ムッシュKの日々の便り

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作家と万年筆

 横浜の「港の見える丘」にある県立神奈川近代文学館で、「作家と万年筆展」を観てきた。パーソナル・コンピュータやワープロで原稿を書く人が増えているなか、いまでも万年筆で原稿を書いている作家も結構いることを知った。
 展覧会では井伏鱒二、堀田善衛などが愛用した万年筆と、それで書かれた原稿が展示されている。現役作家では、『佃島ふたり書房』で直木賞を受賞した出久根達郎は「パーカー」を愛用しているという。展示されていた原稿は「猫の似づら絵師 鼠の猫じゃらし」で、これを執筆するのに、「パーカー・デュオフォールド・インターナショナルオレンジ(18金 Bニブ カートリッジ・コンバーター両用式 1990年代 アメリカ)」を用いたと展示資料にはある。さらに、使用した万年筆は天冠が欠け、2本のキャップリングも金飾が剥げ落ち、ペン先のイリジウムも半分以上に減っていることから、彼がこの一本を愛用したことが分かるとしている。
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 ドイツ製の「モンブラン」を愛用する人は多いが、流行作家の伊集院静もその一人で、「モンブラン・マスターシュテュック149」で原稿を書いたようである。この型のモンブランは斜体の文字を書くために開発されたもので、手首をひねって書くと、横は太く縦は細い文字が綴れる。伊集院はこれを使って太く流れるような書体で書いている。
 百科事典によれば、羽ペンが使われていた時代(前稿のラスネールはもちろん羽ペンを用いた)、1809年にイギリス人のフレデリック・バーソロミュー・フォルシュが特許をとったのが万年筆の最初とされる。
 その後1832年に、パーカーがテコの原理を応用して、自動インクの吸い取り機構を開発し、さらにアメリカの保険外交員ルイス・エドソン・ウォーターマンが、書類をインクの染みで汚して契約を逃がしたのをきっかけに、毛細管現象を応用したペン芯を発明し現在の万年筆のもとを築いた。彼らはそれぞれ世界を代表する万年筆メーカーの名前となっている。
 夏目漱石の『坊ちゃん』の生原稿が写真版で復刻されたのは(『直筆で読む「坊ちゃん」』集英社新書)、『坊ちゃん』の単行本が刊行されて100周年にあたる、2007年のことだった。書店に並んだ当時すぐ購入して読んだが、漱石の奔放な漢字遣いや松山弁の部分を高浜虚子が手を入れていることが分るなど興味は尽きなかった。
d0238372_1550884.jpg 漱石が愛用した「オノト」(イギリスのデ・ラー・ルー社製)も展示されていたが、残されているのはペン軸だけで、ペン先などはない。「オノト」は明治40年(1908年)から丸善が輸入して、多くの文人たちが愛用した。ちなみに漱石の「オノト」は1912年に内田魯庵から贈られ、その後愛用したもので、神奈川近代文学館が所蔵しているものだという。
 漱石は『坊ちゃん』を3週間で書きあげたとされるが、創作の際の試行錯誤の跡をとどめる原稿が存在すれば、それを手がかりに、どのような過程を経て一つの作品が生まれてくるかを解き明かすことができる。これは「生成論」と呼ばれる文学研究の重要な分野だが、パソコンが普及した現在、執筆者の多くがパソコンで原稿を書き、それを電子データとして出版社のコンピュータへ直接送るのが普通である。この場合「生成論」は手がかりを失ってしまう。これからの文学研究はどうなるのか、そんなことを考えさせられる展覧会だった。なお、テクストの電子化の影響については、近く刊行予定の『情報化社会・メディア研究』第8号(情報化社会研究会編)で論ずる予定である。
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by monsieurk | 2012-02-25 15:56 | | Trackback | Comments(3)

ピエール=フランソワ・ラスネール

 「魅惑のモンマルトル」(2月12日ブログ)で書いたように、パリの盛り場はオスマン男爵の大改造のあとは、モンマルトルやモンパルナスの大通り(Boulevard)沿いに移ったが、それ以前はパリの中心部3区から4区を通る、俗に「犯罪大通り」と呼ばれた「タンプル大通り」(Boulevard du Temple)だった。
 『思い出しておくれ、楽しかった日々を 評伝ジャック・プレヴェール』(左右社、2011)では、ジャック・プレヴェールが脚本を書いた映画『天井桟敷の人びと』(1944年)に多くのページを割いた。映画は4人の主な登場人物たちの間で展開するが、そのうちの男性3人、パントマイム役者ジャン=バティスト・ドビュロー(演じたのはジャン=ルイ・バロー)、悲劇役者のフレデリック・ルメートル(ピエール・ブラッスール)、殺人者ピエール=フランソワ・ラスネール(マルセル・エラン)は、それぞれ実在した人物で、ジャン=バティストが恋する美女ガランス(アルレッティ)だけが架空の人物である。
 映画の幕開けの舞台は19世紀初めの「タンプル大通り」で、ここには大小の芝居小屋が並んでいる。
 派手な呼び込みが行われているフュナンビュル座の前に、ガランスとラスネールがやってきて、群がっている野次馬に加わる。呼び込みが行われている小さな舞台の片隅の酒樽に、静かに腰かけているピエロのバティストの目がガランスにじっと注がれる。
 ガランスの隣にでっぷり太った商人風の男が立っている。彼を挟むようにシルク・ハットをかぶったラスネールが立ち、男の金の懐中時計をねらっている。芝居がはじまり、バティストを残して役者たちは小屋に引っ込み、野次馬も散りはじめる。すると商人風の男が懐中時計がないと騒ぎ出し、隣にいたガランスの腕を捉えて、「泥棒だ」と叫ぶ。駆けつけた警官がガランスを連行しようとしたとき、ピエロのバティストが、「ぼくが・・・ぼくが証人だ!」と叫ぶ。
 警官「きみは何を見たのかね?」
 バティスト「何もかも!」
 バティストは樽から降りて、パントマイムを演じはじめる。
 ガランスと腹の突き出た中年男とラスネールの三人を一人芝居で演じながら、時計を盗んだのはガランスではなくラスネールであり、彼はもう逃げ去ってしまったことを、手振り身振りで見事に伝え、野次馬たちの拍手喝采を浴びる。
 濡れ衣の晴れたガランスは野次馬たちと一緒に去りながら、舞台の下からにっこり笑って、胸に挿した一輪のバラをバティストに投げる。バティストはハッとしながら、それを受け取る。彼も小屋掛けで彼女を見て以来、その魅力のとりこになっていたのだ。
 次の場面は「犯罪大通り」の一角、「代書人」と書かれた看板のさがる店である。白い飾りシャツを着て、口ひげと巻き毛の紳士然としたラスネールが客を前に手紙の代書をしている。だが代書業は表向きの職業で、彼は人殺しも辞さない男なのだ。
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 ラスネールの店にガランスが入ってくる。客の入りがさっぱりで、半裸をさらす見世物小屋を首になった彼女は、ラスネールの正体を知りながら退屈しのぎにつき合っているのだ。
 大通りの人ごみを窓越しに眺めているラスネールがいう。

