ムッシュKの日々の便り

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ゴッホと浮世絵 II 「海のサント・マリー」

 ゴッホはパリで、仕事の上では大きな手応えを得たが、生活費のすべてを弟テオの世話になっている共同生活に気詰まりを感じていた。そうした中で1888年2月下旬、テオには黙って南仏のアルルへ旅立った。
 行き先がなぜアルルだったのか、はっきりした理由は不明である。パリよりも生活費が安くすむという思惑があったかも知れない。彼が以前から南フランスの陽光に憧れていたのは事実で、オランダ時代にアルフォンス・ドーデの小説『アルルの女』や、『タラスコンのタルタラン』を愛読していた。タルタランは大言壮語の豪傑で、その冒険譚は彼を魅了した。タラスコンはアルルの少し北にある小さな街である。だがそうした動機以上に、ゴッホを駆り立てたのは、南フランスの風光が日本に似ているという想いだった。
 書簡605(9月10日付)の一節にはこうある。
 「親愛なるテオ、君も知っての通り、私が南仏に来て仕事に没入したのには多くの理由があった。違った光を見たかった、もっと明るい空のもとで自然を眺めれば、日本人が感じて、描いたやり方が正しくつかめると思ったからだ。この強烈な太陽を見たかったのだ。なぜならこの太陽を知らなくては、ドラクロワの絵を描写や技法の点からは理解できないし、また北方ではプリズムの色は靄におおわれていると感じるからだ。
 これらはみなその通りだ。これに加えて、ドーデーが『タルタラン』で描いた南仏に寄せる自然な愛情もあった。ときどきは、大好きな友人や事物をここで見つけさえした。」
 ゴッホはアルルに着いたあとしばらくは宿屋住まいだったが、まもなく住処を見つけた。鉄道駅から街の城壁の門へ入って行く途中にあるラマルチーヌ広場に面した二階建ての建物で、左半分は食料品店、借りたのはその右半分だった。
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 ゴッホが絵に描いた通り外壁は黄色く塗られ、借りた方には居間と小部屋が二つずつあった。日当たりがよくアトリエに使うことにした。家賃は1カ月15フランだった。さらに1週間後には、ジヌー夫妻が経営するカフェ・ド・ラ・ガールにも部屋を借りた。
d0238372_12352100.jpg こうして生活の基盤を確保すると、ゴッホは南フランスの陽光のもとにある景色を求めて周辺を歩きまわった。気に入った風景に出合うと、イーゼルを立てて絵を描いた。葡萄畑、刈入れのすんだ麦畑、その麦畑の間を走る小さな汽車、農夫、跳ね橋、モンマジュールの僧院。僧院まではアルルの街から片道5キロの道のりだが、5月から7月初めの2カ月間に50回は通った。昼食は持参したパンと牛乳だけで済ませて絵に没頭した。このとき描かれた《仕事に出かける画家》は、第二次大戦の戦火で消失してしまった作品である。

