フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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<   2011年 09月 ( 13 )   > この月の画像一覧

天野忠

 前回に続いてもう一人、ライト・ヴァースの達人である天野忠の詩を紹介したい。京都の詩人天野氏は長い詩歴をもつが、氏の詩が大きく変化したのは1961年10月に自費出版した詩集『クラスト氏のいんきな唄』からである。かつて京都洛北の自宅を訪った折、氏は「クラスト氏」誕生のいきさつをこんな風に打ち明けてくれた。
 「私は辞書を引くのが好きで、無聊のときいろんな辞書を見るわけです。ある日英語の辞書を繰っていて、crustという文字が目に入った。クラスト、『パンの耳、人に嫌われる、あまり歓迎されない食べ物』という解説を読んで、これを人の名前にしてやったら何かが生まれる・・・Mr. Crust、クラスト氏という考えがパッと浮かんだんです。不思議なもので、なにか一つの糸口が見つかると、これまでいろいろ考えていた事柄がみな引き寄せられて、あらましの形ができあがる・・・命名した途端、詩集の骨格ができあがったのです。」
 詩集はのちに増補されて、『動物園の珍しい動物』とタイトルを変えて、1966年に編集工房ノアから刊行された。巻頭に置かれた「クラスト氏のこと」という文章で、天野氏は詩人クラストに、「ポエット タイヘンムツカシイポエット(だいぶ考えて)・・・クルシイ クルシイ」と語らせているが、天野氏自身この時期一種の行きづまりを感じていたのである。一言でいえば、それは現代にあって抒情を吐露することの難しさである。誰よりも年齢というものに敏感だった天野氏は、五十歳にしておのれの感慨を一途にうたうことに気恥さを感じていた。この苦境を打開するにはなんらかの仕掛けが必要であった。
 この仕掛けがたまたま辞書の中で探し当てた、異国の詩人「クラスト氏」であった。風采のあがらぬ、船乗りにして詩人という仮面は、詩をうたい続けるために有効だったのである。それにしても仮面はいかにもぴったりと嵌った。天野氏は仮面の裏から自在に語りだす。
 そのなかの一つ、「問い」では翻訳調の文体を用いる凝りようである。

  サクラメント市の
  インディアンアベニューの
  A・ジャドソン氏の家の
  地下にある物置場の
  水道の蛇口の
  ま下で
  一日中
  とつおいつ
  なめくじが考えごとをしていた

  どうして

  わしは
  生まれてきたか?

 天野忠氏には三冊の詩画集があるが、その一冊『酸素その他』に収められた詩はみな京ことばで綴られている。主題はいずれも身近に迫った死、ぼけた亭主をかかえる老婆、老残の身を嘆く男、内職の苦労を語るおばあさん、・・・彼ら、彼女らが語る独特のイントネーションを帯びた一語一語が、彼らの生を浮かび上がらせる。
  
 「ししばば」

  おみねはんのことどすか へえ
  あのおひとはもうかれこれ十年
  ししばばとってもろうて臥たきり
  つい去年の春ごろまでは
  口だけはようまわってはったんやけど
  ことしのお彼岸さんの日にお見舞いに行ったら
  それがもうさっぱりろれつがまわらへん
  手え握ったげたら
  眼やにの上にポロポロ涙こぼさはって
  モニュラモニャラばっかり云わはって
  わたしも何やわけわからんとげっそりしてしもて
  おみねはん としとって患うのは
  ほんまにかなんこっちゃなあ云うて
  いっしょに泣いてばっかりしてきました・・・
  息子はんの嫁はんホレ知っといでっしゃろ
  東京弁きつう使はるあのハイカラさん
  ししばばの世話してはるのはみよ子さん
  そうどす お孫さんの会社勤めのみよ子さん
  そらそうやろ
  あのきついいっかりもんのハイカラさんは
  なんちゅうても他人さんや
  血のかよってへん息子の嫁はんに
  あの気性のかったおみねはんやもん
  ようししばばとって貰えますかいな
  ・・・・・

 京都にいたとき聞きなれていた独特の抑揚が耳の底によみがえってくる。至芸と感嘆するほかはない。
 天野忠氏は1993年に亡くなったが、存命中に詩人自身に読んでいただけなかったのが残念でしかたがない。純粋の京ことばがすたれないうちに、どなたかこれらの詩を朗読してくださる方はいないだろうか。
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by monsieurk | 2011-09-26 22:04 | | Trackback | Comments(0)

ライト・ヴァース

 ライト・ヴァース(light verse)、軽い詩。そんな分類をされる詩群があるが、じつはその多くは人生の機微をうがって少しも軽くはない。久しぶりに本棚から取り出して読んだ八木幹夫氏の詩集、『野菜畑のソクラテス』(ふらんす堂、1995年)もそう称せられるものだが、そこから三篇だけを紹介しよう。本当は全篇を写したいのだが、著作権に触れるから、興味をもたれたら是非詩集を探してください。
 まずは冒頭に置かれた「だいこん」

  なに 生き方を変えろだって
  ふざけんじゃねいやい
  こちとら ご先祖様代々
  ぴりっと からくて ぶかっこう
  ああ ぶかっこうで いいともよ
  そこらの西洋かぶれのねえちゃんみてえに
  ハイヒールはいてよたよた歩く
  やわな あんよたあ
  どだい 根性がちがわあな
  泥がついてきたねえだと
  とっとと消えろ
  この の入った入った大根役者

 フランスには中は白いが、表面の皮が真っ黒な大根があるのをご存知だろうか。
 次は「じゃがいも」、

  上空をまた
  コンドルが舞っている

  霧がでて
  山が隠れ
  大粒の雹がふりはじめた

  石ころだらけの土地で
  千年が過ぎ

  農夫は千年前と同じ顔をして
  ひたいの汗をぬぐった

  岩山の陰に
  男は横たわるだろう
  そしてさらに
  千年ねむるのだ

  痩せた土地に
  石ころのように育つ
  じゃがいもと人

  飢えはアンデスの山々を旋回する
  
  うめえじゃがいもをつくるんなら
  花を咲かせちゃなんねえぞ
  麦藁帽子の下から
  声の方へ目をやると
  自転車のハンドルの向きを変え
  陽炎のむこうへ消えた
  ぼくの知らない老人