 ラスネール「世間の奴らは、醜すぎる!(ため息をついて) 片端からなぶり殺しにしてやりたいくらいだ」
 ガランス「相変わらず残酷なのね、ピエール=フランソワ」
 ラスネール「俺は残酷じゃない、筋を通しているだけだ。生まれてこのかた、ずっと社会に宣戦布告をしてきた俺だ・・・」
 ガランス「(笑いながら彼をさえぎり)近ごろは大勢殺したの、ピエール=フランソワ!」
 ラスネール「(落ち着きはらって、両の手のひらを開いて見ながら)とんでもない。ほら、血の痕などひとつもない。インクの痕が少々あるだけだ。しかし、どえらい計画があるにはある・・・」

 やがて物語の舞台回し役である、古着を商う「ラッパのジェリコ」や、バティストを慕うフュナンビュル座の座長の娘ナタリー、盲人の乞食「絹糸」(じつは目が見える)などが登場して、「犯罪大通り」で繰り広げられる人間模様が次第に織り上げられていく。

 プレヴェールの評伝を書きあげたあとで、ラスネールの『回想録』(Pierre-François Lacenaire: 《Mémoires》(José Corti,1992)を手に入れた。プレヴェールが映画のモデルにしたピエール=フランソワ・ラスネールは、1800年12月にリヨンで生まれ、少年のころから窃盗などの犯罪を重ね、父親に「お前の行く末はギロチン台だ」といわれた人物だった。
 彼は少年の時からよく本を読み、文才にも恵まれていた。早くから詩人になることを望んだが、夢は実現せず、生活のために酒の販売人になった。その後は軍隊に2度入ったが、2度とも脱走し、やがては犯罪に手を染めるようになる。
 字がきれいなことから代書屋を表看板にしつつ刑務所入りを繰り返し、最後は金を奪うために老婦人とその息子を殺害して逮捕され、共犯の2人とともにパリ重罪裁判所で裁かれることになった。『回想録』はこの殺人事件の裁判の間に、獄中で執筆されたものである。このときラスネールは32歳で、パリ重罪裁判所での裁判は1835年11月12日にはじまった。
 共犯の2人は犯行を否認、だがラスネールは最初から罪を全面的に認めて、事件の詳細をまるで役者が劇場で演じるように滔々と語った。こうした彼の態度が評判を呼び、法廷は連日大勢の傍聴人でいっぱいになった。さらに彼が収監されているコンシエルジュリ監獄に帰れば、そこには新聞記者や作家、はてはサロンを開く女性たちが会いにやってきた。新聞や雑誌は、ラスネールが獄中でものした詩やシャンソンを競って掲載し、彼は一躍時の人となり、幼い時からの夢だった、自分の書いたものが世間の注目を浴びることになったのである。
 裁判は3日後の11月15日午前2時に結審した。当然ながら、陪審員が出した評決は有罪だった。ラスネールは上告した。死刑は甘受するつもりだったが、まだやるべきことがあった。それは『回想録』を完成することである。刑は覆ることはないが、上告すれば半月ほど命をながらえることができる。ラスネールはその時間を、『回想録』の執筆と詩作に費やそうとしたのだった。『回想録』の最後は、こう結ばれている。

 「1836年1月8日、コンシエルジュリにて、夜10時。
 ビセートル〔監獄〕への移送のために迎えがやってきた。おそらく明日、私の首が落ちるだろう。残念ながらこの『回想録』を中断せざるをえない。原稿は出版社に委ねることにする。不十分なところは裁判記録が補ってくれるだろう。――私を愛してくれた人たち、そして私を呪う人たちに、さよならを言おう。私を呪うのも理由があることだ。そしてページごとに血の滴る『回想録』を読む貴方、私の血で赤くなった鉄の三角形〔ギロチンの刃〕を、死刑執行人がぬぐったあとにしかこの『回想録』を読むことができない貴方、ほんの少しでもいいから、貴方の思い出の中に、私のための場所を確保して欲しい。・・・さらば」

 翌9日早朝、ラスネールは共犯の一人とともに、パリの南の外れのサン・ジャック門の近くの処刑場で、父がかつて予言したとおりギロチンで首を落とされた。早朝にもかかわらず、500ほどの見物人が詰めかけていた。
 『回想録』はラスネールの死の4カ月後に出版されたが、検閲の結果、ラスネールを英雄視するような箇所は当局の手で徹底的に改竄された。
 プレヴェールは『天井桟敷』では、ラスネールの姿を借りて、「犯罪大通り」に渦巻く悪を含めた人間模様を織り上げた。ただし、映画のラスネールが、女主人公ガランスのパトロンとなった伯爵を殺害し、敢然と逮捕を待つ場面は創作で、実在したラスネールの最後は上記のとおりである。
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by monsieurk | 2012-02-20 20:17 | 映画 | Trackback | Comments(0)

