フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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カテゴリ:音楽( 8 )

男と女――第八部(1)

 文学報国会

 三千代が帰国した一カ月後の一九四二年五月、日本文芸家協会を解散して、文学者の戦争協力を目的とする「日本文学報国会」が結成された。岸田國士が部長をつとめる大政翼賛会文化部が斡旋して二月初めに作家たちが準備会をつくり、名称などを検討したものであった。その後、時流を考慮して「日本文学報国会」とすることを決め、五月二十六日に設立総会を開いた。
 会長は徳富蘇峰、常務理事、久米正雄と中村武羅夫という体制で、六月十八日には、東条英機首相、谷正之情報局総裁を招いて発会式を行った。日本文学報国会のなかには詩部会も設けられ、部会長に高村光太郎、理事には川路柳虹と佐藤春夫がなり、会員は三百三十九名でを数えた。この国のほとんどの詩人が所属し、金子も会員になった。こうして文学者を国家に協力させる体制が確立された。
 六月には中山省三郎編集のアンソロジー『国民詩』第一輯(第一書房)が刊行された。河井酔茗の「赤道祭」のほか、川路柳虹、百田宗治、田中冬二などの五十九篇が掲載された。開戦直後の勝利で、戦争の前途に疑問をもたない民衆の高揚感を代弁する作品がほとんどだった。
 七月二十一日、文学報国会から金子の許に、南方の事情を知っているという理由で、「大東亜文学者大会の準備委員会」に出席しろという手紙が届いた。大会の目的は、「大東亜戦争のもと、文化の建設という共通の任務を負う共栄圏各地の文学者が一堂に会し共にその抱負を分かち互いに胸襟を開いて語ろう」というものだった。準備委員は、三浦逸雄、春山行夫、川端康成、奥野信太郎、河盛好蔵、林房雄、飯島正、一戸務、吉屋信子、細田民樹、中山省三郎、木村毅、草野心平、高橋広江、張赫宙、それに金子光晴の十六人だった。
 金子はこの準備会の様子を克明に覚えていて、戦後に書いた『絶望の精神史』のなかで次のように述べている。
 「もともと僕は、いつ文学報国会というものができたかも知らなかった。まして、それがどんなものか、内容を知るはずはなかった。その報国会から出席しろという手紙が来たので、とにかく出かけてみた。行ってみると、十人ぐらいの人が集まっていた。つきあいのわるい僕には、どれも新顔で、わずかに細田民樹の顔だけがわかっていたので、挨拶した。十年以上まえに、借金にいったことがあったのだ。塩田良平という人の顔もあったようだ。
 その日の会議は、中国、タイ、安南、インドネシアなどのいわゆる大東亜共栄圏の文化人を日本に呼んで、文学者大会をやることについて、そのスケジュールを相談することであった。内実は、日本の軍の威力を誇示しようという、当局の意図らしかった。まわりの人の空気で、僕は、自分の来る場所ではなかった、とおもった。文学報国会の会長である久米正雄(実際は常務)は、軍の報道部のなんとか大佐のところへ呼ばれて、遅れて来るというのだった。
 やがて会長が顔をあらわすと、会議が進行しはじめ、各国の文化人を引きつれて、日光とか、京都とかのほかに、戸山学校だとか、霞ヶ浦だとか、軍の威容を見聞させようというプランが立てられた。それは、報道部の大佐から久米会長が、いましがた注ぎこまれてきたもので、軍としては、その軍の威容を誇ることのほうが主眼らしかった。
 僕には、いずれも、どうでもよいことばかりだったが、アジア諸国の文化人が到着すると、まず最初に、宮城前に連れていって遥拝させ、同時にすりものにして八紘一宇の精神の説明書を朗読させ、日本精神を徹底してたたきこむというところにきて、僕は当惑した。
「その精神は、日本人には、かえがたいものかもしれないが、他国の文化人には、なんのかかわりもないもので、おそらく理解できないであろう。その部分は削除すべきではないか。」
と、ひと言口にすると、騒然として、なかでも、そこで初対面の中山省三郎という男が隣席からむき直り、けわしい目つきで僕をとがめ、「他国の文化人ではない。天皇の御稜威(みいつ)のもとに集まる、共栄圏の人たちだ。」
と、食ってかかるのであった。
 名は知らないが、中国研究家という一人の男が、
「それは、このかたの言うとおりで、中国人にも通じないことです。やめたほうがいいですね。」と、ひとりだけ僕に賛成してくれた。
 中山という男は、僕がヨーロッパを放浪しているあいだの日本で売り出した、文士の一人らしく、どんな人間で、どういう仕事をしている人間かすこしも知らなかった。その態度は傲慢で、おもいあがりで、まことに肚に据えかねるものがあったが、もともと気の弱い僕のことであるから、それ以上逆らわず、退散した。帰り道、細田さんといっしょだった。
 細田さんは、「僕なんか、もう老朽で、なにも口出しできませんよ。」と言った。おそらく、ばかなことに盾ついて、ばかな目をみないようにと、年長者の親切で、忠告をしてくれたつもりらしかった。僕もそれに感謝した。」(『絶望の精神史』)



 
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by monsieurk | 2017-04-12 22:30 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