                  *

 ゴッホが思い立って、カマルグ(ローヌ河口にひらけた大湿地帯)にあるサント・マリー・ド・ラ・メール(海のサント・マリー)へ出かけたのは5月30日である。ここはアルルから南西40キロにある漁村で、朝7時に乗合馬車でアルルを発って昼ごろに着いた。紺碧の海辺には百戸ほどの漁師の家が点在し、砂浜のなかにある墓地の足元を海が洗っていた。そして少し離れた街には場違いな大きな教会が建っていた。ゴッホは念願の地中海をはじめて眼にしたのだった。
 海のサント・マリーは古い伝承のある巡礼の聖地である。伝承では、聖母マリアの妹マリア・ヤコベと預言者ヨハネの母マリア・サロメ、そしてサロメの二人の妹マルタとマグダレナ、それに二人のマリアに仕えるエチオピア人のサラという娘が、エルサレムを追われて、帆も舵もない小舟で漂流した末に、この海辺にたどり着いたとされる。
 二人の聖女マリアの亡骸はこの地に埋葬され、9世紀頃に城砦となった教会におさめられていた。彼女たちを慕って毎年多くの巡礼者が訪れるが、サラは放浪の民ロマ(ジプシー)から聖女として崇められ、毎年5月にはヨーロッパ中からジプシーたちが幌馬車で集まって、浅黒い肌をしたサラの像をささげて海に入る祭りが行われる。
 30年ほど前にこの祭りを取材して、当時結成されたばかりの「ジプシー・キングス」の演奏と歌を衛星テレビで紹介したことがある。哀愁を帯びた彼らの音楽はその後世界的に大流行し、日本でも代表作「インスピレーション」がテレビドラマ「鬼平犯科帳」のタイトルバックにも使われるほどになった。
d0238372_1235734.jpgd0238372_12345811.jpg ゴッホが訪れたのは巡礼祭が終わり、静けさがもどった時期だったが、彼はここに6月初めまで5日間滞在した。そしてこの5日間がゴッホに決定的なものをもたらした。彼はこの間、葦ペンや鉛筆での素描に専念したが、自ら絵の根源となるものを会得したのである。
 「ここの海を見たいま、南仏に留まることの重要性をまた痛感している。もっと大胆に強烈な色を使わなければ。(中略)たとえ高くついても、南仏に滞在したいのは次の理由からだ。私たちは日本の絵が好きで、それから影響をうけた。それは印象派の画家すべてに共通することだが、日本へ行こうとはしない。つまり、日本に等しい南仏にするというわけだ。結局、新しい芸術の未来はここ南仏にあると考えるのだ。(中略)
 君(テオ)がここにしばらくでも滞在できたらうれしい。君はすぐにそれを感じとり、ものの見方も変わって、もっと日本人の眼でものを見て、色彩を違って感じるようになる。この土地に長く住めば、私は私の個性を抽きだせると確信している。日本人は素描をするのが早い。非常に早く、稲妻のようだ。それは神経がこまかく、感情が素直だからだ。
 私はこちらにきてまだ数カ月だが、パリでは1時間で、舟のデッサンを仕上げただろうか? 輪郭さえ出来上がらなかった。ところが、ここではペンが走るままに、苦もなく仕上がるのだ。」(書簡500)
 ゴッホはサント・マリーで、浜に引き上げられた漁船や海の風景、漁師の家、昔の城砦だった教会などを太く強い線で描いた。それは明らかに日本の版画から学び取った手法だった。そしてアルルに戻ってからは、自の内心がおもむくままに強烈な色彩とタッチで描き、《サント・マリー・ド・ラ・メールの風景》(クレラー=ミュラー美術館)、《緑の葡萄畑》(同)、《アルルの寝室》(ファン・ゴッホ美術館)などが制作されることになる。
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by monsieurk | 2012-06-27 12:50 | 美術 | Trackback | Comments(0)

ゴッホと浮世絵 I 「草の芽生え」

 エドゥアール・ヴュイヤールを論じたブログ(「画家ヴュイヤールXIII」、2012.6.18掲載)で、19世紀末のフランスで巻き起こったジャポニスムの流行に触れたが、1886年3月から88年2月までパリにいたフィンセント・ファン・ゴッホも、浮世絵に魅せられた一人だった。
 ゴッホはコルモンの画塾でオーストラリア人の画家ジョン・ラッセルと知り合った。ラッセルは少年のとき極東を旅して日本の美術品を蒐集していて、それを見せてもらう機会があった。ただゴッホが浮世絵の新奇な魅力の虜となるのは、翌1887年の夏からで、極東の美術品を専門に扱っていたモンマルトルのビング商会が、コレクションを展示する日本美術展を開いた時期と一致している。モンマルトルには弟テオが勤めるグーピル商会の支店があり、ビングの店の版画の委託販売もやっていた。
 ジーグフリート・ビングは中国や日本の骨董から芸術品までを扱う商人で、このころは極東の美術をテーマとする展覧会や、専門誌「芸術の日本」という贅沢な美術雑誌の刊行を準備中だった。雑誌は毎号10点以上の浮世絵の傑作を紹介し、エドモン・ド・ゴンクールなど専門家が文章を寄稿することになっていた。
 ビングの店は増築され、パリ9区のモンパルナス大通りとプロヴァンス通りの角に新しい画廊を開き、フィンセントは弟のつながりを利用して、ビングの店の屋根裏の倉庫に入る特権を手にいれた。そして一流品から普及品まで、多くの浮世絵を眺めて暮らした。なかでも北斎や広重、豊国に感心した。
 ゴッホの膨大な手紙はすべて原文のオランダ語、フランス語、英語のまま、2巻本の『フィンセント・ファン・ゴッホ全書簡集(Verzamelde brieven van Vincent van Gogh)』(Wereldbibliotheek、Amsterdam、1974)に収められている。
 そのなかの書簡542、弟テオに宛てた手紙の最後で、日本の画家たちのデッサンや浮世絵をこう評価している。