ホアビン・ゾイ(平和が来た)~北ヴェトナム取材報告~

 私たちNHK取材班が北ヴェトナムに入国を果たした1973年1月中旬、ニュースの焦点はヴェトナム停戦が成立するかどうかに集まっていた。はたして北ヴェトナム側はどう考えているのか。この点に関しては、ハノイ到着の翌日表敬訪問した際に、対外文化連絡委員会のブ・クォック・ウィ委員長代理がふともらした一言が暗示的であった。「皆さんは本当によい時期においでになった・・・あなた方は、将来きっとよい回想録が書けますよ」。たしかに彼はそう語ったのである。
 これに次ぐル・クイ・キ、ジャーナリスト会議議長のブリーフィング、外務省情報文化局長ゴ・ディエン氏との単独会見などへの取材を通して、私たちは和平協定調印間違いなしとの確信を得たのだった。
 前年11月20日、アメリカのCBSテレビが、アメリカのキッシンジャーと北ヴェトナムのレ・ドク・ト代表との間で、第1回の秘密会談が行われたことをスクープした。会談場所はパリの郊外およそ20キロのジフ・イヴェットという小さな町にある、画家フェルナン・レジェの持家で、フランス共産党が会合などに使っている長屋風の家だった。このときから両国は停戦にむけて秘密裏に話し合いを重ねていたのだった。
 現地時間の1月26日の夜、私たちは2日間のハイフォンでの取材を終えてハノイにもどって来た。3日間の予定を1日早く切り上げて帰ってきたのである。ハイフォンをはじめ、地方でも取材したいものは沢山あった。しかし、ハノイを留守にすることが不安だった。何かがある。私たちの誰もがそう感じていた。それだから真っ暗な夜道を車をとばして帰ってきたのである。
 ハノイの宿舎に指定されていたホテル・トンニャットの回転ドアを押して入ると、一種異様な雰囲気がただよっていた。ハノイに駐在する電波ニュース(この度の取材では電波ニュースのカメラマンに協力してもらっていた)の石山支局長がとんできて、パリで停戦の仮調印が行われたらしいという。私たちはただちに取材に同行している対外文化連絡委員会のグエン・クイ・クイさんに確認を頼んだ。
 クイさんはロビーの脇にある電話室へ入っていった。対外文化連絡委員会や外務省に問い合わせてくれているのだろう。待ちどおしい時間だった。やがて出てきたクイさんは、固い表情でこう言った。
 「北ヴェトナム政府はいまのところ何の発表もしていません。したがって皆さんにお伝えすることは何もありません。ただ、外国の取材班のみなさんは、明日の朝6時にホテルの前に集合してください。それから空港へ取材にまいります。」
 仮調印はあったのか、空港では何を撮影できるのか、いくら尋ねても、「それは分かりません」の一点ばりである。普段は柔和で、よく冗談をとばすクイさんも、こうなったら梃でも動かない。確認の電報を日本に打つことも婉曲に断られる始末である。明日を待つほかなかった。
 翌1月24日午前6時。たちこめる濃い朝霧のなかで、外務省の前には20台ほどの自動車が集まっていた。報道陣や外国の友好団体の代表が乗りつけた車である。
 やがて、外務省の役人が乗った先導車が動き出す。われがちにその後へ車が続く。しかし。連れて行かれたのは空港ではなく、外務省であった。
 7時40分、外務省の赤い絨毯を敷きつめた大広間では、和平協定調印のためにパリへ出発するグエン・ズイ・チン外相の壮行会が開かれていた。普段の精悍な顔をほころばすファン・バン・ドン首相。重厚なレ・ジュアン党第一書記。死亡説までささやかれていたボー・グエン・ザップ国防相、赤いナポレオンとひそかに綽名されるこの稀代の戦略家が、部屋の片隅で南ヴェトナム臨時革命政府のグエン・バン・ティエン代表と抱きあっている。
 私たちは夢中でカメラをまわした。歴史的な瞬間だった。報道陣がどっと要人たちを取り囲む。あちこちで乾杯の杯があがる。このとき、杯を片手に近づいて来たファン・バン・ドン首相は私の耳もとで、“Tout est bien qui finit bien.(終わりよければすべてよし)”とささやいた。
 午前10時。ハノイの街角はどこも人波で埋まっていた。有線放送の拡声器を中心に幾重もの人の輪ができている。市内電車もとまり、乗客はみな顔を出して耳をかたむける。建物のバルコニーはどこも鈴なりである。白い顎ひげの要人、緑のヘルメットをかぶった兵士、すげ笠姿の若い女性。やがて北ヴェトナム放送が臨時ニュースで、和平協定の仮調印成立を伝えはじめた。
 「レ・ドク・ト特別顧問とアメリカのキッシンジャー博士は、昨日パリにおいて和平協定の調印に・・・」
 女性アナウンサーが事実を淡々と伝えていく。
 「ヴェトナム民主共和国とアメリカ両国は、この協定がヴェトナムおよび東南アジア、さらに広くアジア全体の和平に貢献するものと信じている。・・・」
 赤ん坊を高々とさしあげる若い夫婦、友だちと抱きあって喜ぶ若い女性、うっすらと涙のにじんだ目で拡声器を見つめている青年。この瞬間、四半世紀にわたる戦いに、事実上、終止符が打たれたのである。一人の子どもが低い声で、「ホアビン・ゾイ(平和が来た)」とつぶやいた。藤井カメラマンがまわすアリフレックスの音にまじって、その声は私の耳にはっきりと聞こえた。

