ムッシュKの日々の便り

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乗合馬車の話

 画商のアンブロワーズ・ヴォラールが伝えている逸話がある。ある日、新聞「フィガロ」の社長マニャールは、乗合馬車の屋上に乗っていて、隣り人とたまたま言葉をかわした。十九世紀後半のパリは乗合馬車の全盛期で、当時の写真を見ると、大型馬車の屋上にも横向きに座席が設けられている。この日のパリは天気がよかったのであろう、大新聞の社主も陽気にひかれて屋上に上がったのである。
 馬車が花屋の並ぶマドレーヌ街を通りかかると、この隣人はきわめて独創的な表現で、人工庭園を描写してみせた。感激したマニャールは、思わず叫んだ。
 「ムッシュ、私はフィガロの社長です。いま貴方がおっしゃったことをそのままお書きくだされば、喜んで掲載いたします。」
 数日後、乗合馬車の屋上で同席した人物から原稿を受け取ったマニャールは、社員に向ってこういった。「私はマラルメと署名した、花についての紙切れを受け取ったが、あれは少々頭がおかしいよ。」
 座談は無類に面白いのに、その詩となるとチンプンカンだというマラルメの定説をあてこすった、うまくできた逸話である。真偽のほどは不明だが、乗合馬車が繁盛していた当時のパリでは実際こうした出来事も起りえたのだろう。
 フランスで有料の乗合馬車を誕生させたのは、『パンセ』の著者である科学者・哲学者のブレーズ・パスカルだった。当時、馬車は金持ちの乗り物で、なんとか庶民にも利用させたいと考えたパスカルは、1662年に8人乗りの馬車を用いて、一定の路線をあらかじめ定められた時刻表にしたがって走る乗合馬車を運行した。だが5ソル馬車と呼ばれたこの乗合は1677年には廃業してしまった。辻馬車との競合、それに客をえり好みしたための経営難が原因だったという。
 日本では源氏物語その他に登場するように、中世までは牛に車を曳かせる牛車は存在したが、馬車は発達しなかった。おそらくは日本産の馬が小さかったためであろう。
 幕末の開国後に西洋の文化が持ち込まれた日本で、最初に乗合馬車を商売にしたのは下岡蓮杖である。蓮杖は長崎の上野彦馬と並んで、日本で最初に写真術を学び、横浜に写真館を開いた人物で、明治2年に横浜―東京間に乗合馬車を運行した。下岡蓮杖については、『私たちはメディアとどう向き合ってきたか』(左右社、2009年)の第三章、「写真術をめぐる苦闘」で詳しく紹介した。
 蓮杖は本名を下岡久之助といい、1823年(文政6年)2月に伊豆下田で生まれた。幼いときから絵が得意で、13歳で江戸に出て狩野董川の弟子となり、董圓と名乗って絵を学んだ。
 彼の運命を変えたのは、ある日、師の使いで訪ねたさる大名屋敷で銀板写真を見せられたことである。その精妙さに感じ入った彼は、写真術を学ぶことを決心した。ちょうどこのとき、浦賀にペリーの黒船が来たのを知って、浦賀奉行の足軽となった。その後、故郷の下田が開港したのを機に下田へ帰り、下田に着任したアメリカ総領事ハリスの給仕として、玉泉寺に住み込むことに成功した。玉泉寺にはハリスの通訳をしていたヒュースケンがおり、蓮杖はヒュースケンから写真術の概略の説明をうけることができた。
 その後横浜に移り住んだ蓮杖は、下田で関係のあった貿易商の阿波屋万太夫の手引きで、アメリカ人の雑貨商ラファエル・ショイヤーを紹介されて、その館へ手代として住み込みこんだ。ショイヤーの商館に、イギリス人のジョン・ウィルソンが寄寓することになったが、ウィルソンはアメリカ滞在中、写真館を営んでいたカメラマンで、横浜で写真館を開いて商売にすることを考え、ショイヤーに空いている商館の紹介と写真材料の輸入を依頼しに来たのである。
 蓮杖の写真熱を知っていたショイヤーは、ウィルソンに彼を弟子にするよう頼んでくれたが、ウィルソンは多忙を理由に断った。それでもあきらめきれない蓮杖は、ウィリアムの通訳兼助手をつとめていた宣教師ブラウンの娘ジュリア(のちにイギリス領事館員ラウダーと結婚してラウダー夫人となる)に、間接的ながら写真術の初歩を教えてもらうことができた。
 やがてウィルソンは日本を離れることになり、写真機材一式を蓮杖に譲ることにした。金のない蓮杖はショイヤーの館で描き上げた88枚の絵と交換にすることを申し出ると、ウィルソンはその条件を受け入れた。こうしてカメラと薬品一式を手に入れた蓮杖は、ショイヤーの館の一室を借りて写真の研究に没頭した。その後は横浜の戸部に借りた家に移り、便所を暗室にするなどして研究を続けた。そして遂に1862年(文久2年)、横浜弁天通りの角地に写真館を開設して、「全楽堂」と「相影楼」の看板を掲げた。40歳のときであった。
 蓮杖は流行しはじめた写真撮影で得た資金を阿波屋万太夫に融通して、写真乾板用の良質の種板ガラスをはじめとする写真材料を輸入して身代を築き、その資金を元手に、他にも出資者を募って馬車屋の開業を考えたのである。馬車の輸入はショイヤー夫人の紹介でアメリカ人商人に依頼して、横浜―東京間に馬車の定期便を走らせることになった。
 『横浜どんたく』上、下(有隣堂、昭和48年)は、幕末から明治初年の横浜の出来事を、当事者や昔を知る古老たちが語った興味尽きない本である。その上巻の「最初の商業」に、「最初の写真師」として下岡蓮杖の談話が載っている。彼はその最後の部分で、乗合馬車をはじめた顛末を語っている。
 「横浜はだんだん開けて来て、交通はますます忙しくなって来たのに、当時の交通機関というと、海には帆掛船か艪で押す船、陸には駕籠よりほかに乗る物はない。不便きわまったありさまでしたから、西洋人の乗っているような馬車を拵えて、これを江戸~横浜の間に用いたらよかろうと、6千円の資本で、乗合馬車の開業を願い出たら、早速に許可になりました。ところが、これとほとんど同時に、江戸でも紀州の人、由良守正が、後藤象次郎の後援を得て、江戸から横浜への乗合馬車を出願した。私はこれを聞きつけて、早速後藤の邸へ赴き、利益を説いて、由良の計画と私の計画とを合併して貰いたいと願った。さすがに後藤さんだ。早速承知されて、一万円を出してくださったから、両方合わせて一万六千円で、馬車二十五台と馬六十頭とを買い入れて開業しました。横浜での発着所は、吉田橋際の、ちょうど、いま寄席のある所で、間口八間、奥行二十間という大きな家を建てました。東京の方は新橋の側に、三井の持で松坂屋という店の閉店した跡を、月四十円で借りておりました。当時、東京~横浜間の馬車代は三円で、今から見ると法外な値段でした。それで一時は儲けたが、そのうち鉄道が開けたので、やめてしまいました。」(同書、190-191頁)
 横浜~品川間に鉄道が開通したのは明治5年5月7日。横浜発、午前8時と午後4時。品川発は、午前9時と午後5時で、運賃は片道上等が1円50銭、中等が1円、下等が50銭だった。片道35分で、馬車のように激しく揺れることもなく、すこぶる便利だった。所要時間は残っている時刻表から計算したのだが、現在と比べても早すぎるのではないだろうか。実際にはどのくらいかかったのか。ご存知の方はお教えいただきたい。
 下岡蓮杖はこのほかにも、日本ではじめて牛乳屋を開店するなどさまざまな事業に手をだした。好奇心と商売っ気一杯に、近代化にまい進する幕末明治の日本を生きた人物だった。

