ムッシュKの日々の便り

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カテゴリ:フランス(生活)( 18 )

パリの日本レストラン

 いまパリには日本食のレストランはどのくらいあるのか。一説では1000軒を超えるという。パリ1区のサン=タンヌ通りの両側には和食、ウドン、ラーメン屋などが軒を連ね、昼どきともなると、ラーメン屋の前に行列ができて、そのなかには多くのフランス人も多く混じっている。言わずと知れた日本色ブームだが、なかには外国人がスシを握ったり、ラーメンを茹でたりしている店も多いと聞く。d0238372_934074.jpg
 最初にパリに住んだ1970年代初頭、この界隈にはすでに数軒の日本レストランができていた。サン=タンヌ通りがオペラ大通りと交わる角に東京銀行の支店があり、パリ在住の日本人の多くが口座を開いて、故国との金銭の送金をしていた。戦前の横浜正金銀行の流れをくみ、海外貿易の決済や外国為替業務に慣れた東京銀行がもっとも便利だったのである。そのためこの界隈を大勢の日本人が往来し、それにつれて日本食を供する店が出来ていった。本格的な店としては1958年に開店した「たから」や、その後にできた「伊勢」などがあった。
 第一次大戦後の1919年、パリで開かれた講和会議に、日本は西園寺公望全権以下総勢100名を超える代表団を送り、バンドーム広場に面したホテル・ブリストルを借り切って仕事に当たったが、このなかには料理人もいて、近くのレストランの厨房を借りて、そこで代表団のために日本料理をつくった。明治以来、パリには多くの日本人が滞在したから、日本料理の需要も大きかったはずだが、本格的な料理店と呼べるものはなく、中華料理を食べるか、自炊して日本食まがいのものを食べて渇望をしのいだ。
 金子光晴の『ねむれ巴里』は、1930年(昭和5年)1月から翌31年2月にブリュッセルへ移るまでの記録で、当時の貧乏な日本人滞在者の生活を知るうえでも興味はつきない。金子は、『詩人 金子光晴自伝』でパリ時代を振り返って、「無一物の日本人がパリでできるかぎりのことは、なんでもやってみた。しないことは、男娼ぐらいのものだ。博士論文の下書きから、額ぶち造り、旅客の荷箱つくり、トーシャ版刷りの秘密出版、借金のことわりのうけ負い、日本人名簿録の手つだい、画家の提燈持ち記事、行商、計画だけで遂に実現にいたらなかったのは、日本式の一膳めし、丼屋、入選画家のアルバム等々だった。夏は、トロウビルまで出かけていって、海水浴客あいての日傘を並べて、客のみている眼の前で、秋草や、日本娘の絵を画いて売ろうという計画を立てて、わざわざノルマンディー海岸まで出掛けていったが道路上の商売許可がなかなかむずかしいので、すごすご帰ってきてしまった。」と書いている。このなかの「日本式の一膳めし」の計画というのは、画家の辻元廣が持ちこんだ話が発端だった。
 辻はフランスへ来る前に、半年ほど京都で本筋の板前の修業を積んできたといい、森三千代と再会してパリ13区のポール・オルレアンの貸しアパルトマンに住んでいた金子の許へ、本格的なちらし寿司をつくって持ってきてくれた。材料はヨーロッパにはない紅生姜、そぼろ、高野豆腐、干瓢などで、大抵の品はマドレーヌある日本食品の店にあるが、手に入らないものはマルセィユか、ベルギーのアントワープの船舶賄いの業者に頼みこんで、日本船の厨夫長から調達したものだという。辻は、「牡丹屋など、あんな料理とも言えん料理で法外な金をとって、あれでは、日本料理もわややで。ふらんす人はもともと、日本料理のほんまの味知らせたら、すぐ病みつきになるにきまってる。牡丹屋のとかしけない料理食うたら、二度と食いたいとは言わんわ。うちのアメリカの婆さん。わしのつくってやる料理の味おぼえて、わしがいなくなったら、食えんようになる言うて、出てゆきはせんかとはらはらしていよる。」と言った。彼は絵では食えないので、アメリカ人の老婦人の家に住み込んで、料理を作ったり雑用をしたりして生活していたのである。
 辻の話にでてくる「牡丹屋」はこの当時あった日本料理の店で、金子によればこの牡丹屋よりも古く、ロンドンに「生稲」という店があったという。森三千代を交えて、辻のちらし寿司を堪能したあとで、金子の思いつきで、丼物をつくって日本人相手に売り出したら儲かるのではという話になった。辻が板前、金子が営業、三千代が接客係り。親子丼ややたまご丼、天丼、鰻丼を次々に開拓して、在留日本人に売り出す。これより前に金子は、在留パリ日本人人名録をつくるという松尾邦之助の手伝いをしたことがあって、三百人余りの画家や留学生その他の所在が分かっていた。しかも彼らの多くは西洋の食事になじめずに、白飯を炊いて生卵をかけたり、牛肉を固形の調味料と砂糖で煮て、すき焼の代わりにしたり、パンの食べ残しに白ブドー酒を入れて、ぬか漬けの漬物を作ったりしていた。金子と辻はこの話を知り合いの画家たちに話すと、画家のなかには回数券をつくって、二か月分なり三か月分を前払いするから、それを資金にぜひ実現してほしいという連中がでてきた。だが店を借り、器物をそろえたり、材料の仕入れ先を確保するとなると先立つものは金で、結局この夢は実現せずにしぼんでしまった。
 私たちが最初に暮らした70年代はじめの日本食事情は、金子たちの時代とさほど違っていなかった。日本食の材料を扱う店は4、5軒に増えたが、豆腐は日本から粉を送らせて、それを練って固めて自前で作らなければならなかったし、魚の干物をつくるのに、自分で魚をひらいてベランダに干しておくと大きな蜂が飛んできて、肉を食い齧ったりした。フランスでは牛肉を薄く切る習慣がなく、すき焼きをするために、日本から薄切り用の機械を取り寄せて、凍らせた肉を自分でスライスしなければならなかった。
 オペラ大通りの、オペラ座とは反対側のパレ・ロワヤル広場のそばに、「大阪屋」というラーメン専門店が店開きしたものこの頃である。パレ・ロワヤルにある三ツ星レストランス「グラン・ヴェフール」のオーナーショフ、レーモン・オリヴェ夫人の角田鞠さんが子ども連れてよく来ていた。オリヴェは著名な料理人であるとともに、食に関する世界的資料のコレクターだった。粘度板に楔形文字で書かれた穀物の送り状や稀覯本など貴重な資料があって、それを取材させてもらったことから夫妻と知り合いになった。角田さんに「大阪」で顔を合わせた折に、「ご主人は家では料理はしないのか」と聞くと、「毎食フランス料理では飽きてしまう」といってラーメンを美味しそうに食べていた。
 キャトル・セプタンンブル(9月4日)通りから少し入った細い道にあった「さくら」では、女優のカトリーヌ・ドヌーヴの姿をときどき見かけた。「さくら」では奥さんが和服姿で給仕していたが、彼女に話では、ドヌーヴは毎週のように訪れるほど和食好きとのことだった。これらは今から40数年前のことである。和食が世界文化遺産に登録されて2年がすぎ、フランスでの和食ブームはますます高まる気配である。
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by monsieurk | 2016-02-28 22:30 | フランス(生活) | Trackback | Comments(0)

