フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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カテゴリ:フランス(歴史)( 8 )

巡礼の地、ラ・ロミュ

 アレクサンドル・デュマの『三銃士』の主人公ダルタニアンの出身地とされるガスコーニュにある小さな村「ラ・ロミュ(La Romieu)へ行ってきました。トゥールーズからは車で1時間半ほどの距離です。
d0238372_12522047.jpg 高速道路A62を北西方向に走ること40分でアジャン(Agen)という街につきます。ここで高速道路を下りて、県道を走ること50分、起伏に富んだ周囲は、刈入れのすんだ麦畑、玉蜀黍畑、大蒜畑などが延々とつらなる田園地帯です。茶色の麦畑の丘がそのまま空につながり、青空に夏雲が湧く光景は、日本ではなかなか眼にすることが出来ません。ラ・ロミュに近づくと、遠くから14世紀に建てられた参事会教会(collégiale)の巨大な塔が見えてきます。
 ラ・ロミュ村の人口は550人ほどですが、村の歴史は1062年にさかのぼります。ローマへの巡礼をすませた2人の修道士がこの地に質素な祈りの場をつくりました。やがてその周囲に人びとがすむようになり、村は高さが8メートルもある壁に囲まれることになりました。これが村のはじまりで、「ラ・ロミュ」という名前は、ガスコーニュ地方の方言で、「ローマへの巡礼」を意味するところから来ているとのことです。
d0238372_1255257.jpg ラ・ロミュの参事会教会と附属する内庭回廊(cloître)は、1998年にユネスコの世界遺産に登録されました。このとき同時に、レクトゥールからラ・ロミュ、コンドムを通って、サン・ジャック・ド・コンポステル(Saint Jacques de Compostelle)に至る33キロの巡礼の道も世界遺産になりました。サン・ジャック・ド・コンポステルへの巡礼は、紀元900年のころから信仰篤い人びとによって行われてきたもので、四国巡礼のように、シャルトルやトゥールーズから何日もかけて歩きます。この様子は映画『サン・ジャックへの道』として紹介されましたから、ご存知の方も多いと思います。この日も杖を持って歩いていく人たちを幾人も追い越しました。ラ・ロミュは巡礼の途中の宿場としても知られ、いまもこの小さな村に何軒もの民宿があります。
 村に入ってもう一つ目につくのは猫です。それも彫刻でつくった猫で、家々の窓や門柱の上などに、さまざまな姿でたたずんでいます。観光案内所でもらったパンフレットには、こんな古い謂れがあると書かれています。

d0238372_12562539.jpgd0238372_12563686.jpgd0238372_12565178.jpg 14世紀の中ごろ、村にヴァンサンとマリエットという樵の夫婦が住んでいました。彼らにはアンジェリーヌという娘がおりました。夫婦は森へ入って木を切り、畑で野菜を育てて幸せに暮らしていました。ところがある日、ヴァンサンが切り倒した木の下敷きになって死んでしまいます。マリエッタは嘆き悲しむあまり次第に衰弱して、娘のアンジェリーヌを腕に抱いたまま息を引き取りました。
 幼いアンジェリーナは隣人の夫婦に引き取られて、彼らの実の娘と姉妹のように育てられました。アンジェリーナは猫が大好きで、可愛がっている猫に食事を分け与え、同じベッドで寝るといった具合でした。
 1342年とその後の2年間、ラ・ロミュの村を飢饉が襲います。冬は厳しく、春と夏は雨ばかりで作物はまったく育ちません。参事会教会のアルノー大司教は教会に蓄えてあった食料を村人に与えましたが、それも底をつき、食べるものがなくなった村人たちは、猫をワインで煮込んで食べるようになりました。
 アンジェリーナの育ての親は、彼女が猫を大好きなのを知っておりましたから、親猫と子猫を1匹ずつ隠して飼うことを許しました。幸い彼らの家は隣から離れたところにありました。アンジェリーナは、昼間は猫たちを納屋に隠し、夜だけそっと外に出してやりました。飢饉はさらに広がり、多くの村人が死にました。アンジェリーナたちも森で木の根を掘って、それを食糧にするような生活が続きました。
 3年たって、飢饉もようやく終わりを告げました。でも今度、村人を困らせたのが鼠です。猫がいなくなった村では鼠が繁殖し、食物みな齧ってしまう始末です。ただアンジェリーナの納屋では、猫たちが20匹に増えていました。そこでアンジェリーナは村人たちに事実を告げると、彼らはぜひ猫を放してくれるように頼みました。こうして村から鼠がいなくなり、アンジェリーナは村を新たな災厄から救ったのです。
 伝説では、アンジェリーナの顔は歳をへるとともに次第に猫に似てきて、耳は猫の耳そっくりになったということです。おしまい。