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 6月末からはじめたブログをお読みいただきありがとうございました。来年も続けますが、いつか通読できる形にする所存です。みなさま良い年をお迎えください。
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by monsieurk | 2011-12-31 15:18 | Trackback | Comments(0)

クリスマス・プレゼント

 10年ほど前、クリスマスをピレネー山中の石積みの家で過したときの光景が忘れられない。2人の孫は6歳と4歳。パリから来た彼女たちの従兄弟3人も泊まっていた。サロンの大きな暖炉の脇の樅の木の下に、前夜それぞれ靴下を置いて準備を怠らなかった。
 クリスマスの朝は早くから眼が覚めたが、彼らの寝室がある二階からサロンへ降りるのは、朝食の準備ができるまで待つように言われていた。
 はたしてサンタクロース(Père Noël)はやってきただろうか。そのうちに一番年上の従兄弟のポールが、廊下の敷板に小さな節穴を見つけた。穴はちょうど樅の木の真上にあって根元が見える。5人はプレゼントが置かれてあるかどうかを確認しようと、代わるがわる節穴に眼をあてている。私たちの寝室も二階だったから、お尻を高く持ち上げて一心にのぞいている彼らの様子が丸見えだった。
 私には残念ながら今年もサンタクロースはやって来ず、クリスマス・プレゼントは自分で用意せざるをえなかった。幸運なことに、神田神保町の画廊で、ジャック・プレヴェール(Jacques Prévert)の自筆の詩に、画家のホアン・ミロ(Joan Miro)が挿画を描いた《Adonides》(「外国産植物」)を見つけたのである。
 これはマーグ(Maeght)画廊から1975年12月に出版された詩画集で、市販された200部の他に著者用25部が制作され、これには画家と詩人の署名が入っている。
 この豪華詩集については、『思い出しておくれ、楽しかった日々を 評伝ジャック・プレヴェール』(左右社)でも触れたが、42.7×33.4センチの大判アルシュ紙72頁(アルシェ紙には、ミロの好む人間や顔や花などが、embossingつまり浮き出し模様としてプレスされている)に、ミロのエッチングとアクアチント作品43点と、プレヴェールの自筆テクスト58篇がファクシミリで複製されている。プレヴェールのテクストはミロの版画と重なって印刷され、詩と絵が渾然一体をなしている。
 今年の夏にサン・ポール・ド・ヴァンスのマーグ美術館を訪れたとき、売店にこの詩画集が一冊あるのを見つけて、さんざん逡巡しただけに、今度は一も二もなかった。これにめぐり会えたのがサンタクロースの最大のプレゼントだったのだろう。
 プレヴェールとミロが共同して作品をつくる計画は1960年にスタートし、プレヴェールのテクストの一部はまず作品集“Fatras”(『寄せ集め』)に発表された。その後アドリアン・マーグの肝いりで限定版の詩画集をつくることになり、マーグは信頼する印刷所アルテに印刷を依頼して、凝りに凝った本が出来上がった。印刷が完了したのは1975年12月3日、実際に販売されたのは1978年のことである。
 「アドニード(外国産植物)」と総題された一群の短詩では、この時期のプレヴェールの心情を垣間みることができる。
 
 「夢」と題された詩は母を追慕する夢の記録で、見開き2ページに書かれた詩句に、ミロが赤、緑、黒、青、橙色を用いて、絶妙な模様や線を描きこんでいる。

 「海のあるどこかで
  ――夢ではそこがどこかぼくには分かっていた――
  ひとりの裸の娘が
  気づかれもしないで
  みな服を着た群集を横切る
  彼女はぼくを捕まえるが ぼくはどぎまぎしない
  それがぼくの最初の夢だった
  そして突然ぼくは見る
  昔はまだ最新式だった大きな車に乗っている母を
  馬と御者つきの
  結婚式と宴会用の馬車だ
  花嫁はぼくの母だ
  白衣なのか
  いまではなにも分からない
  彼女のそばにはぼくの父がいる
  それともいまぼくが父を追加したのかも知れない
  そして母はぼくを見つけて
  いつもの子どもっぽい微笑で笑いかける
  でも彼女はぼくに向かって
  やさしい眼差しと同時に非難の目つきをする
  ぼくは言い訳をしない
  ぼくは彼女の結婚式に行くべきだった
  もちろんぼくは招待されていなかったが
  ぼくは家族の一員で みなが待っていたのだ
  いまはもう遅すぎる
  宴会はすんだ
  それはぼくにとって些細なことではなく
  もっとも緊急になすべきことだった
  ぼくはそれをしなかったのだ。

                (一九六〇年十二月十一日、朝四時)」
 
 結婚する母の姿を夢に見たのは、前年の九月から十月にかけて、雑誌「エル」に幼いときの思い出を掲載したことが引き金になって、優しかった母をあらためて思い出したからに相違ない。
 詩画集《Adonides》に収録されているテクストは、《Fatras》収録のものとは、数々のヴァリアント(異文)がある。プレヴェールは1977年4月11日に亡くなったが、彼は生前この詩画集のテクストすべてに目を通していた。その意味でもこの本は大変貴重なものである。
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by monsieurk | 2011-12-27 17:46 | 美術 | Trackback | Comments(0)

Huître

 前回の「フォア・グラ」に次いで今回は牡蠣。フランスではクリスマスに、最盛期ということもあって牡蠣をよく食べる。フランスでクリスマスを過ごすときは、ピネネー山中の山小屋に出かけるが、親戚一同が会すると総勢20人ほどになる。子どもたちを除けば1人1ダースは食べるから、樽に入った牡蠣を取り寄せ、これを剝くのが1日がかりとなる。ただしこのブログでは、食べるのではなく、「牡蠣(Huître)」というフランシス・ポンジュ(Francis Ponge)の散文詩が題材である。

   牡蠣は普通の小石の大きさで、色は全体に一様ではないが、白っぽく輝い
  ている。それは強情に閉じられた一つの世界だ。それでも、私たちはそれを
  開けることができる。とはいっても、ぼろ布のくぼみにそれを掴んで、刃こ
  ぼれした危なっかしいナイフを使って何度もこころみなくてはならない。
  そのために、知りたがりの指は切れ、爪は裂ける。それは野蛮な仕事だ。人
  が牡蠣に加える一打一打が、その白い輪をなす殻、一種の暈をなしている外
  被を傷つけるのだ。
   その内部に、私たちは飲みかつ食べる全世界をみる。真珠母の天空(適切
  にいえば)のもとに、上部の天が下部の天の上に垂れ下がり、そこにはもは
  や沼だけが、ねっとりとした緑っぽい小袋だけが形成されているにすぎない。
  そして、それは黒っぽいレースで縁取られ、匂いも見た目もまるで湖のよう
  に満ちひきしているのだ。
   ときおり、ごく稀に、その真珠母の喉に珠がむすばれる。すると人間はす
  ぐに自分を飾ることを思いつく。

