フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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<   2012年 05月 ( 9 )   > この月の画像一覧

 詩と絵画というように、表現の方法こそ異なるとはいえ、新しい美学を身につけようとするヴュイヤールにとって、マラルメの芸術論は新鮮な響きをもっていた。彼は努めてマラルメの文章が載った文献を集めては貪るように読んだ。
 ヴュイヤールは生前、手帳に毎日の出来事や出会った人物に関する感想を書きつけていた。それはおびただしい量に達するが、数人の手を経たあと手帳を手にした友人のルーセルは、存命中の人びとへの配慮から、手帳を美術アカデミーに預けたまま、1980年まで公開することを禁止した。残念なことに、これは現在も未刊のままで、ヴュイヤールが自らの美学の基礎を固めるにあたって、マラルメのどの文章から直接影響をうけたかについては推測するほかない。
 マラルメの知遇をえた当時、つまり1880年代末のヴュイヤールの作品群から考えれば、たとえば『音楽と文芸』の中の次のような一節が考えられる。
d0238372_23445123.jpgd0238372_23445646.jpg 「・・・記念碑や、海や、人間の顔はそれ自体で充実している生まれたままのもので、人を惹きつける力を持っている。だが、それは描写しようとすると、かえって覆い隠されてしまうといった性質のもので、〔それを現前させるのは〕一般には喚起〔エヴォカシオン〕などと呼ばれるが、私はまた、示唆〔アリュジオン〕とか暗示〔シュグジェスチオン〕とかいう言い方でも呼べると思う。いずれにせよ、こうした呼び方は、幾分当てずっぽうな部分もあるが、それでも文芸が経験した決定的なある傾向を証明している。この傾向が現代の文芸の性格を決めると同時に、従来できなかったことを可能にしているのだ。文芸の魔法とは、精神というこの飛び散りやすいもの、元来、物のもつ音楽性としか関係のないものを、現実という一握りの埃から解放すること以外の何ものでもない。」
 ここで語られている「文芸」という言葉を、「絵画」と置きかえれば、これはそのままヴュイヤールの目指すものの定義にあてはまるものだった。1980年代末から90年代にかけてのヴュイヤールは、日常的な主題を描きながら、そこから個々の事物を特徴づけている個性を捨象して、封じ込められている観念(美と呼び変えても同じことだが)を解放しようとした。
 「自然の一事象を言葉の遊びによって、その振動的な、ほとんど消滅といっていいようなものに置き換えて〔トランスポゼ〕しまうという、この驚嘆すべき行為も、かりにこの振動現象から、単になる手近にある具体的なしかじかの事物の記憶が蘇ってくるという狭苦しい制限などなしに、〔その事象の〕純粋観念そのものが放射されるためでないとしたら、何の役に立つというのか。」
 ヴュイヤールは、こうしたマラルメの教義を絵画の上で忠実に実践しようとした。そのためにか「象徴主義」の時代の作品は、一見どれも薄い紗のヴェールに覆われたように、うす明かりの中で神秘性を漂わせることになる。それは対象を明確に描写するのではなく、観る者に対してある効果をあたえる上で有効な方法であった。彼はこの方法をマラルメから学んだのである。
 マラルメは1891年に行われた新聞記者ジュール・ユレとのインタヴューの中で、次のように語っている。インタヴューは当時の大衆紙「エコ・ド・パリ」に掲載されて、新しく台頭しつつあった「象徴派」に心を寄せる人たちの耳目を集めた。
 「対象を名指すこと、それは詩の歓びの四分の三を捨て去ることである。詩の歓びは対象を少しずつ推測することにある。暗示することこそ夢をみさせてくれるのだ。」
 ところでヴュイヤールは、最初からマラルメの精神上の弟子であったわけではない。
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by monsieurk | 2012-05-29 23:55 | 美術 | Trackback | Comments(0)
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 ヴュイヤールが、マラルメの有名な「火曜会」に顔を出すようになったのは、「ナビ派」の存在が世間の注目を集めるようになった1890年代のことである。文学史上有名な「火曜会」は、1882年の暮ないし83年初めから毎週火曜日の夜に、パリ8区のローマ通りのマラルメの自宅で催された集まりである。火曜会は新しい傾向の芸術家の結社として知られていた。
 1891年になると、火曜会のメンバーは一新され、ルネ・ギルやギュスターヴ・カーンといった人たちに代わって、ピエール・ルイス、アンドレ・ジッド、ポール・ヴァレリーといった新進が出席するようになった。彼らのほかに度々訪れる人物として、画家のホイスラー、イギリスの作家シモンズ、オスカー・ワイルド、ベルギー生まれのマーテルランク、ヴェラーレン、そしてヴェルレーヌ、クロード・ドビュッシー、ポール・クローデル、ルドン、ゴーギャンなどがいた。こうした人たちに交ってヴュイヤールの姿もあった。
 もっとも、ヴュイヤールがローマ通り89番地の家を訪れた回数はそれほど多くはなくかった。むしろ詩人と若い画家がよく顔を合わせ、言葉を交わしたのは、マラルメの別荘のあるヴァルヴァンにおいてだった。
