フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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カテゴリ:美術( 52 )

男と女――第六部(17)

 六月二十九日、三千代は「婦人文芸一周年記念講演と映画の夕」の講師の一人として招かれ、同じく講師つとめる武田麟太郎と再会した。
 「・・・武田麟太郎先生と会ったのは、昭和八・九年の頃のことで、当時、神近市子さんが主宰していた雑誌『婦人文芸』の講演会の、講演者控室でであった。
 たいへん暑い時だったとおぼえている。(中略)講演者控室に集まった人たちの中で、Kという女の人と私とが洋服で、私は、地のうすい白、その人はピンクのふわふわしたものを着ていた。
 武田先生はどこかの五六歳位の可愛いゝ男の子を連れて、こまかい横縞の木綿浴衣の着流し姿で、開場前から控室に来ていた。男の子を相手に先生は、しきりになにかすあべっていたが、ふと、私とKさんを眺めて、「ほら。このお姉ちゃん達が、これから舞台へあがってダンスをやるんだよ。坊やも、あっちへ行って見るかい。」
 と言った。
 Kさんと私は顔を見合わせたが、抗議する気にもなれないほど、その言いかたに愛嬌があった。そのあとで、私が控室の出入口のうす暗いコンクリ階段を下りて行こうとすると、すぐ後ろから、武田先生がついて下りて来た。すれちがいざまに、「今日は臨検があるのですか」と言葉をかけた。臨検という言葉を聞きなれていなかったので、私は、「え?」と小さく聞き返した。「婦人文芸」の執筆者達に左翼の人が多かったので、官憲の臨検があるのではないかとたづねたにちがいなかった。私が問い返したのに対して、「いい、いゝ」と言いながら、足早に先へ行ってしまった。先程、子供に冗談を言っていた先生とは、人がちがったような生真面目な、底暗い印象だった。この二つのまったくちがった印象のうって変わりかたが、私の心に深く残った。」(同)
 武田麟太郎は京都の三高時代に土井逸雄や清水真澄と同人雑誌「真昼」を発行して文学の道をこころざし、東京帝国大学の仏蘭西文学科に進み「辻馬車」の同人となった。この頃から、本所柳島元町の帝大セツルメントで働き、そこで知り合った東京合同労働組合の人びとを通して組合運動に関係するようになった。一九二九年(昭和四年)三月、刺殺された代議士、山本宣治の葬儀に参列するため京都に赴き、帰京したところで検挙された。ひと月ほどの拘禁生活から出ると、すぐに「暴力」を書いて「文芸春秋」の六月号に発表した。だが雑誌は発禁となり、「暴力」を削って発行された。それでもこの事件で、武田麟太郎は当時の文壇の注目を集め、華々しいデビューを飾った。
 一九二九年(昭和四年)二月には、日本プロレタリア作家同盟が結成され、プロレタリア文学の最盛期だった。ただ左翼運動全体は前年のいわゆる三・一五事件、その年の四・一六事件などの共産党員の相次ぐ検挙をきっかけに受難の時期を迎えていた。
 三千代が出会った昭和十年代の武田は、プロレタリア文学の行き詰まりから、主に東京の下町を舞台に働く女性や、生きる目標を失ったインテリ青年を登場人物にして、暗い世相を描きだすものに変わっていた。一九三二年(昭和七年)の「日本三文オペラ」(「中央公論」六月号、そして一九三四年(昭和九年)八月から十二月まで朝日新聞の夕刊に連載した「銀座八丁」は、風俗小説の先駆けとしてジャーナリズムで好評をもって受け入れられた。三千代の「柳剣鳴」にも触れた彼の「文芸時評」は、この年三月に創刊された「文芸評論」に書かれたものであった。
 三千代は「婦人文芸一周年記念」の講演会での二度目の出会いのあと半年ほどして、書き上げた原稿を持って、一人で武田の家を訪ねた。この日、武田の家には人がいっぱいいた。やがてそれらの人たちが帰り、夕方になって二人きりになると、三千代が持参した原稿を読み出した。武田は読み終わると、「これは、いけるな。」と言い、「改造」に出してはどうかと勧めながら、「巴里の宿」という題名をつけてくれた。結局、この百枚ほどの小説は、武田が主宰するかかわる「人民文庫」に掲載することになったが、その矢先に雑誌は廃刊となってしまった。
 三千代はその後、第一小説集『巴里の宿』(砂子屋書房、一九四〇年)を刊行するが、題名は武田麟太郎の命名によるものだった。こうして武田と三千代の師弟関係を越えたつき合いがはじまる。
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by monsieurk | 2016-10-27 22:30 | 美術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第四部(12)

 六月のある日、金子は職探しの途中、ふと思いついてかつて宿泊していたトゥルノン通りのホテルを訪ねた。三千代に部屋を貸してくれた木村毅はホテルにはおらず、日本に帰国したとのことだった。ただ宿主の老婆が金子を見ると、「ああ、ちょうどよかった」といって、一通の封書を手渡した。宛名を見るとモリミチヨとなっており、日本からのリヨン銀行宛ての送金通知だった。
 この封書の送り主について、金子の『ねむれ巴里』では、三千代の父からと書かれており、森三千代の『巴里アポロ座』でも、長崎の父親に帰国の旅費を頼んだと書いているが、「森三千代の日記 パリ篇」の編者堀木正路は、「実際はこの金は、三千代の奨学金提供者だった関西の実業家Tからのもので、三千代が光晴に内緒でたのんだ帰国の旅費三〇〇円(約四千フラン)だったと、三千代は筆者に語っている。」と記している。(「森三千代の日記 パリ篇」5)
 Tとは株式会社壽屋(現サントリー)の創業者鳥井信治郎で、森三千代は東京の女子高等師範へ進学する際、鳥井が創設した給費生の第一回三十名の一人に選ばれたのである。女は彼女一人で、応募用紙に添付した写真に興味を抱いた鳥井は、三千代を名古屋の高級旅館に招いてご馳走し、分かれ際には手の甲に唇を当てたりした。
 その後も鳥井は上京する度に会いに来たり、金品をあたえたりしたが、二人の関係はそれ以上には進まず、鳥井はパトロンとしての立場をまもった。この出来事は三千代の短篇小説「山」(『国違い』、文林社、一九四二年)に、フィクションの形で描かれている。三千代がパリに着いた直後の日記にも、Tに手紙を出したという記述があり、切羽つまった三千代が金子には黙って帰国を考え、費用を依頼したことは十分に考えられる。おそらくそれが長崎にいる三千代の父親経由で送金され、金子に先に知られてしまったのである。
 「ともかくもその金は、大旱の慈雨というものであった。一フランが八銭の当時の相場で計算してみると、四千フランばかりであった。(中略)みみっちい話だが、二人の食事を二食にして、一人十フランとみて、二人二十フラン、十日で二百フラン、一カ月で六百フラン、雑用を入れても半年は、それでしのぎがつく。夫婦といっても、それを勝手に僕が使用する権利がないことはわかっているが、窮乏のなかで、きらきらと眩ゆい金銭の魅力は、最初にそれを鷲づかみにしたものの、逆手にとってつよい力でぼきぼき折りでもしない限り、離させることはむずかしい。
 銀行にいって、僕のサインで金はまず、僕のふところをふくらませることができた。モリミチヨという名前が、男の名か、女の名か、フランスの銀行員には判別がつかない。それは当然の話だ。」(『ねむれ巴里』)
 翌日、寝起きの三千代をせき立てて、セーヌ川を越えた右岸へ出かけた。一八七五年にガルニエの手で建設されたオペラ座と、コメディー・フランセーズがあるパレ・ロワヤルまでの大通りはオペラ大通りと呼ばれ、高級品をあつかう店が軒をならべていた。
 まず三千代が欲しがっていた薄革の藍色の手袋を買い、流行のモロッコ緑の絹のワンピースを選んで、店先で上海以来着たきり雀だった服と着替えさせた。次いでシャンゼリゼ大通りへ行くって、「ブランシュ」という白色のブラウスや下着を専門とする店で、肌着とストッキングを求めた。三千代は金の出どころを訝りながらも浮き浮きしていた。
 その後、地下鉄でモンマルトルに行き、金子は待望の靴を買って履き替え、崩壊寸前の靴は、「三つの風車(トロワ・ムーラン)」というカフェの裏のゴミ捨て場に放り投げた。そして一人二十フランの昼食を奮発したあと、劇場に入って二階の桟敷席で「リゴレット」を観た。ただこの芝居は金子が知っているのとは違ったドタバタ劇で、三千代は金子の説明に首をかしげていた。こうして一日が終わり、その夜は房事もはずんだ。
 金子は翌日、三千代に分からないように残金を調べてみた。すると早くも半分以上がなくなっていた。それそっくり彼女のハンドバックに入れた上で、一部始終を隠さずに告げた。すると彼女は待っていたであろう金なのに、あまり心にとめない様子で、「あ、そう」と気の抜けたような返事をしたと、金子は『ねむれ巴里』で書いている。
 だが実際はそうではなかった。金子光晴全集の月報「金子光晴の周辺 7」で、聞き手の松本亮が、長い旅の間に金子と別れたいと思ったことはなかったかと訊ねると、森は一度は上海で前田河に帰国の旅費を借りに行ったとき、二度目はパリでの使い込みが分かったときだと述べているのである。
 「そのときは、パリに、故郷から私の帰国の旅費がきたんです、一人分だけの。それを金子が黙って使い込んだんです。金子は私が知らないと思っていたらしいんですけれども、私にはすぐピンときたんです。だけど責めたってしょうがないんだし、責めれば苦しいだけの話だからと思って、それで知らない顔をしていたんです。私がのんき坊主で、ぼんやりしていると金子は思っていたらしいんです。けれども、私は、なんとかしてもう、別れたいと心のなかでは思っていました。」
 ただ使ってしまったものをとやかく言ってみても返ってくるものでもなく、残金の一部を手付金にして、新しい場所に引っ越すことにした。d0238372_16243220.jpg幸いダンフェルロシュローの広場から近い十四区のダゲール通り二十二番地に、小じんまりとした部屋貸しのホテルを見つけて引っ越したのは、二日後の七月初めのことだった。
 「部屋の格式からして、オルレアンやクラマールや、ポート・クリニャンクール〔ママ〕のそれとは比較にならなかった。床はたゝきや瓦敷きではなくて、ニスを塗つてつるつるにみがいた、踊場のやうな木の床だつた。壁は裸かな漆喰ではなくて、にぎやかな花模様の壁紙で張りつめられ、ひろびろとした、流行型の、脚の低い二人寝臺の上おほひも、絨毯も、窓掛けも、落ちきのあるあたゝい橙黄(オレンヂ)の調子で統一され、夜になると、おなじ橙黄色の絹笠を透かしてスタンドの光が、唐草彫りのある衣装戸棚の扉いつぱいの、全身の映る姿見にもうつつて、まるで、この部屋だけに人生の幸福がかくれてゐるやうに思はれるのだった。」(『巴里オペラ座』)d0238372_16261651.jpg
 部屋には瀬戸の洗面台があって、水もお湯も出た。寝台の横にはセントラルヒーチングの暖房装置がついていて、肘掛け椅子も置かれ、廊下には絨毯が敷かれていて、夜遅く帰ってきても足音で隣人を起こすこともなかった。
 家賃は一カ月四百フランとこれまでの倍以上だったが、それだけの価値はあった。家主はペルシャ人の娘と母親で、同じ東洋人だからといって親切にしてくれた。ダゲール通りは両側に店屋が並び、地下鉄のダンフェルロシュロ駅はすぐ近くで、交通の便も申し分なかった。
 森三千代から「日記」を託された堀木正路は、その後について次のように聞かされたという。
 「三千代はこのあと、口惜しさをまぎらすために、独りでスイス旅行に出かけたそうだ。正確に何日後かはきかなかったが、多分二、三日後の早朝、パリから汽車にのりジュネーブ着。すぐにレマン湖見物の船にのり、湖中に浮かんでいるシロン城や、対岸のローザンヌに渡り、その夜はローザンヌに一泊。翌日ふたたびジュネーブに戻り、街路樹の美しい市内を散索〔ママ〕し、午後の汽車で夜おそくパリに帰った。「私はのんき坊主だから、その旅行で気持もさっぱりして、その後はもう、別れようとは想いませんでした」と、三千代は言った。」(「森三千代の日記 パリ篇」5)
 三千代の日記は、七月十四日の項の、
「共和国政府記念当日。
 ゆうべ外へ出ると、夕方もう街のカフェは道路いっぱいに椅子を出してダンスだ。
 道を歩いていると若い男女がとりまいて、アンブラッセ(キス)、アンブラッセ(キス)、という」という記述のあとは、七月二十八日まで空白になっている。おそらくこの間に、三千代の憂さ晴らしのスイス行が決行されたのであろう。
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by monsieurk | 2016-07-12 22:30 | 美術 | Trackback | Comments(0)