ジョルジュ・ミゴその後

 フランスの音楽家ジョルジュ・ミゴが作曲した《日本の7つの小さなイメージ》(Sept petites images du Japon)について書いたブログ(「フランスで楽曲になった惟然」、2015.07.27、07.30、08.16)を読んだ持橋章子さんから連絡をいただいた。
 持橋(旧姓、根来)さんは、平成10年度、お茶の水女子大学大学院人間文化研究科博士前期課程人文専攻に、修士論文『ジョルジュ・ミゴとジャポニスム――《Hagoromo》を例として――』を提出して修士号を取得され、現在は鎌倉女子大学などで講師をされていている。その後メールを交換した末に、上記の修士論文と論文「近代フランス音楽における日本の表象――ジョルジュ・ミゴ《Hagoromo》を例として――」(比較日本研究センター研究年報第4号)のコピーを送っていただき、ジョルジュ・ミゴについて数々のご教示にあずかった。
 修士論文は第1章で、ヨーロッパとくにフランスの音楽分野における「ジャポニスム」の影響を概観し、第2章では、ジョルジュ・ミゴが1922年に作曲した《Hagoromo》の成立の背景や作品の分析を通して、日本文化がフランスでどのように受容され、影響をあたえたかを具体的に分析した大変示唆に富むものである。持橋さんの問題関心は、たとえば次のような記述から読み取ることができる。
 「「ジャポニスム」という用語については、やはり美術研究における意味と音楽研究におけるそれとはかなりその内容に相違があると言える。つまり、美術の世界では「ジャポネズリー〔日本(骨董)趣味、日本美術品〕」が時代の推移にしたがって、「ジャポニスム〔日本趣味〕」へと質的な転換をしていったが、この場合、影響源は美術の世界の内部にあるものである。ところが、音楽の世界では、その影響源は日本の音楽ではなく、外部、すなわち美術品や文学によるところが大きい。そのため、「ジャポネズリー」という用語は美術用語をそのまま転用しても問題はないが、音楽における「ジャポニスム」となれば、美術研究とは別な概念の定義が必要になってくる。 / そのためには、具体的な作品の研究をすすめることで、徐々に概念を明確化していくしかない・・・」
 こうした意図のもとで、持橋さんは先行研究も多いドビュッシーやストラヴィンスキーではなく、「(彼らと)時代的にそう遠くない作品を選択した。また、松本太郎の報告書に見られるほとんどの作曲家が日本的作品を一曲ずつしか書いていないのに対し、ミゴは三作品書いている。そのため他の作曲家と比べて、本人を取り巻く日本文化の様相が見えやすいと判断したことも、ミゴの作品を取り上げた理由である。そのなかでも特に《Hagoromo》に焦点を当てたのは、《Hagoromo》は舞台作品であり、テクスト、音楽に加えて、舞台美術等も検討材料にできるため、より詳細な検証が可能であると判断した」ために、ジョルジュ・ミゴの《Hagoromo》を研究対象に選んだ。
 こうしてミゴが《Hogoromo》で用いたテクスト、作曲した旋律、舞台装置、衣装などの詳細な分析を行い、そこからミゴ(および台本制作の協力者、ルイ・ラロワ(Louis Laloy))が、どのような形で日本文化を取り込んだのかを明らかにしている。
 分析過程を一つ一つ紹介できないのは残念だが、例えば用いられたテクストは、1914年に雑誌Quaterly Reviewに掲載されたフェノロサによる英訳を仏訳した可能性を探った上で、最終的には、《Hagoromo》のテクストも、《Sept petites images du Japon》を作曲する際に彼が用いた、Michel Revonの“Anthologie de la Littérature Japonaise des origines au ⅩⅩe siècle”からの引用であることを確認している。
 舞台装置に関しては、フランス東部の街ストラスブールに本拠を置く、「ミゴ友の会」(Les Amis des œuvres et la pensée de Georges Migot )の事務局長で音楽学者のマルク・オネゲル氏(Marc Honegger)と直接コンタクトをとり、ミゴは舞台装置をイメージするに当たって、何か特定の浮世絵を用いたことはなかったとの証言を得ている。この点では、交響曲《海》(La mer、1905)の楽譜の表紙を北斎の浮世絵で飾ったドビュッシーとは異なっている。持橋さんはこの違いから、「ミゴがこのような方法をとらず、直接的な表現からむしろ遠ざかった、というところに時代の変化が感じられる」としている。
 本橋論文では、マルク・オネゲル氏からもたらされた貴重な資料が活用されているが、1922年のモンテカルロでの公演で、天人を演じたソニア・パブロフの写真、1938年3月10日にナントでの上演の際の舞台写真やチラシ、新聞記事などがあり、さらにはミゴ自身が創作した自筆の短歌(短歌形式の短詩)2首の自筆原稿のコピーも含まれている。持橋さんに寄せられたマルク・オネゲル氏の情報では、ミゴは“Académie du tanka”(短歌アカデミー)で、実際に短歌を創作して楽しんだとのことである。
