ムッシュKの日々の便り

monsieurk.exblog.jp ブログトップ

<   2011年 10月 ( 12 )   > この月の画像一覧

ベルリンの壁崩壊(1)

 1989年11月9日の夜、東西ベルリンを隔てていた壁が崩壊し、それをきっかけに東ヨーロッパの民主化がはじまった。この日、私はロンドンにいた。この年の9月までパリのヨーロッパ総局に勤務していて、前年1988年後半から東ヨーロッパ各国で、大きな変革につながる動きがあることを感じていた。
 ヨーロッパ総局の建物のテラスには、直径1メートルをこすパラボラアンテナが設置されていて、ソビエトを含む東西ヨーロッパ各国の放送局の電波が受信でき、詳細な動きを観察することが可能だったのである。
 89年4月の1カ月間、衛星放送で毎週土曜日、ブダペスト、ワルシャワ、プラハ、さらに東ベルリンから中継番組を放送した。キャスターはパリ在住で、衛星放送のキャスターお願いしていた岸恵子さん(女優)と小室広佐子さん(現東京国際大学准教授)に交代でつとめもらい、各国の放送局が協力してくれた。
 9月に一度東京に帰任したあと、変化が予感される東ヨーロッパを取材すべくチームを組み、11月初めに、西ベルリン、ポーランドのワルシャワ、パリへ送り込んだところだった。私自身は、作家で、かつてイギリスの諜報機関MI6で働き、東側の情報に詳しいジョン・ル・カレ(John le Carré、本名Davide.J.M.Cornwell)を口説いて、ベルリンの壁の前でインタビューをするために、成田を発って9日の夕方ロンドンに着いたところだった。
 時差の関係で早めにホテルのベッドに入り、うとうとしていたとき枕元の電話が鳴った。西ドイツのストリンガー(通信員)ハンスからの電話で、「ベルリンの壁が壊れた、すぐにテレビを見ろ」という。テレビをつけるとBBCが西ベルリンからの中継をやっており、壁に設けられた検問所をこえて西ベルリンに入ってくる人たちの姿を映し出していた。午後9時をまわったところだった。
 翌10日早朝、ベルリン行きの英国航空の席を何とか確保して現地に入り、前夜パリを車で発ったクルーと合流して取材を開始した。
 11月9日に東ドイツ政府のスポークスマン、シャボフスキーは午後6時過ぎから行った記者会見の最後で、「一般市民の西側への旅行の自由を認める」と発表し、「いつから実施されるのか」という記者の問いに、「今から直ちに(ab sofort)」と答えていた。だがこれがまったくのハプニングだったことは後の取材で分かったのである。その証拠に、西ドイツのコール首相はこの日ポーランドを訪問中で、ワレサ大統領との会談をとりやめて急遽帰国したほどだった。
 10日も朝から、東ベルリン市民たちが次々に検問所を通って西ベルリンに入ってきた。そんな中に父親に連れられた二人の女の子を見つけた。彼女たちが先ず驚いたのが果物屋の店先でバナナを見たときだった。聞けば東側では冬にバナナを見かけることなど絶対にないという。1960年にベルリンの壁が築かれて以来、離れ離れの親戚を訪ねたいということだった。
 それから数日すると、西ベルリンの壁際にゴルバチョフの等身大のパネルがいくつも並べられるようになった。ベルリンの壁崩壊という歴史の大転換をもたらした要因の一つがゴルバチョフ書記長の決断だったことを西側市民はよく分かっていたのである。
 壁が開放された直後から、若者たちが壁によじ登り、壁をハンマーで叩く姿が見られた。間もなく壁の数カ所に人が通れるほどの穴があけられ、そこから東ベルリンへ潜入することができるようになった。私も穴を潜り抜けたが、長きにわたって東西を隔ててきた厚さ1メートルをこす壁の中は空洞だった。
 こうした様子を取材していると、金鎚をもった7、8歳の女の子が、これを貸すから煙草をくれといってきた。煙草は吸わないので、小銭と交換に金槌を借りて壁を壊した。だが持ち帰ったベルリンの壁の破片はいつのまにかなくなってしまい、いまはニューヨークに住む知人の陶芸家が、茶碗の底に焼きこんでくれたものだけが残っている。
 この日から1カ月、寒さの厳しいベルリンをはじめ、東ヨーロッパ各国を取材してまわった。歴史の歯車が大きく回っているのを実感する毎日だった。
[PR]
by monsieurk | 2011-10-31 23:41 | 取材体験 | Trackback | Comments(0)

ハノイ再訪

 ヴェトナムのハノイを35年ぶりに訪れたのは2008年12月のことである。再訪はこれから書こうとしている小牧近江の伝記の下調べのためであった。
 小牧近江、本名、近江谷駉(おおみや・こまき)は、暁星中学生のときに代議士だった父に連れられてフランスにわたり、第一次大戦後に起った反戦運動の影響を強く受けて帰国、故郷である秋田・土崎で雑誌「種蒔く人」を創刊した。この雑誌こそ日本におけるプロレタリア運動の魁となったものである。小牧はやがて第二次大戦中にヴェトナムのハノイへ渡り、フランスからの独立を願うヴェトナム人たちの運動を陰で支援した。
 
