ムッシュKの日々の便り

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明晰ならざるもの・・・

 この週末から連休がはじまるが、フランス製の手帳をひらくと、5月1日は祝日になっている。言うまでもなくこの日は、Fête du travail(労働の日・メーデー)だが、フランスではもう一ついわれがある。
d0238372_12311968.jpg フランスの人たちはこの日、知人や日頃お世話になっている人に、鈴蘭(muguet)の花束を贈る習慣がある。パリ郊外の森でも、少し奥に入れば白い可憐な花をつけた鈴蘭の群生を見つけることができ、暇のある人は4月末の週末に、ブーローニュやフォンテヌブローの森へ出かけて、ミュゲを摘んで花束をつくる。街の花屋の店先はむろんのこと、地下鉄の構内にも花屋が店開きして鈴蘭を売る。子どもたちは前日登校する際に、先生たちにプレゼントする鈴蘭を忘れずに持っていく。
d0238372_12311491.jpg 5月はまたファッシン・ショーの季節でもある。ファッション・ショーといえば、一部の人たちに人気のあるフランス人形が、かつてはファッションの普及に役立っていたのをご存じだろうか。
 ルイ14世と宰相リシュリューの治下、ヨーロッパの大国にのし上がったフランスは、文化の面でもヨーロッパに君臨するようになる。こうした勢いはその後もつづき、ファッションの面でも、フランス宮廷の流行をいち早く採りいれることが、遠くロシアを含めた貴族社会の願望となった。だが、当時はいまのように簡単に旅ができる時代ではない。そこで最新流行の服装をさせた人形が、パリを出発する馬車に乗せられて四方八方に送られたのである。
 18世紀、啓蒙主義の時代になると、華やかなファッションだけでなく、フランス語がヨーロッパの上流社会を席巻することになった。なかでもプロシャのフリードリッヒ二世は大のフランス贔屓で、「ドイツ語は野蛮な方言だ」とまで言い出す始末だった。
 こうした国王の意をうけて、ベルリンのアカデミーが、懸賞論文を募集した。論文のテーマは、(1)フランス語を全ヨーロッパの普遍的な言語としたものは何か、(2)フランス語は何ゆえにそのような特権に値するか、(3)フランス語はその地位を維持できると思われるか、というもので、締切は1784年1月1日。設問自体がもちろんフランス語で書かれていた。
 ヨーロッパ中から大勢の応募があり、最後に残ったのは二人。一人はシュトゥットガルト大学の哲学教授シュワーブで、論文はドイツ語で書かれていた。もう一人は無名のフランス人リヴァロール(Antoine Rivarol)で、最終的には二人の論文がそろって当選ということになった。
 リヴァロールの論文、「フランス語の普遍性について(De L’universatité de la langue française)は、フランスが優れている理由を、「文の構成法・syntaxe」にあるとして、主語-動詞-目的語という語順が、人間理性の秩序を忠実に示すからだとした。そして、「われわれの言語(フランス語)の賞賛すべき明晰さ、その永遠性の基礎はそこにある」と述べた後に、有名な文句を綴ったのである。いわく--
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 Ce qui n’est pas clair n’est pas français; ce qui n’est pas clair est encore anglais, italien, grec ou latin.
(明晰ならざるものフランス語ならず、明晰でないのはいまだ、英語、イタリア語、ギリシャ語あるいはラテン語である。)

 リヴァロールの名前はすっかり忘れられてしまったが、この名句はいまもってフランス人だけでなく、フランス好きの心をくすぐりつづけている。リヴァロールが、「明晰ならざる言葉」としてギリシャ語やラテン語を挙げたのは、フランス文化が古典語の軛〔くびき〕を脱した勝鬨ともとれ、ドイツ語をその中に入れなかったのは、主催者のベルリン・アカデミーに対する配慮だったかもしれない。
 しかしそれから2世紀が経ったいま、リヴァロールが世界一理性的な言葉と自賛したフランス語は、「野蛮な」英語の前に劣性である。EUの記者会見はフランス語と英語で行うのが原則だが、EU事務局の実際の仕事では、いまや国際語となった英語が圧倒的である。おひざ元のフランスでも小学校の2年生から英語の授業が行われている。
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by monsieurk | 2012-04-26 12:38 | フランス(文化) | Trackback | Comments(0)

