ムッシュKの日々の便り

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ヴァルヴァンの思い出 III キャバレー黒猫

 レオポルド・ドーファンはマラルメに添削してもらった詩を、「エロー県」新聞や、当時パリのモンマルトルにあった文学酒場「黒猫(Chat Noir)」から毎週金曜日に出ていた同名の新聞「黒猫」に寄稿した。
 ルイ13世式の酒場「黒猫」は、パリ中に名をはせたキャバレーだった。画家のロドルフ・サリスがはじめたもので、画家、詩人、音楽家が集まっては毎晩大騒ぎを演じ、それがまた人気を呼んで、物好きなパリっ児を集めたのである。
 ドーファンは「黒猫」があったロシュシュアール大通りに住んでおり、すぐにここの常連となった。その後まもなく「黒猫」は手狭となり、ラヴァル通り(現在のヴィクトール・マッセ通り)12番地へ移ったが、ドーファンはそこへも足をのばした。
 彼は1893年には、『パリの聖ジュヌヴィエーヴ』という神秘劇を創作して成功をおさめた。これは「黒猫」の名物の一つだった影絵芝居用の脚本に作曲したもので、マラルメの息子アナトールに捧げられた。影絵芝居は白い映写幕の後ろから亜鉛板を切り抜いた人物を映して上演するもので、絵は常連だった画家のヴィレットやユゼスが描いたものだった。
 キャバレー「黒猫」では三階に舞台があり、多くの詩人がそこに上って、客の前で自作の詩を朗誦した。そしてこれらの詩はすべて新聞「黒猫」に掲載され、ドーファンの詩も載ったが、彼は本名ではなくピンピネリという筆名を使っていた。
 ドーファンはこれらの詩を収めた最初の詩集『碧と鼠色の葡萄』(“Raisins bleus et gris”)を1897年に出版し、マラルメはこの詩集のために「序文」を書いた。
 ドーファンを通じて依頼があったのであろう、マラルメ自身も1886年6月26日号の「黒猫」に、すでに発表したものであるが、「忘れられたページ」と題して三篇の散文詩、「秋の嘆き」、「冬の戦慄」、「未来の現象」を載せている。キャバレー「黒猫」には、ヴェルレーヌもよく姿をみせ、若い詩人たちと食卓を囲んだ。あるとき彼はアルチュール・ランボーについて、「彼奴はエジプトに出かけてしまった!」と、いつになく真剣な表情で語ったと、後にアカデミーフ・フランセーズ会員となったモーリス・ドネが書いている。
 一世を風靡したこの文学酒場「黒猫」も1896年に、その幕を閉じた。「黒猫」があったモンマルトルのヴィクトール・マッセ通りにはキャバレーが並び、いまも歓楽の巷として大勢の酔客を引き寄せている。だが酔眼朦朧とした人びとは、12番地の家の軒下に掲げられている大理石版には気づかない。「行人よ、足を留めよ。この建物はロドルフ・サリスによりて詩神〔ミューズ〕と歓楽とに捧げられたる家なり。彼はここに名高きキャバレー「黒猫」を経営せり。1885-1896」。大理石版の掲げられた家は平凡きわまる三階建、屋根裏つきの建物で、現在は自動車クラブの事務所になっている。
 それに比べて、ヴァルヴァンのマラルメがこよなく愛した別荘は現存する。家の眼の前はセーヌ川、その彼方には深々としたフォンテーヌブローの森を望む景勝の地で、マラルメ河岸と名前を改名されたセーヌ川に沿った通りの8番地にあり、現在は県立のマラルメ記念館になっている。
 蔦蔓におおわれた壁面には、マラルメの横顔を彫ったd0238372_825824.jpg
銅版がはめ込まれ、家の前の岸は当時そのまま、小舟のつなぎ場となっている。
 セーヌはゆるやかに流れ、マラルメとドーファンが小舟で行き来した時代と少しも変わっていない。だがこのマラルメの家は第二次大戦末期の激戦で被害を受け、その後修復されたものなのである。これにはマラルメの親友で、ヴァルヴァンでも隣人づき合いをしていた作家、アンリ・ルージョンの娘であるルフェーヴル・ルージョン夫人の証言がある。
 1944年の夏、退却するドイツ軍とレジスタンスに支援されたアメリカ軍との間の激戦が終わった直後、彼女は少女時代をすごしたこの土地を訪れた。そのとき由緒あるヴァルヴァン橋は完全に落ち、右岸のマラルメの家の付近は瓦礫の山であった。ただ詩人の家の壁だけは奇跡的に建っていた。しかし二階は砲弾によって完全に破壊され、マラルメの思い出が一杯つまった日本風の仕事部屋や、彼が息を引き取った部屋などは跡形もなく、わずかに一階だけが元の形を留めていたという。
 マラルメの家から300メートルほど上流にいったところに架かるヴァルヴァン橋の袂には、青銅製の記念碑が建っている。そこには、「ジョージ・パットン将軍の指揮のもと、勇敢に戦ったアメリカ第三軍の思い出に」と刻まれている。セーヌ川を渡り、敗走するドイツ軍を追ってこの地を進軍したのは、戦史に有名なパットン戦車隊だったのである。
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by monsieurk | 2012-01-28 08:28 | マラルメ | Trackback | Comments(3)