広重の版画展

 東京六本木のサントリー美術館で開かれている、「原安三郎コレクション 広重ビビッド展」を連休中に見てきた。
 日本化薬会社社長だった原安三郎が長年にわたって蒐集した浮世絵の展覧会で、タイトルに「ビビッド」という言葉が添えられているのは、展示された作品のほとんどが初刷りで、これまでほとんど公開されたことがなく、きわめて保存状態がよいことによる。
 展覧会の案内によると、原安三郎は四国徳島に生まれた。家は特産の藍玉を商う商家だったという。昭和の初めに、帰国する宣教師から浮世絵を譲り受けたのが蒐集のはじまりで、本人が旅が好きだったこともあり、歌川広重や葛飾北斎などの風景画を中心に2000点ほど蒐集した。
 今回の展示の目玉は、広重の傑作とされる「六十余州名所図会」の揃いもの70点と、最晩年の「江戸名所百景」120点のうちの62点(残りは途中で入れ替え)である。どれも作品集ではお馴染みだが、たしかに保存状態がよく、どれ一つとして染み跡や色落ちがない。もっとも色落ちしやすい赤は、120年前に摺られた当時のままの鮮やかな色を保っており、藍の色も鮮明で、55「阿波 鳴門の風波」の渦巻く海水を表現した藍色のグラデュエーションなどは、いくら見ていてもあきない(写真では再現すべくもないが)。d0238372_9553928.jpg
 そしてこの藍の色とともに、今回あらためて気づかされたのは、微妙な発色をする茶色の見事さである。この「鳴門の風波」でいえば、白波がまるで抱き込むように打ち寄せている海中の岩肌の茶。そしてそれから灰青へと変化していく色づかいは類例がない。
 これまた解説によれば、初摺り場合は、広重と摺り師が細分にわたって検討しながら絵具と摺り具合を決めたという。それがよく分かるのが、17「江戸 浅草市(初摺)」と18「江戸 浅草市(後摺)」の比較で、18の後摺りの方が、同じ版木を用いているのに、まるで別物のようによく仕上がっている。
 広重の風景画の場合は、摺り師はしばしば「当てなしぼかし」という技法を用いたのだという。これは「拭きぼかし」の一種で、版木を濡らして、その上から絵具をのせてぼかす技法で、見当だけでぼかしをつくるところから、こう呼ばれる。摺り師の腕が問われるものである。
 展覧会では3階の第2、第3展示室に、葛飾北斎の「千鳥の海」シリーズの10点、それに「富嶽三十六景」のうちの「神奈川沖波裏」以下の6点と、「諸国名所奇覧」6点があり、いずれも原コレクションの一部である。これらを見ながら、北斎が風景のなか描き込んだ人物たちの線の鋭さに感動した。波浪に翻弄される小舟を懸命に漕ぐ船頭たちの貌や足腰。山中を行く旅人たちの引き締まった姿。保存状態がよい版でなくては鑑賞できない、こうした細部を見ることができた。一昨年、パリで開かれた「HOKUSAI」展が大人気だった理由の一つが、ここにあったことを再確認した。

 「広重 ビビッド」は6月12日まで、火曜日休館。
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by monsieurk | 2016-05-07 22:30 | 美術 | Trackback | Comments(0)
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 大阪在住の若い版画家、加藤茜さんの新作(写真、イメージサイズ 18cm×20cm)を入手した。作品に同封されていた手紙には次のように書かれていた。
 「タイトルは《箱庭(サイ)》です。絵のとらえ方はさまざまであるのが当然ですが、制作した時の想いとしては、内面にある幾つかの心情を動物に投影し、「サイ」、「シーラカンス」、「ペリカン」の3点を描きました。このサイはインドサイで、角が1本しかない種類であることから、ブッダの教えのなかにも登場するという貴重な存在だそうです。
 技法はドライポイントです。インクは黒に青色(プルシャンブルー。シャルボネ社のもの)を少量混ぜています。“鉄色”のような色味が出したいのと、粘度があるため、黒の部分がしっかり刷れるので、そうしています。紙はこの作品のみ、ややクリーム色の強いものを選びました。」
 加藤さんの存在を知ったのは、京都に住んでいた2003年2月のことである。散歩の途中に立ち寄った岡崎の美術館で、京都市立芸術大学の学生たちの卒業制作展が開かれていた。興味を覚えて入館し、油彩、彫刻など200点をこす作品を見てまわるうちに、版画部門の一角に展示されていた作品に釘づけになった。イメージサイズは41.5cm×61.0cmの大作で、タイトルには《ピラルク》とあった。ピラクルは、シーラカンスと同様に生きた化石として知られる淡水魚である。この大きな魚の横顔が画面一杯に描かれていた。
 さっそく会場に設けられた事務局を訪ね、作者を聞くとともに購入したい旨を伝え、対応してくれた先生は、学生から直接連絡を取らせると約束してくれた。後日、作者の加藤茜さんから連絡があり、こうして彼女との交流がはじまったのである。
 加藤さんの初期の創作に、「海シリーズ」と呼ぶ一連の作品がある。学生時代に彼女は水族館でアルバイトをしたことがあり、そのとき目にした魚やヒトデ、小蟹、海底に沈殿していくプランクトンなどを描いた独特の雰囲気をもつ作品群で、すぐに購入した。この一部は、かつて館長をつとめた放送大学附属図書館のサロンの壁をいまも飾っている。
 加藤茜さんにはその後、私家版の訳詩集『マラルメ 牧神の午後』(販売 左右社、2010年)のための挿画4点(《マラルメの肖像》、《憩うニンフたち》(写真右)、d0238372_1316431.jpg《牧神》(写真左)、《葡萄》)や、『石坂洋次郎「若い人」をよむ 妖しの娘・江波恵子』(吉田書店、2012年)の口絵《江波恵子像》(写真)を制作してもらった。d0238372_13203838.jpg
 彼女の作品は、大阪、京都、神戸など関西を中心とした展覧会に出品されることが多く、今回の《箱庭 サイ》ほかも、京都の三条河原町にある画廊「アート・ギャラリー北野」で開催された、京都市立芸術大学美術部版画専攻の同窓会「なないろ」のグループ展に出品したものだという。加藤茜作品のファンとしては、独自の世界をたたえる作品が1点でも多く生みだされることを願っている。
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by monsieurk | 2015-10-24 22:30 | 美術 | Trackback | Comments(0)