 ハノイでは毎朝6時には目がさめる。街角ごとに設けられた有線放送の拡声器が鳴りだし、職場へ急ぐ人びとの自転車をこぐ音が部屋まではいのぼって来る。事務所や工場は6時半には仕事をはじめる。デパートもこの時間には開店する。おそらくハノイは世界で一番早起きの都会だろう。私たちも早い朝食をすませると、8時には取材をはじめる毎日だった。
 今度の取材に当たっては、撮影は電波ニュースの協力を得ることが条件となっていた。チーフに藤井カメラマン、日映にいたこともあるベテランである。私たちとともにハノイ入りした石垣氏がセカンドカメラマン。彼はラオスの解放区に入った経験がある。北ヴェトナム側も三人のスタッフを用意しておいてくれた。責任者のクイさん、対外文化連絡委員会の幹部で、独学とは思えないほど日本語が達者である。工作者のルオンさんはディエンビエンフーの戦闘に参加した歴戦の勇士。取材のアレンジを彼が担当する。そして通訳のチューさん。
 なにしろNHKにとっては19年ぶりの北ヴェトナム取材である。取材したいものは山ほどあった。最初の打ち合わせ会議で、こちらの希望は伝えてあった。だが、戦時下の北ヴェトナムでは取材制限も多い。またテレビのついては未経験のこの国の人びとに、私たちの意図がどれほど理解されるだろうかという不安もあった。
 ハノイを訪れた外国人の多くは、トンニャット・ホテルの一部屋を割り当てられる。フランス植民地時代の建築で、かつてメトロポールと呼ばれたこのホテルが、いまもハノイでは最高のホテルである。寝台から洗面所の部品にいたるまですべてが当時のままである。そのトンニャット・ホテルに、ある日取材を終えて戻ると、それまで見かけたことがなかったロシア人が10人ほど来ていた。男はみなパイロットの制服を着ており、みごとな身体つきの女性たちはスチュワーデスに違いなかった。
 ソビエトは何かの目的で特別便を用意したのである。調印のために北ヴェトナムの要人をパリへ運ぶのだろうか。私たちは色めきたった。
 だが、取材の結果明らかになったのは、アエロフロートの特別機に乗るのは要人ではなく、桃の花だという。ヴェトナムでは2月3日の旧正月、テトを桃の花を飾って祝う。だが、桃の花は暑い南ヴェトナムでは栽培できない。そのため毎年旧正月間近になると、北から南へ桃の花が空輸されるのだという。しかもこの「桃の特別便」は、どんなに戦火が激しかった年でも中止されたことはなかったという。私たちはここに同じ民族同士が戦うことの一面を垣間見た気がした。

 それにしても、なぜアメリカは敗北したのか。ある北ヴェトナムのジャーナリストは、この戦争をヘビー級とフライ級の戦いにたとえた。そのヘビー級がなぜフライ級に負けたのか。理由の一つは、アメリカが高度に発達した工業社会であり、ヴェトナムが典型的な農村社会だったことである。アメリカ政府のさる高官がハノイを石器時代に戻してやると本気で語ったことがある。しかし、ハノイは現に生き残ったのである。
 ヴェトナム戦争を通じてアメリカが投下した爆弾は、第二次世界大戦のおよそ三倍、去年の暮〔1972年〕の暮だけでも、広島型原爆の二倍に相当する爆撃が行われたという。これが日本のような都市型社会ならば、経済活動は停止し、戦争遂行能力はたちまち低下したに違いない。事実、ペンタゴンのコンピュータの計算では、そうなるはずだった。しかし、ヴェトナムはコンピュータとは無縁の国であった。なにしろ人口120万のハノイ全市にエレベーターは2基しかなく、しかもそのうち1基は現在このとき故障しているという。それでも人びとは何の不自由も感じずに生活できる国なのである。
 北ヴェトナムの経済の基礎は広大な田園にあり、人口の大部分はそこでそ生活している。さらにハノイに住む人も、必ず田舎に親類を持っている。あれだけの短期間に人口の分散を可能にした裏には、農村社会の結束の固さがあった。アメリカは最後までこの農村社会の思考形式と生活のリズムを理解することができなかった。
 ニクソン大統領が、「世界の無法者」ときめつけ、キッシンジャー大統領補佐官が、「まれに見る勇気ある人びと」と持ち上げた北ヴェトナムの人びと。だが、戦いをおし進めたのは、そうした画一的でいわば「顔のない」2千万の集団ではなく、血も涙もある一人一人の人間だったのだ。

 グエン・バン・ミンは兵士になる前は学校の教師だった。彼は去年〔1972年〕の7月10日に、ハノイにいる女友だちのホアに宛てて手紙を書いた。だが、この手紙は投函されることはなく、彼の遺体とともに南ヴェトナムのサイゴンに近いビンズオンで見つかった。
 「愛するホア、そちらでは、いま甘いジャスミンの花が満開でしょう。夏休みで学校は休みに入ったことと思います。君も授業から解放され、同僚の数学教師、ハイ君と休暇を楽しんでいるのではありませんか。そう思うと僕の心は痛みます。彼はハンサムだし、よい男です。君たちはもう愛の言葉をささやき合ったかしら。ホア、憶えていますか、川のほとりの木陰でねころびながら話し合った時のことを。君の長い髪が僕の頬をやさしくなでた・・・。君は彼と結婚すべきなのです。
 敵は野蛮で、仲間の多くが殺されました。先週はB52の猛爆で部隊の半分が死にました。恐ろしさのために、ときどき変な考えにとりつかれることがあります。数千里を一挙にこえて、君のところへ飛んでいく夢です。以前、僕は人を殺すことがどんなことか分からなかった。僕はそれをこの目で見ました。僕は殺したくない。でも、それは兵士としての義務なのでしょう。そこに選択の余地はありません。・・・」
 遺体のなかから見つけられた手紙は、南ヴェトナム軍の手で、北ヴェトナムに送り返されてきたのである。
 グエン・バン・ミンと同じような悲劇は、北側にも南にも無数にあった。人びとの悲しみを飲みこんだヴェトナムの地に、はたして本当の平和は訪れるのだろうか。

 以上は、40年前にNHK報道局編「ヴェトナム和平」に掲載したものを再録したものである。北ヴェトナムとアメリカによる和平協定の本調印は、1973年1月27日(現地時間)、パリの凱旋門に近いクレベール通りの「国際会議センター」で行われた。これによってアメリカ軍のヴェトナムからの撤退は実現したが、その後南北ヴェトナム軍の間で戦闘が再開され、ヴェトナムに平和が訪れるのは、1975年4月30日に北ヴェトナム軍がサイゴンに突入して、やがて統一が実現するのを待たなければならなかった。
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by monsieurk | 2012-02-16 23:52 | 取材体験 | Trackback | Comments(0)