ヴァルヴァンの思い出 II 舟遊

 レオポルド・ドーファンは、マラルメの死後、1921年になって、新聞「エロー県」に、マラルメを追想する文章を4回にわたり寄稿した。これらはその後、『後ろを振り向けば』(Regards en arrière)と題する小冊子として出版された。
 27年におよぶマラルメとの交遊を生き生きと語る小冊子は、彼の逼迫した経済事情のために、わずか50部しか印刷されなかった。今日ではもはや手にすることが不可能な稀覯本だが、幸いそのうちの一冊がパリの国立図書館に保存されている。
 ドーファンは淡々とした筆致で、マラルメについて興味ある逸話の数々を伝えている。
 「私が1874年にマラルメを知ったのは、フォンテーヌブローに近いセーヌ川の岸辺の、ヴァルヴァンと向かい合うプラトルリにおいてであった。川の流れが私たち二人を隔てていた。彼は右岸の小さいが美しい家に泊っていた。そこへ行くには花をつけた真っ青な蔦に覆われた石の階段を上っていくのだった。私は左岸にあるルイ・フィリップの〔お抱え〕画家、ビアール爺さんの家を借りていた・・・」。
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 ドーファンが夏の別荘として借りたこの家は、持主の画家ビアールの描いた大きな絵で壁全体が覆われていて、他にも画家が長く滞在したインドから持ち帰ったさまざまの品物があり、当時この地方ではちょっとした美術館として有名だったらしい。
 この年の夏のある日、美術評論家フィリップ・ビュルティが、家の中を見せてほしいと訪ねてきた。
 「彼は、背が低く、水色の上張りを着て、麦藁のカンカン帽をかぶった一人のムッシュと一緒だった。それがステファヌ・マラルメだった」。
 川を隔てた隣人同士はすぐに親しくなった。マラルメは13歳のとき、初めて父に連れられてイョーヌ川へ行き、魚釣りやボート遊びの楽しさを教えられた。このとき以来、川遊びは詩人のほとんど唯一の趣味となった。そこには、マラルメが6歳のときに再婚したために離れて暮すことが多く、しかも脳を患って若くして死んだ父への追憶がこめられていたのかもしれない。
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 ドーファンは小さな帆掛け舟をもっており、マラルメもボートをもっていた。彼が「ボート(yole)」と呼んで気に入っていた帆のある小舟は、1876年に出版した豪華詩集『半獣神の午後』の印税のうち500フランを費やして手に入れたものだが、この頃のボートは別のものだったと思われる。
 「私たちは毎朝セーヌ川で会い、一緒に、あるときは下流の方、サモワ、エリシィ、フォンテーヌ=ル=ポール、レ・シャルトレットへ、またあるときは上流、トメリ、シャンパーニュ、モレまで行った。私たちは土手の近くに小舟をつなぐと、草原に寝ころび、パイプを燻らしながら話をするのだった。二人とも専門とする芸術を愛していた。そして、互いの芸術をよりよく理解するために、彼は詩を、私は音楽のことを語った。それが私たちの会話を豊かに彩った。」
 だが楽しかった夏の休暇もやがて終わる。マラルメはパリに帰り、リセの英語教師という仕事に戻る。時計で計ったような単調な日々が、散歩と夢想の自由な喜びを伴った時間にとって代わるのだった。
 そして一年がすぎ、また夏がめぐってくると、二人はセーヌの岸辺で再会した。
 ある日、マラルメが訪ねてきたとき、ドーファンはピアノのためのマズルカを作曲している最中だった。やがて曲が出来上がると、彼はそれを二度弾いて聴かせた。弾き終わっても、マラルメは何も言わない。ドーファンは後ろを振り向いた。するとマラルメはしばらく待つように合図し、ドーファンの仕事机に坐ると、即興でエピグラフ風の詩句を書いてみせた。このときの詩句は、『折りふしの詩句』に収録されている。

  ・・・Ainsi qu’ une fontaine à la fois gaie et noire
  Etincelle de feux, se cache sous le pin
  Coule et veut être celle où la brise ira boire,
     Un sanglot noté par Chopin.

 マラルメが時折り物したこの類の短詩は、洒落た言葉の組み合わせや思いもよらない韻律が面白く、その繊細微妙な感覚はとうてい翻訳では伝えられない。
 詩の大意は、「松林の向こうに泉が湧いている。そこだけが陽に照らされてキラキラ耀いている。暗く影になった松の枝や葉を透かして見える水面の耀きは線香花火の模様のようだ。それも明暗が逆転した花火である。泉からつづく流れの上を微風が舐めるように吹き抜けていく。その度に小波がたって、光の反射は一層強くなる。それはあのショパンのすすり泣く旋律のようだ。」
 ドーファンのマズルカを聴きつつ、マラルメの描いたイメージはおよそ以上のようなものであった。
 二人はよく連れ立ってフォンテーヌブローの森へ散歩に出かけた。その道々、ドーファンは詩作についてマラルメの意見を徴した。マラルメはドーファンが暗誦する詩に耳を傾け、あるときは誤りを正し、ときには詩句全体を添削した。それはいつも明快で、容易に理解できるものであったという。
 「ある夕暮、サモロの岩場のところで、私はマラルメにその朝できた詩句を披露した。「うん、とてもいい」。彼が言った。「だが、たとえばミュッセだったら、もう少しうまく創ったと思うね」。そう言うと、私の発想に沿いつつ、たちどころに一句を創ってみせた。それは〔ミュッセの詩集の〕『ナムラ』の中に収められるのがふさわしいようなものであった。「ユゴーだったらまったく別のものを創るだろう」と言いながら、たちどころに彼が創ってみせたのは、新しい修辞を用いたまさにユゴーの詩そのものであった。その講義を仕上げる、というよりむしろ彼がいかに魔術師のような才能をもった師匠であるかを示すために、人びとから不毛な作者と指弾され、病人、いや狂人扱いされていたあの彼が、バンヴィル、ルコント・ド・リール、さらにはベランジェやピエール・デュポンを次々に模倣してみせたのである。・・・」
 「私は秋のある夕暮を覚えている。私たちは散策に出たのだった。私には、今でも二人の姿が目に浮かんでくる。歯で短いパイプをくわえ、彼は座って舵柄をにぎり、かなりの腕前で三角帆を操り、ほとんど一直線に、なめらかに舟を進めた。私は中ほどの帆柱のところに座り、顔を撫でてゆく微風に半分ほど膨らんだ帆が振られる度に、身をかがめて帽子がもっていかれないようにするのだった。
 夕陽が周囲を茜色に染め、次いでそれは薄紫へ、黄金色へと変わっていった。雲間から、ところどころ陽の黄金の矢が走っていた。それは憂愁を帯びた九月も末の空であった。マラルメは空をじっと見つめている。おだやかな夕暮の沈黙の一刻。岸の藺草の上を蜻蛉が飛び交い、頭上には翡翠のエメラルド色をした明かりが残っている。私はマラルメの目が夢で一杯なのを見た・・・彼は何を言い出すだろう?
 ――君は僕がユゴーの詩句の中でどれが一番美しいと思っているか分かるかね?
 ――沢山あって、どれか一つといわれても!・・・

 Le soleil s’est couché ce soir dans les nuées !

 陽はその夕暮、雲間に沈んだ!

 そうつぶやくと、彼は重たげな瞼をおとした。この美しい空のすべての光を、瞼の中に閉じ込めておこうとするかのようであった。
 だが、私は彼をその夢想から引っぱり出した。
 ――私にはそんな素晴しい詩句は出来やしないが、そう言いながら、私は笑った。私も昨日二つばかり創ってみたんです。そう悪くはないと思うのですが、収穫された葡萄に呼びかけたものです・・・

  Vous ne griserez plus au soir
  L’aile si blonde de l’abeille.