秋の味覚2題

 今年は11月20日の木曜日が「ボジョレ・ヌヴォー」の解禁日で、私たちもさっそく買ってき夕食に飲んだ。今年ボジョレ地方は天候に恵まれて出来はよいとの評判だったが、飲んだボジョレ・ヴィラージュもすっきりとした飲み心地で美味しかった。
 日本でのボジョレ・ヌヴォー騒ぎは下火になったようだが、フランスでも年に一度新酒の出来を楽しむ習慣はすっかり定着して、酒屋の店先は賑わっていた。ボジョレ・ヌヴォーの浸透作戦を誰が考えたのか不明だが、プロモーションが大成功だったことは間違いない。
 昨年の今頃のブログ(「お昼の食卓」2013.11.25)にも書いたが、トゥールーズ近郊のガイヤック地方のワインにも、新酒を飲む習慣があり、一週間後には解禁になる。だが地元は別にして世界中の人たちが待ち望むといったことはない。ボジョレを横目に見て歯ぎしりしているのが現状である。
 今週の土曜日(22日)は、国境をこえてスペインのアラン渓谷(Valle de Arán)にある小さな街ボソス(Bossóst)へお昼を食べに行った。
 トゥールーズからは高速道路A64を南西に下り、サンゴダンスの先で降りて、ガロンヌ川の源流へ向かう川沿いの道をピレネー山脈の山懐へと入って行く。トゥ-ルーズ市内を流れるガロンヌは川幅120メートルに達する大河だが、この辺りまで来ると川幅は10メートルほどで急流が白波をたてている。スペインとの国境は税関もなく素通りして、やがて川沿いの街ボソスに着いた。トゥールーズを発って2時間ほどの距離である。この一帯もカタルーニャに属するが、渓一帯に住む人たちはカタラン(カタルーニャ語)ではなオクシタン(オック語)を話す。
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 目指すレストランはER OCCITAN。40代の夫婦がやっている店で、創作料理と手ごろな値段が評判で、休日はなかなか予約が取れないという。総勢8人の私たちには奥のテーブルが用意されていた。d0238372_18502323.jpg
 注文した料理はまちまちだったが、私が食べたのは――

 アミューズ2種類:魚のパテと、魚肉のソーセージをキャベツとピーマンの濃厚な温スープに入れたもの。
 アントレ:ラテン・アメリカ名物の"Ceveche" (シヴェッチ)。地元で獲れたマスの生を1センチ角に切ったもの、マスの卵、アボドカド、その他の野菜を、生クリームを主体にしたソースで和えたもの。
 メインディッシュ:ルジェ(金目鯛の一種)をチーズとともにソテーしたものの鶉の茹で卵ぞえ。
 デザート:ババ・オ・ウイスキー(普通はラム酒を使うのをウイスキーにしたババロア)
 パンはバターではなく、濃厚なオリーブオイルをつけて食べる。
 ワインは、白が"Silencis”、2013年。ドメーヌ名は Raventós i Blancとカタルーニャ語で書かれており、バルセロナの近くで、1497年からワインをつくっているという。
 赤はRioja産(リオハ、マドリードの北に広がるスペイン最大のブドウ産地)の "LAN a mano"、2010年。"LAN”は最近日本でも手に入るが、これは"a mano" つまり手で揉んでつくったもので珍しいという。
 そして最後のしめには、全員にパンとオリーブオイルをミキサーにかけたスープに、チョコレートの小さな玉を浮かせたものが供された。この地方では、子どもたちがお腹をすかせて学校から帰ってくると、パンにオリーブオイルを塗って食べさせたことから思いついたという。
 ワインを除き全部で31ユーロ。値段といい味といい最高に満足だった。ただし残念ながら料理の写真は撮影禁止。最近はインターネットにすぐ投稿され、それが食欲をそそるものでない場合が多く、店にはかえってダメージになるとのことだった。