  ごつごつとしたじいさんの
  あの手は
  アンデスの農夫の手だ

 最後に「隠元」、

  さっとゆでて
  真っ青ないんげん
  わさび醤油に
  竹の割り箸

  念じ来り念じ去って、行、行を見ず、住、住を見ず、
  坐、坐を見ず、臥、臥を見ず、飯を喫して飯を知らず、
  茶を喫して茶を知らず、全体只是れ一箇の阿弥陀仏。
  更に精彩を著けて念ずること一声・二声・三声して看よ、
  畢竟念ずる底是れ誰そと。忽然として誰の字に撞着せば、
  始めて知らん、自己本来是れ仏なることを。*

  ベランダのプランターのみどりの莢が
  さっき
  風にゆれたよ

  江戸時代の初め
  中国「明」からやってきた偉いお坊さんのことなど
  もう みーんな知らない

  没法子(メーファーズ、しかたがないさ)  *平久保章著『隠元』より

 どうです、とても軽いなどと言っていられないでしょう。
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by monsieurk | 2011-09-25 23:28 | | Trackback | Comments(0)

貞奴

 神奈川県茅ヶ崎市の市立美術館で、「川上音二郎と貞奴」の展覧会が11月27日まで開かれている。
 幕末期、開国に踏み切った徳川幕府は1866年(慶応2年)4月、留学生や商人たちの海外渡航を公認する政策に転じ、「海外渡航」を認める布告を出した。日本人が外国へ行くには、箱館、神奈川、長崎のどこかの奉行所に旅券申請を行い、外国奉行から渡航免許状を得る必要があったが、この措置がとられた慶応2年には、いち早く免許状を得て海外に向かった芸人たちが出現した。こうして幕末の日本からヨーロッパやアメリカへ渡った芸人たちは踊りや奇術などを見せ、日本使節団が初めて参加した1862年のロンドン万国博覧会や、1876年のアメリカ・フィラデルフィアの万博、78年のパリ万博などで欧米人の異国趣味を満足させた。
 のちに貞奴と呼ばれるようになる貞が生まれたのは1871年(明治4年)7月18日である。実家は貞が生まれた頃には芝神明で書籍や茶を商い、質屋もやっていた。貞は7歳のとき日本橋住吉町の浜田可免(かめ)の養女となり、やがて12歳で浜田屋の雛妓(おしゃく)となった。養母は江戸木遣の名人で、貞はこの養母のもとで芸事を仕込まれた。
 貞が雛妓(おしゃく)から芸妓(げいぎ)になっていく明治10年代は、明治新政府が骨格を固め、近代化のための欧化政策を推進した時代で、官営の社交場「鹿鳴館」が落成したのが1883年(明治16年)、貞が小奴になったときである。明治政府の高官たちは夫人や令嬢を動員して鹿鳴館で舞踏会を開くかたわら、柳橋、新橋、葭町などの色町で連夜のように宴会をもった。幼いながら美人の誉れ高い彼女はこうした席に連なるうちに、伊藤博文に見初められ、その後見をうけて人気は一気に高まった。
 彼女は花柳界の女性としては異色の存在で、乗馬や、当時流行しはじめた水練やダンスを習った。やがて伊藤との関係を解消して自由になると、書生芝居と呼ばれた新演劇を目指す川上音二郎の舞台を見て一遍に惚れ込み、1894年(明治27年)には芸者を廃業して音二郎と結婚した。
 音二郎は歌舞伎とは異なる新演劇を旗揚げして自由民権運動を扱った芝居を上演し、幕間には時流を風刺した「オッペケペ節」を熱演して一躍人気を博した。
 川上音二郎と貞が、門弟たちと一座を組んで海外公演に出たのは1899年(明治32年)のことである。きっかけはアメリカ大西洋岸で、興行師をしていたある日本人が、サンフランシスコでの興行を仲介すると言ってきたことだった。
 音二郎はこの話にすぐに飛びつき、音二郎を座長とする一行19人は神戸から船に乗り込んだ。音二郎一行はハワイを経由して5月23日にはサンフランシスコに到着。このとき街にはすでに劇場主の手で貞のポスターが貼り出されていた。貞は舞台に立つ気などなかったが、すでに選択の余地はなく「貞奴」の名前で看板女優に仕立て上げられたのである。彼らはアメリカ大陸を西から東へ横断してシカゴの契約を取りつけ、貞奴は「道成寺」を踊った。するとこれが評判となり契約を1カ月延長することができた。その後一行はボストンに向かい、ここでイギリスから来ていた有名なシェイクスピア役者と知り合って、その勧めでシェイクスピア劇を翻案した芝居を上演したりした。するとこれが評判を呼び、翌1900年(明治33年)1月末には首都ワシントンで公演することになった。
 音二郎と貞奴はここでもまた思わぬ幸運に恵まれた。ワシントンに着くと、駐米公使の小村寿太郎が公使館主催の夜会に招いてくれたのである。この夜会にはマッキンレー大統領も出席していた。この席で貞奴が余興に「道成寺」を踊ると、その模様は新聞にも掲載された。
 音二郎と貞奴はその後2か月間ニューヨークで興行した後、大西洋を渡ってヨーロッパへ向かった。パリでは万国博覧会が開かれており、これに出演することが日本を出たときからの音二郎の目的であった。1900年のパリ万国博覧会は、第1回ロンドン万博から数えて11回目の博覧会にあたり、「花の都」パリの名前を世界に広めるとともに、会期中は5100万人という空前の入場者を記録した。日本政府も事務局を置き、トロカデロの広場に寺を模して建てた日本展示場では古美術展を催して訪れた人々の関心を呼んだ。
 音二郎たち一行は6月末にパリに到着。日本の事務局に許可願いを出すことなく、万博会場の一角にあったロイ・フラー劇場の舞台に立つことになった。ロイ・フラーはアメリカ生まれの女性舞踏家で、最初は女優としてデビューしたが、やがて舞踊に専念するようになり、1892年に念願がかなってパリの有名な劇場フォリー・ベルジェールで踊る機会を得ると一躍時代の花形となった女性だった。
 フラーの舞踊は従来のバレエの伝統とは違って、照明の効果と、棒につけた薄絹の衣装を縦横に動かして、舞台上に一つのスペクタクルを出現させるといったもので、彼女の舞台は画家のトゥールーズ=ロートレックや写真家のナダール、映画の発明者リュミエール兄弟など多くの芸術家を魅了した。フラーの舞踏は、舞台上に光の芸術を初めて作り出し、同時に当時の美学上の主要な流行であったアール・ヌーヴォー、ジャポニズム、象徴主義をすべて体現していたと言われている。
 1900年のパリ万博では、ロイ・フラーはプロデューサーも兼ねていた。会場のなかにある劇場で自らも踊るとともに、音二郎・貞奴の一座を舞台に乗せたのである。音二郎一座の初日には、フランスとアメリカの国旗をあしらった招待状を友人や知人に送り、彫刻家のオーギュスト・ロダンや、その他大勢の劇評家も招かれた。
 初めて目にする貞奴たちの舞台はこうした人々を魅了した。ロダンはすぐに貞奴の彫刻を造りたいと申し出たが、ロダンの名声を知らない貞奴は、時間がないと断ったという。
 成功を確信したフラーは音二郎と契約を結び、その上で芝居の中に「切腹」の場面を入れるように注文した。これが貞奴の踊りとあいまって一層多くのお客を呼んだ。日本の「ハラキリ」は、幕末にフランス人を斬殺した犯人が切腹を命じられた堺事件で、フランスでも有名だったのである。
 音二郎と貞奴の成功はこれにとどまらなかった。8月になると、開催国フランスのルーベー大統領が博覧会に出演中の役者を招待する園遊会があり、貞奴や音二郎も招待された。そしてこの席でも貞奴が踊る「道成寺」が人気を独占した。踊りが終わると、大統領夫人が貞奴に握手を求め、連れ立って庭を散歩するなど、貞奴は一躍パリ社交界の花形となった。その人気振りは彼女の振袖をまねた「ヤッコ服」という和洋折衷の夜会服が流行したほどである。この蔭には、日本の公使夫人たちが京都西陣の織元に注文して「ヤッコ服」を作らせるなど宣伝に一役かったというエピソードがあった。
 貞奴の演技はパリ万国博覧会の呼び物の一つだった「自動幻画」(映画のはしり)におさめられ、会場を訪れた若き日のピカソがその姿をスケッチした。こうしてパリ万国博覧会随一の人気者となった貞奴は連夜の夜会に招かれ、新聞や雑誌に取り上げられ、ついにはフランス政府から「オフィシエ・ド・アカデミー勲章」を授与された。
 貞奴の舞台がなぜこれほどヨーロッパの人たちに感銘を与えたのか。作家ポール・モランは、『西暦1990年』という本の中で、その理由を適確にこう要約している。「パリの貞奴! クレマンソーの画帳やゾラの研究にまでなった、あれほどポピュラーな日本の版画や、貴重で近寄り難い掛け軸が、ある日生きた身体として出現するなどと誰が想像しただろうか。」
 貞奴は当時の日本人女性としては恵まれた体で、ヨーロッパの人びとが夢想した日本の浮世絵の世界を具現化してみせ、そのパフォーマンスが新時代の前衛芸術が求める「純粋舞踏」のさきがけとして評価されたのである。
 貞奴と音二郎は帰国すると大歓迎をうけ、茅ヶ崎に自宅を構えた。すでに市内の別荘に暮していた九代目市川団十郎を慕ってのことだった。
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by monsieurk | 2011-09-24 19:58 | 美術 | Trackback | Comments(1)