 フランシス・ポンジュ(1899-1988)は南仏の大学街モンペリエで生まれ、17歳でパリの名門高校ルイ・ル・グランに入学、パリ大学法学部(ソルボンヌ)で学んだ。1923年頃から雑誌に詩を寄稿し、1927年に最初の詩集『十二の小品』(Douze petits écrits)を刊行した。
 この「牡蠣」は1942年に出た第二詩集『物の味方』(Le parti pris des choses)に載った作品である。33篇の散文詩を収めたこの詩集が出版されると、アルベール・カミュから称讃する手紙が寄せられ、ジャン=ポール・サルトルは「人間と物」(L’homme et les choses)というポンジュ論を書き、一躍その名が知られるようになった。
 詩集のタイトルである“parti pris des choses”は普通「何々の味方」と訳されるが、物を守る、物に肩入れする態度を、個人として選択をするという宣言と受け取ることができる。実際、ポンジュの詩は哲学や思想の主張とは無縁であって、日常的な生のあり方や、事物、動物、植物などを題材にしてきた。そのために、日常使われることで言葉にこびりついた錆や滓をそぎ落とし、洗われた一語一語でもって対象の真の姿に接近しようとする。ポンジュは自らの方法について、「少なくとも私にとっては、それを捕捉しようと覚書として書いたものはどれも、瞑想や凝視で、私の身体の中に言葉の火箭として噴出するものを甦らせ、数日間はそれを生かしておこうと決心したものである。(中略)
 物を試すもう一つの方法は以下のようなものである。それが名前をもたず、名前をつけることができないと考え、たとえ名前を知っていても、ex nihilo(無カラ)それを記述する。そうやってわれわれは最後に名前を知る。名前はテクストの最後の言葉であって、そのときにしか出現しない。
 あるいはタイトルのなかに(後から与えられ)しか姿をあらわさない。」(My Creative Method)
 詩集『物の味方』で取り上げられるのは、蝋燭、巻煙草、オレンジ、パン、火、蛾、苔、小石など、ほとんどが事物ばかりである。だがはたして、これらの物を言葉でもって紙の上に現前させることは可能なのか。
 ステファヌ・マラルメは、「記念建造物や、海、人の顔は、その充実した、生まれながらのもので、〔人の心を〕惹きつけるある力を持っています。描写はそれにヴェールをかけてしまうだけでしょうが、〔それらの力を引き出すものを〕人々は喚起と呼んでもいいのですが、私はほのめかし(allusion)であると心得ます。それはまた暗示(suggestion)でもいいのです。・・・この魔法とは、たちまち気化してしまう散乱、つまりすべての音楽性以外は何も必要としない精神というものを、一握りの塵あるいはそれに帰着する〔人間の〕現実の外へ、書物において、たとえばテクストとして、解き放つことなのです。」(「音楽と文芸」)と述べていた。
 ポンジュが行おうとしたのは、まさにマラルメがいう、「存在するものしか存在しない」という、現実をしばる絶対的な公式への挑戦だった。つまり言葉によって紙の上のテクストとして物(存在)を現前させることである。それはシャルダンやフェルメールや坂本繁次郎などが、絵具を用いて身辺の物を描いたのに似ている。
 哲学者モーリス・メルロ=ポンティはラジオでの講演『知覚の哲学』で、「事物と私たちの関係はよそよそしいものではありません。おのおのの事物が私たちの身体、私たちの生命に直接語りかけ、人間的な性格(素直な、穏和な、敵意のある、反抗的な)をおびています。そして逆に事物は、私たちが好んだり嫌ったりするふるまいの象徴として私たちのなかに住んでいます。人間は事物のなかに取り込まれており、事物も人間のなかに取り込まれているというわけです。(中略)セザンヌが「画家は事物の「光輪」を描かなくてはならない」と述べるとき、彼が言いたかったのはこの点にほかなりません。/ これはまた現代の詩人フランシス・ポンジュが言わんとするところです。」(菅野盾樹訳、ちくま学術文庫、140-141頁)と述べているが、ポンジュの試みは言葉でもって、事物と等価のものをつくりだすことだった。
 「牡蠣」の詩ははたしてそれに成功しているであろうか。フランスの牡蠣には「ポルトゲーズ」(鎖国時代に日本に来たポルトガル船が、日本の牡蠣を船底に付けて行ったのが最初といわれる)と「ブロン」という丸い牡蠣があるが、ここで描かれているのは「ポルトゲーズ」の方である。ブロンには、「黒っぽいレースの縁取り」がない。
 『物の味方』からもう一篇「水について」――
  
   私より低いところに、いつも私より低いところに、水はある。それを見る
  には、必ず私は眼を下に向ける。地面か、地面の一部か、地面の変化を見る
  かのように。
   それは白く、きらきら光り、形がなく、新鮮であり、受動的なのに、その
  唯一の悪癖にかたくなに固執する。それは重さということであって、その悪
  癖を満足させるために、水は迂回し、しみ込み、浸食し、浸潤し、水はあらゆ
  る奇手を弄する。
   水自身の内部でも、この悪癖は働いている。それは絶えず形を崩し、どの
  瞬間にもあらゆる形を断念し、ひたすら屈従し、どこかの教団の僧侶のよう
  に、屍体さながら地面に腹ばいになる。つねに低く、もっと低く、向上に反
  対、というのが水の座右銘であるらしい。

                  ★ 


   水は狂っている、とさえ言えるだろう。まるで固定観念のように負ってい
  る、自分の重さに従うまいという、水のヒステリックな欲望のゆえに。・・・

 物を現前させるために、表現とは何か、言葉とは何かを探求したフランシス・ポンジュの詩は、もっと読まれるべきである。ただし、これを日本語に移すのはほとんど絶望的である。ソシュールのよく知られた定義をもち出すまでもなく、ひとつの語(記号)は、記号表現(significant)と記号内容(signifié)とが一体をなす二重構造をなしている。
 表音文字であるヨーロッパにあって、記号表現とは聴取される「聴覚的イメージ」であるが、これは記号内容である概念と先験的に一致することはない。マラルメはこの不一致であるからこそ、幾つかの語を組み合わせて詩句とすることにより、詩句全体で表現と内容の一致をもたらそうと試み、これこそが詩句の存在理由だとした。
 ポンジュも自身の詩作の根底にこうした考えを置いていた。「Huître(牡蠣)」の詩では、blanchâtre、verdâtre、noirâtre、という3つの形容詞が用いられていて、それぞれ、「白っぽい」、「緑っぽい」、「黒っぽい」と訳したが、ポンジュは作家フィリップ・ソレルスとの対談(“Entretiens avec Philippe Sollers”)のなかで、「これはhuître(牡蠣)という単語には、母音の上にアクサン・シルコンフレックス(^)が付いている事実に規制されたのだ」といい、「âtreで終わる語は否定的な色彩を帯びる」とも語っている。これらが語の記号表現の部分だが、これはどうにも翻訳することができない。翻訳はもっぱら記号の内容的側面を他の言語に置き換える作業と割り切るしかない。
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by monsieurk | 2011-12-21 01:00 | | Trackback | Comments(5)