フランス大統領選挙

 5年に一度行われるフランスの大統領選挙の第1回投票が、4月22日、この日曜日に行われる。共和制をとるフランスでは、主権をもつ国民の意向が尊重され、国民の直接投票で選ばれる大統領の権限はきわめて大きい。
 ヨーロッパの国々では、国民議会の議員を選出し、多数派のなかから首相が選出されて内閣を組織するところが大半であるのに比べると、フランスの大統領の選出は異例といえる。いまの政治制度はドゴールの主導でつくられた第5共和制の憲法の枠のなかにあり、大統領が首相を指名して内閣が組織される仕組みである。
 今回の大統領選挙に立候補しているなかで、現職で与党「国民運動連合」のニコラ・サルコジに対抗するのは、社会党の前の第一書記のフランソワ・オランドや、右派「国民戦線」の党首マリーヌ・ルペン、元社会党員で共産党と提携したジャン=リュック・メランションなどである。
 社会党の候補者オランドは今年57歳。2008年までの11年間、社会党第一書記をつとめていた。前回2007年の大統領選挙でサルコジ氏に敗れたセゴレーヌ・ロワヤルとは長年同居して子どももあるが、前回の選挙の直後に離婚している。
 もう一人の有力候補のマリーヌ・ルペンは、右派政党「国民戦線」を創設したジャンマリ・ルペン氏の三女で43歳。少年犯罪などを専門とする弁護士で、父親の跡をついで「国民戦線」を引っ張ってきた。私生活では離婚した夫との間に3人の子どもがいる。
 今回のフランス大統領選挙では大きく3つの争点があり、それを中心に論戦がくりひろげられてきた。
 ヨーロッパはギリシャの経済危機に端を発した深刻な状況は依然として変わっておらず、一番の課題はいかにして財政の健全化をはかるかである。社会党のオランドは、1月末に選挙公約を発表したが、彼が公約の最初に掲げたのが雇用の創出だった。「私は失業と戦う」として、教育の分野で6万人を新たに雇用し、サルコジ政権下で65歳に引き上げられた定年年齢を60歳に戻す、さらに以前の社会党政権で導入された1週35時間労働の制度を守ると述べて、社会党の支持基盤である労働者やサラリーマン層の支持を重視する政策を打ち出した。これらを実現するには政府の財政出動が必要で、いわゆる「大きな政府」路線である。
 これに対して保守のサルコジは、ヨーロッパ全体の経済を立て直すことが急務ないま、さらなる税金の投入は、この課題に逆行するもので反対だと述べ、付加価値税(日本の消費税に相当)を、現在の19.6%から今年10月から21.2%に引き上げて財政の健全化をはかり、その代わりに、企業の社会保障の負担を減らすことで民間企業の活力を生み出し、それによって10万人の雇用を生み出すという計画を打ち出した。
 ヨーロッパの付加価値税は日本に比べて高いが、食料品など日常生活に直接かかわるものは低く抑えられ、付加価値税が高い分、社会保障が手厚くなっている。負担は多いが見返りも大きく、安心が得られるという構図である。この点オランドは、付加価値税のさらなる増税には反対で、富裕層や大企業への増税で税収の増加をはかるとしている。今回の大統領選挙でも、どのような社会を選択するかという争点は明確に示されていると言える。
 大統領選のもう1つの争点になったのが、福島の深刻な事故をうけて、原発大国フランスの原子力発電を将来的にどうするかである。この点に関しては、サルコジは推進、オランドは電力の75%を原発に依存している現状を50%まで引き下げると主張している。
 これらに対して、ルペン候補は従来からの主張である移民を制限するという政策に加えて、経済政策の自由を取り戻すためにユーロ圏から離脱すべきだと主張している。彼女は世論調査の度に20%に近い支持を集め、経済不況からくる閉塞感がルペン支持につながっている形である。
d0238372_8525547.jpg 第3の争点である移民問題については、3月19日に南フランスのトゥールーズ(私がよく滞在する都市)で、アルジェリア系移民の2世の若者(フランス国籍)が、ユダヤ人学校に侵入して銃を乱射し、教師1名と生徒3人を含む7人が殺される事件が起こった。
 犯人はトゥールーズ郊外のレザジールで育った。ここは生活保護家庭が多いとされる地区で、彼の両親は5歳の時に離婚、父は麻薬取引で禁固5年の刑で服役した。そうしたこともあって盗みを繰り返すようになり、彼自身もひったくりの罪で禁固2年の実刑を受けた。その後、自動車整備士の資格をめざすが失敗。軍隊への入隊もうまくいかず、過激なイスラム思想に惹かれるようになったのはそのころといわれる。
 レザジールは国が定めた「問題が生じやすい地区(ZUS)」の一つで、こうした地区は大都市近郊を中心にフランス全土で700カ所あり、凡そ440万人、全人口の7%が住んでいる。統計によれば彼らの世帯収入は大都市の平均の半分程度である。
 今度の事件が起こると、サルコジ大統領はただちに多くの警官隊の投入を命じ、警官隊は犯人が住むアパートを特定して銃撃戦の末に射殺し、事件そのものは収束した。
 サルコジ大統領はあらためて移民制限の政策を打ち出し、国民戦線のルペン候補の支持者の取り込みをはかった。事実、それまで劣勢だった世論の支持が上向き、オランド候補を上まわったが、最近では再度の逆転をゆるしたという。力による鎮圧や移民の排除だけでは、社会が抱え込んだ深刻な課題を解決できないのは明らかである。
 投票1週間前の世論調査でそれぞれの支持率は、社会党のオランドが30%、サルコジが27%、ルペン16%、メランション16%となっている。さらに現時点での予想では、4月22日の第1回投票では誰も過半数には達せずに、5月6日の第2回投票で上位2者、オランド対サルコジの決選投票になると見られる。そしてその場合の得票予想は、オランド54.5%に対してサルコジ45.5%で、社会党政権が誕生する可能性が高い。そうなるとフランスの政治がこれまでより内政重視になるとも考えられ、選挙の結果が、ヨーロッパの動向にも大きな変化をもたらしかねない。その点でも今回の選挙結果は大きな意味を持ってくる。
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by monsieurk | 2012-04-21 09:08 | フランス(社会・政治) | Trackback | Comments(1)