古武雄

 佐賀県武雄市の陶芸作家中島宏氏から本が送られてきたのは昨年暮れのことである。中島宏氏は長年青磁を製作してこられた重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝で、陶芸に関心を持たれる人はよくご存知だと思う。頂戴した本は、「発見 江戸のモダニズム 古武雄(コダケオ)、独創 忽然と現れた華やぎの世界」というタイトルの色刷りで、320頁余りの図録である。表紙には大きな鉢の写真があり、鉢の周りと内部に櫛で大胆な模様が彫られて、そこに緑色と茶褐色の色づけがされたじつにモダンな絵柄の鉢である。
 解説によれば、17世紀後半に肥前(いまの佐賀県)の武雄でつくられた直径が49センチの大きな平鉢で、周辺部に波型の文様、鉢の中には一面に草のような文様を、櫛を使って描き、そこに銅と鉄の釉薬をかけて、緑と褐色の模様を出している。大変モダンで、300年以上も前のものとはとても思えない。
 図録に収録されているのは完品が291点、窯跡から採取された陶片が11点で、作品の種類もさまざまである。大ぶりの鉢、とっくり型の瓶(壜)、壺、甕、茶碗などで、模様は鉄釉と緑釉が主で、そのほかにも、「三島手」と呼ばれる、素地に模様を彫りつけて、その凹みに白土を埋め込んで透明な釉薬を掛けたものなど、これも多彩である。強調したいのは、これらはすべて中島宏氏が一人で蒐集したもので、蒐集品は690点にのぼるという。
 中島氏は父親の跡を継いで、武雄の弓野に窯を築いて陶芸の道に入ったが、陶器の欠けら(陶片)が窯跡から幾つも見つかり、40年ほど前、最初は自身の製作のモチーフとして採取されたという。しかし集めているうちに、陶器がもつ表情の豊かさに魅せられて、陶片だけでなく完全な形で残っているもの集めるようになった。
 中島氏が図録に書いた解説には、「この古武雄が焼かれたのは今から300年から400年前のことであるが、時代の古さを感じさせない、今日、窯の中から生まれ出たようなみずみずしさがあり、その躍動感とエネルギッシュな力強さに圧倒されるばかりである。このような作行きのものが、肥前の小さな村々で焼かれたこと自体、稀有な事と云える」とある。
 この古武雄は最初、「二彩唐津」とか、「武雄唐津」と呼ばれていた。肥前の陶器生産は16世紀後半あるいは16世紀末に始まって、豊臣秀吉の文禄・慶長の役をきっかけに多くの窯が築かれた。こうした初期のものは古唐津とか絵唐津といわれて珍重されてきたが、中島氏が集めた陶器の数々は、これとは雰囲気が異なるもので、2002年に東京の根津美術館で行われた最初の展覧会では、「知られざる唐津」というタイトルがつけられていた。その後、中島氏自身や研究者たちが、コレクションをあらためて検討し、その特徴から「唐津」とは異なる、独自の作品群だということになり、「古武雄」と呼ばれることになったのである。
 武雄を中心に、独自の美意識をもった匠、あるいは職人たちが作り出したもので、多くの陶器や出土した陶器の破片を集めた結果、そうした事実が明らかになったわけで、これこそ「蒐集することの力」と言えるかもしれない。40年をかけて集めた膨大なものから、独自の文化が浮かび上がってきたわけで、図録の副題に、「忽然と現れた華やぎの世界」というのは、正にこのことを指している。
 それにしてもなぜ、武雄を中心とした地域でこうした陶器がつくられたのか。この点に関しては、図録に論文を寄せられている鈴田由紀夫氏によると、古武雄の特徴の一つは、褐色の地の上に白い化粧土を塗って、キャンバスのようなものをつくり、そこに絵や模様を描く技法にあるが、かつて武雄の付近には白い土を産するところがあり、1620年頃から有田を中心とした磁器の生産がはじまると、陶器である絵唐津は衰退したのに、磁器の原料である陶石がなかった武雄では、この白い化粧土を活用して磁器とは異なる製品をつくった。これが日本各地だけでなく広く東南アジアにも輸出されるようになったという。
 ただ「古武雄」に関する研究はこれからで、その上でも中島宏氏が40年かけて蒐集したコレクションは貴重な資料といえる。
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by monsieurk | 2011-09-17 23:59 | 美術 | Trackback | Comments(1)

