云へない水の腐敗に警戒せよ!外からの衝動が缼けてゐるならば、内からの刺戟を加へねばならない。閑日月の安樂を抛つて、創造の苦しき悦びを取り上げなければならない。生の徴候を示さねばならない。
 何よりも先づ詩的精神の弛緩を打て!働きかける事それ自身が藝術家の任務だといふ事を、行為によつて、作品によつて示せ!一つの篝火はそれ故に上げられる。これは一つの合圖に過ぎない。これは他の多くの篝火を豫想する。夜の奥底に點々たる焔が見える。勤勉な兄弟達が夜を警めてゐる。それが何時かは互に交通するだらう。そして一般的な詩の輝く朝を呼ぶだらう。焚木から焚木へ、野営から野営へ、兄弟よ、火を移し合はう!」
 おそらく井上康文が書いたと思われるこの「序言」に続いて、「詩華集・篝火・目次」とあって、以下に井上康文の「どろ靴」を含めた八篇、金子光晴十五篇、以下、勝承夫、中西悟堂、尾崎喜八、陶山篤太郎の詩篇が掲載されている。
 このうちから金子光晴の十五篇は、最初のヨーロッパ旅行の体験から想像し、これから出発する旅先の光景を先取りしてうたったものである。最初の詩篇「航海」――

熱い。・・・白いペンキ塗の船欄干に
豹のやうな波の照返し、
麦酒(ビール)が、みんな生湯(ぬるまゆ)になつた。

・・・私の船は今、木曜島沖を横振してる。
あたまでつかちな煙突と、痛風窓。

放縦なダヤーク人の裸な良侯(ボンクリマ)だ。!
私は、骨片の音のする首飾を、
胸のところでカタカタ鳴してみた。

彼女の赤い臀の穴のにほひを私は嗅ぎ、
前檣トツプで汗にひたつてゐた。

あはれな海鳥がピーピー鳴きながら
骨牌(かるた)のやうに静にひるがへる。

 そして、「展望より」。

   1

女を抱いたとき、街中の火が彗星になつて
私の頭のなかをさかさにづり落ちた。
 :・ 女のからだ全世界の歓樂があつたからだ。(中略)

   2

さくらの花辧のやうな鯛(さがみうを)の群が
くらい日本の海をめぐつて夜夜唄ふ。

私は、あの晩、彼女を戀したが故にすべて美しい地獄(プロフォンジス)を一夜で下つた!

黒い機関車が火の粉を散して踊る。旅よ。
櫻嫩葉の繁みが頭のうへでゆれてゐる焼杭の驛棚に凭れて 愛慕切なる夜 私は天へむかつて発車したいと願つた。
初夏雨霖、燈火の街をみはらしながら、ふとわが名をよぶ遠い 遠い母の聲をきいた。

 詩集には結局、森三千代の詩は収録されなかったが、「私は、あの晩、彼女を戀したが故にすべて美しい地獄(プロフォンジス)を一夜で下つた」という一節は、彼女との曲折を考えると何か暗示的である。
 七月八日、『篝火(TORCHE)』の出版記念会が丸の内の山水樓で開かれた。出席したのは、金子と森三千代、それに井上康文、尾崎喜八、陶山篤太郎、草野心平、岡本潤、岡村二一、渡辺渡、井上秀子、八百板芳夫、ほか二名であった。さらに別の日には、四谷の白十字の二階でも他のグループによる送別会が行われ、こちらは、金子・森のほかに友谷静栄、大木惇夫、サトウハチロー、恩地孝四郎、中西悟堂、大鹿卓、吉邨二郎など合計十九人が集まるという盛会だった。こうして三千代を土方から引き戻すために思いついたヨーロッパ行は既定の事実として動き出した。そして三千代は金子に認めさせた通り、土方と過ごすべく、高萩へ出かけて行った。
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by monsieurk | 2016-05-04 22:30 | | Trackback | Comments(0)
 金子光晴と森三千代の共著になる詩集『鱶沈む』は、1927年5月10日印刷、15日、有明社出版部会から刊行された。いまや稀覯本で国立国会図書館には所蔵されていないが、東京都立多摩図書館に一部が収蔵されている。収蔵番号は J156 / K183 / H である。
 体裁は横12cm×縦18cmの四六版で、紅殻色の表紙に、縦に二行、「金子光晴 森三千代 共著」、真中に大きな活字で、「鱶沈む」と印刷されている。内表紙には、表紙と同じ著者名、出版社名に加えて、「鱶沈む」のタイトルの脇に、「南支旅行記念詩集」と書かれている。
 この詩集はのちに全集に収録される際は金子光晴の単独詩集として扱われて、森三千代の作品は削除された。したがって彼女の詩篇を知るには、どうしてもこの原詩集を見なくてはならない。
 詩集の構成は、両者名の「小序」に次いで、金子光晴の「古都南京」以下、「寒山寺」、「莫愁湖」、「虎丘」、「蘇州城」、「短章」、「桂魚」の七篇が、一頁から二六頁までに収められ、二七頁の左下に、「森三千代」とあって、二八頁以下に森三千代の作品が続く。それらは「杭州旅行」を総題とする二篇、「一 滬抗鐡路」、「二 松江(ズンコウ)」、次いで、「北極閣」、「儀鳳門」、「山稜」、「莫愁湖」、散文「西湖より」、「蘇堤」、「葛嶺」の九篇で、四五頁までを占めている。そして最後に、金子光晴の「鱶沈む ――黄蒲江に寄す」が、四六頁から五二頁まで印刷され、最後の頁に奥附があり、定価一円とある。
 先ずは金子光晴の八篇のうちの三番目の「莫愁湖」――

曾公園の壁は骨もあらはれ、
陽は、勾欄の卍を、淡く透して卓にさす。
土壌しめやかな前庭には、幾株の芭蕉が、
新しい巻葉を展はす。

人間の悲しみは、時の悲しみより大なるはない。
朱い羽根帽子をかぶつたわが女よ。私達にもいつかは
青春から去り、交渉から退き、あるひはまた、
全くこの生から互みに亡び去る時がくるであらう。
熱茶をつげ。
莫愁湖の水は涸れて、
山羊の草を噛むひゞきのみ高い。
葦茂る洲のところどころに陽が徒らに悲しく、
蒼鷺がむれて、

長い羽を伸ばして翔びわたる。


いや、私の愁いは、他ではない。
名をつけがたく、理由もない
いはゞ、宇宙の漠然たる憂愁、
生けるものなべてのいぶせさである。
白い鳥糞と枯葉、甍の間の鼬と、甍の蒲公英。
すたれゆく軒材のみぞの澤山な袋蜘蛛。

 目にする光景と、それを見る者の感慨が混然一体となった詩句は、金子がこのころ新たに手に入れた詩法をよく示している。詩集には森三千代の同じタイトルの詩が収められており、「赤い羽根帽子をかぶった」彼女が同じ光景を前にして、何を詠ったかは興味深い。詩の冒頭には、「梁武帝河中之水歌」の七言絶句が引用されており、それを受けて――