 ヴュイヤールは、このころ友人のボナール、ルーセル、ドニなどとともに、ポール・フォールの主催する「芸術劇場」や、リュニエ=ポーの芝居のために舞台背景を描き、プログラムを制作した。そしてそのかたわら、1891年からは、象徴派の雑誌「白色評論 La Revue Blanche」の口絵を描いたりもした。マラルメは若い文学者や画家、音楽家たちの間では、象徴派の総帥として尊敬を集めており、難解ではあるがはなはだ斬新な詩は魅力に溢れたものだった。直接謦咳に接し得た人びとには、その機知に富む人柄がたまらない魅力だった。
 ヴュイヤールがマラルメを深く知ることになったのには、一つの切っ掛けがあった。ヴュイヤールは、「白色評論」の創設者アレクサンドルとタデのナタンソン兄弟と昵懇の間柄で、夏になると二人を別荘に訪ねては、よくその屋根裏部屋に寝泊りした。このナタンソン兄弟の別荘というのが、ヴァルヴァンのマラルメの家の近くにあったのである。
 ナタンソンの家は、雑誌の寄稿者などの若い人たちのいわば溜り場で、彼らはそこで落ち合うと、よく隣家の詩人を訪問した。ヴュイヤールがヴァルヴァンで初めてマラルメを訪れたのも、雑誌仲間のエミール・ブルジェ、カミーユ・モークレール、コリュスなどと同道してのことであった。
 ヴュイヤールはこうした訪問の思い出に、マラルメの家を描いた4点の作品を残している。1896年に制作された《ヴァルヴァンのマラルメの家》と題された作品は、庭を囲む石積みの囲いと門、それに庭に植えられた数本の喬木ごしに、慎ましやかな田舎家を描いたもので、他の1点は赤レンガを積んだ門と鉄柵ごしに石造りの家を描いている。残りの2点もほぼ同様の構図の作品である。
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 ヴュイヤールがマラルメの思い出をどれほど大切にしていたかを物語る逸話が残されている。親友のルーセルは、ヴュイヤールの死後、「ヴュイヤールに、ステファヌ・マラルメ」と献辞が書き込まれた散文集『ディヴァガシオン』一冊を遺贈されたが、ページのあいだに鉛筆書きのクロッキーが数枚はさまれているのを見つけた。クロッキーの一枚は、晴れやかな微笑を湛えた詩人の見なれた顔だが、もう一枚には、うつむいてぼさぼさの眉をし、鼻孔を大きく膨らませたマラルメが描かれていた。一体、この病者のようなマラルメをヴュイヤールは、いつ、どこで描いたのだろうか。
 ヴュイヤールの伝記を書いたジャック・サルモンは、画家が『ディヴァガシオン』を片時も手離さず、折にふれてその一節を仲間に読んで聞かせたと伝えている。
 若い画家にとって、マラルメの革新的な詩論の一つ一つが、強い刺激となって胸をうったにちがいない。新しい絵画を創造したいと願う者にとって『ディヴァガシオン』一冊はまたとない拠り所となった。ヴュイヤールが勇気づけられたのは、たとえば次のような一節である。
 「現代人は想像上のものを軽蔑する。その代わり、諸芸術にたけている彼は、芸術の一つ一つが彼を引きこんで、幻覚の特別に激しい力が爆発するまで待つ。そのとき初めて現代人は虚構を信ずることに同意するのだ。」
 この一節を含み『リヒャルト・ワーグナー あるフランス詩人の夢想』も、当然『ディヴァガシオン』の中に採録されていた。マラルメの言葉は控え目だが確信に充ちており、「創造すること」の何たるか、その現代的な意味を語っていた。芸術の存在理由を確信をもって語るマラルメの言葉は、若い芸術家の魂を鼓舞した。
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by monsieurk | 2012-05-27 10:54 | 美術 | Trackback | Comments(0)
 あきらめきれないヴォラールは、やがて企画を変更して、ヴュイヤールに色彩石版(リトグラフ)をつくらせ、それを『風景と室内』と題して出版した。このアルバムは色彩のハーモニーと精妙な出来栄えによって、19世紀末の画集の傑作の一つに数えられている。
 12点の作品に表紙の1点を加えた都合13枚の色彩石版画は、3色から6色の色刷で100部つくられた。1899年2月に、原画がラフィット通りにあるヴォラールの画廊で一般に公開されて大変な評判を呼んだ。ただ主題はヴュイヤールが得意とする親密な〔アンティーム〕日常性の枠に留まっており、もしヴュイヤールが『エロディヤード』の挿画を手がけていれば、まったくちがう傑作が生まれていたにちがいない。
 1868年生まれの画家ヴュイヤールは象徴主義の世代に属していた。退役軍人で、ソーヌ=エ=ロワール地方の都市クィゾーで徴税使をしていた父が、1877年、彼が10歳のときにパリに移り住んでからは、「都のなかの都」と謳われた19世紀末のパリの空気のなかで育ち、そこで生涯を終えることになる。
 3人兄弟の末っ子であったエドゥアールは、おとなしい夢みがちな子どもで、カトリック系の学校で小学教育をうけたあと、エコール・ロクロワに入学、のちにコンドルセ高等中学校に転校した。この高等中学校は当時パリでももっとも評判の高い学校の一つで、第三共和制下の知識人の多くを輩出したことで知られている。奇縁といえば、詩人のマラルメが、ヴュイヤールが入学した当時、英語教師として教鞭をとっていた。
