ムッシュKの日々の便り

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イエスの最後の叫び

 十字架につけられたイエスの様子は新約の「福音書」に記されている。最初の福音書である「マルコ福音書」は、その様子を次のように書いている。第15章16節以下を、聖書学者田川建三の訳で引用する。
 「16兵士たちは彼を中庭の中まで、つまり代官屋敷(の中庭)のことだが、イエスを連れて出た。そして一部隊全員を集合させた。17そして紫の衣を着せ、また荊の冠を編んで彼にかぶせた。18そして彼に挨拶して、言った、「幸あれ、ユダヤ人の王様」。19そして彼の頭を葦で叩き、つばを吐きかけ、ひざをついて拝礼したりした。20そして彼を嘲弄したあと、紫の衣を脱がせ、自分の衣を着せた。そして十字架につけるために外に引き出した。21そして、たまたま通りがかったキュレネ人シモンなる者を、畑からの帰りだったのだが、徴用し、彼の十字架を担わせた。シモンはアレクサンドロスとルフォスの父親である。22そして彼をゴルゴダという場所に連れて来る。訳せば、「しゃれこうべの場所」である。23そして彼に没薬をまぜた葡萄酒を与えたが、彼は受け取らなかった。24そして彼を十字架につける。・・・
 33そして第六次(正午)になると全地に暗闇が生じ、第九時(午後三時)にいたった。34そして第九時にイエスは大きな声で叫んだ、「エーロイ、エーロイ、ラマ、サバクタニ」。これを訳すと「我が神、我が神、何ゆえ我を見捨て給いき」となる。そしてそばに立っていた者のうち数名がこれを聞いて言った、「見よ、エリアを呼んでいる」。36ある者が走って行き、そして海綿を酢で満たし、葦(の先)につけて飲ませ、言った、「待て、エリアが彼を下しに来るかどうか、見てみよう」。37イエスは大きな声を発して、息をひきとった。38そして神殿の幕が二つに、上から下まで裂けた。39向い側に立っていた百卒長が、このようにして彼が息をひきとったのを見て、言った、「まことにこの人は神の子であった。」」(田川建三訳著『新約聖書 訳と注1 マルコ福音書/マタイ福音書』、48-50頁、作品社、2008年)
 ちなみに、33節から39節のフランス語訳を示せば以下のようである。
「33 Quand ce fut la sixième heure il y eut des ténèbres sur toute la terre, jusqu’à la neuvième heure.
34 A la neuvième heure, Jésus clama à grande voix: Eloï, Eloï, lama sabacthani, ce qui veut dire : Mon Dieu, mon Dieu, pourquoi m’as-tu abandonné?」(La Bible Nouveau Testament. textes traduits par Jean Grosjean et Michel Léturmy, Bibliothèque de la Pléiade, p.160)
 先のブログ「ブリューゲルの動く絵」(2012年1月10日)で紹介したように、16世紀フランドルの画家ピーテル・ブリューゲルも《十字架を担うキリスト》(1564年制作)で、ここに書かれている情景を描いている。問題は、イエスが死の直前に発した、「エーロイ、エーロイ、ラマ、サバクタニ」という言葉である。
 田川の注記によれば、編集書記者マルコが記したギリシャ語では、「elōi elōi lama sabachthani」と書かれていて、これはイエスが日常的に話していたアラム語の、「Elāhī, elāhī, lemā shaebaktanī」をギリシャ語綴りにしたもので、マルコ自身がギリシャ語訳をつけているように、「我が神、我が神、何ゆえ我を見捨て給いき」という意味である。
イエスは死に臨んで、なぜこうした絶望的な言葉を吐いたのか。田川はこの箇所の注釈で、次のように述べている。
 「これは、本当のところ神を本気に真剣になって信仰する人などいない現代人と違って、古代人の発言としては、大変な絶望の言葉である。絶望というか、むしろ神に対する抗議というか。おそらくマルコとしては伝えられた事実をそのままたんたんと記しただけなのだろうが、後世のキリスト教からすれば、何せ神の子である。並行記事でも、マタイはこの種のことについては控え目で、多少の綴りやギリシャ語の文体を修正する程度で、それ以上の変更は加えていないが、ルカはこれをまるごと削除している。神の子がこんな絶望的な叫びをあげるわけがない、ということなのだろう。まして近代の護教論的キリスト教となると、何とかイエスがこの言葉を言ったのではないことにしようと、やっきになっている。しかし、さすがにいくらなんでも、マルコとマタイが一致して記しているものを、これは事実に反するなどと主張する勇気はない。とすれば、例によって、解釈と称して書いてあることと正反対の「意味」を読み込もうということになる。すなわち、これは神に対する絶望などというものではなく、むしろ逆に敬虔な神信仰を表現したものだ、神の子イエス・キリストは死ぬ間際まで敬虔に神に対する従順な信仰を口にしたのだ、と。」(同書、475頁)
 この説の根拠は、イエスが最後に口にした文句が詩篇二二の冒頭の句と一致することにあり、イエスは単に詩篇の冒頭を引用したかったのではなく、この詩篇全体の精神、とくに後半部分の神を賛美しようとしてこの句を叫んだというのである。3.11の大震災で被災した大船渡市在住の医師で、聖書のケセン語〔気仙沼地方の方言〕訳をしたことで知られる山浦玄嗣も、そのように解釈する(『イエスの言葉 ケセン語訳』文春新書)。だが、これはいささか牽強付会の説といえよう。
 田川建三は、注記の先で次のように主張する。「イエスがこのせりふを覚えたのは、おそらく幼い頃からのユダヤ教教育で詩篇の有名なせりふを大量に、しかし断片的に、嫌というほど暗記させられて頭に入っていた、ということだろう。この種のせりふは、よく暗記されるせりふであるが故に、もはや詩二二篇の引用などというものではなく、単に有名なものの言い方、ということで普及するものである。イエスは死を前にした時に、自分の置かれた位置を表現する短いせりふとして、このせりふがおのずと心に浮かんだ、ということだろう。・・・
 ・・・イエスがこのせりふを頭に思い浮かべたのは、十字架上で息絶える直前の瞬間になってはじめて、ということではあるまい。すでにどこかの段階で死を覚悟せざるをえなくなってから、ある程度漠然とではあれ、どうも自分はこのままいくとこういう死を迎えざるをえまい、と覚悟しはじめた時から、いや多分もっと前から、このせりふは彼の心に常にこびりついて離れなかったことだろう。心の中で何百回何千回とくり返していたせりふだから、最後にそれが口をついて出た、ということだろう。」(同、477頁)
 この言葉がイエスの心に沁みついていたのはその通りだろうが、最後の瞬間に、イエスがこれを口にしたのは、意識的だったにちがいない。十字架上で死を迎えたときに抱いた思いをもっともよく表現するものが、普段から言い馴れていた、「エーロイ、エーロイ、ラマ、サバクタニ」という言葉だった。そうだとすると、このときイエスの心に萌した絶望の内容は何だったのか。
 それが自らの死への不安でないことは明らかだろう。数々の奇跡を行なって、人びとをユダヤ教とは異なる神への信仰に導こうとした自分の行いが、途中で挫折してしまうことへの絶望なのか。
 彼につき従った十二人の熱心な弟子たちでさえ、一人は彼を裏切り、ある者たちはイエスなど知らないと否認することも分かっていた彼には、まだまだやるべきことがあった。それなのに十字架につけられてしまった。未来を信じ、自分の一身をかけて行動していたイエスは、不条理な死に際して、自らの努力は無駄だったのかという懐疑にとらえられた。そうした無念、絶望の気持がこの言葉になったのだろうか。
 十字架上のイエスの内心を知るには、逮捕される直前に、ゲッセマネの丘で、一人地面に伏して祈ったとき、彼が何を願ったかを考えてみる必要がある。マルコの第14章33節以下ではこう書かれている。
 「そしてペテロとヤコブとヨハネを一緒に連れて行く。そして驚愕、困惑しはじめた。34そして彼らに言う、「私の精神は死ぬほどひどく苦しんでいる。ここにとどまって、目を覚ましていよ」。35そして言った、「アバ、父よ、あなたには何でも可能です。この杯を私から取り去って下さい。しかし私の欲することではなく、あなたの欲することを」。」(田川、45頁)
 「アバ」とは「父」を意味するアラム語である。イエスは信じる神に、「父であるあなたが欲することをしてほしい」と祈った。その結果が、十字架上の苛烈な死であった。神は本当にこれを欲したのか。なぜ自分を助けなかったのか。イエスの心に、「エーロイ、エーロイ、ラマ、サバクタニ」、という疑念か絶望の想いが去来したとしても不思議ではない。
 マルコはイエスの十字架上の死のあとに二つの話を伝えている。一つはイエスの死とともに神殿の幕が上から下まで二つに裂け、それを目撃した百卒長が、「まことにこの人は神の子であった」と述べたこと。もう一つはイエスの復活である。ただマルコによれば、空っぽの墓の中に座っていた白い外衣を羽織った若者から、イエスが復活したと伝えられたのは、ガリラヤからイエスにつき従って来た二人のマリアだけだった。
 マルコの第16章は次のように結ばれている。「8そして彼女たちは墓から出て行き、逃げた。震えと自失が彼女たちをとらえていたからである。そして誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(田川、51頁)
 マルコはこの場面に居合わせたのは二人の女性だけであり、しかも彼女たちは沈黙を守ったと述べている。弟子たちはイエスが逮捕されたあとは逃げ去り、ここには姿を見せていない。そんな不甲斐ない弟子たちはイエスの死後、彼が語り、行ったことの意味にはじめて気づくのである。その意味で、イエスの死は大きな意味を持っていた。神はそのためにこそイエスが死ぬことを望んだのだろうか。
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by monsieurk | 2012-03-30 07:00 | | Trackback | Comments(0)