  君よこの夕べには酔わせることなかれ
  蜜蜂のかくも金色なる翅を

 彼はパイプの煙を一息吹き、帆をはらませ、舵をひいた。私は彼には聞こえなかったのだと思った。それで、もう一度、詩句を詠もうとしたとき、彼が詩句を言い換えて、こう言うのを聞いた。

  Vous ne griserez aucun soir
  L’aile blonde aussi de l’abeille

  君よいかなる夕べにも酔わせることなかれ
  蜜蜂の金色にも似た翅を

 私はうっとりとするばかりだった !」
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by monsieurk | 2012-01-24 22:32 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

ヴァルヴァンの思い出 I 見つかった手紙

 1970年代、80年代のパリには、貴重な書籍や自筆原稿を所蔵する老舗の古書店がまだあった。サン・ジェルマン・デ・プレ教会に近いサン・ペール通りの故マルク・ロリエの店もその一つだった。
 店の間口はさして広くはなかったが、扉を押して中に一歩入ると、棚という棚には垂涎の的の書物が並んでいた。モロッコ革の背表紙に金文字を浮かび上がらせた『悪の華』の初版と再版。1888年版のステファヌ・マラルメ訳『エドガー・ポー詩集』。これには親友アンリ・カザリスに宛てたマラルメの献辞と、カザリスの死後これを手に入れたアドワルド・ヴァッセルマンが、画家マリー・ローランサンに頼んでつくらせた有名な蔵書票がついている。ヴァッセルマンは装飾家で、屈指の蔵書家でもあった。そしてマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』第一巻、『スワン家の方へ』の初版・・・ひもとけば、いずれも著者の意気込みと、その書物を蔵した人たちの愛着が伝わってくる稀覯本ばかりである。
 訪れたその日、ほの暗い奥の机で書きものをしていたロリエは、挨拶もそこそこに、良いものが手に入ったと言いながら奥の書庫へ入っていった。やがて彼が手にして戻ってきたのが、マラルメがレオポルド・ドーファンに宛てた一通の手紙だった。横9センチ、縦12センチの薄茶色の厚紙に、晩年のマラルメ独特の繊細な筆致で書かれている。

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      cher Dauphin
   J'ai voulu aller vous prendre la
  main, vous dire le charme
  de vos vers, ceux-là parmi les
  plus envolés; et combien j’ai
  été touché que vous ayez évoqué
  la voix de Villiers en un propos
  à moi tendre, merci…Ici on
  achève des influenzas; vos dames,
  sont elles bien? A elles nos trois
  cœeurs
  Stéphane Mallarmé

   土曜日
    親愛なるドーファン
   大変な飛躍をとげたあなたの詩の魅力と、
  私について語ったヴィリエのやさしい声を
  思い出させてくれたことに、私がどれほど
  感動したかを、訪ねていって、手をとりながら
  お話したいと思ったほどです。本当に有難う・・・
  こちらではインフルエンザも終わりました。
  あなたのところのご婦人方は、お元気ですか?
  私ども三人の心からの挨拶を。
              ステファヌ・マラルメ

