ムッシュKの日々の便り

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元政(1)

 思い返してみると、中村真一郎氏に初めてお目にかかったのは、1979年秋のことであった。大学の同期で岩波書店の編集者だった野口敏雄氏に連れられて、東京港区青山の仕事部屋を訪ねたのだった。中村氏は熱海に自宅があり、仕事や東京での用事のために青山にもマンションをもっていた。訪問の目的は、すでに書きあげていたステファヌ・マラルメに関する原稿を見ていただき、出来ればどこかの雑誌に発表する仲介をお願いするためだった。野口氏が、「それなら中村真一郎さんに頼んでみようと」連れていってくれたのである。中村氏はその場で目を通し、すぐに青土社の「ユリイカ」に推薦してくれた。こうして原稿は『ユリイカ』1979年11月号の「マラルメ特集」の一篇として掲載された。「『芸術の異端、萬人のための芸術――マラルメ世界の誕生』(同誌、pp.146-157)がそれである。
 このときの話で強く印象に残っているのは、東大のフランス文学科の授業は本来研究者を育てるために行われるべきなのに、いまはそれが行われていないと強く批判されたことだった。ネルヴァルの研究者・翻訳者としてデビューされながら、36歳のとき東大と明治大学の講師を辞して、作家生活を選んだことへの複雑な気持を垣間見る思いがした。
 もう一つは、『雲のゆき来』(筑摩書房、1966)がもっとも好きな作品で、ぜひフランス語で出版されるといいと思うと伝えると、自分としても会心の作の一つだといって嬉しそうな顔をされたことである。
 『雲のゆき来』は、著者が江戸初期の僧侶・詩人、元政(1623-68)を探求する経緯と、友人の紹介で偶々知り合った新人女優、楊嬢(マドモワゼル・ヤン、父はドイツ人の学者で母は中国人という設定)との道行きがない交ぜになって進行する物語である。
 著者が元政の名前を知ったのは30年も前に読んだ芥川龍之介の本だった。その漢詩集をあらためて読んで興味を惹かれる。
 「彼のどれも似たような詩句を、次つぎと読み進めているあいだに、私はいつのまにか、単純で自由な不思議な快い世界へ、自分の心が運ばれて行っているのに気がついた。それは確かに「詩的体験」だった。――・・・詩的体験とは言葉の響きと映像との調和が読者の心のなかへ生まれさせるひとつの夢だろう。そして元政上人は三世紀後の一文士の或る夜の心のなかに、確実に言語によって別世界を開いてくれたのだ。」(同書、15頁)
 元政(げんせい)は出家前の名前を石井元政(いしい・もとまさ)といった。石井家は九条家に仕えた地下官人の家柄だったが、元政の兄が彦根藩に出仕し、姉も藩主の側室になったことから、元政自身も十三歳のときに彦根藩士となった。しかし二十六歳のときに思うところがあって出家し、日蓮宗の僧侶となった。その後、洛南の深草に隠棲して瑞光寺を建て、仏道に精進するとともに多くの詩文を著して、その名は広く知られるようになった。
 遺稿の詩文集『艸山集』巻十六に、次のような詩がある。

  愛山又出門  山を愛しまた門を出ず
  投杖倚松根  杖を投じて松根による
  秋水界平野  秋水 平野をさかいし
  暮煙分遠村  暮煙 遠村をわかつ
  露昇林際白  露昇りて 林際白く
  星見樹梢昏  星見えて 樹梢くらし
  自覚坐来久  おのずから覚ゆ 坐して来ることの久しきを
  蒼苔已有痕  蒼苔 已に痕あり

 元政がある日の夕暮れ時に瑞光寺の山門を出て、近辺を散歩したときの情景だが、同時にそれは自の来し方をかえりみた感慨ともなっている。
 『雲のゆき来』の語り手は、元政のこうした詩を読んだ感想を次のように述べている。
「平明で目立たないような表現が静かに次つぎと眼の下を流れ過ぎて行く間に、そのたゆまぬ囁くような響きが、心を優しく慰めてくれる、そういう喜び、とでも云ったら、幾分か私の体験の性質を伝えることになるかも知れない。そして、その響きには独特の山林の気のようなものがあり、人気のない谷間の道を、遠い陽に照らされながら、どこまでも同じように風景の続くなかを歩いているのに似た快感といったら、更に私の感動の性質に近付くような気がする。」(同、17頁)
 元政は意図して平明な言葉で身辺の情景や感慨を詠ったが、そこには帰化人で詩人の陳元贇の影響があった。元政は37歳の万治2年(1659)に、前年亡くなった父親の遺骨を納めるために、79歳の母を連れて身延山詣での旅にでた。その途次、次姉の嫁ぎ先であった尾張藩士川澄氏のもとで、尾張藩に使えていた陳元贇と出会った。旅の様子を記した『身延道の記』には、八月十五日に、川澄の家を訪ねたことが、「夜なかばかりに。名古屋のゆかりのもとに。門うちたゝきてみる。みなよろこぼひていねすなりにけり」と書かれていて、その翌日、
 「十六日。ひたけておく。けふはこゝにやすみてといへは。つれ〱なぐさめにと。明人元贇をよぶ。やかてきたりぬ。このくにゝ年へて。言葉よくかよへり。いとめづらいき物がたりして、太祖の事などくづし出たり。皇明通紀をよむこゝちす。我名をとふを。元政といへば。わが兄弟なりとたはふる。」(『深草元政集』第一巻、98-99頁、古典文庫、1977)と記されている。両者の名がともに元ではじまることから「私たちは兄弟だ」と元贇が冗談をいったのである。このとき元贇73歳、元政37歳だった。
 こうして交友がはじまり、二人は京都と名古屋の間を幾度か往復して、四年後には両者が唱和した詩を集めた『元元唱和集』が版行された。そこに収録された五言古詩「李梁谿ガ酒ヲ戒ムルの詩ヲ和ス」の序に、「蓋シ性霊ヨリ流ルル者ハ徳有ルノ言也。模擬ヨリ出ル者ハ必ズシモ徳有ラザルノ言也。性霊ヨリ流ルル者ハ整斉ナラズト雖モ痕ナシ。模擬ヨリ出ル者ハ是レ整斉ナラズト雖モ未ダ必ズシモ痕ナクバアラズ。」(『詩集日本漢詩』第十三巻、370頁、汲古書院、1988年)と説かれている。
 ここでいう「性霊」とは精神を指すが、「模擬」と対比されていることから、真似ではない自分の心の純粋なあり方の意味に用いられている。その根拠としてもう一文をあげれば、『艸山集』巻二の「南紀の澄公に復する書」では、「余、細かに公の此書を読むに、皆な性霊より流る。模擬より出る者に非ず。」とあって、その後に同じ文言が繰り返され、そして、「余、文章を知らずと雖も、此二つの者において、暗中に模索しても亦た知りぬ可し。何となれば言は即ち心の跡なり。跡に因つて心を求むれば、中〔あた〕らずと雖も遠からじ。此に由つて之くを言へば、文章を好む者の道徳を本とせずして、徒らに古人の唾餘を拾うて以つて巧みを得たりと為るは、恥づべきの甚だしきなり。」(同書、50頁)と敷衍されている。
 元政は陳元贇と交際するなかで、明の詩人、袁中郎(袁宏道、1568-1610。三兄弟の真ん中なので中郎と称せられた)の存在を教えられて、その詩集『袁中郎詩集』を読み、袁が説く「性霊説」の詩論を知ったのである。
 袁中郎は、兄の宗道、弟の中道とともに「三袁」と呼ばれた優れた詩人で、彼らは王土視の神韻説や沈徳潜の格調説に対抗して「性霊説」を唱えた。明の時代には、詩の格調を重視して盛唐の詩を模倣する擬古的な詩論が流行していた。これに対して袁中郎たちは、詩で大切なのは詩人の心の霊妙な働きであって、格調などという外的表現形式を模倣することではない。性情の自由な流露と自然な表現を尊ぶことこそが詩作の要諦だと主張した。
 元政がどれほど『袁中郎全集』に熱中したかは、『艸山集』の巻十四、「燈に対す」で次のように述べていることからも分かる。
 
  病來耿不寐  病來 耿として寐られず 
  対燈背佳月  燈に対して佳月に背く
  臥読袁中郎  臥して袁中郎を読み
  欣然摩短髪  欣然として短髪をなでる
  影暗呼添膏  影暗くして呼びて膏〔あぶら〕を添うれば
  灼々花新結  灼々として花新たに結ぶ
  (後略)
 
 消えそうになった燈に油をつぎ足し、燈火を明るくして、寝ながら夜通し『袁中郎全集』に読みふけったというのである。こうした読書が元政本来の詩精神と呼応して、身近なものを自在に詠う、それまでなかった詩興を誕生させた。
 例えば「清貧」と題した詩。