 NHK外信部にいた1973年1月11日、北ヴェトナム政府の招請で、ラオスのビエンチャン経由で訪れたのが最初だった。アメリカ軍による北爆が続いていた時代である。ハノイに着いてすぐに状況説明(ブリーフィング)があり、最初に言われたのは、もし空襲警報のサイレンが鳴ったら、すぐに防空壕に入れということだった。宿舎は外国人が泊まれる唯一のホテル「トンニャット(統一という意味)」で、これは19世紀からヴェトナムを支配していたフランスが建てたホテル・メトロポリタンで、それをずっと使ってきたものだった。シャワーの湯も満足に出ない状態で、防空壕は中庭に掘られていた。
 ヴェトナム戦争の経過を年表風におさらいすれば、1954年5月、ディエンビエンフーの降伏でフランスがヴェトナムから撤退したあと、代わってアメリカがコミットしてヴェトナム戦争は本格化する。1965年、アメリカ軍の北爆開始。1968年1月の北ヴェトナム軍と解放戦線による南部主要都市への一斉攻撃、いわゆる「テト攻勢」をへてヴェトナム戦争は泥沼化し、この間、世界のジャーナリズムはヴェトナムでの戦闘の現実を取材し発信し続けた。
 ヴェトナム戦争は「前線なき戦場」といわれて取材は危険をきわめたが、こうした取材によって、世論はヴェトナムで起こっていることを正確に知るようになった。いま世界中で起こる事件や政変は瞬時に伝わる。これは衛星を経由した情報通信がもたらした結果で、メディアの力がある意味で世界を動かすようになったのは、ヴェトナム戦争報道がきっかけであったよう思う。
 私たちNHKの取材陣に、北ヴェトナム政府の入国ヴィザが出されたのが1973年1月10日。ラオスにあった北ヴェトナム大使館でそれを受け取って、翌11日にハノイに入り、凡そ半月にわたりハノイや北部の要衝ハイフォンを取材することができた。
 取材にあたっては、どこへ行くにも北ヴェトナム対外文化連絡協議会の人と通訳が一緒で、取材を申請した項目以外に、ヴェトナム側が取材させたいところにも案内された。その意味で取材は相手方のコントロール下で行われたのが実情だったが、それでも戦時下の北ヴェトナムの民衆にじかに触れる取材はまたとない機会だった。
 このときの北ヴェトナムでは、エレベーターのある建物は2つしかなく、そのうち1つの建物のエレベーターは故障していた。ニクソン大統領は、「北ヴェトナムを爆撃で石器時代にかえす」と広言したが、北ヴェトナムの実態は農村主体の社会であり、彼らはその強みを十分に発揮してゲリラ戦を戦っていたのである。
 取材を進めて北部の都市ハイフォンに滞在していた1月23日夕刻、対外文化連絡協議会の人から急遽ハノイに戻ることになったと言われ、その夜遅くハノイにもどった。急な予定変更の理由は告げられなかった。
 翌24日の朝は濃い朝霧がたちこめていた。勢ぞろいした私たち(NHKの他、「赤旗」とフランスの通信社「AFP」の常駐記者、私たちと一緒にハノイ入りしたワシントン・ポスト紙のマレー・マーダー外報部長)が、幾台かの乗用車で連れて行かれたのは大統領官邸だった。建物は古びていたが、入り口の石段には赤い絨毯が敷かれ、上の部屋からは煌々と明かりが洩れていた。私たちは制止を振り切って、カメラマンが階段の下からカメラをまわしながら部屋に入ると、そこは大広間で、アメリカとの戦争を戦い抜いた北ヴェトナムの首脳がすべて顔を揃えていたのである。
 ファン・バンドン首相、ホー・チミン亡き後の理論的指導者といわれたレ・ジュアン第一書記、ジャングル戦で散々アメリカ軍を悩まし、「赤いナポレオン」と渾名されたボー・グエン・ザップ将軍たちが、私たち取材陣を笑顔で迎えてくれた。彼らは手に手にシャンパン・グラスを持ち、私たちにもすぐにグラスが配られた。
 「じつはパリでアメリカとの間で停戦協定が調印されることになった。それを皆さんと一緒に祝いたいと思って来ていただいたのだ。」これが最初のスピーチだった。その後は要人たちが私たちの中に入ってきて乾杯し、誰彼となく握手をする光景が繰り広げられた。カメラマンは建物に入ったときから一部始終を撮影していた。
 私がボー・グエン・ザップ将軍と握手をしていると、ファン・バンドン首相が近寄ってきて、耳元で「Ce qui finit bien, c’est bien.(終わりよければ、すべてよし)」と流暢なフランス語で囁いて、にっこり笑った。
 当時のハノイでは街のいたるところの街路樹に拡声器がくくりつけられており、午前10時に重大発表があると知らされていた人びとが、木の下に集まっていた。
 やがて拡声器から、「パリで行われていた会談で、レ・ドク・ト代表とアメリカのキッシンジャー博士が和平協定に調印した」というアナウンスが流れた。それを聞いていた老人、菅笠の農民、兵士、アオザイ姿の女性など、集まっていた人びとの顔に涙が伝った。そして誰いうとなく、「ホアビ・ゾイ(平和がきた)」という言葉が、さざ波のように聞こえてきた。
 私たちはこうした光景をすべて取材したが、問題はこれをいかに早く日本へ届けるかである。幸い翌日の午前中に、ハノイからラオスのビエンチャンまで飛ぶソビエト・アエロフロートの定期便があり、そこから先タイのバンコクまではチャーター便を確保して、夕方バンコクに着いた。すぐフィルムを現像し、衛星回線を使って東京のNHKに送り届けたのは1月25日の日本時間夜11時。こうしてハノイの光景を深夜の最終ニュースに滑り込ませることができたのだった。
 このときのハノイ取材では、いくつも発見があった。フランスの統治が終わって30年以上すぎたこのときでも、学校では子どもたちが見事なフランス習字で文字や数字を書いていた。
 暑いヴェトナムではシエスタ(昼寝)の習慣があり、これは戦争の間も守られていた。昼食が終わると家の窓には簾などの覆いがかけられ、みなが睡眠をとる。これは戦場でも同じで、シエスタの間は戦火がやんだという。
 ある日、現地の新聞にこんな記事が掲載された。兵士となって戦闘に参加した北ヴェトナムの数学の教師が銃後の恋人にあてた手紙を、南ヴェトナム軍兵士が戦場で拾い、それが北の恋人のもとに送られてきたというのである。手紙には、「ぼくはいま戦場にいる。そして君のことを思う。ぼくが祖国のために戦死したら、どうか友人の何某と結婚して幸せになってほしい」と書かれていた。手紙の主は恋人のもとには帰ってこなかったという。 
 またある日、宿泊先の「トンニャット」にアエロフロートのクルーが、大量の桃の花とともに到着した。聞くと、旧正月を祝うのに欠かせない桃の花は、南ヴェトナムから送られたものだということだった。烈しい戦火を交えながらも、北と南の交流は途切れることはなかったのである。
 だがヴェトナム戦争はこのときの和平協定では終結せず、結局、1975年4月に北ヴェトナム軍が南のサイゴンに無血入城してようやく終りを告げたのだった。

 そのときから35年、ハノイの変貌ぶりは劇的だった。懐かしい「トンニャット」は元の名前の「メトロポリタン」となり、豪華なホテルに生まれ変わっていた。外務省も場所こそ同じところにあったが、建物は一新されていた。ただフランスが統治していた時代の建物や街並みはそのままで、調査の目的だった小牧近江の自宅があった Boulevard Carnotは、通りの名前がPhan Dinh Phungと変っていたが、同じ78番地に瀟洒な建物を見つけることができた。彼が勤めていた「印度支那産業」や「日本文化会館」も70年前の場所に現存していた。「日本文化会館」の入っていた建物は、いまヴェトナム教育省になっている。
 小牧近江がいた当時の地図や新聞などを国立図書館で探したが、フランス語を話す若い女性の司書の協力で貴重な資料の数々を探し出すことができた。最後に司書の女性は、資料を保存するのに、「コンピュータ用のメモリー、USBを持ってきたか」と訊ねてきた。持っていないと答えると、すぐにCD―ROMに焼いて提供してくれた。30数年前の記憶に引きずられて、コンピュータの普及に思い至らなかった自分を恥じた。
[PR]
by monsieurk | 2011-10-28 20:29 | 取材体験 | Trackback | Comments(0)