 名宛人のレオポルド・ドーファンは、今ではほとんど忘れられた存在だが、19世紀末の作曲家・詩人で、精妙な曲や詩を数多く残している。
 6歳年下のドーファンとマラルメの交遊は、1874年に、二人がパリ南東60キロにあるフォンテーヌブローの森の近くに別荘をもったときにはじまった。
 マラルメはこの年の8月、フォンテーヌブローに近いセーヌ川畔の小さな村ヴァルヴァンに初めて避暑に行った。この辺鄙な田舎をマラルメは気に入った。マラルメ一家が泊まったのは、かつてのブルゴーニュ街道、現在の県道39号線沿いの古い旅籠で、街道を行き来する商人やセーヌ川を上下する船頭たちがよく泊まったところだった。このときからヴァルヴァンは、マラルメの生涯の安息の地となったのである。
 マラルメは間もなくヴァルヴァンに一軒の農家を見つけ、休暇の度にその二階を借りることにした。こうして夏の休暇を過ごしにやってくるマラルメとドーファンは急速に親しくなった。交際は家族ぐるみのもので、マラルメが死ぬ1898年まで続いた。
 マラルメとドーファンとの間に交わされた手紙は長らく未発見だったが、1974年にカール・ポール・バルビエの手で刊行された。これによってヴァルヴァンでのマラルメの動静が一層明らかになったのである。
 先のドーファン宛の手紙も、この際発見されたもののうちの一通なのだが、この手紙には単に「土曜日」とあるだけで日付がない。この短信はいつ投函されたものなのだろうか。この疑問は発表された一連の手紙をたどることで解くことができる。その鍵は、「私について語ったヴィリエのやさしい声を / 思い出させてくれたことに、私がどれほど / 感動したか」という個所にある。
 地中海沿岸の地ベジエに生まれたドーファンは、18歳のとき音楽家を志してパリに出て、オペラ・コミックなど数々の曲をものにして、19世紀末のパリで成功を勝ちえた。だがその一方で、故郷との接触を終生絶やさなかった。彼の故郷ベジエで発行されていた週刊新聞「エロー県」(L’Hérault)に、彼はしばしば詩を載せていた。「エロー」とはベジエがある県の名前をとったもので、典型的な地方紙だった。
 この新聞「エロー県」に、1898年の初め、当時ようやく隆盛をみるにいたった象徴主義を誹謗する記事が載った。著者はアルベール・アルノーといい、社会派を任じる道徳家で、象徴主義を軟弱で韜晦だとして、マラルメをその頭目だと槍玉にあげた。アルノーの記事が出た一週間後に、さっそく反論があらわれた。投稿したのはモンペリエの高等中学校(リセ)の学生で、マラルメに心酔していたエルネスト・ゴベールである。彼は「われわれ象徴派こそが新芸術の開拓者だ」と反論した。さらにその一週間後にはアルノーの再反論が載り、アルノーはその中で、自説を正当化するために、この年1月15日に文芸誌「ラ・プリュム」に掲載されたアドルフ・レッテの論文を引用した。
 詩人のレッテは、パリのローマ通りにあったマラルメの自宅で催された火曜会の常連だったが、その後マラルメから離れ、この頃は執拗なマラルメ批判を繰り返していた。アルノーが引用した個所で、レッテは、「マラルメ氏はわざと文章を難解にする術しか知らず」、「象徴主義者たちはマラルメ氏の催眠術に罹っているのだ・・・一刻もはやく、この詩人が、そのおしゃべりの中で展開する理論の臭跡を消し去らなければならない。彼の理論は、所詮、無感動、生命力の無視にほかならない」と述べていた。
 この時点で、ドーファンが故郷の新聞を舞台にした論叢に割って入った。パリではマラルメの信奉者も多く、アンドレ・ジッドをはじめ多くの若い詩人や文学者が、レッテの激しいマラルメ批判に対して反撃をこころみていた。だが地方のベジエでは、マラルメの真の思想を理解した者はいない。マラルメの知遇を得ている自分こそ反論を買ってでるべきだというのが、ドーファンの気持だったに相違ない。
 マラルメについてヴィリエ、つまりヴィリエ・ド・リラダンが言った言葉云々というのは、ドーファンが「エロー県」新聞の主筆宛に書いた文章の中に登場するのである。
 「今日は毎週掲載されている私の詩をお読みいただく前に、この好ましい論争に私が立ち入ることをお許し願いたい。私は〔アルノー氏が引用した〕「ラ・プリュム」の批評に対して、ヴィリエ・ド・リラダン――なにごとにおいても賢明な判断を下す――が、ある夜マラルメの家を辞去する際に、私に語った言葉を対峙させたい。「詩とは、ごく稀な、気位の高い貴婦人のようなものだ。それは人が考えるように、美しく抒情的な詩をつくる者なら誰もが寝られるというものではない。だが、ステファヌだけは別だ。彼はじつに運のよい男で、彼女の心からの恋人なのだ。彼が望めば、ただ合図をするだけ、それだけで十分なのだ。彼なら彼女を暗がりの中へ、闇の中へさえ連れて行ける。それでも幸せな彼女は身をまかせる。彼らの愛、それは星の輝きであり、光なのだ」。さらに、彼は大声で笑いながらこうつけ加えた。「あゝ、B・・・氏では駄目だよ、無論」。これ以上私には言うことはない・・・」
 この文章が書かれたのは、1898年2月6日であり、それから2週間ほど経った22日に、ドーファンはマラルメに宛てて次のように述べている。
 「半月前、「エロー県」紙に載ったレッテ某についての私の手紙をお読みいただけましたか。彼にはヴィリエの言葉をぶつけておきました。もしまだでしたら、送らせましょう。同号には「ポエジー」という私の詩一篇も掲載されています・・・」
 以上二通の手紙は、それぞれ消印によって日付が確定できる。そして冒頭に掲げたマラルメの手紙は、この22日付けの手紙への返事と考えられる。しかも22日のドーファンの手紙の書き出しには、「告解火曜日に」とあり、この年の2月22日が火曜日であることが分かる。
 内容の調子からみて、マラルメの礼状は、ただちに書かれたとみられるから、おそらく、同じ週の土曜日、すなわち1898年2月26日のものと推定できるのである。これは同年の9月9日、マラルメが喉頭痙攣の発作で急死するわずか6カ月前のことである。
 手紙の中で、マラルメが口をきわめて称賛しているのは、新聞の同じ号に発表されたドーファンの詩「ポエジー」のことであろう。ドーファンは作曲のかたわら、早い時期から詩を書いていた。マラルメは長年にわたって彼の詩の添削をしてやっていたのである。

 「ヴァルヴァンの思い出」は、雑誌「ユリイカ」1978年11月号の「海外通信」が初出であるが、愛着のある文章であり、以後3回わたり、若干の修正を加えて再録する。
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by monsieurk | 2012-01-21 19:48 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