「パリの人びと」 II

 こうした詩を受け取ったラファエルリの反応が面白い。マラルメに宛てた礼状の中でこう述べている。「大層奇抜な詩を受けとり感動しました。「ラヴェンダー売り」の十四行詩(ソネ)は宝石そのものですし、「新聞売り」の四行詩(カトラン)は愉快です。ただ、出版者は多少ぶつぶつ言うかも知れません。というのも、彼らはあなたの名前に恐怖をいだいていますから。」
 ラファエルリは、「フィガロ」紙の社長マニャールとマラルメとのやり取り(ブログ「乗合馬車の話」2011.12.31)を知っていたのだろうか。
 それでなくても、マラルメの詩の難解さは評判だった。ただ、画家の危惧にもかかわらず、マラルメの詩は無事出版者のお眼鏡にかない、素晴らしい小冊子が出現したのである。
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 マラルメは生前、『詩集』の校正刷りに手をいれていたが、これは彼の死の翌年ベルギーの出版者ドマンの手で刊行された。そこには「パリの人びと」として発表した8篇のうち、「ラヴェンダー売り」(「詩集」では「芳香草を売る女商人」と改題)と次の「靴直し」の、軽快な7韻を踏むソネ形式の詩だけが収録された。他の5篇もあわせて訳してみる。

  Carreleur de soulier

  Hors de la poix rien à faire,
  Le lys naît blanc, comme odeur
  Simplement je le préfère
  A ce bon raccommodaeur.