水樓に風寒く
逝く春を慨く。

草愁の女よ。
亡びた都に
いつまでも美しい名よ。
あゝ それだのにこのやつれた景色は・・・・。

楊柳の糸を拂つてゆく
しづかな荷の風にも
しずこゝろない小波よ。

みどりの臺のやうに
生ひそろつた葦の原を
青鷺が
わたる。

 同じ光景を目にした両者の違いは瞭然である。森の特長はむしろこの「莫愁湖」の次に置かれた散文「西湖より」の方にある。

 親しいお友だちがたへ
 わたしは、いま、西湖のほとりへ来ております。
 こゝの水は、雨を感じ易く、かは柳や、楠樹の新緑にすつかり蔽はれた水上の樓閣や、亭は、まるで、いつまでもいつまでも夢をみてゐるやうです。わたしは、こゝろよい方へとまかせて吹いてゐる風と、こまかい光の漣を立ててゐる水に、わたしの「雪舫」を任せて遣るのを、なによりたのしみにしてくらしてゐます。(中略)
 夕ぐれ刻には、その漣の一つ一つが臙脂をそめて、六和塔が朱い空に、銀色になつて浮びあがります。舟あそびのテントを、夕方のすゞしい風がバタバタやります。水のしぶきと臭がわたしの顔を平つ手で叩くやうな心持がします。さうして湖邊の酒樓からは、湖のうへへ、甘い胡弓と笛の音色を渡すのです。
 わたしには、あのゴーチエがあくがれてゐた明眸の支那女の顔は、きつとこの西湖の顔であらふと思はれ出しました。夜の湖畔を、長い長い柄のついた轎子にたよたよとゆられ乍らゆく深窓の嬢々、疎らに枝々さしかはす林をむふ新月の姿にも似たこの西湖の姿こそは、わたしの心へ生涯、戀のやうに、美のやうに忘れられないものとなつてしまひました。

 手紙形式の散文詩は、森三千代の感性、行きわった観察眼、それを的確に表現する比喩の巧みさと文章など、彼女がやがて散文作家として成功する資質をよく示している。
 詩集の最後は、表題となった金子光晴の圧倒的な詩「鱶沈む」で締めくくられる。

 鱶沈む
       ――黄蒲江に寄す――

白晝!
黄い揚子江の濁流の天を押すのをきけ。

水平線上に乗りあがる壊れた船欄干に浮浪人、亡命者たちの群・・・・・。
流れ木、穴のあいた茣蓙の帆、赤く錆びた空鑵、
のはうづな巨船體が、川づらに出没するのみ。
おゝ、恥辱なほどはれがましい「大洪水後」の太陽。

 盲目の中心には大鱶が深く深く沈む。

 川柳の塘添ひに水屍、白い鰻がぶら垂つている。

錨を落せ!
船曳苦力のわいわいいふ瑪頭(マトー)の悲しい聲をきかないか。
いな、底にあるは闇々なる昏睡であるか。
 ・・・・排水孔のごみ、鷗らが淋しく鳴いて群る。
大歓喜か。又は大悲歎であるか。
おゝ 森閑たる白日、水の雑音の寂寞!!!
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
黄い揚子江の濁流の天に氾濫するのをきけ。

   二

頭のうへの夕の浪に、やぶれた帆船の黒い幻影がつゞく。

おゝ、有害な塵をあげる上海は波底はるかに沈む!

浮浪人達は、この大避病院の澤山な寝臺の脚、花園橋(ガーデンブリツジ)から、
苦力たちの足鎖で轟々といふその橋桟から
 ・・・・甜爪の皮や、痰の大汚水の寄るのをみ下している。

黄い鳥膚をした娼女達はパン片に嚙付く。
門石のうへを、黄包車苦力(ワンポツオ)の銅貨が、賭でころがる。

 ・・・・上潮だ! 悲しい熱情で踊るジャンクの群。

阿片パイプの金皿のヂヂこげる匂が四馬路(スマロー)から臭ふ。
耳ほどの小さな陰部、悉く蝕(むしくひ)だ!
ガンガンボンボン銅鑼や、金切聲が法租界からきこえてくる。
『棗泥湯米團』の湯氣で全支那が煙る。

あゝ、だが重い一輪車苦力の、エイ、エイ、ホツ、ホツといふ、
 巷巷のその叫はいつ休むのだらう。

誕生から柩までのあらゆる叫びがそこにある。
 そして、すべてそれは大揚子江に帰つてゆく。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・。

大揚子江はそれら一さいの生のうへに冥々と氾濫して、
 實に冥々として終始がない。
 ・・・・塵芥の渦を巻くうづ穴をガバガバ作りつつ
 ・・・・胎水のやうに噴水しつつ、

黄い水、つらい水、争ひの水、忘却の水!


上海、上海、上海、上海!
 この地獄門を救へ! と正義は云ふ。
しかし、大揚子江はたゞ冥々として聾のやうだ。
頭のうへの夕浪に、黒い帆は帆を産んで、幻のやうにならぶ。