舟越保武の彫刻

 岩手県盛岡、福島の郡山と巡回したあと、東京都練馬区立美術館で開かれていた「舟越保武彫刻展~まなざしの向こうに」が9月6日で終わった。会期中2度訪れて、舟越彫刻の魅力を堪能した。
 今回の展覧会は、彼の足跡を回顧する意味合いもあり、初期のものから晩年までの仕事を、56点の彫刻を中心に、その制作過程を示すデッサンや墨絵を含めて、都合120点で構成されている。
 船越保武は、言わずと知れた、佐藤忠良とならぶ具象彫刻の第一人者で、二人は藝大の学生のときからの友人であった。彼らの作品はロダンの影響をうけて、彫刻を模索していた初期こそ似ていたが、舟越の作品はカトリックの洗礼を受けたころからテーマや作風が変化する。
 作品は時代を追って、第1章、彫刻への憧れ、第2章、模索と拡充、第3章、《長崎26殉教者記念像》、第4章、信仰と彫刻、第5章、静謐の美~聖女たち、第6章 左手による彫刻、と彼の生涯をたどる形で配置されている。
 舟越は岩手県二戸出身で、父は熱心なカトリック信徒であった。舟越自身も1950年に、生まれたばかりの長男を亡くしたことをきっかけに洗礼をうけ、カトリックに帰依した。そしてこのころから、キリスト教信仰やキリシタン受難を題材にした作品が多く制作されるようになった。
 今度の展覧会でも、豊臣秀吉によるキリスト教弾圧で処刑された26人の殉教者が昇天する姿を造形した《長崎26殉教者記念像》(展示は岩手県立美術館収蔵の繊維強化プラスティックによる4人の像)、十字架上のキリストを造形した「キリスト」、江戸時代初期の島原の乱で、抵抗の末に殺された武士の姿をしのぶ「原の城」、ベルギー出身の宣教師で、ハワイのモロカイ島において、当時誰も顧みなかったハンセン病患者のケアに生涯をささげ、みずからも同病で命を落とした「ダミアン神父」。そして大理石や砂岩から刻みだされた、「聖セシリア」、「聖クララ」、「聖ベロニカ」などの聖女像や、少女像「ANNA」など、静謐さを湛えた顔は観るものをとらえて離さない。
 なかでも心をうたれたのは、1964年に制作された「高山右近」(80.5×33.0×23.0)のブロンズ像であった。 d0238372_4391354.jpg
 写真は岩手県立美術館のホームページに掲載されているもので、ゆったりと羽織ったマントの前に十字架を下げたキリシタン大名の立ち姿は威厳にみち、髷を結った頭部は、かつてこれほど高い精神性を秘めた日本人がいたのか、という驚きと感動をあたえてくれる。
 「高山右近」の特徴は、その切れ長の眼である。上からの照明によって両眼は完全に陰となり、ただ黒い穴のように見える。だがその洞穴のような眼が充実した精神を宿していることは、わたしたち観客に十分に伝わってくる。そして、こうした伏しめがちな眼は、「高山右近」だけではなく、上にあげた聖女たちをはじめ、舟越が制作した彫刻の一番の特徴であるように思える。
 舟越保武は1987年、75歳のときに脳梗塞を起こして右半身不随となったが、すぐにリハビリを開始し、その後は左手一つで制作に打ち込んだ。展示の最後の「左手による彫刻」の部屋には、この時期の作品が集められているが、圧巻はブロンズによる一連のキリスト像である。なかでも一筆書きのように、粘土を削り取って造形した「ゴルゴダⅡ」(1989年)は、舟越保武が到達した境地をあますところなく表現している。至福の一刻をすごした。
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by monsieurk | 2015-09-18 22:30 | 美術 | Trackback | Comments(0)

銅版画家、丹阿弥丹波子

 丹阿弥丹波子さんの銅版画の展覧会が、日本橋・蛎殻町にある「ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション」と、茅ヶ崎の「茅ヶ崎市美術館」で同時に開催されている。
 「はるかな符号」と題した前者の展覧会では、浜口陽三の代表的な作品32点と並んで、今年88歳を迎えた丹阿弥さんの作品27点を見ることができる。会場で入手できるパンプレットには、次のような紹介が書かれている。
 「二人の作家が用いる銅版画のメゾチント技法では、最初にベルソーという道具を用いて銅の板を一面に布目のように細かく彫ります。その状態で版にインクを詰め、プレス機にかけると、画面の背景となる深みのある黒が刷りとれます。この「目立て」と呼ばれる作業は作家によって独自の方法があり、黒にも個性があります。一枚の作品の黒を作るために数か月という時間と、ひたむきな作業を要し、そこから精神性の高い作品を生み出す点がメゾチントの特徴です。
 微光を含む闇を基調として、透明な色彩によってもの柔らかな無限の広がる画面を作りつづけた浜口陽三。黒一色の中に研ぎ澄まされた色彩感覚を織り込み、偽りのない光りや、確かな存在の息づかいによって半ば心象風景を描き出した丹阿弥丹波子。二人は表現の方向こそ異なりますが、高度な技法に惑わされることなく、澄んだ境地を得た銅板画家です。」d0238372_1223049.jpg
 「時のきらめき」と題した茅ヶ崎市美術館の丹阿弥さんの個展では、最初期のものから最近の作品まで、野に咲く草花、野菜、グラス、風景など、身近にあるモチーフを描いた作品およそ100点を鑑賞できる。
 丹阿弥さんは、日本画家の丹阿彌岩吉と桐塑人形作家の母とみゑの次女として、1927年(昭和2)東京に生まれた。ちなみに3歳上の姉は女優の丹阿弥谷津子さんである。
 父の画室で日本画に親しんで育ち、文化学院女子部に在学中に木炭のデッサンを習い、1954年に油彩《南信風景》で、第22回独立展に初入選した。以後も油彩を描いて展覧会に出品するが、1956年(昭和31)7月に、「ブリジストン美術館」で開催された第1回日仏具象派展で、長谷川潔のメゾチント作品に出会って衝撃をうけ、版画の制作を目指した。そして翌57年、東京神田の文房堂で開催された銅版画講習会に参加し、講師をつとめた駒井哲郎の指導を受けた。このときから駒井に師事して銅版画の制作をはじめることになった。
 茅ヶ崎の会場では、初期の作品8点を見ることができるが、その幾つかは駒井の作風に通じるものがあって興味深い。d0238372_1272621.jpg
 そしてこれら8点のうちの2点、《お魚》(1960年頃)の一部と《瓶と水差 No2》(制作年不詳)にはメゾチントの技法が用いられている。
 上に引用した紹介文にもある通り、メゾチントではベルソーと呼ばれる道具が重要な働きをする。ベルソー(berceau)とはフランス語で「揺りかご」の意味で、動詞bercerは「静かに揺する」という意味である。
 ヨーロッパでは、メゾチントの技法は17世紀に発明され、そのための道具であるベルソーも早い時期につくられていた。d0238372_1244867.jpg
 これは写真のように、ゆるい円をえがく堅い金属の先に無数の細かい刃を刻んだもので、これを左右に揺すって銅版の表面に傷をつけて目立てをするのである。1930年代にフランスに渡った長谷川潔は、この道具の存在を知っていて、それを用いてあの精緻な作品を制作したのだった。
 これに対して、カラー・メゾチントの技法を開発した浜口陽三は、銅版画の制作を始めた当初は、ベルソーの存在を知らなかったという。彼は私との対談で次のように語っている。
 「浜口 ・・・ぼくがメゾチントで最初につくったのは《永代橋》(1951年)で、新橋の近くの掘割から見た風景ですが、これをよく見ると分かるのですが、ドライポイントで版板のプレパレーション〔下地つくり〕をやっています。
 ―― 縦、横、斜めに細かい線が入っていますね。
 浜口 そう、このときはベルソーなどなかったですから、ドライポイントの要領で、ペンでこまかい筋を無数に引いているのです。そうして、うすくしたいところは、ペンなどの先を艶ベラみたいにしたもので、こすって調子を出しているのです。
 そうやって、全部を一度真っ黒にして、白くしたいところは、削ればいいと考えたわけです。(中略)第一、ベルソーという道具があることさえ、知らなかったのですよ。
 ところがあるとき、戦前ニューヨークで知り合った e e カミングス〔詩人〕の奥さんのマリオンが送ってくれたのです。それはこういう話でした。
 ある日、e e カミングスとマリオンから手紙が来て、「ハマグチ、敗戦でお前も生活に困っているだろう。絵を送れば百ドルくれると書いてありました。
 当時の百ドルは大金でしたけど、お金をもらっても仕方がありませんから、日本で買えないものを買って、送ってほしいと頼んだのです。
 そうしましたら、ぼくと非常にしたしくしていたフランス人の友人〔その後の調査でフランスに住んでいたイギリス人だったことが分かった〕がニューヨークにいまして、彼がカミングスとも知り合いだったものですから、彼がカミングスからお金をあずかって、どこかから版画の道具であるベルソーを探してきて、それを東京のぼくのところへ送ってくれたのです。」(『浜口陽三の世界』、ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション、2012年)
 つまり浜口陽三はメゾチントという技法を独習し、のちに海外の知人の厚意でベルソーを手に入れたのだった。浜口はその後1953年の暮にフランスへ渡り、そこで本格的に版画制作を開始した。
 では浜口に少し遅れて、日本で版画をはじめた駒井たちは、どうやってベルソーと出会ったのか。この点に関して、「ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション」の学芸員、神林菜穂子さんから興味深いエピソードを聞かされた。それによると、駒井はベルソーなる道具の存在を知ると、神田にある創業明治20年の老舗文房堂を通じて、その形状や役割を日本人の職人に教えて、5本だけ作らせたのだという。こうして誕生した5本の和製ベルソーのうちの3本は、駒井哲郎、丹阿弥丹波子、佐藤暢男が所有することになった。残る2本のベルソーが果たして誰の手に渡ったかは目下不明だが、神林さんによれば、この5人が日本におけるメゾチントの草分けであったことは間違いないという。
 丹阿弥さんもインタビューで、「文房堂では、銅版画の道具を海外から積極的に探し求めてとりよせてくれました。齋藤さんという熱心な方がいらして、ベルソーをはじめて日本で5つ作らせた時、電話をくださり、その後アメリカからも取り寄せてくれるようになりました」と語っている。
 「ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション」開催の展覧会の図録には、1957年に出た「文房堂」の画材目録が載っていて、そこには版画制作用の道具である、ドライポイント付三菱刀スクレーバー Y(円) 330、三菱刀スクレーバー(木柄) Y600、バニツシャー(修正ヘラ) Y300、菱形刀 ビュラン Y600、などと並んで、ロッカー(連発刀)A幅10m/m Y300、ロッカー(連発刀)B幅7m/m Y 280、とある。ロッカーはベルソーの英語名で、この頃には文房堂が版画製作のための道具を海外から取り寄せるようになっていたことがわかる。
 