炉心溶融 V 忍び寄る怖さ

 d0238372_13465486.jpg3.11の東日本大震災と福島第一原発事故のあと、気になる本を再読した。その一冊が井伏鱒二の『黒い雨』だった。いうまでもなく広島での被爆体験をテーマにした小説である。雑誌「新潮」の1965年(昭和40)1月号から翌年9月号まで連載され、当初は『姪の結婚』というタイトルだったのが、途中で『黒い雨』と改題された。単行本の初版は1966年(昭和41)11月に新潮社から刊行された。
 「この数年来、小畠村の閑間重松〔しずま・しげまつ〕は姪の矢須子のことで心に負担を感じて来た。数年来でなくて、今後とも云い知れぬ負担を感じなければならないような気持であった。二重にも三重にも負目を引き受けているようなものである。理由は、矢須子の縁が遠いという簡単な事情だが、戦争末期、矢須子は女子徴用で広島市の第二中学校奉仕隊の炊事部に勤務していたという噂を立てられて、広島から四十何里東方の小畠村の人たちは、矢須子が原爆病患者だと云っている。患者であることを重松夫妻が秘し隠していると云っている。だから縁遠い。近所へ縁談の聞き合わせに来る人も、この噂を聞いては一も二もなく逃げ腰になって話を切りあげてしまう。」(『黒い雨』、新潮社、昭和41年、3頁)
 小説の書き出しである。井伏は被爆者である重松静馬の『重松日記』と、被爆軍医・岩竹博の『岩竹手記』を原資料とし、これに創作を加えて、人びとの日常生活のなかで被爆の悲劇を描きだした。
 原爆投下から数年がたった広島県東部の神石郡小畠村。小説の主人公、閑間重松とシゲ子夫妻は戦時中広島市内で被爆し、その後遺症で重労働をすることができない。医師の勧めで、養生のために散歩や釣りをすれば、村人たちに怠け者あつかいされる。やるかたない重松は、村の被爆者仲間とともに鯉の養殖をはじめようとする。
 引用した冒頭で語られるように、重松は同居する姪の矢須子のことで頭を痛めていた。8月6日の朝、矢須子は用事で爆心地から遠く離れた場所にいたために、直接被爆はしていない。しかし勤労奉仕中に被爆したという噂が流され、破談が繰り返されてきた。そんな折、矢須子にまたとない良縁が持ち上がる。この話をぜひまとめたい重松は、彼女に健康診断をうけさせるとともに、昭和20年8月当時の自分と矢須子の日記を清書して、それを証拠に、原爆が炸裂したとき彼女は広島市内にはおらず、被爆者ではないことを証明しようとする。d0238372_1347366.jpg
 だが実は、矢須子は重松夫妻の安否を確かめるため舟で広島に向かう途中、放射能を帯びた黒い雨を浴びていた。しかも再会した重松たちと燃え上がる広島市内を逃げまわったために、残留放射能を浴びてしまったのである。重松がこの事実を書くかどうか悩んでいたとき、矢須子が原爆症を発症した。重松夫妻の看護や医師の治療もむなしく病状は悪化し、縁談も断られてしまう。
 物語では原爆の数年後、故郷である少しは落ちつきを取り戻した山間の村での日々が描かれる。そして被爆直後の模様は、矢須子と重松の二人の被爆日記を清書するという形で随所に挿入され、克明に綴られる。この点が作者井伏の工夫であって、原爆のむごさと放射能の見えざる恐怖を描き出すのに成功している。
 小説の最後は、昭和20年8月15日の日記を清書し終え、養魚池の見まわりに出た重松のつぶやきで終わる。
「「今、もし、向こうの山に虹が出たら奇跡が起こる。白い虹でなくて、五彩の虹が出たら矢須子の病気が治るんだ」
 どうせ叶わぬことと分かっていても、重松は向うの山に目を移してそう占った。」(同、330頁)
 『黒い雨』は1989年(昭和64)に、今村昌平の手で映画化された。石堂淑朗・今村昌平の脚本は原作を忠実に映像化し、重松役の北村和夫、矢須子の田中好子、シゲ子の市原悦子たちの好演もあって、この年のキネマ旬報ベストテン第一位、日本アカデミー賞作品賞、監督賞などに輝いた。
 雑誌「月刊Asahi」の1989年6月号に、「『黒い雨』を語る」と題した井伏鱒二と今村昌平との対談が掲載されている。その後半部分で、二人はこんな会話を交わしている。福島原発事故をめぐる事態を見通したような発言である。

今村 原作にある「正義の戦争より不正義の平和のほうがまだましじゃ」という言葉は絶対に使わなければいけないと思ったんです。(略)
井伏 戦争はいけないな、ほんとうに。
今村 今度の映画を撮るに際して、お金がなかったんですね。テレビやビデオに売るのが何千万かのお金になるんで、それを前売りして基金にして、あとは銀行で借りたりしてやったんですが、撮影が真ん中ぐらいまで来たら、もうないんですよ。
井伏 そういうものですか。
今村 そうすると、必ずヤクザふうの人が代行で来るんです。これが決まりなんです。そろそろ出るころだなって冗談いってたら、ほんとうに来たんです。おとなしいヤクザだったから、わりと早く話がつきました。そのうちに予定通りクランクアップしてしまって、岡山のある会社に行ってお願いしたら、大変なお金を出してくれたんです。そうとう助かりました。不義理せずにロケーションから引き揚げることができて、ヤクザも出るひまなく終わったんです。
井伏 ハッハッハ。ぼくはそれを知らなかったよ。
今村 はじめスポンサー探しに、そこらじゅうに声をかけたんですが、全部だめでした。どうやら遠く原発にかかわっているんですね。向こうにしてみれば原爆に賛成だということではないんでしょうけれども、原発に遠く因縁つけられてはかなわないという感じがあるんでしょうね。
井伏 日本ではやめたらいいな、やめなきゃいけないですよ。
今村 みんながぜいたくしなきゃいいんですけどね。電気をやたらに使わなきゃいい。
井伏 危ないねえ。みんなで考えなきゃだめだ。
今村 ぼくは日本人として広島をどうしても描かなければいけないと思ってたんです。本当の怖さ、音もなく忍び寄ってくる、目に見えないけれども、ある日突然、脱毛するという怖さですね。だんだん原爆やら放射能の問題が風化していくのは、戦争を背負って生きざるを得ない世代としたら、忘れっぽいのもいいかげんにしてくれという気持ちです。しかし不正義の平和も今日のように極まりますと、重松の怒りのセリフも、なかなか言いづらくなりますね。
井伏 日本は豊かになったと思いますよ。でも、幸せにはならなかったね。(『井伏鱒二対談選』、講談社文芸文庫、2000年、170-173頁)

 国策を背景とした「原発ムラ」の力が、映画製作の資金づくりを妨げるところにまで及んでいたという今村の体験に慄然とする。私たちはそうした事実に気づかず、23年前の井伏や今村の警告をいつの間にか忘れ、電力を浪費し、原発を受け入れてきた。いま払わされているのはそのつけなのだ。