Oguiss

 名古屋、京都、稲沢と巡回してきた「荻須高徳展~憧れのパリ、煌めきのベネチア~」を、最後の東京会場で観た。荻須さんの生誕110年を記念して企画されたものである。稲沢は彼の出身地で、いまは荻須記念美術館がある。
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 訪れた三越デパートのギャラリーは、土曜日ということもあって、どの絵の前にも人の輪ができるほどの盛況だった。絵を鑑賞しながら、まわりの人たちの会話を聞いていると、「懐かしいわね」、「昔たずねたパリはこんな雰囲気だった」、「私、ここを通ったわ」などという声が聞こえてきた。来展者の多くが年輩の人たちで、夫婦連れや友人同士などが思い思いに感想をささやきあっていた。「ここを通った」というのは、「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」と題された絵で、ここはモンマルトルの丘にあったダンスホールの跡で、いまも風車の残骸がそのあとをとどめている。
 荻須さんは、浜口陽三さんとともに、パリで交友のあった画家だった。お二人とも年齢ははるかに上だが、そんなことは微塵も感じさせずにお付き合いくださった。浜口さんは大使館などで催される会合などにはまったく顔を出さず、在仏日本人との交流もあまりなかったが、荻須さんは大使主催のパーティなどにも出席して、会話を楽しんでいた。長身で姿勢のよい姿が目に浮かぶ。
 年譜によると、荻須さんが最初にパリに渡ったのは1927(昭和2)年10月のことである。この年3月に東京美術学校を卒業し、叔父さんの援助で念願のパリ行きを実現したのである。26歳のときであった。出発前に2度目の渡仏をしようとしていた佐伯祐三を下落合のアトリエに訪ねて助言してもらったという。
 パリに居を構えてから、佐伯とはパリ郊外に写生旅行に行くなどして影響を受けた。だが佐伯は翌1928年6月に肺結核で倒れ、佐伯夫人とともに付き添ってヌイイ・シュル・マルヌの病院に入院させた。そして8月、荻須さんが北フランスのブルターニュを旅行中に、佐伯は亡くなった。
 荻須さんが初めて「サロン・ド・トンヌ」に《サン・メダール市場》を出品したのはこの年の10月で、見事に入選をはたした。以後10年間にわたって同展に出品を続けたが、いずれもパリや近郊を描いた作品で、今回の展覧会でも、《モンマルトルの食料品店》(1929)、《新聞屋》(1929)、《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》(1930)などが出品されている。いずれもパリの一見何気ない風景を描いたものだが、画家の厳しい眼差しが選び取ったものであり、観る人びとに限りない郷愁を呼び覚ます。荻須さんはこの頃からOguissというサインを用いるようになった。描かれたパリから次第に姿を消し、いまでは荻須さんの絵のなかにしか存在しないものも多い。石造りのパリの街並も、時間の経過とともに確実に姿を変えつつある。
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 荻須さんと個人的に親しくなったのは1970年代の初めのことだった。職場の先輩が本を出版するにあたって、旧知の画家に本の内表紙にするスケッチを頼んでほしいというので、それを依頼するために、パリ9区ロシュシュアール大通りのご自宅を訪ねた。荻須さんは快く引き受けてくださり、モンマルトルの高台から眺めたパリ風景のデッサンを提供してくださった。
 これをきっかけに、幾度かスケッチに同行させていただいたことがあるが、荻須さんは気に入った対象を見つけると、街角にたたずんでデッサン帳をひろげ、素早くスケッチした。油彩はスケッチをもとにアトリエで描くのだが、その様子は滅多に人には見せなかった。こうして人びとの生活の匂いがしみ込んだパリの街並が、荻須さんの絵の中で永遠に生きることになったのである。
 荻須語録をいくつか紹介すれば――
 「私は壁の美しさを長い間追及してきたし、今後も追及していくだろう。私の描く壁のある風景には、人間がさほど登場しない。登場しても、それは点景のようなのが多い。だが、人間がいない建造物を描いたからといって、人間がそこに存在しないのではない。壁――そこに人間がしみ出ているのだ。」
 「モニュメンタルな建造物は私の描く世界にはない。このことだけは、はっきりしています。これからも、一生死ぬまで、私は貪欲なくらいに生活と歴史がにじんでいるパリの街々を描きつづけるでしょう。そこに私の過去があり現在があり、そして未来が広がっていると信じているからです。どんなに困難なことがあっても、ここでもう一度深く沈潜しながら、自分の中のヨーロッパ絵画の伝統を、より深めていきたい。」
 1939年に第二次大戦が勃発し、1940年6月、帰国する画家の猪熊弦一郎夫妻を見送りにマルセイユに行っていたときに、パリがドイツ軍に占領されたという報に接して、最後の帰国船白山丸に乗って帰国した。そして戦後の1948年10月、フランス人の友人たちの努力で、日本人画家として最初にフランスに行くことができた。オルドネール通りのアトリエは、この間友人たちの手で確保されていたのである。
 1950年に描かれた《古道具屋と本》では、間口2軒ほどの店先に置かれた台に、古本が無造作に並べられ、表の壁には額に入った版画や絵がかかっている。当時はパリではよく見かけた光景で、店の中には店番をする女性の半身が影のように見える。
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 《モンマルトル、階段の上の八百屋》(1953)では、画面右手には赤い板壁の三階建て建物、階段を挟んで左手には、四階建ての一階で店を開く八百屋の店先。そして二つの建物に挟まれた狭い空間からは、切り取られたパリの街並みが見下ろせ、石段の登り口には、いましも階段を上りきった黒い服の女性の前屈みの姿が小さく描かれている。店こそ変わったが、この建物と石段はいまもそのまま残っていて、人びとが毎日ここを上り下りするのも変わりがない。