 「日本の芸術を研究すれば、間違いなく賢く、哲学的で、知的な人間を見出すだろう。彼は何に時間を費やしているのか? 地球と月との距離か? いや。ビスマルクの政策か? いや。ただ一茎の草の芽生えを研究しているのだ。
 しかしこの草の芽生えたるや、彼にあらゆる植物を描くことを教え、次いで季節を、田園の広々とした景色を、動物を、そして人間の顔を描く術を教えるのだ。こうして彼はその人生を過ごす。人生はすべてを行うには短すぎる。
 どうだい、これは本当の宗教ではなかろうか。それこそ彼ら素朴な日本人が私たちに教えるものであり、彼らはまるで花のように自然のなかで生きているのだ。
 そして私たちがもっと日本の芸術を研究できるようになれば、皆がもっと陽気に、もっと幸福にならないはずはないと私は思う。私たちは因習のなかで教育を受け、仕事をしているが、もっと自然に還らなくてはいけない。(中略)私は日本人がすべてにおいて持っている極度の明確さをうらやましく思う。それは決して退屈なものでも、簡単にさっと済ませたものでもない。彼らの仕事はちょうど呼吸をするようなもので、チョッキのボタンをはめるように、楽々と、二、三本の線で人物を描いてしまう。ああ、私もわずかな線で人物を描けるようにならなくてならない。」

d0238372_1412071.jpg パリ滞在中にゴッホは200点をこえる絵を描いたが、そこには独特の自画像、パリ市内や近郊の風景、花、向日葵などと並んで、数点の浮世絵の模写がある。年代的にもっとも早いのは、1887年秋に制作された《タンギー親爺の肖像》(ロダン美術館蔵)で、帽子をかぶり端座するタンギーを正面から描き、その背景に「雪の中を行く傘をさした二人の旅人」、「富士」、「川辺の桜」、「花魁の顔」、「花魁の立ち姿」、「朝顔」の6点の浮世絵を模写している。タンギー親爺はモンマルトルに絵具の店を開いていて、貧しい画家には絵具と画布を前貸ししてくれた。画家たちは作品が出来上がるとタンギーの店の飾り窓に置いておくのだが、滅多に売れることはなかったから、タンギーはいつも損をした。セザンヌやゴッホは店の常連だった。
 ゴッホはこのほかにも、広重の《名所江戸百景 亀戸梅屋舗》から《花咲く梅の木》を、同じく広重《名所江戸百景 大橋あたりの夕立》からは《雨中の橋》を模写した。いずれも1897年9月から10月にかけてと推定される。
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 さらにもう1点の《花魁》も同じ時期のものだが、これは「パリ・イリュストレ」誌の日本特集号(1886年5月1日号)の表紙に載った渓斎英泉の《雲龍打掛の花魁》を油絵で写し取ったものである。ただゴッホが英泉のオリジナルを見ていないのは、絵の花魁の顔が版画とは逆に左を向いていることから明らかである。「パリ・イリュストレ」は左からページを開く欧米の形式に合わせて、印刷の際に左右を反転させていたのである。ゴッホはこうした浮世絵の模写を通して、日本の風景や人物に思いを馳せたのだった。
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by monsieurk | 2012-06-24 14:09 | 美術 | Trackback | Comments(0)