 「時のきらめき 丹阿弥丹波子 銅版画展」(茅ヶ崎市美術館)は6月7日まで
 「浜口陽三・丹阿弥丹波子二人展 はるかな符号」(ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション)は6月30日まで開催
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by monsieurk | 2015-06-03 22:30 | 美術 | Trackback | Comments(0)
 版画

 ノエル・ヌエットのスケッチを印刷した3冊のアルバムは、日本人が見過ごしがちだった東京の魅力を再認識させるとともに、画人ヌエットの名前を広く世に知らせることになった。そんなある日、彼のもとを一人の画商が訪ねてきた。上野末広町に店を構える版画商の土井貞一で、聞けば彼の息子は静岡高等学校時代のヌエットの教え子だという。土井は版画にするために、東京風景をあらためて描く気はないかというのである。広重の浮世絵を見て育ったヌエットにとって、自分の版画を日本で出すことは夢であった。話はすぐにまとまった。
 土井はこれまでと同じように、ペンをつかって陰影を線で描くことを勧めた。ヌエットはこれまでのスケッチを見直し、百をこす気に入りの場所から20数箇所を選んで、大判の絵をペンで描いていった。
 宮城のお濠に松が陰をおとし、その先には近代的なビル群が立ち並ぶ「馬場先門」。雪の降りつもる日に、道を行く着物姿の女性を描いた「紀尾井町」。神田川を中央に配し、遠景に水道橋とニコライ堂の丸屋根が見える「御茶ノ水」。青さを残す空に浮かぶ雲は夕日を浴びて桃色に染まりつつある。そして、雨のそぼ降る掘割とそこに舫った舟を描いた「芝・古川」。街頭と背景の料亭に灯の入った「不忍池」。「神楽坂」では、夜の料亭街が長袖の女とともに描かれている。どこかの料亭に呼ばれた芸者だろうか。・・・
 ヌエットはこうした東京の風物を慣れたペン画で24枚描いたが、これを版に起こす彫り師の仕事は大変だった。残されている版画をみると、「彫エンドウ」、「摺セキ」、あるいは「刀池田」、「摺横井」といった名前が欄外に小さく刷られている。腕のある職人たちが、一枚に何週間もかけて繊細きわまる線を忠実に再現してくれたのだった。
 ヌエットによれば、土井貞一は「馬場先門」と「芝の山門」の2点をまず黒一色で刷り、そのあとで全作品を色刷りにする決心をした。こうして合計24枚の東京風景の版画が完成した。1936年(昭和11)のことである。版画は1枚3円で販売され、友人たちはヌエットを「広重四世」(幕末に広重を名乗った絵師は三人いた)と呼んでくれた。ヌエットにとっては名誉なことであった。
 この間、ヌエットは二度フランスに帰っている。一度は外国語学校と再契約をした1933年の夏休みで、このときはアメリカ経由で祖国へ行き、翌34年に母が亡くなったときは、シベリア鉄道で往復した。日本に戻ってきたヌエットは、自分の生活基盤がいまや日本にあることを実感した。そして外国語学校の他に、一高や幾つかの私立大学でも講義を行うようになった。   
 このころ書かれた詩の一篇――
「花咲く桜は岡を白い色で覆い
 谷間には小流が音を立て
 枝は柔らかいモスリンのように
 壁の肩や家の面にかかる。

 雪で埋まったかのように見える丸天井の下を道が走り
 古い有名な寺の境内では
 娘たちの歌声に交って
 蜜蜂の羽音が鳴る。

 夜は、月光が辷るように動き
 半開の花々の姿を
 石畳の上に休みなく描き出す。

 ところが、ある朝、不意に風が起り
 何もかも消えてしまった!
 少年たちが忙しく花びらを掻き集めている!」(『水蝋樹(イボタノキ)の香』

 戦争

 一陣の風が満開の花を吹き散らしたように、日本は暗い時代を迎えつつあった。満洲事変を起こした日本は、1933年3月に国際連盟を脱退。3年後には二・二六事件が起き、翌1937年7月の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争がはじまり、1940年9月には日独伊三国同盟に調印した。それでもヌエットは、1939年、40年、41年と講義をつづけた。日本は1941年12月8日、真珠湾を攻撃し、英米に宣戦を布告した。彼はこのころの生活をこう振り返っている。
 「第一次大戦のときはわれわれフランス人の側にいた日本が、われわれの敵ドイツと共同戦線を張るのを見て私の心は痛んだ。・・・東京の空気は厳しくなっていった。1941年、ついに完全な戦争となった。外国語学校は(一ツ橋から)滝野川へ移った。私は麹町富士見町の気持のよい家に住んでいたが、生活は悲痛なものであった。フランスからのニュースは悪いものばかりだった。家族に関する消息はほとんど入手できなかった。」(『東京のシルエット』164頁)
 ヨーロッパでも1939年9月1日、ドイツが突如としてポーランドに侵攻し、9月3日、イギリスとフランスはドイツに宣戦を布告し、第二次大戦が開始された。当初優勢だったドイツ軍は1940年6月にはパリに入場して、フランスは事実上ドイツの占領下に置かれた。日本ではフランス語の本を輸入するのが禁止された。困ったのが授業で使う教科書である。そのためヌエットは、自分で教科書を執筆することにした。こうしてスケッチを挿画にした随筆集「En écoutant le veilleur de nuit(『夜回りの音を聞いて』)」が、1940年に白水社から出版され、1942年には、2冊目の「Papillons endormis(『眠れる蝶』)」が、外語学院出版部刊として第三書房から出された。
ヌエットが書いたこれらの文章は、同じ年、久持義武によって翻訳され、『日本風物誌』と題して三學書房から刊行された。同書の最後に置かれた「ベルベット館の小塔」は、神戸に旅行した折に訪れた外国船の船内で、フランスの古城の景観図を見た感慨を綴ったものである。最後は次のようにしめくくられている。
 「世紀と人間にかくも苦難をなめさせられていながら、しかも更生をやめぬ巴里!(中略)汝の千変万化な相貌ゆえに、かくもいつくしんできた巴里! 見捨てたつもりでいた巴里! 日本のこの港にまでわたしを連れ戻しにやってきた巴里! 今までになく親しみをおぼえる巴里!」(同書140頁)。
  外国人にとって日々に厳しさを増す東京にあって、ドイツ軍の占領下に喘いでいるであろうパリとパリの人々が、これまでになく懐かしいものに思えるのだった。
 その一方、ヌエットの身辺では警察や隣組による外国人への監視が強化され、食糧は配給制となり、家々の灯火は消されて街は闇に沈んだ。そんな中で彼が強く感情を揺さぶられた光景が二つあった。一つは若い女性たちが橋のたもとや人混みの十字路で、通りかかる婦人や娘たちに呼びかけて、前線にいる兵士に送る千人針を頼む姿であり、もう一つは靖国神社で行われる戦死者の葬儀だった。彼はその様子をこう描いている。「喪服につつまれた遺家族は前もって神社の前の庭で莚の上にすわるのであった。だんだんに夜となる。すると闇の中から式次第を読み上げる声がきこえ、陸軍または海軍の軍楽隊が非常に荘重な、非常にゆるやかな、非常に感動的な曲を演奏するのであった。」(『東京のシルエット』11頁)
 1944年秋からB29による東京空襲がはじまった。外国語学校の講義も行われなくなった。ヌエットは麹町富士見町の家の庭に自分で防空壕をつくり、空襲警報のサイレンが鳴るとベッドを出て、防空壕へ非難する夜が続いた。そんなある夜、彼は空を仰いだ。「不意に探照燈が光りを集めて一台の飛行機に向けた。それは非常に高く飛んでおり、あたかも銀の撚糸機のように見えるのであった。対空火砲が怒った大犬のように轟わたり、砲弾の炸裂が飛んでゆく敵を追っていた。つぎに、突然輝ける星にも似たものが雨のように降って来た。壮観でもあり恐るべき様でもあった。あゝ私はこの光景に追われてゆく恐怖にみちた婦人たちを思い出す。しばらくして空が赤くなってきた。深川、本所、浅草の火事がはじまっていたのである。」(『東京のシルエット』12-13頁)
 激しさを増す空襲で、ヌエットが愛し描いてきた東京が次々に姿を消していった。麹町の家も1945年3月1日の大空襲で焼けた。彼はこの夜まず靖国神社へ逃れ、その後で麻布へ向かった。歩いていく途中はどこも火の海だった。イギリス大使館の前では名物の桜の樹が燃えていた。皇居の上空には大きな薄光が見え、お濠に赤い空が映っていた。午前四時ころようやく大使館の友人の家にたどり着き、長椅子で仮眠をとることができた。下町の空襲で末広町の土井版画の店も焼け、ヌエットの版画のストックや版木がどうなったか分からなかった。
 3月下旬、ヌエットは多くの在日外国人たちとともに軽井沢へ強制疎開させられ、憲兵の厳しい監視下で暮らすことになった。彼が終戦を知ったのは軽井沢の森の中であった。