<<追記>>
 アメリカの原子力技術者、アーニー・ガンダーセンは、『福島第一原発――真相と展望』(岡崎玲子訳、集英社新書、2012.2.23)で、日本政府の「冷温停止」宣言にもかかわらず、福島第一原発の現状は依然として予断を許さず、とくに4号機は多くの懸念材料を抱えていると述べている。以下、引用する。
 「4号機のプールには炉心数個分もの使用済み核燃料が入っています。これは、13カ月に一度点検のために停止する日本では10~15年分、アメリカの原発では35年分に相当します。・・・4号機の建屋は、構造が弱体化し、傾いています。事故後、東電は作業員の健康をリスクにさらしながらプールを補強しました。それだけ損傷が激しかったのです。うまく下に支柱を並べましたから、危機的な状況に陥ることは考えにくくなりました。それでも不安定には変わりありません。事実、2012年1月1日午後に地震が起きた際には、その影響で4号機の使用済み核燃料プールに隣接したタンクの水位が急激に低下するという現象がみられました。大きな地震に襲われた場合に倒壊する可能性が、4つのなかでは最も高いといえるでしょう。
 耐震性を高めるために打つ手はあまりありません。再び震度7が来ないことを祈るだけです。7は稀なので、確率は低いですが、東京の友人には4号機が崩れれば即座に逃げるように助言しています。・・・
 大気圏内で行われた歴代の核実験で放出された量を合わせたほどの放射性セシウムが、4号機のプールには眠っています。原子炉は原子爆弾よりはるかにたくさんの放射能を抱えているのです。4号機の使用済み核燃料プールは、今でも日本列島を物理的に分断する力を秘めています。」(同書、71-73頁)
 この不吉な指摘が現実のものとならないことを心から祈るばかりである。
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by monsieurk | 2012-03-26 17:30 | 原発事故検証 | Trackback | Comments(0)

炉心溶融 IV Investigation Report(調査報道)2

 3月15日、取材チームは車で移動しつつ木村が空間線量を測り、ところどころの土壌や植物をサンプルに採った。その様子を大森ディレクターが小型カメラで撮影していった。本職のカメラマンが同行しなかったのは、出発が急だったのと、政府から30キロ圏屋内退避勧告が出た15日以降、NHKでは原発周辺の取材に関して自主規制が行われていたからである。七沢たちの取材は結果としてゲリラ的なものとなった。
 福島での測定調査は、ベースキャンプとした宿のある三春町をはじめ、常葉町、都路町、大熊町と進んだ。福島第一原発から4キロほどの双葉町山田地区では、木村の線量計は測量限界の毎時300マイクロシーベルトを超えていた。チェルノブイリや東海村JCOの臨界事故の調査を行ってきた木村にとっても初めて経験するものだった。そこに40分間いるだけで、年間の被ばく限度を超えてしまう高レベルの放射線量であった。
 木村が採取した土壌や植物のサンプルは3月17日に東京へ持ち帰ったあと、京都大学の今中哲二助教、広島大学の遠藤暁准教授と静間清教授、長崎大学の高辻俊宏准教授に送られて分析された。測定結果は互に交換されて、検討の上で修正がくわえられた。こうしたクロスチェックは分析データの精度を高めるために必要な措置であった。
d0238372_0425472.jpg 七沢たち取材班は一度東京にもどると、汚染の実態を一層精密に調査するために、もう一つの方法を考えだした。ここまでは原発から距離に応じて東西南北に10カ所ほどの地点を決めてサンプル調査を行ってきたが、今後は点を線につないで汚染地図をつくるアイディアである。
 それには放射能測定の第一人者である岡野眞治(84歳)の協力を得る必要があった。七沢はかつて岡野の協力を得て、チェルノブイリ原発事故のあと、食糧と人体の放射能汚染を調査して、NHK特集『放射汚染~チェルノブイリ事故・2年目の秋』(1987.11)を制作した経験があった。岡野は6秒ごとに計測する放射線量とGPSによる位置情報、さらにどんな放射性核種があるかを明らかにするスペクトルメーターを組み合わせた独自の放射線測定記録システムを開発していた。これを用いれば福島県内の道路を走りながら、その場所の放射能汚染を6秒ごとに記録することができる。岡野は協力を約束し、貴重な装置を取材班に貸すことを快諾した。
 だが七沢たちの番組制作は暗礁に乗り上げた。番組制作局の幹部が難色をしめしたのである。理由は、データ分析を京都大学原子炉実験所の小出裕章助教に依頼したが、「反原発」を主張する小出の分析は偏向しているとする、一部の学者の意見を盾にするものだった。七沢たちは、分析は京大だけでなく複数の大学に依頼してクロスチェックを行っていること、これまでのNHK関連番組の監修を行なっている元原子力安全委員の岡野眞治も協力していることを伝えた。話し合いの結果、七沢たちの取材を4月3日に放送することは却下されたが、書きなおして再提案する道は残された。
 問題は穴のあきかねない4月3日のETV特集をどうするかであった。結局、三春町に住む住職で作家の玄侑宗久とノンフィクション作家である吉岡忍の対談に、取材の一部映像を挿入する形で制作することになった。
 仕切り直しとなった取材班は、3月26日以降、3チームにわかれて現地取材を続行した。翌27日、浪江町の赤宇木地区の集会場に人びとが避難しているという情報を得て、そこへ向かった。赤宇木は文科省茨城原子力管理事務所の渡辺眞樹男が、3月15日夜の段階で高い放射能を計測していた場所だった。しかしNHK取材班はそのことを知らずにいた。
 取材班が訪れたとき、かつての小学校を活用した赤宇木集会場には、いまだに12人が避難していた。線量計は集会所の外で高い数値をしめした。七沢や大森はこの事実を伝えたが、避難している人たちは信用しなかった。集まっているのは、事情を抱えて正規の避難所に行けない人たちだった。
d0238372_22275676.jpg その夜、別行動をしていた木村真三に集会所のことを伝えると、木村は調査を一時中止してでも住民を説得するのが急務だといった。人びとを放射能の危険から守ることが木村の本来の目的だった。
 翌28日、取材班は木村とともに再び赤宇木へ行き、集会所前の駐車場で放射線量を測った。毎時80マイクロシーベルトあった。室内でも毎時25~30マイクロシーベルトあり、人が住めるレベルではなかった。
 木村は線量計の数値を直接見せた。皆はようやく危険な状態を納得して、避難することに同意した。12人は30日に避難するが、その前日の29日には吉岡忍も集会所に行き、現状をリポートし、30日の避難の様子も撮影した。
 こうして取材された映像と、玄侑宗久と吉岡忍のスタジオでの対談は、4月3日夜のETV特集『原発災害の地にて――対談 玄侑宗久・吉岡忍』として放送された。放送後には1000件を超す電話やメールが寄せられ、とくに赤宇木集会場の事実は視聴者に衝撃をあたえた。12人は、原発事故発生後19日間も、人が住めない高い放射線量下で過ごさざるをえなかった。それもこれも情報がまったく伝えられなかったためであった。福島第一原発事故によって空中に拡散した放射性セシウムだけで3万~4万テラベクレル(テラは1兆)と試算される。
 NHK内部では取材班に対して批判がでた。安全を考慮して30キロ圏内の取材を自粛するという内規を破ったこと、高い放射線量のもとに居続けた人たちを取材しながら、それをニュースとしていち早く報道しなかったことなどだった。これらは主にニュースやニュース関連番組を担当する報道局からの批判だった。報道局と番組制作局との確執は従来からあり、加えて取材者には見つけた特ダネを抱え込む傾向がある。取材する者の性(さが)であり、その一つのあらわれだった。
 ETV特集班の取材はその後も続けられ、『ネットワークでつくる放射能汚染地図』は5月15日の深夜に放送された。明らかになったのは、政府が決めた避難区域の外側にも、放射線量の高いホットスポットが多数存在する事実だった。彼らの測定によってつくられた汚染地図がそれを如実に語っていた。番組放送後の反響は4月3日以上に大きかった。
 七沢潔は、取材の内幕を本にした理由を、『ホットスポット ネットワークでつくる放射能汚染地図』の「「あとがき」に代えて」でこう述べている。「あれだけの事故が起こっても、慣性の法則に従うかのように「原子力村」に配慮した報道スタイルにこだわる局〔NHK〕幹部、取材規則を遵守するあまり、違反者に対しては容赦ないバッシングをし、「彼らは警察に追われている」「自衛隊に逮捕された」など根も葉もない噂を広げた他局〔報道局〕のディレクターや記者たち。彼らはそのルールが正当であるか否かを、自らの頭で考えようとはしなかった。有事になると、組織に生きる人びとが思考停止となり間違いを犯すことを含めて描かなければ、後世に残す3・11後の記録とはならないと考えたのである。」(同書、283-284頁)
 番組はその後、日本ジャーナリスト会議大賞、文化庁芸術祭大賞などを得た。ただこの番組の最大の貢献は、これを見た人たちが公式発表を信じることなく、個人やグループで自主的に身近の放射能線量を測るようになったことである。それによって福島以外の地域でも「放射能汚染地図」がつくられつつあり、安全な生活を確保するのに欠かせないものとなっている。これこそがいまも私たちが直面している深刻な現実である。
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by monsieurk | 2012-03-24 08:36 | 原発事故検証 | Trackback | Comments(3)