  Il va de cuir à ma paire
  Adjoidre plus que je n’eus
  Jamais, cela désespère
  Un besoin de talons nus.

  Son marteau qui ne dévie
  Fixe de clous gouailleurs
  Sur la semelle l’envie
  Toujours conduisant ailleurs.

  Il recréerait nos souliers,
  Ô pieds, si vous le vouliez!

  靴直し

  ワックスがなければなす術なし、
  百合は白く生まれ、匂いだけでも
  単純にこっちの方がいい
  この善良な修理屋より

  私の靴に革をこれまで
  以上に重ねるというが、
  それでは裸足の踵の願を
  駄目にしてしまう。

  打てば外さぬその金鎚が
  底革にしっかり打ち留める
  そっぽを向きたがる
  からかい好きの靴釘を。

  奴は靴をつくり変えてしまうぞ、
  おお 足よ! 君らがそれを望むなら!

  ・・・・・・・・・・*・・・・・・・・・・*・・・・・・・・・・

  Le Catonnier

  Ces cailloux, tu les nivelles
  Et c’est, comme troubadour,
  Un cube aussi de cervelles
  Qu’il me faut ouvrir par jour.

  道路工夫

  この石ころを、お前はならす
  それは、吟遊詩人のように、
  私が日ごと開かねばならぬ
  脳味噌と同じ立方体。

  ・・・・・・・・・・*・・・・・・・・・・*・・・・・・・・・・

  Le marchand d’ail et d’oignons

  L’ennui d’aller en visite
  Avec l’ail nous l’éloignons.
  L’élégie au pleur hésite
  Peu si je fends des oignons.

  韮と玉葱売り

  人を訪ねる憂さを
  大蒜食べて遠ざける
  玉葱切れば、涙の哀歌
  ためらうことなく流れだす。

  ・・・・・・・・・・*・・・・・・・・・・*・・・・・・・・・・

  La femme de l’ouvrier

  La femme, l’enfant, la soupe
  En chemin pour le carrier
  Le complimentent qu’il coupe
  Dans l’us de se marier.

  職人の女房

  女房、子ども、スープが
  石工を途中で待ちうけて
  結婚したからは
  石を刻めとご挨拶。

  ・・・・・・・・・・*・・・・・・・・・・*・・・・・・・・・・

  Le vitrier

  Le pur soleil qui remise
  Trop d’éclat pour l’y trier
  Ote ébloui sa chemise
  Sur le dos du vitrier.

  ガラス屋

  むき出しのお天道さまは強い光を
  取戻し 彼を選び分け
  目の眩んだガラス職人の
  背中のシャツをむしり取る。

 こうして訳を並べてみると、詩の翻訳がいかに難しく虚しい行為かを痛感させられる。ただ、マラルメの洒脱な一面をくみ取っていただければ、せめてもの幸いである。
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by monsieurk | 2012-04-17 17:48 | マラルメ | Trackback | Comments(4)