賢治への愛

 3月11日の東日本大震災のあと、宮沢賢治の本を読んだ人が多かった。私もその一人で、賢治が最愛の妹トシの死をうたった「永訣の朝」は身にしみた。
 振り返ってみると、私が最初に宮澤賢治の作品に接したのは、小学生のときにクラス全員で観に行った日比谷公会堂での児童劇『風の又三郎』だった。あれからどれほど賢治の作品を繰り返し読んできたことだろう。
 世に賢治の愛好家は多く、研究書や解説書も無数に出ているが、その中でもユニークな一冊が、小柳学著『宮沢賢治が面白いほどわかる本』(中経出版、2004)である。小柳氏は「はじめに」で、「賢治童話には、そして賢治の人生にも、こうした不思議なことがたくさんあります。それは「恐ろしいほどに不思議で、とてつもなく不気味でわけがわからない、でも『ああ、いいなあ』と感じてしまう世界」です。この本は、賢治のそうした世界を好きになるための本です」と書いている。この本の独特の視点は目次を見ただけでも分かる。
 全体は三部構成で、

 第一部、「賢治の、とてつもないとてつもない感じ方」
 1 だれも戻れない場所にいる賢治
 2 年中「どぎまぎ」する
 3 オノマトペ自由自在
 4 「ああ」で自然と合一
 5 さあ、お祭りだあ
 6 目と耳は石器人のよう
 ・・・・
 と続く。
 そして第二部は、「賢治の、ひろがるひろがる宇宙」。第三部、「賢治の、いくつものいくつもの人生」は、「歩く」、「読経する」、「恋する」、「語り合う」、「発明する」、「笑う」、「探す」、「耕す」、「セールスする」、「書きつづける」という項目に分かれて、賢治の人生の各局面が作品とともに解明される。こんな箇所がある。
 「賢治は「じっと見る」ことが好きだった。そのあたりは『学者アラムハラドの見た着物』でさらに楽しめる。楽しめるというか、「じっと見る」賢治の不思議な感じ方をたいけんできるよ。 / アラムハラドは、火を見すぎてそれが奇体なものだと発見して、自分の教え子たちにそのことを伝えるんだ。賢治の目のすごさがわかる」として、本文の一部を引用する。
 「火が燃えるとき焔をつくる。焔といふものはよく見てゐると奇体なものだ。それはいつでも動いてゐるがやっぱり形もきまってゐる。その色はずゐぶんさまざまだ。普通の焚火の焔なら橙いろをしてゐる。けれども木により又その場処によって変に赤いこともあれば大へん黄色いものもある。(後略)」
 小柳学氏は「左右社」の経営者として多くの良書を世に出しているが、祖父、祖母が東北出身であることから、早くから宮沢賢治に関心をもった。祖母の名前はイチで賢治の母と同名、祖父は『なめとこ山の熊』の小十郎のように熊に殺されたという。そんなところにも因縁を感じて、一層賢治への関心を強め、賢治作品の舞台を取材したという。
 小柳氏がどれほど賢治の作品を愛しているか、エピソードの引用の仕方にもそれはあらわれている。『注文の多い料理店』の出版記念会のようなものを親友の藤原嘉藤治と挿画を担当した菊池武雄が催したときのときのことで、菊池によれば、話もそろそろ尽きかけた頃、賢治が言い出したという。
 「「今こんなもの書きかけているがどういうもんでしょう。子供等にはわかるようだが」
 宮澤さんはオーバーのポケットから一握りの原稿を出しかけている。その顔は長時間の倦怠の色もなく、さも楽しそうである。
 「どんなのだス」
 「銀河旅行ス」
 「ワア、銀河旅行スか。おもしろそうだナ」
 「場所は南欧あたりにしてナス。だから子供の名などもカンパネルラという風にしあんした」
 それからストーリーのあらましの説明がある。
 「まんず読んで見ねえすか」
 「読んでもええすか、でも少し長いから退屈させるとわるいナ」
 「ヤ、かまねえ、かまねえ」」(『注文の多い料理店』出版の頃)
 この引用のあとに、小柳氏は、「賢治が実際に朗読した『銀河鉄道の夜』かあ。もし時間旅行ができたら、ここにたちあいたいなあ」と、心からの願望をつけ加えている。
 宮沢賢治は、このときから亡くなる1933年までの9年間、この作品を推敲しつづけた。そして亡くなる二カ月前に、盛岡農林学校時代につくった同人誌「アザリア」の仲間だった河本義行が水死したことを知らされた。遊泳中の若者を救助しようとした同僚を助けようと川に入り、若者と同僚は助かったが、河本は心臓麻痺を起して亡くなったのである。小柳氏は、賢治がこの知らせをうけて、カンパネルラの水死の場面を変更したと推測している。
 『銀河鉄道の夜』をはじめとして、作品の多くが一度完成したあとも時をおいて最初から最後まで手を入れられ、新たな完成形が出現し、いわば層をなしている。私たちはこうした層の重なり合いから賢治のそのときどきの思想を読み取ることができる。その際の格好の手引書が、この『宮沢賢治が面白いほどわかる本』である。
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by monsieurk | 2011-09-15 20:42 | | Trackback | Comments(4)