 金子はこの詩を創作することによって、新たな詩境を手にいれたのだった。
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by monsieurk | 2016-05-01 22:30 | | Trackback | Comments(0)
 森三千代の最初の詩集『龍女の眸』(紅玉堂出版、1927年)を入手した。出版の経緯については、ブログ「男と女――金子と森に場合(Ⅷ)」(2015.12.25)に書いたので参照してほしいが、詩集は縦12.2cm×横18.7cmの四六版。桃色に近い薄茶色の表紙に、右か左へ横書きで、「詩集 / 龍女の眸 / /森 三千代 / 水面から首を出す龍を描いた丸い図案 / 1927 / 紅玉堂出版」とある。「詩集」、「森三千代」、「1927」の文字が赤で印刷され、他は黒の活字である。
 内容は、内表紙、野口米次郎の「序」二頁、森三千代の「自序」三頁、「遥かに父母に捧ぐ」の献辞一頁、そして一九二三年から二五年にかけてつくられた詩の本文が八九頁、そのあとに、尾崎喜八、大鹿卓(金子光晴の実弟)、そして金子光晴の「跋」八頁、「目次」二頁と続く。定価は一円だった。
 今回入手した本には、森三千代のペン書きで、「著者 / 南江二郎様」という献辞が書かれている。南江二郎は本名を南江治郎(1902-1982)といい、早稲田大学で坪内逍遥や小山内薫に学び、1921年(大正10年)19歳で、処女詩集『異端者の恋』を上梓し、1924年(大正13年)からは詩誌「新詩潮」を主催した。この間、彼は日本で初の人形劇の雑誌「マリオネット」や「人形芝居」を出して、同じように人形劇の普及運動に熱心だった土方定一とも交流があった。森三千代が南江に詩集を献呈したのも、多分にこのことが関係していると思われる。南江はその後NHKに入って番組制作にたずさわり、最後は理事をつとめた。
 この『龍女の眸』は稀覯本なので、森三千代の「自序」と幾つかの詩篇、それに金子光晴の「跋」を引用してみる。金子は「跋」では、「光晴」とだけ記している。
 まず「自序」で、森はこう述べている。
 「山上の空氣は澄み切つてゐました。老杉の樹の間から薔薇色の琵琶湖がほほゑむ爽かな朝の窓で時々ほととぎすの鋭い聲を聞きながら、白木に机に向つて書きためたものを整理して一冊にまとめようとしたのは、今から三年あまり前の事となつてしまひました。その頃はお茶の水の寄宿舎に學んでゐて、夏休みを利用して叡山に登つたのでした。サツフオが好きで、いろいろなロマンテイツクな夢にばかり耽つてゐた當時のものは、いま讀んでみてもろくなものはなく、この集では彼の時代のものはほんの一部分に止まり、おほかたその後の慌ただしい生活の中から生れ出たのであります。
 自然のままならば、當然就くべき教職といふ運命は私のやうな人間には無理だといふことをさとつて、それからのがれ、一夏は奥州に十和田湖を尋ね、東京へかへつてから一子を舉げて後、今度は長崎の両親の家で自分と子供と病後の身體を守りながら彼の地のエキゾテイシズムに深い興味を感じつつ、その間絶えず自分の貧しい詩藻を少しでも練るやうにと心がけてゐました。様々の労苦を伴つた生活は、私をしてただのロマンテイツクであった境地から蝉脱せしめ、眞正面に物を直視する習慣をあたへました。さうして私の詩は自分の欲しいと思つてもどうしても得られないもの對する郷愁と、現在の苦悩や悲哀をみつめつつ明日を期するその希望とに育くまれました。さうして得たこの集三十八篇の詩は、その時々に自分の意に満ちてはゐたものの、翌日は、否一時間後は、否一瞬後はもう不満な過ぎ去つたものでありました。
 ほんとうに新しい詩、何時見ても新しい詩、それを私は作り出したいのです。そのために私はまだまだ變つてゆくでせう。絶えず新鮮なゆたかな草と水とのために遂はれ続けてゐる遊牧の羊のやうに、私は今日の境地から明日の境地へ、更に明後日の境地へと進んでゆきたいと思ひます。もう苦しくなつて止めてしまひたいと思ふときがきつと来るにちがひありません。でも私は私をとりまゐてくれる様々な愛情の眼にはげまされてもつともつと先へ進むと確信します。
 十六七歳の頃、郷里の暖い山の斜面で、草の中に袴をはいた両足を投げ出して、いつまでも夢みる心を語つたり、稚い詩を育みあつたミス・ミヤハラ――その頃は美しい少女であつたが、いまどこにゐることか。ああその頃からの私は病みつきでした。一目でもいい、あの人の眼にこの本を觸れさせたい。
 東京へ出て来てからの學校との肌が合はなくて、私は始終憂鬱でした。その頃、某氏の紹介によつて門を叩いた松浦一先生の教訓は忘れることが出来ません。御かげでpoem の本道を踏みはづさずに辿ることが出来たと思つてるのは私のうぬぼれでせうか。殺風景な都會生活に荒みがちな私の愛情生活をもり育ててくれた人々――。
 どんな旋風が吹いて来ても、それ等の美しい眸が私自身の精進をはげましてくれるのを喜びとしてゐます。
 終にのぞみ、序文を寄せて下さつた野口米次郎氏、跋文をいただいた尾崎喜八氏、大鹿卓氏に厚く御禮を申上げます。そして更にさまざまな意味で援助を賜つたT氏に深い感謝を捧げます。
                                   森 三千代」
 萬年齢でいえば二十五歳十一カ月にしかならない森は、これまでの生活と思い、目覚めつつある意欲を率直に吐露している。ただ意図するように、詩集に収められた作品が、「ほんとうに新しい詩、何時見ても新しい詩」であるかどうか。ここでは三篇の詩を紹介してみよう。

 詩集冒頭の「海邊の家」。

男の胸にかほを塡めてゐると
哀しさがきりきりと目がしらに集つた。
男の肩幅は濱防風の咲いてゐる
頑丈な岩のやうだつた。

七月の夕陽を受けた障子の桟には
唐桐の花の影が濃く揺れてゐた。

絶え間ない遠い潮騒・・・・・。
食事の後まだ片附けない七輪の火が
白く濁つた灰をかぶつて
湯がしんしんと音を立てて沸つてゐる。
あの湯を咽喉に注ぎたくなつた。

じつと天井を見つめて
皮肉に口を結んでゐる男。
私は一日一日目立つてふくらんでゆくお腹をそつと撫でた。

男――
それは女にとつて
時に、離れがたない仇敵である。

 これは経済的に不如意になりつつあった金子光晴との生活を背景とする詩であろう。次の「雪」は、失ったものを追想する作品である。

ああまだ私が生れなかつた以前、
横つてゐたといふ眞白な花いつぱいの丘。
ああまだ私が生れなかつた以前、栄えてゐた街。
金色の街。
地平の果てを鳴り渡る銀笛(フルーツ)に
朗々と匂ひ出た遥かな氷郷の曙・・・・・

ああまだ私が生れなかつた以前、あつたといふ純潔。

 『龍女の眸』には、森が訪れた場所をテーマにした詩も多く収録されている。そうした詩篇の一つ、「居留地の散歩」。

秋になつた。
草の穂に陽の光が老け
踏み入れば銀色のきりぎりす飛ぶ。
海面はスレートの如く青く平か

粘板岩の敷石をゆく。
私の靴の踵に
紅い枯葉は肋骨(あばら)のやうにこはれてゆく。
ああ沈思と恍惚の深いことよ。

居留地の煉瓦塀から空に
秋は礫の如く飛ぶ聡い鳥がある。

 詩集の最後に置かれた「跋」で、伴侶の金子光晴は次のように書いている。
 「ここに三千代の詩集を世に送る欣びに邂逅した。
 月日がかけり、年々が落ちのびてゆく。二人のあひだにもいい日よりも悪い日が、美しい事よりも、つらい、苦しい、にがい思ひが多かつた。殊に女としてのお前のこころが、その純情を抱きしめる力を、おお なんと屡々歪ませられるところであつたらうか。
 私は、この詩集の内容に就いて可否を云々する役目ではない。
それには社會の批評といふものがある。よいものであるか、わるいものであるか、よいものとしても、それが理解されるまでに長い年月を要するものであるか。または案外早く時好に投ずるやうな種類のものであらうか? 私は、むしろお前の作品が、その時代のなるがままのとりあつかいひをうけることによつて、お前自らの眞實性のうごきをみるべきよいチヤンスをえたことをおもふ。
 ただ謂ふ。お前は勇ましく詩を精進してきた。そして、そのシンセリテーはお前の生涯を通してこの先、どこ迄ものびてゆくべきものであることを。                                              光晴」
 詩人の先輩としてまた生活をともにする者として、詩を志す森三千代を理解した愛情あふれる文章である。何ごとに対しても正面から立ち向かおうとsincerety・誠実さこそが、彼女の最大の特質であった。それがこの詩集にはよく現れている。ただ彼女の誠実さと一途さゆえに、金子は実生活の上でこれからも悩まされることになる。
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by monsieurk | 2016-04-28 22:30 | | Trackback | Comments(0)
 森三千代は詩人として文学者の経歴をスタートさせ、生涯で4冊の詩集を出したが、そのうちの一冊、『ムヰシュキン公爵と雀』が刊行された経緯に関しては、ブログ「男と女、金子と森の場合(第二部)」(2016.03.17)で述べたとおりである。この詩集はいまでは入手困難な稀覯本で、国立国会図書館にだけ一冊所蔵されている。これは電子化されていて、館内では閲覧し、必要な箇所を複写することができる。この所蔵本(特 255/ /48)の裏表紙には、「著者 上海北四川路余慶坊一二三号 森三千代、上海蘆澤印刷所」となっている。一九二九年一月二十一日印刷、二十三日付けで発行された。詩集の「序」で、森三千代は次のように書いている。
 「『ムヰシュキン公爵と雀』これは、私の『龍女の眸』『鱶沈む』の二つの詩集以後の作品を集めたものでございます。
 私はいま、欧羅巴へ行かうととして、その途上、この詩集を上海で印刷する運びとなりました。
 これ等の詩は、私の思想的の動揺を来した時代に成つたもので、私にとつては一区劃をなすものであると思はれます。そして、それはすべて未だ故國にある時のものばかりを特に集めました。
 私の家庭生活が、定住を失つて、船のやうに動き初め、一人の小供を両親の手に託して来て、私は淋しい。こんな時に出来たこの詩集である故に、私は殊更にこの詩集を愛する心が強いのです。私の生活の中の赤線、それがこの詩集なのでございます。」
 詩集には全部で十六篇の作品が収録されている。そのうちの「坊や」は、一九二六年(大正十五年)三月、二人で最初に上海旅行をした折に、長崎の両親のもとに残してきた子どもを思ってうたった絶唱である。