 事実、20世紀初めのフランスでは、文化人の一部で日本の短歌や俳句が一種のブームとなり、音楽の分野でも、ミゴだけでなく直接間接に日本から影響を受けた作品が数多く創作された。これについては、持橋さんが付録として掲げている、松本太郎「仏蘭西樂界に現はれた日本(資料)――日本的作品の年代的記録――」、(『音樂研究 第2号』、東京:日本音樂文化協會、1943)が詳しい。ここにはアンドレ・メサジェールの《お菊夫人》(MESSAGER, André: Madame Chrysanthème) にはじまり、70余りの作品が列挙されている。しかもそのうちの9つは、日本の短歌や俳句の翻訳をテクストにした作品で、ミゴの《日本の7つの小さなイメージ》もその1つである。
 持橋さんはこう述べている。「これ〔松本による資料〕を見ると、1912年のストラヴィンスキーに端を発し、1920年から1925年にかけてはブームと言っていいほど多くの作品が発表されている。 / この背景には、ヨーロッパにおいて進んだ短歌、俳句の翻訳と受容がある。(中略)他の作曲家の作品に頻繁に用いられている翻訳は、ポール・ルイ・クーシュウ(COUCHOUD, Paul-Louis 1879-1959)による“Sages et poètes d’Asie”(「アジアの賢人と詩人」)(1916)である。このなかに”Les épigrammes lyriques du Japon”(「日本の抒情的風刺詩」)という一章があり、俳句の仏訳がされている。このクーシュウの訳詩に曲がつけられているのがジャック・ブリュアンの《Quatre Haї-Kaї》(「4つの俳句」)、クロード・デルヴァンクールの《Ce monde de rosée――14 ‘Uta’anciens》(「露のこの世界――14の昔の‘歌’」)、ジャック・ピロワの《Cinq Haї-Kaї――Epigrammes lyriques du Japon》(「5つの俳句――日本の抒情的風刺詩」)である。(中略) 当時はミゴのなかに俳句や短歌がかなり具体的なかたちで入ってくる状態であったことは確かだといえる。」
 持橋さんは修士論文とともに、ミシェル・ルヴォンの初版本(国立国会図書館蔵)の惟然の句の部分をコピーして送ってくださった。ルヴォンの翻訳は初版以来一切変更されておらず、結果として、ジョルジュ・ミゴが用いた惟然の句の訳の出どころは相変わらず不明のままである。ただ持橋さんの論考によって、ミゴが短歌形式の短詩を創作していたことが明らかとなり、以前のブログで推察したように、ミゴ自身が惟然の句のルヴォン訳に手を加えた可能性が高まったと言えるかもしれない。
 持橋さんの論文では、《Hagoromo》の楽譜に沿って音楽の特徴が分析されている。結論の部分だけを引用すれば、――
 「《Hagoromo》には、「舞踏的、抒情的、装飾的、多線的、多形的」というミゴ自身の説明のように、新しい音楽の状態を目指すミゴの音楽的方向性がみられた。それは、デコール〔背景装置〕の流動性と、倍音の効果の重視の二点に凝縮される。デコールを人間に担当させたり、空から降らせるなど重力と空気に委ねたことは、移ろいゆく物事の様相をひとつの作品のなかで表現するためのミゴ独自の方法であった。」、「倍音あるいは共鳴によって、楽譜に書かれた音と書かれていない音の両方を引き出し、音楽の要素としたミゴの意図はやはり、「多線的、多形的」なシンフォニー、「可塑的」なシンフォニーを構成することであった。倍音によって旋律線は様々な線を描く。つまり旋律は単独では存在せず、絶対的なものではない。ここでは倍音、共鳴、といった基盤の上にのせられた旋律であるということが意味をもっているといえよう。楽譜に書かれている音は、あらゆる規則から解放されているとはいえ、半音という音程の規則には従わざるを得ない。そのような旋律単独の存在よりも、倍音から得られる書かれていない音の可能性に重点を置いていたミゴの音楽は、のちにあらわれる微分音楽への方向性をも示していると言えよう。 / このようなミゴの音楽には、日本的要素はそれと分かる形であらわれているとは言いにくい。そのようななかで唯一、謡曲の影響かと思えるのは終結部の楽器のあつかいと、曲の後半に向かってテンションが高まっていく日本の序破急の概念に似た展開である。ただしこれは、ミゴが実際に能を見たという事実が明らかにならないため推測の域を出ない。」
 ではミゴはなぜテーマに日本の謡曲「羽衣」を選んだのか。「ミゴが新しい音楽の試みをおこなうとき、その素材として求められていたものと、日本の題材がうまく重なった結果であるといえよう。それは霧や雲がかかる山山であり、揺れ動く波であり、花が空から舞い落ちるような風景であった。」
 このようにミゴの《Hagoromo》は、ドビュッシーやプッチーニがその音楽に日本的要素を直接取りこんだのとは違い、日本の文化がフランスの音楽家の内面に働きかけ、それが創造の根源にまで作用して新たな芸術作品を生み出したジャポニスム――その典型がジョルジュ・ミゴの《Hagoromo》であった、これが持橋章子さんの結論である。その意味では、短歌や俳句の翻訳を直接テクストに用いた《日本の7つの小さなイメージ》(Sept petites images du Japon)は、これに至る一里塚と位置づけることが出来るかも知れない。
 なお、これも持橋章子さんのご教示によるが、「ミゴ友の会」(Les Amis des œuvres et la pensée de Georges Migot )は、現在もストラススブールで活動を続けていている。ホーム・ページはhttp://georgesmigot.info。ただ主催者は、Marc Honneger (彼は音楽学校でミゴから教えを受けた)から、作曲家のEmmanuel Honnegerに代わっている。子息かと思われる。
 