Foie gras

 今回は高級食材、「フォア・グラ」の話。フォワ・グラは人工的に肥大させた鵞鳥や鴨の肝臓である。フランスではとりわけ珍重されるご馳走だが、いつも食卓に上るというものではなく、クリスマスや大晦日の夜(レヴェイヨン)などに出される場合が多い。
 ヨーロッパの今年のクリスマスは、金融危機などの影響で例年より質素なのではないかとも言われる。それでもクリスマスは特別で、わが家の縁者は例年通りにピレネー山中の別荘(前に写真で紹介した家)に出向いてクリスマスを迎えるという。
 フランスで勤務をしていたある年のクリスマス・イブの夜、ドイツやスイスとの国境に近いミュルーズという街からパリへ飛行機で帰って来たことがあった。そのときの光景が忘れられない。闇に覆われた大地の所々に、煌々と輝く場所がある。イリュミネーションの明かりで照らされた街で、そこには静かにクリスマスを祝う家庭があることが想像された。遅く着いた家の食卓にもフォア・グラが用意されていた。
 フォア・グラをつくるには、ガチョウの口に如雨露につないだ管を押し込み、餌のトウモロコシを1日3回、飲み込むように食べさせる。すると1カ月で肝臓は2キログラムにもなり、頃合いを見て出すのである。冷えたシャンパなどと一緒に食べるとこたえられない。
 そのフォア・グラがこのところ、無理矢理に餌を与えて肝臓を太らせるのは「動物虐待だ」という批判にさらされている。オーストリアに本部のある動物擁護団体“Four Paws(四足)”が、反フォア・グラのキャンペーンを行い、現にイタリア、オーストリア、チェコ、デンマーク、ドイツなどでは強制的に餌をやることが法律で禁止された。アメリカでもカリフォルニア州では来年から禁止になるという。ヨーロッパを中心にした航空会社では、ファースト・クラスの機内サービスでフォア・グラを出さないところが増えている。
 世界のフォア・グラ生産の73%はフランス産で、フランス議会は2005年5月に、フォア・グラはフランスの食文化だという決議をして、あくまでこれを守る姿勢をうち出した。
 フランスでも最大手の生産者「ルジエ(Rougier)」を取材した折、家に泊めてもらったことがあるが、広い土地に丸々と太った数千羽のガチョウが放し飼いになっていた。ルジエ氏の自宅は、フランス中西部を流れるドルドーニュ川畔に建つ古城の一つで、隣にある城は文学者フェヌロンが生まれたことで有名な城であった。
 ルジエ氏は農場の中に自家用飛行機の滑走路をつくり、所用には自分で操縦桿を握って出かけていくということだった。フォア・グラの生産地としてはドルドーニュ川近辺のほかに、北のノルマンディー地方や南フランスのトゥールーズなどが有名である。ただ、最近は世界的なトウモロコシの価格高騰で大変だということである。
 フォア・グラは日本ではあまり馴染みがないが、パンに塗ったりソテーしたり、あるいは鵞鳥や鴨の肉を油に漬けてコンフィという保存食にする。太ったトリの肝臓が美味しいとして食べられたのは古代エジプトにさかのぼる。渡り鳥が遠くへ飛ぶ前にエネルギーを蓄えるために肝臓を大きくするが、それを珍味として食べたのがはじまりで、それから延々と受け継がれてきたのである。トリュフをフォア・グラに加えるといった贅沢な食べ方も行われる。トリュフは赤松の下に出るキノコの一種で豚に探させる。豚はその嗅覚でどこに埋まっているかを嗅ぎ当て、それを掘るのだが、この香りが珍重される。
 フランスでも餌の価格の高騰で、フォア・グラの生産をやめる農家が増えている。それに代わってこのところ生産を増やしているのが世界第2位の生産を誇るハンガリーで、経済成長が著しい中国やロシアをターゲットに、ハンガリー議会ではフォア・グラ農家を保護し、財政支援をする法案がつくられた。今年のクリスマスの食卓に変化があるのかどうか見ものである。
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by monsieurk | 2011-12-19 00:04 | | Trackback | Comments(3)

瀧口修造とデュシャン

 千葉市美術館で開催されている「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展を見てきた。瀧口の研究家で、彼の作品を数多く蒐集している土渕信彦氏と、マン・レイの研究者でコレクターの石原輝雄氏と一緒だった。石原氏のことは以前にブログ(「マン・レイになってしまった人」)で紹介したことがある。
 瀧口修造(1903-1979)は、慶應義塾大学の英文学科の学生として、帰国したばかりの西脇順三郎の下で薫陶をうけ、1920年代後半にシュルレアリスムの詩人としデビューした。
 瀧口は1930年にアンドレ・ブルトンの『超現実主義と絵画』を翻訳したが、これが日本で最初の本格的なシュルレアリスムの紹介だった。同じ年には小林秀雄がランボーの『地獄の季節』を翻訳している。やがて戦争へと傾斜する時代のもとで、二人の歩みは次第に対照的な軌跡を描いた。一人はあくまでも批判的態度を堅持し、他方は古典へと回帰していった。
 瀧口は戦前、戦後を通じて美術評論を中心に活動して、日本の前衛芸術の牽引役をになった。さらに1960年以降は、文筆によるだけでなく、自動筆記によるデッサンやデカルコマニー、さらには写真や映画も製作した。フランス語のデカルコマニー(décalcomanie)とはdécalquer(転写する)に由来するもので、紙と紙の間に絵具を挟んで全面に圧力を加えると、絵具は押しつぶされて広がり、作者の意図しない形態を生み出すことができる。瀧口は転写画の偶発性に惹かれたのである。こうした創作は、他人の作品の批評に飽き足らなくなった瀧口のやむにやまれぬ自己表出だったともいえる。
 今回の展覧会では300点をこえる作品と資料を見ることができるが、それらは大きく3部に分かれていて、第1部は、デュシャンの出世作ともいえる≪階段を降りる裸体≫の版画や、代表作≪彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも≫(通称「大ガラス」、1923年製作)の部分の版画、男性用便器にサインしたレディ・メイド≪泉≫以後の作品で構成され、第2部は瀧口とデュシャンの交流を示す資料と、瀧口によるデュシャン関連の作品、第3部ではマン・レイ、ジャスパー・ジョーンズ、荒川修作など、瀧口と交流しその影響をうけた作家たちの作品が展示されている。
 瀧口修造がマルセル・デュシャンについて最初に触れたのは、西脇順三郎の『超現実主義詩論』の付属として書かれた「ダダよりシユルレアリスムへ」(1929年)である。『幻想画家論』(1959年)に収められた「マルセル・デュシャン」では、「デュシャンを一層有名にしたのは、むしろかれの反絵画的行動である。ダ・ヴィンチのモナ・リザの複製に髭をつけたという話はダダの伝説になっているし、1917年、便器に署名してニューヨークのアンデパンダン展に持ちこんで拒絶されたのもかれである。デュシャンはいわゆる「レディ・メイド」のオブジェの認識と機械思想〔マシニズム〕とを近代芸術のなかに導き入れた最初の人である」(コレクション瀧口修造、第1巻、168頁)と紹介している。ここに言及されているデュシャンの作品の多くは、展覧会で観ることができる。
 瀧口がデュシャンの面識を得たのは、1958年にヨーロッパを旅行して、スペインのバルセロナに近いダリの自宅を訪ねたときであった。このときの様子は、『ヨーロッパ紀行1958』に綴られている。「タクシーで帰ろうとしてダリの家を眺めるとテラスからかれの上半身が見えたので、私は駆けだしていって別れをつげた。すると玄関へ出てきて、「はいれ、紹介する人がある」という。思いがけぬダダの元老マルセル・デュシャンがテラスの籐椅子にかけてにこにこしていたのである。」(同書、222頁)
 これが生涯ただ一回の邂逅だったが、以後二人は手紙のやりとりを通して親交を深めた。国や言葉を異にするとはいえ、同じ精神の共鳴(résonance)と呼ぶべきものだった。今回の展示はそれをよく示している。
 瀧口修造の感性をよくあらわしていると思ったものに、「瀧口修造ゆかりの作家とマルセル・デュシャン」のコーナーに飾られている、「マン・レイあて追悼文」(1976年、宮脇愛子氏蔵)がある。鬼才マン・レイはデュシャンと並んで、瀧口が愛し影響を受けたフランスの芸術家で、1976年に亡くなった。