画家ヴュイヤール XIV 「装飾か抽象か」

d0238372_1620069.jpg ヴュイヤールの絵がふたたび装飾的になるのは、1890年代になってからである。彼が装飾画を最初に制作したのは1892年で、ポール・デマレに依頼されて連続する6枚のパネルを描いてからである。この作品は知人の間で大きな反響を呼んだ。
 そして2年後の1894年には、アレクサンドル・ナタンソン(タデの兄)のために、連作《公園》を完成させた。パリのブーローニュの森通り60番地(現在のフォッシュ通り)にあったアレクサンドルのアパルトマンの食堂を飾るための9枚のパネル画で、チュイルリー公園やリュクサンブール公園を連想させる公園で、保母たちに見守られて遊ぶ子どもたちや、ベンチで日光浴を楽しむ婦人、日傘をさして散策する人たちなど、何気ない日常が描かれた。
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 ヴュイヤールはこうした注文が、ピュヴィス・ド・シャバンヌの場合のように、公共物の壁面ではなく、個人の家庭、それも調度の調和に細心の注意が払われているブルジョア家庭の室内を飾るものであることを心得ていた。したがって《公園》で展開されるのは、いかにもヴュイヤールらしい親密(アンティーム)な世界である。
 それにしても装飾画を描くには、油彩とは異なる方法が要求された。それは日常の光景をいかに平板な様式に変貌させるかである。画面は望遠レンズをとおして眺めたように、前景、中景、後景が重なりあって深度がなくなり、壁掛け(タピストリー)のようになる。こうした注文に応えた装飾画は、「アンティミストの領域から離れることなく、大きな装飾とイーゼル画とのあいだを繋ぐもの」(美術評論家クロード=ロジェ・マルクス)を目指すものになった。
 その後、ヴュイヤールは1896年には、ヴァケス博士邸の書斎を飾る4枚の装飾パネルを制作し、1898年には、小説家クロード・アネに頼まれて、ヴァルヴァンにあったナタンソン夫妻の別荘をモチーフにした装飾壁画を仕上げた。
 マラルメの提唱した新しい美学の弟子であり、一時はその忠実な実践者であったヴュイヤールが、このころになって方向を転じたのはなぜか。それは彼が本質的に画家であり、彼を魅了した最大のものが光と色彩であったという単純な事実である。マラルメが感覚の誘惑を、精神の力であえて断ち切るのに対して、ヴュイヤールは最後には自らの感覚に忠実である道を選択したのだった。
 マラルメに「不在の三部作」と呼ばれている三篇のソネがある。「この夕べ、誇らしい自負心はすべて」、「かりそめのガラス器の尻からひと跳びに」、「窓掛けのレースはいつしか消えて」ではじまる三篇は、伝統的な三幅対(三副を一対とする絵)のように、互いに関連していて、いずれの詩も何ものかの不在をうたったものである。
 それぞれのソネは最初の草稿以降、幾つかの段階を経て決定稿にいたるのだが、各段階のヴァージョンの異同(ヴァリアント)を比べてみると、これらの詩が最初は日常的な室内の情景から出発していることがわかる。
 三つの詩には、「部屋」、「暖炉」、「楽器のマンドラ」、「窓掛けのレース」などが登場する。
 「この夕べ、誇らしい自負心はすべて・・・」の第二節は、次のようになっている。

  相続人の昔の部屋は
  たとえ廊下から彼が不意に現れようと
  豪奢だが廃れた多くの戦捷牌(トロフィー)で
  暖まりはしないだろう。

 誇らしい自負心が、松明の一振りのように煙と消えた夕暮れどき、数々のトロフィーで飾られた部屋は寒々として、相続人たる詩人は不在である。そして第四節――

  重い大理石を宙に浮かせて
  その下に火を灯すのは
  ほかならぬ、燦然たる小卓。

 炎のような装飾を施された脚をもつ小卓は暖炉を連想させるが、この幻想の暖炉にももとより火は燃えていない。松明のような夕焼けに触発された詩人の自負心は、火を燃やすことなく煙のように消え失せてしまったのである。
 第二のソネが描くのは、部屋の夜の光景である。

  かりそめのガラス器の尻から
  ひと跳びに伸びでた頸は
  辛い徹夜に花も咲かせず
  無視されたまま闇に途切れる。

  私の母もその愛人も
  二人の口が同じ一つの幻想を
  飲んだとは思えない
  この寒い天上の空気の精(シルフ)の
  この私には!