  濁界人皆苦  じょく界 人みな苦しむ
  清貧我獨安  清貧 われひとり安し
  竹風堪避暑  竹風 暑さを避くるに堪え
  柴火足防寒  さいか 寒をふせぐに足り
  放志太空窄  志を放てば 大空せまく
  容身一榻寛  身をいれるに 一榻〔とう、寝台〕ひろし
  糟糠猶不厭  糟糠 なおいとはず
  百味盡盈盤  百味 ことごとく盤にみつ
  
 元政の生涯は17世紀前半、徳川幕府の基礎が固められた時期にあたるが、世紀を同じくする漢詩人たち、祇園南海、新井白石、荻生徂徠、服部南郭たちが専ら唐詩を手本にしたのに比べるときわめて異質である。それはやがて来る18世紀の、菅茶山、市河寛斎、柏木如亭といった日常的リアリズムを重視する詩人たちの先駆であり、江馬細香もまたその驥尾に付した存在だった。
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by monsieurk | 2011-11-30 00:42 | 漢詩 | Trackback | Comments(2)

細香の恋愛詩(2)

 頼山陽は安永9年12月27日(1781年1月21日)に広島藩の儒学者、頼春水の子として大阪で生まれた。2歳のときに父が故郷広島藩に儒者として召抱えられたために、広島へ移った。
 山陽は幼い頃から詩文の才があり、歴史に興味をもつ少年だった。その後、父春水が江戸在勤になると、叔父の頼杏坪について学び、18歳の時江戸へ遊学した。広島に帰国した寛政12年(1800年)9月、突如として脱藩をくわだてて上洛したが、追ってきた杏坪に発見されて連れ戻され、廃嫡された上に自宅に幽閉された。彼が育った家は広島市中区袋町に現存し、幽閉されていた部屋もそのまま残されている。ここはいま「頼山陽史跡資料館」として公開されている。
 この幽閉で山陽は学問に目覚め、3年間は著述に専念した。『日本外史』の初稿ができたのはこのときで、以後20年の歳月をかけて文政10年(1827年)に完成することになる。
 山陽は謹慎を解かれた後、父春水の友人であった菅茶山に招かれて、茶山が岡山に開いていた廉塾の塾頭となった。文化6年(1809年)、山陽30歳のときである。そして32歳で上洛して京都に居を構え、そこで塾を開いた。細香が山陽に出会ったのはそれから4年後のことである。
 山陽のところは一種のサロンの様相を呈していた。細香は7度上洛して、直接彼の教えをうける機会を得た。京都滞在はたいてい半月から1カ月におよび、詩酒の会や花見、紅葉がりの吟行に同行した。

 「砂川ニ飲ミ、賦シテ山陽先生ニ呈ス」と題した詩は、そんな一日の様子を描いたものである。

  好在東郊賣酒亭  好在なれ 東郊の売酒の亭
  秋残疎雨撲簾旌  秋 残して 疎雨 簾旌をうつ
  市燈未點長堤暗  市灯 未だ点ぜず 長堤暗く
  同傘歸來此際情  同傘 帰り来る この際の情

この詩については、中村真一郎氏が、 M. Vigden夫人が1981年にロンドンで行われたシンポジウム「江戸文化とその近代の遺産」に際して翻訳した英文を紹介している。

  A little drink enjoyed in the east of the town;
Windy rain of the late autumn
hitting the blinds and banners.
City lights were still unlit,
and the lanterns dark
We shared an umbrella all the way――
    such tenderness! (中村真一郎『江戸漢詩』、281頁)

 細香の詩はすぐにも英訳できるほど近代的色彩の強いものであることが分かる。なお、夫人は「長堤暗」を、“and the lanterns dark”としているが、郊外に遊んでそこで見つけた酒亭で飲んだ後、小糠雨の中、暗い堤を相合傘で戻ってくるという、時間の経過が表現されていないきらいがある。これは表徴的な漢語と英語の差なのだろうか。あるいは夫人は、「堤」の字を「提」と混同して、「二人が提げている提灯が暗く」と解釈したのであろうか。
 この遊山は文政7年9月15日のことで、山陽の門人木村力山の招待で行われたものだったという。これには山陽夫妻とともに山陽の母も同行していた。しかし詩では、山陽夫人や母親の姿はみごとに消されてしまっている。これは単に修辞上の処理だけではないようである。
 次は山陽との別れを詠った詩。

 唐崎松下拝山陽先生(唐崎の松下に 山陽先生に拝別す)

  儂立岸上君在船  われは岸上に立ち 君は船にあり
  船岸相望別愁牽  船と岸と 相い望みて 別愁ひく
  人影漸入湖煙小  人影 漸く湖煙に入りて 小さく
  罵殺帆腹飽風便  罵殺す 帆腹 風に飽きて便たるを
  躊躇松下去不得  松下に躊躇して 去ることを得ず
  万頃碧波空緲然  万頃の碧波 空しく緲然たり
  二十年中七度別  二十年中 七度の別れ
  未有此別尤難説  未だ有らず この別れのもっとも説き難きは

 唐崎は琵琶湖の西岸にある岬で、ここには一本の松があり、その下に唐崎明神が祭られていた。「罵殺帆腹飽風便」は、船が帆に追い風を一杯にはらんで走るのを見て強くののしった、という意である。細香を唐崎まで送った山陽たちは、ここから大津へ向う船便で引き返し、細香は彼らを見送った後、徒歩で琵琶湖畔を北上して、堅田から対岸の木浜へ渡ったと考えられる。いま琵琶湖大橋がかかっている付近に、湖東と湖西をつなぐ渡船があったのである。そしてこの唐崎での別れが二人の今生での最後となった。
 頼山陽は天保3年(1832年)に53歳で亡くなった。細香46歳のときである。
 細香はその後も詩作を続けたが、晩年の作には衰えを詠ったものが多くなる。

 丙辰冬杪余嘔血若干合戯有此作(丙辰冬杪 余 嘔血すること若干合 戯れに此の作有り)

  嘔血歳残慿枕時  嘔血す 歳残 枕による時
  只憐病状似先師  ただ憐れむ 病状 先師に似たるを
  人間司命冥官録  人間 司命 冥官の録
  無用如吾毎被遺  無用 われの如きは つねにわすれらる

 「冬杪」は冬の終わり。「司命」は人の生死を支配するもの、そして「冥官録」とはあの世の名簿、閻魔帳である。細香の喀血は動脈硬化が原因だったとされるが、病状が慕っていた山陽に似ていることをむしろ喜んでいたのである。彼女が亡くなったのは文久元年(1861年)9月4日の早朝、75歳だった。

  吾年七十四  わが年 七十四
  情味冷於灰  情味 灰よりも冷ややかなり
  無病身仍痩  病い無きに 身はなお痩せ
  綿衣欲窄裁  綿衣 せまく裁たんと欲す

 細香は生涯独身を通した。
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by monsieurk | 2011-11-27 09:54 | 漢詩 | Trackback | Comments(0)

細香の恋愛詩 (1)

 前回、マラルメの「白い睡蓮」で、橋の上にいる夫人を詩人が舟から眺める場面を紹介したが、夫人ははたして、詩人の存在に気づいていなかったのだろうか。
 小林太市郎氏の解釈はこうである。「「白蓮」についてはなお言うことがすこしある。それはあのばあい、下から詩人がじっとのぞいていることを、夫人はよく知っていたにちがいないことである。知っていて、かの女もまたかれとおなじように息をころして、裾をひろげていつまでもじっと立っていたのである。それはかの女としてもたのしかった。そしてうごくことによって、すなわちじぶんと彼とを行為の世界のなかで出会わせることによって、その純粋無垢のなんともいえぬたのしさを打ちこわすことを、かの女もまたおそれたのである。・・・すなわち二人は言わずかたらず黙契して、たがいに粗大な行為に出る具をあえてせず、身体ははなれたまま、それが接する以上の微妙にふかい楽しみにじっとひたっていたのである。」(小林太市郎全集第1巻、87-88頁)
 小林氏の想像が正鵠を得ているか否かは別にして、マラルメの散文詩とは逆に、男女の直接的行為を詠った詩に次のようなものがある。