炉心溶融 IV Investigation Report(調査報道)1

 3.11の福島第一原発の大事故のあと、新聞やテレビは実態の深刻さを伝えることが出来なかった。広河隆一監修の『検証 原発事故報道 あの時伝えられたこと』(DAYS JAPAN 4月増刊号)には、3月11日~17日の間の、東電・保安院・官邸その他の会見、朝日・毎日・読売・東京・日経各紙の関連記事、テレビについては、NHKと民放のニュース枠(関西放映分が中心)で報じられた内容が時系列で列記されている。これと並行して、「事故調査・検証委員会の中間報告(畑村洋太郎委員長、2011年12月26日)」が検証した事実とコメント、さらに保存されていた当時のTwitterやブログの記録も掲載されている。
 あのとき東電や官邸は記者会見で何をいい、マスメディアは何を伝えたのか。そして私たちはそれをどう受けとめたのか。3月11日と12日のTwitterに書きこまれた記事の一部を拾い出してみると――
「先の見通しがたたなかったので最悪を考えてとりあえず近くのコンビニで菓子パンと牛乳と水を買い込んだ。たぶん同じ考えの人で店は満員だった」。「大参事になってしまった。今日は自分も怖い思いをしたから非常に身近に感じる」。「Guardianの動画を見ると今日の地震の規模の大きさと被害の甚大さがよくわかる。日本のテレビはなぜこのような編集ができないのか」。(3月11日)
「枝野官房長官の楽観的な発言に非常な憤りを感じている」。「『なんらかの爆発的事象があった』枝野官房長官会見発言。BBCニュースは大爆発と表現。BBCレポーターは六十キロ以内に近づくなと警察から警告された。日本政府の発表は信用できない」。「エジプトやリビアと同じで外国メディアからしか真実は伝わらないのか」。「日テレで爆発の瞬間の映像。大爆発という規模に見えた。日本のメディアは断定的なことは言えないと繰り返しているが、逃げるしかないのではないか。家の中におれば大丈夫というニュアンスだが本当なのか」。(3月12日)
 同様の疑問をもった人たちが、科学者やマスメディアで働く人たちの中にもいた。チェルノブイリの原発事故の現地調査の経験があり、原発事故の深刻さに強い懸念を抱いてきた人たちだった。彼らは事故後すぐに福島に入って放射能の調査を行い、実態を報道した。それが2011年5月15日に放送されたNHK ETV特集『ネットワークでつくる放射能汚染地図』である。番組が放送されると1000件をこす電話があり、再放送もされた。
 この番組がどのような経過をへて企画され、制作されたのか。関係者への取材と当事者たちが著したNHK ETV特集取材班『ホットスポット ネットワークでつくる放射能汚染地図』(講談社、2012年2月13日発行)から見てみる。
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 NHK放送文化研究所(通称愛宕山)の主任研究員、七沢潔(1981年NHK入局)は事故から3日目の13日日曜日の夜、厚労省所管の労働安全衛生総合研究所の研究員、木村真三と酒を飲んだ。二人は1987年にチェルノブイリ原発事故後の放射能汚染の実態を追う番組をつくって以来、原発に関する番組を取材制作してきた仲だった。
 木村(43歳)は会うと早々に、準備はできているからすぐに現地へ行こうと言った。これまでの経験からすると、原発からすでに放射性物質が放出され、近隣住民を襲っていると思われる。現地で放射線量をはかり、土壌や植物を採取して汚染の実態を把握して今後の防護対策を考えたい。木村が専門とする放射線衛生学はそのための学問なのだ。それなのに所属する研究所の上司からは、命令があるまで勝手に調査に動いてはならないというメールが入っている。だが辞表を出してでも福島へ調査に入るつもりだという。 
 七沢は2003年に東海村での臨界事故の原因を追及した番組を制作した翌年に、放送文化研究所へ異動を命じられ、以来7年間制作現場から遠ざかっていた。木村の提案にすぐに応じられる立場にはなかった。
 翌3月14日11時01分、福島第一原発の3号機で爆発が起きた。12日15時36分の1号機の原子炉建屋の爆発についで2度目の爆発だった。しばらくして七沢の携帯にNHK制作局文化・福祉番組部のチーフ・ディレクター大森淳郎から電話がかかってきた。大森と七沢は同い歳で、ながらくETV特集などを制作してきた同僚だった。
 ETV特集は週一回放送される番組で、通常は先まで放送の予定が組まれているが、大震災と原発事故という未曽有の事態をうけて編成の練り直しが急務となった。チーフ・プロデューサーの増田秀樹を中心に、福島原発事故をテーマとすることが決まり、経験者の七沢の力を借りることにしたのである。七沢が所属する放送文化研究所にも正式な応援要請を出すことになった。
 福島原発事故をどう取材するか。ETV特集班の打ち合わせは3月14日の午後4時から行われた。6時には七沢の要請を受けた木村真三も会合に参加した。木村は放射線測定器やポケット線量計、防護用具などのつまった鞄をもってきた。七沢は事故による放射能汚染がどのようなものかを把握するために、放射線測定器をもって現地を歩き、それをつぶさに記録することを提案して了承された。
 いつから現地に行くか。木村は翌朝出発しようといった。現地の情報が極端にとぼしく、1号機、3号機の爆発に続いて、2号機の原子炉圧力容器内の水位も下がりはじめていた。4号機でも使用済み燃料プールでの異常が報じられている。危険が予想された。だが木村の決意は変わらなかった。『ホットスポット ネットワークでつくる放射能汚染地図 NHK』には、このときの木村の発言が引用されている。
 「いま行って、すぐに土壌サンプリングをやらないと、立ち入り禁止になって入れなくなって、データ採れなくなりますよ。それに早く採らないと半減期が短いために消えてしまう放射性核種もあるんです。僕は東海村JCO臨界事故のときに行政手続きに一週間かかり、出遅れて失敗したんです。あれから12年間後悔ばかりでした。今度こそ、後悔したくないんです。」(同書、20頁)
 こうして翌日から七沢、大森、木村、ドライバーの今井秀樹の取材班が現地福島へ行くことが決まった。木村は辞表を所属研究所長あてに出してきていた。書き方が分からないので、インターネットで調べたということだった。
 事故直後から常磐自動車道は一般車両の通行は禁止されていたが、出発前に渋谷警察署から「緊急車両」の許可証を得ていたおかげで警察の検問を無事通過し、3月15日の夕刻、福島県田村郡三春町の宿についた。福島第一原発からは48キロの地点で、避難指定区域30キロの圏外だったが、宿屋の前の駐車場で空間線量を測ると毎時3.2マイクロシーベルト、通常の54倍という高い値を示した。この線量の下でずっと居続けると、2週間たらずで一般の人の年間被ばく限界量を上まわる値だった。
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by monsieurk | 2012-03-22 22:44 | 原発事故検証 | Trackback | Comments(0)