「パリの人びと」 I

 『パリの人びと(Les Types de Paris, Edition du Figaro, Plon, Nourit et Cie,)』と題する絵入り冊子が発行されたのは1889年のことである。
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 パリで人気のあった画家で版画家のジャン=フランソワ・ラファエルリ(Jean-François Raffaëlli 1850-1924)と、人気作家や詩人の文章を組み合わせて、パリで展開するさまざまな光景を描こうというアルベール・ウォルフの発案で、10冊の小冊子が出版された。各巻にはラファエルリの美しく楽しい絵と、ゴンクール、ドーデー、ゾラ、モーパッサン、ユイスマンスなどの散文や詩が収められていた。マラルメが詩を寄せたものは第7号に載った。
 国立印刷局版『ステファヌ・マラルメ詩集』を編纂したピエール・シトロンによれば、ラファエルリがマラルメに目をつけたのは、マラルメが1886年ころから書きはじめていた「郵便つれづれ」(封筒の表に書かれた相手の名前と住所を詠い込んだ四行詩)が、知人たちの間で評判になっていたからだろうと推測している。
 ジャン=フランソワ・ラファエルリは、イタリア人の先祖をもつフランスの画家・版画家で、国立美術学校「エコール・デ・ボザール」でレオン・ジェロームに学び、1870年に官展(サロン)に最初の作品を出品した。1884年、彼は屑屋と小市民を題材にした絵の個展を開いた。そんな彼はステファヌ・マラルメに、パリの人たちを主題にした共作を持ちかけた。マラルメが承諾すると、ラファエルリは街で見かけるさまざまな職業の人たちの生態を絵にした版画を詩人に送り、詩人はこれらの絵を見ながら詩をつくったのである。
 「路上の人たち(Les Types de la rue)」という総題のもとで、マラルメが創作した詩は全部で8篇。それぞれ、「ラヴェンダーを売る小柄な女」、「靴直し」、「韮と玉葱売り」、「職人の女房」、「新聞売り」、「道路工夫」、「女の古着売り」、「硝子屋」というタイトルがついている。
 街角で見かけるこうした職業の人たちの姿を、ラファエルリが巧みな筆で描き、それに触発されたマラルメが詩をつけているのだが、この詩がどうして、一筋縄ではいかない作品である。たとえば、「女の古着売り(La marchande d’habits)」は、こんな風にうたわれている。

  Le vif œeil dont tu regardesd0238372_13523835.jpg
  Jusques à leur contenu
  Me sépare de mes hardes
  Et comme un dieu je vais nu.

  お前のするどい眼は
  中身まで見通し
  着古しの服から私をひきはがす
  そこで神様のように裸で行くとしよう。

 古着を腕にかけて売り歩く女の古着売りは、鋭いひと睨みで、道行く人の服の値踏みをする。そんな一瞥を浴びれば、いっそ服を脱ぎ捨てて、裸になりたくもなるというのが表の意味だが、裏には、古臭い形式を脱ぎ捨てて、象徴詩を確立したいという願いが隠されているようだ。神様のような裸体こそ、聖なる詩人のイメージなのである。
 その他、「小柄なラヴェンダー売りの女(La petite marchande de lavandes)」は、

  Ta paille azur de lavandes,
  Ne crois pas avec ce cil
  Osé que tu me la vendes
  Comme à l’hypocrite s’il

  En tapisse la muraille
  De lieux les absolus lieux
  Pour le ventre qui se raille
  Renaître aux sentiments bleus.

  Mieux entre une envahissante
  Cheveulure ici mets-la
  Que le brin salubre y sente,
  Zéphirine, Paméla

  Ou conduise vers l’epoux
  Les prémices de tes poux.

  蒼のラヴェンダーの束を、
  その睫毛で、私に売りつけよう
  などと思うな
  偽善者に売るように かりに

  それを究極の部屋の壁に
  飾るとしても そこは
  嘲笑う腹をもう一度
  青い気分に蘇らせる場所。

  むしろ伸び放題のその髪に
  挿しておく方がいい
  さわやかな草が髪に薫るより、
  ゼフィリーヌ、パメラよ

  それとも夫の方へ這っていく
  生まれたばかりの蝨たちが。

 また、「新聞売り(Le crieur d’imprimes)」は、

  Toujours, n’importe le titre,
  Sans même s’enrhumer au
  Dégel, ce gai siffle-litre
  Crie un premier numéro.