 マン レイ様

 拝啓
 失礼ながら まず あなたのお名前について 私が
 年来、奇異に感じてきたことを申し上げたいのです。
  これは私の頑な考えなのですが、人の謂わゆる本名が
 必ずしも本名らしくなく、むしろ俗名のように見えがち
 だということです。日本の諺に「名は体を表わす」
 などといいますが、私には到底信じ難いことで、というよりは
 名がその物自体を定義することなど思いもよらず、
 況んや 人の名がその人を体現することは不可能だからです。
  しかし 唯一の例外はあなたの本名としてのマン・レイ
 だと思うのです。いったい、あなたの誕生と
 命名に何が起ったのでしょう?
  あなたは画家としても、写真家としても著名ですが、しかし
 多くの人は、困ったことに、あなたのお仕事を二通りに
 評価しがちです。しかし 私の考えでは、あなたこそ事実上、
 肉眼と暗箱とを、素手で、つまりまさしく
 人間〔マン〕の光線〔レイ〕を通じて つないだ唯一の芸術家なのです。
 マン レイ、その名は あなたの 生まれながらの
                          発明です。
 人間 MAN よ、それをなし遂げたのは
                      あなたです!
                   敬意をこめて
                      滝口修造
                       一九七三年十一月末日
 プラトンは対話編『クラチュロス』の中で、言葉が事物の本質をあらわすか、それとも習慣・約束に基づくものかどうかを問題にした。名前の正しさは本性的であるとするクロチュロスに対して、ソクラテスは名前の正しさは現実には使用する人たちの取り決めによると主張した。「追悼文」の瀧口はソクラテスの側に立つわけだが、唯一の例外がマン・レイである。彼の場合は名が体を表し、瀧口はその奇跡を愛でるのである。

 展覧会の会場は美術館の7階と8階だが、関連企画として、土渕信彦氏の企画・構成による「瀧口修造の光跡 Ⅲ 「百の眼の物語」」が開かれている。ここでは土渕氏の個人コレクションである、瀧口のデカルコマニー44点と関連資料を見ることができる。展示されたデカルコマニーの制作年代は1960年から1973年におよび、色彩を用いたものから墨絵風のものへ変化していく様子を追うことができる貴重な展示である。こちらの方は展覧会よりも早い12月25日までの開催。お見逃しなく。
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by monsieurk | 2011-12-14 23:47 | 芸術 | Trackback | Comments(3)

セリーヌとアルレッティ

 神田の「古本くろねこ堂」のカタログで、L.-F. Celine:“Arletty, jeune fille dauphinoise”(『アルレッティ、ドフィーヌの若い娘』、La Flûte de Pan、1983)を見つけて購入した。著者はルイ=フェルディナン・セリーヌ、アルレッティとは映画『天井桟敷』のガランス役で有名な女優アルレッティである。
 「シナリオ」と副題されたB5版39頁の小冊子は、生涯の数少ない友だちだったアルレッティを主人公に、セリーヌが彼女の生の軌跡をたどったシナリオ(シノプシス)である。
 本を出版した人物のコメントには、「私たちが出版する未刊行のシナリオは、1948年にセリーヌからアルレッティに送られた手紙の抜粋である。アルレッティは50年代の初め、テクストをピエール・モニエに託した。そして彼はマドモワゼル・アルレッティの同意のもとで、それを私たちに渡してくれた。二人に深く感謝する」とある。
 作家セリーヌは本名をルイ=フェルディナン・デトゥシュといい、1894年5月にセーヌ県のクールブヴォワで生まれた。父親は保険会社の下級社員だった。一家の生活は貧しく、少年のときから店員として働き、その後は軍隊に志願して、第一次大戦では頭部に重傷を負って武勲章を受けるなど、挺身的な働きをみせた。
 除隊になった戦後、医学の勉強をはじめ、1928年、34歳のときにパリ15区で医院を開業して、昼間は診察、夜は小説を書く生活をはじめた。こうして4年の歳月をかけて完成したのが“Voyage au bout de la nuit”(『夜の果てへの旅』)だった。
 彼は書きあげた原稿を新興出版人のロベール・ドノエルの許に送った。ドノエルはその時のことを次のように書いている。「ある晩、劇場からもどると、自分の机の上に、新聞紙で包んだ大きな紙包を見いだした。中には三つの大きな原稿の束があり、全体で九百枚に達していた。表題は『夜の果てへの旅』となっている。著者の名前も住所もない。・・・私は原稿をめくりはじめた。たちまち、晴天の霹靂だった。私はその奔放な文体の調子、激しく新鮮なリリシズムに物も言えなくなるほど感動した。」
 読み終わったドノエルは、包み紙に書かれていた一人の女性の住所を手がかりに著者を探しだし、それを出版したのである。このときデトゥシュの用いたペンネームがセリーヌだった。
 こうして1932年11月に出版されたセリーヌの処女作は賛否両論を巻き起こし、数日のうちに5万部を売りつくす話題作になった。評論家のモーリス・ナドーは読後の衝撃を、「人生と文学の経験において、これほど強烈でこれほど真実なものを、われわれはいまだかつて読んだためしがなかった。・・・ここには反逆が逆巻いている。そして絶望が、それから押さえられた愛情の裏返しであるシニスムが・・・」と述べている。
 その後のセリーヌは、第二作“Mort à Crédit”(『なしくずしの死』、1936)以下、第二次大戦までに数編の長編小説や評論を出版したが、そこには徹底して既成の体制を否定する精神が貫かれていた。それは世論に迎合しない、反ユダヤ主義、反資本主義、反戦主義の態度の表明であり、アナキズムへの共感だった。
 セリーヌのこうした姿勢は左右両派から攻撃をうけ、非愛国的な作家というレッテルが貼られた。この評判が災いして、パリの貧しい地区であるクリシーに開いた無料診療所にも患者が寄りつかずに、3カ月で廃業を余儀なくされる始末だった。
 1944年6月、連合軍はノルマンディー上陸作戦を敢行したが、このころレジスタンス派を名乗る者たちがセリーヌの自宅を襲って、未発表の長篇小説“Casse-pipe”(『戦争』)の原稿を奪い去る事件が起きた。身の危険を感じたセリーヌは、7月には妻と友人の俳優ル・ヴィガン、それに愛猫をつれてパリを脱出し、デンマークに亡命する目的でドイツに入った。だがドイツ軍に拘束され、旅券を没収されて収容所に監禁されてしまう。
 翌1945年5月、ベルリンは陥落しドイツ軍は降伏。それとともに連合軍の戦犯追及がはじまった。廃墟のドイツをさまよった末に、コペンハーゲンへ逃れたセリーヌは、こんどはデンマーク政府の手で逮捕され投獄された。
 1949年、病気のセリーヌは国立病院に移され、6月になってデンマーク司法相の命令で釈放されて、藁ぶき小屋を住居にして窮乏生活を送った。翌1950年には、パリの法廷は欠席裁判で、対独協力の廉で懲役1年、罰金5万フラン、国籍剥奪、資産没収の刑を言い渡した。
 そして1951年4月26日、特赦を得た彼はデンマークからフランスにもどり、パリの南の郊外ムードンに家を得て隠遁生活を送った。そうした中、1960年には“Nord”(『北』)を発表して、『夜の果てへの旅』と並ぶ傑作と評せられた。
 小冊子の編者ピエール・モニエは序文で、セリーヌとアルレッティの交友に触れて次のように書いている。「アルレッティは『夜の果てへの旅』が出版されたとき、「情熱をもって」読んだ。彼女がセリーヌの面識を得たのは1941年のことで、共通の友人宅だったと思われる。「私たちはとくにクールブヴォワのことを話したわ」と、彼女は語っている。セリーヌのデンマーク流謫の間も彼らは手紙をやりとりし、彼はアルベール・パラス宛の手紙の中で度々アルレッティのことに言及して、「私の代わりにアルレッティを抱擁してくれ。僕は彼女を愛している。ゲロの出そうな時代に、私たちは再会するたいした希望もないままにさよならを言い合った。でも私たちは互いの心には国の精神をもっている・・・」(同書、p.20-21)。
 アルレッティはセリーヌの閑居を訪ねることができる数少ない友人だった。彼女自身もドイツ占領中にドイツ人の恋人がいたとして非難されたとき、「私の心はいつもフランスにある、でもcul(お尻)はインタナショナルよ」と言ってのけた。
 セリーヌは1961年7月1日に亡くなったが、地区の司祭からは埋葬の執行を拒否され、彼の遺体は小雨模様の中、秘密裏にムードンの墓地の鉄道線路ぎわの一角に葬られた。墓石には生前の故人の希望で、ただ一言、「Non」とだけ刻まれた。このときアルレッティはヴァカンスでノルマンディーの沖にある孤島ベル・イル島(彼女はジャック・プレヴェール脚本の映画『花の年ごろ』の撮影で訪れて以来気に入り、別荘を持っていた)に出かけていた。彼女はパリに戻ると、墓を訪れてそこにクールブヴォワの土を少しまいたという。クールブヴォワは二人に共通の生まれ故郷だった。
 ムードンは私にとっても馴染みの土地で、1971年から4年間、ムードンとは谷を挟んだ反対側にあるセーヴルに住んでいて、ムードンの墓地やその近くの天文台へは散歩でよくでかけたことがあった。「国賊作家」セリーヌの作品は、1980年代になってジャン・ポーラン、レイモン・クノー、モーリス・ナドー、あるいはアメリカ人作家ヘンリー・ミラーなどの尽力で再認識の動きがはじまり、今日ではBibliothèque de la Pléiadeに収録され、一流作家の仲間入りを果たしている。
 今年2011年7月はセリーヌが死んで50年にあたり、雑誌L’Expressや新聞 Le Mondeは特集記事を掲載した。だが戦後ナチスの戦犯を探し出し、告発してきたセルジュ・クラルスフェルト(「強制収容所に送られたフランスのユダヤ人の子息の会」会長)などは、セリーヌの反ユダヤ主義を理由に記念式典を行うことに強く反対し、文化大臣のフレデリック・ミッテランも記念式には出席しないと表明した。徹底的な個人主義を標榜して、腐敗した時代を告発し続けたセリーヌはいまだ論争のなかにある。