  限りない空ろのほかには
  どんな水気も含まぬ器は、
  闇に悶えて同意はしない、

  死の色濃い無邪気な接吻!
  暗闇に薔薇の予兆を
  点ずる何かを吐き出すことには。

 壊れやすいガラス器には水は入っていず、頸が欠け、花も生けられていない。器自体が「悶えて」おり、闇のなかでその存在を喪失しかけている。それでも何かを吐き出そうとはしない空虚な器は、一輪の薔薇の予兆を告げているようにも見える。そこに喚起されるのは完全な虚無ではなく、薔薇の存在を内蔵した、いわば活動状態にある虚無の感覚なのである。
 そして花のない空虚な器のイメージは、部屋の天上に描かれた空気の精(シルフ)に引き継がれる。彼は上から、この寒々とした暗闇に沈む部屋を見下ろしている。そこには寝台が置かれているが、実りある行為は行われなかった。それは不毛の愛の行為であると同時に、不毛に終わった詩作の行為でもある。
 部屋のイメージはさらに、第三のソネ「窓掛けのレースはいつしか消えて・・・」の第一節へとつながっていく。

  至高の遊びかと疑えば
  窓掛けのレースはいつしか消えて
  瀆神のようにわずかに覗くのは
  永遠に不在の寝台ばかり。

 この四行で描かれるのは、詩作という「至高の遊び」に夜を徹して明け方を迎えた詩人の部屋である。間もなく差し込む薄明のなかで、一瞬透けたように見える窓掛けの内側には、あるはずの寝台がないという。この「至高の遊び」には従来幾つかの解釈があって、これを愛の行為ととることも可能であり、その場合は第二のソネの第二節と呼応する。こうした解釈は互いを排除するものではなく、マラルメ三篇の詩はいずれも多義的で、それが彼の目指した詩法の新しさであった。「永遠に不在の寝台」とは、徹夜の努力にもかかわらず、子どもである詩を生むことが出来ない不毛の象徴である。そしてこの「不在・absence」の語によって喚起された不在に感覚は、最後の二つの詩節に受けつがれる。