  いつものように、見出しはお構いなし
  雪解けに風邪もひかず、
  その陽気な呼子の喉で
  新聞刷りたて、と叫んでいる。

といった詩である。
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by monsieurk | 2012-04-12 23:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

マラルメの肖像

 わが家には《マラルメの肖像》がある。エドゥアール・マネが描いた詩人ステファヌ・マラルメの肖像画は、パリのオルセー美術館に所蔵されているが、自宅の客間に飾っているのはそのコピーである。コピーとはいっても、19世紀末から20世紀はじめにかけて活躍した、スペイン生まれの画家クラウディオ・カステルッチョ(Claudio Castelucho 1870 バルセロナ-1927 パリ)の手になるものである。カステルッチョはモンパルナス華やかなりし頃、モディリアニなどと親交のあった画家で、のちに「アカデミー・グランド・ショミエール」の教授をつとめた。これは彼が描いた自画像で練達の筆遣いがみてとれる。
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 カステルッチョがどんな目的で、肖像画の傑作といわれるマネの《マラルメの肖像》(1876)を模写したのかは分からない。単に似ているだけでなく、「マラルメの内面を映し出している」といわれる原作の雰囲気をじつによく再現している。
 この模写との出会いはまったくの偶然であった。パリでの勤務先はモンパルナス駅に近い国際繊維ビルの中にあり、時間があると目の前を東西にはしるモンパルナス大通りで、食事をしたり散歩をしたりしたものだった。大通りには、夜遅くまで開いているレストラン「クーポール」や魚料理で有名な「ドーム」、ヘミングウェイが通ったカフェ「セレクト」や「ロトンド」があり、モンパルナス大通りが天文通りと交わる角には、20世紀初めポール・フォール以下の詩人たちが集まっては議論を楽しんだ、「クローズリ・ド・リラ」があって、食事場所にはこと欠かなかった。途中、大通りを斜めに横切るラスパイユ通りの角には、ロダンの寛衣をまとって有名なバルザック像が建っている。
 ある日、モンパルナス大通りを歩いていると、普段は見過ごす画材店の飾り窓に置かれている絵が目についた。画布には埃が薄くつもっているが、間違いなく《マラルメの肖像》である。学生時代からマラルメを研究してきた身にとっては、捨てておけない出会いであった。
 さっそく店に入って尋ねると、奥から五十年輩の主人が出てきて、祖父にあたる人の作品だという。この画材店はその画家の奥さんだった人が開いたもので、店の名前は「カステルッチョ」といい、当時は絵具をはじめ画材を手広くあつかっていた。かつてモンパルナスが画家のたまり場だった時代には、あのフジタもよく絵具を買いに来たという。「祖父の記念だから」と売り渋る主人を説得して、ようやく手に入れたのだった。1989年のことである。その後著名な修復家に頼んで汚れを落とし、修復すると見違えるようになった。
 詩人のステファヌ・マラルメが画家のマネと出会ったのは、彼がパリに出てきて間もない1873年のことである。それ以来住まいが近かったこともあって、二人の親交は急速に深まった。マラルメはコンドルセ高等中学校での授業が終わると、ほとんど毎日マネのアトリエに寄っては楽しい時間をすごした。マラルメは英語の教師だった。
 アンリ・ド・レニエは、マラルメについての回想録の中で、二人の交友をこう語っている。「マラルメは、マネの芸術家としての才能とともに、人間的な魅力に感じ入った。マラルメは、このパリっ児のエスプリ、その気品のある物腰、温かなもてなしを享受したのだった。そして画家のアトリエは、人生の倦怠と〔教師という〕職業の単調さから逃れる避難場所のひとつとなったのである。」
 当時のマネは次々に野心的な大作を発表したが、それらはいずれも伝統墨守の官展審査員の拒否にあって落選し続けていた。マラルメはそんな画家を、審査委員の蒙昧と大衆の無理解から擁護するために、4篇の論文を発表した。