 戦後

 ヌエットが東京へ戻ったのは、終戦から2カ月たった1945年(昭和20)10月22日である。さっそく麹町富士見町の家を訪ねてみると、そこにはコンクリートの土台と焼け焦げた一本の木を除いてなにもなかった。彼はこの光景を克明にスケッチした。そのあとかつて描いた場所をめぐって、廃墟と化した東京を描いていった。門柱だけがぽつんと残る神楽坂の坂道をとぼとぼと登って行くもんぺ姿の女性。焼け野原となった神田。釣鐘だけが鐘楼の台座に放置された浅草の寺。赤坂の廃墟には人が歩く道の脇に一軒のバラックが建っていた。
 滝野川の外国語学校も焼失し、上野の美術学校の校舎を借りて講義が再開された。しかしどこに寝るのか。彼は六度も家を転々としたあと、1947年になって空襲を奇跡的にまぬがれた日仏会館に止宿することになった。館長はじめ住むものがなく、フランス使節団から建物を保存するために住まないかという誘いがあったのである。
 間もなく東京外国語学校は石神井に移転し、通うのは大変だった。そのため彼は17年間勤めた外国語学校を辞職する決心をした。幸いなことに、1947七年には、辰野隆が東大仏文科の講師の座を提供してくれ、早稲田大学、学習院大学、アテネ・フランセでも教鞭をとることになった。そしてこの年フランス政府から「レジョン・ドヌール勲章」を授与された。
ヌエットはその後しばらく江戸川のアパートに住んだあと、牛込矢来町に日本家屋を見つけることができた。ここはお気に入りの神楽坂にも近く幸せだった。
 ヌエットの最初の個展が開かれたのは1950年(昭和25)年12月のことである。銀座の万年堂画廊での展覧会は、彼にとって待望のものであり、案内状には作家の永井荷風が一文を寄せてくれた。
 「江戸時代に於ける江戸の町々の光景が葛飾北斎と一立斎広重の版画に描き残されているように、また明治時代の東京の風景が小林清親の版画において窺い見られるように、大正から昭和時代の東京、戦前戦後の東京の面影は詩人ヌエット先生の巧妙な余技によって永く後世に伝えられるのであります。われわれ日本人として戦争の罹災者として先生の作画にたいして無限の感謝と無限の喜びを感じます。」
 荷風の日記『断腸亭日乗』の4月20日には、「山内義雄氏Noël Nouët: En écoutant le veilleur de nuitを贈らる」とあり、10月8日には、「山内義雄氏よりヌエット氏著巴里寄贈」と記されている。東京の散策者であった荷風はヌエットの著書とともに絵にも共感を抱いていたのである。
 同じく1950年、戦前にフランス語で出した「Paris depuis deux mille ans(『パリ二千年 史』)」が、静岡高校時代の教え子、小林正と鈴木力衛によって翻訳され、『パリ』という書名で東大出版部から刊行された。2年前まで東大仏文科主任教授だった辰野隆は序文で、「先生は極めて控え目で、物静かな君子である。何時顔を合せても、穏かで、柔和で、相手に親しみと信頼の念を起させる。先生に於いては、地味と滋味が程よく調和されて、厳師と云はんよりは寧ろ好い小父さんと呼びたくなる人柄が備はっている。その人柄を僕は――僕等の仲間は――珍重するのである」と書いている。
 ヌエットは旧制静岡高等学校には始まって多くの学生を教えてきたが、1951年には1年間にわたって明仁皇太子のフランス語教師をつとめた。
 彼は1957年(昭和32)、東京大学に学位論文「Edmond de Goncourt et les arts japonais(「エドモン・ド・ゴンクールと日本美術」)を提出して文学博士の学位を得た。日本政府は1962年(昭和37)に、教育分野における長年の貢献と、日本や文化を外国に紹介した努力にたいして勲四等瑞宝章を贈って報いた。ヌエットはこの年、35年におよんだ日本での生活に終止符をうつ決意をした。横浜からフランス郵船のカンボージュ号に乗船したのは5月12日のことである。
 パリでは妻イヴォンヌに再会し、ブーローニュの森に近い16区ミュラ通り45番地のアパルトマンに住んだ。毎日街や森を散策し、一日一枚スケッチをすることを日課にした。かつてNHKの国際放送で仕事をともにした高橋邦太郎が、この家を訪ねたときのことを紹介している。
 「去年〔1966年〕4月、ぼくはパリの寓居にヌエットさんをたずねた。ヌエットさんはアパートの一階、質素な一室で、
 「もう、わたしも老いた。再び東京を見ることはあるまい」
 といいながら自作の弁慶橋の版画を示した。
 弁慶橋の上には高速道路がかかり、もう、そこに描かれた時の風景ではない。しかし、ぼくは、ヌエットさんには、破壊され、旧態はここに留められているだけだとは言いかねた。」(「本の手帖」第61号、1967年2月号73頁)
 東京都は1965年(昭和40)に東京都名誉都民の称号を贈った。このときヌエットの外国語学校の教え子で、その後朝日新聞の記者になった酒井伝六が記述したヌエットの小伝が東京都の公報に掲載された。日本を愛し続けたフランス人、ノエル・ヌエットは1969年(昭和44)9月30日に亡くなった。84歳だった。
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by monsieurk | 2015-05-16 22:30 | 美術 | Trackback | Comments(0)
 再来日

 日本へまた行ける機会を得たことはノエル・ヌエットを興奮させた。日本での生活を思い出すとき、最初に出会った二つのことがとくに強く蘇った。一つは畳の香りであり、もう一つは坊さんが木槌でたたく木魚の音だった。畳は初めて寝た日本間を思い出させ、木魚の音は神秘的に感じられた。 「この小さな音は、不意に狭い露地から、庭の垣根を越えて、あるいはまた店の陳列を越えて、どこからくるのか正確には知りえない状態で私の耳に聞こえてくるのが通例であった。そして静かにその音が消えたかと思うと、こんどは或る町角へきたとき不意に、同様にどこかわからぬ別の家から強く鳴り出すという具合だった。」(『東京のシルエット』23―24頁) だが、妻のイヴォンヌは日本へ再び行くことを承諾せず、ヌエットは一人でシベリア横断鉄道に乗った。東京へ着いたのは1930年(昭和5)春のことだった。
 勤務先の東京外国語学校は神田一ツ橋にあって、静岡高等学校のときとは違って多くの外国人教師がいた。フランス語で話ができる同僚の外にも、ラテン系のイタリア人、スペイン人、ポルトガル人の教師とも心を許す仲となった。学生たちも外国語を専門に学ぶ意志をもつ者たちで、授業時間も多く、一人一人の学生の顔もすぐに覚えた。住まいは麹町富士見町のさる日本人の家に下宿した。そこにはヨーロッパ風の一間があった。
 こうして待望の東京での生活がはじまった。神田には多くの私立大学やフランス語を教えるアテネ・フランセなどがあった。神田を特徴づけているのは、駿河台から九段下にかけて軒を並べる古本屋と大小の出版社だった。ヌエットは講義の合間をぬって古本屋街に足をむけた。時に掘出し物もあった。ある日、店先を覗いていた彼は、政治家で作家としても著名なエドゥアール・エリオが、駐仏日本大使館員に贈った献辞つきの著書をみつけた。ヌエットの友人も僥倖に恵まれた。エドモン・ド・ゴンクールの自筆献辞のついた著書をわずか五十銭で購入したという。
 当時の神田の古本屋には外国語の原書が多く売られていた。第一次大戦後のヨーロッパの経済的混乱で円の価値が高くなり、英語、ドイツ語、フランス語の本が大量に購入されたからである。ヌエットは売られているフランス語の古本に一つの特徴があるのに気づいた。原書の最初の方だけが頁を切られ、鉛筆の書き込みまであるが、終わりの方は頁が切られずに、そのままになっている本が多いことだった。フランスの本は仮綴で、購入した読者はペーパー・ナイフで頁を切り離して読み進む仕組みだった。英語やドイツ語の本は最初から製本されているから、こうした手間をかける必要がないが、フランス語の本はどこまで読んだかが一目瞭然である。フランス書は読者の努力をごまかすことが出来ないのだ。