坊やの書いていつた兵隊さんは
帽子がよこつちよになつてゐるのね。

坊やのいつたあとで
障子の桟に、
白い包み紙のまゝのキヤラメルが一つ
のつけてあるのを見つけたのよ。

坊やの乗つたお船はどんなに大きかつたこと?
そして、お船は揺れたこと?

坊やのお船に乗つた夜は
母さんも同じやうな不安な波に夜つぴて揺られてゐたのです。

今朝、長崎の港に上陸して
第一番に誰に抱つこしたの。

ながい間、隔つてゐたおぢい様やおばあ様
そしてまだ年若い叔母様たちに
いちいち挨拶してゐるちいちやなお手々

坊やはいくつと聞かれた時に、忘れずに
『みつちゆ』と言へたでせうか。

けふ街を歩いてみると
どの子もどの子も坊やによく似てゐるやうで
ほんとうはちつとも似てはゐないのです。

ひとりで家に帰つてみると
坊やの書いた兵隊さんが
誰よりも坊やによく似て見えるのよ。

私は、障子の桟のキヤラメルを
そつとつまき上げて、またもとの通りに置きました。

 この詩の次の頁には、子どもの落書きのような挿画が添えられている。これも土方定一から送られてきたイラストなのであろうか。それとも森三千代が肌身離さずに持ってきた、息子乾の絵なのだろうか。
 詩集『ムヰシュキン公爵と雀』に収録された十六篇のうちの他の作品は、土方と金子との間で揺れ動く心情を描いたものが多くあり、ここではそのなかの三篇を紹介する。
 先ずは表題となっている「ムヰシュキン公爵と雀」――

さて、顔をあげるとどいつも此奴も私の顔を見て笑つてゐる
私はまた、昨夜何かくだらぬことをやつたに違ひない
であるから、わがムヰシュキン公爵は、えへらえへらと
低能児のやうな御挨拶を申しあげた

で、諸君!
雀のやうに語り給へ
雀のやうに歌ひ語り給へ
雀のやうに笑ひ給へ
君の道をゆく人にも、愛する人にも
かく言ひて、また、一しほてれたるわがムヰシュキン公爵である。

 ムヰシュキン公爵とは、言うまでもなくドストエフスキーの『白痴』の主人公を指しているが、これを印刷にまわす際に読んだ金子が、「これは自分のことだ」と思ったとしても、それは決して僻みではない。次の「野菊の蜘蛛」では、暗喩はもっと露骨である。

ふみつぶすのは何でもない。
殺すのは何でもない。

銀糸の刺繍した白の緒が
眞新しい足袋にからんでゐる、
厚いフエルトのすぐそばに
緑の美しい蜘蛛が
すうつと糸をひいておりた。

男が秋の枯野からとつて来た
一束の野菊からおりた小蜘蛛・・・・

ふみつぶすのは何でもない。
殺すのは何でもない。

蜘蛛!

二人の運命の間に、
すうつと糸をひいておりて来た小蜘蛛。

 事実関係からすれば、二人の間に降りてきた蜘蛛とは、金子と三千代の間に割り込んできた土方定一なのだが、ここでは枯野から野菊をとって来た男こそ土方で、そこから糸を引いておりた小蜘蛛こそ金子なのである。三千代の心理のなかでは、金子と土方の立場は逆転していた。そしてもう一篇の「落日時」――

この大ランプの中に
燃えてゐるのは、いつもの街か。

刻は、
一切をあげて、いま
孤つの高い燈台となつて
昇天しようとする。
うかみ上つてよかうとする、
明るい飛行船のやうでもある。

危つかしく、
行きつく所もない・・・。
(中略)

私を焦がすのは、夕陽か
否(ノーン)、それは火だ! 生活の
絶えまない炎とあらし。

刻よ、
昇天する大燈台よ、
どこへでもいゝ
この私をつれていつてくれないか
二度ともどつて来たくない。

 これは彼女の心からの願いだった。しかし、どこでもいいから連れて行ってくれと願ったのは、金子に対してではなく土方定一であった。金子はそんな三千代の心を知ったからこそ、目算のないこの旅に強引に彼女を連れだしたのだった。詩集の最後は目次になっていて、全十六篇の詩のタイトルの一番最後に、「装幀  T.H.」と印刷されている。
 三千代は詩集が出来上がると、さっそく一冊を上海で交流があった魯迅に贈呈した。一月三十一日の魯迅日記には、「達夫来る。『森三千代詩集』一冊を渡され、ちまき十個を贈られる。」とある。三千代は郁達夫を通じて、魯迅に詩集を贈呈したことがわかる。
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by monsieurk | 2016-04-25 22:30 | | Trackback | Comments(0)

梶井基次郎と映画

 書庫の隅から、すっかり忘れていた雑誌のバックナンバーが出て来た。中谷孝雄氏が生前主宰していた俳句文芸誌「鈴」の第8号(平成5年7月30日発行)で、そこに「〈座談会〉梶井基次郎を語る(後)」が載っている。出席者は中谷孝雄、平林英子、飯島正の三人。みな生前の梶井基次郎と交流のあった人たちである。まずはその冒頭を引用してみる。