 1874年に「文芸復興」誌に掲載された「1874年度絵画審査委員とマネ氏」は、この年のサロンにマネが送った3点のうち2点までが拒否されたのを激しく非難したものである。雑誌が発売されて間もなく、マネからこんな手紙が届いた。
「親愛なる友よ、ありがとう。君のような弁護者を持ったからには、審査委員など糞食らえだ。君にものたる 
Ed. マネ」
 翌1875年に、マラルメがエドガー・ポーの詩『大鴉』を訳して出版する計画を抱くと、マネはそれに添える挿画を創作することを引き受けた。挿画に登場する詩人のモデルにマラルメ自身を選び、マラルメの翻訳とマネの石版画という豪華な組み合わせの本が、パリの出版社「レスクリッド」から刊行された。さらに1876年、マラルメの長篇詩「半獣神の午後」に、同じくマネの挿画4点(EX LIBRIS、カットを含め)をつけた詩集が出版された。これは175部の豪華限定出版だった。
 《マラルメの肖像》が描かれたのは、こうして二人の友情が頂点に達した1876年である。マラルメはマネのアトリエに通ってポーズをとった。この間にどんな会話が交わされたか、残念ながら記録に残されていない。いかし、敬愛する詩人シャルル・ボードレールの友人で、その肖像画を版画でつくったこともあるマネのモデルをつとめることは、マラルメに大きな喜びと満足をあたえたにちがいない。出来上がった肖像画は、長い間マラルメのアパルトマンの居間の壁に飾られていた。
 詩人は、開かれた本の方になかば身を傾け、右手の指に葉巻をはさみ、左手を黒の上着のポケットに半分突っ込んで、なにか物思いにふけっている。遠くを見るような眼差しが、夢にあふれたマラルメの内面をよく表現している。
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 のちに詩人のヴェルレーヌが、詩人たちの評伝と作品の紹介をかねた「呪われた詩人たち」という連載を雑誌に発表し、ランボー、コルビエール、リラダンとともにマラルメを取り上げた。ヴェルレーヌはこれを単行本にする際に、マラルメに肖像が欲しいといってきた。マラルメはこの申し出に対して、写真を送る代わりに、マネに描いてもらった肖像画の複製を使うことを提案した。版画による複製はブランシュの手で行われ、1884年に刊行された『呪われた詩人たち』を飾ったのである。
 ヴェルレーヌは肖像画の出来栄えについて、こんな感想を残している。「この現代の偉大な画家は葉巻と〔黒の〕上着を描くことで、マラルメのダンディズムを直接的かつ繊細に表現している。詩人はここでは崇高な、〈不死〉の存在と化している。これはアングルの《シェルビニの想い出》より、はるかに遠くまで進んでいる。才能を愛でる美神ミューズは目には見えない。だがここには正しくミューズがいる。別の才能には別のミューズというわけである。マラルメがアングルのためにポーズをとったとしても、アングルはマネ以上に上手くやっただろうか。断じて否である。」
 アングルとマネでは歳が50歳ちがう。ヴェルレーヌのいう通り、一時代前のアングルでは掴みきれなかったに違いマラルメが、マネの肖像画には封じ込められている。同じ時代の空気を呼吸し、しかも芸術の革新を目指した二人にしか分からない何かが画布には漂っている。
 マネの描いた原作は、マラルメの没後寄贈されてジュ・ド・ポムの「印象派美術館」に飾られていたが、「オルセー美術館」の完成とともに移されて、いまではマネの他の作品とともに印象派のコーナーで観ることができる。なおオルセーで《肖像画》の隣に飾られているのはベルト・モリゾの作品《揺りかご》で、紗の覆いのかかった揺りかごの中で眠る赤ん坊を、愛おしげに見つめる母親が描かれている。ベルト・モリゾはマネの兄ユージェーヌの妻となり、マラルメとも大変親しかった。そして揺りかごで眠るのはモリゾの娘ジュリー・マネで、彼女も長じて画家となり、日記にマネ家に出入りした芸術家たちの普段着の姿を克明に記した。その中にはマラルメもしばしば登場する。
 パリにいたときは、オルセーを訪ねて幾度となく《肖像》の前にたったものだった。いまは原画の額縁を忠実に再現した額入りのカステルッチョの模写を居間にかけて楽しんでいる。
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by monsieurk | 2012-04-07 22:49 | マラルメ | Trackback | Comments(3)