魅惑のモンマルトル

 1月28日のブログ「ヴァルヴァンの思い出II」では、マラルメとドーファンの交遊を取り上げ、その関連でモンマルトルにあったキャバレー「黒猫」のことを紹介した。その後、群馬県高崎市にある群馬県立近代美術館で、「陶酔のパリ・モンマルトル 1880-1910」と題した展覧会が開かれていることを知り、さっそく高崎まで出かけた。
 d0238372_19314034.jpg展覧会は「シャ・ノワール(黒猫)をめぐるキャバレー文化と芸術家たち」という副題の通り、話題にしたキャバレー「黒猫」を中心に、19世紀末から20世紀初頭にかけて展開された芸術活動を示すポスターや絵170点余りが展示されていた。
 展覧会を後援する駐日フランス大使館のフィリップ・フォール大使は、「メッセージ」でこう述べている。
 「モンマルトルのボヘミアンの象徴であった「シャ・ノワール」は「良き時代(ベル・エポック)の様々な芸術が行き交い、パリの名士たちが出会う場所でした。創始者であるロドルフ・サリスは、キャバレーをそれまでとは異なる場にする術を心得ており、そこでは、詩人や画家や音楽家が自由に語らい、かつてないほどの自由な創造性の中で、声を荒げながらも互いに影響しあいました。・・・「柄の良くない連中とつきあうために」やって来たパリのブルジョワ階級や、同時にサリスの取り巻きの若いアーティストたちとも交流したものです。」
 ロドルフ・サリスは、モンマルトルに開いたキャバレーに、なぜ「黒猫(シャ・ノワール Chat Noir)」という名前をつけたのか。これには二つの説がある。
 一つはサリスが店を開くため物件を物色中に、ロシュシュアール通り84番地の建物に足を踏み入れたとき、そこに一匹の黒猫がいたという説。もう一つは画家のエドゥアール・マネが、ジュール・シャンフルーリの『猫たち』のためのポスターとして描いた《猫のランデヴー》(1869年)からインスピレーションを受けたという説である。
 d0238372_19314367.jpgマネはこの作品で、パリを見下ろす屋根の上の白黒二匹の猫を描いている。マネは墨守派の官展(サロン)に抗して、絵画の世界に新風を吹き込んだ。サリスが新たにつくる「キャバレー」を、言論への検閲を強化しつつある第三共和政への抵抗の拠点にしようと考えて、マネに倣ったことは十分考えられる。
 サリスの場合、その抵抗の形は風刺やユーモアを武器にするものだった。「シャ・ノワール」には既成の美術界や文壇に批判的な画家、詩人、作家たちが集まったが、彼らの多くは、「アンコエラン」や「フュミスト」と呼ばれたグループだった。Incoherentsとは「支離滅裂」、Fumistesは「冗談好き」という意味である。
 彼らは「黒猫」の舞台で自作の詩や散文を朗読し、歌を歌い、影絵芝居を上演した。影絵芝居はアジアの伝統的な出し物で、影絵の人形を用いてストーリーを展開し、それに音楽や歌、劇的な色彩効果をつけて映画の前身のような出し物にした。影絵芝居は紫煙のなかの観衆だけでなく、画家のロートレックや、もっと若い世代のナビ派の画家たちが描くポスターに大きな影響をあたえた。そして「シャ・ノワール」から出される週刊新聞には、カリカチュアや風刺、ユーモアを売り物とする詩や文章が掲載されて多くの読者を得たのである。
 パリに最初のカフェがつくられたのは17世紀初頭で、6区のセーヌ通りに現存する「プロコープ」がそれである。アラビアからもたらされたコーヒーを飲ませて有名となり、多くの文人たちが集まった。そして19世紀初頭には、パリ左岸のカルチエ・ラタンにカフェが次々に開店し、詩人や画家のグループが集まる場所となった。
 1850年代、60年代のナポレオン三世の統治下、オスマン男爵が行ったパリ改造のあとは、芸人が出演するステージや、500人から1500人ほどの観衆が入るホールが設けられたカフェが出現した。これらは「カフェ・コンセール(Café Concert)」と呼ばれるもので、シャンゼリゼ大通り沿いに設けられた「アンバサドゥール(大使)」や「アルカザール(スペインの宮殿)」がそのはしりで、次いでパリのあちこちにつくられていった。
 手元にアドルフ・ジョアンヌ著『パリ案内』(アシェット社、1863年)があるが、その「カフェ・コンセール」の項には、「飲み物代を含めて50サンティーム以上の料金が必要」とあって、「エルドラード(ストラスブール大通り)」、「カジノ・フランセ(パレ・ロワヤル)」、「カフェ・オーブラン(コントゥル=スカルプ通り)」、「カフェ・コンセール・デ・フォリー(ストラスブール大通り)」、カフェ・コンセール・シュヴァル=ブラン(サンドニ大通り)」、「カフェ・コンセール・ドゥ・カドゥラン(モンマルトル通り)」などの名前があがっている。時代が少し下ると、モンマルトルに「ムーラン・ルージュ」と「ディヴァン・ジャポネ(日本の長椅子)」が開店して、大衆の人気を博すようになった。
 今回の展覧会では、こうした人気店の様子描いたポスターや絵が展示されている。「ディヴァン・ジャポネ」は、1886年「シャ・ノワール」から数ブロック離れたマルティル通り75番地に、オリーブ商人のジュアン・サラザンが開いたもので、当時のジャポニズムの流行に乗って、東洋風(中国風)の内装が施されていた。
 舞台にはモンマルトルの芸人たちが立ち、なかでも若手の歌手イヴェット・ギルベールはここで初舞台を踏み、画家のトゥールーズ=ロートレックが《ディヴァン・ジャポネ》(1892)を描いて有名になった。モデルは、舞台のギルベールを見つめる象徴主義の作家エドゥアール・デュジャルダンとダンサーのジャンヌ・アヴリルである。
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 展覧会は3月25日まで群馬県立近代美術館、その後は八王子市夢美術館で、4月6日から5月20日まで開催される。
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by monsieurk | 2012-02-12 19:59 | 美術 | Trackback | Comments(0)

詩画集 III 「CALENDRIER」

 日本での本格的な詩画集は、1960年(昭和35年)に、書肆ユリイカから刊行された『CALENDRIER』(ユリイカ)とされる。著者は安東次男、版画をつくったのは駒井哲郎である。安東はこのときまでに、『六月のみどりの夜わ』(コスモス社、1950年)と第二詩集『蘭』(月曜書房、1951年)を出していた。敬愛する金子光晴の序詩を付し、「死者の書(未来風景I)」以下、9篇の詩を収めた詩集『蘭』は、桂川寛の装幀、挿画、タブロオと、関本和雄の木版(奥付)を付した豪華詩集であった。
 写真で複製したのは、4番目の詩「觸手になつた耳の歌」の最後の部分である。
 