飯島 そしてね、これはあんたに初めて言ったことがあるんだ。「浪漫」の座談会やったろ。
中谷 うん。
飯島 あのときおれ、映画が梶井に影響してるってこと言ったの。
中谷 は、はあ。
飯島 覚えてるか。
中谷 うん。
飯島 僕はどうもそういう感じがするな。
中谷 あのね、今NHKにおる柏倉っていう人が、とにかく、ちょっと偉い人になってるのよね。
飯島 そうか、知らない。
中谷 それに僕は二度ほど会って話しことがあるんだ。ちょっとした対談会でね。そしたらね「梶井さんの小説は映画から来てる」って言いよったよ。
飯島 そうなんだよ。おれがそう思ってるんだ。
中谷 ああ、君がそう思うのかね。うん。
飯島 というのはね、あの人の小説読むとね、まるで映画のドキュメンタリー読んでるような感じする。
中谷 ああそうか。
飯島 見てばっかりいるんだよ。観察ばっかりしてる。
中谷 ああそうそう。見てばっかりか。(笑い)
飯島 それをみんな拾い上げてるんだ。だから「城のある町にて」なんかもその一つだ。それが丁寧に、詳しく書いてある。
 も一つ、僕はそのとき言わなかったけどね、映画を見てね、恐らく彼は筋なんかどうでもいいんだね、結局映る物が、花が映ったり、山が映ったり、川が映ったり、小動物が映ったりするでしょ、ああいう所を一生懸命見てたと思う。その感じがよく出てるんだよ、あの人の小説に。
中谷 ああ、なるほどね。
飯島 そのいまのは何。NHKの人がそう言ったって。
中谷 うん、それがね、梶井のやっぱりファンでね、フランスへ彼はNHKから出張っていうか、駐在でフランスへ行っておったけども「その折りも梶井全集だけは持っていきました」って言っておったからね。それで非常によく読んで、よく知ってるんだけど、その映画のことをぽっと言われてね。おれは映画は知らんからね。(笑い)(後略)

 中谷さんが触れている「対談会」というのは、雑誌「文芸広場」に掲載した「青空のこと、梶井のこと」と題した対談で、私が中谷さん宅を訪ねて、奥さんの平林英子さんを交えて行ったもので、このブルグにも再録した(Ⅰ~Ⅹ、2014.09.07~10.04)。中谷さんが雑誌「鈴」を送ってくれたのも、こうした経緯を踏まえてのことである。
 ここに登場する飯島正さんは、中谷さん同様、梶井とは第三高等学校時代からの友人で、映画評論家として著名な人である。飯島さんは第三高等学校の寮では梶井と同室になり、このころから外国映画への関心が強く、新京極の映画館に新作がかかるとすぐ観に行った。そして観おわると、筋書だけでなく、監督、出演した俳優の名前、感想などをノートに詳しく記すのを習慣としていた。そして当時は貴重だった外国の映画雑誌を定期的に取り寄せていた。あるときそれが寮に届いたのを見つけた寮生が、女優の写真見たさに勝手に開封してしまった。飯島が烈火のごとくに怒ったのは言うまでもない。飯島さんにとって、雑誌は女優のポートレ-トに見惚れるためのものではなく、貴重で神聖な情報源だったのである。
 梶井や中谷さんは、東大に進学して同人雑誌「青空」を刊行するが、飯島さんは最初、同じ三高出身の浅野晃、伊吹武彦、大宅壮一、水野亮たちが出した第七次「新思潮」に加わる。だがやがて「青空」の同人となって、作品を幾つか寄せかが結核のために休学しなければならなかった。梶井とは、同じく胸を病むものとして終生特別の友情で結ばれていた。
 梶井文学における映画の影響は、「城のある町にて」、「太郎と街」、「交尾」といった作品にみることができる。この点に関ついては、かつて拙著『視ること、それはもうなにかなのだ 評伝梶井基次郎』(左右社、2010年)で、次のように述べた。
 「「太郎と街」の場合、こうした新しい文学運動〔その一例が新感覚派〕のほかに、もう一つ当時盛んになりつつあった映画の影響を考える必要がある。梶井は三高時代に同室だった飯島正などの影響もあって、活動写真館へ通っていたが、句読点で短く文章を区切っていく描写は、そのリズムといい、映画の技術用語でいう「移動ショット」そのものである。ただ「太郎と街」の書き出しはこうした諸々の影響を感じさせるとはいえ、梶井の感性の特徴をよく示しているのはいうまでもない。街の客観的な描写ではじまった文章は、たちまちバイアスがかかって幻想味を帯びてくる。
 「太郎は巨大な眼を願望した。街は定まらない絵画であった。幻想的なといえば幻想的な、子供だましのポンチ絵には、土瓶が鉢巻をして泳いでいたり、日の丸の扇で踊っていたりするのがあるが、ブーブー唸って走っている自動車などを見れば吹き出したくなる位だ。菓子屋のドロップやゼリビンスは点描派の画布の様だし、洋酒瓶の並んだ棚はバグダッドの祭りの様だ。」(全集第一巻、三七七頁)
 梶井の意識は、眼にし、耳にする現実を薪にして燃えあがる。すると今度は見られている方の現実が、あたかも熱せられた空気を通して見られるように、ゆらゆらと揺らめきだし、現実味を失って網膜上に虚像を結び、鼓膜をうつ。梶井は意図的にこうした心の状態をつくりだし、その結果生ずる錯覚を楽しむ習慣を身につけつつあった。」
 これは幻視者・ヴィジオネール(visionnaire)としての梶井の誕生を探った箇所だが、いまもこの見解は変わっていない。考えてみると映画そのものが、現実を素材にして一つの幻視を提供する手段なのである。
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by monsieurk | 2016-04-13 22:30 | | Trackback | Comments(0)
 森三千代は文学人生を詩人としてスタートした。彼女が1924年(大正13年)、23歳のときに金子光晴の許を訪ねたのも、『こがね蟲』を発表していた詩人の意見を質そうとしてのことであった。
 d0238372_103098.jpg森が二十代から三十代後半の人生を送ったのは二つの大戦間であり、文学の上では、激動する政治に呼応する形で、ダダイスト、シュルレアリスト、アナキスト、コミュニストたちが次々に登場した時代であった。国語教師の娘として地方で生まれ育った森の本質はプチブルジョア的なものであったが、金子光晴との結婚によるこの後の歩みは、愛の遍歴がそのまま社会秩序への抵抗になるといった形を取った。こうした彼女の生の息吹から生まれたのが、彼女の5冊の詩集である。
 その5冊とは、『龍女の眸』(紅玉堂書店、1927年)、金子光晴との共著『鱶沈む』(有明社、1927年)、『ムヰシュキン公爵と雀』(蘆澤印刷所、上海、1929年)、『Par les chemins du monde(世界の道から)』(Léonlivrat ,Bruxelles, 1931年)、『東方の詩』(図書研究社、1934年)である。
 この度、神田の古書店「けやき書房」から『東方の詩』(写真)を入手した。四六版、版画六葉(フランシーヌ・ルパージュ)、本文七四頁、跋〈フランシーヌ・ルパージュ)一頁、後記五頁、目次四頁。定価は一円である。
 これはフランス語の詩集『Par les chemins du monde』の日本語版で、そもそものフランス語詩集は、ブリュッセル滞中に金子ともども森が世話になったイヴァン・ルパージュが送別会を催してくれた折に、娘フランシーヌの版画6点をつけて出版を勧めてくれたものである。
 金子と森三千代は度重なる曲折をへて 1932年(昭和7年)4月に帰国し、そこへ印刷を終えた詩集がブリュッセルから送られてきた。彼女はさっそく新宿の紀伊国屋に販売を頼んだがさっぱり売れず、3年後の1934年3月、版画はそのままにして詩を元の日本語にして出版したのが『東方の詩』である。
 収められた詩篇はタイトルが示す通り、彼女が金子光晴とともに、1928年12月に長崎を出て、上海、香港をはじめとする中国、シンガポール、インドネシア、マラッカなどの東南アジアを旅して得た題材を詠った28篇と、パリを舞台にした1篇、そしてフランシーヌ・ルパージュの挿画6点(写真はそのうちの1点)からなる。
 冒頭の一篇「印度洋」――d0238372_152379.jpg