 いまラ・ロミュの家のあちこちに飾られている猫たちは、オルレアンの彫刻家モーリス・セローがこのお話をもとに制作したものです。猫の彫刻はお土産としても売っていて、トゥールーズの街で見かけるのも、ここで買ってきたものだそうです。
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by monsieurk | 2012-07-11 13:00 | フランス(歴史) | Trackback | Comments(0)

5月革命の「評価」

 西川長夫氏の『パリ五月革命私論』(平凡社新書)を読んでいる。西川氏はいまあらためて「五月革命」を取り上げる意味を、「まえがき」で、「私は本書では、「六八革命」と最近のフランスにおける「郊外暴動」との繋がりに照明を当てたいと思っているのであるが、このふたつの事件の関連を最もよく表しているのは、フランスの現在の大統領、ニコラ・サルコジの「六八年五月の清算」という言葉だろう。狂信的な新自由主義者(私にはそう思える)のサルコジにとって、忌むべき存在である六八年の学生や労働者や同伴的知識人は、四〇年後の今日、郊外の移民労働者や貧しい地域の反抗的な若者たち、あるいは左翼的知識人の姿をまとって現われているようである」(17頁)と述べている。
 フランスの「五月革命」と呼ばれた運動については、京都大学在任中の特殊講義で1年をかけて論じたことがある。いずれこれをもとに「五月革命」(フランスではmai 68「六八年五月」という呼称が定着している)についてまとめるつもりだが、この運動は思想的転換をもたらした出来事であり、今日まで継続している点で決して過去の出来事ではない。ところで「68年5月」については、これまでじつに多様な解釈が提示されてきた。
 社会学者アラン・トゥレーヌは、この運動のなかに「階級闘争の新しい形態」を見る。この闘争はもはや直接的に経済上の要求闘争(たとえば利益の保有者対給与生活者といった)の構図をとらず、むしろ「社会的、文化的、政治的」なものであって、搾取に反対するというよりも、支配や管理に反対(対象はテクノクラートによる支配)していると見る。そして運動の原動力は、専門技術者が社会の中心からはずされ、決定権を奪われ、テクノクラートが社会活動の枢軸を支配するに至った現実への反抗だったとする。
 運動では思想的にも行動様式の点でもアナキスム的傾向が見られた。これは第2次大戦後に、サルトル、メルロー=ポンティ、ブルトンたちが「革命的民主連合」を標榜して追求した路線だったが、戦後フランスの左翼のなかで力をもっていた共産党の反対で、政治運動としては挫折してしまい、それが20年後にようやく社会運動として広がりを得たものであった。
 哲学者のミシェル・フーコーは『言葉と物』(1966年刊)の姿勢から一転して、戦闘的な「社会参加」を試みるようになった。彼はジャン=ポール・サルトルとともに、「人民の大儀」や「リベラスイオン」などの新聞の刊行を通して、マオ派との協力関係を続け、のちには社会学者ピエール・ブルデュとともに、CFDT(フランス民主主義労働同盟)と左翼知識人との連携に力を尽くした。