クロード・ランズマンの回想録

 フランスの思想家クロード・ランズマンと知り合ったのは、NHKに勤務していた1985 年のことである。彼が製作した映画「ショア」(Shoah)を放送するために、パリの自宅を訪ねたのが最初だった。第二次大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅計画の実態を追ったこの映画は9時間半の超大作で、それを彼の家の寝室のベッドに二人で座って延々と見て、その後の話し合いで放送する許可を得たことを昨日のように思い出す。
 一昨年フランスに滞在した折、ランズマンの『パタゴニアの野うさぎ』(Lièvre de Patagonie)という回想録を目にした。本は550ページをこえる大著だが、一気に読み終えた。邦訳はまだないが、20世紀を生き抜いた知識人の体験を書き綴った問題作である。
 ランズマンはフランスに移住したユダヤ人の息子で、1925年にパリで生まれた。第二次大戦中、高校生で共産党に入党し、父親の影響で対ドイツ・レジスタンスに参加した。ただ当時のフランスのレジスタンスは内部で激しい権力争いがあり、党は父親が所属する「レジスタンス統合運動」という組織をつぶすのに一役買うよう彼に要求した。それは父親を裏切ることであって、ランズマンはこの出来事で最初の深い挫折を味わったと述べている。レジスタンスは英雄的な行動だったと美化されがちだが、実態は複雑だったのである。
 第二次大戦後の彼に決定的な影響を与えたのは、哲学者で作家のジャン・ポール・サルトルやシモーヌ・ド・ボーヴォワールとの出会いだった。サルトルが戦後1954年に発表した『ユダヤ人問題に関する省察』(岩波新書では『ユダヤ人』というタイトルで翻訳されている)を読んだ彼は、その前後にサルトルと出会った。以後ランズマンは、20年歳上のサルトルと思想と行動を共にする。サルトルについては、「彼は真に行動する知識人だった。多くの仕事をし、じつに寛大な人柄だった」と書いている。
 シモーヌ・ド・ボーヴォワールは『第二の性』という女性論をはじめ、数多くの小説やエッセーを書き、サルトルと生涯をともにした人だが、二人の関係はお互いを縛らない自由なものだった。サルトルにも女友だちがおり、ボーヴォワールにも恋愛関係にあった数人の男友だちがいた。ランズマンも17歳年上のボーヴォワールと一時そうした関係にあり、回想録ではそのことも赤裸々に書かれている。
 ただそんな関係にあっても、ランズマンとサルトルの友情や思想上の共感にヒビが入る事はなかった。サルトルは雑誌「現代(Les Temps Modernes)」を刊行し、ランズマンはその編集にかかわり、サルトルの死後は今日まで彼が編集長として雑誌を出し続けている。
 ランズマンといえば映画「ショア」をはじめとする映画作家として知られているが、彼が最初に作った映画は、1973年に公開された「なぜイスラエルか」で、イスラエルとアラブの戦争を扱ったものである。そのほかに、「ツァハール(イスラエル国防軍)」などの作品があるが、今度の回想録でもクライマックスになるのが、映画「ショア」(これはヘブライ語で「ホロコースト・大量虐殺」を意味する)に関する章である。ランズマンは本の中で「ショアはユダヤ人の絶滅に関する映画ではなく、映画そのものがホロコーストなのだ」と述べている。
 第二次大戦中、ナチスによって殺されたヨーロッパのユダヤ人は600万ともいわれるが、「ショア」は強制収容所とは別にアウシュヴィッツ=ビルケナウなど全部で6つ存在した絶滅収容所の実態に迫るものである。ランズマンは、絶滅収容所から生還した2人のユダヤ人、収容所の元ナチス親衛隊員、日々何千もの死体が焼却される臭気のなかで黙々と生活を続けた周囲のポーランド人を見つけ出し、説得し、その言葉を、さらには沈黙を記録した。記憶が回帰する瞬間の微妙な表情を記録したフィルムは150時間分に達し、それを9時間半に編集して映画は完成した。
 映画の冒頭、初老の男が舟の舳先に座って、緑したたる樹木の間を流れる川を歌をうたいながらゆっくりと運ばれていく。この男シモン・スレブニクこそ、当時13歳でSS(ナチス親衛隊)のための食事を調達するために、毎日この川を往復させられた体験をもつ。うたっているのは彼らを慰めるために覚えさせられたポーランド民謡である。
 「なかなか見分けられませんが、ここでしたね。そう、ここですよ、人を焼いたのは。大勢の人がここで焼かれました。そう、まさにこの場所です。いったん、ここへ来たら最後、だれも生きては出られませんでした。」かつて2基の大きな焼却炉があった絶滅収容所は、証拠を隠滅するためにナチスが完全に破壊し、いまではまったく跡形もない。ナチスは証拠をなくすことで、過去の出来事それ自体を抹殺しようとした。
 2001年夏に行ったランズマンとの対談(ETVで放送)で、過去の記録映像をなぜ使わなかったかを直接訊ねたことがある。彼はその理由をこう述べた。
 「みなが知っている強制収容所と違って、ヨーロッパ中から連れてこられたユダヤ人がガス室で殺された絶滅収容所の様子を写した写真は、ナチスが撮ったたった一枚の写真以外に存在しないこと、そしてそれ以上に、この映画の狙いが、私たちの記憶の底に眠り込まされている体験的事実を意識の上に浮かび上がらせて、それを証言として積み重ねることにあったからだ。」
 つまり「ショア」という映画は、製作手法そのものが、映像イコール過去の記録という単純な考え方への強力な反証なのである。
 「ユダヤ人絶滅政策は、その肉体を抹殺するだけでなく、そうした事実の痕跡すらも抹殺してしまうという、その徹底性にこそ本質があった。証拠をすべて隠滅すること、それが絶滅計画の核心だった。だが殺戮の証拠がないことは、事実がなかったことを意味しない。」とランズマンは語った。
 意図的な歴史的事実の破壊、それに伴う記憶の抹殺に立ち向かうために、ランズマンはスレブニクに頼んで現地に立ってもらったのである。
 同じ方法は、もう一人の証言者アブラハム・ボンバにも用いられる。ランズマンはユダヤ人特務班として、ガス室に送られる前に、同胞たちの髪を切っていた理髪師のボンバをニューヨークで探し出すと、仕事をやめていた彼を説得して、さる理髪店で髪を切る仕事を再現させる。そうした状況のなかで、ボンバは思い出したくない記憶を甦えらせる。
 ガス室の前で仕事をしていたとき、故郷の町の人たちが連れてこられたことがあった。ユダヤ人たちは、散髪は身ぎれいにするためだと伝えられていたが、人びとには目には見えない恐怖が蔓延している。そしてある日、ボンバの同僚の理髪師に残酷な事態が訪れる。奥さんと妹が送られてきたのである。そのとき同僚はどうしたのかと問われたボンバは絶句し、首筋に脂汗が流れる。長い沈黙のあとで、ついに意を決したボンバは、目撃した事実をカメラの前で話しはじめる。同僚は、妻と妹にこれが最後の瞬間だと語ることができないまま、「彼はできる限りのことをした。一秒でも一分でも長く二人と共にいようと・・・抱きしめ、キスをした。」カメラは、混乱し、動揺するボンバの姿と言葉をすべて記録する。
 ランズマンは10年の歳月をかけて、証人を探し出し、隠され、ないものとされた過去を映像の上に甦らせた。かつては確かに存在したのに、存在の事実もろとも記録の上から意図的に抹殺されてしまった人びとが、こうした努力によって生命を取り戻したのである。
 「ショア」は現代史の貴重な証言であるとともに、映画作品としても真の傑作である。
 今年86歳になるランズマンの回想録は、文字通り20世紀を生き抜いた一人の人物の生きた軌跡をたどるもので、一読の価値がある。
 つけ加えれば、2001年9月の新学期から、フランスの高等中学校では、9時間半の「ショア」を3時間に短縮した映画を歴史の時間にみせ、教師がこうした過去を学生たちに教えることを文部省が決めた。ランズマンは自分の作品云々ではなく、フランス政府が教育の現場で過去ときちんと向き合う姿勢を打ち出したことが重要なのだと述べている。
[PR]
by monsieurk | 2011-10-26 13:00 | | Trackback | Comments(2)

携帯写真

 リビアでは42年の長きにわたって独裁政治をおこなってきたカダフィ大佐が殺害された。その最後の瞬間は携帯電話のカメラで撮影され、世界中に流布された。昨年暮れから北アフリカや中東を舞台に続いた独裁政権打倒の運動には一つの特徴がある。人びとは携帯やiPhoneなどの端末をインターネットにつなぎ、ツイッターやフェイスブックで仲間と連絡をとりあった。そして写真や動画を撮って、インターネット動画サイトで公開した。
 世界中の殆どの人が持っている携帯やiPhoneのカメラは、露出など細かい設定が不要で、いつでもどこでもシャッターを押して、現実を映像として切り取ることができる。街でなにか事が起れば、人びとが一斉に携帯のカメラを向ける光景は日常茶飯で、ネット上には無数の「携帯写真」のホームページが開かれている。そうした携帯写真は1839年にフランスで発明されて以後の写真史にあって、どのような意味を持つのだろうか。
 