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by monsieurk | 2015-11-05 22:30 | 音楽 | Trackback | Comments(0)
 フランス図書の近藤文智さんの力添えで、ミシェル・ルヴォンの『日本文学選集』(Michel Revon:Anthologie de la littérature japonaise)の第3版(1918)と第6版(1928)を入手することが出来た。残念ながら1910年に刊行された初版は未見だが、3版と6版の間にページ割りにいたるまで、まったく異同がなく、これから推察すると各版とも初版を踏襲している可能性がきわめて高い。
 そこで手許にあるジョルジュ・ミゴの『日本の7つの小さなイメージ―平安時代((9世紀)から引用』(Georges Migot : 7 PETITES IMAGES DU JAPON, Tirées du Cycle de HEIAN, (Ⅸe siècle))の歌詞と、ルヴォンの訳とを比べてみることにする。
 上が、ミゴが曲をつけたテクスト、下がルヴォン訳で、7番目の山辺赤人の「春の野に すみれ摘みにと来し我ぞ 野をなつかしみ 一夜寝にける」の訳は、ルヴォンの翻訳中には見当たらない。



Comme la rivière Minano
Tomabant du Mont Tsoukouba,
Mon amour, en s’accumulant,
Est devenu une eau profonde.

Comme la rivière Minano
Tombant de la cime
Du mont Tsoukouba,
Mon amour, s’accumulant,
Est devenu une eau profonde. ( EX-EMPEREUR YÔZEI p.113)



Il est triste
Que ce chemin nous sépare !
C’est la destinée.
Je voudrais poutant vivre
Cette vie ― avec vous.

Il est triste
Que ce chemin nous sépare :
C’est la destinée !
Je voudrais pourtant vivre
Cette vie (avec vous) ! (MORT DE KIRI-TSOUBO p.183)



Au vent d’Automne
Ne pouvant résister
Se dispersent les feuilles d’érables.
Où vont ells ? on ne sait !
Et moi je suis attristé.

Au vent d’automne
Ne pouvant résister, se depersent
Les feuilles d’érable.
Où vont-elles ? On ne sait.
Et moi, je suis attisté. (KOKINSHOU p.145)



L’averse est venue ;
J’étais sorti et je rentre en courant.
Mais voici le ciel bleu.

L’averse est venue;
Je suis venu et rentre en courant;
Le ciel bleu est venu ! (IZEMMBÔ p.393)



Durant cette nuit longue,
Longue comme la queue du faisan doré
Qui traîne sur ses pas,
Dois-je dormer solitaire !

Durant cette nuit longue, longue
Comme la queue tombante
Du faisan doré
Qui traîne ses pas,
Dois-je dormer solitaire ? (HOTOMARO p.87)



Seulement parce qu’elle m’avait dit :
《Je reviens tout de suite.》
Je l’ai attendue, hélas !
Jusqu’à l’apparition de la lune de l’aube
Du mois aux longues nuits.

Seulement parce qu’elle m’avait dit :
《Je reviens tout de suite》,
Je l’ai attendue, hélas ! jusqu’à l’apparition
De la lune de l’aube
Du mois aux longues nuits ! (LE BONZE SOCEI p.111)



Sur la lande printanière
Pour cueillir des violettes
Je me suis aventuré.
Son charme me retint tellement,
Que je suis resté jusqu’au matin.

 両者を比べると、惟然の句の訳に関しては文言の違いがあるものの、他のテクストでは、陽成帝と柿本人麿の歌の訳に、それぞれ、“de la cime”(高嶺から)と“tombante”(垂れる)が加えられている以外は、句読点、カッコ、感嘆記号などの異同である。このことからも、ミゴがルヴォンの翻訳を用いと推測してほぼ間違いない。だが、惟然の句の訳の違いがなぜ生じたかはやはり気にかかる。

 ここまで書いたところで、フランスからW.G.Astonの書いたThe history of japanese Literature のフランス語訳、Littérature Japonaise par W. G.Aston traduction de Henry-D. Davray(Librairie Armand Colin,1902)が届いた。この本のLe Manyociouの項の内のP.43-44に、ミゴが7番目に置いた山辺赤人の訳が以下のように載っている。

Sur la lande printanière,
Pour cueillir des violettes,
Je me suis aventuré.
Son charme me retint tellement
Que je suis resté jusqu’au matin.(AKAHITO)