 アルレッティがセリーヌの作品を朗読したものがインターネット上に掲載されている。
 Arletty lit Céline(http://www.dailymotion.com/)で“Les vacances en famille(6:18)”、Le départ pour l’Angleterre(16:14)”、“Le certificate d’étude(7:54)”の3つ。懐かしいアルレッティの声を聴くことができる。
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by monsieurk | 2011-12-11 23:45 | | Trackback | Comments(1)

Good-bye Mr. Chips

 Public Schoolは、英語と米語では意味が異なる。アメリカでパブリック・スクールといえば公立の学校を指すが、イギリスでは、一部の有名な私立学校を意味する。イギリスのパブリック・スクールは、12、3歳から18歳の学生を対象にした学校で、イギリスの教育の本質を理解する上で欠かせない存在である。
 パブリック・スクールの起源は14世紀ないし15世紀にまでさかのぼり、最初は教会の僧を対象に教育が行われていた。それが17世紀に入ると、貴族階級の子弟を中心として、大学の予備的な学校としての役割を担うようになった。原則として全寮制で授業料も高く、その上に寄宿料もかかるから、誰でもが行けるといった学校ではない。
 こうした条件から、イギリスのパブリック・スクールには上流階級(イギリスではいまも貴族の称号が存在するなど階級社会が生きている)の子どもが多く入学してきた。学校には、最高責任者の校長以下の教員と、「ハウス・マスター」と呼ばれる先生がいる。ハウス・マスターは学生が生活する幾つかの寮に所属して、学生たちと起居をともにし、学生の訓練にあたる教員を指す。ハウス・マスターの優劣が寮の気風に強い影響をあたえるともいわれ、その点でも、パブリック・スクールにあっては大変重要な存在である。
 パブリック・スクールの特徴は、こうした制度のほかに、学校を終えたあとの人生でのさまざまな試練に耐えられるように、精神と肉体を厳しく鍛錬することにあるといわれる。このためにいわゆる「スパルタ式教育」が実践される。実際にイギリスのパブリック・スクールで学生生活を経験した池田潔は、その『自由と規律』(岩波新書、1949年)のなかで、「自由を尊重するイギリス人が、あえて教育のために自由を奪うことで、学生に自由の意義と規律の必要性を理解させようとしている」と書いている。
 こうした厳しい規律と集団生活のなかで、学生は自制することの大切さや、事に当たっては率先して行う勇気を植えつけられる。ナポレオンを破ったイギリス軍の多くはパブリック・スクールで教育された人たちだった。彼らは学校で、「ノブレス・オブリージュ(Noblesse Oblige)」の精神を叩き込まれていた。これはもともとは「貴族であることの義務」という意味で、社会的な特権(それは先天的なものではなく、教育の機会などに恵まれて社会のリーダー的存在になった人の)を持つ者には義務と責任があり、それをまっとうしなくてはならないという考えである。
 彼らは戦闘では将兵の先頭に立ち、自らの命を賭して戦った。対ナポレオン戦争のとき、あるいは1914年から1918年まで続いた第1次世界大戦のときも、貴族出の者や大学を卒業した人たちの戦死が一番多かったのはイギリスだった。その結果、第1次世界大戦後のイギリスの社会は、一時リーダーとなる人材の不足に悩まされたほどであった。
 こうした自己犠牲の精神は、寮での団体生活やスポーツのなかで養われる。イギリスのスポーツといえばラグビーとサッカーが代表的だが、とくにラグビーはパブリック・スクールを代表するスポーツで、ラグビーでは全体の勝利のために個人を犠牲にしなければならない場面が多く生まれる。こうした体験のなかから、個人的利害や肉体の苦痛を乗り越えて、チームの利益に貢献する精神が身についていくといわれる。日本でも先の戦争の直後までは、高等学校(いまの大学の教養課程)では寮生活が一般的だった。学生たちは寮で生活をともにしながら勉強し、人生論をたたかわせて互いに切磋琢磨した。
 J・K・ローリングのファンタジー小説『ハリー・ポッター』のシリーズや、それを映画化した作品で、主人公のハリー・ポッター、ハーマイオニー、ロンたちが魔法を学んでいる学校は、イギリスのパブリック・スクールの姿を模したものである。映画でハリーたち学生や先生たちが一堂に会して食事を摂る場面があるが、実際のパブリック・スクールでも、伝統を感じさせる食堂に皆が集まって食事をする。
 ところで、私が最初にイギリスのパブリック・スクールの存在を知ったのは、高等学校2年生のときの英語の副読本だった。1年生のときの副読本は、ゴールズワージー(John Galsworthy)の『りんごの木』(“The Apple tree”, 1916)で、2年生ではイギリスの作家ジェームズ・ヒルトン(James Hilton)の『チップス先生さようなら』(“Good-bye Mr. Chips ”、 1934)を読んだ。当時教科書として使った植田虎雄解説注釈の研究社小英文學叢書(昭和28年)を探し出したが、幼い字で沢山の書き込みがある。
 『チップス先生さようなら』は、こんな場面からはじまる。
 「年をとってくると、(もちろん病気ではなくて)、どうしても眠くてうつらうつらすることがある。そんな時には、まるで田園風景の中に動く牛の群れでも見るように、時のたつのがものうく思われるものだ。秋の学期が進み、日足も短くなって、点呼の前だというのに、もうガス燈をつけずにはいられないほど暗くなる時刻になると、チップスが抱く思いはそれに似たようなものであった。チップスは、老船長のように、過去の生活から身に沁みた色々の合図でもって、いまだに時間を測るくせがあった。道路をはさんで学校と隣り合ったウィケット夫人の家に住んでいる彼にしてみれば、それも無理ない話、学校の先生を辞めてから十年以上もそこで暮らしていながら、彼とこの家の主婦とが守っているのは、グリニッチ標準時間というよりは、むしろブルックフィールド学校の時間であった。
 「ウィケット奥さんや」
と、チップスはいまだに昔の快活さを失わぬあのひきつるような甲高い声で呼びかける。
 「自習の前にお茶を一杯欲しいものですな」
 年をとってくると、暖炉のそばに座って、お茶を飲み、学校から聞こえてくる夕食や点呼や自習や消燈を知らせる鐘を聞くのは悪くないものだ。チップスはその最後の鐘が鳴り終わると、きまって時計のネジを巻き、火除けの金網を暖炉の前に立てかけ、ガス燈を消し、その上で探偵小説を持って寝床に入るのだった。」(菊池重三郎訳、新潮文庫、5-6頁、1956年)
 これが学校の教師をやめて10年がすぎたときのチップス(本名はチッピング)の生活ぶりである。彼は教師をやめたあとも、学校のすぐ隣にあるウィケット夫人の家に下宿することをやめなかった。
 彼が最初にブルックフィールド校に、ラテン語の教師として赴任したのは22歳のときだった。架空のブルックフィールド校は、パブリック・スクールの典型のような学校で、チップスはここが気に入り、以後65歳で退くまで、学生たちとともにすごしてきたことになっている。彼の謹厳実直な振る舞いは、最初のうち学生たちに敬遠されていた。しかしある年の休暇中に、旅先で知り合ったキャサリンとの結婚をきっかけに、彼は変わりはじめる。そして陽気なキャサリンは日曜日ごとに学生たちを自宅に呼んでお茶をご馳走し、夫と生徒たちの間の垣根を取り払う。チッピング自身も教室で冗談を言うようになり、学生たちからは「チップス」の愛称で呼ばれるようになった。それでもこうした幸福な日々は長くは続かず、キャサリンはお腹に子どもを宿したまま亡くなってしまう。その後チップスは学校一筋の生活を送る。
 「四十になると、彼はここにすっかり根をおろして、生活を心から楽しんだ。五十になると、首席教師になった。六十になると、まだ若年の新校長のもとで、彼はブルックフィールドそのものであった。・・・」(同書、14頁)
 チップスは、65歳で一度教師の職を退くのだが、第1次世界大戦が勃発して、教師や卒業生の多くが出征するようになると、彼は校長としてふたたび学校に呼び戻される。その後戦火は拡大し、イギリス本土もドイツ軍の空襲をうけるようになる。そしてある日、講堂に集まった学生たちを前にして、チップスは教え子やかつての同僚たちの名前の載った戦死者名簿を読み上げるという、胸のつまる思いを味わわなければならなかった。・・・