 当時サルトルは、「かつて青年期に私が信じていたモラリスム・・・・私は少しばかり共産党と一緒に仕事をしはじめた時に、現実主義の名のもとにこれを放棄してしまったが、いま反ヒエラルキー的絶対自由主義の運動のなかで、それをふたたび見いだす」、「私がそうあって欲しい人生とは、すべての人間が、自分を犠牲にして服従するのではなく、しなければならないことを快活に、自分自身でするような人生だ。私が共産党を非難するのは、共産党がユダヤ=キリスト教的精神に刻印されていて、党内で犠牲が払われる点だ。私は犠牲的精神というものに生涯反抗してきた」と語っているが、「理念」を組織原理とする従来の闘争形態にたいして、サルトルは構成員の反逆によって流動化する「連合」という形を夢想したのである。こうしたサルトルの考えは、『反逆は正しい』という著作のなかで表明されている。
 フィリップ・ガヴィは彼らの運動の行方を、「権威主義の官僚体制に対抗するには、左翼と共同戦線を張って戦い、ついで左翼の内部の力関係を覆すために、分業にたいする闘争、ヒエラルキーに対する闘争、一切の権威主義的関係に対する闘争をそこに持ち込むことによって左翼に対しても戦う」と総括した。
 しかし、かつてチェ・ゲバラとともに南米ボリビアで活動した哲学者レジス・ドブレは、5月の運動は当事者たちの目的や行動がどうあれ、運動の根源的な要請は工業化をすすめなければならなかった当時の社会状況にあったとする。
 このときまで基本的には農村社会のものに留まっていた諸価値を変形させようとする圧力こそが原動力であって、生産力の急速な発展、資本の高度な集中化のための「下部構造の転倒」は、「石とライムギのフランス」から「ソフトウェアの、スーパ・マーケットの、新しいものの、プランニングのフランスが心地よく活動できるように」社会を変える運動にほかならなかったという。だから「68年5月」の運動は、当事者たちが考えたようにもし革命が成就したとしても、それは生産力の革命であって、サルトルたちが夢想したような人間の自由の成就など望むべくもなかったとした。
 5月革命では、運動の参加者は公共的政治的価値に熱中して、人々の社会的連帯が議論されたが、それが挫折すると、1980年代には逆に私的な空間に閉じこもるという行動によって特徴づけられるようになった。公共の事柄は生命を失い、重要な哲学的、経済的、政治的、軍事的諸問題は論じられることはなく、3面記事に書かれる瑣末な事件しか人々の好奇心を惹かなくなった。みなの関心は身体を丈夫に保つこと、つまりはジョギング、ボディー・ビル、テニスに集中し、そのお陰で意気阻喪から逃れることを大切にするナルシシズムが横行するようになる。
 1968年を境にホットな時期とクールな時期が交代する。「68年5月」の運動は規範に対する主体の反乱であり、功利主義的諸価値への攻撃の最後の現れ、文化的反乱の最後の運動であった。そしてそのあとは快楽主義の論理を大衆化させる文化がはじまったのである。ニーチェが述べているように、「創造的自我、非権威主義、といった考え、あるいは文化が、集中ではなく分散を促進する。意志的なものではなく、刹那的なものに重きを置く文化を作りだす。自我の原子化、組織された、統合された心的体系の消滅を促進する」ことになる。80年代以降の生き方は、まさにこのように解釈できるのではなかろうか。
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by monsieurk | 2011-10-13 00:29 | フランス(歴史) | Trackback | Comments(1)