 スケッチ

 ヌエットは二度目の来日にあたって、シベリアを横断している列車のなかで、今度の滞在中には、ぜひ東京の姿をとらえようと心に決めていた。その点で外国語学校がある一ツ橋はまことに地の利をえていた。彼は講義と講義との間に時間があると、すぐにカバンを携えて、日本橋や銀座の方へ出かけて行った。外出のとき決まって鞄を肩から下げるか、大きな紙入れをもって出かけた。そこに本や、デッサンをする紙とインク、ノートブック、予備の眼鏡、写真機、ときには弁当を入れた。そして鞄には、途中で買った本や骨董品、道で摘んだタンポポなども入れられるから、帰ってくるときには「兎を飲み込んだ蛇の腹」のようにパンパンにふくらむことになった。
 ヌエットはこうして時間を見つけては東京の街を歩いた。まず気づいたのは、銀座やその付近で見かける横文字の看板の多いことだった。レストラン、喫茶店、バー、あるいは普通の商店がフランス語の名前をかかげていた。日本に慣れたヌエットは、こうした店にフランス語を話す人がいるわけではないことを知っていた。銀座には「モナミ」という菓子屋があり、そこでは日本の古いしきたりにしたがって、背中に店の名前を染めた上衣を店員に着せていた。あるとき友人と銀座を通りかかると、藍色の地に白い文字で背中にモナミと横文字を染め抜いた上衣を着た男が通りを横切っていった。ヌエットはすかさず連れの友人に、「ほら、私の友人(モナミ)が行くよ」と叫んだ。
 一枚の写真が残っている。橋の上からスケッチしているヌエットを左側から撮ったもので、石の欄干にスケッチ帖を寄せかけ、万年筆で一心に風景を描いている。黒いソフトを被ったヌエットを取り囲んで、二人の日本人が手元をのぞき込んでいる。背景は大小のビル、東京のどこの街角であろうか。
 「奇妙なことだが、私はビルディングに興味を感じていた。私は常に全体的な眺め、『沈んでいる』眺めを見下ろすことができるように屋上へあがることを試みるのだった。三越、味の素、京橋の第一精養軒、尾張町の服部、その他ほとんどすべての大ビルの上から私はスケッチした。物見高い人がきて覗いた。しかし、ときどき海の方を向いて描いていると、あまりに御熱心な店員がきて、私に警告するのであった。『その方向を描くのには特別の許可が必要ですよ。あなたはスパイと間違えられる』と。こうして途中でデッサンをやめたことは一再にとどまらなかった。あるとき、駿河台の高台から後楽園を描いていると、一人の警官がきて水道橋の交番へ私を拘引し、尋問した。やがて彼は私の身分を確かめるために外国語学校へ電話をかけた。そのあとで結局、彼は私を釈放する決心をした。後楽園は当時は弾薬庫であったことを想い出さねばならない。」(『東京のシルエット』59-60頁)
 ヌエットはパリで内藤濯を通して知り合った遊学中の画家石井柏亭に絵を習ったが、スケッチには教えられたように、鉛筆ではなく万年筆を用いた。これには少年時代に見た広重の浮世絵の線の影響もあった。西洋絵画の伝統では、素描の線は消さるか塗りこめられる。色と形は存在しても、線は本来存在しない抽象的なものだからである。ところが浮世絵では、この存在しないはずの線がものと形を表現する決定的要素なのである。広重をはじめ、浮世絵がそのことを彼に教えてくれたのである。
広重といえば、彼は上野と浅草の間にある東岳寺に広重の墓を訪れたことがあった。寺には墓とともに版画商や愛好家が建てた碑があるが、そのかたわらにもう一基の墓があるのを見つけた。それは広重の作品を愛したアメリカ人ジョン・スチュアート・ハッパー(1863―1936)のもので、東京で教師をしていたハッパーは広重の版画を多く集め、死後は偉大な芸術家のわきに葬られることを望んだのである。

 アルバム

 ヌエットはお気に入りの場所のスケッチがたまると、それを関係のあった白水社に持ち込んだ。白水社はフランス語・フランス文学に関する本を主に出版する書店として、1915年(大正4)に創業された。1921年(大正10)には、『模範仏和大辞典』を刊行するとともに、学生向けの雑誌「ふらんす」を創刊していた。
 ヌエットは白水社の編集長草野貞之を訪ね、自分のスケッチを見せて、これを「ふらんす」に載せてくれないかと頼んだ。ヌエットは草野とは旧知の間柄で、第一次「ふらんす」の後をうけて出された雑誌「La Semeuse(種まく女)」の1926年5月号は、「ノエル・ヌエット特集」を組んでいた。草野は彼の申し出をこころよく受け入れてくれ、幾つかの作品が雑誌「フランス」(1928年に再び「フランス」と改題)に連続して掲載された。
 スケッチは好評だった。これを見たある出版業者が、それを絵葉書にすることを提案してきた。ヌエットは喜んで同意し、雑誌のための鉛版を活用して、絵葉書集「古き東京、新しき東京――一外国人のペン画」が売り出されることになった。このポケット版の絵葉書集はよく売れたが、ヌエットはほとんど無報酬だったという。それでも自分の描いた絵葉書を友人に送ることができて満足だった。
こうして絵を描くことが、フランス語の授業とともに大きな楽しみになった。彼は感動を催す風景を求めて、東京中を歩きまわった。
 ヌエットの野心はさらに大きくなった。当時、芦田均が社長をしていた新聞「ジャパン・タイムス」に知り合いがおり、東京スケッチを新聞に載せてくれないかと頼んだところ、この申し出を快諾してくれたのである。こうして「ジャパン・タイムス」は3年間にわたって、ヌエットが描く首都東京のパノラマを毎週掲載した。
 社長の芦田均は最初の50枚たまると、これで画集をつくることを提案した。ヌエットに異論があるはずはなく、東京の歴史を解説する短い文章を書いた。「TOKYO AS SEEN BY A FOREIGNER VUE PAR UN ETRANGER」が、The Japan Times & Mail から出版されたのは1934年(昭和9年)12月20日で、手元にある本には定価2円とある。
 50点の東京風景を収めたこの画集(アルバム)には、画家の有島生馬が好意的な序文を寄せてくれた。それは英語とフランス語に翻訳されて掲載されているが、それを再度日本語にすれば――
 「詩人というのはとりわけリズムに憑かれた存在のように見える。しかし、詩人たちはどちらかといえば絵画の愛好家である。ゲーテは音楽より絵画を好んだ。ヴィクトル・ユゴー、ボードレール、ヴェルレーヌ、他の大詩人の多くが素晴らしい詩集とともに、魅力溢れるスケッチを残している。ときわけ日本には『文人画』つまり『詩人画家の流派』の例が数多く見られる。
 ノエル・ヌエット氏もまた、詩を書くための愛用のペンで、精彩に富んだスケッチをものしている。そして彼は偉大なる散歩者であるように思う。彼の絵の題材はその現場で、もっとも芸術的なアングルで選び取られている。
 私たちがこの五十点のアルバムを持ちえたことは幸せだった。・・・・」
 こうして50点の万年筆によるスケッチが、1枚目の『宮城』から、50番目の『水道橋近くのパノラマ』まで展開され、それぞれにヌエット自身の短い説明書き(キャプション)が、これもフランス語と英語で添えられている。「封建時代の城の様式で建てられた宮城の古い櫓の一つ。奥には天守閣がみえる。宮城には多くの庭園があり、たわんだ松の枝が大きな堀の水面まで垂れ下がっている。宮殿へ近づくことは一般には許されていないが、その周囲はどの方角も、首都の最も美しい場所となっている」とあって、『宮城』のスケッチが掲載されている。絵の下部には「24 Oct 32 N. Nouët」というサインがある。
 2枚目は『日本橋』。「日本橋、日本の橋。最初は1903年に建造された。最初は木製で、以後12回つくり変えられた。近代的な橋は1911年の日付である。江戸時代、日本橋は非常ににぎやかな場所で、多くの浮世絵がそこを往来する画趣ある人たちとともに描いている。帝国の街道の距離を測る基点がこの橋である。」このスケッチは1934年2月21日に描かれたことが日付から分かる。このようにして、国会議事堂、ニコライ堂、東京帝国大学、東京駅、市谷の土手の松、丸の内大通り、上野駅、浅草観音、東郷元帥の旧邸、霊南坂などなどが描かれる。
 最後の50枚目は『水道橋近くのパノラマ』である。「神田の駿河台の高台からのパノラマ。鉄道の線路が運河の堀にそって走り、水道橋駅を過ぎる。江戸のこの場所は多摩川の水路だったことからこう呼ばれた。この川は17世紀に掘削された。工場のような建物は兵器廠で、かつて水戸徳川の屋敷があった場所に建てられた。1625年の日付をもつ庭園は保存され、多くの目利きをひきつけている。その名前は後楽園といい、天気が良い日には山並が地平線をくぎり、富士山の頂が夕映えの西の空に紫色のシルエットを見せる。」このスケッチは1933年3月7日に描かれた。
 ヌエットの画集では、裏表紙に1934年に建設されたばかりの日比谷劇場を背景に、着物姿の女性がこちらを振り返っている姿を描き、そこに赤字で右から左へ「東京」、「一外人の見た印象」、「ジャパン・タイムス社」と日本語で書かれているが、日本語の記述はこれだけである。それにもかかわらず画集は好評をもって迎えられ、よく売れた。そこでジャパン・タイムス社は、翌1935年(昭和10)、別の50点のスケッチを収めた第2集を発行した。こちらには有島生馬の序文に代えて、西条八十の詩を序文として載せた。
 ヌエットのスケッチ集はこれだけでは終らなかった。1936年(昭和11年)には、日仏会館から「Tokyo, ville ancienne, capitale moderne, cinquante croquis(東京 古い都・現代都市)」と題して、同じく50点のスケッチを収録した作品集が同じ型式で刊行された。ヌエットのキャプションはフランス語と英語のほかに日本語訳も添えられた。日仏協会理事長で貴族院議員の子爵曽我祐邦が序文を寄せて、こう述べている。
 「東京は日本の顔である。尊い伝統が残っている古い顔であると同時に、近代文化を反映している若々しい姿でもある。過去の集団であると共に未来にも通じている。
 これらの東京の姿は、ノエル・ヌエット氏の豊かな画集が我々に思い出させて呉れる。氏の筆になった素描は、実に丹念に描かれ、真情の籠ったクロッキーである。この画家は、如何にも東京をよく眺め、その姿を示す良心を持っている。描く風景もよく選れた。古いというも新しいと言うも、二つが別々に分れているのではない。新しい東京は、古き都の中に生まれつゝある。散策者は、古い町から突如として、モダンな姿をした町に入ることがある。それ故、往々外国人は、真の東京を見ずに過ぎることがある。ノエル・ヌエット氏は斯様な点を考えて、この画集の各頁に注意を呼び越している。見るからに、いとも優れた感情の画家と愉快な散歩をしているかの感が深い。」(同書5頁)
 たとえば22枚目の『谷中五重塔』では、手前に両側を板塀に囲まれた石畳のゆるい坂道が描かれ、その先には平屋の屋根々々。さらにその遥か遠くに遠く五重塔が望める。そして坂を下りきったところを左から右へ横切る道を、いましも天秤棒の前後に桶を下げた物売りが通り過ぎようとしている。豆腐屋だろうか、魚売りだろうか。いまにも呼び声が聞こえてきそうである。この絵のヌエット自身のキャプション――
 「庭園に挟まれた本郷のとある横町。遥かに谷中の五重塔が見える。現在東京には五重塔は之を入れて6、7基しか残っていない。」ノエル・ヌエットはスナップ写真のように昭和十年台の東京のたたずまい、この街が示す情緒をすくい取って定着させたのだった。(続)
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by monsieurk | 2015-05-13 22:30 | 美術 | Trackback | Comments(0)
 かつて雑誌「東京人」に連載した「東京を愛した文人画家 ノエル・ヌエット」(同誌、2011年4月、5月、6月号)を再録する。