 かつてNHKのETVカルチャースペシャル『写真と生きた20世紀――アンリ・カルティエ=ブレッソン91歳の証言』(1999年10月9日放送)を制作したとき、パリ・リヴォリ通の仕事場で、この伝説の写真家と対談する機会があった。
 カルティエ=ブレッソンの代名詞となった「決定的瞬間」は、1952年に出版された写真集の英語版のタイトルとして用いられたのが最初で、オリジナルのフランス版は”IMAGES À LA SAUVETTE” であった。このフランス語は「逃げ去る映像」というほどの意味で、それを英語版で、THE DECISIVE MOMENT(決定的瞬間)と訳したのは、けだし名訳であった。このときからカルティエ=ブレッソンの名は不朽のものとなり、写真を撮る人たちは「決定的瞬間」を求めて、カメラのシャッターを切るようになった。
 写真集『決定的瞬間』は、アンリ・マティスが表紙をデザインし、126枚の写真とコメント、それに「ルポルタージュ」、「主題」、「構図」などについて自説を述べた文章が収められている。
 カルティエ=ブレッソンは「主題」に関して、「重要なのは、さまざまな事実の中から、隠れた現実を示している真の事実を選び取る仕方であり、自分自身が認識したものに対して自分の立場を定めることである」と述べ、また「構図」については、「構図は必然性がなければならず、内容から切り離すことはできない」と言い、「(構図に)黄金比を適応するには、撮影者がその目ですばやく目測する以外にない」と語っている。つまり「構図」は撮影と同時に決定されるというのである。
 彼は対談でも、「絵画(素描)が瞑想なのに対して、写真は射撃だ」と言い、また「モータードライブによる連続撮影やズームレンズなどを使うのは邪道だ」とも語った。事実、カルティエ=ブレッソンにとっては、カメラの小さなファインダーの中に、黄金分割の構造が見て取れたときがシャッター・チャンスであり、その瞬間を逃さずにシャッターを切る。彼はそうした瞬間を予期して、場所と時間を選び、獲物が射程に入るのをハンターがじっと待つように、その瞬間が訪れるのを待つのである。
 だがこうした写真術は、類まれな感性と訓練によって、カメラが目の延長、身体の一部にまでなった特別の人が撮る写真にこそ当てはまることなのではないのか。
 繊維会社を営む裕福な家に生まれたカルティエ=ブレッソンは、小さいときに「ブロウニー・ボックス」型のカメラを買い与えられ、それで夏休みの写真を取ってアルバムをつくったという。ただ彼の興味はすぐには写真に向かわず、当時の芸術を席捲していたシュルレアリズム運動の洗礼を受けたあと、アンドレ・ロートのもとで本格的に絵を学んだ。
 詩人のランボーに憧れていた彼は、その後22歳のときアフリカへ渡って仕事に従事したが、病を得てフランスに帰国。マルセイユで療養生活を送っていたとき、小型カメラ「ライカ」と出会った。1931年のことである。このときから彼は写真を表現手段とする決心をした。機動性と速写性に富んだ「ライカ」は、絵画を描くうちに培われた構図への鋭い感覚と、シャッター・チャンスへの嗅覚を発揮するのに最適だった。ライカが持つ機能があって初めて、自らの現実認識を写真として定着することを可能にしたのである。それは文字通り「決定的瞬間」の出現であった。だがはたしてこの「決定的瞬間」は、本当に一瞬の勝負の成果なのだろうか。
 カルティエ=ブレッソンが創立者の1人であった写真通信社「マグナム」には、彼をはじめ多くのカメラマンが撮影した膨大な写真のコンタクト・プリント(「べた焼き」)が保存されている。上記のテレビ番組を制作する過程で、カルティエ=ブレッソンのコンタクトの一部を見せてもらうことができたが、写真集に掲載された作品の前後にも、ほぼ同じポジションで撮られた写真がある。発表された写真はコンタクトの中から1点だけ選ばれたものなのだが、ではコンタクトの意味をどう考えればいいのだろうか。
 フランスの映画監督アレクサンドル・アストリュックは、1948年に「カメラ万年筆論」を唱えた。小説家が万年筆を使って自分の思想を作品として具現化するように、映画の監督や脚本家は、カメラを使って自分の思想を表現するのだと主張したのである。
 この考えは、アンドレ・バザンによる作家論という形で具現化され、1950年代末に「ヌーヴェル・ヴァーグ」が誕生する要因の1つとなった。バザンは、映画とは「その裏張りが映像をとどめておくようにつくられた特異な鏡だ」とも述べている。ヌーヴェル・ヴァーグの作家たちにとって、自分が世界を見る眼差しがフィルムそのものであり、その視線をいかにフィルムのなかに「保存」するかが問題であった。これが「カメラ万年筆」論の本質であった。
 そしてヌーヴェル・ヴァーグ運動の旗手の1人だったエリック・ロメールは、「もし歴史が弁証法的なものだというのが本当ならば、保存することの価値が、進歩の価値よりも現代的である瞬間がやってくる」と語ったことがある。ここでロメールが保存しようとするのは、対峙する現実と自分とに流れる「時間」であり、保存されるものは、カルティエ=ブレッソンのいう「消え去る映像」なのである。
 じつはその点で、デジタル技術の登場が大きな意味をもつ。これは映像撮影と保存の上で大きな展開をもたらした。デジタル技術を装着した「万年筆としてのカメラ」は、ムービーであれ、スチルであれ(その最先端が携帯電話に付属したカメラである)、小型化によっていわば身体と一体化され、究極の速写性と保存性を与えられたのである。これを手にした私たちは、現実に向けた自らの眼差しを、いつでも記録することが可能になった。こうして写し撮られた映像は、現実の上を一瞬に流れた時間であり、そこに成立していた私たちと対象との関係である。
 さらにデジタル・カメラの簡便性と記録容量の大きさが事態を一変させた。人びとは1点きりの「作品」をつくるという意識をもつことなく現実を無造作に切り取る。こうしてデータ・フォルダーに小さな映像として保存された1コマ1コマの総体が、ある時間の経過の中で成り立っていた対象と撮影者の関係を表している。フィルムの時代には、1コマを選び出すための素材であったコンタクト・プリントそのものが、前面にせり出してきて意味を帯びてくる。そのとき「決定的瞬間」に要求された「構図」へのこだわりは減じられ(これには携帯電話の画面が概ね縦長で、しかも1対1.618 の黄金比をなしていないことが微妙に影響している)、無造作にシャッターが切られ、多くの映像が記録されていく。
 携帯カメラを手に入れたことで、誰もが現実に注意深く目を向けるようになった。同時にそれは自分を見つめることにつながっている。データ・フォルダーの中に連なる小さな映像――それはまことに「特異な鏡」なのだ。
[PR]
by monsieurk | 2011-10-25 13:28 | 芸術 | Trackback | Comments(1)