作家の誕生

 2011年10月6日、スウェーデン・アカデミーは今年度のノーベル文学賞を、母国スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル(Tomas Transtromer)氏(80歳)に授与すると発表した。老詩人は以前から有力候補とされ、その短詩は高い評価をうけてきた。メタファー(隠喩)を駆使した手法は俳句に通じるとされる。イギリスのブックメーカーの予想では、トランストロンメル氏が一位、アメリカの詩人ボブ・ディランが二位、毎年候補にあがる村上春樹氏は第三位の予想だったが、今回も受賞はならなかった。
 村上春樹氏の新作『1Q84』は、英語、フランス語をはじめさまざまな言葉に翻訳され、各国でベストセラーとなっている。この作品のように、今日では100万部を越えるベストセラーが出現し、著者は有名になるとともに巨額の印税を手にするといった現象が起きるようになった。作家は作品を創作し、それを出版して生活を維持して、しかも社会的に敬意を払われている。だが洋の東西を問わず、こうした作家が出現したのは、19世紀になって市民階級が富をたくわえ、それにつれて本を読む層が拡大して以後のことである。
 印刷媒体の発展と作家の誕生と読者層の拡大は、社会の発展のスピードの違いによって若干の遅速はあるものの、東西を問わず先進諸国では同じような歴史的経緯をたどった。
 フランスでは、17世紀の作家は国王の庇護をうけて年金を下賜されるか、貴族や貴婦人たちの愛顧をうけて彼らに劇作品や詩集を献呈し、そのかわりに金をあたえられて生活するのが普通だった。この当時の作家の収入は年金と献辞料と著作料であっが、前の2つが主なものであった。
 フランス古典文学の大作家コルネイユ(Pierre Corneille)、ラシーヌ(Jean Racine)も、あるいはラ・フォンテーヌ(Jean de La Fontaine) も、みなルイ14世から年金をもらい、それによって生活をしていた人たちであって、その並外れた才能にもかかわらず社会的な身分は低かった。それを象徴するような次のような逸話が伝えられている。
 モリエール(Molière) が『女房学校』(1662年)を書いたとき、そのモデルにされたと信じ、これに恨みをもった侯爵が宮中でモリエールに会うと、彼を強く抱擁して、自分の上着の金属のボタンをモリエールの顔に押しつけて、「クリーム・パイだよ、モリエール、クリーム・パイだよ!」と言ったというのである。このエピソードが顕しているように、文学者は上流社会に出入りは許されていたものの、身分の上でも経済的にも、貴族との間には厳然たる差があった。
 18世紀になっても貴族と作家の関係に大した変化はなかったが、中産階級(ブルジョア)の上昇と教育が徐々に普及したこともあって読者人口が増加し、作家の生活はいくらか潤うようになった。
 こうした傾向に決定的な影響をあたえたのは、1789年にはじまったフランス大革命であった。革命によって王は誅殺され、貴族は特権を剥奪され、社会的に平等の権利をあたえられたブルジョアが社会の中核を担うようになった。フランス文学が本当の意味で花開いたのは、王政復古の1815年以後のことである。そしてこのときから文学者たちは今日とほぼ同じような地位を得ることになった。
 前の世紀にくらべて読者が増えた分、原稿料も多く支払われるようになった。例えばジョルジュ・サンド(George Sand) の連載小説には1万フランが支払われ、当時もっとも売れっ子だったユージェーヌ・シュー(Eugène Sue)の小説『パリの悲劇』の原稿料は2万6千5百フランだった。さらにこれを上まわったのが1862年に出版されたヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo) の『レ・ミゼラブル』で、ユゴーはこの一作で25万から30万フランを得たという。そして文学的名声がそのまま社会的地位に結びつくようになったのである。
 ただこうした地位を獲得するためには、作家の方も大変な努力を重ねなければならなかった。ジョルジュ・サンドは1837年の書簡でこう書いている。「また枷にしばられなくてはなりません。なんと憂鬱なことでしょう! 夜の9時から朝の7時までものを書くなんて!・・・こんな貧しい稼業では、あと数年はただ生きていくだけです。」
 ジョルジュ・サンドのように有名になればなったで昼間は世間とのつきあいがあり、執筆はいきおい夜になった。そして夜9時から朝7時まで机にかじりついても、原稿料で贅沢をする余裕はなかった。事実、本の出版で食べていける作家はごく一部であって、大部分は雑誌に文章を寄稿し、翻訳をやって生きているのが実情だったのである。
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by monsieurk | 2011-10-10 21:07 | フランス(歴史) | Trackback | Comments(1)

アルビ

 5日ぶりに太陽と青空が戻ってきた7月22日、ふと思い立ってアルビへ昼食を食べに出かけました。2010年に世界遺産に登録されたアルビは、カルカソンヌと並ぶ観光地です。トゥ-ルーズの北東68キロ、高速道路A68を走れば45分です。
 街の中心にそびえるサント・セシル大聖堂の周囲にひろがる旧市街は世界遺産にふさわしい美しい街並みで、2時間もあれば見てまわれます。
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by monsieurk | 2011-07-23 22:22 | フランス(歴史) | Trackback | Comments(0)

給水塔と写真展

 トゥールーズの歴史的建造物の一つに、1823年に建設されたレンガ造りの給水塔(Le Chateau d’Eau)があります。これは当地出身の法律家シャルル・ラガンヌ(Charles Laganne)が、1789年(フランス革命の年です)に亡くなる前に金貨5万枚を市に寄付し、その資金できれいな飲み水を供給する施設として、ガロンヌ川の岸辺につくられました。大きな水車をまわして川から水を塔の中に汲み入れ、それを濾過して市内の50カ所ほどに配水する施設で当時としては画期的なものでした。
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水を汲み揚げる巨大な水車