  雲鬂髤鬆亂欲飛  
  花簪錯落散珠璣
  柔肌應是嫌些隔
  閑却盈盈一架衣

 秋田藩の家老だった匹田松塘の詩集『竹枝詞三十首』の中の一首で、『竹枝詞三十首』の成立については、中村真一郎氏が『江戸漢詩』(岩波書店、1985年)で紹介している。
 「当時、秋田藩に非常に文化的な家老、匹田松塘(1779-1833)がいて、・・・その松塘大夫が或る年、江戸藩邸で病臥していると、看病していた若侍たちが、御家老が眠っていると思って、「娓々トシテ、狭斜猥褻ノ事」を話し合った。若者らしい猥談で夜の閑つぶしをしたのである。すると狸寝入りをしていた松塘は、翌日、早速、その前の晩の若侍たちのお喋りを「竹枝詞三十首」に作って、彼等に見せた。「衆、皆、慚懼驚愕ス」。それがやがて評判になり、物好きが出版しようということになった。」(194頁)
 ところでこの詩のどこが「皆を慚懼させる」ほど猥褻なのか。解は最後にとっておくことにする。
 中村真一郎氏の『江戸漢詩』は、漢詩が隆盛をきわめた江戸時代の代表的な漢詩人の作品を取り上げて紹介した好著で、この本をきっかけに江戸漢詩への関心が起り、岩波書店は1990年から93年にかけて『江戸詩人選集』全10巻を刊行した。選集に取り上げられたのはみな男性詩人だが、中村氏は同書でこう書いている。
 「近世後期における学芸の普及は、多くの女性の知識人をも生み出すに至った。・・・全国各地に結成された学芸団体では、どこでも女性がその主要メンバーとして活躍していた様は、たとえば美濃の詩の結社の白鷗社の集りの情景のスケッチが、今日まで残っているが、それを見ると若い女性の江馬細香が、男性たちに伍して堂々たる態度で、詩を語っている姿が目立っている。」(221頁)
 江馬細香は天明7年(1787年)4月、美濃国安八郡藤江村(現岐阜県大垣市藤江町)で生まれた。父の江馬蘭斎は大垣藩の藩医であった。蘭斎は杉田玄白に『解体新書』の講義をうけた蘭医で、自宅に蘭学塾の好蘭堂を開いて多くの門弟を教えた。そのかたわら当時の知識人の常として詩作を好み、細香にも幼いときから読み書きや詩作の手ほどきを行った。細香は墨竹画と漢詩の修得にはげみ、その詩が当時の漢詩集に紹介されるまでになった。
 江馬細香の生涯と作品については、門玲子氏の長年の研究に負うところが大きい。門氏は研究の成果を、まず評伝小説『江馬細香』(1979年、卯辰山文庫)にまとめ、ついで細香の現在残されている漢詩348篇すべてを訳注を施した上で、漢文学の専門家、故入谷仙介教授の監修のもとに、『江馬細香詩集「湘夢南遺稿」』上下巻(汲古書院、1992年)として刊行した。
 細香の人生に大きな転機が訪れたのは文化10年10月、彼女が27歳のときである。美濃を遊歴中だった頼山陽がある日江馬蘭斎のもとを訪れ、細香と会い、二人の間に恋が芽生えた。これより前、山陽は美濃滞在中に細香の詩を読んで、蘭斎に宛てた手紙で、「才情驚入候・・・柔艶之趣有之堪感吟仕候」と褒めていた。蘭斎はさっそく娘を山陽に入門させたのである。
 山陽はしばらくして結婚を申し込んだが、蘭斎はこれを断ったといわれる。その理由は分からない。山陽は細香との結婚をあきらめて他の娘を嫁にしたが、二人の間の関係はその後も続いた。細香は詩稿がある程度まとまると、それを京都の山陽のもとへ送り、山陽からは朱筆で添削し、批点、圏点をほどこし、評を書いたものが送り返されてきた。
 たとえばその一つ、

 夏夜

  雨晴庭上竹風多  雨晴れて 庭上 竹風多し 
  新月如眉繊影斜  新月眉のごとく 繊影斜めなり
  深夜貪涼窓不掩  深夜 涼をむさぼり 窓をおおわず
  暗香和枕合歓花  暗香 枕に和す 合歓の花

 一読して情景が目に浮かぶ詩だが、そこに若い女性らしい艶冶な色気が感じられる。それはもっぱら第四句から来ていて、どことも知れぬ暗闇の中から、寝もやらずじっと頭をのせている枕辺に花の香が漂ってくるというのである。しかも花は「合イ歓ブ」と書く「ネムの花」。なんとも艶めかしい詩興である。
 山陽はそれを十分に分かっていながら、「窓不掩」の脇に、「不養生ナルヘシ」と書いて寄こした。照れくさかったのであろうか。そして末尾には、「合歓ハ夏開候カ、僕ハ春ノ詩ニ作申候、朱実候ニヤ、猶御シラヘ可被下候、白陸ノ詩ニハ春カト覚申候、覚違ニヤ」と朱で注が書かれていたが、これは山陽の思い違いで、合歓の花は夏に咲き(フランスの家の庭の合歓が夏に花をつけたのは、以前写真で紹介した通りである)、俳諧でも夏の季語となっている。
 細香は古典にもよく通じていた。とくに『源氏物語』は彼女の愛読書だった。そこからこんな詩が生まれた。

  衆艶一時難併開  衆艶 一時に併せて開きがたし
  葵花忽被妒風摧  葵花 忽ち 妒風をこうむりてくだかる
  紅閨多少春宵夢  紅閨 多少 春宵の夢
  我愛空蝉蝉脱来  我は愛す 空蝉の蝉脱し來るを
 
 光源氏のまわりでは、多くの花々が時を同じくして咲くのはむずかしい。葵の花(正妻である葵上)は別の花(六条御息所)の嫉妬の嵐(妒風)にあって打ちくだかれてしまった。源氏に愛された女人たちの閨では、どれほど多くの春の夜の儚い夢が結ばれたことか。慎み深く賢明な空蝉が、薄絹を(蝉が抜け殻を脱ぐように)脱ぎ捨てて、源氏の手を巧みに逃れたことを、私は好ましく思う。
 これに対する山陽の評は、「其第一次不能蝉脱可惜(それ第一次は蝉脱するあたわず、惜しむべし)」とあった。
 「燈下読名媛詩婦」と題したこんな詩も送られた。「名媛詩婦」とは中国の女流詩人四百余名の詩を収めた全三十巻の詩集である。細香がこの詩集を所持していたことは分かっている。

  静夜沈沈著枕遅  静夜 沈沈として 枕に著くこと遅し
  挑燈閑読列媛詞  灯をかかげて 閑かに読む 列媛の詞
  才人薄命何如此  才人の薄命 何ぞ かくの如き
  多半空閨恨外詩  多半は空閨 外を恨むの詩

 第三句、第四句は、「才能豊かな女人たちはどうしてこうも薄命なのか。その大半は空閨をたもち、夫(外)を恨んだ詩である」という意味である。山陽とは離れて暮さなければならなかった江馬細香の実感がこもっている。
 さらには激しい詩もあった。
 
 拈蓮子打鴛鴦(蓮子を拈じて鴛鴦を打つ)。拈じては捻る、あるいは摘むの意である。

  双浮双浴緑波微  双浮双浴 緑波かすかなり
  不解人間有別離  解せず 人の間に別離のあるを
  戯取蓮心擲池上  戯れに蓮の心を取りて 池上になげうち
  分飛要汝暫相思  分かれて飛び 汝が暫く相思わんことをもとむ

 つがいの鴛鴦が池に並んで浮かび、水浴びをしている。そのまわりには緑のさざ波が広がっていく。彼らは人間の世には別離というものがあるのを知らぬげに寄り添っている。思わず蓮の実をとって、池に投げつけた。驚いて二手に分かれて飛び去った鴛鴦よ、しばらくはそのままで、互いに相手を思うことでもしてみるがいい。
 山陽は、「真女子語又未経道処慧心香口安能拈破(真の女子の語なり、また人の未だかつていわざるところなり、慧心香口にあらざれば、いずくんぞ能く拈破せん)」と絶賛した。慧心香口とは女性のかしこい心と美しい表現の意味である。
 細香の詩にはひそかな恋情を詠ったものが多く、それらは心のうちで山陽に宛てたものだった。山陽もまた彼女を門人として以来、病を発するまでの十八年間、たゆまず熱心に指導を続けたのだった。

 さて冒頭の匹田松塘の詩だが、雲鬂髤鬆とは、女の髷がこわれ、豊かな漆黒の髪が乱れた様を表している。雲鬂は耳ぎわの髪の毛、髤、鬆はともに髪の乱れた様を表す。その乱れ方がまるで髪が四方へ飛び散りそうなすさまじい様子だというのである。当然、髪に差した花簪は落ちて、飾りの珠は飛び散ってしまっている。肌と肌をぴったり合わせるのに、隔てとなる衣服などない方がいい。そのせいか華やかな衣服は枕屏風にかかっている・・・漢詩でもこうした情景を描けるという一例である。
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by monsieurk | 2011-11-24 23:04 | 漢詩 | Trackback | Comments(1)