 ミゴとの違いは句読点だけで、これから見ても、ミゴがアストン訳(正確にはヘンリー・D.ダヴレーの仏訳)を参照にしたと考えてまず間違いない。やはり残るのは惟然の訳の出どころである。(続)
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by monsieurk | 2015-08-16 22:30 | 音楽 | Trackback | Comments(0)
 ミシェル・ルヴォンは1896年(明治29年)一度フランスに帰国し、そのときにパリ大学(ソルボンヌ)に『北斎研究』(Etude sur Hoksai)と『日本の華道について』(De arte florali apus Japonenses)という2つの論文を提出して、文学博士号を取得した。その後、日本で契約期間まで任務を全うすると、1899年(明治32年)に帰国した。そしてパリ大学で極東諸国歴史文明講座の嘱託講師となり、1919年には日本歴史文明講座の助教授、翌1920年には同講座の正教授となった。
 先に挙げた『日本文学選集、起源から20世紀まで』は、ソルボンヌの講師だった1910年に初版が刊行され、その後幾度か版を重ねた。副題の通り、古事記から源氏物語、枕草子などの物語、あるいは万葉から古今、新古今などの和歌、江戸時代の俳諧、本居宣長などの国学等、日本の文学史をたどりつつ、主な作品のさわりをフランス語に翻訳した大著である。
 欧米への日本文学の紹介としては、イギリスの外交官で日本研究者のウイリアム・ジョージ・アストン(William George Aston、1811-1911)が、1899年に横浜で刊行した“The History of Japanese Litterature”(『日本文学史』)やドイツ人カール・フローレンス(Karl Florenz、1865-1939)の ”Geschite der Japanischen Litteratur”(Amelangs Verlag、1906)(『日本文学史』)があり、さらにバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain、1850-1935)は俳句を初めて英訳して紹介した。ルヴェンの仕事は時代的には若干後のものだが、平安時代に重心を置きつつ、日本の文学史をもれなくカバーしている点で画期的なものである。
 ルヴォンの原著は、法政大学などいくつかの図書館に所蔵されており、インターネット上には、アメリカ・ヴァージニア大学所蔵のものが、グーグルによって電子化されて公開されている。
 これによると、「徳川時代の詩」の部分で俳諧が取り上げられていて、芭蕉一門の十傑以外の一人として、杉風に次いで惟然の一句が、393ページに翻訳されている。
 そのくだりは、「《十傑》以外にも、芭蕉一門には他にも代表するものがいた。例えば、

        SAMMPOU(杉風)

Comme vont attendre ses enfants,
Pendant que s’élève si haut,
A l’excès, l’alouette!      

        IZEMMBO(惟然坊)

L’averse est venue;
Je suis venu et rentré en courant;
Le ciel bleu est venu!

とあって、惟然の句の注に、「彼もまたその習俗(裕福で、放浪のうちに人生を送った)や詩句の点で独特の詩人である。そしてその思想を、出きる限り少ない言葉で表現することにこだわった。その例がここに引用した句である」とあり、日本語の原詩を、

Shigure kéri
Hashiri-iri kéri
Hare ni kéri.

 と引用している。
 ルヴォンも言うように、広瀬惟然は慶安元年(1648年)に、美濃国(現在の関市)の酒造家の三男に生まれ、14歳で名古屋の商家、藤木屋へ養子に入った。だが貞享3年(1686年)、39歳のとき妻子を捨てて関に戻り、出家。そして2年後の貞享5年、松尾芭蕉が「笈の小文」の旅を終えて、岐阜に逗留した折に出会って門下となった。
 翌年、「奥の細道」の旅を終えた芭蕉を大垣に訪ね、その後は関西に滞在して芭蕉に近侍した。晩年は美濃に戻って暮らした。関市立図書館には、芭蕉と惟然の連句の碑が建っているという。惟然の没年は宝永8年(1711年)で、『惟然坊句文集』がある。
 このようにミシェル・ルヴォンの『日本文学選集』には、音楽家ジョルジュ・ミゴが7人うちの1人に選んで作曲した惟然の句が確かに紹介されている。ただ困惑するのは、ミゴが曲をつけたフランス語訳がルヴォン訳と若干異なっていることである。
 ミゴが用いた訳は、

L’averse est venue;
J’était sorti et je rentre en courant,
Mais voici le ciel bleu.

 である。この違いからは、二つのことが考えられる。ミゴがルヴォン以外の別の出典に依ったか、あるいはルヴォンが1910年の初版以後に改訳したかである。私が参照したヴァージニア大学の版は、1923年刊行の第三版で、ミゴが参照した可能性がある1910年の初版は未見である。
 ミゴが用いた訳の2行目と3行目は、逐語訳すれば「わたしは出かけていて、走って帰る、/ だが今はほら青空。」となり、ルヴォンの1923年の訳、「わたしはもどり走って帰った、青空が戻った!」よりも理屈っぽく、後者の方が、「venu(venir「やってくる」という動詞の過去分詞)」を繰り返している点でも、惟然の原句が「ケリ」を3度繰り返しているのを踏襲していて、改訳の可能性を感じさせる。いずれにせよ、1910年の初版に当たってみることが急務である。
 ミゴの楽譜には、「日本の7つの小さなイメージ」という表題に続けて、「Tirées du cycle de Heian(Ⅸ Siècles)」(平安時代(9世紀)から抜粋)という但し書きが添えられている。しかし言うまでもなく、惟然は江戸時代の俳人であり、その他の作品も万葉集など平安時代以外の和歌も選ばれている。一方ルヴォンの『日本文芸選集』は、時代考証に間違いはないから、もしルヴォンを典拠と考えると、なぜこうした混乱が起こったかが分からない。そもそもミゴは、何を基準にして7つの詩を選んだのか。ミゴは他に何か参照するものを持っていたのだろうか。目下のところは結論を出せずにいる。
 なお関市では、図書館が中心になって、ジョルジュ・ミゴの歌曲を、ピアノの伴奏で歌う計画が進行中だという。そのときまでには、なんとか疑問を解いてみたいと考えている。