 一時は父のあとを継いで軍人になろうと考えていたヴュイヤールに、コンドルセ高等中学校への転校は大きな転機をもたらした。学校で未来の画家たち、リュニエ=ポー、ケル=グザビエ・ルーセル、モーリス・ドニと知り合い、その感化で軍人への道をあきらめて、絵を描きはじめたのである。
 ヴュイヤールとルーセルは、パリ6区のフュルスタンベール広場にある、かつてドラクロアが使っていたアトリエを仕事場にするマイヤールのもとで絵の勉強をはじめた。
 高等中学校を卒業すると、ヴュイヤールは国立美術学校(エコール・デ・ボザール)に入学したが、当時の美術学校はアカデミズムの牙城であり、レオン・ジェロームが牛耳っていた。古典的手法を強制するジェロームの授業にあきたらなくなったヴュイヤールは、やがて有名な私立の美術塾アカデミー・ジュリアンへ転校した。
 しかしここでも教師たちの教える技法は似たり寄ったりであった。ただこの塾にはエコール・デ・ボザールにないものが一つだけあった。才能豊かな若い画家の友人たちである。ポール・セリュジェ、アルマン・セゲン、ポール・ランソンといった才気渙発の若者たち、なかでもピエール・ボナールとモーリス・ドニは一頭抜きんでた存在で、ヴュイヤールは彼らとすぐに友人となり、これにルーセルを加えた4人の友情は生涯変わらぬ宝となった。この絵の左端で腰を下ろしているのがボナール、その右上がヴュイヤールである。
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 旧世代の印象派の芸術を凌駕しようと意気込む彼らは、のちにマラルメの友人である詩人で医師のアンリ・カザリスによって、「ナビ派」と名づけられることになる。「ナビ(nabi)」とはヘブライ語で預言者の意味だが、この命名には彼らに共通する東洋趣味にたいする一種の揶揄も含まれていた。
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by monsieurk | 2012-05-24 19:38 | 美術 | Trackback | Comments(0)
 画商アンブロワーズ・ヴォラールが、詩人マラルメの最後の作品『賽の一振り』の豪華本をつくるために、オディロン・ルドンに挿画を依頼したが、詩人の急死で計画が実現しなかったことは、ブログ「詩画集Ⅰ 賽の一振り」(2012年2月.21日)で紹介したとおりである。
 ところでマラルメは、『賽の一振り』とともに、死の直前まで推敲を重ねた『エロディヤード』も挿画をつけて出版する希望をもっていた。画商と詩人はこの挿画を若いエドゥアール・ヴュイヤール(Edouard Vuillard)に頼むつもりでいた。マラルメが実現をどれほど望んでいたかは、次の手紙によって知ることができる。
 「私の本が一画商によって刊行されることを知って大変幸せです。彼を励ますために、私は長くなった詩に満足していると伝えてください。今度こそ本当です。・・・」
 手紙の日付は1898年5月12日、死のわずか4カ月前のことである。マラルメは1871年に『エロディヤード――舞台』として一度発表した作品をふたたび取り上げ、総合詩として完成するべく努力を重ねたのである。この手紙から5日後の5月17日には、娘のジュヌヴィエーヴが父マラルメに宛てて、こう書き送っている。
 「・・・・『エロディヤード』がまたはじめられたのですね。モレノ嬢はいつの日か、エロディヤード役をやるのだと固く心にきめています。彼女は自分こそ上手くやってのけられると思っているのです。」手紙の意味は、対話劇の形式をとる『エロディヤード』が完成した暁には、ジュヌヴィエーヴの友人であるモレノ嬢が、この詩劇を舞台にのせ、彼女が主人公エロディヤードを演じたいと言っているというのである。
 ジュヌヴィエーヴは5月21日の手紙の一節でも、「『エロディヤード』は順調に進んでいる」と書いている。この二通の手紙からも明らかなように、マラルメは30年来の夢である『エロディヤード』の完成のために、1898年の春から、パリの南60キロにあるセーヌ河畔のヴァルヴァンの別荘に一人籠って全力を傾注したのだった。
 だがマラルメはこうした努力の最中、9月8日の午後、書斎で仕事中に烈しい息切れの発作に襲われた。発作はまもなく治まったが、死の近いことを悟った彼は遺書を認めた。乱れた筆遣いのなかで、「半世紀にもなんなんとする覚書の山」に触れて、「私は刊行されなかったものは一片たりとも残さない。ただ、あなた方が見つけることになるだろう若干の印刷された断片、それに『賽の一振り』と、擱筆した『エロディヤード』は成り行き次第では例外である。詩については、ここ〔フランス〕では、ファスケルにまかせ、ベルギーに限ってはドマンにまかせる。『詩篇』、『状況詩』および『半獣神の午後』と『エロディヤードの婚礼、神秘劇』である」と書き残した。
 この最後の言葉によって、詩人が『エロディヤード』を最終的には「プレリュード」、「舞台」、「幕間劇」、「終曲」からなる一篇の神秘劇に仕立て上げる意図だったことが知られるのだが、作品は完成をみることなく永遠に中断されてしまった。原稿は詩人の死後60年経った1959年、ガードナー・デイヴィス氏の手ではじめて刊行されるまで、ジュヌヴィエーヴの夫で、彼女の死後相続人となったエドモン・ボニオ博士の手元に留まっていたのである。