炉心溶融 III SPEEDI

 信じられない事実が飛び出したのは、今年2012年1月16日の国会の事故調査委員会での渡辺格文部科学技術・学術局次長の証言だった。渡辺は、SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測システム)の予測データが、福島原発事故から4日目の、去年3月14日から、「緊急事態に対応してもらう機関に、情報提供する一環として、外務省を通して在日アメリカ軍に提供されていた」と語ったのである。朝日新聞はこれをきっかけに取材して、当時の経緯を連載中の『プロメテウスの罠』で明らかにした。
 「震災から4日目、2011年3月14日朝のことだった。
 外務省北米局日米安全保障条約課の外務事務官、木戸大介ロベルト(33)のところに横田基地の在日米軍司令部から電話が入った。
「原発事故の支援に際して放射能関連の情報が必要だ。政府が情報を有しているなら提供してほしい」
 当時、外務省は昼夜12時間交代で動いていた。木戸は朝9時に登庁し、仕事を始めたばかりだった。上司の許可を得て、経済産業省など思い当たる省庁に電話した。電話はあちこち回された末、文部科学省の防災環境対策室に行き着いた。
 室長補佐の澄川雄(33)は「防災関係者で活用する分には提供して構わない」と答えた。
 木戸は担当者に「データを直接米軍に提供してほしい」と伝えたが、「震災後のどたばたで手が足りません」。木戸は「それなら私のほうでリレーしましょう」と答えた。
 午前10時40分、木戸のパソコンに原子力安全技術センターからメールが届く。文科省の委託を受け、放射性物質の拡散を予測する機関だ。木戸は添付されたファイル名に「SPEEDI」の文字を見つけた。
 SPEEDI(スピーディ)? 木戸には初めて聞く名称だった。
「名前も知らないし、なんのことか理解できませんでした」
 木戸はメールを在日米軍司令部に転送した。
 そのころ福島県では住民の避難が続いていた。気がかりは放射性物質の流れ方であり、それを予測するのが実はSPEEDIだった。
 SPEEDIはほぼ正確に予測を出していた。しかしその予測は、避難の資料としてまったく使われなかった。・・・どこが危険かもわからぬまま、多くの住民が遠くを目指した。」(『プロメテウスの罠』、188-189頁)
 木戸のパソコンに1時間ごとに届いたのは地図の画像データだった。これは3月14日から7月まで、木戸のパソコンを経由して在日米軍に送られた。
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 放射能被爆の危機にさらされた住民の避難に欠かせないこの貴重なデータが、なぜ活用されなかったのか。マスメディアはこの点を厳しく追及したが、対応の責任者だった菅直人首相、枝野幸男官房長官、海江田万里経済産業相など政府要人は、SPEEDIの存在自体を知らなかったといい、知る立場にあった官僚の責任者たちは誰一人として、避難案づくりの切り札とされる文部科学省所管のSPEEDIの情報を政府要人に伝えなかった。そしてこれを追及するマスメディアの側も、SPEEDIのデータが在日米軍に流されていた事実を国会証言まで掴めなかったように、原発事故直後は、SPEEDIが避難の判断材料に利用されていない事態を把握できていなかった。
 「独立検証委員会」の『調査・検証報告書』は、海江田経済産業大臣(当時)とのインタビュー(2011.10.1)を引用して、「福島原発事故対応の陣頭指揮をとった官邸トップ(菅首相、枝野官房長官、海江田経産相、福山官房副長官、細野首相補佐官=いずれも当時)は、SPEEDIがフル稼働していることはおろか、しばらくの間、その存在すら知らなかったと証言している。その応接室には、寺坂原子力安全・保安院長、斑目原子力安全委員長、武黒フェロー(東京電力)なども同席していたが、海江田経産相は、「このいわば原子力対策の最高指揮部隊の間では、残念ながらSPEEDIは一切話題に上がりませんでした。・・・知っていれば当然のことながらあのSPEEDIのデータはどうした、早く持ってこいということを聞くわけですが、存在を知りませんでしたからそういうことを言えませんでした」(同書、174頁)と述べている。3月11日以降になされたSPEEDIの予測結果が官邸トップに上げられることはなく、住民避難に関する決定の参考にされることはなかった。
 3月15日、文部科学省では、マスメディアからSPEEDIの計算結果の公表を求められたことを受けて、政務三役会議が開かれた。席上、SPEEDIと世界版SPEEDI(WSPEEDI)の計算結果が示され、情報を公開するかどうかが議論されたが、結論は出されなかった。そして翌3月16日には、文科省の鈴木副大臣が福山副官房長官たちと打ち合わせを行い、文部科学省がモニタリングのとりまとめを行い、原子力安全委員会がモニタリングの評価を行うという役割分担が決定され。だが原子力員会の斑目委員長は、こうした役割分担については文科省との間で連絡も意見交換も行ったことはないとしている。16日の決定が、SPEEDIの公表の主体を一層あいまいにしたことは事実だった。
 『プロメテウスの罠』には、もう一つ重大な事実が報告されている。
文部科学省茨城原子力安全管理事務所から応援に入った渡辺眞樹男は、3月15日の午後、原発から5キロの現地対策本部から福島県庁に撤退した。15日朝には2号機が破損し、大量の放射性物質が放出された。福島県庁は原発から60キロ離れていた。
 渡辺は撤退したばかりの15日の夜、対策本部から浪江町の山間部の3カ所の放射能の測定を行うように指示された。午後9ごろ現地に着いて測定してみると、3カ所とも数値が高い。とくに赤宇木(あこうぎ)地区では毎時330マイクロシーベルトを記録した。
 すぐに報告しようとしたが、携帯はつながらず、雨のために衛星携帯も使えなかった。急いで川俣町の宿舎まで戻り、公衆電話で報告した。戻る途中、明かりがともる家も多く、人びとがまだ沢山残っていた。
 翌16日、文科省は渡辺が測定した数値を発表したが、地区名は伏せられ、浪江町に伝えられることもなかった。対策本部が渡辺に放射線量の高い地区をピンポイントで指示したのはSPEEDIの予測結果を見たからで、文科省は汚染の概要をつかんでいた。しかしこれが住民避難の参考にされることはなかったのである。
 的確な情報が出されないまま、私たちの不安は高まった。その一方でドイツの気象庁などが放射性物質の拡散予測を公開し、それがインターネットを通して知らされると、政府が公表しないのは情報を意図的に隠しているのではないかとの憶測が高まった。適切なリスク・コミュニケーションを欠いた結果だった。
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by monsieurk | 2012-03-20 06:00 | 原発事故検証 | Trackback | Comments(0)

炉心溶融 II 専門家の実態

 福島原発の事故の実情と対応については、これまで国の「東京電力福島原発事故調査・検証委員会(畑村洋太郎委員長)」の中間報告や、「福島原発事故独立検証委員会(北澤宏一委員長)」の報告書、さらには多くのルポルタージュが公表されている。そこに描かれているのは、専門家といわれる人たちの無残な実態である。それを示す局面はいたるところにある。
 3・11の大地震と大津波によって、福島第一原発の全交流電源が失われ、原子炉の空焚態が懸念された。時間の経過とともに格納容器内の圧力が上がり続け、爆発の危険が高まる。これを回避するには放射能を帯びた気体を外部に逃がすベントしがないが、それがなかなか実行されない。こうした状況で、菅直人首相は福島原発を直接視察すると発表した。
 菅に同行したのは、原子力安全委員会委員長の斑目春樹、首相補佐官の寺田学、それに内閣審議官下村健一たちである。下村は学生時代に菅の選挙運動を手伝ったことがあり、TBSの記者出身である。一行は官邸の屋上から要人輸送用のヘリコプター「スーパーピューマ」に搭乗して福島に向った。3月12日午前6時46分だった。
 菅は機内で斑目に、「このままの状態だとどういうことがおきるのか」ときいた。斑目は、「燃料被覆管のジルコニウムが溶けて水と反応して水素が発生している恐れがあります」と答えた。これは原子炉内で実際に起こっていたことだった。菅が重ねて訊ねた。「爆発する危険性はないのか」。すると斑目は、「水素は格納容器の中に逃げますが、格納容器の中は窒素が充満しており酸素はないので爆発することはありません」といった。さらに、「いま取り組もうとしているベントという作業によって大気中に放出されれば、酸素があるので燃焼反応は起きますが、それは煙突の上で起きるので爆発的事象にはなりません」と言った。このやりとりを、同行した寺田と下村がはっきりと記憶しているという。
 福島原発に着いた菅は、説明役の東電副社長の武藤栄と所長の吉田昌郎に、「いったい、いつになったらベントをやるんだと」と強い口調で言った。武藤はくどくどと現状を説明し、あと4時間はかかると答えた。菅は激高して、「もう、東電はずーっと、『あと何時間です』って言っている。ずーっとそうじゃないか!」と詰問した。すると現場責任者の吉田所長が、「とにかく必ずやります。どんなことがあっても、決死の覚悟で、決死隊をつくってやります」と請け負った。
 下村は吉田を見て、「こりゃ全然違うわ、官邸に来ている木偶の坊たちと全然違うわ」と思ったという(大鹿靖明の寺田および下村へのインタビューによる)。菅一行は50分間ほど滞在したあと、ヘリで福島第一原発の上空を旋回して東京へ戻った。
 斑目の楽観的な見通しがもろくも崩れたのは、彼らが帰京した6時間半ほど後である。午後3時36分、1号機の原子炉建屋が爆発した。官邸5階の補佐官室にいた寺田学は、「テレビを見てください!」という秘書官付の事務官が叫ぶのを聞いた。日本テレビの画面には1号機が爆発する様子が繰り返し映し出された。
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 寺田はいそいで隣室の総理執務室に入っていくと、菅は福山哲郎副官房長官、斑目委員長と向き合って打ち合わせをしていた。寺田は、「総理、原発が爆発しました」と言って、ひったくるようにリモコンを奪って画面を4チャンネルに切り替えた。火花が散って、もうもうと噴煙があがる衝撃的な映像が繰り返し映し出された。
 菅は絶句したままだった。広報担当の下村内閣審議官が、「斑目さん、今のはなんですか? 爆発が起きているじゃないですか」と言った。福山の記憶によると、そのとき斑目は「アチャー」という顔をし、両手で頭をかかえて、「うわーっ」とうめいた。そしてそのまま前のめりの姿勢でしばらく動かなかった。福山副官房長が、「あれはスリーマイルとかチェルノブイリの爆発じゃないんですか」ときいたが、明確な回答はなかった。
 一部始終を目撃した下村にとって生涯忘れられない光景だった。下村は、「これが日本の原子力の最高の専門家の姿なのか」と思ったという(大鹿靖明『メルトダウン』、94頁)。
 斑目は後に、爆発の映像を見て「水素爆発だ」とすぐに思いついたが、首相の原発視察に同行した折に、「水素爆発はない」と答えたこともあり、呆然自失してそのことを「誰にも言えなかった」と証言している(『調査・検証報告書』、81頁)。
 さらに別のところでは、「爆発はないと言ってきたのは圧力容器のことであって、原子炉建屋のことではない」と発言し、さらに、「1号機が爆発したとき何を申し上げたか記憶にありません。しかし、私がそれまで申し上げていたのは、少なくとも技術的な知見ではあくまでも格納容器内の爆発はない、ということです。建屋には空気があるのでそこでは爆発がおきることは承知していましたと弁明している。(大鹿、同、95頁)
 これに対して菅は、「いつそんな条件をつけた? そんな条件はいままで一度も言っていないじゃない?」と語っている。
 官邸はこれをきっかけに斑目を信用しなくなった。下村健一の感想は、「みんな学校秀才なんだ。学校の先生が試験に出すと予告した範囲内では必死に勉強して100点は取れるけれど、少しでも範囲外だと0点なんです。想定を超える事態にまったく対応できないんです。斑目さんも保安院も東電も」というものだった。
 斑目春樹は1948年生まれ。専門は流体熱工学で、東大工学部大学院教授として原子力工学を研究分野とした。2010年まで教授をつとめたあと、内閣府の審議会の一つ、「原子力安全委員会」の委員長となり、事故から1年たった現在も同じポジションに留まっている。
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by monsieurk | 2012-03-17 10:18 | 原発事故検証 | Trackback | Comments(0)