  
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by monsieurk | 2014-11-27 22:30 | フランス(生活) | Trackback | Comments(0)

フランスの宿

 前回のブログで、フランスの豪華な宿泊施設「Relais & Châteux (ルレ・エ・シャトー)を紹介したが、d0238372_22404911.jpgそもそもの始まりは、ミュージック・ホールの有名なエンタテナー、マルセル・ティロワと妻のネリーが、ローヌ川沿いの館「ル・カルディナル」を手に入れたことだった。カルディナル(枢機卿)という呼び名の通りここは立派な屋敷で、夫妻はこれをホテルに改造するとともに、腕利きのシェフを雇って、美味しい料理を提供することにした。同時に、同じように優れた環境にあって、美味しい料理が自慢の宿のオーナーたちに呼びかけて、豪華な宿泊施設の連合をつくることを考えた。この呼びかけに応じた者のなかから選ばれた7軒とともに、1954年に最初の「ルレ・エ・シャトー」が誕生した。
 新幹線TGVがなかった1950年代には、パリ=リヨン間に「トラン・ブルー(ブルー・トレイン)」と呼ばれる特急列車が走っており、これに並行する形で、高速道路がパリからリヨンをこえて南下し、地中海のコート・ダジュール、そしてマルセイユを結んでいた。ティロワの呼びかけに応じた7軒はみなこの街道沿いにあり、「ルレ・ド・カンパーニュ(田舎の宿)」と称して、順番に一つ一つ泊まってあるく企画を提供した。宿はどこも自然豊かで由緒ある建物であり、料理もとびきり美味しかったから、誰いうとなくこれを「ルット・ド・ボヌール(幸せ街道)」と呼ぶようになった。
 その後厳しい審査に合格して「ルレ・エ・シャトー」に加わる宿やレストランが増え、1961年には初めてガイドブックが刊行された。その後はフランスだけでなく、ヨーロッパ各国、南北アメリカ、日本へとひろがっていった。2014年現在では、加盟している宿やレストランは世界64か国515に達している。
 写真はかつて友人が結婚式をあげたことがある、ロワール川沿いの「ルレ・エ・シャトー」の一軒、「ドメーヌ・デ・オ・ド・ロワール(Domaine des Hauts de Loire)」である。d0238372_22414913.jpgここは城で有名なブロワとトールの間のオンザンという小邑にあり、パリから車で2時間の距離である。建物は19世紀に改築された狩猟館(manoir、主人が友人を招いて狩猟をするときに利用した館)で、70ヘクタールの敷地には幾つも沼がある。2014年冬の料金は、スタンダードのシングルが300ユーロ、ダブルが410、デラックスがそれぞれ390ユーロと500ユーロ。すばらしい環境を考えればとびきり高いわけではないが、問題は昨今の円安で、円に換算すれば一時より1.5倍払わなくてはならない。観光客はともかく、円建てで海外で生活する人たちは悲鳴をあげている。
 こうした豪華なホテルでなくとも、フランスの地方の生活を味わいたい人には、民宿がお勧めである。これには中世の館を改築したところや、大きな農家の別棟を借りるものなどさまざまで、一週間単位で借りるのが原則だが、土日だけ過ごすなどさまざまなだ形があり、生活をするための設備はもちろん、食器などもそろっている。
 朝食付きが基本で、あとは自分たちで地元の食材や地酒のワインを仕入れて来て食事を楽しむシステムで、特色ある地方生活を味わうにはうってつけである。
 民宿の大きなチェーンとしては、La Maison des Gites France : www.gites-de france.fr
やChambre d'Hote、あるいはLogis de France : www.logis-de-france.fr/ などがある。急ぐ旅でなければ、ぜひお勧めする。
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by monsieurk | 2014-11-24 22:30 | フランス(生活) | Trackback | Comments(0)