まつさをい海。
でこでこしたラムネの罎のやうな海。
その海の上で、あたしのからだがねぢれる。
サキソフオンのやうに。

私の聡明、形のわからないものゝなかに、思想のゆれてゆく小径
を考えてゐる。
ヘナヘナになつて、雲形にもまれてゐる感情の上に、
船欄のバランスが変形するのを、わたしは眺めていゐる。
未熟な果実のやうなまつさをな海の上の朝だ。

ごらんなさい。
宿酔うの、はれぼつたい顔、あたしの眼は充血してゐる。
波のなかに浮いて漾つているけふの玩具。
めがね、ピストル、とかげ、シルクハツト、鋏、かうもり傘、いか
り、・・・・それから

 フランス綴じの詩集の奥付には、「昭和九年二月二十五日印刷 昭和九年三月一日発行 定価金壱円送料四銭 著者 森三千代 発行兼印刷人 東京市神田区猿楽町一丁目五番地 守部市美 印刷所 図書研究社印刷部 発行所 東京市神田区猿楽町一丁目五番地 図書研究社」とある。
 そして詩集には森三千代よる「後記」とともに、フランシーヌ・ルパージュの次のようなフランス語の文章が印刷されている。

Ecrire quelque mot, ma chère michiyo, est déjà chose difficile pour quelqu’un de qualifié, pour moi c’est presque impossible.

Je vous remercie de m’avoir fait confiance pour ilustrer vos poèms par quelque bois. J’espère que mes gravures vous plairont, mais je crains que ces oppositions brutales de noir et de blanc ne correspondent pas aux images que vous suggèrent vos poésies.

En Europe, nous admirons beaucoup votre Art, nous en sentons toute la beauté, mais le sens profound nous en échappe souvent.

Aussi, ce fut parfois difficile pour moi d’inter-préter graphiquement vos poèmes d’une sensibilité si delicate, et si différents de notre Occident, et qui, malgré votre long séjour parmi nous, gardent la forte empreinte de votre pays natal.

        FRANCINE LEPAGE.

(親愛なる三千代、言葉を書くのは、訓練を受けた人にとっても難しいのに、私にはほとんど不可能です。

あなたの詩に木版で挿画を添えるのに、私を信頼してくださったことを感謝いたします。私の版画を喜んでくださるのを期待しますが、黒と白の強烈な対照が、はたしてあなたの詩が暗示するイマージに合っているかどうか心配です。

ヨーロッパでは、あなた方の「芸術」は大いに賞讃され、私たちはその美に感じ入っていますが、それでもその深い意味を逃してしまうことがよくあります。

同様に、あなたが私たちの許に長らく滞在していたとはいえ、故国の特徴を色濃く留め、私たち西洋のものとは大きく異なる、きわめて繊細なあなたの詩を造形することは、私には大変むずかしいことでした。

                フランシーヌ・ルパージュ)

 詩集『東方の詩』には、森三千代自身が足かけ5年にわたる金子光晴との海外放浪を回顧した興味深い「後記」も含まれている。この度入手した詩集の扉の裏には、正富汪洋に宛てた献辞が書かれている。正富は1881年(明治14年)に岡山で生まれ詩人で、詩誌「新進詩人」を創刊した人である。さらに裏表紙には中野区の「キェピタル・アパート 森三千代」という鉛筆の書き込みがある。
 次回から再開するブログ「男と女。金子と森の場合(第二部)でも、この詩集から幾篇かを紹介する機会があると思う。
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by monsieurk | 2016-03-11 22:30 | | Trackback | Comments(0)