 『チップス先生さようなら』の作者ジャームズ・ヒルトンは、ランカシャー県のリーという町の生まれで、父親がロンドンで先生をしていた関係から、幼いときにロンドンに移り、そこで小学校教育を受けた。その後、パブリック・スクールの名門の一つであるリース校に入った。大学はケンブリッジで、歴史学を専攻した。
 こうした経歴からも分かるように、『チップス先生さようなら』には、リース校での体験が十分に生かされているといわれる。学生への愛情にみちていて、洒落の名人であるチップス。このイギリス人気質のあふれた老教師と学生との交流を描いた作品は、パブリック・スクールの実態を描き切った傑作と評価されている。ぜひ英語の原文で味わって欲しいものである。
 なお、ヒルトンはこの小説を33歳のときに書いた。「ブリティュシュ・ウィークリー」という雑誌から、クリスマス特集号の付録に載せたいという依頼があり、彼はこれをなんと4日間で書き上げたという。その後この小説は2度ほど映画化された。とくに1939年に、ロバート・ドーナットがチップスを、グリア・ガースンがキャサリン役を演じた映画は原作の趣きをよく表現している。いまはDVDになっているので、これも観ることができる。
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by monsieurk | 2011-12-08 00:45 | | Trackback | Comments(2)

城南信用金庫の英断

 朝日新聞の12月4日(土曜日)朝刊に、次のような記事が載った。
 「東電から電気買いません」、「城南信金PPS利用」という2段見出しに次いで、「「脱原発」を掲げている城南信用金庫が2日、本店など大半の店舗で来年1月以降、東京電力から電力を買うのをやめると発表した。天然ガスなどを中心に発電する別の事業者から電気を買う。「東電の負担が減れば、(東電も)原発なしで電力供給できるようになる」と、取引先などにも「脱東電」を呼びかける。」
 城南信用金庫の英断に拍手を送りたい。個人や事業者の多くが東京電力など電力会社に電力を依存しなくなれば、電力供給の必要量が減り、原子力発電所を稼働する必要性も、その根拠もなくなるだろうという発想である。私たちはあらゆる手段をつかって、電力会社にプレッシャーをかけなければならない。
 城南信用金庫(吉原毅理事長、総資産3兆5800億円、以下、城南信金)は、東京・品川に本店があり、東京南部や神奈川を中心に85の店舗を展開している。地元密着型の堅実な金融機関と評判が高く、バブル期にも不動産投資などを一切せずに健全経営をつらぬいた。
 わが家の近くにも支店があって預金をしているが、東日本大震災後の4月には、支店の入口に、「原発に頼らない安心できる社会へ」という、城南信金として理念を示す貼り紙が出されていた。この態度表明はホーム・ページにも掲載されている。
 「今回の事故を通じて、原子力エネルギーは、私達に明るい未来を与えてくれるものではなく、一歩間違えば取り返しのつかない危険性を持っていること、さらに、残念ながら、それを管理する政府機関も企業も、万全の体制をとっていなかったことが明確になりつつあります。
 こうした中で、私達は、原子力エネルギーに依存することはあまりにも危険性が大き過ぎることを学びました。私達が地域金融機関として、今できることはささやかではありますが、省電力、省エネルギー、そして代替エネルギーの開発利用に少しでも貢献することではないかと考えます。」
 城南信金はいままでに前年比30%の省エネを達成し、さらに来年1月からは原発を続けようとする東京電力からは電気を買わずに、電力を販売する特定規模電気事業者(PPS、Power Producer & Supplier)から購入することにしたというのである。
 2000年4月以降、電力供給者の新規参入が認められて、500KW以上の利用者(中規模の工場、中小オフィス・ビル、デパート、スーパーなど)は電力を購入する事業者を選択できるようになった。そして2005年4月からは、50KW以上と利用者の範囲が拡大された。
 朝日新聞の記事によると、城南信金が契約したのはNTTファシリティー、東京ガス、大阪ガスが出資しているPPS「エネット」で、自前の火力発電所や風力発電所でつくった電力を中心に供給している。
 フィンランドなどでは、個人も電力の供給元を選択できるシステムがすでに確立している。どんな方法で生産された電力なのかを考慮して、多少高くても自然エネルギーを利用して発電している電力を買う人たちが増えている。日本では自由化対象の電力のうち、PPSの供給分はいまはまだ3.5%にとどまるが、資源エネルギー庁のホーム・ページには、全国47社のPPSが掲載されている。PPSを活用したい者は、条件に合うPPSを選んで契約すれば既存の電力会社を忌避することができる。
 ただ電力の供給には電力会社の送電線を使わなければならないから、その使用料が電気料金に加算される仕組みだが、城南信金の場合は、それでも東電と契約するよりは割安になるという。
 城南信金のように「脱原発」を目的に、電力会社からPPSへ切り替えるという企業の断固とした意思は貴重である。しかもそれが金融機関という、いわば体制側の企業であるだけに、その決断の意味は大きい。城南信金は、太陽光発電を導入する顧客の預金やローンの金利を優遇するサービスも提供している。明日にでも出向いて、彼らのこころみを預金の形で側面から支援したいと思う。
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by monsieurk | 2011-12-05 23:47 | 時事 | Trackback | Comments(0)