 未知の国の首都
         
 2009年、東京・小平市にある「ガス・ミュージアム」で、「没後40年ノエル・ヌエット展 東京を愛した仏蘭西人」と題した展覧会が開かれた。ヌエットは戦前から戦後にかけて東京に住み、多くの日本人にフランス語を教えるとともに、東京の風物を版画やスケッチに残した人である。展示された24点の東京風景は、レンガ造りのミュージアムにふさわしい郷愁を誘う作品ばかりだった。
 ノエル・ヌエット――、フランス語を学んだ者は、「ヌエットさん」と呼んで親しんだものである。私は1950年代後半、高校生のときにフランス語を学びはじめたが、当時の「アテネ・フランセ」は神田駿河台の文化学院の中にあり、中庭で若い女性に囲まれて温顔をほころばせているヌエットさんの姿をよく見かけたものだった。私はヌエットさんに直接教えてもらう機会はなかったが、ヌエットさんの授業はやさしく、丁寧で、学生を叱ったことがないという評判だった。しかし、ヌエットさんがこれほど多くの東京風景を描いていたのを知っていた人は、それほど多くはなかったはずである。
 ノエル・ヌエットは1885年(明治18)、フランス北西部ブルターニュ地方のモルビアン県ヴァンヌ市に近いロクミネで生まれた。父のアンジュは医師、母はマリーといい、彼の本名はフレデリック=アンジェス・ヌエットである。十代で詩人になることを夢見て、パリ大学文学部〔ソルボンヌ〕で文学を専攻し、パリのモンマルトルに住んだ。
 卒業後は出版社に勤務し、高校時代から書きはじめた詩が著名な雑誌「レエルミタージュ」などに掲載された。このとき用いたペンネームがノエル・ヌエットだった。ノエルとはフランス語でクリスマスを意味するが、もともとはキリストの生誕を喜ぶ叫びで、中世では国王が町に入場する際にも叫ばれた言葉でもあった。
 そのノエル・ヌエットの詩は、たとえばこんなものである。
 「濡れて光る一つ一つの粒は
  凝結した熱情のようなものだ
  私の手にずっしりと重い房は
  思想をもっているかのようだ。

  黄金色の光りの日々に
  私の知らぬ葡萄畑の中で
  この迷える憐れなるものが
  その眼に何を映したかを私は思う。

  草々の間を吹きぬける
  神秘的な暁の風。
  大樹の知る
  地と天の秘密。
  ・・・・」(『無限を渇望する心』)
 ヌエットは後に自分の詩作をかえりみて、こう書いている。
 「私は強く息を呼吸しながら、机から遠からぬ場所を大股で歩き、すこしずつ私の頭の中で形づくられる語や句を急いでノートしたものであった。そのときには、私は澄んだ興奮状態になり、それが大きな幸福感を私にあたえるのだった。よい詩句や、みごとな比喩が見つかったときの歓喜! 隣りの家から聞える音楽の音符、窓から呼吸できる芳香、遥か彼方に見える地平線や樹、それらが私の想像力を刺戟するのだった。」(『東京のシルエット』110頁)
 彼はこうした詩を集めて、1910年には第一詩集『葉がくれの星』(Les Ētoiles entre les feuilles)を出版し、スピリチュアリスト賞を受賞した。さらに翌年の1911年には第二詩集『無限を渇望する心』(Le Cœur avide d’infini)、1913年には第三詩集『野原の鐘』(Les Cloches des champs)を立て続けに刊行した。これらの詩集は好評だった。評論家のモーリス・アレムは、「彼の芸術は即興性と単純さと静謐さからなっている。感情や印象は彼の詩の糧であり、彼はそれを感じた瞬間に、ほとんど加工しない形のもとに翻訳する。だから彼の詩句にはいかなる技巧もない」と指摘している。第三詩集の裏表紙には、次の詩集『Paulo majora』の刊行が予告されていたが、この詩集は出版されなかった。
 1914年7月、第一次大戦が勃発すると、ヌエットも動員されて軍隊に入った。第一次大戦はフランスのみならずヨーロッパ全土に未曾有の惨禍をもたらした。フランスはドイツの侵攻を食い止めるために、東部ヴェルダンに要塞を築いていたが、ドイツ軍はこれを迂回する作戦をとったために役に立たなかった。やがて戦線は膠着し、各地で塹壕戦が繰り広げられた。幸いヌエットは前線に送られることはなかったが、とても詩を書く気にはならなかったのである。
 戦火は1918年11月になってようやく止んだ。ヌエットも日常の生活を取り戻した。パリでは戦前にもましてさまざまな文化活動が行われ、文学サロンも再開された。ヌエットもこうしたサロンに出入りする機会があり、フランシス・ジャム、アンリ・ド・レニエ、女流詩人のアンナ・ド・ノアイユなどと知り合いになった。そしてその詩が、フランス座(コメディー・フランセーズ)の「詩の会」で朗読されるという光栄に浴した。
 彼は、日本からパリを訪れた歌人の与謝野晶子・鉄幹夫妻と知り合い、さらにパリに留学していたフランス文学者の内藤濯や山田珠樹とも親しく交流することになった。内藤濯の『星の王子パリ日記』の、1922年(大正11)12月20日の項には、「珠樹、茉莉の部屋に詩人ノエル・ヌエット氏夫妻がお茶に招かれる。ここに同席して二時間近く話しこむ」という記述が見える。ただ、ヌエットが最初に日本と触れたのはこれよりもずっと早く、少年時代、母マリーが所有していた日本の浮世絵を目にしたときである。

 広重

 幕末の日本は諸外国と修好通商条約を結び、1859年(安政6)に、フランスの初代公使としてデュシェーヌ・ド・ベルクールが赴任したが、ベルクールは日本滞在中に広重の浮世絵の美しさに魅せられて蒐集した。広重がコレラで世を去ったのは、ベルクールが着任する1年前の1858年である。
 広重は1833年に刊行した『東海道五十三次』で一躍人気浮世絵師となり、その後『木曾街道六十九次』『近江八景』『名所江戸百景』を次々に発表して喝采を博した。ベルクールが集めたのは『江戸百景』で、1864年に帰国するときにフランスへ持って帰ったのである。ベルクールは晩年になって、このコレクションを姪に譲り、ヌエットの母がこの姪の親しい友人であったことから、広重版画はヌエット家の所有となった。箱の中に大切にしまわれていた版画を少年ヌエットは目にしたが、やがてそこに描かれた極東の国へ行き、そこに長年住んで、絵の対象を実際に見て、それを自身が描くことになるとは想像もしていなかった。彼はこう述べている。
 「私がいつか日本に住み、東京の中で広重の描いた場所にめぐり会い、皇居となった将軍の古城の姿を私自身も描くということを誰がいったい予想できたであろう? まことに運命とはかくのごときものである」「私はとくに、広重が興にまかせて最初の構図として描いた風景のある版画をさがし求めるのを楽しみにする。きわめて大胆なこれらの作品はスナップ写真を想わせる。思うに、広重はわれわれに『突然眼に映った物』の印象をあたえることを歓びとした唯一の、(あるいはほとんど唯一の)芸術家である。即興的に作られたこれらの下画の中には偉大なる巧みさが認められる。構図のないことが優れた構図となっている。」(『東京のシルエット』193-196頁)
 ヌエットは広重の風景画の特徴をこう定義するが、これは彼の詩の創作態度に共通するものではないのか。そうだとすれば、少年時代に目にした広重の浮世絵が無意識に与えた影響は大きかったのではないだろうか。
 ヌエットが風景に親しむ習慣を育てたのは、ブルターニュにいた少年時代、父と一緒にした散歩だった。彼はパリに移ってからも散策に時間を費やした。彼が好んで足を向けたのは、16世紀から17世紀の面影の残るパリの古い地区だった。こうして街角の凹みに何気なくたたずむ聖母像や古い橋などを発見した。さらに彼が見出したのはパリの風物だけではなかった。
 「パッシーでジャン・リシュパン(詩人)に会ったのも、あるレストランの入口でアナトール・フランス(作家)が美人をつれて車から降りてゆくのを見たのも、ジャンヌ・ダルク祭の日に、リヴォリ通りでモーリス・バレス(政治家・作家)に会ったのも、自宅へ帰りゆく老画家ジャン・ポール・ローランと擦れちがったのも、こうして歩いているときであった」「歩くことが私の思考作用を助けるのだ。私は考えるために話すことを必要とする『南方人』ではない。私は気持が定まらず、頭がスッキリしないときには歩き出す。」(『東京のシルエット』144-145頁)
 ヌエットは、やがて訪れたニューヨークでも歩き、ロンドンを歩き、モスクワを歩き、北京を歩いた。ニューヨークでは雲のなかにそびえる高層建築を賛美し、モスクワではプーシキンの像に敬礼し、北京では大理石の橋と宮殿の庭を横切って、玉座の間に通じる石段の上でスミレをつみ、ホコリのなかに横たわるラクダや黒豚の群をよけて歩いた。この散策の習慣は、やがて訪れる東京でも変わらずに続けられることになる。