白い睡蓮

 ステファヌ・マラルメの全集には12篇の散文詩が収められているが、そのうちの一篇「白い睡蓮」はこうはじまる。
 
 《私はもう随分漕いできていた。規則正しい、まどろむような大きな動作で、眼は内
 心を見すえ、進んでいることもすっかり忘れて、時間の笑いさざめきがまわりを流れ
 て行くかのようだった。あまりに動きがないため、ボートが半ばまで何かの中に分け
 入る鈍い音をふと耳にして、水面に出ているオールの上で頭文字が鮮やかに輝くのを
 見て、ようやく艇が止まっていることに気づき、自分の世間的な身元を思い出す始末
 だった。

  何がおこったのか、私はどこにいるのか?》(Œuvres complètesⅠ, p.428)

 詩人と思しき主人公が漕ぐボートは夏の草いきれのなかを、小川の流れにそって進んでゆく。空想にひたりながら機械的に漕いでいたオールがなにかものに当る音がして、われに返るとボートが密生する葦の中へつっこんで止まっているのに気づく。その朝早く、すべてが燃えさかる夏景色に酔って、かねて紹介されていたある夫人の別荘を探すために、水草の生い茂る流れにボートを浮かべて漕ぎ出したのだった。
 この散文詩の初出は週刊雑誌「芸術と流行」の1885年8月22日号で、バンシャールのデッサンによるボートの挿画が添えられていた。
 ここでボートと訳した原語はyoleで、本来は船に積載されている複数のオールを持つ雑用のボートを指す。ただここではオールが2本の小型のボートなのは明らかである。
 マラルメは13歳のときに父親に連れられて初めてヨンヌ川へ行って、魚釣りやボート遊びの楽しさを教えられた。それ以来、川遊びは詩人のほとんど唯一の趣味となった。後年マラルメは自らヨット(yole)と呼ぶ小型の舟を所有していた。これは北フランスのノルマンディーの港町オンフルールの親戚の家に滞在していたとき、その助言にしたがって、ノルウェー産の固い材木で作らせたものである。マラルメは海でしばらく練習したあと、毎日少しずつセーヌ川を遡航して、別荘を借りていたヴァルヴァンまで運んだのだった。ヴァルヴァンはフォンテーヌブローの広大な森に近いセーヌ川の岸辺にある小邑である。
 彼は休みになるとお気に入りのヴァルヴァンへ出かけていっては、朝から川に舟を浮かべ、セーヌ川を上下して、疲れると土手の近くにボートを繋ぐと、草原に寝転び、パイプを燻らせながら夢想にふけった。別荘の家主アベル・ウードリーや隣人だった雑誌の発行人ナタンソンが撮影した舟遊びに興じるマラルメの写真が残されている。散文詩「白い睡蓮」は、マラルメのこうした体験を背景に創作されたものである。
 半睡状態でボートを漕いできた詩人は、葦原に突っ込んだことでわれにかえる。

 《とそのとき、聴き取れないほどの物音がして、岸辺の住人が私の閑暇につきまとう
 のではないか、それとも思いがけず、この水辺を訪れようとしているのではないか、と
 疑いを抱かせた。

 歩みが停まった、なぜだろう?

 足は往きつ戻りつし、地面の上を流れるように進むスカートの白麻布とレースにく
 るまれた親しい影が望むところに精神を導いていく、その精妙な秘密。それはまるで、
 歩みが、地面すれすれに、二本の矢のような賢い靴の先から狭まって舟尾に至るよう
 に、襞を後ろに引きずりながら、左右巧みな足さばきで進路を開くあの発意を、踵から
 爪先にかけて、浮遊するスカートの吃水線のなかに巧みに包み込もうとするかのようだ
 った。》(ibid, pp.429-430)

 マラルメを読みはじめた1950年代後半当時、鈴木信太郎先生の翻訳や大著『「マラルメ詩集」考』は存在したが、個々の詩篇についての日本語による解釈はごく限られていた。そんな中で大いに参照したのが小林太市郎氏の『芸術の理解のために』(昭和35年、淡交新社)に収録された幾つかのマラルメ論だった。小林太市郎氏(1901-1963)は京都西陣の織元の家に生まれ、京都大学哲学科で美学を専攻し、ソルボンヌに3年間留学した後、長く司書をつとめ、その後、神戸大学文学部で教鞭をとった。その守備範囲は大和絵から王維の詩、中国陶器とじつに多彩で、芸術作品をその根底に潜む性的欲望を中心に分析する見解は実証的な学者にはない魅力があった。
 その小林氏が、「美女の門前からひきかえす話――マラルメの散文詩「白蓮」」で、このくだりを次のように敷衍している。
 「すると、ほのかな、やさしい衣ずれのおとがして、ちかづいてくる。そして足おとは橋をゆき、もどり、すこしためらってから、ちょうど彼のあたまのうえでとまった。見あげると、ひろい麻の裳のすそのレースが花のようにふるえて、そのなかにこもったなつかしいほの暗さのうちに、かすかに二すじの蕊がのびて、夏のむしあつさから、その奥の幽深な神秘のさそいをさえぎるものもない。詩人は蘆にかくれ、ボートの中にかがんだまま、息をころして、頭上に蔽いかぶさる咽せるような魅惑に酔いひたっている。帯はかたくむすばれていても、下から見上げるその本能の悦楽をふせがない。」(小林太市郎全集第1巻、83頁)
 小林太市郎氏は、詩人が見上げる先にスカートの中の「二すじの蕊」、つまり脚まで想像しているが、マラルメの散文詩は節度を保って、浮遊するスカートに見え隠れする足先しか描いていない。
 いずれにせよ詩人は、橋の上の未知の夫人がどんなタイプの女性だろうと、どんなに典雅な、瀟洒な、豊満な姿をしていようと、その顔かたちを目にしないほうがいいと思う。現実にその姿を見た途端に、足音がかもし出す薄衣のうちにこもる本能的な魅惑は中断され、さまざまな楽しい想像は中断されてしまうに違いない。想像している限り、この尽きぬ魅惑を、ダイヤの留め金でしっかりと締めた腰帯でさえ禁じることはできないのだ。

 《隔てられているからこそ、一緒にいるのだ。水の上のどっちつかずの状態の中で、
 私はいるのかいないのか定かでない女性を夢想し続けている。それが訪問につぐ訪問
 の末にようやく許される以上に、私は彼女の恥じらい戸惑っている内心に触れている
 のだ。端艇のマホガニー材に耳が触れるほど身を伏せて、あれっきり音の途絶えた砂
 地のあたりに聴き耳を立てていた。いまのこのような直観的な心の触れ合いをふたた
 び見出すには、私が先ほど聴き取られないように発したあの呼びかけに比べて、何と
 多くの無駄な口説が必要になることか!》(ibid, p.430)

 ボートの中で詩人は反省を続ける。いま自分は夫人を知らず、夫人も自分を知らない。現実には二人は未知のままで終わったにせよ、しかし、それだからこそ二人は――少なくとも自分の想像の中では――いまほど親密な関係を結んでいることはない。たといなんども訪問を重ねて親しくなったあとでも、これほど互いに心を通わせることがあるとは到底思えない。この純粋な夢想の豊かさ、楽しさを現実の行為で乱してはならない。
 そこで詩人は夫人に見つからないように、ボートをそっと漕いで橋の下を離れる決心をする。

 《無傷のままの夢想と、ありもしない幸福と、人が現れるのを恐れてここで凝らして
 いた私の吐息がつくりだす空虚を、その内側の白さで包み込みつつ、この場に忽然と
 出現した魔法の睡蓮の閉じた花のひと茎を、ある場所の思い出として摘み取って出発す
 ること。ひっそりと、徐々にオールを返して、何かと衝突して幻想が壊れないように、
 また、私の逃亡につれてぶくぶくと渦を巻く泡が、不意に現れた誰かの足もとに、私が
 拉致する観念の花に似た透明な水の花を投げかけたりしないように気をつけながら。》
 (ibid, p.431)

 詩人がこの出来事の思い出に摘んだひと茎の白い睡蓮は、いうまでもなく詩人の欲望が生み出した幻の花である。マラルメは「詩の危機」の一節で、「私が言う、花! と。すると、・・・あらゆる花束の中にも存在しない花、気持のよい、観念そのものである花が、音楽的に立ち昇る」((Œuvres complètesⅡ, p.213)と書いたが、白い睡蓮もまたどこにも存在しない観念そのものの花にほかならない。

 《私は規則通りに操作を完了した。ボートを漕ぎ出し、向き変え、すでに小川の波のう
 ねりを迂回して、私の空想の戦勝杯を、〔羽が生えて〕飛翔するような心配のない高
 貴な白鳥の卵のように、持ち去った。》((Œuvres complètesⅠ, p.431)