 『エロディヤード』の豪華本出版の夢を捨て切れなかったヴォラールは、詩人の死の直後に、ボニオ博士に原稿のことを訊ねたという。
 「・・・ステファヌ・マラルメは亡くなった。そこで、私は彼の女婿ボニオ氏に『エロディヤード』の続きを要求すると、「それは未完成のままになっています。ですから義父の名声に傷がつくでしょう」との返事だった。
 私はボニオ先生の不可解な用心を矯めつ賺めつする時間がなかった。今度は先生自身が亡くなってしまったからである。・・・」
 こうしてヴュイヤールの版画で飾られるはずの詩画集『エロディヤード』が制作される機会は失われてしまった。ルドンと同様に、互いに心を通わせあった詩人と画家の共作からどんな傑作が生まれたか。もしこの企てが実現していれば、ヴュイヤールにとっても新境地をひらく絶好の機会となったにちがいない。マラルメの詩は若い画家に創作の喜びとともに、多くの精進を要求したはずである。ヴュイヤールは好機を逸したのであった。
 下の2点はヴュイヤールの初期の自画像である。

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by monsieurk | 2012-05-22 21:56 | 美術 | Trackback | Comments(0)

マルガリータ・チーカ

 かつて「丸善ライブラリー」の一冊として上梓した『ノーベル文学賞 作家とその時代』の新版の執筆にかかっている。本は今秋、「吉田書店」から刊行の予定である。
 今年2012年までにノーベル賞を授賞した中南米出身の文学者は6人いるが、その一人、コロンビア生まれのガブリエル・ガルシア=マルケス(Gabriel Garcia Márquez)は、1960年代から70年代にかけて起ったラテンアメリカ文学ブームの火つけ役を担った。彼が1967年に発表した『百年の孤独(Cien años de soledad)』は、スペイン語圏では、「ソーセージのように売れた」といわれている。
d0238372_1834063.jpg その彼がもっとも完成度が高いとした作品が、『予告された殺人の記録』(Crónica de una muerte anunciada, 1981年)である。よそ者の青年バヤルド・サン・ロマンが、田舎町に住む娘のアンヘラ・ビカリオを見初めて結婚する。だが彼女が処女ではないことがわかって実家にもどされる。母親には殴られ、双子の兄たちからは相手が誰かと問い詰められて、彼女はサンティアゴ・ナサールだと白状する。そのときから双子の兄弟はサンティアゴをつけねらい、町中に自分たちの意図を吹聴する。そして最後には予告どおりにサンティアゴがある朝、自分の家の戸口で刺殺される。これがルポルタージュ風の物語の筋である。
 これはガルシア=マルケスの親戚の娘マルガリータ・チーカとその双子の兄弟、そして医学生カエタノ・ヘンティーレの間に実際に起こった事件を題材にしていて、ガルシア=マルケスはこれを書くにあたって、彼自身も育ったスクレの町で30年前に実際に起った事件を調べ、証言を集めた。事件当時は新聞記者になって故郷を離れていたのである。
 この事件には奇妙な点があった。最初の相手がサンティアゴ(カエタノ)だったというアンヘラ(マルガリータ)の告白は本当だったのか。双子の兄弟が殺意を吹聴してまわるのは、自分たちの行為をとめてもらいたがっているのではないのか。それなのに町の人たちはなぜ殺人を止めようとしなかったのか。あるものは酔っ払った上のたわごとと思い、あるいは偶然(この日はたまたま司教が船で町へやって来る日だった)や不意の出来事から、兄弟の行動を見過ごしたのである。
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 こうしてアンヘラのひと言から、事態は運命的な悲劇へと進んで行く。『予告された殺人の記録』によって、ガルシア=マルケスはあたかもギリシャ悲劇のような、名誉と運命という古典的なテーマをめぐる新たな作品をつくり出すことに成功した。
 だが小説が発表されると、30年前に起きた事件の関係者、とくにアンヘラのモデルであるマルガリータとその家族はふたたび好奇の目にさらされ、辛い思いをしなければならなかった。これは事実に取材した創作の宿命でもあった。

 ガルシア=マルケスについて書くための資料を集めていて、日本人のジャーナリストが書いた『ガルシア=マルケスに葬られた女』(集英社、2007年)という本に出会った。著者の藤原章生氏は1961年生まれ。毎日新聞の記者で、かつて南アフリカやメキシコの特派員をつとめた人である。
 「マルガリータ、こんな書き方は失礼になるかもしれませんが、あなたを思うとき、私はあなたの中に、聖なるものと並び、性的な、何かどろどろしたものを感じてしまいます。 / あなたにまつわることは実はずいぶん前から知っていました。でも、ほんとうのことを言えば、あなたは小説の登場人物にすぎないと思っていたのです。つまり架空の人。(中略)でも、つい最近、あなたが実在の人物だと知りました。そして、何度か取材の申し込みをしました。でも、あなたからはまったく返事をもらえませんでした。」
 これがルポルタージュの書き出しである。藤原氏は、コロンビアの現地に飛び、関係者に取材してまわる。ガルシア=マルケス本人への取材は、マルガリータ同様に実願しなかったが、作家の弟ハイメをはじめ、マルガリータの姪、学校の同級生で親友だった女性、さらには被害者であるカエタノの友人たちからも話を聞いて、小説の裏にあった事件の真相に迫ろうとした。