エール・フランスとの縁

 11月16日、午前0時20分羽田発パリ行きエール・フランス293便は満席で、乗客の7割りがフランス人だった。待合室のロビーで会った年配者30人ほどのグループは、アヴィニョンから来たツアー客で、全員が日本は初めてだったという。東京、大阪、京都、広島とめぐる強行スケジュールで、「少々くたびれたが、今夜食べた焼肉は美味しかった」と、老婦人の一人が元気に話してくれた。
 夜間便なので、ベルト着用のサインが消えると食事が供されて、その後はすぐ消灯された。d0238372_1592536.jpgしばらくうとうとした後、機内の後部スペースで屈伸運動をしていると、日本人の乗務員の方が声をかけてくれ、しばらく話をした。
 ―― エール・フランスをご利用くださり、ありがとうございます。
 ―― もう40年以上、エール・フランスを利用しています。コンコルドが就航する前のテスト飛行のときも、取材でパリ=ダカール間を往復させてもらいました。午後1時にシャルル・ドゴール空港を飛び立ってセネガルのダカールへ行き、海で泳いだ後、運輸大臣主催の夕食会があり、そのあとダカールを発って午前1時にシャルル・ドゴールへ戻るといった日程でした。コンコルドの飛行距離がもう少し長くて、日本まで来られていれば、パリまで6、7時間で行けましたのに。
 ―― 私も何度かパリ=ニューヨーク間を乗りましたが、早かったですね。なにしろ時差を追い越すのですから。コンコルドは残念な終わり方をいたしました。
 ―― エール・フランスを利用するのは、客室乗務員の方の接客の仕方が気に入っているからです。
 ―― ありがとうございます。どんな点でしょう。
 ―― 乗客を適度に放って置いてくれるのがいい。手取り足取りするのをサービスを思っている航空会社が少なくありませんが、どうも煩わしさが先に立ちます。その点エール・フランスはヴェテランの乗務員も多く、いざという時はきちんと手助けしてくれる、そんな信頼感があります。
 ―― 同僚のフランス人乗務員は一見ちゃらんぽらんに見えますが、何かトラブルのあった場合の決断の速さ、的確さはすごいと思います。手前味噌ですけれど。
 ―― その辺のことが、私たち日本人にはなかなか理解できないですね。建物を建てるにしても、フランスの場合はなかなかスケジュール通りには進まない。それでも最終的には期日には出来上がるのですが、途中の進捗状況で、多くの日本人はイライラして胃が痛くなってしまう。日本人とフランス人の気質の違いですよね。
 ―― 私もフランス人の夫と結婚して、パリをベースにフランスと日本を行き来しておりますが、最初のうちは、フランスにいると日本人の欠点が目につき、日本にいけばフランス人のやり方に目くじらを立てるといった具合でした。でも27年も経った今は、両方のいいとこ取りをしようと思っております。お互いの欠点ではなく長所を認める、それで気持がずいぶん楽になりました。
 互いの違い違いとして認め合うということだろうが、実生活から得た彼女の言葉には重みがあった。あとでうかがうと、彼女の結婚相手は、週刊誌「l'Express」の創刊者で、著名なジャーナリストで政治家だった人の一族とのことであった。
 エール・フランスで長年お世話になったのは、東京支社の広報室長だった仲澤紀雄氏である。仲澤さんは東大教養学科の第一期生で、フランス政府の給費留学生として渡仏。パリでは森有正氏と親しく交流して、フランス哲学・思想を専攻した。帰国後は大学に戻ると信じられていたが、仲澤さんはエール・フランスに入り、その卓越した語学力と見識を実社会で活かす道を選んだ。
 そのかたわらフランス思想の翻訳に力を注がれ、孤高の哲学者ウラジミール・ジャンケレヴィチの主著『死』や『道徳の逆説』、さらに生物学者ジャック・リュフィエの『性と死』などを翻訳して紹介した。リュフィエの本は、バクテリアから人間まで、進化論的にみて、性と死が、なぜ生物には必要なのかを解明した刺激的なものである。リュフィエが血液型の調査のために来日した折には、仲澤さんの手引きでこのユニークな生物学者の話を個人的に聴く機会をあたえられた。
 仲澤さんの企画で、作家の辻邦生氏を中心に各社のパリ特派員仲間5人が、フランス各地を旅して歩いたのは1988年10月のことである。この旅については、わたしたち参加者が思い思いに執筆した文章を、辻さんが編纂した『フランスの新しい風』(中央公論社、1988年)にくわしい。辻さんは、「こんどの旅は、現実に流動するフランスの社会現象を追うジャーナリストたちの手で書かれた紀行」、「動きつつあるフランス現代文化のプロフィルを、その流動のままにスケッチしてゆく試み」と紹介している。
 旅は仲澤さんがすべてお膳立てをしてくれ、泊まった宿はどこもルレ・エ・シャトー(Relais & Châteaux、豪華ホテルの連合体)に所属する城館(シャトー)や領主館(マノワール)を改造した豪華ホテルだった。仲澤さんの企画は、当時はまだフランスの地方の良さが日本に知られておらず、それを伝える意図もあったのである。
 収益競争に追われる今日の航空業界では、こんな贅沢な企画はエール・フランスならずともあり得ないだろう。思えば古き良き時代の出来事だった。
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by monsieurk | 2014-11-21 22:30 | フランス(生活) | Trackback | Comments(2)