仙厓

 有楽町の出光美術館で、”大雅、蕪村、玉堂と仙厓~「笑」のこころ”という展覧会が開催中である。初日に観に行ったが、「仙厓の一人勝ち」という印象だった。これはそれぞれの力量というよりは、出品作品の量と質の違いというのが正しくて、出光美術館はもともと仙厓の蒐集に力を注いできており、代表作の禅画「○△□」をはじめとして、数多くの書画を所有している。出光の仙厓コレクションは、来日したフランスの作家で文部大臣だったアンドレ・マルローが絶賛したものである。今回の展示でも、大雅10点、蕪村4点、玉堂15点に対して、仙厓は25点と、量の上でも圧倒していた。
 仙厓義梵は寛延3年(1750)に美濃国正儀郡に生まれた。月船禅彗に師事し、その後博多の聖福寺の住持として20年つとめた。その間に禅問答だけでなく、洒脱で飄逸な禅画を描き、それを通して弟子たちに禅の精神を伝えたという。「寿老画賛」や「達磨画賛」などが典型だが、仙厓は住持をやめたあとは博多の庶民たちと交わり、ユーモアに溢れる奔放な画を描いた。「厓画無法」という言葉があるように、その筆法は自由自在である。
 「鯛釣恵比寿画」には、大きな鯛を釣りあげた恵比寿様が、顎が外れるほど大口をあけて笑っている。そこに、「よろこべよろこべ」と賛が書かれている。
 そして「さじかげん画賛」と題された作品。紙本墨画で、大きさは35.6×53.0センチの小品で、そこには画面いっぱいに一つの木製の匙が描かれているだけである。そして自由闊達な文字で、一言「生かそふところさふと」と書かれている。医者のさじ加減一つで、生死はどうにでもなるというブラック・ユーモアである。あるいは人の生き死には天のさじ加減ということだろうか。
 その隣に掲げられた絵のタイトルは「摺古木画賛」。こちらは擂り粉木と杓子だけ。そして賛として、「姑めの志やくし當りの非とけれハ / 嫁め子の足ハすり古木となる 厓井」とある。「しゃくしあたり」とは杓子に盛られるご飯の量をいい、姑に毎日いろいろ指図されているうちに、嫁の足は摺古木のように少しずつ削られてやせ細ってしまった、という意味である。
 今度の展示で知ったのだが、仙厓は面白い石に興味を持っていて、それを探すことが時として旅に出る動機になったという。面白かったのは、彼が生前愛玩したという「亀石」である。長さは7.6センチの濃茶の石で、形も色も亀に似ている。これを見つけた仙厓は同じ趣味の愛石家たちに見せ、「亀石」という銘をつけ、次のような巻物をつくった。
 「亀石之銘 亀之則石石之則 亀惟亀惟石合 為石亀 / わくらわに なにぞと 問ハ 志ら波のなきさに得たる 亀に似た石」
 もう一つは「神授硯」と題された黒い石である。いかにも硯の形状をしているが、硯面が波型の突起があって硯としては使えないが、その美しさは神代の豊玉姫が残した硯ではないかと思われるような見事なものである。彼はこれにぴったりの木の蓋をつくり、そこに「金剛」という銘を刻んだ。仙厓は天然の造型の神秘に禅味を感じると同時に、一方で友人たちに得意気に、こうした遺愛の品をみせたのだろう。
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by monsieurk | 2011-09-13 17:47 | 美術 | Trackback | Comments(0)

模作事件

 前回、ステファヌ・マラルメが「折ふしの詩句」を書き、出版を考えていたことを書いたが、この計画は、詩人が1898年9月9日に喉の病で急死したために陽の目をみることがなかった。だが、その意志は娘ジュヌヴィエーヴによって受け継がれることになった。父の死後、マラルメの崇拝者だったエドモン・ボニオ博士と結婚したジュヌヴィエーヴは、夫と共同して「折ふしの詩句」を編纂し、1920年にガリマール書店から出版した。この初版ではおよそ450篇の短詩が項目別に分類されて発表されたが、このなかに一篇の模作が紛れこんでいたのである。
 かつてパリ6区のサン・タンドレ・デ・ザール通りで古書店を営んでいたルネ・キフェール氏は、古書の売買と挿画入りの豪華本の出版を本業にするかたわら、模作の蒐集に執念を燃やしていた。私はマラルメのテクストの変遷を調査する過程で、彼の詩にも模作があったことを知った。キフェール氏が喜んで蒐集に加えてくれたことは言うまでもない。
 その模作とは「モロッコ革装幀のロンサール詩集の上に、ある女の旅行者のために」と添え書きのある四行詩で、詩句は次の通りである。
  Quand au dining car dine Alice
  Qu’elle penche son front têtu
  Sur ce petit livre vêtu
  Tout de rouge cardinalice.