 散文詩「白い睡蓮」に対する小林太市郎氏の下した評価――、
 「この「白蓮」のものがたりほどおもしろいものはない。およそ文学がはじまっていらい、年千年にわたって世界のあらゆる作家が説きふるし、書きふるし、あつかいつくした陳腐なテーマ――男女のであいというものを、これほど奇抜に、新鮮に、めざめるようにあたらしく、まったく意想外に構想したものがあろうか。・・・この「白蓮」ほど痛烈な快味をもたらすものはない。しかもそれはただ好んで奇巧を弄するのではけっしてない。その意外な奇手の中に、深い思想と幽玄な哲学とをこめているのが至上にとうとい。」(同、85-86頁) まったく同感である。
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by monsieurk | 2011-11-16 18:06 | マラルメ | Trackback | Comments(1)

灰とダイヤモンド

 知人に誘われて早稲田のフランス料理店で会食した後、久しぶりに早稲田通りの古本屋街を散策して、宇佐美斉氏の『ランボー詩注』(国文社、1979年)を購った。京都大学のかつての同僚宇佐美氏はアルチュール・ランボーの研究者で、ランボーの優れた翻訳者として知られる。本に収められた評論「幻想の都市」のなかに次のような文章を見つけた。

 「暁に、熱い忍耐で武装して、ぼくたちは輝かしい都市に入城しよう。(「別れ」より)

 『地獄の季節』の結末部分に忽然と現れ出る、淡く、しかも力強い、このような希望は、した
 がって夢の廃墟から再度たち上ろうとする詩人の、現実に対するねばり強い抵抗と挑戦の意
 志を、くっきりと投影している。(中略) かつてランボーに熱中した青春の日々が、ポーランド映
 画『灰とダイヤモンド』に強い感銘を受けた時期と重なっていたことに起因する、個人的な連想
 に過ぎないかもしれないが、私は『地獄の季節』を読み進んで来て、この最終部分の「輝かし
 い都市」の一句に出会うと、必ずといっていいくらいに、あのノルヴィットの不滅の詩句、爆撃
 によって荒廃した教会に迷い込んだふたりの不幸な恋人たち、マーチェクとクリスティーナが、
 マッチのあかりをたよりに判読した、「暁のように、太陽のそして永遠の勝利の栄光を告知す
 る」、灰に埋もれたダイヤモンドについての数行を、想い浮かべずにはいられないのである。」
 (同書、18-19頁)

 この一節を読んで、同じ時代にアンジェイ・ワイダ(Andrzej Wajdaポーランド語の発音はヴァイダ)の映画『灰とダイヤモンド』を観たときの衝撃と感銘を思い出さずにはおかなかった。『灰とダイヤモンド』は、ポーランドの「雪解け」(自由化)直後につくられた『地下水道』(Kanaľ、1956年)に次いで、1958年に製作された。
 『地下水道』は第二次大戦末期に決行された「ワルシャワ蜂起」の悲劇を描いた作品である。1944年、ロンドンにあったポーランドの亡命政府は、ソ連軍のポーランド侵攻が近いと判断して、ドイツ占領下にあるポーランドにいる対独レジスタンスに一斉蜂起を命じた。しかしドイツ軍の抵抗は頑強で、レジスタンス側は次第に追い詰められ、最後はワルシャワ市内に張りめぐらされている下水道(Kanaľは下水道を指すが、その汚さや悪臭の連想を緩和するために題名としては地下水道という言葉が用いられた)に逃げ込む。物語はほぼ全篇が、出口のない、あるいは出口はあっても出るに出られない地下水道を舞台に展開する。
 これは脚本を書いたスタビンスキー自身の体験にもとづくもので、レジスタンス部隊はやがて離れ離れとなり、ある者は発狂し、ある者は状況に堪えられず、マンホールから表へ出たところを発見されてドイツ軍に射殺される。映画を観たのは新宿コマ劇場の前の地下にあった映画館で、観ているうちに客席に汚水が流れ込んでくるような錯覚に陥ったほどだった。
 実際の「ワルシャワ蜂起」では20万人が犠牲になり、亡命政府はこれをきっかけに権力を急速に失った。スターリンのソビエトが民族主義的な亡命政府の影響力を削ぐために、積極的な支援を行わなかったのが一因だった。映画は蜂起の英雄的な側面ではなく、悲惨な状況を描き出したが、その狙いはこうした当時のソビエトの姿勢への批判にあったとされる。
 『灰とダイヤモンド』(Popióľ i diament)は、『地下水道』の続編ともいうべき作品で、戦後に生じたレジスタンス内部の分裂を、一人のテロリストの青年の運命を通して扱っている。
 ドイツ占領下にあって、レジスタンスは親ソ的な共産主義者(人民軍)と愛国的反共主義者(国内軍)に大きく二分されていたが、両者にはナチという共通の敵がいた。しかし1944年8月に開始された「ワルシャワ蜂起」が失敗に帰すと、国内軍は下部組織が共産党系の人民軍に吸収されるのを恐れて、1945年1月に部隊に解散を命じた。この映画の主人公である二人のテロリスト、マーチェクとアンジェイは国内軍の残党で、解散後は森を拠点にソ連軍やその影響下にあるポーランド労働者党に対するテロ攻撃を行っていた。
 マーチェクは上層部の命令で、新たに赴任してきた党の地方書記シチューカを暗殺しようとして、間違って別人を射殺してしまう。シチューカはスペイン内戦でファシストと戦って負傷した後、第二次大戦ではソ連軍に参加した経歴を持つ。一方のマーチェクはワルシャワ蜂起に参加したあと、愛国的なゲリラ・グループに属して、権力を握りつつある共産主義者を狙ってテロを繰り返す。
 宇佐美斉氏が触れている映画のシーンは、再度シチューカの暗殺をこころみる前に、ホテルのバーの女性クリスティーナを誘って教会の霊廟に入っていく場面である。戦火で崩れた地下の霊廟では磔になったキリストの像が上から逆さに吊り下がっている。クリスティーナは墓碑に書かれた言葉を見つけて、マッチを擦ってそれを読み上げる。「松明のごと、 なれの身より火花の飛び散るとき / なれ知らずや、わが身を焦がしつつ自由の身となれるを / もてるものは失わるべきさだめにあるを / 残るはただ灰と、あらしのごと深淵に落ちゆく混迷のみなるを」。
 その先が読めなくなったクリスティーナに、マーチェクはこれは19世紀ポーランドの詩人ツィプリアン・カミル・ノルヴィットの詩だと教え、その先を暗唱しはじめる。「永遠の勝利のあかつきに、灰の底ふかく/ さんぜんたるダイヤモンドの残らんことを」(イエジー・アンジェイェフスキ『灰とダイヤモンド』、川上洸訳、岩波文庫)。世界の映画史上もっとも印象的なシーンとされる場面である。
 クリスティーナの愛を知ったマーチェクは生き方を変えようとする。だが結局は、人民軍の保安隊に見つかって撃たれ、ゴミ捨て場まで逃れるが、やがて苦痛にのたうちながら死んで行く。ワイダ監督は、こうした出来事をナチス・ドイツが無条件降伏文書に署名した1945年5月8日から9日にいたる出来事として描いた。
 『灰とダイヤモンド』が日本で公開されたのは、製作された次の年の1959年。時代は翌年に予定される日米安保条約改定阻止に向けて、闘争が高まりつつあるときであった。私たち学生の置かれた状況は、映画が描くワルシャワ蜂起のポーランドとは比ぶべくもなかったが、それでも闘う相手は明確であり、社会を変えたいという思いは強かった。一つの映画作品にあれほど影響を受けたのはそのためだっただろう。
 大学を卒業して映像を製作する仕事を選んで一年後、どうしてもポーランドのウッチ(Ľodź)にある映画学校に入学したくて、東京のポーランド大使館を訪ねたことがあった。この映画学校はアンジェイ・ワイダが学んだところだった。
 大使館文化部の書記官は快く応対してくれた。希望を伝えると、大歓迎するが、「ポーランド語はできるか」という。「だめだ」と答えると、「ではロシア語は」。大学で数時間かじっただけで、その代わりフランス語なら話せるというと、まずはポーランド語の勉強をしてくださいということになった。残念ながら仕事が忙しくなり、ポーランド留学は断念せざるをえなかった。いまでも心残りである。
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by monsieurk | 2011-11-13 01:13 | | Trackback | Comments(0)