海の幸の盛り合わせ

 12月6日、フランスのテレビ・ラジオは朝から南アフリカのネルソン・マンデラ氏が死去したことをうけて、一日中特別番組を流し、その死を悼んでいる。日本でも安倍首相が談話を発表するなどしたようだが、こちらでは自由と平等、根深い人種差別と戦ったネルソン・マンデラの業績とその世界史的意味を繰り返し伝えている。今夕出る「ル・モンド」などもおそらくこの記事で一杯だろう。
 こうした状況を目にするにつけ、ヨーロッパとアフリカとの地政学的距離の近さとともに、自由、人権、平等といった社会の基本的観念にたいする敏感さを感じないではいられない。ネットをみていると、いままさに日本では「秘密保護法案」が、野党の反対にもかかわらず、与党の強引な議事運営で参議院を通過しよとしているという。落ち込む気持を晴らすためにも、ここで食べ物の話題をもう一つ。
 トゥールーズの中心にあたるヴィクトル・ユゴー街には常設の大きなマルシェがあることは前にブログでも紹介したが(「マルシェ」2011.07.11)、東京の築地などと同じように、マルシェの周囲には多くのレストランが店を構えている。冬の季節、賑わうのは魚介類を食べさせてくれる専門店である。
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 写真の店の入口には大きく、「Plateau de Fruits de Mer」と書かれている。「海の幸の盛り合わせ」という意味で、この店の名物である。店先に山と積まれているのは牡蠣。
 「海の幸の盛り合わせ」を四人分注文すると、以下のようなものが大皿(ときには皿が二段になっている)に盛られて運ばれてくる。
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           ポルトゲーズと呼ぶ牡蠣(日本でも食べるもの)1ダース12個
           ブロンと呼ぶ丸い牡蠣 12 
           ウニ 8
           テナガエビ 8
           小エビ(灰色をした小さなエビ) 一山
           ラングスティ-ヌ(アカザエビ)8
           大西洋産の大ぶりのカニ 2
           ビゴルノ(小さな巻貝) 400グラム
           ビュロ(巻貝)1キロ
           アサリ 1キロ
           コック(巻貝)800グラム
           調味料として 
           シトロン
           エシャロットをきざみ込んだ酢
           マヨネーズ
           バター
           そしてライムギパン

 味つけは各自のお好みだが、牡蠣のポルトゲーズにはシトロンを絞ってかけ、ブロンはエシャロット入りの酢で食べることが多い。ワインはきりっとしたミュスカデの白などがお勧め。シャブリは少々高級すぎる。
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by monsieurk | 2013-12-06 22:12 | フランス(生活) | Trackback | Comments(0)

ガヤック・プリムール

 昨日の昼は、トゥールーズから車で40分ほどのガヤック(Gaillac)へお昼を食べに出かけた。ここは画家トゥールーズ・ロートレックが生まれたアルビやカストルに次ぐタルヌ県の街で人口は1万人ほどである。周囲には有名なガヤックのブドウ畑が広がっている。
d0238372_1102827.jpg フランス産ワインの新酒としては先に紹介した「ボジョレ・ヌヴォー」が有名だが、ガヤックの新酒も「ガヤック・プリムール(Gaillac Primeur )」といって、南フランスの人たちは出来を心待ちにしている。新酒の解禁日は、「ボジョレ・ヌヴォー」が11月第二週の木曜日なのにたいして、こちらは一週間後の11月第三木曜日。この日からは各酒蔵が自由に試飲させ、次の日曜日にかけてはお祭りで盛り上がる。写真は酒蔵での試飲の光景で、わたしたちのお目当ても「ガヤック・プリムール(プリムールは初物、新酒の意味)」だった。
 日本では、ボルドー、ブルゴーニュ、ボジョレ、シャブリ、シャンパーニュといった地方のワインがよく知られるが、じつはフランスのワインの歴史としては、ナルボンヌ周辺のラングドック地方と並んで、ここガヤックのワイン製造が最も古く、紀元一世紀には生産がはじまっていた。ローマ人の商人たちはこのワインを、タルヌ川を下ってボルドーやさらに遠くの北ヨーロッパまで運んだのである。
 中世時代、ガヤックの街はベネディクト派の修道院を中心に発展したが、修道院ではブドウ栽培とワインつくりが盛んに行われた。ワインはキリストの血であり、宗教儀式に用いるためだった。修道士のお腹の中にも少なからぬ量が流し込まれたのはいうまでもない。
d0238372_18219.jpg やがてこの地方がトゥールーズ伯領(画家ロートレックは末裔である)になると、ガヤック産のワインには、特産を示す雄鶏のマークをつける権利があたえられた。ガヤック・ワインは普段家庭で飲むもので決して高級なものではないが、口当たりがよく好きな人は多い。写真のようにガヤックの赤(一番右)は独特の形の壜に入っている。 
 ガヤック・ワインは、カベルネ・フラン、カベルネ・ソーヴィニョン、デュラス、フェル、シラーなどの種類のブドーからつくられ、生産されてから8年から10年は保存できる。初物の「ガヤック・プリムール」だけはガメーという種類のブドウからつくられ、収穫の年から遅くとも翌年には飲んでしまうのが普通である。
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by monsieurk | 2013-12-05 22:30 | フランス(生活) | Trackback | Comments(0)