 そうした相手の一人、マルガリータの姪のルイサが、小物入れに大切に仕舞ってある新聞の切り抜きを見せてくれる。それは10センチ四方ほどのカラー写真で、そこには50年輩の黒髪の女性が写っていた。マルガリータが亡くなったときに新聞に載ったもので、短い記事が添えられていた。
 「マルガリータ・チーカは2003年5月13日、74歳の生涯を閉じた。それはたまたま、カトリック教徒たちがディア・ビルヘン(処女の日)と呼ぶ、聖母マリアの再来を祝う日だった。晩年、白内障でほとんど何も見えなくなっていた彼女は、それでもタバコだけはやめず、ついに肺を患い、それに伴う心不全で息を引き取った。」故郷スクレを離れたマルガリータは、洋裁で生計をたてながら一人暮しを続けたという。
 マルガリータは生前、一度だけ新聞記者のインタビューを受けていた。藤原氏はその記者を探しだした。記者はプラス・ピーニャといい、彼自身がマルガリータの死の直後に、「エル・メリディア」紙からインタビューを受けていた。以下は藤原氏がピーニャから見せられた記事の抜粋である。
 「私にとってマルガリータとは、痛みそのものだった。家族制度への服従、そして、恐怖、苦悶、焦燥そのものだった。彼女は、娘たちの処女は家族の名誉だという掟の犠牲者だった。インタビューしたのは、私が記者の仕事を始めたばかりのころだったが、生涯で最も難しい仕事だった。なぜなら、ガルシア=マルケスは、作品であえて謎を残した。誰がアンヘラ・ビカリオ(マルガリータ)のほんとうの男だったかという謎解きを読者に仕向けた。それをマルガリータから聞き出すことが、自分にはつらいことだった。それは明らかに、彼女の傷口を開くことになるからだ。
 彼女は「カエタノだった」と言った。でも、あの会見自体が、家族の名誉を守るためのものであり、彼女からすべてを聞けたわけではない。
 「どんな状況だったのですか」「いつのことですか」と彼女に聞いても、はっきりとした言い方をしなかった。まるで夢の中の出来事のようにこう語ったにすぎなかった。
「ある日、カエタノの農場に招かれて、私たち二人しかおらず、起こることが起きてしまいました」
 相手の名を挙げながらも、なぜ彼女が詳細を語らなかったのか、いまだにわからない。
 でも、考えてみてほしい。自分の人生の中でとても恥ずかしい事実が白日の下にさらされるだけでなく、30年もたって、それを40カ国語もの言語で世界中に発表される。どんな気持ちがするだろう。(中略)
 しかも、ガルシア=マルケスは一度としてマルガリータを取材しなかった。
 自分のあずかり知らないところで、これほど詳しく自分のことが小説に描かれ、それを知る友人たちは、事前に何も言ってくれなかった。そのことが彼女に、人間の途轍もない無力感を悟らせたのだと思う。しかも、そのあと、作家の友人が編集長を務める雑誌で、登場人物と実在の人物の関係をすべて暴かれた。何で、そこまで自分を陥れるのか。彼女が精神的におかしくならなかったのが、不思議なくらいだ。」
 コロンビアでは、女性の処女性を崇拝する考えは主にカトリックの信仰から来ているが、マルガリータの身に起きた出来事は一時代前の日本でもありえたことで、こうした意識が薄れたのはそれほど遠い昔のことではない。
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by monsieurk | 2012-05-18 20:31 | | Trackback | Comments(0)
 絵を一度額から外し、物として徹底的に分析するというRRPの方法は、真贋判定の決定的な情報をもたらしただけでなく、レンブラントという人物を解明する手がかりをあたえることになった。
 たとえば、レンブラントが経営していた工房の実態である。レンブラントが弟子をとって教えていたことは、これまでも数々の文献から知られていた。若くして名声を確立した彼は、若い画家たちをひきつけた。絵の素養をもっている彼らは、最後の仕上げのためにレンブラントの工房を訪れ、師匠の制作ぶりを観察し、そっくりの絵を描くことに努めたのだった。このほかに、レンブラントと契約して工房で作品を制作する人たちもいた。
d0238372_0183522.jpg 同じ工房でつくられた作品は、カンヴァスにしても顔料にしても同じものを使っている場合が多い。だがX線や中性子放射写真は、顔料分析に関してさらなる事実を明らかにしたのである。ボストン美術館所蔵の《アトリエにいる風景》(1628年)では、一人で大きなカンヴァスの前に立つ画家自身が描かれている。
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 1633年ころの《レンブラントの肖像》(ベルリン・ゲムルトギャラリー所蔵)は、調査の結果、レンブラントの協力者の一人、ホファールト・フリンクの作品とされた。カンヴァスに比べて人物が大きすぎること、用いられている深緑色がレンブラントのものとは違うことが判定の決め手となった。
 レンブラントの弟子25人ほどが特定されているが、ほかにも20人以上の弟子や協力者がいたと推定される。レンブラントはこうした弟子の作品を売る権利を持っていた。フリンクのもののように、部分的にレンブラントが手を加えたものはまだしも、弟子の作品に彼が署名しただけのものもあり、これらもレンブラント作として、生前から売られていた可能性が高い。