 これから2週間ほど、ヴァカンスのためブログを休載する。(M.K.)
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by monsieurk | 2015-07-30 22:30 | 音楽 | Trackback | Comments(0)
 岐阜県関市の市立図書館の知人から、メールで相談をうけた。内容は、当図書館にフランスの音楽家ジョルジュ・ミゴなる人物の楽譜が所蔵されており、そのなかに関市出身の江戸時代の俳人、広瀬惟然の俳句を翻訳したと思われるフランス語の詩に曲がつけられている。なぜ当地出身の俳人の句が、フランス語に翻訳され、しかもそれに曲までつけられるにいたったのか。それを知りたい。なにか心当たりはないか、というものであった。
さっそく調べてみることにした。
 ジョルジュ・ミゴ(Georges Migot、1891-1976)は、今ではフランスでも忘れられた作曲家だが、19世紀末の1891年にパリで生まれ、18歳でパリ音楽院に入学して、シャルル・ヴィトールに作曲法を習った。さらに管弦楽法も習得し、オルガン奏者としても名をはせた。
 当初はガブリエル・フォーレの影響を受けて、後期ロマン派の作風を得意としたが、1920年以降は中世の多声様式に傾倒して多くの曲をつくった。
 その作品は、オペラ、管弦楽、室内楽、ピアノ曲、歌と合唱など多岐にわたり、関市図書館に楽譜が保存されている作品は、ミゴが1917年につくった、「7 Petites images du Japon(日本の7つの小さなイメージ)」というピアノの伴奏による歌曲である。詩は表題の通り、日本の和歌や俳句を翻訳した短詩に曲をつけたもので、惟然の俳句は4番目にある。
 7つの短詩は、一番目が、後撰和歌集の陽成院の和歌、「つくばねの みねよりおつる みなのがわ こひぞつもりて ふちとなりぬる」で、これが

Comme la rivière Minano
Tombant du Mont Tsoukuba,
Mon amour, s’accumulant,
Est devunu une eau profonde.

 と訳されている。
 以下、「源氏物語」で桐壷更衣が読む、「かぎりとて 別かるる道のかなしきに いかまひしきは 命なりけり」、「古今和歌集」の詠み人しらずの歌、「秋風に あへずなりぬるもみじばの ゆくへさだめぬ 秋ぞかなしき」、そして4番目が惟然の句で、

 「時雨けり走入りけり晴れにけり」が、

 L’averse est venue,
 J’était sorti et je rentre en courant,
 Mais voici le ciel bleu.