フランス製を使おう

d0238372_14424466.jpg フランスの消費研究所が最近出した雑誌が、6000万人の消費者に、「フランス製を使おう」と呼びかけている。記事の一つで、有名なナイフのブランド「ラギオル」のことを扱っているのが目についた。
 かつてフランスの男は、ポケットに小さな折りたたみナイフを入れているが普通だった。家での食事のときに、それでパンのバゲットを小さく切る。庭仕事では枝の手入れをするなど何かにつけて必要だった。この折りたたみナイフの代表的なものが「ラギオル」で、フランス中部オーヴェルニュ地方の山岳地帯にあるラギオル(Laguiol)という小さな村でつくられるナイフである。柄は鋼部分を両側から木ではさみこみ、鋼の背には蜜蜂蜂(蝿か?)のマークが象嵌されている。小型ナイフのほかにも、プロのソムリエが使う栓抜き、食事用のナイフなども「ラギオル」製が多い。だが今日フランスで売られているナイフの多くは安いスペイン製やパキスタン製で、フランス国内産は5%にすぎず、しかもその多くはいわゆる「ラギオル」ではない。そもそも「本物のラギオル」というものが存在しないのである。
 もともとラギヨル村には農具をつくる有名な鍛冶屋がいて、彼らが19世紀初頭に折りたたみ式のナイフをつくったのがはじまりだった。それが人気を呼んで需要に応じきれなくなると、19世紀末には村から北へ150キロほど離れた街ティエールの工場へ下請けに出すようになった。ティエールはもともと刃物生産の中心地で、最盛期の1890年代では1万人のナイフ職人がいたのに対して、ラギオルの職人はわずかに30人ほどだったという。
 こうしてティエールでつくられるナイフが「ラギオル」の商標を名乗った時代が長く続いたが、1987年になって、ラギオルの職人たちが伝統ある村に新たな工場を建設して、「この村こそが有名ブランドの産地である」と宣言し、商標をティエールから取り戻す訴えを裁判所に起こした。裁判は10年続き、1998年になって最終判決が出た。その結論は、「ラギオル」という商標はナイフの一つの様式の呼称であって、どこかの地域の特定のブランドを指すものではないというものだった。ラギオル村の訴えはしりぞけられ、「ラギオル」はこの様式のナイフならどこでも名乗ることができることになった。「ラギオル」のナイフをつくるには40ほどの工程があるが、その工程さえ踏めば、安い鋼を用いた外国産が「ラギオル」を名乗っても違法ではなく、スペイン産やパキスタン製のものを含めて、2ユーロ(300円)から100ユーロ(14000円)を越える高級品まで、さまざまな「ラギオル」が店に並ぶことになった。
 その後、2006年に18の地元業者が集まって「エスプリ・ティエール(ティエール精神)」を宣言し、従来の「ラギオル」の素材や工程などを守って伝統的なナイフを製造することにした。現在、宣言に加盟している18の業者で、直接ナイフ製作にかかわる職人は150人。年間の売り上げは1000万ユーロ(13億5000万円)に達するという。一人当たり9000万円の売り上げということになる。
 トゥールーズにも「ラギオル」の専門店が1軒あり、ここで売られているのは「エスプリ・ラギオル」に基づいてつくられた製品である。「ラギオル」はフランス土産として人気があるが、購入に当たっては以上の経緯を知っておくのも無駄ではない。
 知人の一人に岐阜県関市に住むナイフ好きの女性がいる。関市は「関の孫六」で有名な刃物の産地で、ここには世界でも珍しい「ナイフ博物館」(関市平賀町)があり、世界30カ国の優れたナイフや珍しいナイフ凡そ1500点が展示されているという。一度見に来なさいと誘われているが、いまだその機会に恵まれずにいる。
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by monsieurk | 2013-11-27 22:30 | フランス(生活) | Trackback | Comments(0)

お昼の食卓

 フランスに着いた22日の夜は24時に就寝して朝7時まで熟睡した。いまは冬時間で日本とフランスとの間に8時間の時差があるが、こちらへ来るときには不思議にそれを感じない。その逆にフランスから日本へ戻ると、2、3日は時差に悩まされるのが通例である。
 滞在第一日目、土曜日の昼食をすませたとろで、テーブルの上を写真に撮って紹介しよう。生ハム、ブーダン(豚の血と脂身で作った腸詰)、ジャンボノ(豚のすね肉のハム、外側をパン粉で包んである)、ロモ(スペイン産の豚肉のハム)、それに生野菜のサラダ。これは持参した胡麻だれのソースで和えてある。それにバゲット。
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                                    photo par Aya Gibault     
 チーズは、サン・ヘリシヤン、カマンベール(いずれも牛のチーズ)、エメンタール(穴のあいた硬めのチーズ)、橙色をしたこれも硬めのミモレットの4種類。デザートは、スペイン産のミカン、洋梨、リンゴなどの果物である。
 ブドー酒は21日に解禁されたボジョレ・ヌヴォー。これにも幾つも種類があるが、飲んだのはSaint-Jean-d'Adièresで瓶詰されたものである。ボジョレ・ヌヴォーは日本でも一時ほどではないにしても、解禁日の11月第2木曜日を愛飲家は待ち受けている。今年は出発前日の21日が解禁日で、デパートへ行ってみると、酒の売り場には大勢の人が行列をつくっていた。普段はボジョレ・ヌヴォーを飲む習慣はないのだが、今年は解禁二日目に飲むことになった。今年の出来は上々で、すっきりとして飲みやすく、旬を味わうことができた。
 外は正午現在摂氏5度。トゥールーズはこのところ雨続きで、日本と同様に秋が短く冬の到来が早いとのことである。山荘のあるピレネー山中のマサットは、昨夜25センチの降雪があったという。
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by monsieurk | 2013-11-25 22:30 | フランス(生活) | Trackback | Comments(0)