カフェ文化

 フランス人の生活に欠かせないのがカフェの存在である。パリには、いったい何軒くらいカフェがあるか。電話帳を手掛かりに調べてみたことがある。パリの電話帳は人名で引くものと、通りの名前で引くものと二種類あり、パリ中の通りという通りに、たいてい一軒や二軒、カフェが店を開いていることを知って諦めてしまった。だが最近は、そうしたカフェで店仕舞いするところが少なくない。パリを訪れるたびに、馴染みの店がコンビニエンス・ストアに変わっていたりすると心底がっかりする。
 パリで最初の本格的カフェは、1684年に、パレルモ人のフランセスコ・プロコピオが、パリ6区アンシャンヌ・コメディー通り(rue de l’Ancienne-Comédie)に開いた「カフェ・プロコープ(Café Procope)」だとされている。店主の名前をそのままとったこのカフェは、その後文学者たちの溜り場になった。
 「プロコープ」はいまレストランになっているが、店の内部は当時そのままの姿を伝えており、店の入り口には、大理石の板に、ここを根城に議論の華をさかせた文人たちの名前が刻まれている。百科全書派のディドロ、ヴォルテール、ルソー、19世紀に入っては、女流作家ジョルジュ・サンドや詩人のポール・ヴェルレーヌといった、錚々たる面々がこの店を愛用したという。第三共和制にいたる19世紀の中ごろから世紀末にかけて、大いに賑わった。
 貴族や大ブルジョアたちが自宅で開くサロンも依然として盛会だったが、気取った雰囲気にあき足りない人たちは、気のあった者同士カフェに集まり、冗談を飛ばし、辛辣な議論をたたかわせては、新しい芸術を生み出していった。
 そうした一つに、画家のエドゥアール・マネが足繁くかよった「カフェ・ゲルヴォア(Café Guervois)」がある。マネは生粋のパリっ子で、サロンよりも気楽なカフェの愛好者だった。「ゲルヴォア」は、パリ17区バティニョル大通り(現在のクリシー大通り)にあって、当時ギュイヨ通りにアトリエを構えていたマネは、制作を終えると、いそいそとカフェへ出かけていった。「ゲルヴォア」では、毎夜やって来るマネのためにテーブルが一卓確保されていた。
 マネは「ゲルヴォア」のスケッチを残しているが、彼のまわりには親友のドガのほかに、一世代若いルノワール、バジール、モネ、シスレーなどが集まった。マネとドガは物腰の洗練された申し分ないパリ人士であるのに対して、若者たちはいずれも地方から出てきた無名の画家にすぎなかった。彼らは頑なに伝統にしがみつく官展派(アカデミシアン)に対抗する激しい敵愾心で結ばれていた。

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 マネの作品は、描かれた対象の点でも、その技法の上からも、絵画の伝統への挑戦であり、良俗を紊乱するとして官展(サロン)から出品を拒否された。それでもマネは意気軒昂として作品を描きつづけた。「ゲルヴォア」に集まる画家たちは、「バティニョル派」と称せられ、やがてパリ画壇の中心にのし上がっていく。この仲間たちがあの印象派をつくりあげることになるのである。
 画家や文学者たちがカフェに集まるようになったのには、華麗な内装を誇る居心地のよい店がいたるところに出現したという背景があった。
 1853年、ナポレオン三世によって知事に任命されたオスマン男爵は、中世以来の古いパリの建物を取り壊し、大通りを貫通させ、その両側に高さのそろった四、五階だての建物の建ち並ぶ近代都市を出現させた。建物の二階から上は個人の住宅。通りに面した一階には、商店、レストラン、カフェが軒をつらねた。昼間は白い石造りの建物が陽に輝き、夜は夜で、発明されたばかりのガス燈が店内を明々と照らしていた。
 食器の触れあう音、テーブルをはさんで飛びかう楽しげな会話。人びとはかつて経験したことのない明るい夜を心から楽しんだのである。
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by monsieurk | 2012-04-03 20:49 | フランス(文化) | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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