イヴ・モンタンのリサイタル

 神田神保町で催された秋の古本祭りで、イヴ・モンタンが行ったリサイタルのパンフレットを落札した。表紙は黒シャツ、黒ズボン姿の若いモンタンが舞台上で飛び跳ねている写真で、両手、両足を広げ、口も大きくあけて何かを叫んでいる。そこに“très amical Y Montand”と自筆のサインがあり、裏表紙にはジャック・プレヴェールの詩が印刷されている。この詩は現行のPléiade版2巻本全集では、“Un rideau rouge se lève devant un rideau noir(黒い幕の前で赤い幕が上がる)・・・”と題されている長い詩の後半部分で、元のタイプ原稿では、そのものずばり“Yves Montand”というタイトルがつけられていた。
 詩の前半部分では、

  この大きな青年は、活発で、率直、そして明晰
  男らしく、優しく、愉快で、
  もうイヴ・モンタンと名乗っていた
  さてさて彼の心に死の影はなく
  死がこの肉体には何が隠されているのかと問う暇さえない
  それとも死の方が一目惚れしてしまったのか

 と、モンタンが紹介されたあとで、パンフレットに掲載された後半部分が続く。

  彼女(死)は立ち上がり
  もう一度倒れこむ
  今度は男の腕の中
  でも男はそこにじっとしていない
  彼は舞台に登場するや
  もうホールの
  観客たちのまっただなかにいる
  彼はあらわれるとすぐに
  ロマンスを踊らせる
  そしてたちまち
  ロマンスも彼も
  観客の心もどこか他所へとんでいく
  気晴らしのためでなく
  高くついた単調な一日に
  とどめの一撃を加えようと
  劇場にやって来た
  常連や玄人の
  一番疑り深い者の
  心さえ惹きつける
  ・・・・・
  彼は人魚や小魚たちのために歌う
  気取らない美しい声で
  簡単なエコーをつけて
  それが彼を喜ばせ
  それが彼を歌好きにする
  空と地を動員し
  足と手を動員する
  こうして
  突如実現した豪奢な催眠術で
  横になった観客たちの
  長い列車を牽引する彼は機関士なのだ
  それで
  観客たちは
  「ユーモア」と
  晴れと雨と
  幸福と不幸と
  若さと人生と
  そして「愛」の
  時刻表の通りに
  旅へといざなわれる

 ジャック・プレヴェールがイヴ・モンタンと出会ったのは、彼がシナリオを書き、マルセル・カルネが監督した映画『夜の門』(Les Portes de la nuit)に、彼を主役に抜擢したときだった。映画は最初、ジャン・ギャバンとマルレーネ・ディートリッヒの共演で撮影されるはずだったが、プレヴェールが当初の内容を変更して、対独協力者とレジスタンスの男の対決というテーマにしたために、ディートリッヒが出演を断り、ギャバンも彼女に同調したために、新たな主役を探さなくてはならなくなった。そのときプレヴェールとカルネが目をつけたのが、ミュージック・ホールで人気の出はじめていたイヴ・モンタンだった。
 映画は1946年9月に撮影が終わり、12月2日月曜日にマリニャン映画館で封切られたが、評判と興行成績は散々だった。落ち込むモンタンを、プレヴェールは、「心配するなよ、うまくやったぜ」と言って慰めたという。このときからモンタンは飾らないプレヴェールに私淑し、プレヴェールは歌手モンタンの実力を高く評価した。
 入手したパンフレットは、おそらく1950年代に「オランピア劇場」で開かれたリサイタルのときのものと思われる。パリのキャピュシーヌ大通りにある「オランピア劇場」はミュージック・ホールの殿堂で、パンフレットによると、モンタンはこのとき第1部、第2部で全24曲を歌っている。そのうちプレヴェール作詞のものは、「愛し合う子どもたち」、「ブロードウェイの靴磨き」、「枯葉」、「バルバラ」の4曲。このほかに「画家、リンゴそしてピカソ」という詩を朗読している。
 「愛し合う子どもたち」と「枯葉」は映画『夜の門』の主題歌だったが、モンタンの期待にもかかわらず、映画のなかでは歌うことができなかった因縁の曲である。そのときから数年して、プレヴェール作詞コスマ作曲のシャンソンは、「バルバラ」を含めてモンタンの代表的な持ち歌となった。
 モンタンは1968年のオランピアでのリサイタルを最後に歌手活動を停止し、俳優業に専念した。そのモンタンが再びオランピアの舞台に立ったのは、1981年10月のことである。じつに13年振りの舞台に世界中から観客がつめかけたが、私は幸い切符を手に入れることができた。
 満60歳のモンタンは以前と同じように、黒シャツ黒ズボンで舞台に立った。その声はまったく艶を失っておらず、円熟味を増していた。このときの舞台は、かつて2枚組みのLPレコード“Y. Montand――Olympia 81”(Philips、レコード番号25pp40/41)に収録されて出ていたことがある。そのうちの一つ“A bycyclette(自転車乗り)”は、いまYouTubeで見ることができる。
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by monsieurk | 2011-11-09 12:33 | 収穫物 | Trackback | Comments(0)

ベルリンの壁崩壊(3)