「ある日曜日、フェルメールと」

 10年以上も前に、パリのオルセー美術館の売店で見つけて翻訳したものに、『ある日曜日、フェルメールと』という絵本がある。これまでに二、三の出版先を当ったが、残念ながらいまだ出版してくれるところが見つからないでいる。
 翻訳をしたのは、スイスの「スキラ社」(Editions Skira)が1994年に、青少年向け絵画本シリーズ「ある日曜日、***(ここに画家の名前が入る)と」の第一冊として刊行したものである。売店で出会ってたちまち虜になった。
 シリーズには、ダ・ビンチ、カロ、レンブラント、ヴェラスケス、ドガ、ピカソなどがあるが、テクストをアラン・マドレーヌ=ペルドリヤが書いた『フェルメール』が、絵とテクストとあいまって抜群の出来ばえである。
 テクストは次のようにはじまる。
日曜日・・・今朝、私は長い旅から疲れて街へ帰ってきた。市民義勇軍の人たちと一緒だった。わが家の前で別れたのだが、彼らの一人は、「ヨハネス、今日はなにをするのだい」ときいた。私は笑いながら、「絵を描くさ」と答えて、ゆっくりと玄関の扉をしめた。そしてまずアトリエへ行った。するとそこに、お嬢さん、あなたがもう丸い腰掛けに座って待っていた。それにパレットや絵筆、肘支え、仕事のときにいつもかぶる大きなベレー帽も。聞こえたかな、さっき私のことを「ヨハネス」と呼んだのを。親しい連中はそう呼ぶけれど、私としては、「フェルメール」と呼ばれる方がいい。(7頁)
 そして同じページに、フェルメールの《絵画芸術》(別名《画家のアトリエ》)が挿入される。つまりフェルメールと名乗ったのは、後姿で画布に筆を走らせている画家自身、そして「お嬢さん」と呼びかけられているのは、絵のなかで月桂冠をかぶり、トランペットを右手に、黄色い本を左手にかかえてポーズをとる若い女性である。《絵画芸術》での画家フェルメールはいままさに女性が頭にかぶっている月桂冠の葉を描こうとしている。
 著者のマドレーヌ=ペルドリヤは、語り手であるフェルメールにこう続けさせる。
機械的にベレー帽を手にとったとき、私は思った。もう20年以上も前、結婚して間もないころ、妻のカタリーナがこれをくれたのだ、あれ以来ずっとかぶっているのだと。正直なところ、最初はあまり気に入らなかった。レンブラントも同じものをかぶっていたというが、少々滑稽だった。それにしても、なにかにつけてレンブラント、レンブラントだ。だいたい私は新しい衣服が好きではない。なんでも新しいものはきらいだ。気に入るのはいつもそばにあって、少し古くなったものだ。実際、新しいものを欲しいと思ったことはない。身のまわりにある水差し、妻がくれた金色の皿、獅子の頭の飾りのついた椅子などをいつもながめている。ほら、あなたがさっきまで座っていたあの椅子。それらをじっと眺める。すると向こうも私のことを見ていて、なにか言いたげな様子なのだ。だがいったい、なにを言いたいのだろう。自分たちが美しいのを誇りにしていること、あるいは単に、自分たちは自分たちだと言いたいのだろうか。あれらのものは変化する陽光をあびて、大いに幸せであり、そのニュアンスは無限に変化し、大きくなったり、小さくなったりする。そして夜になると、次の朝が来て鎧戸がふたたび押し開かれるのをじっと待つのだ。カタリーナはベレー帽を私にくれたとき、こう言った。アトリエに座りつづけだと、腕や頭は動かすけれど風邪をひくわ。絵描きさんはとくに頭をしっかり包んでおかないとね。だって美しい思いつきは、みんなそこから出てくるのでしょ。あなたは笑ったね。そう、カタリーナはこんな冗談が大すきなのだ。
 本では、テクストとともにフェルメールが生涯に描いた30数点の絵や、それを彩るさまざまな品のクローズアップが、美しく複製されて示される。これらを眺め、テクストを読むと、フェルメールの人生と作品の意味が自ずと納得される仕組みになっている。
 日本でもフェルメールは絶大な人気で、以前このブログで取り上げた京都での「フェルメールからのラブレター」展が、12月から来年3月にかけて東京渋谷のBUNKAMURAで開催される。BUNKAMMURAでは、《地理学者》につぐフェルメールの展示である。
 フェルメールについては、画集に加えて日本語の解説書や翻訳されたものも多く出版されているが、この絵本ほど洒落ていて、しかもフェルメール(現地ではフェルミーヤと発音する)の本質を捉えたものはない。スキラの原書はいまや絶版で、入手するにはインターネットでフランスの古書店から入手するほかはない。じつは若い友人の尽力で、原著の絵の部分はそのまま再現して、テクスト部分を日本語にはめ換える作業を終えているのだが、どこか出版(絵の彩度を考えれば電子本がよいかもしれない)してくれるところはないものだろうか。版元との版権交渉など面倒なことはみな引き受けるのだが。
d0238372_12564988.jpg

d0238372_03795.jpg

d0238372_12564596.jpg

[PR]
by monsieurk | 2011-10-19 23:03 | | Trackback | Comments(0)

マン・レイになってしまった人

 マン・レイ(Man Ray 1890-1976)を愛してやまない石原輝雄氏の新著『三條廣道辺り』(銀紙書房、2011.8.27)を読んだ。読み終えるのが惜しくて、一頁一頁ゆっくり時間をかけたから思わぬ日数が経過した。アメリカ生まれのシュルレアリスト、マン・レイの作品が戦前の日本でどのように受容されたかを、文章と関係写真で追跡したドキュメンタリーで興味が尽きなかった。しかも本は石原氏が一冊一冊、印刷、装丁、綴じなど、造本のすべてを手がけたものである。
 「まえがき」の次の頁に、le 13 Sept 1932(1932年9月13日)とかかれたフランス語の手紙のファクシミリが挟み込まれてあり、文末にはMan Rayと署名がある。文面には、「10日付けの貴兄の手紙にお答えします。弊宅でお会い出来ますのでお電話をいただけますでしょうか、あるいは午後5時から6時の間〔これが棒線で消され〕3時にお訪ねくださるというのはどうでしょう」とある。この手紙が追跡のはじまりだった。
 2007年10月12日の午後、石原氏は東京本郷3丁目にある古書店「アルカディア書房」の主人から一冊の古いスクラップ・ブックを見せられる。そこにこのマン・レイの手紙が貼りつけられていたのである。宛名は「Monsieur T. Kiquemoto(Nakakanisi)」。スクラップ・ブックの持ち主は中西武夫で、かつてマン・レイと交流があったことが石原氏の調査で判明する。
 中西は京都帝国大学を1931年に卒業するとヨーロッパに渡り、ベルリンやパリで映画や演劇を勉強した。ヒトラーが政権についた1933年に帰国、小林一三の知遇をうけて宝塚歌劇団に入って舞台制作に携わった人である。マン・レイとの接点は、当時パリで盛んだった前衛映画を介してのものだったと思われる。
 石原氏はスクラップ・ブックから、もう一つ思いがけない発見をする。それはタイプで打たれた二枚の英文原稿で、これも本の中に写真複写されている。「I first got interested in photography in making reproductions of my paintings myself as I was not satisfied with the work of other photographers. This was marvelous training to bring out values and textures in black and white, ・・・(私が最初に写真というものに関心を持ったのは、自分の絵画作品の複製を自ら作ろうと思ったためで、他の写真家の仕事に満足できなかったからだ。これは実に素晴らしい訓練となった。白と黒だけで明暗の諧調と質感を満足できなかったからだ。) 」(37頁)このタイプ打ちの文章の内容は、まさしくマン・レイの仕事のスタートの事情と一致する。
 アメリカのフィラデルフィアに生まれたマン・レイ(本名エマニュエル・ラソニッキー Emmanuel Rudzitsky)はニューヨークで絵を描きはじめ、その自作を写すためにカメラを買った。そのころマルセル・デュシャンやフランシス・ピカビアと出会って、「ニューヨーク・ダダ」と呼ばれる運動をはじめる。その後1921年にパリへ移り、モンパルナスに住んで本格的な写真を撮ることを開始したのである。石原氏が見つけたタイプ原稿は、この間の経緯を自ら綴った貴重なものである。
 石原氏は欄外の脚注で、「マン・レイ・タイプ原稿七行目にある‘Rayograms’の表記に注意。印画紙の上に物体を置いて直接露光し明暗の像を得る技法を一般的にフォトグラムと呼び、モホリ・ナジやマン・レイの作例が知られている。マン・レイは一九二一年に偶然この技法を発見し自らの名前を冠して「レイヨグラフ」と名付け、マン・レイ作品においては戦後この呼び方が定着した。ただ初期には「レイヨグラム」とした例もあり、どちらを採用するか研究者の間で意見が分かれている。ここでは「レイヨグラム」という言葉が使われていて興味深い。」(39頁)と書いている。マン・レイ研究者としての面目躍如というところである。
 『三條廣道辺り』では、このあと戦前に京都で活躍した俵青茅をはじめとする詩人や画家たちが、マン・レイをどのように受容していたかを知るために、彼らの詩集や希少雑誌に掲載された作品の探索がはじまる。資料を求め、現地を訪れ、縁者・知人を探し出しての聞き込みによって、マン・レイとの不思議な結びつきが立ち現れてくる。ちなみに本のタイトルにもなっている「三条広道」という地名はいまはなく、かつて京都と大津を結んでいた京津電気鉄道の広道駅があった辺りだという。ここに俵青茅の自宅兼京都詩人協会の事務所があったのである。岡崎通が三条通とぶつかった所の一筋南側の辺りだろうか。この辺はかつて住んでいた岡崎南御所町から散歩の途中によく通った懐かしい場所である。
 石原氏の探索はさらにマン・レイと日本の関係を追って、神戸へ、パリへ、名古屋へと伸びていくのだが詳細は本を読んでいただくしかない。氏のマン・レイに寄せる思いをよくあらわしている逸話を、1983年に銀紙書房から出版された限定1000部の『MAN RAY IST』から紹介したい。
 「私がマン・レイを意識するようになったのは、アンドレ・ブルトンの『ナジャ』を読んだころからだと思う。」と書かれているように、マン・レイの生き方と作品に魅了された石原氏は作品蒐集に力を入れた。そして1982年6月、サン・ジェルマン・デ・プレのギャルリーの女性オーナーの紹介で、マン・レイの未亡人ジュリエットと会うことが出来た。
 「神話の人のように思っていたジュリエットと現実に会えるとはなんとラッキーなことだろう。夫人は『マン・レイと其の友人達』に含まれた自身の肖像の下にサインしてくれた。・・・私がこの時着ていたTシャツは『マン・レイ六〇年の自由』(一九七一年)に挿入されたマン・レイのサインを拡大し、染料で着色したもので、この旅行の為に準備したものだった。夫人は赤い「Man Ray」の文字の下に「JULIET」と書き添えてくれた。そして、彼女を囲んだおかしな日本人の記念写真をマリオン・メイヤーの女主人が撮ってくれた。・・・夫人が「明日、アトリエに遊びにおいで」と誘ってくれた時にはついに失神してしまった。」(142-143頁)
 石原氏を失神させたジュリエットも、いまはマン・レイとともにモンパルナスの墓地に眠っている。碑銘には‘Unconcered, but not indifferent’(無頓着だが、無関心ではない)と‘Together again’(また一緒)という二つの文句が書かれている。
 『三條廣道辺り』の版元である銀紙書房は、じつは石原輝雄夫氏個人の出版社で、これまでの著作と同じく、すべてを一人で造本された75部の限定出版である。私の所蔵するのはナンバー69。氏のブログでは造本の過程が逐一報告されていて、この方も興味は尽きない。
[PR]
by monsieurk | 2011-10-17 23:54 | | Trackback | Comments(0)