炉心溶融 I 3000万人避難のシナリオ

 3・11の福島第一原発事故から1年。あのとき何が起こり、何がなされ、何がなされなかったのか。それを検証する本を片端から読んだ。朝日新聞朝刊に連載中の「プロメテウスの罠」の既刊分をまとめた『プロメテウスの罠 明かされなかった福島原発事故の真実』(学研)、大鹿靖明『メルトダウン』(講談社)、『福島原発事故 独立検証委員会調査・検証報告書』(ディスカヴァー)、広河隆一監修『検証 原発事故報道 あのとき伝えられたこと』(Days Japan)などである。いずれも優れたルポルタージュである。
 これらから浮かび上がるのは、日本が崩壊寸前まで追い込まれた事故の深刻さと、事態を前に有効な手を打てなかった当事者たちの無策ぶりである。3月11日の全電源喪失以来の危機は連続していたが、最大の危機は3月15日午前6時ごろに、4号機建屋が爆発したときだった。
 大鹿靖明はこう書いている。「他の号機は爆発したとはいえ、核燃料は、原子炉圧力容器や格納容器、コンクリート製の遮蔽壁などで多重に防御されていた。だが、4号機の核燃料の場合はそうではない。原子炉からとりだされて格納容器の外にある。建屋の壁も激しく損傷しており、上空から使用済み燃料プールが見える状態になっている。他の号機の燃料プールにあるものよりも、崩壊熱は高く、水が蒸発する速度が速い。水が蒸発して燃料がむき出しになって、これまでと同じように被覆管のジルコニウムと水蒸気が反応して水素が発生すると、大規模な水素爆発がありうる。そのとき、原子炉圧力容器や格納容器といった遮蔽するものがまったくない4号機は、甚大な放射性物質をそのまま外気に撒き散らしてしまう。/ 首都圏全域が被爆しかねない。日本滅亡の瀬戸際である。この日、日経平均株価は1015円安と暴落し、8605円を記録している。」(『メルトダウン』、136頁)
 原発が相次いで爆発していたころ、保安院の寺坂信昭委員長、エネルギー庁の安井部長、原子力安全委委員会の斑目春樹委員長たちは、メルトダウンを「炉心損傷」と言って、事態を軽微にみせるような説明を繰り返した。彼らに不信感を抱く菅直人首相は、最悪の事態になったときのシミュレーションを知人の学者に依頼した。
 2、3日後に届いた予測結果では、放射能汚染は東日本全体におよぶとされた。3月25日、原子力委員会の近藤駿介委員長は、細野豪志首相補佐官に「福島第一原子力発電所の不測事態シナリオの素描」と題したシミュレーション結果を手渡した。それによれば、新たな水素爆発など最悪の事態に陥った場合は、原発から半径170キロは強制移住、250キロ圏も避難の必要があるとされていた。170キロ圏には新潟県や北関東が含まれ、250キロ圏だと東京や横浜がすっぽり入る規模だった。この場合は3000万人が避難する必要があった。
 こうした事態に強い危惧を抱いたのはアメリカ、フランスなど外国政府だった。アメリカ側は、4号機の爆発で燃料プールの底が抜けて、核燃料が下に落ちたのではないかと疑い、日本在住のアメリカ国籍の人たちの退去指示を検討した。フランスも同じような状況分析を行い、3月15日に、フランス国民は関東地方から退去するように呼びかけた。実際、東京麻布にあるフランス大使館では、必要最低限の館員を残して多くを関西へ移動させた。それにしたがった領事業務は一時神戸他の関西の領事部で行うことになった。
 このときフランスの政府や企業はフランスへの帰国を希望する人たちのために、多くのチャーター便を用意した。私たちのもとへも、フランス人の義理の息子が勤める企業から、家族扱をするので希望があればチャーター便を利用できるという知らせがあった。それほど外国はマスメディアを含めて福島の事態を深刻なものと評価していたのである。
 日本の中心が崩壊しかねない危険にさらされていたとき、東京電力の清水正孝社長はふらふらして、独り言をいうようになっていた。そして3月16日には倒れ、21日まで東電社内で横になっていた。その後30日には入院した。『メルトダウン』には、大鹿の取材した信じ難い事実が記されている。
 「清水は入院中の4月4日、三井住友銀行に対して住宅ローンの残高を全額返済している。彼は2年前に同行から1億円を借りて、三井不動産が開発した東京・赤坂の高層マンション20階82平方メートルの居室を購入していた。そのローンの残額を一括繰り上げ返済したのだった。 / それも、担当の銀行員を病室に呼んで手続きを任せるのではなく、パソコンに暗証番号を打ち込んでおこなっている。/ そのほうが、繰り上げ返済の手数料が安かったからだと思われる。」(同、141頁)
 これは大鹿が三井住友銀行から提供された情報によるとのことである。ちなみに三井住友銀行は、旧三井銀行以来の東京電力のメーンバンクである。
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by monsieurk | 2012-03-14 08:00 | 原発事故検証 | Trackback | Comments(0)