玄関風呂の行方

 昔から愛読している小説の一つが尾崎一雄の短編「玄関風呂」である。尾崎の初期短編集『続暢気眼鏡』(砂子屋書房、昭和13年)に収録されたもので、初出は「早稲田文学」の昭和12年6月号。400字詰め原稿用紙にして13枚の短編である。
 ある日、作者である尾崎が用足しから帰宅すると、それを待ち構えていた細君が、物を買うから3円を用意しろという。何を買うのかと尋ねると、何なのかをなかなか言わない。「とにかく大きいものなの」、「中がガランドウなの」、その上、蓋があるとか、一人じゃ持てないなどといっていたが、問いつめると欲しいのは風呂桶だった。一軒置いた隣に住む巡査の一家が引越しをすることになり、5円で買った中古の風呂桶を3円で買ってくれと言われて、細君は買う気になったのだった。
主人公はその夜、早稲田通りにある大観堂という古本屋で必要な3円をつくり、居合わせた囲碁好きの知人と碁をうって夜中の12時ごろに家に帰ると、玄関に風呂桶と附属品一式が置いてあった。
 「家のものは皆よく眠つてゐる。私は家内の枕元にきつちり三圓の銀貨を置き、二階へ上らうとしたが、思ひ直して家内の頭をゆすぶつた。漸く起き上つて眼をこすつてゐる家内に、
 「風呂桶を買つたのはいいが、一體どこへ置くつもりだ」と云つた。
 「どこへ置くつて? お風呂を――あ、さうか」と、急に目が覚めたやうに、家内は考へ込んで了つた。」
 一家でいろいろと考えた末に、玄関で風呂をたてることにした。尾崎が男の子と入るときは、細君が女の子と玄関の外で見張りをし、細君が女の子と入るときは尾崎が男の子と遊びながら、それとなく警戒した。大抵は夜に風呂をたて、近所の細君ももらい湯にくることもあった。
 それで玄関風呂の顛末はどうか。最後はこうしめくくられている。
 「「うちでは玄関で風呂を立ててゐるよ」
 ある時井伏鱒二にさう云つたことがある。すると彼は目を丸くして、
 「君とこの玄関は、随分たてつけがいいんだね」と云つた。これには、こつちがまた目を丸くした。彼は玄関をしめ切つてたたきに水をくみ込み湯を沸かすとでも思つたのだらう。呆れた男である。その後、何かといふとこれを持ち出し、彼を閉口さしてゐる。」d0238372_1662881.jpg
 写真は早稲田文学の面々で、左から丹羽文雄、尾崎一雄、浅見渕、そして井伏鱒二である。
 この玄関風呂には後日談がある。それは1953年(昭和28年)に、池田書店から出版された『尾崎一雄作品集』第一巻の月報「梅花帖 1」に、当時早稲田大学高等学院の教諭だった引法春見が書いている、風呂桶のその後の行方である。貴重な資料なので長くなるが引用してみる。
 「「玄関風呂」の風呂桶を私が譲りうけたのは、此三月〔1953年・昭和28年〕高等学院を出て早稲田大学生になった鮎雄ちゃんが二歳の時であるから一昔半も前のこまかいいきさつはすっかり忘れてしまったが、たゞ、今でもはっきり一つだけ覚えていることは、当時風呂桶の希望者が何人かあったうちで一番低い価格の二円五十銭で私の家のものになったことである。入札の定式からいえば全く反対の現象である。鶴巻町の通りにあった喫茶店「山査子」のマダムや、壇一雄氏のは確か十円であった。近所の家々でも希望者があったようだ。今なら二円五十銭と十円では大した相違はないが、当時は新宿の「秋田」の酒などはお銚子一本が二十銭か二十五銭で、おまけに何品かのつきだしのお代わりまでも出来た時代であったから、その差額は実に大きいのである。そもそも私がこの一件にのりだしたのは、私の長女がその頃小学校の三年生であったが、この子が産婆さんが余程生湯の使い方の名人であったのか、生来の風呂好きで、むづかっている時、お風呂へ行こうというと、ぴたりと泣くのをやめて機嫌が直るといったくらいであったこの子の申出によったのである。(中略)私と妻とが尾崎家の風呂桶の話をしていると、これを耳にした風呂好きの長女が、海に行かないでいゝからその金で是非風呂桶を買ってくれと強硬に申入れをしてきたのである。〔海水浴へ行くつもりで〕五円の予算をたてゝいた矢先であったし、娘の熱意もわかったので、早速妻を尾崎家へやった。引取りに行った妻の帰ってきてからの話によると、尾崎夫人はどうしても二円五十銭しかとらないというのである。私は先口に十円というのがあるのを知っていたし、子供の喜ぶのもわかっていたし、元値の三円をもたしてやったのであった。五十銭は子供に何か買ってやってくれといって頑としてうけとらないで、その上、そばを御馳走になり、冷たい麦湯をつめた麦酒瓶一本をもちだして、ジャンジャン飲め、といって歓待されてきたというのである。私はそれをきいた時尾崎一家の友情と、貧しても貧しない気品、好い意味での意地っ張りを強く感じた。それというのも、山査子には既に風呂桶はあったので、七円五十銭は欲しかったのだが、マダムの十円のいい値に対するレジスタンスが彼も今日を成している所以だと私は思う。私の家ではお蔭でそれこそ長女は文字通り欣喜雀躍、毎日朝からとでもいいたい位風呂に入り浸り、海にでも入ったつもりで、鼻歌まじりの御機嫌であった。」
 尾崎一雄と愛妻の「芳兵衛」こと芳江夫人の面影が偲ばれるエピソードである。
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by monsieurk | 2016-03-08 22:30 | | Trackback | Comments(0)

押収された本の行方(2)

 裁判で有罪となった文学作品としては、シャルル・ボードレールの『悪の華(Les Fleurs du Mal)』の例がすぐに思い浮かぶ。『悪の華』の初版は1857年6月25日ごろ、パリのプーレ=マラシ・エ・ド・ブロワーズ書店から並製本3フランで発売された。すると7月5日には、「フィガロ」紙にギュスターブ・ブールダンが批評記事を書き、そこで『悪の華』を背徳の書だとして激しく非難した。d0238372_10333386.jpg
 この記事を受ける形で、2日後の7月7日、公安総局は内務大臣に宛てて、「『悪の華』と題されたシャルル・ボードレール氏の書物は、宗教と道徳とを擁護する法に突つけられた挑戦であります。」として、「聖ペトロの否認」、「アベルとカイン」、「魔王(サタン)への連禱」、「殺人者の葡萄酒」、「地獄墜ちの女たち」、「吸血鬼の変身」、「宝石」の7篇をやり玉にあげた。その後新聞には、ボードレールを擁護する意見も掲載されたが、当局はボードレールを告発する手続きを着々と進めた。ボードレールは7月22日の母親宛ての手紙で、予審判事のもとへ出頭して3時間におよぶ尋問を受けたこと、判事は大変親切に見えたことなどを伝えている。だがこうしたボードレールの甘い期待にもかかわらず、彼は告訴され、1857年8月20日にセーヌ軽罪裁判所第六部において公判が開かれることになった。裁判長がデュパティ、陪席判事がドレヴォーとナカールの二人、検察側の代表は、この年5月に行われたフローベールの『ボヴァリー夫人』裁判を担当したばかりのエルネスト・ピナール検事だった。これに対しするボードレールの弁護士はギュスターヴ・シェ・デスタンジュ、プーレ=マラシとド・ブロワーズの弁護にあたるのはランソン弁護士だった。ちなみにこの日出廷した被告は、ボードレールとド・ブロワーズだけで、プーレ=マラシは欠席した。
 このときの裁判記録は、1871年5月24日にパリ裁判所の記録保管所が火災に会った際に焼失してしまい、現在残っているのはピナール検事の論告と、ギュスターヴ・シェ・デスタンジュ弁護士がボードレールのために行った口頭弁論である。裁判はヴァカンスの季節ということもあり、この一回の公判で結審した。判決文は以下のようであった。
 「ボードレール、プーレ=マラシおよびドブロワーズ〔ママ〕は、公衆道徳良俗侵害の軽罪を犯したという理由により、すなわち、猥褻かつ背徳的な箇所ないし表現を含む『悪の華』と題する著作を、パリおよびアランソンにおいて、ボードレールは出版し、プーレ=マラシおよびドブロワーズは出版かつ販売したという理由により、
 前述の箇所が、詩集20、30、39、80、81および87の番号を有する詩篇に含まれているという理由により、
 ならびに1819年5月17日法第8条、1819年5月26日法第26条により、
 ならびに刑法典第463条により、
 ボードレールを、300フランの罰金刑に、プーレ=マラシおよびドブロワーズを、各100フランの罰金刑に処し、
 詩集の、詩集20、30、39、80、81および87の番号を有する詩篇の削除を命令し、
 被告人に訴訟費用の連帯支払いの義務を言い渡す。」
 ところで初版本は当初何冊ぐらい印刷されたのだろうか。1968年のプレイアード叢書『ボードレール全集』の編者によると、印刷されたのは1300部で、全体の1割ほどの「増し刷り」と著者の取り分をこれから引いて、凡そ1100部が公に申告されたと考えられる。オランダ紙に刷られた特製本が定価6フランでこれが20部。その他が並製本であった。ボードレールが言うところでは、「本の差し押さえのあと、価格は大いに変化した。上質本の何冊かは、20フラン、いや40フランで売れた。」
 ただ当局の差し押さえを逃れた本がどれほどあったかは正確には分からない。いずれにせよボードレールたちは判決により、『悪の華』の初版本を作り直さざるを得なくなった。その結果、1861年に第二版が新たな装いで出版されるまでには、5種類の『悪の華』が存在することになった。それは――
1 削除を命じられた6篇の詩(禁断詩篇)をすべて含むもの。
2 6篇を削除して、刷り直し分を挿入していないもの(およそ200部)。
3 6篇を削除した後、刷り直したページを挿入したもの(刷り直しページというのは、たとえば「宝石」を削除して、その前半部と表裏をなす「女巨人」の後半部、後半部と裏表をなす「異国の香り」の前半部を裏表にして刷った一葉を挿入したもので、この形の本がごく少部数しか見つかっていない。)
4 1857年に削除され、アランソン裁判所の記録保管所に供託されていたページを、20世紀になって盗み出して補ったもの。
5 プーレ=マラシが製本しないまま保存し、ほとぼりが冷めるのを待って、1857年という年号を入れた表紙と扉を印刷し直して売り出したもの。
さらにボードレールが出版直後に献呈した本や彼自身が所持していた一冊には、鉛筆による50箇所の書き込みがあり、これはのちに版画家のブラックモンに献呈された。以上のような5種類の初版本で、現存するものはきわめて少なく、『惡の華』初版は稀覯本中の稀覯本となった。
その後、ボードレールは新しい詩篇を加えた『悪の華』の再販を目指し、装いを改めた第二版が同じ出版社から1861年に刊行された。収録された詩篇は序詩「読者に」を含めて127篇。このうち95篇は初版に掲載されたもの(101篇から削除を命じられた6篇を引いたもの)で初版刊行後に制作され、雑誌に発表された33篇のうちの31篇と、これまで未発表だった「一日の終わり」1篇、合計32篇があらたに加えられた。さらに初版では5章だった構成が第2版では6章となった。第二版の章立てと各章の含まれる詩篇の数は、「憂鬱と理想」85篇、「パリ情景」18、「葡萄酒」5、「惡の華」9、「反逆」3、「死」6篇である。
 近代詩のさきがけとなった『惡の華』が、こうして広く読者の手に渡ることになったのである。
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by monsieurk | 2016-03-05 22:30 | | Trackback | Comments(0)