 と訳されている。逐語的に再度日本語にしてみれば、

 にわか雨が来た、
 私は出かけていたが走って戻る、
 だがいまは青空。

 とでもなろうか。
そして、5、6、番目はそれぞれ「万葉集」から柿本人麻の「あしびきの やまどりのおの・・・」、「古今和歌集」の素性法師の、「いまこむと いひしばかりに ながつきの ありあけのつきを まちいでつるかな」、そして最後の7番目が「万葉集」から山辺赤人の歌、「春の野に すみれ摘みにと 来し我ぞ 野をなつかしみ 一夜寝にける」となっている。
 問題はミゴがこれらの翻訳をどこで知ったか、出典は何かということである。ミゴの作曲が1917年ということを考えると、まず考えられるのは、1910年にパリで刊行されたミシェル・ルヴォンの”Anthologie de la litterature japonaise, des origins aux XXe siècle”(Librairie Delagrave、1910)、『日本文学選集、起源から20世紀まで』(ドラグラーヴ書店刊、1910年刊)である。
 ミシェル・ルヴォン(Michel Revon、1867-1947)は日本と深いつながりを持っている。彼はスイスのジュネーヴで、フランス人の父とスイス人の母の間に生まれ、父はジュネーヴから国境をフランス側へ越えたすぐのところにあるアヌシーの博物館に勤務していた。
 ミシェル自身はアヌシーから近いフランスのグルノーブル大学で法律を学び、法学士号を得た後、パリに出て検事局に職をえて、法律家としての経験をつんだ。
 そんな折、日本で政府の法律顧問をしていたギュスターヴ・ボアソナードが役職を去るに当たって、彼を後任に推薦してくれたのである。ボアソナードは来日前にグルノーブル大学で教鞭をとったことがあり、そうした縁であった。
 こうした経緯でルヴォンは1893年(明治26年)に来日し、東京帝国大学で法律を講じるとともに、司法省の法律顧問となった。さらに和仏法律学校(法政大学の前身)でも教鞭をとった。
 ルヴォンは職務のかたわら日本の文化に関心をもち、日本に滞在していたときから日本の文化や文学に関する著作を発表した。(続)
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by monsieurk | 2015-07-27 22:30 | 音楽 | Trackback | Comments(0)
 4月24日は忙しい一日だった。日中は六本木の新国立美術館で開幕した「貴婦人と一角獣」の展覧会を観て、一度帰宅した後、夜は降り出した雨のなかをミューザ川崎シンフォニーホールへ、3・11の震災後初めてのパイプオルガンの演奏会を聴きに行った。
 震災で天井が崩落したシンフォニーホールの改修には2年がかかり、今年4月にようやく再開にこぎつけたのである。崩落の原因については第三者委員会による調査報告が先ごろ公表されたが、川崎市と施工主との間の賠償交渉はまだ決着をみていない。
 川崎シンフォニーホールのパイプオルガンはスイスのクーン社製で、技術者が2004年3月に来日し、2カ月かけて5248本のパイプを組み立てた。ストップの数は71あり、5500通りのコンビネーションが演奏可能だという。ホールにはほかにフランス・ガルニエ社製のポジティヴ・オルガン1台がある。ポジティブとは持ち運びができるという意味で、この形式のオルガンは14世紀から15世紀に開発されて、貴族のサロンや小さな礼拝堂などで用いられた。足は用いずに手だけで演奏する一段鍵盤のオルガンである。震災でホールが使えない間、このポジティヴ・オルガンはいろいろなところへ運ばれて活躍したという。
 再開を記念する演奏会は、松井直美と近藤岳の二人のオルガニストの手で行われた。松井は国立音楽大学、西ドイツ国立フライブルク音楽大学で学び、2004年からはミューザ川崎シンフォニーホールのアドヴァイザーをつとめている。近藤はホールが開館した時からのホール専属のオルガニストをつとめてきた。東京藝大の音楽部作曲家を卒業ののち、修士課程では音楽研究科でオルガン演奏を学び、パリ・ノートルダム大聖堂の正オルガニスト、フィリップ・ルフェーブルに師事した経験もある。
 幕開きはヴィヴァルディの『四季』から「春」の第一楽章、第二楽章、第三楽章を、松井のアクティヴ・オルガン、近藤のリモート・コンソールによる大オルガンの合奏だった。春の季節にふさわしく、また再開の喜びをこめた選曲だった。
 次の『薄紅の刻』は、2010年に近藤岳が築地本願寺別院の委嘱をうけて作曲したもので、東洋的な静謐さをたたえた旋律で、鈴を思わせるフィンガー・シンバルが効果的に用いられていた。築地本願寺は仏教寺院には珍しくパイプオルガンが設置されていて、ときどきオルガンの演奏会が行われる。
 その他の曲目は、バッハより少し前の時代に活躍した作曲家、N・ブルーンスの『プレリューディウム ト長調』、シューマンの『ペダル・フリューゲルのための練習曲』、J・S・バッハのおなじみの『トッカータとフーガ ヘ長調 BWV540』、そして後期ロマン派のM・レーガーの『バッハの主題による幻想曲とフーガ op.46』で、期せずして時代を異にする5人のドイツ人作曲家の作品を聴き比べる結果になった。個人的には、楽器の王様と称せられるパイプオルガンの能力をすべて引き出した形のレーガーの曲に圧倒された。その余韻を耳に残しつつ雨の中を家路についた。幸せな一日だった。
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by monsieurk | 2013-04-28 23:10 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

三浦一馬

 気鋭のバンドネオン奏者、三浦一馬の演奏会が近くの市民館であった。今年21歳の三浦は、NHKテレビの「フロントランナー」でも取り上げられた注目株で、昨夜の演奏会も期待にたがわぬ刺激的なものだった。
 前半はアルゼンチンの巨匠アストル・ピアソラ(Astor Piazzolla)の曲で、幕開きからの3曲はピアノ(BABBO)とのデユオ。三浦のバンドネオンはタンゴ特有の哀愁を帯びたメロディーを刻み、とくに2曲目の「アディオス・ノニーノ(Adiós Nonino)」は烈しい旋律ではじまり、やがて抒情的なメロディーを繊細な奏法で奏でた。青と赤だけの単純な照明が現地のバルの雰囲気をかもしだし、伸び縮みするバンドネオンの縁に当たった光がときおりきらめく。
 三浦は1990年にピアニストの両親のもとで東京に生まれ、幼いときに一時イタリアに滞在した経験をもつ。パンフレットにある経歴によれば、10歳のときにバンドネオンの音楽を聴いて衝撃をうけて、日本人奏者の小松亮太に師事した。その後2006年に別府アルゲリッチ音楽祭で、現在バンドネオン界の最高峰といわれるネストル・マルコーニ(Nestor Marconi)と出会ったことが転機になったという。
 16歳の彼は自作のCDを売って渡航費を捻出すると、アルゼンチンに渡りマルコーニに師事した。2年前の1999年にイタリアで開かれた国際ピアソラ・コンクールで日本人初、史上最年少で準優勝をはたし、一躍国際的にもその名前を知られることになった。
 バンドネオンは「悪魔の楽器」といわれるほど習得が難しいという。1847年にドイツ人ハインリッヒ・バンドがアコーデオンの影響のもとで考案したもので、左右にある70個ほどのボタンを操作し、蛇腹を伸び縮みさせて空気を送りこんでリードを震わせて音をだす。アコーデオンのボタンが規則よく並んでいるのに対して、バンドネオンのボタンの配置は不規則である。最初はドイツの民族音楽に使われていたが、20世紀になって交流の深い南米のアルゼンチンやウルグアイに多く輸出され、やがてタンゴの演奏に取り入れられるようになった。
 4曲目からはアストル・ピアソラが創始した「キンテート」つまり、「クインテット」の編成での演奏だった。バンドネオンとピアノに、ヴァイオリン(衣田真宜)、コントラバス(高橋洋太)、エレキギター(大坪純平)が加わって、ピアソラ作曲の名曲、〈天使のミロンガ(Milonga del ángel)〉、〈現実としての三分間(Tres minutos con la realidad)〉、〈ブエノスアイレスの冬(Inviemo Porteño)〉、〈ブエノスアイレスの夏(Verano Porteño)〉が次々に披露された。
 演奏の合間に三浦一馬が行った紹介によれば、アストル・ピアソラは伝統的なタンゴにクラシックやジャズの要素を融合させてまったく新しいタンゴを創造したという。そこには家族とともに一時ニューヨークに住んでいた影響があり、強いリズムと重層的な構造をタンゴに持ち込んで、その上にタンゴ特有なセンチメンタルなメロディーを自由に展開したのである。
 最初は「踊れないタンゴ」、「タンゴの破壊者」と酷評されたが、やがて現代タンゴの代表的な作曲家・演奏家としての名声を確立した。三浦一馬の特別編成になる「キンテート」は、ピアソラの演奏を忠実に再現しており、とくに大坪純平のエレキギターの音が効果的なアクセントとなっていた。
 音楽を表現する言葉の持ちあわせが少なくて恐縮だが、一時間をこえる演奏は、官能の満足の裏に張りついている死の影を描出していたとでもいえばいいのか。彼が年齢を重ねれば、音楽はもっと陰翳を深めることだろう。
 最後は師匠であるネストル・マルコーニと息子のレオナルド・マルコーニの2曲も披露され、アンコールではピアソラの代表作〈リベルタンゴ(Libertango)〉が演奏されて、満席の会場はいつまでも拍手が鳴りやまなかった。三浦一馬のファースト・アルバム『タンゴ・スイート』に次いで、11月には「キンテート」の編成によるセカンド・アルバム『ブエノスアイレスの四季』がリリースされる予定だという。
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by monsieurk | 2011-09-08 12:18 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