パリの胃袋

 前回のブログで触れたパリ1区のレ・アル地区(les Halls)には、巨大なショッピング・センター、「フォーラム・デ・アール(Forum des Halls)」があり、地下5階レヴェルは3本のRER(郊外高速鉄道)と5本のメトロが乗り入れている交通の要で、毎日15万人の買い物客が訪れ、80万人がここを通過する。だが1969年、この地区の大改造計画が決まるまでは、ここにパリ市民の食欲をみたすための中央市場があったのである。
d0238372_22351068.jpg 歴史はシテ島に建つノートルダム寺院の建設よりも前にさかのぼる。1135年、「シャンポノ」と呼ばれる沼地だったこの場所に、ルイ6世(太っちょルイ)によってパリで最初の市場が設けられた。さらに1534年には、フランソワ1世が市場の周囲に柱を建てて屋根で覆い、本格的な屋内市場が出現した。このとき建てられた柱は1854年までそのまま使われていた。
 時代は下って18世紀になると、カミュ・ド・メジエールによって小麦市場(現在の証券取引所)が建設され、1789年の大革命のあとには、ジャック=ギヨーム・ルグランとジャック・モリノスの手で、イノサン修道院を解体した跡地に布地をあつかう市場がつくられた。
 そして1851年12月、共和制を否定してクー・デタを決行し、権力の座についたルイ・ナポレオンは、翌年の国民投票で圧倒的な支持を得てナポレオン三世として皇帝に即位した。それ以後20年にわたって第二帝政が続くが、この間フランスでも産業革命が進行し、都市への人口集中が進んで、パリは過密状態を呈した。それにもかかわらずパリの都市機能は中世以来さほど変わらず、不衛生、水不足、さらには犯罪の増加に苦しんでいた。
 こうした環境を変えるべく、ナポレオン三世はオスマンを県知事に任命し、道路や上下水道の整備など、パリの大改造に乗りだした。新しい中央市場建設もその一環で、建築家バルタールに、鉄骨とガラスでおおわれた10棟のパヴィリオンの建設を命じたのだった。ナポレオン三世はこのとき、「余に傘を・・・鉄以外のなにものでもない傘をつくれ」と言ったという。時代は鉄を用いた建築のブームで、東駅やセーヌ河畔のグラン・パレ、プティ・パレもこの時代に建てられたものである。
こうして誕生した中央市場は場所の名をとって「レ・アル」と呼ばれ、学問の中心である左岸のカルティエ・ラタンと同様に、中世以来同じ場所にあってパリ市民の胃袋を満たす役割をはたしてきた。  かつての中央市場の雰囲気を活写したのが、エミール・ゾラ(Ēmile Zora)の小説『パリの胃袋(le Vente de Paris)』(Charpentier et Cie、1873年)で、ゾラの連作「ルーゴン=マッコール叢書」の第3巻にあたる。小説の舞台はこの中央市場で、ここには活気と喧騒にみちていて、牛肉、豚肉、家禽、魚、野菜、果物、チーズなど各国各地からありとあらゆる食材が集まってくる。
 そうした市場に一人の痩せ細った若者が入り込む。彼はフロランといい、1851年のルイ・ナポレオンのクー・デタの折、無実の罪で南米ギアナに流され、苦難の末に脱走に成功してパリにもどって来たのである。異父弟クリュの世話で市場で働くようになり、やがて海産物部門の監督官になる。
 市場で働く人たちは彼の素性を知らぬまま最初は暖かく迎えるが、やがてその行動を胡散臭く思うようになり、隙あらば追い出そうとする。理想の共和国を夢見るフロランは、現状に満足し、生活を守ることに汲々としている周囲の人びとの敵意に苦しむあまり、第二帝政そのものの転覆をくえわだてる政治的陰謀に加担するようになる。・・・
 ゾラはこうした物語を、中央市場を背景に描いた。たとえばこんな一節がある。フロランがクリュの妻で美人の誉れ高いリザを見つめるシーンである。
 「今リザはカウンターのうえの肉越しに見えていた。前には白い陶器の皿が並べられ、そのうえにアルルやリヨンのソーセージの切りかけ、牛の舌、塩漬けにして煮た豚肉、ゼリー寄せにした豚の頭肉、開いたリエットの壺、蓋があいてたっぷりの油をみせているイワシの缶詰などが置かれている。左右の棚にあるのは、豚のレバーのパテ、頭肉のパテ、淡いバラ色のハム、それに幅広い脂肪層のしたに血のしたたるような肉を見せているヨークハムなどだ。そのほかにも丸い皿や楕円の皿があって、そのうえには舌の詰め物、トリュフが入ったガランティーヌ、ピスタチオ入りのユールなどが並べられている。さらに彼女のすぐそばの下の棚には、背脂を刺し込んだ子牛肉、レバーのパテ、ウサギのパテなどが黄色い陶器の鉢に入っている」(朝比奈弘治訳、藤原書店刊)。引用すればきりがない。
 中世から数えれば900年にわたり、この地にあった中央市場をパリの南の郊外ランジス(Rungis)に移すことが決ったのは1962年。建物の老朽化がすすみ、さらにパリの中心部を占めているため、交通の障害になるというのが理由だった。取り壊し作業は1969年にはじまり、やがてこの地に巨大な穴が出現した。
 最初のパリ滞在中は、毎日のようにこの穴を見て暮した。取材に出かけるときは大抵レ・アルを通ったし、調べ物をするための国立図書館はすぐ近くのリシュリュ通り(rue Richelieu)にあり、さらに19世紀末から20世紀初めにかけて刊行された前衛雑誌を多く持っている古本屋がすぐ近くにあったからである。もちろん美味いレストランも多いこともその理由だった。
 1972年にはじまった解体工事が終わり、そこに現在見るフォーラム・デ・アール(Forum des Halls)が出現したのは20世紀末のことである。なお解体されたバルタールのパビヨンの一部はノジャン=シュル=マルヌに移築され、もう一つは・・・・横浜の港が見える丘公園のフランス山(旧フランス領事館のあった場所)に移されている。
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by monsieurk | 2012-11-11 10:30 | フランス(生活) | Trackback | Comments(0)