押収された本の行方(1)

 日本での文学の猥褻をめぐる裁判としては、D・H・ローレンス著、伊藤整訳の『チャタレー夫人の恋人』と、雑誌「面白半分」に掲載された、永井荷風作と伝えられる『四畳半襖の下張』裁判が有名だが、「面白半分」の発行人だった佐藤嘉尚が、『「面白半分」怪人列伝』(平凡社新書、2005年)で裁判の顛末を書いている。d0238372_11141983.jpg
 事件は「面白半分」の1972年7月号に作品を復刻して掲載したところ、これが刑法175条の猥褻文書に当たるとして、編集長の作家野坂昭如と発行人の佐藤嘉尚が起訴された。(『四畳半襖の下張』についてはブログ「Kafu」、2012.11.17を参照)
 「面白半分」は発売から17日後に警視庁保安一課によって摘発されて、当日の午前、当時品川区にあった編集室が家宅捜査を受けて、およそ3万部配本された雑誌のうち、全国の書店に残っていた3500部ほどが証拠品として押収された。その後、最高裁まで争われた裁判は、野坂に罰金10万円、佐藤には15万円の罰金という有罪判決が下って結審した。
 被告側は裁判で、伊達秋雄弁護団長など5人の弁護士と丸谷才一特別弁護人という弁護体制を敷き、吉行淳之介、開高健、石川淳、中村光夫など文学者、評論家や国語学者、編集者などが法廷に立って名論卓説を展開した。
 開高健は、「こんなことはあんまりないことだなと思いながらも、描写のうまさ、文章のうまさ、人間観察の細かさ、それから男の眼からみた女というものの特質、特徴、そういうことを研究しつつ読み進むわけです。つまりそうなると、これは某出版社が以前自社の出版物の特長を表す言葉として「面白くてタメになる」という言葉を使っていましたが、この『四畳半襖の下張』は、経験者にとっても、面白くてタメになる(おとなの)童話であるといえるんじゃないかと、私はまたまた愚考するわけです。」と話し、法廷内の爆笑を誘った。傍聴人に静粛を求めた裁判長も、最期には自分も笑ってしまうという有様だった。
 また詩人の田村隆一は、「(裁判は)こと野坂さんや佐藤さんの問題じゃなくて、やはり日本の現代及び将来の社会の運命に関わるトライアルだと思っております。ですから、日本でほんとうに活力のある言論表現、そういうものの自由が保障されていないと、いわゆる、生き生きとした、いい社会が生まれないような気がします。どちらかといえば私は、無制限に無原則に、いわゆる性の解放とか、そういったものを、むしろ支持しないほうなんです。しかし今回の問題点だけは絶対擁護したいと思いますね。」と、真面目な正論を展開した。これに対して検察側は終始一人の証人を呼ぶこともなく、ほとんど沈黙をつらぬき、結果として被告二人は有罪となった。
 佐藤嘉尚は判決について、裁判では「「言葉のズレ」がある上に、議論するテーマが「猥褻か猥褻でないか」といった、人間の頭の中の想像力という最も裁判になじまない分野のことだから、全く噛み合わない。この裁判が終始コッケイだったのは当然なのだ。」と書いている。そしてこのことの象徴が裁判の終結の仕方だった。
 発売17日後の6月22日に、全国の書店で売れ残っていた「面白半分」は3507冊で、これらは証拠品として押収された。猥褻裁判で有罪となった場合、判決文には、「証拠品はこれを没収する」という一文が入るのが普通だが、なぜかこの裁判ではその文言がなく、そのため刑事訴訟法に則って、押収された雑誌は本来の所有者である佐藤に返還されることになった。
 最高裁の判決の1年数カ月後、警視庁保安一課から佐藤に、証拠品を返すので取りに来てくれという連絡があった。「面白半分」社が倒産して、千葉の館山でペンションを経営していた佐藤は、さっそくワンボックスカーで警視庁まで受け取りに行った。すると全部で3507冊押収されたはずなのに、返されたのは2710冊だった。797冊不足している。
 佐藤は当然係官に質問した。すると保安課長は、「判決が出てから全国の県警の倉庫に保管していた『面白半分』を集めたらこれだけでした。何しろ十年近いですからね。いろんなことがありましてね。火事で焼けたり水害で水浸しになったりということもあったらしくて、今回はまあこんなところで了解していただいて」などと弁解した。さらに数カ月後、警視庁の係官が、その後に見つかったといって、よれよれに汚れた「面白半分」5冊を館山署まで持ってきて、「これ以上集まりません。勘弁してください」と言った。佐藤は、「警察の倉庫って日本一安全だと思っていましたけど、泥棒が入るんですか!」と精一杯の嫌味を言いながら受けとった。結局、792冊がどこかへ消えてなくなってしまったのである。
 佐藤は共同被告の野坂昭如に、半分返しましょうかというと、野坂は、「面白半分」のあの号はいま神保町で一冊2万円はするから、倒産して苦しい佐藤がときどき5冊か10冊ずつ売ればいい。まとめて売っては値が下がるから、絶対だめだよと念を押したという。
 このせっかくの忠告にもかかわらず、佐藤は初対面の人に名刺代わりにタダであげてしまい、手元にはほとんど残っていないという。
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by monsieurk | 2016-03-02 22:30 | | Trackback | Comments(0)