映画「小さな哲学者たち」

 遅ればせながら、フランス映画『小さな哲学者たち』(原題 Ce n’est qu’un début 「それは始まったばかりだ」)を観た。渋谷でユニークな上映活動を続けている「アップ・リンク」(UpLink)の上映サロンだった。3歳から5歳になる幼稚園児が、いかにして「考える力」を身につけていくかを克明に記録したドキュメンタリーである。
 2004年4月、この映画の製作者の一人シルヴィ・オバンは、哲学者ミシェル・オンフレがラジオ放送で、「すべての子どもは哲学者だ。そして、ある子どもはいつまでも哲学者のままであり続ける」と語っているのを耳にした。たしかに子どもたちには考える能力がある。その証拠に彼らが執拗に繰り出す質問は意想外で面白い。だが、そうした考える力をもち続ける方法はあるのだろうか。この問いがすべてのはじまりだった。
 オバンたちはパリの南40キロにある街、ル・メ・シュル・セーヌ(Le Mée sur Seine)の「ジャック・プレヴェール幼稚園」が園児に哲学の授業を行っていることを知った。彼らはさっそく校長のイザベル・デュフロックに会い、実際に授業を行っているパスカリーヌ・ドリアニに実態について話を聞いた。詩人ジャック・プレヴェールの名前のついた幼稚園は教育優先地区(ZEP)に指定された幼稚園で、革新的な教育法を推進する実験校の一つだった。
 パスカリーヌ・ドリアニは近くの都市ムランにある「教員養成大学校」(IUFM)で学び、12年にわたって幼稚園の教師をつとめてきた。2007年からは、3歳から5歳の子どもたちを対象に、月に数回「哲学のアトリエ」を開いてきたのである。
彼女は子どもたちを集めると、集中させるためにローソクを灯す。子どもたちはそのまわりに輪になって坐り、色々なテーマについて考え、意見を述べる。「愛ってなに?」、「自由ってどういうこと?」、「恋人と友人はどうちがうの?」・・・
 パスカリーヌは映画の冒頭でこんな質問をする。「目を閉じてみて。頭の中に何が見える?」「もやもやしたもの」、「それはなぜ?」、「réfléchirしてるからさ」(このréfléchir というフランス語を日本語にどう訳すかが難しいのだが、映画の字幕では「頭をはたらかすから」としている)。「それからどうするの?」、「口から出すのさ、・・・ことばを」、こう答える男の子は、なにかが頭から口へおりてきて、それが口から飛び出す仕草をする。
 こうして「哲学のアトリエ」がはじまり、子どもたちはさまざまなテーマを考えることになる。「恋をしたら、どうやって人を愛するの?」、「おなかのなかがくすぐったくなるんだ」、「赤くなるんだ」、「どうして赤くなるの?」「おなかの中に心があるから」。「自由ってなに?」、「自由って、・・・一人でいられること、呼吸して、優しくなれることだと思う。」「自由って・・・、監獄から出ること」、「うーんと、家具の上のホコリを掃除するときは自由じゃない」。「魂ってなんだと思う?」、「目に見えなくて、青いもの」。アフリカ系の男の子がいう。「ぼくは色が白くなりたいよ」、「なぜ?」、「だって白人の方がやさしいもの」、「ちがうは、黒人の方が強いわ」
 ル・メ・シュル・セーヌはパリと首都圏高速鉄道(RER)で結ばれている典型的な近郊の街で、人口は2万人余り。北アフリカやセネガルなどアフリカやヴェトナムといった旧フランス植民地出身の家族も多く住んでいる。アトリエでは皮膚の色の違い、貧富の差といった微妙な問題も取り上げられ、子どもたちは自分たちの家族の状況や歴史を口にすることになる。そのためにアトリエをはじめるに当っては、家族の了解を得る必要があった。幾度も話し合いがもたれ、家族は幼稚園を信頼して子どもたちを積極的に参加させることに同意した。それだけでなく、親たちは幼稚園での話し合いをうけて、帰り道や食事の時間に子どもの質問に答え、子どもたちが学んだテーマについて会話をかわすようになった。
 こうした地道な努力の結果、初めのうちは「哲学のアトリエ」がはじまると眠気に襲われていた子どもたちが、やがて自分の考えを友だちにぶつけ、子どもたち同士の議論が白熱するようになった。パスカリーヌはそれを見守り、ときに上手くリードする役に変わっていった。
 映画を見ていて気づくのは、子どもたちが“Je suis d’accord”、 “Je suis pas d’accord”、
「ぼくは賛成だ」、「わたしは賛成しないわ」とハッキリいい、その上で“parce que・・・”「なぜって・・・」と、賛成や反対と考える理由や根拠を必ずつけ加えることである。仲間の話に耳を傾け、それに対する自分の考えを理由をあげて伝える態度を「哲学のアトリエ」を通して身につけたのである。
 撮影は2年間続いた。パスカリーヌが、仲間に暴力をふるった男の子に、「なぜぶったの!」と厳しくたしなめる場面がある。男の子は「わからない」としか答えない。彼女はそれに対して、「哲学のアトリエで学んだのは、意見がちがったら話しあうことじゃなかったの?」、「そう」。男の子は納得する。
 映画の最後で子どもの一人が、「小学校へ行ったらローソクを灯した哲学の時間はなくなっちゃうの? でもこの幼稚園のことは忘れないわ」と言う。世界で初めて幼稚園児に「ものを考える」時間をもたせる試みは、他人に耳を貸し、差異を理解する姿勢をこどもたちに植えつけた。他人の意見は、自分のものと同じだけの価値があることを理解できる小さな市民を生み出すのに成功したように見える。
[PR]
by monsieurk | 2011-10-16 21:04 | フランス(教育) | Trackback | Comments(0)