  アリスは食堂車(ダイニング・カー)で食事のときも
  きかん気な額を傾けて読み耽る
  枢機卿の緋の衣をまとった
  この可愛らしい赤い本。
 dining carとあえて英語を使っているのも、高等中学校の英語教師だったマラルメらしい。ところが、これが模作だったのである。
 ジャン・ペルランは、友人のアンドレ・デュ・フレノワと共に、当時の大衆文芸誌「ジル・ブラス」の投書欄を受け持っていた。彼は模作(パスティシュ)をつくることが得意で、問題の一篇も筆のすさびに書いたもので、公にする気は毛頭なかった。ところが同僚デュ・フレノワがそれを発表してしまったのである。「ジル・ブラス」の1914年3月4日号の通信欄にはこうある。
最近の売り立ての際、ただ同然の値段で一冊の小型本が売買された。赤いモロッコ革装幀のロンサールの詩篇を選んで集めたものである。仮扉の裏はステファヌ・マラルメの自筆の四行詩で飾られている。「ある女の旅行者のために」と献呈の辞についで、四行詩。(ここに先述の詩が引用されている)
 偽装は巧妙だった。デュ・フレノワとて他意があったわけではない。友人の模作で文学愛好家に一杯喰わせようといういかにもフランス人らしい手の込んだ悪戯だった。だが、事態は意想外の方向へ展開した。1920年に『折ふしの詩句』が出版されてみると、あろうことか6年前の模作が正当な一篇として掲載されていたのである。ペルランはすぐにそれが自分の模作であると名乗りで出た。「メルキュール・ド・フランス」誌で、彼は次のように述べている。
ボニオ博士が私の模作を収集するなどとは思ってもみなかった。本が出版された時、そこに私の四行詩が載っているのを見て仰天してしまった。驚くと同時に、あきれもしたのだ。というのも1919年に『懐郷のロマンス』を書いた際、かつての模作に忍ばせていた韻を思い出させる韻を二つ混ぜておいたのだから。マラルメの名で発表された特徴的な二つの韻を、まさか私が彼から盗んだと糾弾されることにはならないだろうが。
 一方、ボニオ博士は釈明の手紙をガリマールに宛てて書いた。
私の過ちは詩人の娘の抱いた疑念を配慮しなかったことである。彼女はこの詩集に収められた他のすべての詩句については、それが生み出される都度、手帳に書き写していたのだから。
 ジャン・ペルランの模作は、ガリマール版の『折ふしの詩句』から除かれたのは当然である。ジャン・ペルランは20世紀の初めには、高踏派の流れをくむ中堅詩人として知られていたが、今日ではこのマラルメの模作一篇によって文学史にその名を残している。
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by monsieurk | 2011-09-11 23:33 | マラルメ | Trackback | Comments(0)
 久しぶりに「メリー・ローランの楽譜挟み」を虫干しした。これを譲ってくれたのは、詩人で古書店を開いていたヴァレット氏で、もう30年近くも前のことである。ヴァレット氏は亡くなり、店も代替わりしてしまった。
 フランス象徴派の詩人ステファヌ・マラルメの晩年に、心から愛していた女友だちメリー・ローランがいたことはよく知られている。彼女は金髪をうたった名作に霊感を与えた存在で、マラルメも「折ふしの詩句(Vers de circonstance)」と呼ばれる短詩の幾つかを彼女に捧げている。この楽譜挟みの表紙にも、マラルメ自身の手で、八音綴り交韻の四行詩が書かれている。
  Musique dedans endormie
  Il suffit pour te render aux cieux
  Que la lèvre de cette amie
  Ouvre son baiser gracieux.

  なかに睡眠(まどろ)む楽の音よ
  お前を空に返すには
  この友が唇を開き
  優しげに口づけするだけでいい。
 ボール紙の上に褐色のビロードを一面に貼り、まわりを絹の小切れで縁取りした、縦38センチ、横95センチの秩で、楽譜を挟むようになっている。四行詩は褐色のビロードの上にさらに薔薇色の布を貼りつけて、その上に金粉を使ってすべて大文字で書かれている。詩の上には、「A Méry / SM / 1897」とある。
 楽譜から歌をよみがえらせるには、メリーが口を開きさえすればよいという意味の洒落た短詩で、若いとき舞台にたったこともあるメリー・ローランは、ピアノを弾き、すき通る声でよく歌をうたったという。メリーのサロンで、ピアノを前に座る彼女を囲むように、画家のジェルヴェックスとマラルメがいる写真が残っている。
 マラルメがメリー・ローランを知ったのは友人の画家エドゥアール・マネのアトリエであった。絵のモデルとしてしばしばアトリエに来ていたメリーは、色白の豊満な肉体と、なによりもたわわな金髪の目立つ、第二帝政時代好みの美女であった。
 当時のメリー・ローランは、皇帝ナポレオン三世かかりつけのアメリカ人歯科医トーマス・エヴァンス博士の庇護のもとにあったが、寛容な博士はメリーの自由を認めていた。全盛期の彼女のサロンには、文学者、画家、音楽家など知名の士が多く出入りしていた。
 マラルメがメリーと親しく交わるようになったのは、マネが死んだ1883年以降のことである。もともとマラルメには金髪にたいする偏愛があった。機知に富む金髪の美女メリーはマラルメを虜にした。一緒に散歩をし、音楽を聴き、会話を楽しみつつ、マラルメは金髪に恍惚となった。
 マラルメがメリー・ローランに宛てた手紙は、ベルナール・マルシャルの手で公刊されたが、メリーからの手紙は散逸してしまったために、マラルメとメリーの関係が具体的にどのようなものであったかを解明することは難しい。ただそれを知る手掛りとして、マラルメが彼女に捧げた幾つかの短詩がある。これらの短詩は、扇の面や、玩具の葦笛のまわりに巻かれた小旗や、復活祭の卵などの贈り物の上にかかれたものである。なかでも「郵便つれづれ」としてまとめられた、宛名と住所をよみこんだ百三十篇にのぼる四行詩は、角封筒の上に書かれて、実際に投函され、配達もされた。
 メリー・ローラン宛の一通はこうなっている。
  Paris, chez Madame Méry
  Laurent qui vit loin des profanes
  Dans sa maisonnette very
  Select du 9 Boulevard Lannes.