 「・・・耳は
 われらの不眠の汚辱のようにd0238372_036065.jpg
 はれぼったく
 くらい世界の内ら側にはりつく
 世界の
 重い觸手となるために
 やもりがランプの内ら側で泣く夜は
 耳にはぎいぎいきしる骨がない
 人らそこで耳に腰かけて眠るのだ
 世界の隅隅よりはい上る
 色に足を垂れて」

 桂川寛の木版画は、この部分をそのまま絵にしたものである。
 
 安東次男は『蘭』刊行から9年後、篠田一士、丸谷才一たちの雑誌「秩序」の勧めで、同誌第7号に、「CALENDRIER」と題した12篇を発表したが、これとは別にこれらの詩篇を収めた詩画集を計画し、銅版画家の駒井哲郎に協力を頼んだ。
 大岡信は「本の手帖」の19 62 年11月号に、この詩画集制作に立ち会った思い出を、次のように書いている。
 「夏、あれはおそらく七月末か八月はじめだったろう、一九五九年のことだ。世田谷新町の駒井哲郎のアトリエはものすごい暑さだった。ぼくはサイダーを飲みながら眼の前で暑い上にも暑い運動を熱心にくりかえしている二人の男を眺めていた。二人の男とは、もちろん駒井哲郎と安東次男である。より熱心なのは安東さんで、銅版画のローラーの、矢車の軸のように八方に放射状にのびている長い把手をにぎり、力をこめて少しずつローラーを回転させているのだが、胃弱の詩人の痩せた体躯は、ローラーをまわしているというよりは、把手にぶらさがっているような感じを与えるのだった。「アンツグさんはローラーをまわしたくて仕様がないんだよ」と駒井さんがいう。「銅版を彫るのは、さすが〈威張りの安東〉にも無理だからね。せめてローラーぐらいはね・・・」。「まるで子供さんだな」。こちらで二人がそんな陰口をいっているのも知らずに、安東次男は汗を流してローラーをまわしていた。
 『からんどりえ』三十七冊の中には、そんな風にして出来た絵も入っているはずである。この美しい詩画集は、いま奥付によって見ると、一九六〇年四月十五日に印刷を了えたことになっている。一番から七番までが、リーヴスの紙を使った上製本、八番から三十七番までが、和紙を使った並製本、そのほかに、非売品の特製本が六冊あるから、正確には総数四十三冊ということになる。上製本が三万円、並製本が一万円。この一万円の本をやすくまけさせようとして、発行者の伊達得夫をおだてたりおどしたりした思い出は、いまは遠いむかしのことになってしまった。しかしこの本は、たしか豪華な詩画集として新聞紙上でも話題になり、たちまち売り切れてしまったはずだ。」(同誌、52頁)
 複製した版画は、詩集のタイトルの通り1年12カ月を詠った12篇の詩のうちの6月(juin)にあたる「球根たち」につけられたものある。

 「みみず けら なめくじ

  目のないものたちが
  したしげに話しかけ
  る死んだものたちの
  瞳をさがしていると

  一年じゆうd0238372_0355863.jpg
  の息のにお
  いが犇めき
  寄つてくる

  小鳥たちの屍骸
  がわすれられた
  球根のようにこ
  ろがっている月

  葬むられなかつた
  空をあるく寝つき
  のわるい子供たち

  あすは、
  すいみつ。せみ。にゅうどうぐも。     (juin)」

 俳句に親炙した安東は、洗練された季節感あふれる言葉で、季節の本質を簡潔に表現し、駒井のオリジナル版画はそれを形象にした。詩に組み合わされた版画は9葉で、その内の1枚は表紙に、もう1枚の押型のみのものは目次ページに用いられている。詩集はフランス装幀のカバーのついた函入である。詩人と版画家は遠慮なく意見を交換しながら、一冊の詩画集を共同で制作したのである。
 大岡は引用した文章の続きで、「豪華な詩画集は少なくないが、この本の場合のように緊密な精神的交流の中で胎まれ、生みだされた本はなかったのではないかと思う。そういう意味では、これは画期的な性質をもった本だったといえるかもしれない。」(同、53頁)と述べている。
 詩人と版画家のコンビが次に生み出したのが、『人それを呼んで反歌という』(エスパース画廊、1966年)である。制作期間はおよそ4年。収録詩篇は9篇、オリジナル銅版画は表紙を入れて15葉である。奥付には、「著者 安東次男・駒井哲郎、 発行者 竹内宏行、発行所 エスパース画廊、1966.9.15 TSUGUO ANDO(サイン) TETSURO KOMAI(サイン) 人それを呼んで反歌という 限定60部のうち第 部」とある。60部の内の7部には詩画集を構成したサイン入り銅版画の別刷り(詩入りの別刷りと版画のみの別刷りの2種類)1組がつけられた。このほかに非売として8部(銅版画別刷り1組附属)がつくられた。そして使用した銅版は、画家から詩人に贈られた1枚を除いて刷りが終わった後に刻線を入れて消去された。
d0238372_0355663.jpg 収録された詩は、「残雪譜」、「鎮魂歌」、「年齢について」、「夕立」、「厨房にて」、「食卓にて、夏の終わりに」、「腐刻画」、「人それを呼んで反歌という」、「枝おろし」の9篇で、最初の「残雪譜」は、「高麗末南鮮古窯の産である・・・」と書き出され、版画はその焼き物の地肌を表すように茶色の地に朱色の斑点が飛び散った図柄である。
 6枚目の版画は28×69センチと集中最大で、三つ折の画面の左の2面には壁に開いた入り口と小さな窓、右手の1面には「いちじくの実に似た / 小鳥の屍骸」と思しきものが描かれている。これは版画家が「年齢について」の詩句に触発されたものである。
 タイトルとなった「人それを呼んで反歌という」という詩は、――

 「枝のモズは
  垂直にしか下りなくなる
  獲物を追うケモノは
  もう弧を描いては跳ばない
  道にわすれられた魚だとかd0238372_0355313.jpg
  ケモノたちの隠し穴だとか
  ころがつている
  林檎の歯がただとか
  じつにたくさんのものが
  顕われてくる
  十一月の自然は
  いろんな形の鍵を
  浅く埋葬する
  裸の思考のあとに
  もうひとつの
  はだかの思考がやって来る
  ・・・」
 と続いて行くが、これには地中浅く埋葬された骨だけの魚や林檎の芯などが黄土色で描かれている。