マラルメの「書物」

 19世紀フランスの詩人ステファヌ・マラルメ(Stéphane Mallarmé) は、難解な象徴詩の作者として知られるが、同時に書物についても強い関心をもった文学者であった。
 マラルメは1891年に、新聞「エコ・ド・パリ」の文芸担当記者ジュール・ユレ の質問に答えて、「世界は美しい一巻の書物に帰着するように創られている」と語っている。そしてこの4年後には、雑誌「白色評論」に掲載した「書物、精神の楽器」という評論のなかで、この公準を多少変化させて、「この世界において、すべては一巻の書物に帰着するために存在する」と書いている。
 マラルメはこうした表現を単なる比喩として用いたのではなかった。彼は世界が帰着すべき「書物」を実現することを真剣に考えていたのである。その証拠に、1873年頃から「書物」についての折々の考察を紙片に書きつけ、そのうちの250枚ほどが死後に残された。この草稿も他の未定稿と同様に、死を目前にしたマラルメによって、焼き捨てるように遺言されたが、幸いにも保存されたのだった。
 黒インクや鉛筆で書かれた覚書が書つけられた紙片は、二つ折りにした六角形の装飾のある大きな青い紙の間に挟まれてあった。それらの覚書には、彼が目指した書物が充たすべき条件についての具体的な検討の跡が示されていた。覚書は最初、Jacques Schererによって、『Le “Livre” de Mallarmé』(Gallimard、1957)として、解説とともに刊行された。覚書はその後、Bertrand Marchalの編纂になる2巻本の『Mallarmé: Œuvres complètes Ⅰ』(Bibliothèque de la Pléiade、1998)に、258枚の覚書が発表された。
 マラルメによれば書物は人類の永遠の記念碑として構想されるべきであり、堅固で、荘重なものでなければならない。したがって熟考された構成法に則らないものは、書物の名にふさわしくないとして、書物がどのような大きさと形態を備えるべきかを本気で研究したのである。覚書では書物がもつべきさまざまな条件について、繰り返し計算が行なわれている。
 これと同時にマラルメは、書物が石造りの記念碑のように不動であってはならないとも考えていた。そこに読者の参加する余地があり、読者が「自由に扱える」と感じない限り、書物は読者のものとはならず、成立の条件の一つを欠くことになると述べている。では書物が、一見正反対のこうした要求を充たすにはどうすればよいか。マラルメはこれを解決するのに、運動の概念を導入する。一般的に書物は決まった順序に従って、ページを開きつつ読み進められる。だがマラルメはこの常識を覆そうとしたのである。
 彼が構想する書物は、1、2、3、・・・ と、定められた順番に綴じられてはおらず、詩句(マラルメが考えていたのは、おそらく韻文形式のものであった)が印刷された複数の紙片は、自由に順番を変えることが出来るようになっていた。読者は自分で自由にページを入れ換え、幾通りにも読むことができる。つまり彼の目指す書物は、書物を構成する紙片の数の順列組合せの数だけ、読み方があることになる。
 残された覚書からはさらに、こうした書物を、1人の読み手が聴衆を前にして朗読する「講読会」を、マラルメが考えていたことがうかがえる。この講読会は、複数の招待者を前にして、1人の講師が書物を朗読し、その解読を行う集まりである。講読会にはマラルメが「招待者」、「出席者」、あるいは「聴衆」と呼ぶ一定数の人びとが招かれ、これらの聴衆を前にして読み手が登場し、読み手は紙片を朗読し、解釈を施し、そして紙片を組み換える。このように1回の講読会は、幕間をはさんで前後2回行われ、しかも1年間にこうした講読会が数回開かれることになっている。
 そしてこの書物を操作する者は、書物の単なる読み手でも注釈者でもなく、彼が行うのは論証であって、書物に秘められている真理を招待された人びとに理解させようと努める。そのために、彼は繰り返し書物を構成する紙片を組み換え、そうして得られた千変万化するテクストから、宇宙の隠された真理を導きだそうとするのである。
 マラルメはこうした形式をもつ書物を夢想し、それが出現したときは、一冊の書物はまさしく世界を包摂することが出来ると考えたのだった。ただ残された覚書では、この書物に盛られるべき内容についてはほとんど語られていなかった。
 マラルメが夢想した書物の形式と、それを解読する講読会はごく少数の選ばれた人たちを対象に行われることになっていたが、それは彼が生きた19世紀半ば以降、フランスをはじめとするヨーロッパでは、印刷技術の発展と出版を産業化しよとする出版者の出現で、書物が急速に大衆化しつつあったことへの詩人の反撥がこめられていた。
 こうした普及本の出現に背を向けるように、マラルメはアメリカの詩人エドガー・アラン・ポーの長編詩「大鴉(Corbeau) 」の翻訳に、画家のエドゥアール・マネ に頼んだ挿画を添えた豪華本を240部印刷して、1875年にレスクリードという小さな出版社から刊行した。だがこの豪華本は売れ残ってしまった。書物の世界でも大量生産、大量消費の時代が到来していたのである。
 
 マラルメの「書物」についての覚書の紹介と分析は、「変動する書物」(『マラルメ探し』、青土社、1992年)で行っている。ぜひ参照していただきたい。
[PR]
by monsieurk | 2011-10-14 00:55 | マラルメ | Trackback | Comments(1)