母方のほうへ II マルセル・プルースト

 d0238372_1183067.jpgマルセル・プルーストの長編小説『失われた時を求めて』の冒頭では、主人公である語り手の幼いころの一つの体験が物語られる。
 主人公の一家が、コンブレーのレオニ叔母の家で復活祭の休暇をすごしたある晩、夕食に招かれた隣人のスワンが訪ねてくる。母親はスワンをもてなすのに忙しく、自室で早く寝かされた主人公に、おやすみのキスをしに来てくれない。
 スワンが帰った後、ようやく二階へ上がってきた母親に、主人公はベッドから飛び出して抱きつき、部屋に来てくれるように懇願する。母親は普段の禁を破って、泣きじゃくる主人公が眠りにつくまで本を読んでくれる。それは翌々日の誕生日のために祖母が買っておいてくれた、ジョルジュ・サンドの『フランソワ・ル・シャンピ』だった。
 『失われた時を求めて』は、主人公がさまざまな体験を重ねたあと、それらを永遠化するべく小説を書く決心をするという一種の芸術家誕生の物語だが、冒頭で展開されるこの挿話は重要な意味をもっている。
 母親は動揺し、興奮する幼い主人公を鎮めるために、祖母が選んだ小説を、子どもには不都合な恋愛の場面などは飛ばしながら、鋭い理解力を示す魅力的な声で読んでくれる。主人公はその声を介して、精神に直接働きかけてくる文学作品の力を無意識裡に感得する。
 「母は忠実な読み手ではなかったが、真心がこもっていると認めた作品に関しては、その解釈に敬意と率直さが込められ、その美しくやさしい声の調子の点で、すばらしい読み手だった。(中略)ジョルジュ・サンドの散文を読むときでも、注意深くその卑小な気取りをすべて排除し、そこに力強い流れが入り込むように工夫し、まるで自分の声のために書かれたような文章、いってみれば母の感受性の音域にすっかりおさまる文章に求められる自然な愛情や豊かな優しさをたっぷりと注ぎ込むのだった。」(A la recherche du temps perdu Ⅰ, Bibliothèque de la Pléiade, pp.41-42)
 こうして、読み手である母の巧みな朗読によって、『失われた時を求めて』の主人公(それは作者マルセル・プルーストと重なるが)の感受性は育まれていくのである。
 プルーストがどれほど母方の家庭環境から影響をうけ、それを重要と考えていたかは、この逸話の舞台とされているコンブレーについてもみることができる。
 小説ではコンブレーと名付けられたボース平野の田舎町は、実際はイリエといい、もともとマルセルの父アドリアン・プルースト(公衆衛生の専門家でソルボンヌの教授)一族の故郷だった。プルーストの一家は、ヴァカンスになるとここに滞在するのが長年の習慣だった。それをプルーストは小説の舞台にするにあたって、母方の故郷につくり替えたのである。
 町の名前も作品にちなんで「イリエ=コンブレー」と正式に呼ばれるようになり、町の中心には父方の叔母のものだった家が現存する。この家は「プルースト記念館」として公開されていて、二階のマルセルの寝室だった部屋のテーブルには、小説に出てくるジョルジュ・サンドの『フランソワ・ル・シャンピ』が置かれている。
 声が大きな役割をはたす挿話がもう一つある。主人公が大切にする祖母は、第三部の『ゲルマントのほう』で尿毒症を患い、やがて病床に伏すようになるのだが、まだ元気だったときにパリを離れた主人公に電話をかけてくる場面がある。
 主人公は、ゲルマント公爵夫人のサロンに出入りできるよう便宜をはかってもらうために、ゲルマント一族の一員である友人のサン=ルーを訪ねてドンシエール(地方都市のオルレアンやフォンテーヌブローがモデルとなっている)へ行くが、サン=ルーはパリにいる主人公の祖母を安心させるために彼女に手紙を送り、ドンシエールの郵便局へ電話をかけるように勧めていたのである。
 電話という当時の最新技術は、1876年4月にグラハム・ベルが特許を取り、2年後の1878年にはアメリカ各地に100をこす電話会社が設立されていた。この翌年にはパリで電話が実用化され、1884年からは市外電話回線も引かれはじめた。プルーストは1896年の夏、パリ近郊のフォンテーヌブローに滞在していたとき、はじめて電話機に接したといわれる。ただ当時の電話は技術的精度が低く、市外電話がうまく通じることはまれだった。プルーストはこの体験を、祖母をめぐる挿話に利用した。
 主人公はサン=ルーに促されてドンシエールの郵便局へ行くと、すでに祖母から電話がかかってきていた。「いつも苛々している神秘のしもべ、目に見えないものに仕える闇の女司祭である電話の交換嬢」(A la recherche du temps perdu Ⅱ, Bibliothèque de la Pléiade, p.432)にいわれて受話器を耳に当てるが、パリから話しかける祖母の声は雑音などにさえぎられ、あるいは他の通話と混線してよく聞きとれない。
 「こちらの呼び出しが先方に響くとすぐに、私たちの耳だけがそれに向かって開かれている、霊の出現に満ちた闇のなかに、かすかな音――抽象的な音――距離を取り去った音――がして、なつかしい人の声が私たちに発せられる。/ 私たちに話しているのはあの人だ、あの人の声だ、そこに聞こえているのは。だがなんと遠いことか!」(ibid.p.432)
 思い返してみると、これまで祖母と話すときはいつも、「彼女が言っていることをその顔の開かれた譜面の上にたどっているのであって・・・その譜面の中で大きな場所を占めているのは彼女の目だったのにひきかえ、彼女の声そのものを聞くのは今日がはじめてだった。・・・そのせいか、その声がいかにもやさしいことを発見した。」
 だがそんな祖母の声はかすれていき、やがて聞こえなくなってしまう。主人公はこの事態に不安を感じる。「私がいま亡霊たちの間に迷いこませてしまったのは、すでに亡霊となってしまった愛しい人のように思えた。そして私は電話の前でただ一人、虚しく繰り返しつづけるのだった、「お祖母さま、お祖母さま」、あたかもただ一人残されたオルフェウスが、死んだ人の名前を繰り返すかのように。」(ibid. p.434)
 ギリシャ神話の太陽神アポロンの息子で、最古の詩人であり楽人のオルフェウスは、死んだ妻エウリュディケを探しに、竪琴を鳴らし歌いながら黄泉の国に降りていく。そこで彼が冥府の王と交わしたのは、妻を助けたければ決して後ろを振り向かないという約束だった。しかし黄泉から帰還する前に、後ろについてきているはずの妻を見ようと振り返ってしまい、そのために帰還のこころみは水泡に帰してしまった。主人公はオルフェウスのように、声が聞こえず闇の中に沈んでしまったかに思える祖母を奪還しようと、懸命に呼びかけるが虚しい。そして主人公は愛する祖母がやがて亡くなることを予期して慄然とするのである。
 マルセル・プルーストの母方はパリに住むユダヤ系の一族で、母ジャーヌ・ヴェイユの祖父はロレーヌ州の出身の資産家で、父ナテ・ヴェイユは株式仲買人だった。プルーストは母方の一族を通してユダヤ系フランス・ブルジョアジーとつながっており、彼自身も肉体的にも精神的にもその特徴をうけついでいた。プルーストの文学的宇宙は、こうした母方の文化的・経済的環境と父方のフランス的なものの複合から形成されてきたのである。
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by monsieurk | 2012-03-09 01:23 | | Trackback | Comments(0)