  パリなるメリー
  ローラン夫人 俗塵遠き
  「極上」のそのお住まいは
  ランス大通り9番地。
 日本語に移してしまえば短詩の面白味は消えてしまうが、律格はまもられ、宛名や町名が脚韻を踏むように工夫されている。相手の名前、住所、あるいは先方の属性を示す言葉が選ばれていることが肝心で、洒落た言葉や思いもよらない韻律が繊細微妙な効果をあげている。
 当初は思いつきの遊びとしてはじめたマラルメも、次第にこうした技巧に夢中になり、出版さえ考えるようになった。1894年には、「郵便つれづれ」の一部をアメリカの雑誌「ザ・チャップ・ブック(The Chap Book)」に発表し、のちには他の「折ふしの詩句」とともに一冊の小型本にしようと手帳に控え、序文まで用意した。
 マラルメは序文で、この企ては、「通常の角封筒の型と四行詩の配置との明らかな関係」から発想されたと述べている。たしかに初めの動機はこうした戯れであったに相違ない。角封筒の型と大きさが、四行詩にぴったりだと感じたとき、マラルメは宛先と宛名を詩によみこむことを考えついたのであろう。
 マラルメの中には、純粋詩を追求しては神経失調に陥るまで思索を重ねる一方で、文字と戯れ、韻律を楽しむ洒落っ気もあった。あらゆる機会をとらえて、言葉を操作し、思いがけない効果を見つけることこそ、平凡で退屈な日常に命を吹き込むなによりの方法であったのだろう。
 表面的には詩人の手遊び、詩人の遊び心とみられかねないこうした詩に、マラルメが執着した理由もそこにあった。
 金粉で四行詩を書き込まれたマラルメ手製の楽譜挟みは、百年以上をへた今も、マラルメの心の微妙なゆらめきを伝えてくれる。
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by monsieurk | 2011-09-10 19:16 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

三浦一馬

 気鋭のバンドネオン奏者、三浦一馬の演奏会が近くの市民館であった。今年21歳の三浦は、NHKテレビの「フロントランナー」でも取り上げられた注目株で、昨夜の演奏会も期待にたがわぬ刺激的なものだった。
 前半はアルゼンチンの巨匠アストル・ピアソラ(Astor Piazzolla)の曲で、幕開きからの3曲はピアノ(BABBO)とのデユオ。三浦のバンドネオンはタンゴ特有の哀愁を帯びたメロディーを刻み、とくに2曲目の「アディオス・ノニーノ(Adiós Nonino)」は烈しい旋律ではじまり、やがて抒情的なメロディーを繊細な奏法で奏でた。青と赤だけの単純な照明が現地のバルの雰囲気をかもしだし、伸び縮みするバンドネオンの縁に当たった光がときおりきらめく。
 三浦は1990年にピアニストの両親のもとで東京に生まれ、幼いときに一時イタリアに滞在した経験をもつ。パンフレットにある経歴によれば、10歳のときにバンドネオンの音楽を聴いて衝撃をうけて、日本人奏者の小松亮太に師事した。その後2006年に別府アルゲリッチ音楽祭で、現在バンドネオン界の最高峰といわれるネストル・マルコーニ(Nestor Marconi)と出会ったことが転機になったという。
 16歳の彼は自作のCDを売って渡航費を捻出すると、アルゼンチンに渡りマルコーニに師事した。2年前の1999年にイタリアで開かれた国際ピアソラ・コンクールで日本人初、史上最年少で準優勝をはたし、一躍国際的にもその名前を知られることになった。
 バンドネオンは「悪魔の楽器」といわれるほど習得が難しいという。1847年にドイツ人ハインリッヒ・バンドがアコーデオンの影響のもとで考案したもので、左右にある70個ほどのボタンを操作し、蛇腹を伸び縮みさせて空気を送りこんでリードを震わせて音をだす。アコーデオンのボタンが規則よく並んでいるのに対して、バンドネオンのボタンの配置は不規則である。最初はドイツの民族音楽に使われていたが、20世紀になって交流の深い南米のアルゼンチンやウルグアイに多く輸出され、やがてタンゴの演奏に取り入れられるようになった。
 4曲目からはアストル・ピアソラが創始した「キンテート」つまり、「クインテット」の編成での演奏だった。バンドネオンとピアノに、ヴァイオリン(衣田真宜)、コントラバス(高橋洋太)、エレキギター(大坪純平)が加わって、ピアソラ作曲の名曲、〈天使のミロンガ(Milonga del ángel)〉、〈現実としての三分間(Tres minutos con la realidad)〉、〈ブエノスアイレスの冬(Inviemo Porteño)〉、〈ブエノスアイレスの夏(Verano Porteño)〉が次々に披露された。
 演奏の合間に三浦一馬が行った紹介によれば、アストル・ピアソラは伝統的なタンゴにクラシックやジャズの要素を融合させてまったく新しいタンゴを創造したという。そこには家族とともに一時ニューヨークに住んでいた影響があり、強いリズムと重層的な構造をタンゴに持ち込んで、その上にタンゴ特有なセンチメンタルなメロディーを自由に展開したのである。
 最初は「踊れないタンゴ」、「タンゴの破壊者」と酷評されたが、やがて現代タンゴの代表的な作曲家・演奏家としての名声を確立した。三浦一馬の特別編成になる「キンテート」は、ピアソラの演奏を忠実に再現しており、とくに大坪純平のエレキギターの音が効果的なアクセントとなっていた。
 音楽を表現する言葉の持ちあわせが少なくて恐縮だが、一時間をこえる演奏は、官能の満足の裏に張りついている死の影を描出していたとでもいえばいいのか。彼が年齢を重ねれば、音楽はもっと陰翳を深めることだろう。
 最後は師匠であるネストル・マルコーニと息子のレオナルド・マルコーニの2曲も披露され、アンコールではピアソラの代表作〈リベルタンゴ(Libertango)〉が演奏されて、満席の会場はいつまでも拍手が鳴りやまなかった。三浦一馬のファースト・アルバム『タンゴ・スイート』に次いで、11月には「キンテート」の編成によるセカンド・アルバム『ブエノスアイレスの四季』がリリースされる予定だという。
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by monsieurk | 2011-09-08 12:18 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