 ハンガリー政府がオーストリアとの国境を開けたという情報は、とりわけ東ドイツ政府に衝撃をあたえた。翌3日に開かれた定期会議の席上、書記長のホーネッカーは、「ハンガリーの連中は何をたくらんでいるのだ」と叫んだという。だがホーネッカー自身もハンガリーの意図を十分に分かっており、それだけに強い危機感をいだいた。
 夏休みが近づきつつあった。東ヨーロッパの人たちにとって、ブダペストやその北にあるバラトン湖は憧れの避暑地だった。豊富な食品や雑貨が手に入り、大きな湖の湖畔でのキャンプは人気だった。それに加えてハンガリーが西側世界への扉を開いたのである。5月から6月上旬にかけて、数百人が車を国境近くの森林に乗り捨てて、オーストリアへ徒歩で入ろうとしたが、運悪くハンガリーの国境警備隊に発見されてUターンさせられた。それでも国境警備隊の対応はにこやかで、彼らがいなくなると、あらためて国境越えをこころみて成功した人もあった。
 この時期に一つの計画が進行していた。アイディアを出したのはハンガリーの活動家メサロシュ・フィレンツだった。ハンガリー人とオーストリア人が国境でピクニックを行って、フェンス越しに食べ物を交換し合い、冷戦の異物であるフェンスの無意味さを世界に訴えようというものだった。彼はこの考えを新たに生まれた「民主フォーラム」のフィレプ・マリアに話した。フィレプはソビエト圏諸国の学生を対象とする一種の「政治的な避難所」を運営しており、国境でのピクニックというアイディアに賛同して、協力を申し出た。
 二人はピクニックの名称と場所、開催する日時を決めた。名称は「汎ヨーロッパ・ピクニック」、場所はハンガリー領がオーストリアのなかに食い込んだような地形にある街ショプロン。日時は1989年8月19日午後3時。二人はオーストリア=ハンガリー二重帝国の支配者の子孫、オットー・フォン・ハプスブルクと党政治局員のポジュガイ・イムレに、この計画のスポンサーになってくれるように話した。
 ポジュガイはこの計画が、ハンガリーが国境を開放して共産圏から離脱しようとしていることを世界に知らせる絶好の機会になると判断して、すぐネーメトに話した。ネーメトにも異存はなかった。二人はさらに、これを単なるピクニック以上のものにしたいと考えたのだった。
 ただ事は慎重に運ぶ必要があった。ホーネッカーからは、東ドイツの市民が不法に国境を越えようとしたら、逮捕して身柄を引き渡すようと強硬な申し入れがあった。
 7月、ヴァカンス・シーズンがはじまると、大勢の人びとがハンガリーに押し寄せてきた。ホテルは満員となり、バラトン湖の周辺や他のキャンプ地には無数のテントが張られるようになった。メサロシュやフィレプは、政党に属する活動家や学生、環境保護団体、市民団体などに協力を呼びかけて、鉄条網を突破する白い鳩(白バラもあった)を描いたポスターをつくり、人びとが集まる場所に貼り出してピクニックへの参加を呼びかけた。そしてピクニックの案内状がハンガリー内外のマスコミにファックスで送られてきた。
 ポジュガイは内相のホルバット・イシュトバンに協力を求めた。内相は警察と民兵組織を統括しており、ピクニックの成功には彼の助力が不可欠だった。ネーメト、ポジュガイ、ホルバットはひそかに話し合い、ピクニック当日は国境警備隊がショプロンの現場に近づかないようにすることが決められた。決定は国境警備隊の指揮官ジュラ・コチバを経由してショプロン地区の司令官に伝えられた。
 8月19日、ピクニック当日、午後2時ころにイヴェントがはじまった。国境近くの草原には主催者の予想に反して、数千人の人たちが集まってきた。オットー・フォン・ハプスブルクの姿はなかったが、彼のメッセージを娘が代読した。やがて人びとが国境のゲートの方へ走り出した。その数は300人ほどで、みな東ドイツ市民だった。
 警備隊は命令通りに会場には近づかなかった。検問所にいたのは検問担当の役人だけで、彼らは国境にむかって突進する東ドイツの人たちにあえて背を向けて、オーストリア人旅行者のパスポートを入念にチェックしていた。こうしてこの日、国境を越えた東ドイツ市民は600人を数えた。この模様は西ドイツテレビのZDFやソ連東欧向けに放送しているラジオ・フリー・ヨーロッパが現場から中継して、またたくまに知れ渡った。
 「汎ヨーロッパ・ピクニック」の出来事を西ドイツテレビで見たホーネッカーは、東ドイツ駐在のハンガリー大使を呼びつけて激しく抗議し、ハンガリーに留まっている東ドイツ市民を即刻強制送還するように要求した。この段階でハンガリー国内には15万人の東ドイツのパスポートをもつ人たちが留まっていた。
 肝心なのは強硬な東ドイツ政府ではなく、ソ連の出方だった。ネーメトたちは待った。それでもソ連からは何も言ってこなかった。「責任者はあなた方だ」と言ったゴルバチョフは、その言を守ったのである。
 ネーメトは3日後に外相のホルン・ジュラとともにボンへ飛び、コール首相、ゲンシャー外相と秘密裏に会談し、ハンガリーはワルシャワ条約機構との関係を絶って、東ドイツの国籍を持つ人たちが自由に出国することを認めるつもりであることを説明した。そのために西ドイツが、東側から脱出してくる人たちを受け入れる準備をしてほしいと述べた。
 コールは感謝の言葉を繰り返し、ハンガリーは見返りに何を望むかときいた。このときネーメトがどう答えたかは分からない。西側のマスコミでは、5億マルクの信用供与が提供されたという報道もあった。
 西ドイツ政府はハンガリーの首都ブダペストにあるブラケット教会の礼拝堂の裏にひそかにオフィスをつくり、そこで西ドイツのパスポートを東ドイツ市民に交付した。この非合法活動は、ハンガリー政府も西ドイツ政府も関与せず教会の神父の自発的意思にもとづく行為ということで実行された。教会の庭には、東ドイツの人たちがテントを張って何日も過ごしていた。その様子を撮影したドイツテレビのカメラが偶然その模様を映していた。そして西ドイツ政府は、オーストリアと国境を接するバッサウに数万人を収容できる大規模な移民センターを建設した。
 8月31日、ハンガリー外相ホルン・ジュラは、東ベルリンで東ドイツ外相のオスカー・フィッシャーと対決した。ホルンが、「オーストリアとの国境を完全に開放する」と告げると、フィッシャーは、「ハンガリーは東ドイツを見殺しにして、あちらの陣営に加わるというのか。どういう結果になるか、よく考えてみるのだな」と言い放ち、会談は決裂した。しかしこの数日前、ゴルバチョフはコールに対して、どのような事態が生じてもソ連は介入しないと通告してきていた。
 9月11日午前零時、ハンガリーとオーストリアの国境のゲートが完全に開いた。つめかけていた人や車が検問所を通って西へ西へと脱出した。この日だけで8000人以上の人が西へ向った。そしてその人数は日ごとに増え、オーストリアからは列車やバスで西ドイツの収容所へ送られていった。
 この大脱走の様子は連日西側のテレビで伝えられ、私はそれを見届けて東京へ帰任した。その後の動きはよく知られている通りである。
 月が替わって10月2日、東ドイツのライプチヒでは、「月曜デモ」がはじまり、10万人が参加した。デモはこの日から連日続けられ、翌3日になると、東ドイツは国境を完全に封鎖した。7日は東ドイツ建国40周年の記念日だった。来賓として出席したゴルバチョフは、ホーネッカーを含む東ドイツ社会主義統一党の政治局員との会合の席上、「一歩遅れた者は、その責を一生背負うことになる」と言った。
 10月18日、ホーネッカーは失脚し、エゴン・クレンツが後任の党書記長に選ばれた。11月1日、東ドイツはチェコスロバキアとの国境を開いた。しかし民衆の体制に対する不満の動きはおさまらなかった。4日、東ベルリンで50万人をこす人たちのデモが行われ、6日にはライプチヒのデモは100万人に膨れあがった。
 11月9日、クレンツは新たな改正案をまとめた。文書には、「旅券を所持している東ドイツのすべての人民は、いつでも、ベルリンを含むどこでも、国境警備のチェックポイントを通って出国することを認めたビザを取得する権利を有する。旅券を持たない人民も、出国の権利を付与する特別のスタンプを押した身分証明書を所持することができる」と書かれていた。そして党中央委員会はこの改正案を午後4時頃に承認した。実施は翌10日とすることになった。
 午後5時頃、スポークスマンのギュンター・シャポウスキーがクレンツの事務所に立ち寄った。彼は前の週から、毎日定例の記者会見を行うことになっていた。中央委員会での議論の経緯を知らないシャポウスキーが、「何か発表するニュースはないか」と訊ねると、クレンツは「こんなものがある」と言って二枚の文書を渡した。クレンツが中央委員会で説明し了承された内容だった。ただそれは翌10日にマスコミに向けて発表するはずの文書で、そこに書かれていた、「ab sofort(今から直ちに)」という文句が、翌日10日を意味することを彼はシャポウスキーに伝えなかったのである。それが故意か不注意だったのかはいまだに分からない。
 シャポウスキーは少し離れた会見場へ行く車の中で、一度だけ文書に目を通して会見に臨んだ。彼は記者会見の最後で、この旅行規則の緩和を発表した。そして記者から「いつからか」と質問されて、文書を見直した。そこには「今から直ちに」と書かれてあり、彼はそのまま発表したのである。
 クレンツが用意したこの旅行規則の緩和策が、東ドイツの新体制の思惑通りに運んでいたら、事態はどうなっていただろうか。壁が開放さたことに相違はないとしても、それは政権の手で秩序だって行われ、突然の発表に、興奮し、歓喜した民衆の力で壁が突破されて、「崩壊した」ことはなかったはずである。
 11月9日の夜に突如出現した衝撃的な映像が、「ベルリンの壁崩壊」というドラマを世界中の人びとに強烈に印象づけ、その後の事態を加速度的に押し進めていったのである。
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by monsieurk | 2011-11-06 21:51 | 取材体験 | Trackback | Comments(0)

ベルリンの壁崩壊(2)