 荻須さんはパリを題材にした点でしばしば佐伯祐三に比較される。だが二人の違いは、佐伯のパリが旅人の眼で見たものなのに対して、荻須高徳のパリは生活者の眼差しが捉えたパリだった。その分やさしさと懐かしさがにじんでいるように思うのだが、どうであろう。
 荻須さんは、絶妙のマネージャーとして彼を支えた美代子夫人とともにモンマルトルの墓地に眠っている。墓に建つ折れた柱とパレットは、画家の志が絶たれたことを示している。
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by monsieurk | 2012-01-18 22:37 | 美術 | Trackback | Comments(1)

一つの提案

 朝日新聞は朝刊に連載している「プロメテウスの罠」で、昨年3月11日に起きた福島原子力発電所の大事故と、それへの政府の対応を検証しているが、今年1月3日の欄では、事故直後から在日米軍に、SPEEDIの観測データが伝えられていたという事実を明らかにした。
 記事によると、事故から4日目の昨年3月 14日の朝、東京の横田基地の在日アメリカ軍司令部から外務省に電話があり、「震災支援をするために放射能関連の情報が必要なので、政府が何か情報を持っているなら教えてほしい」と要請があった。外務省の事務官は関係官庁と連絡を取るうちに、文部科学省の防災環境対策室にSPEEDIの情報があることを知り、それを送ってもらい、上司の許可を得て情報をメールでそのまま在日米軍の司令部に転送したという。
 SPEEDIは、原発事故が起きたときに、周辺住民の避難指示に役立てるための「緊急時迅速放射能影響予測システム」で、風向きなどによって放射性物質の強さと流れる方向などを予測するもので、文部科学省が所管している。昨年暮れに発表された事故調査・検証委員会の中間報告では、折角の予測結果が付近住民の避難に役立てられなかったと厳しく批判されている。
 あとから見ると、SPEEDIはほぼ正確な予測を出していたが、昨年3月14日の段階では、当時の菅首相をはじめ政府の中枢はその存在すら知らなかった。そしてSPEEDI情報を官邸に伝えるべき官僚がそれをせず、一方で在日米軍へはデータが7月まで毎日順調に流されていたのである。
 事故直後、アメリカ政府は東京にいた9万人のアメリカ人の避難を検討し、震災支援のため福島沖にいた空母を一時原発から80キロ遠ざける措置をとった。在日米軍は飛行機を飛ばすなどして独自に放出された放射能の調査を行い、さらにSPEEDIの情報を参考にしたと考えれば納得がいく。
 その一方で、原発周辺住民は情報がないまま、放射性物質が飛散した方向に避難した人たちもいた。政府がSPEEDIの情報を公表しなかったために、そうした結果を招いたことは、他のさまざまな対応のあり方とともに事故調査委員会の中間報告が厳しく批判しているが、もう一つ検証すべき問題があると思う。
 それは新聞やテレビ、ラジオといったマスメデイアが、SPEEDIの予測が米軍には事故直後から伝えられていた事実を、なぜ、あの時点で取材し伝えられなかったのか。SPEEDIの予測はこのほかにも、気象庁からIAEA・国際原子力機関にも伝えられていた。
 海外のメディア、たとえばドイツの新聞は3月14日の段階で、どこが危険かという情報を伝えていた事実がある。私も福島原発の事故直後は、フランスに住む娘や親戚からの情報、あるいは欧米の新聞の電子版から得た情報の方が多かった。海外のメディアにアクセスできた人と、もっぱら国内のメディアから情報を得ていた人たちとの間に情報格差が生じていたのである。
 そこで一つ提案があるのだが、事故調査委員会の調査と同じように、マスメディア――新聞、テレビ、ラジオが、3月11日の原発事故以後、何を取材し、何を伝え、何を伝えなかったのか、それはなぜ伝えられなかったのかを徹底的に検証することである。
 マスメディアが取材した専門家にも、あきらかに偏りがあり、「原子力ムラ」に属する科学者、技術者、評論家が多くブラウン管や紙面に登場して、事故後も安全を強調した。特定の人脈を頼って、中立的であるべき視座を保てなかったのは事実である。
 さらにメディアはこの事故の構図が、日米関係の構図そのものである点をいまだにきちんと指摘できていない。事故を起こしたマークIと呼ばれるGE製の原子炉は、導入当時に日本側の設計変更が一切許されなかった。地震や津波への対策が不足していることを指摘して、電源の設置場所を変更するように要望した学者もいたが、ハリケーンの龍来を念頭に設計された原子炉では電源が低い位置に置くように設計されていた。アメリカ側は設計書通りにつくることしか認めず、その意味では今回の事態は起こるべくして起こったともいえる。決して対等な関係で交渉した末に導入したとはいえない原発の姿を、マスメディアはどこまで報道しえたのか。
 事故から10カ月が経って、当時は分からなかった事実が次第に明らかになりつつある。そうした事実と比べて、マスメディアの情報伝達のあり方がどうだったのかを、歴史的視点を含めて調査・検証することが必要である。
 原発事故の収束には、政府の見通しでも今後40年はかかる。その間、私たちはこの深刻な事態と向き合っていかなくてはならない。そのときマスメディアが何を取材し、それを伝えるか、伝えないか、あるいは伝えられないか、その責任は大きい。
 今回の原発事故は、その深刻さを考えれば、一つのマスコミが自己検証するだけではなく、マスコミ全体が情報の問題を専門にしているアカデミズムの世界の人たちとも協力して、組織を立ち上げてはどうだろうか。新聞や雑誌は報道した内容が活字として残されているが、テレビやラジオが伝えた内容を正確に検証するには、各放送局の協力が不可欠である、ぜひ検討してほしいと思う。
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by monsieurk | 2012-01-15 14:29 | メディア | Trackback | Comments(6)