雑誌「反世界」

 ステファヌ・マラルメの詩「賽の一振り」の最初の日本語訳は秋山澄夫によって行われ、1967年7月20日発行の季刊雑誌「反世界」の創刊号に発表された。タイトルは、「詩篇 骰子一擲いかで偶然を廃棄すべき」となっており、その後思潮社から本として刊行された。雑誌「反世界」は、金子光晴、木々高太郎、吉田一穂の編集になるもので、前川和彦が発行人をつとめる「木曜書房」から刊行された。
 この創刊号は、秋山澄夫のマラルメの翻訳を中心にした詩の特集号となっており、高橋玄一郎の評論「道に沿って」は、マラルメの「賽の一振り(アン・ク・ド・デ)」を例にあげて伝統的な詩への反抗を訴え、「<文学は、いま、言うをえない、根本的な危機にある>と思ったマラルメは、此の<危機意識>を通し、新しい詩的構造の創造をつねに夢みていた。それは<イジチュル>から<アン・ク・ド・デ>をつらぬく一筋の詩的反体制の糸である。」と述べている。
 雑誌には、木々高太郎、金子光晴、吉田一穂の三人の編集人の鼎談「フラム号・船室夜話」が載っているが、その中で、
吉田 今度、秋山澄夫君が、「骰子一擲」を訳したんだ。十年も死と戦いながら、それを一冊の本にすると、大きいやつにしなきゃならない。これは校正刷りです、まだ。(本を見せる)
 木々 大したもんだね。僕もマラルメのこの詩を読んだことがある。むずかしいが判らぬ詩ではない。
 吉田 いま三校をやっているんだ。僕はこれ〔秋山訳〕に原文を書き入れてきて驚いたことにはね、マラルメが死んでからもう七〇年、一世紀近くたちましょう。しかしこれがね、サンボリズムの最後の詩ですよ。その詩をよく調べてみてね、藤村から白秋はむろんのこと朔太郎も、われわれと何の関係もない世界だということがわかった。マラルメにおいてしかりだとすれば、彼らは近代詩なんてものじゃないな。和歌、俳句の胎内潜り、要するに新体詩ですよ。(中略)
 ものの考え方が平面的なんだ。だからずるずる引きずられて書きまくって、自由詩だといっているが、おれはクラゲ詩だといってんだ。なぜそうかというと、音律というものが、唯一の詩学的規範であったということだ。しかもそのプロソディ〔作詩法〕は感情律で、抒情詩を詩と思いこませてしまった。つまり立体的でもなく、批判精神も欠けている
と、新たな詩の到来に期待している。彼らの目指す批判精神の充溢した詩とは、例えば雑誌に掲載されている木々高太郎の詩などを指すのであろう。
 木々高太郎(本名、林髞(はやし・たかし))は、明治29年に山梨県で生まれ、慶應義塾大学の医学部を卒業した大脳生理学の専門家で、ソビエトに留学してイワン・パヴロフのもとで条件反射の理論を学んだ。その傍ら中学時代から校友会誌に投稿する文学青年でもあり、上京後は金子光晴たちと親交をもった。昭和9年には木々高太郎の筆名で、雑誌「新青年」に短編推理小説「網膜脈視症」を書いてデビューし、以後多くの推理小説(当時の言葉でいえば探偵小説)を発表して昭和12年度の直木賞を受賞。戦後は第三代の日本推理作家協会会長をつとめた。そんな彼が多くの詩を書いていたことはあまり知られていないが、この「反世界」創刊号にも二編の詩を発表している。その一篇「骰子の一擲」は、言うまでもなくマラルメに触発されたものである。
         骰子の一擲
                 友・吉田一穂に献ずる

 詩人のうちでの変種である、
 女や花には詩を求めず、
 女は抱いてねるだけ、花は嗅ぐだけだった。

 彼の詩は天界の銀河系から
 銀河系の向うの反世界から
 そして電波天文学から来るのだったから、
 ロケットがあげられ、宇宙遊泳が始まると、
 彼は哄笑し、あざわらった。
 群小ロケット共よ!
 俺の飛翔をみよ! と

 詩人にも若い時があり、若い友達がいた。
 君はスピノーザをよむかね。
 ――石を投げると
 石は神の法則に従って飛ぶ。
 だが若し、石に意志があるとしたら、
 石は自分の意欲で飛んでいると
 感ずるに違いない。――
 このスピノーザの恐ろしい言葉に懊み、
 やがて俺はマラルメを読んだ。
 思想は石の投擲の如く、
 自分の意志でも独創でもないかも知れぬ。
 だが、――喘いで天空を仰ぐ、
 難破する船の上からも
 乾坤一擲!
 二者択一! だけは出来る。

 あらゆる存在、あらゆる実存、
 あらゆる生命がスピノーザの石であろうとも、
 人間には、骰子の一擲が出来るのだ。
 マラルメよりも更に寡黙なその詩人が、
 一行だけの詩をかき
 一行だけの詩をよしとするのは、
 やはり彼の哲学から来た。
 その詩を友達の一人が理解するなら、
 彼の哲学からは
 それは完全無欠の実在であった。
 壮大なる一擲よ、
 雄渾なる一行よ、
 ああわれ人間たるを悔いず、
 ああわれ詩人たるを悔いず。     (1967)
 木々高太郎のこの詩は「賽の一振り(骰子の一擲)の一つの解釈になっている。以下は蛇足と宣伝。「賽の一振り」の翻訳と解釈については、ステファヌ・マラルメ『賽の一振りは断じて偶然を廃することはないだろう』(行路社、2009年)を参照されたい。
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by monsieurk | 2011-09-06 17:43 | マラルメ | Trackback | Comments(0)