 ことの発端は、ハンガリーでの環境破壊反対の小さな動きだった。
 ドナウ川はスロバキアから国境をこえてハンガリーへと流れるが、両国はドナウ川の航路の改修、水力発電所とダムの建設について協定を交わした。スロバキアは上流のカブチコヴォに、ハンガリーは下流のナジマロシュにダムを建設する計画で、工事は一般には知らされないままひそかに進められた。だが1980年になって事実を知ったジャーナリストのヤーノス・バルガが、雑誌「ブバール」に、ダム建設がドナウ川の破壊につながるとの警告記事を発表し、友人の映画監督が厳重に警備された工事現場を撮影することに成功した。やがてこれがダム建設を中止させ、さらには共産主義政権を倒壊に追い込む運動のスタートとなったのである。
 私たちの取材に対して、ヤーノスはダム建設に反対した理由を、「スロバキアに出来る予定のダムによって、ドナウ川がハンガリーへ流れ込む地帯にひろがる河川沖積湿地帯の地下水の水位低下をまねき、生態系に悪影響をあたえることが分かった。さらにこれによって15万ヘクタールの森が水に沈み、川の流れが遅くなるため、大量の沈殿物が発生して水源として使えなくなることが分かったからだ」と語った。
 ドナウ川はブダペスト市民をはじめ500万人の飲み水をまかなってきた。しかし「青きドナウ」と讃えられた川は褐色に濁り、この頃になると水道の水源を遠く離れた山地に求めざるをえない状態となっていた。
 ヤーノスの論文が雑誌に載ると露骨な弾圧が加えられた。素人の調査に基づくもので科学的根拠を欠くとして、以後論文の掲載は妨害され、ヤーノスには監視がついた。しかし彼はあきらめなかった。ジャーナリストの職を辞し、環境問題の勉強を始めるかたわら、1984年2月に、「ドナウ・サークル」という団体をつくり、地下出版物を発行して支持者を増やしていった。
 ベルリンの壁が崩壊する以前、東欧諸国の環境破壊はどこも深刻な状態だった。しかし共産主義政権下では、西側に追いつき追い越せのスローガンのもとに、それは無視されていた。
 ベルリンの壁が開かれてしばらくすると、西ベルリンの空気が臭くなった。原因は青い排気ガスをまきちらして走りまわる排気量595CCのプラスチック製のトラバントなど東ドイツ製の車だった。排気ガス浄化装置をつけていない上、ガソリンの質が劣悪で、空気はたちまち汚染されてしまったのである。
 チェコの首都プラハから北へ80キロ、東ドイツとの国境に近いモストは東側でもっとも汚染された街といわれた。街の運命が一変したのは、近くから褐炭の層が発見されたときからである。これがチェコ最大のエネルギー源とされ、街の近くには巨大な露天掘りがいたるところで行われた。褐炭は石炭のうちでも炭化度が低く大量に掘り出す必要があり、しかも層が薄いために採掘場はどんどん移動する。その度に畑や森がつぶされた。ついに露天掘りの現場がモスト市に迫ると、市街そのものが3万5千人の住民もろとも移転することになった。新たにつくられたモスト市は人口が7万人に増え、周辺に褐炭を利用する火力発電所、重化学工業の施設が続々建設され生産が競われた。その結果がすさまじいばかりの大気汚染である。北ボヘミヤ地方だけで年間凡そ100万トンの二酸化炭素が排出された。
 モストからさらに北へ20キロほど行った森林地帯では、木々が白骨のように白く立ち枯れていた。向いの山でも背後の山でも、枯死したモミの木が幽霊のように立っている光景は異様だった。しかも白骨化した森は延々百数十キロにわたって続いていた。酸性雨の被害なのは明らかだった。
 モミは「ボヘミヤの女王」と呼ばれ、名高いチェコ製ヴァイオリンの貴重な材料だが、こうした被害が材料の確保に影響をあたえているということだった。これらの東側の環境破壊は壁崩壊後の取材で分かったことで、「文藝春秋」1990年9月号に、「『壁のむこうの』環境破壊」と題して書いた通りである。
 話をドナウ川の環境汚染に戻せば、ヤーノスたちは「ドナウ・サークル」という環境保護団体を立ち上げて、運動は次第に市民の関心を呼ぶようになった。彼らはダム建設中止を政府に要望し、ドナウ川と恐竜の名前をもじった「ドナザウルス」と題した活動の記録をビデオにした。これは共産主義政権下では公開を禁じられたが、やがてビデオ・レンタル店にも置かれるようになった。
 最初は百人規模だったデモが、千人、1万人と集まるようになり、1988年夏には10万人をこす人たちが、「ダム建設の是非を国民投票に」と叫んで行進した。これは1956年の「ハンガリー動乱」以来最大のデモとなった。そし10月、盛り上がる世論を押さえきれずに、国会でダム建設の是非を問う議論がおこなわれ、投票に際しては19人が反対、31人が棄権した。政府の政策には満場一致の賛成が原則の国会で公然と反対の声があがったことは体制側に強い衝撃をあたえた。
 ハンガリーでは、東ヨーロッパ経済相互援助機構(COMECON)の国以外に、西側との貿易が盛んに行われて市民は比較的豊かな生活を送っていた。共産主義政権下でもブダペストの幾つかの有名レストランでは、白手袋をしたボーイが客たちにサービスし、自慢のトカイ・ワインを味わうことができた。
 改革派が実権をにぎった社会主義労働者党は、共産主義とは相いれない株式市場を開設し、個人企業の創設を促進する新たな法律を制定し、固定価格を廃止して自由価格の導入を奨励した。こうした一連の経済改革が政治にも影響をあたえずにはおかなかった。
 1989年10月、ハンガリー社会主義労働者党は党名を「ハンガリー社会党」と改め、党内では「複数政党制」を認めるかどうかが議論され、東側でははじめてこれを認める決定がなされた。ただ新たに生まれる政党を公式に「政党」と認めることは時期尚早だった。それは一党独裁というにマルクス・レーニン主義の大原則に違反することになり、近隣諸国の反発や反対が目にみえていた。そこで彼らは新党の名前に一工夫が加えた。新党を、「・・・クラブ」、「・・・運動」と呼ぶことにしたのである。
 こうして市民の間から先ず「民主フォーラム」というグループが立ち上げられ、最初の政治団体が結成された。これには環境保護の運動を担ってきた人など多くの知識人が参加した。街のカフェでは誰もが「民主主義」について公然と議論していた。
 これには前年11月に、改革派のネーメト・ミクローシュが首相に任命されたことが大きくかかわっていた。ネーメトはこのとき40歳。アメリカのハーヴァード経営学大学院(ビジネス・スクール)に1年間留学した経済の専門家で、穏やかな見かけの陰に信念と粘り強さを秘めていた。
 ネーメトと二人三脚を組んだポジュガイ・イムレは、対照的に思ったことを口にする人物で、ブダペスト大学で政治社会学を教え、テレビに出演して堂々の議論を展開した。政権の中枢に入って政治改革を担当することになったポジュガイは、「共産主義を変えるときだ」という持論を隠さなかった。一方で党書記長のカーロイ・グロースは、ネーメトやポジュガイが主導する急激な改革には慎重な態度を崩さなかった。
 共産主義に終止符を打つのはそれほど簡単なことではなかった。ハンガリーは1958年の苦い経験に悩まされ続けてきた。その年、自由をもとめる市民が武装蜂起して共産主義政権の打倒をはかった。そして武装蜂起を鎮圧するために送り込まれたソ連軍の戦車を相手に、ブダペストで数週間にわたる激しい市街戦が繰り広げられた。この動乱で2万5000人が死亡し、20万人が国外に亡命した。当時のハンガリーの政権も民族主義の立場から蜂起した民衆を弾圧するために手を貸したのである。
 ネーメトやポジュガイにとって、この轍を踏まずに改革を実現するには、なによりもゴルバチョフの了解をとる必要があった。彼らは1988年の暮れから89年の初めにかけて、外部の協力を得ることなく、できるだけ目立たないように黙々と変革への準備を進めた。その上でネーメトはゴルバチョフに手紙を送り、3月第1週にモスクワで秘密に会談する約束をとりつけた。ネーメトがこの時期を望んだのは、3月後半にカーロイ書記長が同じくモスクワを訪問することになっていて、それ以前にゴルバチョフの意向をただす必要があったからである。
 最初20分の予定だった会談は3時間におよんだ。ネーメトの回想によれば、彼が考えているハンガリーの民主化計画について話すと、不意をうたれたゴルバチョフは、動揺し怒りだしたという。総選挙の実施については、それは社会主義に対して一撃を加えようとするものであり、「そんなことをしたら、正しい社会を創造するという党の権利を踏みにじることになる。その判断を一般大衆に委ねるなんて・・・そんな成り行き任せは駄目です」といった。ゴルバチョフは改革推進派だと考えていたネーメトの予想に反して、彼は根っからの社会主義者だった。だが最後にゴルバチョフは口調を変えると、「しかし、同志ネーメト、その責任者はあなたです。私ではありません」と言った。ハンガリーの進むべき道を決めるのはソ連ではなく、ハンガリー自身だということを意味した。
 ネーメトは単刀直入に訊ねた。「もし総選挙の日付を発表し、選挙を実施したら、ソ連は1956年と同じように介入しますか」。ゴルバチョフは一瞬のためらいもなく、「ニエット(いいえ)」と答えた。そして、かすかに笑いながら、「少なくとも、私がこの椅子に坐っている限りは」とつけ加えたという。
 1989年5月1日のハンガリーのメーデーでは、首脳たちが並んでパレードを検分する式典の代わりに、「人民のピクニック」を実施することになった。公園にテントが持ち込まれ、食べ物や飲み物が準備された。党主催のピクニックには数万人の人たちが集う予定だったが、実際には千人しか集まらなかった。閣僚も首相のネーメト以外は誰も顔をみせなかった。
 逆に「民主フォーラム」など新たな政党が催した集会には10万人をこえる人たち参加し、お祭り騒ぎになった。ジャズバンドの演奏の合間には、皆が改革計画について議論し合った。党主催のピクニックでは、書記長のカーロイがネーメトの率いる内閣を槍玉にあげて、社会主義の大義を裏切るものだと非難した。だがネーメトは動じなかった。
 翌5月2日の朝、ハンガリー政府は、西隣のオーストリアと接する国境沿いに設置されている電流の通じた鉄条網の一部を切断した。経済的に維持できないというのが表向きの理由だったが、その意図は明らかだった。
 ネーメトのこの発言から数時間後、鉄条網を大きな金鋏で切る兵士の写真が通信社の手で配信された。イギリス首相チャーチルが「鉄のカーテン」と称したものが、初めて破られた瞬間だった。
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by monsieurk | 2011-11-03 23:59 | 取材体験 | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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