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by monsieurk | 2011-07-18 21:50 | フランス(歴史) | Trackback | Comments(1)

ミディ運河資料館

 こちらへ来る前に、東大建築科の大学院におられる小島見和さんから、トゥールーズには「ミディ運河(Canal du Midi)資料館があるから、ぜひ行ってみてください」と勧められました。小島さんにはご本業のかたわら、拙著『思い出しておくれ、楽しかった日々を 評伝ジャック・プレヴェール』の校閲をお願いしています。ご専門の分野では、建築・都市史や西洋史の研究者とともに共同研究を行い、その一環として南仏の「ミディ運河」のことも調べておられるとのことです。
 ミディ運河は前にも書きましたように、わが家の近くを流れていてよく散歩するところですが、資料館のことは知りませんでした。さっそく調べて行ってきました。
 トゥールーズ市の中心は市役所前のキャピトール広場で、資料館はその東側を流れるミディ運河に沿ったポール・サン=テティエンヌ河岸にあります。街を東西(A)南北(B)に走る地下鉄B線のフランソワ・ベルディエ駅から歩いて10分弱のところでした。
 資料館には世界遺産である運河の美しい風景、建設の歴史などが展示されていて、見物客が来ていました。研究者には、収集されている貴重な資料も閲覧させてくれるということでした。資料館で買ってきたフィリップ・カラス著『ミディ運河』(Philippe CALAS:Le Canal du Midi, Edisud)を参考に、歴史をひもといてみることにいたします。
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by monsieurk | 2011-07-07 20:41 | フランス(歴史) | Trackback | Comments(1)

トゥールーズとの出会い

 トゥールーズはフランス第4の都市で、ガロンヌ川の右岸の高台に築かれた古代ローマの都市が発展したものです。ガロンヌ川は度々氾濫し、左岸の地区はそのたびに洪水に見舞われました。こうした影響はいまの街の様子に残っていて、右岸は高級なブティックなどが並ぶ商業地区であるのに対し、左岸地区は庶民的な街になっています。
 この街の特徴はなんといっても建物の色です。壁や屋根は赤やオレンジ色のレンガでつくられており、街全体が赤く染まり、「バラのまち(ville rose)」と呼ばれます。建築資材として最初にレンガを用いたのは紀元前1世紀頃のローマ人で、サン・ジャック広場のローマ時代の城壁跡にこの時のレンガが残っています。トゥールーズ近郊には適当な大きさの石材が見つからず、それを遠くから運んでくるのには多くの費用がかかるため、土を焼き固めたレンガが用いられるようになったということです。レンガの材料である泥はガロンヌ川が運んできました。
 この街の発展の礎となったのはパステルでした。近くにパステルの材料となる豊富な色の鉱石を産したため、それを売買して巨大な富が街にもたらされました。パステルは絵の材料としてだけでなく、広く染料として用いられたのです。
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by monsieurk | 2011-07-03 07:14 | フランス(歴史) | Trackback | Comments(0)

ナポレオンと漢詩

 今回は、フランスへ向う前の埋め草に、ナポレオンが日本の漢詩に詠まれていた事実をご紹介したい。 
 フランスではナポレオン・ボナパルトの名前を知らない人はいないし、歴史上の人物のなかでも、世界中で知名度調査をすれば、上位にランクされるに相違ありません。
 2004年12月4日は、ナポレオンがパリのノートルダム大聖堂で皇帝となる戴冠式を行って200年目に当り、ルーヴル美術館にある戴冠式の模様を描いたダヴィッドの大作の前は、連日黒山の人でした。こうした光景はいまも変りません。
 この戴冠式にはローマ法王ピウス七世も臨席し、金の月桂樹を頭に頂くナポレオンが、自らの手でジョゼフィーヌ王妃に冠を被せようとする姿が描かれています。皇帝となったナポレオンのもとでフランスは版図をヨーロッパに広げますが、やがて1812年のロシア遠征と敗北をきっかけに、ナポレオンの天下は翳りをみせ、1814年4月6日にはついに退位。有名な百日天下のあと、大西洋の孤島セント・ヘレナに流され、死去したのは1821年のことでした。
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by monsieurk | 2011-06-25 22:02 | フランス(歴史) | Trackback | Comments(0)