5月革命の「評価」

 西川長夫氏の『パリ五月革命私論』(平凡社新書)を読んでいる。西川氏はいまあらためて「五月革命」を取り上げる意味を、「まえがき」で、「私は本書では、「六八革命」と最近のフランスにおける「郊外暴動」との繋がりに照明を当てたいと思っているのであるが、このふたつの事件の関連を最もよく表しているのは、フランスの現在の大統領、ニコラ・サルコジの「六八年五月の清算」という言葉だろう。狂信的な新自由主義者(私にはそう思える)のサルコジにとって、忌むべき存在である六八年の学生や労働者や同伴的知識人は、四〇年後の今日、郊外の移民労働者や貧しい地域の反抗的な若者たち、あるいは左翼的知識人の姿をまとって現われているようである」(17頁)と述べている。
 フランスの「五月革命」と呼ばれた運動については、京都大学在任中の特殊講義で1年をかけて論じたことがある。いずれこれをもとに「五月革命」(フランスではmai 68「六八年五月」という呼称が定着している)についてまとめるつもりだが、この運動は思想的転換をもたらした出来事であり、今日まで継続している点で決して過去の出来事ではない。ところで「68年5月」については、これまでじつに多様な解釈が提示されてきた。
 社会学者アラン・トゥレーヌは、この運動のなかに「階級闘争の新しい形態」を見る。この闘争はもはや直接的に経済上の要求闘争(たとえば利益の保有者対給与生活者といった)の構図をとらず、むしろ「社会的、文化的、政治的」なものであって、搾取に反対するというよりも、支配や管理に反対(対象はテクノクラートによる支配)していると見る。そして運動の原動力は、専門技術者が社会の中心からはずされ、決定権を奪われ、テクノクラートが社会活動の枢軸を支配するに至った現実への反抗だったとする。
 運動では思想的にも行動様式の点でもアナキスム的傾向が見られた。これは第2次大戦後に、サルトル、メルロー=ポンティ、ブルトンたちが「革命的民主連合」を標榜して追求した路線だったが、戦後フランスの左翼のなかで力をもっていた共産党の反対で、政治運動としては挫折してしまい、それが20年後にようやく社会運動として広がりを得たものであった。
 哲学者のミシェル・フーコーは『言葉と物』(1966年刊)の姿勢から一転して、戦闘的な「社会参加」を試みるようになった。彼はジャン=ポール・サルトルとともに、「人民の大儀」や「リベラスイオン」などの新聞の刊行を通して、マオ派との協力関係を続け、のちには社会学者ピエール・ブルデュとともに、CFDT(フランス民主主義労働同盟)と左翼知識人との連携に力を尽くした。
 当時サルトルは、「かつて青年期に私が信じていたモラリスム・・・・私は少しばかり共産党と一緒に仕事をしはじめた時に、現実主義の名のもとにこれを放棄してしまったが、いま反ヒエラルキー的絶対自由主義の運動のなかで、それをふたたび見いだす」、「私がそうあって欲しい人生とは、すべての人間が、自分を犠牲にして服従するのではなく、しなければならないことを快活に、自分自身でするような人生だ。私が共産党を非難するのは、共産党がユダヤ=キリスト教的精神に刻印されていて、党内で犠牲が払われる点だ。私は犠牲的精神というものに生涯反抗してきた」と語っているが、「理念」を組織原理とする従来の闘争形態にたいして、サルトルは構成員の反逆によって流動化する「連合」という形を夢想したのである。こうしたサルトルの考えは、『反逆は正しい』という著作のなかで表明されている。
 フィリップ・ガヴィは彼らの運動の行方を、「権威主義の官僚体制に対抗するには、左翼と共同戦線を張って戦い、ついで左翼の内部の力関係を覆すために、分業にたいする闘争、ヒエラルキーに対する闘争、一切の権威主義的関係に対する闘争をそこに持ち込むことによって左翼に対しても戦う」と総括した。
 しかし、かつてチェ・ゲバラとともに南米ボリビアで活動した哲学者レジス・ドブレは、5月の運動は当事者たちの目的や行動がどうあれ、運動の根源的な要請は工業化をすすめなければならなかった当時の社会状況にあったとする。
 このときまで基本的には農村社会のものに留まっていた諸価値を変形させようとする圧力こそが原動力であって、生産力の急速な発展、資本の高度な集中化のための「下部構造の転倒」は、「石とライムギのフランス」から「ソフトウェアの、スーパ・マーケットの、新しいものの、プランニングのフランスが心地よく活動できるように」社会を変える運動にほかならなかったという。だから「68年5月」の運動は、当事者たちが考えたようにもし革命が成就したとしても、それは生産力の革命であって、サルトルたちが夢想したような人間の自由の成就など望むべくもなかったとした。
 5月革命では、運動の参加者は公共的政治的価値に熱中して、人々の社会的連帯が議論されたが、それが挫折すると、1980年代には逆に私的な空間に閉じこもるという行動によって特徴づけられるようになった。公共の事柄は生命を失い、重要な哲学的、経済的、政治的、軍事的諸問題は論じられることはなく、3面記事に書かれる瑣末な事件しか人々の好奇心を惹かなくなった。みなの関心は身体を丈夫に保つこと、つまりはジョギング、ボディー・ビル、テニスに集中し、そのお陰で意気阻喪から逃れることを大切にするナルシシズムが横行するようになる。
 1968年を境にホットな時期とクールな時期が交代する。「68年5月」の運動は規範に対する主体の反乱であり、功利主義的諸価値への攻撃の最後の現れ、文化的反乱の最後の運動であった。そしてそのあとは快楽主義の論理を大衆化させる文化がはじまったのである。ニーチェが述べているように、「創造的自我、非権威主義、といった考え、あるいは文化が、集中ではなく分散を促進する。意志的なものではなく、刹那的なものに重きを置く文化を作りだす。自我の原子化、組織された、統合された心的体系の消滅を促進する」ことになる。80年代以降の生き方は、まさにこのように解釈できるのではなかろうか。
[PR]
by monsieurk | 2011-10-13 00:29 | フランス(歴史) | Trackback | Comments(1)

作家の誕生

 2011年10月6日、スウェーデン・アカデミーは今年度のノーベル文学賞を、母国スウェーデンの詩人トーマス・トランストロンメル(Tomas Transtromer)氏(80歳)に授与すると発表した。老詩人は以前から有力候補とされ、その短詩は高い評価をうけてきた。メタファー(隠喩)を駆使した手法は俳句に通じるとされる。イギリスのブックメーカーの予想では、トランストロンメル氏が一位、アメリカの詩人ボブ・ディランが二位、毎年候補にあがる村上春樹氏は第三位の予想だったが、今回も受賞はならなかった。
 村上春樹氏の新作『1Q84』は、英語、フランス語をはじめさまざまな言葉に翻訳され、各国でベストセラーとなっている。この作品のように、今日では100万部を越えるベストセラーが出現し、著者は有名になるとともに巨額の印税を手にするといった現象が起きるようになった。作家は作品を創作し、それを出版して生活を維持して、しかも社会的に敬意を払われている。だが洋の東西を問わず、こうした作家が出現したのは、19世紀になって市民階級が富をたくわえ、それにつれて本を読む層が拡大して以後のことである。
 印刷媒体の発展と作家の誕生と読者層の拡大は、社会の発展のスピードの違いによって若干の遅速はあるものの、東西を問わず先進諸国では同じような歴史的経緯をたどった。
 フランスでは、17世紀の作家は国王の庇護をうけて年金を下賜されるか、貴族や貴婦人たちの愛顧をうけて彼らに劇作品や詩集を献呈し、そのかわりに金をあたえられて生活するのが普通だった。この当時の作家の収入は年金と献辞料と著作料であっが、前の2つが主なものであった。
 フランス古典文学の大作家コルネイユ(Pierre Corneille)、ラシーヌ(Jean Racine)も、あるいはラ・フォンテーヌ(Jean de La Fontaine) も、みなルイ14世から年金をもらい、それによって生活をしていた人たちであって、その並外れた才能にもかかわらず社会的な身分は低かった。それを象徴するような次のような逸話が伝えられている。
 モリエール(Molière) が『女房学校』(1662年)を書いたとき、そのモデルにされたと信じ、これに恨みをもった侯爵が宮中でモリエールに会うと、彼を強く抱擁して、自分の上着の金属のボタンをモリエールの顔に押しつけて、「クリーム・パイだよ、モリエール、クリーム・パイだよ!」と言ったというのである。このエピソードが顕しているように、文学者は上流社会に出入りは許されていたものの、身分の上でも経済的にも、貴族との間には厳然たる差があった。
 18世紀になっても貴族と作家の関係に大した変化はなかったが、中産階級(ブルジョア)の上昇と教育が徐々に普及したこともあって読者人口が増加し、作家の生活はいくらか潤うようになった。
 こうした傾向に決定的な影響をあたえたのは、1789年にはじまったフランス大革命であった。革命によって王は誅殺され、貴族は特権を剥奪され、社会的に平等の権利をあたえられたブルジョアが社会の中核を担うようになった。フランス文学が本当の意味で花開いたのは、王政復古の1815年以後のことである。そしてこのときから文学者たちは今日とほぼ同じような地位を得ることになった。
 前の世紀にくらべて読者が増えた分、原稿料も多く支払われるようになった。例えばジョルジュ・サンド(George Sand) の連載小説には1万フランが支払われ、当時もっとも売れっ子だったユージェーヌ・シュー(Eugène Sue)の小説『パリの悲劇』の原稿料は2万6千5百フランだった。さらにこれを上まわったのが1862年に出版されたヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo) の『レ・ミゼラブル』で、ユゴーはこの一作で25万から30万フランを得たという。そして文学的名声がそのまま社会的地位に結びつくようになったのである。
 ただこうした地位を獲得するためには、作家の方も大変な努力を重ねなければならなかった。ジョルジュ・サンドは1837年の書簡でこう書いている。「また枷にしばられなくてはなりません。なんと憂鬱なことでしょう! 夜の9時から朝の7時までものを書くなんて!・・・こんな貧しい稼業では、あと数年はただ生きていくだけです。」
 ジョルジュ・サンドのように有名になればなったで昼間は世間とのつきあいがあり、執筆はいきおい夜になった。そして夜9時から朝7時まで机にかじりついても、原稿料で贅沢をする余裕はなかった。事実、本の出版で食べていける作家はごく一部であって、大部分は雑誌に文章を寄稿し、翻訳をやって生きているのが実情だったのである。
[PR]
by monsieurk | 2011-10-10 21:07 | フランス(歴史) | Trackback | Comments(1)
line

フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31