 安東次男と駒井哲郎は二度の詩画集の制作を顧みて、後にこんな会話を交わしている。
 「安東 きみとは二度詩画集をつくったわけだが・・・。
  駒井 あれはぼくにはずいぶん勉強になった。詩画集といっても、安東のは詩に挿画をつけ
      ればいいというのではないから、なにしろうるさいからね。
  安東 ずいぶんつくり直させたな。そんなことをしているうちに、だんだんと詩より画の方がよ
      くなっていって、今度はこちらが詩を書き直さないではいられなくなったり・・・。そうい
      う意味では、双方ともごまかしのない仕事をしたということになるかな。
  駒井 ぼくが捨ててしまった版を安東が拾い出してきて、あたらしく詩を書いたものもある。
      《厨房にて》など  たしかにそうだった。校正してみると、それが案外よかったりし
      て・・・。
  安東 そういう点は、共同制作じゃないと出せない面白みだね。」(雑誌「みずゑ」第781号)

 日本で最初の本格的な詩画集はこうした経緯をへて制作されたのだった。なお安東次男は、これ以降はもっぱら評論と句作に力を注ぎ、新たな詩集を編むことはなかった。
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by monsieurk | 2012-02-09 00:47 | | Trackback | Comments(0)

詩画集 II 「ユビュ親爺の再生」

 パナソニック電工汐留ミュージアムギャラリーは、2010年4月から5月にかけて、「ユビュ 知られざるルオーの素顔」と題した展覧会を催し、ジョルジュ・ルオー(Georges Rouault 1871-1958)の油彩、銅版画、小口木版画を多数展示した。これらの作品すべては、画商のヴォラールが創作した「ユビュ親爺の再生(Les Réincarnations du Père Ubu)」というテクストを飾る挿画だった。
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 アンブロワーズ・ヴォラール(Ambroise Vollard 1866-1939)は、マラルメとルドンの共作になる詩画集『賽の一振(Un Coup de dés)』の計画が、詩人の急死で挫折したあと、幾つかの詩画集をつくったが、自作のテクストにルオーの挿画を付して、1932年に刊行した豪華本はそのなかでも白眉のものである。d0238372_18145094.jpg
 アルフレッド・ジャリは1896年に戯曲『ユビュ王』を発表し、風刺的で滑稽な主人公ユビュを創造した。ヴォラールはジャリを信奉し、この奇妙な登場人物を愛した。その愛着振りは、ジャリの遺族から著作権を買い取り、彼をしてユビュを主人公とする続編を書かせるまでに至ったのである。
 ヴォラールは1871年にフランスの植民地レユニオン島のサン=ドニに生まれ、植民地での原住民と白人植民者との軋轢を熟知していた。彼はユビュの続編を書くにあたって植民地を舞台に、ユビュの行動を通してその実態を描いた。だがヴォラールのテクストは、ともすると饒舌なほら話と受け取られ、まともに論じられることは少なく、この詩画集もルオーの挿画の価値によって評価されることが多かった。
 展覧会では、稀覯本の『ユビュ親爺の再生』を電子化してDVDがつくられ、それを通してテクストを詳細に検討することができた。DVDでは、作品の中に出てくるクレオールが歌う楽譜は、実際に演奏され歌が収録されていた。ヴォラールが創作したテクストを詳細に検討してみると、これまで正確に記録されることがなかったレユニオン島での植民地政策や植民者の行動が、さりげないジョークを含めて正確に写しとられていることが分る。植民地生まれのヴォラールは、本国で成功した画商・出版者として、体制に従順な仮面をかぶりつつ、反植民地的主張を鮮明に打ち出している。
 では挿画からうかがえるルオーの立場はどうか。展覧会に出品されたうちの1点、《植民者ユビュ(Ubu colon)》(1917年頃、油彩、デトランプ)では、画面手前に描かれた裸体の男は左手を高く上げている。腰布以外はなにもつけず、片方の目と白い歯だけが異様に光っている。彼は何かに驚いたのか、それとも断末魔の苦しみを味わっているのだろうか。
 背景に見える丘の陰からは、ヘルメットをかぶり、ライフル銃を背負った植民地の兵士らしき男がこちらに近づいてくる。この絵を見る限り、ルオーはヴォラールの主張に賛同しているように思える。
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 しかしルオーは『再生』の序文で、ヴォラールに対してこんなことを述べている。
 「あなたが喧嘩好きで、札つきの否定論者だと信じるのは間違いでしょう。時折、あなたはイル=ド=フランス〔パリがある地方。ルオーはここで生まれた〕で、あなたの美しい出身地のブルボン島〔レユニオン島〕の火山のように、天に向かって火や炎を噴き出しますが、柔らかい灰色の空を暗くすることはできません。そんな時はまずは悔い改め、熟考すべきだと忠告してくれた人はいませんか。それほどまで隣人を批判し、叱責するのは、人間を知ることではありません。人間の行為の相対的な長所に満足すべきです。」(同書、pp.Ⅶ)
 伝統に抗して画業をスタートしながら、後年はキリスト教に深く帰依していたルオーらしい忠告である。こうした言葉を読んだ後で挿画を眺めると、ルオーはヴォラールが風刺と笑いにくるめて告発した植民地の実態を承知の上で、そこに和解の道を探ろうとしたのではなかろうか。ただこの点は、さらに絵を深く分析した上でなければ、軽々に断定を下すわけにはいかない。
 これまでルオーの作品価値によって世評の高かった豪華詩画集『ユビュ親爺の再生』にあっては、ヴォラールのテクストもまた十分検討に値するものなのである。それを気づかせてくれただけでも、展覧会は興味深いものだった。
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by monsieurk | 2012-02-05 18:27 | | Trackback | Comments(0)