《スペイン交響曲》

 昨夜(8月21日)のNHKテレビ「N響アワー」で、久しぶりにエドゥアール・ラロの《スペイン交響曲ニ単調》を聴いた。ヴァイオリン独奏は、ベルリン・フィルのコンサートマスター、樫本大進。指揮は女流のスザンナ・マルッキ。樫本の情熱的で繊細なヴァイオリンは、N響のオーケストラと上手く会話しあって、すばらしい音を響かせていた。
 今年32歳の樫本は少年時代からその天才ぶりをうたわれたヴァイオリニストである。3歳でヴァイオリンを始め、7歳のときにニューヨークのジュリアード音楽院プレカレッジに入学を許され、1990年には第4回バッハ・ジュニア・コンクールで優勝。1996年、ロン=ティボー国際コンクールでは史上最年少で第一位となるなど、その豊かな才能は早くから期待されてきた。その証として、1998年には日本音楽財団から、1722年製のストラディヴァリウス「ジュピター」を貸与された。昨夜放送の演奏もこの名器によるものである。
 樫本がベルリン・フィルの第一コンサートマスターとなったのは昨年12月で、今年5月に、指揮者の佐渡裕が長年の夢だったベルリン・フィルの定期演奏会でタクトを振ったときは、緊張気味の佐渡に、「楽団には思っていることを指示するように」とアドヴァイスして、佐渡の成功を蔭で支えたという。
 昨夜の演奏を聴きながら思い出していたのは、高校生のときにわが家で聴いていた、ヤッシャ・ハイフェッツ(Jascha Heifetz)の《スペイン交響曲》だった。当時わが家は東京文京区の真砂町(この地名はいまはない)にあって、奥の日本間に場違いな電蓄が置かれていた。この大型の電蓄がいつごろからわが家にあったのか記憶は定かでないが、それで6枚組みのビクター・レコードを畳に寝転びながら、文字通りすり切れるほど聴いたものだった。このレコードがなぜわが家にあったのか。おそらく父がどこかから貰ってきたのだろう。レコードは疾うになくなっているが、調べてみると、ヤッシャ・ハイフェッツのヴァイオリン、ウィリアム・スタインバーグ指揮、RCAビクター交響楽団演奏のものである。
 《スペイン交響曲》は1874年に、ラロがサラサーテのために作曲して、1875年2月にパリで初演された。随所にスペイン風の主題がちりばめられ、フランスにおけるスペイン趣味の流行を先取りしたものだった。ちなみにビゼーの歌劇《カルメン》の初演は、この1カ月後のことである。
 ハイフェッツは第3楽章をカットして演奏していたが、これは19世紀から20世紀前半までは普通に行われていたことで、全5楽章が演奏されるようになったのは、メニューヒン以降のことだという。記憶に残るハイフェッツのヴァイオリンは、ロマンチックな感情移入と、情熱的でキレのよい演奏がいまも耳底に残っている。
 樫本大進のしなやかなヴァイオリンは、テクニックの冴えで往年のハイフェッツを髣髴とさせる心地よい響きを届けてくれた。大満足の1時間だった。
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by monsieurk | 2011-08-22 12:17 | 音楽 | Trackback | Comments(0)