 来日

 ノエル・ヌエットは1920年、35歳のときに結婚したが、新婚生活をはじめて間もなく新妻が突然病気で亡くなった。悲嘆は大きく、しばらくは何も手につかない状態が続いた。そんなヌエットの生活に転機をもたらしたのが、1925年に、パリの日本大使館に勤務する日本人外交官からもたらされた情報だった。彼は大使館員にフランス語を教えていたが、ある日、静岡高等学校がフランス人教師を探していて、適任者を推薦してほしいと外務省を通して在仏大使館に依頼してきたというのだった。
 ヌエットは正式なフランス語教師の資格をもっていたわけではなく、雑誌社に勤めるかたわら文章を書き、詩人になることを望んでいた。だが大使館員がもたらした未知の国での新たな生活が彼をひきつけた。話はとんとん拍子に進み、ヌエットは3年間の契約で旧制静岡高等学校へ赴任することになったのである。ヌエットはこの年にイヴォンヌと再婚しており、二人がマルセイユからフランス郵船の定期船に乗ったのは1926年(昭和元)1月のことだった。
 船は地中海を横断して、19世紀末に開鑿されたスエズ運河を通ってアラビア海に入り、アフリカ大陸を右手に見ながら南下、やがてインドのコロンボ、シンガポール、インドシナのサイゴンと寄港し、香港、上海に停泊して中国を垣間見たあと、最終地の横浜へ着いたのは、3月13日である。港に接岸するはるか前から遠く富士山が見え、はるばる極東の国へやってきたことを実感した。
 上陸した横浜の市街地には、2年半前に襲った大地震の跡がまだ残っていた。ヌエットは下船すると、出迎えてくれたフランス語学者の永井順などとともに、その足で汽車で東京へ向かい、駅から近い丸の内ホテルに投宿した。永井たちは彼を黄昏のなか、二重橋に案内して、皇居のシルエットをヌエットに見せた。大きな濠にかこまれた宮城の青銅の大きな屋根が樹々の上に見えた。東京ではじめて目にした風景はヌエットの一番お気に入りの場所となった。
 一夜が明け、彼は朝食も早々に街へ出た。街ゆく男たちの多くはサラリーマンで、パリや他のヨーロッパの首都と変わらない洋服姿だったが、時折見かける女性は皆が着物姿だった。彼はそれを驚きと喜びをもって眺めつつ、日本へ来たことをあらためて感じた。
 3月18日、ヌエットは静岡へ向かった。静岡には茶の買い入れに来ているイギリス人やアメリカ人の家族がいて、すぐに知り合いになった。そして静岡高等学校での授業がまもなく開始された。学生を前に授業をするのは初めての経験だったが、学生たちは静かで、さほどの困難もなくヌエットは教師生活をはじめることができた。
 旧制高等学校は文科と理科に分かれ、さらに各コースが、専攻する第一外国語によって、英語専攻が甲類、ドイツ語が乙類、フランス語が丙類の別があった。フランス語を第一外国語とする丙類がおかれていたのは、一高、三高、大阪高等学校、浦和高校、福岡高校、東京高校、静岡高校と、全国の高等学校のなかでもごく限られていた。
 ヌエットは授業をすべてフランス語で行ったから、最初のうち学生たちは彼の言うことをほとんど理解できなかったが、それにもだんだん慣れていった。そしてしばらくすると、ヌエットは毎週東海道線に乗って東京へ出ることになった。日曜日に静岡を発って、東京の士官学校で月曜日に講義をして、その夜に静岡へ帰るというスケジュールだった。当時の東海道線は丹那トンネルが開通する前で、箱根を越えるには御殿場経由だったから時間がかかった。それでも週に一度の東京行きは大きな刺激をあたえてくれた。 1928年(昭和3)には、フランス語で書いた“Paris depuis deux mille ans”(『パリ二千年史』)を東京の白水社から刊行した。
 こうして契約の三年がすぎた。1929年(昭和4)3月、帰国のための旅費が支払われ、ヌエットはシベリア鉄道で帰国の途についた。汽車の旅行は二週間を要したが、途中モスクワで半日ほどを過ごすことができた。このときも彼は好奇心に導かれるままにモスクワの街を歩きまわった。
 ノエル・ヌエットはパリへ帰ると詩人としての活動を再開し、日本の風物を含む自然への愛をうたった詩を集めて、第四詩集『水蝋樹(イボタノキ)の香』(Le parfum des troènes) を老舗の出版社ガルニエから上梓することができた。ちょうどこの頃パリの15区にあるシテ・ユニヴェルシテールにつくられた日仏会館の開館式に出席し、日本人留学生にフランス語を教えることになった。1930年になると、今度は東京外国語学校でフランス語を教えてほしいという要請があった。ヌエットは申し出を喜んで引き受けた。こうしてふたたび日本へ行くことになった。(続)
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by monsieurk | 2015-05-10 22:30 | 美術 | Trackback(1) | Comments(1)

安井曽太郎の肖像画Ⅲ

 《金蓉》とともに、1934年秋の第21会の二科展に出品された《玉蟲先生像》は、最初のタイトルが《T先生の像》であった。安井曽太郎は仙台の第二高等学校から、同校の校長をつとめた玉蟲一郎一の肖像画の制作を依頼された。仲介したのは旧知の小宮豊隆である。
 玉蟲は1868年(明治元)4月に仙台で生れ、1892年(明治25)に第二高等中学校本科を出て、東京帝国大学英文科の入学。1895年(明治28)同校を卒業後は松山中学などに勤務した。その後は、第二高等学校の教授を経て、1928年(昭和3)9月から1932年(昭和7)3月まで、第18代目の校長をつとめた。
 二高では歴代の校長の栄誉をたたえるために、退任後に肖像画を学校に残すのが慣例であり、それを安井に依頼することにした。当時の二高には、小宮のほかに、安井をよく知る児島喜久雄や太田正雄(木下杢太郎)がいて、彼らも進んで推薦した。
 安井は仙台まで出かけ、ホテルに泊まりながら玉蟲先生の自宅でスケッチをすることになった。朝10時に行き正午までポーズ。昼食は近くの東三番町のカフェで食べ、そのあと夕方遅くまで描く毎日だった。玉蟲先生は仙台藩の家老の血筋をひく人で、古武士のような性格と風貌の持ち主で、長いポーズの間も身じろぎひとつしなかった。ポーズは9日間ほどで終わったが、その間、先生は一度も絵を見ようとしなかったという。
 安井は《金蓉》や《玉蟲先生像》を描く前年、1933年1月に「美術新論」に載せた「私のレアリズム」でこう語っている。
「自分はあるものを、あるが儘に現したい。迫真的なものを描きたい。本当の自然そのものをカンバスにはりつけたい。樹を描くとしたら、風が吹けば木の葉の音がする木を描きたいし、歩くことが出来る道路を描きたい。自動車が通っている道をかくのだったら、自動車の通る道を描きたい。人の住むことの出来る家、触れば冷たい川、湖水の深さまで現したい。人ならば、話し、動き、生活する人を描きたい。その人の性格、場合によっては職業まで充分現したい。」
 こうした考えのもとで、《玉蟲先生像》は完成した。まさに玉蟲先生の古武士然とした性格や、教師という職業に長年いそしんだ経歴がにじみ出るような作品だった。ところがこの絵に関しては面白いエピソードが残されている。俳人水原秋桜子が、評伝『安井曽太郎』(石原求龍堂、1944年)の中で、小宮豊隆の聞き書きとして伝えているものである。
d0238372_15375948.jpg 「安井君の玉蟲先生像は先生が二高の校長をやめられた時、記念として学校から依頼したもので、これは二高の教授と学生とが集まる割合小さな部屋に今も掲げてありますが、あれとは別に小さな肖像画を先生自身にさし上げることになってゐました。それが二高に着いたときにね、荷を解いてこの画を見た事務員が思はずぷつと噴き出してしまったといふのです。つまり事務員の眼には戯画のやうに見えたのでせうね。これは大変とだといふので、すぐに校長のところへ持ってゆくと、校長の阿刀令造氏も一眼見ておどろいて、そのまゝ画をしまひ込んで人に見せなまったといふのです。」――
 これからが面白い。校長さんはその後毎日食堂に出る毎に、集まる諸教授をとらへて、安井曽太郎の偉さを説明しはじめた。まづ二科会が日本の洋画界で最も清新溌剌たる団体であること、その二科の中でも特に安井曽太郎の傑出した作者であること、又、かつて滞欧作がいかに大いなる刺激を画壇に与へたかといふこと、その他数々の例をあげて、教授諸氏に予備知識を与へたのである。一般に何処の学校でも、教授たちはあまり油画に関心を持たぬから、当時二科の画風を知ってゐる先生などおそらく一人も居なかったであらうと想像される。そこに校長の苦心もあったわけであるが、そのうちに東京朝日紙上に児島喜久雄氏の執筆した二科展評が出て、「玉蟲先生の肖像」は非常に好評であったから、校長も時到れりとばかりに、はじめてかの画を公開したのださうである。
 しかし、この苦心の予備説法がどれ程役に立ったか? それはたいてい想像できることで、おそらくは不思議な表情をしつゝ、兎見角見(とみこうみ)した人が多かったことゝ思はれる。そこに描かれた玉蟲先生自身も、あまり会心の笑みを洩らされなかったさうである。」
 だが安井曽太郎に肖像を描いてもらうことは願ってもない名誉なことであった。その証拠に、安井が依頼されて描いた記念肖像画は、《玉蟲先生像》の他は次の5点を数えるだけである。
《本田光太郎肖像画》 1934年、東北帝国大学在職25周年記念
《深井英五氏像》   1937年、日本銀行総裁退官記念
《徳川圀順氏肖像画》 1948年、貴族院議員退任記念
《大内兵衛像》    1950年、還暦記念
《安倍能成君像》   1953-55年、古稀記念
 いずれも安井芸術の高い完成度を示す傑作である。
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by monsieurk | 2015-04-13 22:30 | 美術 | Trackback | Comments(0)