詩画集 I 「賽の一振り」

 ステファヌ・マラルメは、雑誌「メルキュール・ド・フランス」が1898年1月号で行ったアンケート「写真を挿画とした小説について」(Sur le roman illustré par la photograhie)への回答でこう述べている。
 「どんな挿画もないことに賛成です。一冊の本が喚起するすべては読者の心の中で起こるはずですから。しかし、もし写真を用いるというなら、なぜいっそのこと映画にしないのでしょう。そのコマ繰りが、絵も本文も含めて多くの本の代りを首尾よく務めることでしょう。」(Œeuvres complètes II、p.668)
 マラルメはテクストに挿画を添えることに否定的であり、もし挿画として写真を用いるなら、いっそリュミエール兄弟が発明した映画(cinématographe)を用いてはどうかというのである。発明されたばかりの新技術の映画が一般公開されたのは、この回答よりわずかに1年半前だった。
 ところが挿画に否定的だったマラルメが、自身の詩に挿画をつけることを望んだのである。マラルメは1897年に、長篇詩「賽の一振りは断じて偶然を廃することはないだろう」(Un Coup de dés n’abolira jamais le hasard.)を雑誌「コスモポリス」に発表した。だが、活字の組み方は希望通りではなく印刷も杜撰で、とうてい満足のいく出来ではなかった。
 画商のアンブロワーズ・ヴォラールから、この詩篇に挿画を添えて豪華本を制作したいとの申し出があったのはこのときである。マラルメは挿画をオディロン・ルドンに頼むことを条件に、この計画に同意した。マラルメはかねてからルドンの版画を愛好していた。
 雑誌「コスモポリス」の出版から2カ月たった1897年7月5日、ヴォラールがルドンに宛てた手紙にはこうある。
 「親愛なるルドン様、・・・「コスモポリス」については、貴兄にすぐお送りいたしましょう。作品が成功するためには挿画を黒でやるのが良いと思います。さらに絵そのものが貴重であるのが望ましく、この点を考慮して、1点50フランで売りだせば、大部分の人は版画のために本を購入するでしょう。テクストは「コスモポリス」が1フランで手に入るのですから、もし挿画が《化け物屋敷》の場合のように貴重なものでなければ、私が大失敗する危険は大いにあるわけです。貴兄がかつて、挿画が重みを持つと作品は重苦しいものになりかねないと言われたことを覚えています。ですが著者は反対に、挿画が重要であればあるほど、作品は成功するとみています。・・・マラルメ氏はそれ〔ルドンの《黙示録》〕を激賞したあとで、こう言いました。ルドンが私の作品のために作ってくれる挿画では、背景にも絵が描かれていることが重要だ。もしこの版画のように白地に絵が描かれると、白の上に黒で印刷される私のテクストと同じで、二重になってしまう、と。」
 この手紙はヴォラールの商売っ気とともに、マラルメが自分のテクストをかざるルドンの石版画に関して、どんなイメージを抱いていたかを伝えている点で重要である。マラルメが見たルドンの《黙示録》は、背景に白い部分を多く残しているが、マラルメはこれとは逆に、誌のテクストが黒地に浮き上がるような構図の作品を望んだのである。白い紙面にさまざまな種類と大きさの活字で印刷される詩の本文と、黒い背景に白い線で挿画の妙――マラルメの夢見た『賽の一振り』の豪華本はこのようなものになるはずだった。
 マラルメとルドンは1897年から翌年にかけての冬、詩画集の完成を目指して仕事にはげんだ。1894年4月1日付のマラルメに宛てたルドンの手紙が残っている。
 「わが親愛なるマラルメ、昨日はせっかく訪ねてくださったのに、疲れるばかりの展覧会のお披露目に行っていて、お目にかかれず本当に残念なことをしました。『賽』の絵についてもお話しなければならなかったのです。ヴォラールが素晴しい紙を見せてくれました。〔それを用いれば〕全体として、石版画を白い紙の上、つまりテクストと同じ紙の上に印刷してみることができるでしょう。私は、活字の効果、その新しい多様性と衝突しないためにも、ブロンドと薄い青とで描こうと思います。目の細かい紙を手に入れました。間もなく本格的に作品に取りかかかろうと思います。・・・」
 一方のマラルメは、希望通りの印刷を実現するために、気に入りの活字を求めて印刷所を訪ね歩き、ラユールの印刷所でようやくそれを見つけた。「賽の一振りは断じて偶然を廃することはないだろう」は、見開き二ページを一面として、そこに多様な意味を担った220行の語群が、5種類のローマン字体と4種類のイタリック字体の、それぞれ大きさと太さが異なる9種類の活字を駆使して印刷された。
 マラルメは印刷所から届けられた校正刷に幾度も手を入れた。マラルメのオリジナル原稿と、彼が細かい変更の指示を書き込んだ校正刷は、拙訳『「ステファヌ・マラルメ 賽の一振りは断じて偶然を廃することはないだろう」、原稿と校正刷 フランソワーズ・モレルによる出版と考察』(行路社、2009)に収録されている。
 ルドンは詩画集を飾るための挿画を4点制作した(その内の1点は後に失われた)。残されもののうち一番大きい作品(24×30cm)は、不思議な髪飾りをつけた女性の横向きの上半身と、2個のサイコロ、空中に浮いた仮面、そして右端には目を閉じた若い男の横顔とが描かれている。これは恐らくは詩全体の主題を絵にしたものであろう。他の2点は、羽根飾りのついた帽子を被る人魚、それに少年の顔である。これらはいずれもマラルメの詩句に登場する副主人公たちである(ルドンの挿画の意図については、「マラルメとルドン」(「みづゑ」、1979年7月号)を参照のこと)。
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 だが、マラルメが実現を楽しみにしていた詩画集は陽の目をみることなく終わった。マラルメは1898年9月9日、避暑のために滞在していたヴァルヴァンの別荘で、喉頭痙攣のために急死してしまった。
 ルドンはマラルメの死の一カ月後、友人の美術評論家メルリオに手紙を書いて、その悲しみを伝えた。「私は打ちのめされた思いです。ユイスマンスが去ってしまったいま、同年輩の友人としては、もう彼ぐらいしかいなかったのです。私はよく知っていますが、彼は私のこととなると、〔他人が〕薄笑いを浮かべることさえ許さないような人物でした。絶対的に信頼しうる芸術上の同志でした。こういう風に、死は、私たちの自分の意志を分からせようとせずに、わがもの顔に振舞うのです。」
 実現していれば画期的な詩画集をもたらしたはずの詩人と画家の共同作業は、突然終わりを告げたのだった。
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by monsieurk | 2012-02-01 21:22 | マラルメ | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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