 17世紀中葉のオランダでは、絵画は有名なチューリップの球根に次いで、貿易で巨利を得た市民層の投資の対象とされた。絵画市場ができ上がるとともに、それまで貴族や教会の庇護の下にあった絵画が、富を生む絶好の対象とされたのである。
 この好機を商才にも長けたレンブラントは見逃さなかった。アムステルダムの中心街に邸宅を構え、商船が世界中から運んでくる珍しい品々を貪欲に蒐集した彼は、いくら金があっても足りなかった。当時の競売リストには彼の名前が度々登場する。
 レンブラントは大規模な工房を営み、弟子に作品を量産させて蓄財にはげんだ。これは当時のオランダの絵画の世界では普通に行われたことで、彼も同じシステムを採用したのである。RRPの研究はこうしたレンブラントの一面をあぶりだすことになった。
 3つの都市で開かれた展覧会では、新たにレンブラントのものではないとされた作品だけを集めた別室が設けられた。アムステルダム国立美術館では、そこに展示された作品群をじっくり観る機会をえたが、レンブラントの傑作の数々に接した後では、別室全体からうける圧力がまるで異なることに気がついた。これらがなぜ長年レンブラント作とされてきたのかが信じられないほど、作品から発散されるオーラがまるで違うのである。
 RRPの研究の成果は、現在までに5巻の浩瀚な『レンブラント油彩集成(A Corpus of Rembrandt Paintings)』として発表されている。第1巻(1982年11月刊)から第5巻(2010年10月刊)までが出版され、この間30年が経過しているが、計画はあと1巻で完了する予定である。
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 ウェテリング名誉教授によると、科学的調査からはじつに多くの手がかりをあたえられたが、それ以上に絵をよく観ることを教えられたという。額縁に入れられて壁にかけられた絵を前にして、私たちはそれを一つのまとまったイメージとしてとらえる。しかしそれ以上の情報を得ようと思えば、絵にもっと近寄る必要がある。すると頭や手や衣服の襞が見え、さらに筆致(タッチ)が目につく。そうして得た感覚や情報をもとにもう一度向き合うと、絵は重層性を増して、多くの秘密を語りかけてくる。
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by monsieurk | 2012-05-14 23:59 | 美術 | Trackback | Comments(1)
 「私たちは一切を白紙からはじめました。レンブラントのどの絵も本物と信じないことにしたのです。《夜警》のように、あらゆる文献からみてレンブラントの作品と分かっているものもあります。しかし、そうした文献も疑ってかかったのです。これは芸術作品に対する、まったく新しい挑戦でした。作品を額から外し、最良の照明でじっくり観察し、X線写真など科学的方法で調査する。つまり、絵画としてではなく、物として徹底的に検査すれば、レンブラントについての真贋を判定する多くの情報が得られると考えたのです。」
 「レンブラント・リサーチ・プロジェクト(RRP)」の責任者ファン・デ・ウェテリング(Ernst van de Wetering)教授(現アムステルダム大学美術史名誉教授)は、私にこう語った。
 1991年12月4日から翌92年1月3日まで、オランダ・アムステルダムの「国立美術館(Rijksmuseum)では、「レンブラント大回顧展」が開かれた。このとき私たちは1週間にわたって、開場前の朝8時から10時まで自由にテレビで取材する許可をあたえられたのだった。インタビューはこの取材の一環として行ったものである。
 1992年はレンブラント没後300年にあたり、この大回顧展はアムステルダムの後、東西が統一されて間もないドイツのベルリン、ロンドンの「ナショナル・ギャラリー」で巡回展示され、世界中から愛好家が訪れた。
 17世紀オランダ絵画の巨匠レンブラントの真贋判定に、画期的な成果をもたらしたRRPは、オランダ政府の後押しで1968年に結成された。プロジェクトは美術史を専門とする5人で構成される研究チームで、現在も一点一点慎重な分析が続いているが、大回顧展はその成果に基づいた最初の企画であった。ただこうした科学的な調査にもかかわらず、レンブラントの作品に関しては謎も多い。ウェテリング教授の写真の後ろに写っている《若いユダヤ人の結婚》(国立美術館蔵)で、女性が身に着けているスカートの赤の顔料がどこから来たものかはいまもって不明なのである。
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 RRPの仕事は素朴な疑問から発している。かつてアムステルダムでレンブラントの大規模な展覧会が催されて、大変な数の作品が展示されたことがあった。このときウェテリング教授たちは、壁にかけられた絵に驚嘆する以上に、はたしてこのすべてが、たった一人の人間の頭から生まれたのか。それにしてはスタイルも質も違いすぎないか。この素朴な疑問から、オリジナル作品を探求する長い道程がはじまった。