母方のほうへ I J.P. サルトル

 アニー・コーエン=ソラルの『サルトル1905-1980』(Annie Cohen=Solal: Sartre 1905-1980,Gallimard,1985)を読み終えた。ガリマール社の「フォリオ叢書」に入っている新書版で881頁の大著は、読みごたえ十分で興味は尽きなかった。
 彼女の調査の徹底ぶりは、この本格的評伝と同時に書かれた「クセジュ文庫」の『ジャン=ポール・サルトル』(Jean-Paul Sartre, Collection QUE SAIS-JE? No.3732)でも発揮されている。サルトルは1963年に自伝『言葉』(Les Mots)を発表したが、彼は父方の故郷であるペリゴールにつては沈黙し、もっぱら母方の家系の影響を強調した。コーエン=ソラルはこの事実に注目して、『評伝』の第一章、「ジャン=バチストへの砲火」や、「クセジュ文庫」の第五章「アルザスとペリゴール、あるいは古臭いものの拒絶」で、その理由を追究した。
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 サルトルの父、ジャン=バチスト・サルトルは、1904年5月5日に、アンヌ=マリー・シュヴァイツァーとパリで結婚した。ジャン=ポールは二人の間に、結婚の翌年生まれた「新床の子ども」である。
 父ジャン=バチストは、フランス南西部ペリゴール地方の小都市ティヴィエで開業していた医師の息子で、バカロレアを得たあと、グラン・ゼコールの最高峰一つである理工科大学校に合格して、卒業後は海軍士官となった。母アンヌ=マリーの父シャルル・シュヴァイツァーはパリ大学教授で、シャルルの父フィリプ=クレティアンの弟ルイの息子が、ノーベル平和賞受賞者の医師アルベール・シュヴァイツァーである。シュヴァイツァー一族はアルザス地方の出身で、多くの教育者を輩出していた。
 ジャン=バチスト・サルトルとアンヌ=マリーの結婚生活は長く続かなかった。ジャン=バチストは、軍人として勤務したインドシナで罹った病気が原因で、1906年9月に亡くなった。ジャン=ポール・サルトルは1歳で父親を亡くしたのである。その後はシュヴァイッツァー一族の庇護のもとで成長した。
 アニー・コーエン=ソラルは、サルトルの生涯を記述するにあたって、父方の家族関係を調査し、サルトルの叔母にあたるランヌ夫人が所有する膨大な手紙類を発見した。こうして作家サルトルがあえて無視した父方の実態を明るみに出し、父と母、二つの家系の間の関係にメスを入れた。
 たとえば父方の祖父である医師エイマール・サルトルが亡くなったあと、サルトルの後見人となった伯父(サルトルの父の兄)ジョゼフは、サルトルの母アンヌ・マリーに宛てたある手紙で、「〔サルトル家の〕ガラスケース付きの柱時計は私がいただきます。また柱時計と同じ部屋にあるテーブルは、ランヌ夫人〔彼の妹、サルトルの叔母〕がサロンの見事な安楽椅子をとるならば、私の食堂用に取っておきたいと思います」と、遺産相続の権利を主張している。コーエン=ソラルはこの手紙から、恵まれた学力を武器に故郷を出た弟とは違い、ペリゴールの地に縛りつけられて生涯を送った「気持のすさんだ吝嗇な郷士」の姿が浮かんでくると、ジョゼフの姿を想像している。
 伯父ジョゼフは後見人の資格で、弟が息子のために残した年金の受取人となり、それをサルトルの母アンヌ・マリーに渡すことを拒んだ。彼女がようやく息子の後見権を取り戻すのは、1917年にジョゼフ・マンシーと再婚したあとのことである。このときジャン=ポール・サルトルは12歳になっていた。
 コーエン=ソラルはこうした状況を踏まえて、「シュヴァイツァー家とサルトル家との間は、プロテスタントのフランスとカトリックのフランスの対立であり、都市的なフランスと農村的フランス、ドイツ出身の教育者の進歩的なフランスと、無数の郷士からなる急進的なフランスとの対比である」と書いている。サルトルは、ジョゼフ・サルトルに代表されるフランス南西部の農村的フランスを拒否したのである。
 『奇妙な戦争中の日記』のなかに、農村への憎悪を露わにした文章がある。当時サルトルは、動員されて気象観測を担当する兵士として東部戦線で従軍していた。これは戦火に追われたアルザス・ロレーヌの人たちが、南西部へ疎開する事態を描いた個所である。
 「彼ら〔アルザスの人たち〕はリムーザンの土百姓たちのところへ送られたのである。遅れていて、愚鈍で、金儲けにがつがつしている貧乏人の最低の人間たちのところへだった。自分たちの整然とした手入れの行き届いた耕地や、美しい家屋の思い出にまだ目が眩んでいるアルザスの人たちが、あの田舎、あれらの汚い町のなかに、猜疑心が強く、醜くて、大抵は汚らしいあの連中のところに、落ち込んだのである。(中略)ああした小さな町は、彼らの清潔好きの習慣を逆なでしたに違いない。たとえばティヴィエでは、まだ一、二年前までは、家庭の塵や糞尿はその辺の水たまりにぶちまけられていた。いずれにせよ結果は明らかで、これらのアルザスの人びとは郷里に手紙を書く際には、リムーザン人を野蛮人扱いした。(中略)一方、リムーザンの人たちは、アルザス人をドイツっぽ(ボッシュ)扱いして、それに反撃した。」(Cahiers de la drôle guerre (septembre 1939-mars 1940, Gallimard,pp.231-232)
 コーエン=ソラルはここに、結婚後、夫の生まれ故郷ティヴィエに着いたときに、アルザス生まれの母が、夫の一家から受けた扱いと、そのときの心情が重ねられていると推測する。サルトルは、「同じフランス人ではあっても、自分が持つ文化とはまったく無縁な人たちを相手に苦闘する母」の姿を思い描き、そうした苦難をあたえた父方の「ペリゴールのほう」を拒絶したのである。
 サルトルの拒否ないし黙殺は、彼が1939年に雑誌「新フランス評論(N.R.F.)」に発表した、『フランソワ・モーリアック氏と自由』の辛らつな論調にもあらわれている(モーリアックは南西部出身のブルジョワジーの文学的代表であった)。
 さらに初期の代表作『嘔吐(La Nausée・ 吐き気)』の舞台ブーヴィルは、従来彼がリセの哲学教師をつとめた北フランスの港街ル・アーヴルを模しているとされてきたが、アニー・コーエン=ソラルは自らの実地調査をもとに、陰鬱な雰囲気を提供したのはティヴィエである可能性の方がはるかに高いとする。さらにフローベールを論じた後年の大作『家の馬鹿息子』で展開される諸問題を理解するには、父方の家族に関する具体的情報が助けになると指摘している。アニー・コーエン=ソラルの著作は優れた評伝の在り方の一典型となっている。
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by monsieurk | 2012-03-04 12:34 | | Trackback | Comments(0)

能と呼吸

 東京・渋谷と神奈川県の中央林間をつなぐ田園都市線沿線には、幾つかの大学や大学病院があり、それぞれ活発な広報活動を繰り広げている。利用する駅の無料配布ボックスで、昭和大学が出しているマガジン「Educe Vol.5」を見つけた。そこに同大学医学部第二生理学教室の本間生夫教授に関する興味深い記事が載っていた。
 本間教授は呼吸生理学が専門で、かねてから心と呼吸の関係をテーマに研究をつづけてきた。呼吸には、酸素を取り入れて体内の二酸化炭素を調節する「代謝性呼吸」と、温度などの外的環境の変化や体内環境の変化によって変わる「行動性呼吸」の二種類がある。そして「行動性呼吸」のなかに、喜怒哀楽などの情動にかかわる呼吸があり、本間教授の教室では、情動を司る脳の扁桃体の動きと呼吸の関連を調べてきた。
 そうしたなかで、本間教授は呼吸と「能」の関係に着目したという。西欧の演劇では心の動きは、身振りや手振り、あるいは表情の変化によって表現される。それに対して、能では演者の動きは静的で、表情は能面の下に隠されている。それにもかかわらず、演者の表象する感情は、観るものに的確に伝わってくる。これは「内的表象」とでも呼べるものだが、能の演者はどのような方法で、感情の起伏を表象しているのか。
 本間教授はここに自らのテーマである、心と呼吸の相関を解く鍵があると考えて、懇意である観世流の能楽師、梅若猶彦氏に『隅田川』を演じてもらい、脳の変化と感情の表出の関係を調べたという。
 観世元雅作の謡曲『隅田川』では、舞台の幕が揚がると、そこは隅田川の岸辺で、渡し守が、「これが最後の渡しだが、今日は大念仏で沢山人が集まる」と語る。ワキツレが、「都から来た面白い狂女を見た」といい、そこに狂女が、子を失ったことを嘆きながら登場する。そして対岸の柳の根元に人が大勢集まっているのはなぜかと問う。
 渡し守は、人買いに攫われてきた子がいたが、病気になってこの地で捨てられ死んだと告げる。その子は死の間際に、「自分は、京は北白河の吉田某の一人息子だが、父母と歩いていたとき、父が先に行ってしまい、母と二人になったところを攫われた。自分はもう駄目だが、京の人もここを通るにちがいない。道の傍らに塚をつくり、柳を植えてほしい」と頼んだ。憐れんだ里人はその通りにして、一年に一度念仏を唱えることにしたのだと語る。
 d0238372_011217.jpgそれこそ探し求めていたわが子と気づいた狂女は念仏を唱える。すると一瞬、子が姿を現したかに思えたが、母の前にあるのは塚と生い茂る草だけであった、という悲しい物語である。
 本間教授は、狂女を演じる梅若猶彦に協力してもらい、舞台上の能楽師の脳の活動を調べた。その結果、「表情はまったく変化していないのに、ただ呼吸だけが激しく変化していた。悲しい場面では、呼吸が激しく乱れ、扁桃体が激しく活動していることが分かった」という。悲しみや不安など情動の変化はすべて呼吸に伴って出現する。能の先達は、呼吸を変えると身体の様相が変わることを心得ていて、それを舞台表現に利用しているという。私たちは日常、緊張をほぐすのに呼吸を整える方法をとるが、能の内面表現もこの方法に則って実現されているのであるが分かった。
 本間生夫教授は自身も能を習い、フランスの劇作家ジャン・ジロドゥの『オンディーヌ』を現代能にしたという。ちなみに「オンディーヌの呪い」とは、先天性の無呼吸症候群を指すとのこと。なぜかはお調べください。
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by monsieurk | 2012-03-01 23:50 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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