「ブリューゲルの動く絵」

 ポーランドの映画作家レフ・マイェフスキ(Lech Majewski)の『ブリューゲルの動く絵』(原題はThe Mill and the Cross 「風車と十字架」)を川崎アート・センターで観た。近くには今村昌平監督が設立した日本映画大学もある。
 映画はピーテル・ブリューゲル(1526/30-1569)の名作《十字架を担うキリスト》(1564年制作)にこめられた意味の解明を目指している。ブリューゲルの原画(124×170cm)は、他の大作ととともにウィーンの美術史美術館の「レンブラントの間」に飾られていて、最初に観たときに圧倒された思い出がある。
 マイェフスキがこの映画の製作を思い立ったのは、アメリカの美術評論家マイケル・フランシス・ギブソン(Michael Francis Gibson)から、ブリューゲルの絵を論じた本“The Mill and the Cross:Peter Bruegel’s “Way to Calvary””(Acatos、2000)を贈られたのがきっかけだった。二人はブリューゲルの《十字架を担うキリスト》を映画にすることに決め、共同で脚本をつくったのである。
 彼らはブリューゲルの絵が描かれた時代のフランドル地方の風景と生活を再現するために大胆な手法を考えついた。絵の中にブリューゲル本人を投げ入れ、そこで繰り広げられている光景を描かせるという方法である。このアイディアには根拠があって、従来から絵の前景右端に立つ、白衣を着て帽子を被り、眼前に展開する光景に眼をこらす男は画家本人ではないかと言われてきた。映画にはレンブラントとともに、彼の良き理解者で、この絵の注文主でもあるニクラース・ヨンゲリンクも登場する。
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 フランドル地方の都市アントウェルペンの郊外、そびえたつ岩山のふもとの村の夜が明ける。巨大な岩山の頂に建つ風車小屋の帆が風を受けてゆっくりと回りはじめる。画家のブリューゲル(ルトガー・ハウアーが演じている)はスケッチ帳を手に、まだ眠っている家族を残して家を出る。村では素朴な生活がいつも通りにはじまった。
 村の若い夫婦は朝食をすますと、飼っている子牛を曳いて家を出る。村の外に広がる草原には、パン屋などがはやくも露店を開いている。若者夫婦もそこに子牛を連れてきたのだ。突然そこに、赤い服を着た騎馬兵士の一団があらわれ、若い夫を追いかけ、鞭で打ちのめすと、動かなくなった男を車輪に括りつけて木の上に晒し、車輪刑にしてしまう。
 兵士たちは当時フランドルを占領していたスペインの王フェリペ2世の外国人傭兵で、若者は宗教的異端者として嫌疑をかけられたのである。若妻はなすすべもなく泣き崩れるが、村人の多くは無関心を装うばかりである。
 ブリューゲルの絵では、画面右端に一本の木が見え、その頂に車輪が一つはめられ、そこに一羽の鴉がとまり、車輪の箭には布切れがぶらさがっている。これは当時行われていた車輪刑の装置で、空中高く晒された瀕死の男は、鳥たちが啄むのに任されたのである。絵をよく見ると、遠くにも同じように車輪をのせた木が立っている。
 ブリューゲルの絵には100人をこす人物が描かれているが、映画ではその中の十数人にスポットを当てて、彼らの当時の生活の様子を再現してみせる。16世紀、17世紀フランドル絵画を愛する者にとっては堪らない魅力である。
 マイェフスキ監督は《十字架を担うキリスト》のほかにも、ブリューゲルの絵を参考にして、当時の服装や生活の情景を忠実に映像化した。農民たちの歌や踊り、子どもの遊びなどは、《子どもの遊戯》(1560年)、《婚礼の踊り》(1566年)、《農民の踊り》(1567または1568年)に描かれた情景から取られた。
 ブリューゲルが生きた時代のフランドルはスペインに占領されて、過酷な宗教弾圧を受けていた。これに対して北部7州が反乱を起こした。独立と宗教改革を主張するカルヴァン派の人たちは、各地で聖堂を襲って聖像を破壊した。スペインのフェリペ二世はこれを弾圧するために軍隊を派遣、それをきっかけにいわゆる「ネーデルランド独立戦争」が起こった。時系列でいえば、国王による大規模な軍隊の派遣は、この絵が描かれた3年後の1567年だが、ブリューゲルはいち早くこうした事態を予感して、占領下にある故郷フランドル(ネーデルランドの一部)を舞台に、聖書に語られるイエス受難を描いたのである。
 イエスが悔い改めの必要を説いたカナンの地は、ローマ帝国の提督ピラトの支配下にあり、イエスはユダヤ教の長老や律法学者の手でピラトに引き渡され、十字架の刑に処せられた。
 ブリューゲルの絵には中央に、兵士に囲まれながら十字架を担いで運ぶイエスの姿が小さく描かれ、画面前景左では、丁度通りかかったキレネ人のシモンが、疲れ果てたイエスの代わりに十字架を担ぐように、兵士に無理やり連れ出されようとしている。そしてそれを阻もうとして抵抗する彼の妻。ただ彼らの姿は聖書で語られるエピソードというよりも、日常茶飯の夫婦喧嘩のように見える。
 ブリューゲルは聖書が伝える出来事を16世紀フランドルの日常的世界と重ねつつ描いたが、映画でも、イエスと同様に改革を説くマリアの息子は逮捕され、二人の盗賊とともに処刑される顛末が語られる。映画の中でマリアが、「息子の話に熱心に耳を傾けた人びとが、掌を返すように処刑を望んだ」と嘆くシーンがあるが、ブリューゲルの絵でも前景右手に大きく描かれている悲しみの聖母マリアの一団(彼女たちだけが人びとに背を向けている)を例外として、描かれている群集――市場へ行く途中の農民や、旅人、野原で遊ぶ子どもたちは、いままさに行われようとしているイエスの処刑には無関心であり、それを面白がってさえいる。
 画面右手上方には、やがてイエスが磔にされる丘に人びとが集まり、人垣が幾重にも出来ているのが遠望される。彼らはキリスト教最大の悲劇を目の前にしながら、それが自分たちにとって何を意味するかを理解せず、三人の処刑が行われることに興奮している。この日も、処刑の興奮がさめれば他の多くの日々と同じように忘れられていくのであろう。
 マイェフスキとギブソンが絵に読み取ったメッセージは、私たちの多くは世界を揺るがすような出来事に直面しても、それが自分に実害が及ばないかぎり無関心を装って日常生活に埋没してしまうという、ブリューゲルの人間観であった。映画を観おわった私たちは、ブリューゲルがこの大作にこめた思いを十分に感じ取ることが出来る。この映画は絵画解釈の新しい提示のこころみとなっている。
 マイェフスキは、最初この絵を忠実に映画に再現するには、ポーランドのクラクフで見つけた、絵によく似た岩山の麓で衣装を着た数百の人びとを配置すればよいと考えたという。ところが実際にテスト撮影をしてみると、出来上がった映像はブリューゲルの絵とはほど遠いものだった。広大な風景のなかに散らばった数百人の人びとを、遠くの人まではっきりと捉えるには、自然光のもとでの撮影では不可能だった。
 ブリューゲル《十字架を担うキリスト》を調べてみると、この絵は7つの異なる視点から構成されており、カメラ一点だけの視点ではそれを再現するのは不可能だったのである。そこでマイェフスキはロケーションで撮影した風景や背景画と、クロマキーで撮影した俳優の演技を最新の合成技術で合体させて完成させたという。
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by monsieurk | 2012-01-10 21:48 | 映画 | Trackback | Comments(0)