マリーおばさんのレシピ

 今年の夏、孫娘たちがパパの誕生日にプレゼントしたのは、食前酒のレシピ本「Festival de Cocktails(カクテルのお祭り)」だった。お陰でひと夏の滞在中、夕方になると、クリストフがつくる毎日ちがったアペリティフを庭のテラスで味わうことができた。
 料理のレシピ (recettes) 本はフランスでも大流行で、インターネット上にもさまざまな料理のレシピが紹介されているから、台所にパソコンやタブレット端末を持ち込んで、レシピに忠実に料理をする人たちが増えている。それでけっこう美味しい料理に仕上がる。
 わが家で重宝しているレシピ本は結婚直後からあるもので、『マリーおばさんのフランス家庭料理』という。原著は“La Véritable Cuisine de Famille de Tante Marie”といい、1920年代末にTardie社から出版され、翻訳は1969年に文化服装学院出版局から刊行された。これには1000種類のレシピと500におよぶメニュが載っている。すべてが昔ながらの料理である。
 寒さが感じられる今日この頃にふさわしい料理を、その中から一つ紹介するとすれば、もつ料理カーン風(Tripes à la mode de Caen)ということになろうか。カーンは北フランス・ノルマンディーの県庁所在地で、ノルマンディー地方でよく食べられることからこう呼ばれている。
〈材料〉牛の胃、牛の足、にんじん、ベーコン、香草ブケ、丁子
 牛の胃500グラムを手のひらの大きさの半分ほどに切る。手に入れば、小さく切った牛の足も半分ほど使う。コキーユかグラタン皿、ココットなどの底に、にんじん1本か2本を輪切りにしてならべ、パセリ、タイム、月桂樹のブケ、丁子2個、にんにく1、2片とベーコンを小さく切ったもの数片を入れる。
 この上に胃を一段おき、また、にんじん、丁子、にんにくなどをおき、胃を全部使い切るまで繰り返す。ブイヨン少量と白ぶどう酒を、中身がすっかり隠れるまでひたひたに入れ、最後に薄切りのベーコンですっかり被う。蓋をして、5時間から6時間オーブン(原著の年代を考えれば「天火」か)に入れて煮る。もし胃が前もって煮てあるときは、4時間オーブンに入れれば十分である。
 できあがったら大皿に盛って食卓に出す。ソースは煮つめるか、片栗粉大さじ一杯でつなぎをすればよい。片栗粉のつなぎは片栗粉を少量の水でとかしてからソースに入れるが、このときソースはいつもかきまぜていることが大切である。かきまわしていないと、片栗粉が固まってしまう。
 料理はできるだけ卓上コンロを使って出したいものである。この料理は昼食に向いている。
 ノルマンディーのtripes 料理では、白ぶどう酒の代わりに、特産のりんご酒(cidreシードル)を使うことが多く、牛の足の代わりにほかの臓物の入れてもかまわない。
d0238372_9402362.jpg この煮込み料理を専門にしているのが、パリ1区グランド=トリュアンドリ通り24番地(24, rue Grande-Truhanderie)のレストラン「ル・ファラモン(Le Pharamond)」である。18世紀に建てられたレストランは歴史的建造物に指定されている由緒あるもので、ノルマンディー風に、桃色の壁に木の梁が幾本も埋め込まれている。「ル・ファラモン」は数年前にオーナーが代わり、いまは高級レストランとしてさまざまな料理を出すようになったが、それでもtripesが名物であることに変わりはない。注文すると炭火をカンカン熾した七輪にのせて料理が運ばれてくる。
 この界隈には1971年に取り壊されるまで、「パリの胃袋」といわれた、屋根つきの広大な中央市場があり、3000軒の店が軒を並べていた。そのせいで近くには美味しい料理屋が多い。モントルグイユ3番地(3 rue Montorgueil)には、エスカルゴ料理専門の「レスカルゴ・モントルグイユ(L’escargot Montorgueil)がある。店の入り口の上には、金色に塗られた大きなエスカルゴがのっているからすぐ分かる。もっとも、角をのばしたこの飾りを見て、二の足を踏む客も少なくない。
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 イギリス首相のチャーチル(Churchill フランス語読みではシュルシル)は、大のエスカルゴ好きで、パリに来ればこの店に寄ったという。イギリス人はフランス人のことを〈Frog eater 蛙喰い〉といって揶揄するが、エスカルゴは問題ないらしい。書いているうちに唾がわいてきた。
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by monsieurk | 2012-11-09 01:00 | フランス(生活) | Trackback | Comments(2)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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