 二十世紀初め、レンブラントの作品は1000点を数え、第二次世界大戦後でさえ、600点ほどが真筆と信じられていた。ニューヨークの税関は、1919年から1950年の間に、1万点のレンブラントを扱ったが、驚くべきことにそのほとんどが本物としてアメリカに輸入されたのである。
 RRPは世界中に散在する凡そ500点のレンブラントを調査中で、まず取り組んだのは、作品の注文者、過去の所有者の移り変わりといった作品の来歴に関する文献記録を徹底的に洗いなおすことだった。
 その上で作品そのものを実見して、油彩の筆致やわずかに見える署名や年記、額縁の下に隠されているカンヴァスの縁の部分など、作品のあらゆる要素を観察した。材木の年輪測定や炭素測定法で、絵が描かれているパネル板が制作時と一致するかどうかが検討された。カンヴァスの繊維の調査からは、複数の作品に同じ布のロールに由来するカンヴァスが用いられていることも確認され、それらが同じ時期に制作されたことが判明した例もあった。
 そしてX線透視写真では、下書きの有無、筆遣い、描き直しなど制作のプロセスがくっきりと浮かび上がってきた。レンブラント自身のオリジナルでは、他の部分に比べて手の描き直しが圧倒的に多く、どうやらレンブラントは手を描くのが苦手だったこともわかった。
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 さらに威力を発揮したのが中性子放射写真であった。低いエネルギーの熱中性子を絵に照射すると、顔料に含まれる元素ごとの写真を撮ることができる。こうしてX線写真ではわからない暗部の筆遣いや下絵が鮮明にとらえられることになった。ニューヨークのメトロポリタン美術館所蔵の《女性の肖像》は、全体的にはレンブラントの調子ではないものの、中性子放射写真によって浮かび上がった左手だけは、レンブラントの筆遣いにまちがいなく、結論として弟子の作品にレンブラントが筆を入れたものと判定されたのである。

 今回と次回のブログは、雑誌「ルプレザンタシオン」の1992年02号に掲載した文章を改稿したものであることをお断りする。この雑誌は東京大学教養学部表象学科の関係者が中心となって「筑摩書房」から刊行されたが、5号で廃刊となった。
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by monsieurk | 2012-05-10 21:18 | 美術 | Trackback | Comments(1)

池田満寿夫の版画

 連休は熱海にいた。家は駅の裏の急坂を登った桃山台にあり、眼下には街と海が望める。遠くには初島や大島が見え、ときどき島との間を行き来する高速船が白い航跡をひいて港をでていく。
 近くにはMOA美術館や池田満寿夫・佐藤陽子「創作の家」がd0238372_12343254.jpg
あって、よく行く場所である。MOA美術館の《レンブラントの自画像》は収蔵後に、アムステルダムの「レンブラント・リサーチ・プロジェクト」(これについては次回のブログに書く)によって鑑定が行われ真筆と判定された。
 左上方からの強い光で、右目から半開きの口のあたりが明るく照らしだされて、右半分との明暗のコントラストが印象的である。レンブラント23歳のころの作品である。
 美術館のもうひとつの目玉である尾形光琳の《紅白梅図屏風》(国宝)は、熱海の梅が咲く季節に期間を限って展示され、常設展示はされていない。
 MOA美術館には、このほかにも乾山の「色絵十二ケ月歌絵皿」や野々村仁清の「色絵金銀菱文重茶碗」など国宝や重要文化財も含まれており、一通り見てまわるのに半日はかかる。
 池田満寿夫・佐藤陽子「創作の家」は、MOA美術館へ行く途中の海光町にあって、駅から坂を15分ほど歩けば達する。ここはかつて池田満寿夫とバイオリニストの佐藤陽子が、昭和57年から平成9年まで住んだ家で、池田が亡くなったあと、平成12年に熱海市に寄贈された。その後熱海市が手を入れて記念館としてオープンした。
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 二人が団欒を楽しんだサロンは、海側の二方が大きなガラス窓になっていて、陽射しがふりそそいでいる。窓に面して、ゆったりとした革張りの長椅子が配され、そこに座ってコーヒーを飲みながら、生前池田満寿夫が収録したヴィデオを見ることができる。池田はテレビ・カメラに向かって、「みなは俺が女たちに食わしてもらったなどと言っているが、いつも食わしていたのは俺の方だ」などと、人懐っこい笑いを浮かべながら語っている。d0238372_1235198.jpg
 ヴィデオには版画の代表作や、同じ熱海の下多賀にあった体育館のようなアトリエでの陶器制作の模様なども収録されている。池田はこの家から自動車を運転して毎日アトリエに通ったのだった。陶芸作品の傑作とされる「般若心経」シリーズは晩年に取り組んだもので、陶器の表面にお経の文句が刻み込まれ、その独特の造形とともに忘れがたい印象を残す。
 地下の防音装置を施した部屋は、佐藤陽子がバイオリンの練習をしたところで、彼女の演奏がテープで流され、壁には描きかけの絶筆の油絵が立てかけられている。他の部屋には池田満寿夫の代表的な版画やコラージュ作品が展示されている。そのどれもが、全力で疾走した彼の多彩で豊かな才能のほとばしりにほかならない。池田はこんな言葉を残している。