反戦小説としての『肉体の悪魔』

 珍しい本を入手した。レイモン・ラディゲ(Raymond Radiguet)著『肉體の悪魔(Le Diable au corps)』、訳者・波達夫、発行所はアルス。昭和5年5月8日印刷、発行日は同年5月10日。発行者の北原鉄雄は詩人北原白秋の弟である。そして訳者の波達夫は、・・・・タネ明かしをする前に、彼が書いた序文の後半部分を紹介すると、――
 「『肉体の悪魔』は、大戦の間の出来事を描いたものである。さきにもいったように、作者レイモン・ラディゲは、〔この時期〕十一歳から十七、八歳にすぎない。今日の仏蘭西文壇の新進、エマニュエル・ベルルよりも、さらにあとのジェネラションに属しているのだ。彼らは多く、相当の年輩で戦争を見た。だが、ラディゲはまだ少年だった。しかし、このことなくして、どうしてこの天真爛漫たる非戦気分が出せようか?
 この年頃こそ、人間が伸びる時代である。感ずる時代なのである。あらゆるものの形が歪められることなく、心に映ずるときなのだ。――まさにラディゲは、この魂をもって、戦争を、女を、恋を、食糧を、学校を見たのである。
 『肉体の悪魔』が、機関銃を速射していないといって、食糧政策を論じていないといって、帝国主義を云々していないといって、参謀本部と塹壕を暴露していないといって、――だれがこれらの理由をもって、この小説を戦争と縁なきものというのか?
 なるほど、僕たちは、多くの戦争文学を見て来た。それにはそれだけの価値があった。しかし、戦争の真実の問題は、何百万何千万の家族たちのいる内地においてこそいはるべきではないか。ここにおいて、はじめてあらゆる影響と将来とを考えなければならないのではないか。(中略)
 訳者のわずかな自負は、この訳書が、すでに六年前からのラディゲへの深い関心と、二十世紀の子であるラディゲと同じ息を吸ってきたものの手によって、生まれたことである。(一九三〇年五月一日)」
 ラディゲと同じ空気を吸ったという訳者、つまり第一次大戦の間、パリで生活をしていた者とは小牧近江である。彼については2011年10月28日のブログ「ハノイ再訪」でも触れたが、本名を近江谷駉(おおみや・こまき)といい、明治27年(1895年)5月11日に秋田の土崎で生まれた。代議士でフランス贔屓の父栄次の影響で、東京の暁星学園へ進学した。
 明治43年、15歳のときに、ブリュッセルで開かれた万国議員会議に出席する父に連れられてヨーロッパに渡り、パリの名門校アンリ四世校に寄宿生として入学した。
 父の帰国後もフランスに残ったが、父親はやがて事業に失敗し送金も途絶えて放校されてしまう。その後はフランス人が経営する商会や日本大使館で働きながら学資を稼いでパリ大学法学部を卒業した。こうして小牧は第一次大戦にパリで遭遇することになった。こうした経緯は、『異国の戦争』(日本評論社、1930年)や『ある現代史』(法政大学出版、1965年)で詳しく語られている。
 一方、レイモン・ラディゲはパリに近いサン=モール=デ=フォセで、1903年6月に生まれているから、小牧より8歳年下である。高等中学時代勉強はできたが、よく学校をさぼってはマルヌ川に父親のボートを浮かべて文学書に読みふけったという。
 15歳のときに書いた詩がジャン・コクトーに認められ、前衛的な文学運動に加わった。彼の処女作である『肉体の悪魔』が、コクトーの後押しで新興の出版社「グラッセ」から出版されたのは1923年のことである。
 「僕は多くの非難を受けるだろう。でも、だからといって、どうしたらいいのだ? 戦争のはじまる数カ月前に12歳になったのは、僕のせいなのか。・・・あとになってこの時期を振り返るとき、年長者とはまったく違う思い出を抱くはずだ。僕のしたことを責める人がいるなら、その前に、多くの少年に戦争がいかに影響を及ぼしたか、それを考えてほしい。戦争は4年間の長いヴァカンスだったのだ。」(筆者訳)
 『肉体の悪魔』は、夫が戦場に行っている20歳の人妻と、17歳の「僕」との道ならぬ愛の物語である。僕が婚約者のいるマルトと最初に出会ったのは、お互いの父親が知り合いの家族同士で散歩を共にしたときだった。やがてマルトは出征中のジャックと結婚し、彼は結婚休暇が明けるとまた前線へもどって行った。
 ある日、進学したアンリ四世校(小牧が入学したのと同じ学校である)からの帰り道、「僕」はマルトと再会し、二人の交際がはじまる。「僕」はある雨の夜、びしょ濡れになってマルトの家を訪ねると、マルトは手伝って服をぬがせ、オーデコロンで身体をさすり、洋服ダンスからパジャマを放ってよこした。それはジャックのものだった。
 「愛の前で忍耐力は長くは続かなかった。僕の想像力は考えつかないような快楽を期待していた。それにこの時になってはじめて、僕も彼女の夫と同じようにマルトに不快な印象を与えはしないかと不安になった。
 ところが実際は、彼女の方がずっと満たされていた。絡み合ったふたつの身体が離れた瞬間のマルトのうっとりとした瞳は、僕の不安を拭い去ってくれた。
 マルトの顔つきがすっかり変わっていた。宗教画で見るような光背が顔のまわりを包んでいた。その光に触れら手ないことが不思議なほどだった。」(筆者訳)
 二人は愛を重ねるが、やがて二人の関係は「僕」の父親や周囲の人たちにも知られることになり、スキャンダルを恐れる父親から外出を禁止される。しばらくして「僕」はマルトが妊娠しており、しかも重い病気であることを知らされる。
 フランス中で鐘が打ち鳴らされる日がきた。それは休戦を知らせる鐘の音で、「僕」にとってはジャックの帰還を意味した。しばらくしてマルトの母親から「僕」の許に手紙が届いた。マルトが赤ん坊を生んだが、産褥のために亡くなったという知らせだった。
 マルトの死から数カ月後、彼女が描いた水彩画を「僕」の父が持っているという話を聞いたジャックが家を訪ねてきた。「僕」は彼らが話している部屋の扉に近づいて、会話に耳をすませた。そのときジャックが、「妻は子どもの名前を呼び続けながら息を引き取りました。かわいそうに! 私にしてみれば、あの子がいるからこそ、生きている甲斐もあるというものです」(筆者訳)というのが聞こえた。「僕は世の物ごとは結局うまく収まるものだと思った。というのも、マルトが僕の名を呼びながら死んだことも、また子どもが幸福に成長して行かれることも分かったからだ。」(筆者訳)
 小説が発表されると、20歳という作者の年齢や、第一次大戦後の社会道徳を逆なでするような内容から、一大センセーションを巻き起こした。
 戦時下をパリで過した小牧近江は、1919年1月からパリ講和会議が開かれると、在仏日本大使館の現地雇員として代表団に参加し、松岡洋右が率いる新聞係の一員として活躍した。講和会議は1919年6月30日をもって終わり、小牧は10月のある金曜日に、旧友のスヴェリーヌの尽力で、新聞「ポピュレール」社の3階にあった「クラルテ」社を訪れて、作家アンリ・バルビュスに面会した。
 戦後、反戦主義にもとづく文化運動「クラルテ」を主導していたバルビュスは、平和思想の国際化の必要を力説し、労働者には労働者の、農民には農民の、兵士には兵士の任務があるように、思想の鉾もまた世界的に結束されねばならないと説いたという。
 この年の暮れに10年ぶりで帰国した小牧は、バルビュスから託された反戦運動を日本でも広めるために、旧友たちと語らって故郷の土崎で雑誌を創刊した。これがプロレタリア運動の魁となった雑誌「種蒔く人」である(これに関しては天雲成津子「雑誌『種蒔く人』にみる情報・思想の拡がり」「情報化社会研究」第8巻、2008年11月を参照のこと)。
 小牧が『肉体の悪魔』の翻訳を思い立ったのは、「クラルテ」運動の機関誌に文芸評論を書いていたマルセル・フーリエの勧めによるものだった。小牧は一読して全篇にみなぎる反戦色に感銘を受け、友人の土井逸雄を誘ってこれを翻訳した。
 問題は筆名だった。「種蒔く人」の出版以来、小牧の身辺には監視の目が光っていた。本名で出版することは危険であった。彼ら二人は小牧が住む鎌倉稲村ヶ崎の海岸を歩きながら相談しているうちに、目の前に荒波が立ち騒ぐ光景から「波達雄」というペンネームにすることを考えついた。
 こうして翻訳は理解のあるアルス社から出版されたが、案の定、荒波が立ってたちまち発禁処分となった。この本が稀覯本となっているのはそのためである。このときの翻訳に手を入れた再版が三笠書房から出版されたのは第二次大戦後の昭和27年(1952)である。それより前の1947年には、クロード・オータン=ララ監督、ミシュリーヌ・プレール、ジェラール・フィリップ主演の映画が製作され、日本でも上映されて多くの観客を集めた。
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by monsieurk | 2012-01-05 23:25 | | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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