元政 (2)

 妙顕寺の日豊上人のもとで剃髪した元政は修行にはげみ、4年後の明暦元年(1655)の秋に、洛南深草の旧極楽寺薬師堂跡に小さな庵をむすんで、『法華経』の研究と宗議の解明につとめた。「称心庵」と名付けた庵では、1歳年下の日可が仕えた。そして九条村に住んでいた父母を近くに迎えて孝養をつくした。『艸山集』巻十七の「偶成」は、こうした状況を述べた詩である。
  
  携親霞谷共藏身  親を携えて 霞谷にともに身をかくす
  一鉢雖空心不貧  一鉢むなしといえども 心貧ならず
  猶有詩魔來得便  なお詩魔の来て便を得るあり
  曾無酒障自傷神  かつて酒障の自ら神を傷むるなし
  養痾幸臥北堂下  痾を養いて幸いに北堂の下に臥す
  開巻又逢西竺人  巻を開いてまた西竺の人に逢う
  夜深夢醒推枕看  夜ふけ夢さめて 枕をおしてみれば
  窓燈始滅月痕新  窓燈はじめて滅して 月痕あらたなり

 物質的には質素な生活だが、心は決して貧しくはなく、それどころか充実していた。修行の日々の合間には、詩神がインスピレーションを授けてくれることもあった。さらに経典を開いて読めば、そこでは遠い唐天竺の先人の僧たちに出会うこともできた。
 元政はもともと蒲柳の質だったが、修行を重ねることで肉体が衰えていくことは悲しかった。結核性の疾患がさまざまな形で身体の各所にあらわれてきた。頭痛に襲われ、風邪をひき、腹痛を覚え、気鬱にもなった。吐血し、歩行も困難となって苦しむこともあった。それでも彼は薄い麻衣をまとい、乾した野菜や豆腐を珍味として、戒律きびしい生活を送った。
 深草の庵は静かに修行をするための場所だったが、やがてその徳を慕って一般の民だけでなく仏教をこころざす若い僧も多く集まるようになった。『艸山要路』はそうした門下生にために書かれた行学の指針で、十個の条約をもって風規をさだめて信仰の道をしめした。元政は深草の地を艸山とも称していたのである。
 彼は病弱をおして多くの著書をあらわした。『元元唱和集』、『艸山集』、『艸山要路』のほかに、信仰に関するものとしては『如来秘蔵録』、『本朝法華伝』三巻、さらに『大智度論』、『法苑珠林』の校訂などがあり、多くの和歌を収録した『艸山和歌集』も名高い。

 寄夢無常
  このよをはうつゝになしてたれもなをまくらのゆめをゆめとみるらん

 遠村蚊遣火
  かやりひのけふりたてすはゆうまくれありともみえしやまもとのさと

 和歌のこころも性霊論の基づく漢詩と違いはない。『艸山集』三十巻に収められた詩は千五十一篇にのぼるが、手元にはこれを参照するのに便利な本がある。それは姉崎正治博士が編纂した『彙編艸山詩集』全二巻(平楽寺書店、昭和18年)で、元政の詩をテーマ別に分類している。項目は、「信行篇」、「回向篇」、「孝心篇」、「病身篇」、「閑居篇」、「雅懐篇」、「吟行篇」、「四季篇」、「物象篇」、「礼讃篇」、「身延行記」となっていて、そのうちの「物象篇」には、身近な事物を詠ったユニークな作が集められている。

 蠅

 八月尚残暑  八月 なお残暑
  蠅飛満屋宇  蝿とびて 屋宇にみつ
  鉢盂揮不去  鉢盂 はらえども去らず
  几格遂亦聚  几格おいて またあつまる
  因懐費智謀  よっておもう 智謀をついやし
  盡籠放遠浦  ことごとく籠めて 遠浦〔遠い水辺〕に放たんことを

 蚊

  清夜殷々又轟々  清夜いんいん又ごうごう
  帳中夢醒心忽驚  帳中 夢さめて 心たちまち驚く
  起吹燈火上短棨  起きて燈火を吹きて 短棨にのぼす
  満窓如塵不分明  満窓ちりの如くにして 分明ならず
  開戸萬里河漢清  戸を開ければ 萬里河漢きよし

 第三句の「棨」は灯火、短くしておいた灯心を上げた、第五句の「河漢」は天の川の意である。蚊の羽音を蚊雷(ぶんらい)といったりするが、元政の詩は、耳のそばでする蚊の羽音はまるで雷のように響き、夢を破られて、やむなく明かりをつけて窓をあけると、空には満天の銀河がかかっていたというのである。(注)
 そして

 硯 

  片石鑿來開面門  片石うがち來りて面門を開く
  一時吐出數千語  一時に吐出す 數千語
  直将大海傾翻去  直に大海をもちいて傾翻し去る
  満耳潮音本妙論  満耳の潮音 もと妙論

 「雲」と題した多くの作品の一つ――

  來往従風變幻新  來往風にしたがいて 変幻あらたなり
  天衣片々絶繊塵  天衣片々せんじんを絶す
  無心出岫無心去  無心にしてしゅうを出で 無心にして去る
  渠亦飄然世外人  かれも又ひょうぜんたる世外の人

 竹を詠った三篇。

  虚心抱節掃塵氛  虚心節をいだきて じんふんを掃う
  吾識王猷愛此君  吾はしる 王猷がこの君を愛することを
  日暮揺々天色合  日暮ようようとして 天色合す
  只看平地起青雲  ただみる 平地に青雲を起すことを

  自有世界來  世界ありてよりこのかた
  即已有此竹  即ちすでにこの竹あり
  自有此竹來  この竹ありてよりこのかた
  此葉終不禿  この葉ついに禿せず

  我觀竹之心  我れ竹の心をみるに
  艸木之空者  草木の空なる者なり
  我觀竹之形  我れ竹の形をみるに
  幽人之友也  幽人の友なり

 元政はことのほか竹が好きだった。彼は寛文八年(1668)2月、46歳でなくなるが、死期を悟ると弟子に遺誡をあたえ、辞世の一首を残し、遺言によって称心庵の南に葬られた。墓は土饅頭の上に竹を三本立てただけのもので、竹を墓碑の代わりとした。
京都に住んでいたころ深草に友人がおり、京阪電車に乗って深草を訪ねた折はよくこの墓にお参りした。現在は瑞光寺の境内の真ん中をJR奈良線が横切っていて、境内から墓へ行くには、線路の下のトンネルを潜らなくてはならない。石垣に囲まれた墓には、いまも三本の細竹が植えられている。ただ周囲はかつて竹が原とも呼ばれたころの面影はまったくなく、すぐ後ろには青い屋根瓦のマンションが建ち、そのかたわらは駐車場となっている。

(注) 朝日新聞の「天声人語」で、蚊については、子規に次のような戯文があることを知った。「汝の一身は総てこれ罪なり、人の血を吸ふは殺生罪なり、蚊帳の穴をくぐるは偸盗罪なり、耳のほとりにむらがりて、雷声をなすは妄語罪なり・・・」。出典をご存知の方はお教えいただきたい。
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by monsieurk | 2011-12-04 09:00 | 漢詩 | Trackback | Comments(1)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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