 「私は自分が天才でないと自覚せざるを得なくなってから、自分の思想が独特の型をかたちづくってきたように思う。マイナー意識が私をある種の悲愴な使命から解放させた。マイナーにはマイナーだけが持ちうる自由がある。軽やかな自由。軽さ。そうだこの軽さ! その想念が私を不意にとらえた。」(『私の調書』)
 「エロチックはオブラートにつつまれたような春であり、わいせつは、むきだしにされた冬である。エロチックはソフィストケイトされているが荒々しく、いかにもきたならしいとされている。」「エロチックは美しいがわいせつはきたならしいときめつけた一般論は認めることが出来ない。私は怠屈しないかするかという価値判断しか持っていない。」(『思考する魚』)
 記念館で観られる作品は決して多くはないが、その官能的な魅力は尽きることがない。

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by monsieurk | 2012-05-07 12:54 | 美術 | Trackback | Comments(0)

マラルメとマティス

 ステファヌ・マラルメの詩集は、彼の死の翌年にベルギーの出版人エドモン・ドマンが刊行したものを最初として多くの版がある。なかには画家が挿画を描いたものも少なくない。そんな挿画入り豪華本のなかで、もっとも高価で入手し難いのが、アンリ・マティス(Henri Matisse)が挿画を描き、スイスのジュネーヴで出版社を立ち上げたばかりの若いアルベール・スキラが1932年に刊行した豪華挿画入り詩集である。本の大きさは32.8×24.2cm。29点のオリジナル版画付で、245部が印刷された。
 スキラは1930年、マティスにマラルメの詩集のために挿画を描いてくれるよう懇願し、画家はこの申し出を受け入れた。画家は2年の年月をかけて、多くのデッサンや版画をつくり、最終的には29点の挿画を完成させた。
 2002年4月から7月の間、パリの南60キロのヴァルヴァンにある「県立マラルメ記念館」(マラルメが愛し、休暇の度に滞在した田舎の別荘)では、「マティスとマラルメ展」が開かれて、稀覯本の『マラルメ詩集』と挿画の原画、それに一度は制作されながら最終的には採用されなかったデッサンや版画が展示された。ここにお見せするのは不採用になったもので、詩篇《Guignon(悪運)》のテクストと一緒に試し刷りまでされながら、破棄されたものも含まれている。マティスは鉛筆で“Planche refusée(不採用の版)”と書きこんでいる。
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 一連の作品を見るとマティスの仕事の過程がよくわかる。画家は湖へ出かけて白鳥を素描し、あるいはモデルの女性の顔や裸体を線影をつけたデッサンに写しとる。次には線影を消し去り、女性の胸の丸みや腰のカーブ、卵形の顔や白鳥などを単純な一本の線で描き出す。その流れるような線は、マラルメの詩のテクストと優美に調和している。
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 マラルメの詩集への挿画制作は、マティスにとって最初の経験だった。彼は詩に即しつつ、自由な筆致でもって装飾的な線描をこころみたのだった。マティスは『著作と芸術についての言葉(Ecrits et propos sur l’art)』で、マラルメ詩集の制作についてこう語っている。
 「影絵なしの規則的で非常に薄いエッチング、これは印刷された紙を印刷前とほとんど変わらない白さのまま残している。 / 別刷りの挿画のある右ページは・・・活字の本文の左ページと向かいあっている。問題はこの二つのページ、エッチングの白い方と活字の比較的黒い方を釣り合わせることだった。 / 私は白い紙と本文を読む期待の両方に、見る人の注意が同じように向くように、私のアラベスクを変化させて、その効果に達した。」
 マティスは書物を「生きた空間」として捉えていた。だから、「作家と画家によってつくられる一冊の本におけるテクストとイメージュは、混ぜ合わされるのではなく、並行して働かなくてはならない」と考えていた。
 この原則の上に立って、マラルメ詩集の場合については、「すぐれた詩人が別の種類の芸術家の想像力をかき立てて、その詩と等価のものがつくり出されるのを見るのは気持のいいものだが、造形芸術家が自らの才能をもっともよく引き出すには、あまりテクストに拘泥することなく、その詩人と触れ合うことで自分の感性を豊かにしながら自由に制作しなければならない。事実、マラルメ詩集の仕事を終えてみて、これは私が楽しんでマラルメを読んだあとで行った仕事だと言いたい」と述べている。
 だがロジェ・ラクリエールの手で印刷された本が出来上がり、その一冊を受け取ったマティスはある人に宛てた手紙で、「数日前に、私はマラルメの販売用の一冊を受け取った。挿画については、線と空白が同じように見え、生気のないものにされ、一言でいえば死体のような印象を受けた」と失望を語っている。しかし客観的に見て、この豪華本は協力した二人の芸術家の名前を抜きにしても、稀有のものと私には思える。
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by monsieurk | 2012-05-02 06:04 | マラルメ | Trackback | Comments(0)