  だが、夢で金色に染まるもののうちには、
  音楽的な空洞の虚無を蔵した
  マンドラが悲しげにまどろんでいる。

  その空洞はほかのどんな腹にも孕まれず
  嫡子として、どこかの窓へと
  生まれ出ることができたかも知れぬマンドラが。

 夢見る詩人のうちには音楽が潜在的に存在し、それはやがて歌となって誕生するだろう。マンドラという楽器は空洞(厳密には空気があるが)と弦の共鳴によって音楽を奏でる。ここにも空無から、至上のメロディーが湧き上がるというマラルメ特有の思想が、「音楽的な空洞の虚無・creux néant musician」という三つの語で簡潔に表現されている。マンドラは教会かどこかのステンドグラスに描かれることになったかも知れない。
 以上のように読める三つのソネが典型的な例なのだが、マラルメの詩にあっては身近にある具体的な事物は、詩句の緊張が高まるにつれて、構文上の必要から次第に原型が消えて、莫としたイメージに解体されてしまう。そして決定稿では、ドガが作者に尋ねたように、「注釈家の一人は夕暮れを見、別の一人は夜明けを見る」事態が生じることになる。
 飾りのある卓子や暖炉や窓をおおうレースのカーテンは、一度詩のなかに導入されると、それを言語で表象しようとする不断の努力によって、次第に具体性を減じて、不透明になっていく。マラルメが好んだ比喩を用いれば、それは対に置かれた鏡の間に物体を置いた場合に似ていて、像の輪郭が次第にぼやけていき、最後には元の物体を推測するのさえ難しいという事態がおこる。言語に固有の法則と、詩人がうたいこもうとする象徴的な意味の圧力のもとで、きっかけとなった事物は解体されてしまうのだ。
 マラルメにはもともと、詩から「安直であるがゆえに、現実を排除しなくてはならない」という信念があった。その結果、詩があつかうべきものは、事物それ自体ではなくて、事物と事物の「関係」ということになる。
 「私たちの精神になにげなく触れてくる物の像や数を比較することだけで十分なのだ。そのとき、像と像が交差する点には、装飾のように美しい何かの姿がおぼろげに現れてくる。それらの姿をからみ合わせた全体の唐草模様を見るとき、人は目のくらむような恐怖の年に捉えられると同時に、〔そこからは〕心をそわそわさせるような協和音も聞こえてくる。・・・それこそ私たちの肉体の繊維を織りなすさまざまな論理の主題を、目に見える旋律として、いわば音譜に表したものだといえる。」
 マラルメの詩は無限のパースペクティブの一つの可能態、いまだ存在していない「理想の作品」の一過程なのである。マラルメの弟子として出発したヴュイヤールが、途中でこうした厳格なあり方(リゴリズム)を離れたのは、ある意味で自然の成り行きだった。マラルメのような厳格さを追求するには、ヴュイヤールはあまりにも感性の人であった。
 ヴュイヤールがマラルメの示した方向へもう一歩踏み出していれば、「抽象絵画」と呼ばれる作品の先駆者の名誉が彼の上に耀いていたかもしれない。しかしヴュイヤールがその後たどった道は異なっており、抽象絵画の誕生は20世紀を待たなくてはならなかった。
 それにしてもエドゥアール・ヴュイヤールは、その詩情の多くをマラルメの革命的な精神に負っている。詩人の死の直後、アンブロワーズ・ヴォラールの熱心な勧めで出版された彩色石版刷りの作品集《風景と室内》が、なによりもそれを物語っている。ここにご覧いただくのは、パリの街角のカフェのテラスを描いた作品集の表紙と、「ピンクの室内」と題された1点である。(完)
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by monsieurk | 2012-06-20 17:27 | 美術 | Trackback | Comments(0)

画家ヴュイヤール XIII 「浮世絵」

d0238372_12421427.jpg 19世紀フランスにおける浮世絵の発見は、1856年に、版画家フェリックス・ブラックモンが、「北斎漫画」を偶然見かけたことがきっかけといわれる。彼はある日、刷り師のドラートルの工房の片隅にころがっていた赤い表紙の画帳を目にした。それは日本から送られてきた陶器の荷物の詰物だったというのである。やがて1862年には、中国や日本の美術品を扱うドソワ夫妻の「中国の扉」が、繁華街のリヴォリ通り20番地に店開きして、日本ブームに火をつけたのだった。詩人のシャルル・ボードレールのこの頃の手紙にも、「中国の美術品一包みを手に入れた」という一節がある。
 ブームは1867年に開かれた「パリ万国博覧会」で、日本の物産が展示されたことで加速され、一気に多くの日本美術の愛好家を生み出すことになった。その点では、マラルメや印象派の画家たちも同様で、はじめて見る異国の美術、とりわけ浮世絵に強烈な印象をうけたのだった。マラルメはヴァルヴァンの仕事部屋を「日本の部屋」と呼び、日本髪を結った日本女性の立ち姿が描かれた屏風を買い込み、壁には団扇を飾り、中国製の家具(彼は日本のものと信じていた)を置いて、書き上げた原稿はこの引出にしまわれていた。いまこの家はマラルメ記念館になっているが、ここには扇に書かれた詩篇「マラルメ夫人の扇(Ėventail de Madame Mallarmé)」も展示されている。
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 また「火曜会」が開かれるローマ通りのアパルトマンでも、食堂の吊りランプには日本の縮緬でつくった被いがかかり、丸い食卓の上には煙草がつまった中国製の陶器の壺が置かれていた。
 これまでの西洋画が、明暗のヴォリュームによって立体空間を画布という二次元の平面上につくり出そうとするのに対して、浮世絵は色調のヴァルールによって立体感を生み出す。広重の東海道五十三次の《由井》を例にとれば、遠景の海の藍色から、水色、さらにブルーへと微妙に推移する青系統の色を主調として、画面に十分な空間性が付与されている。
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 ヴュイヤールが目指したのも、まさしく色のヴァルールを変化させる画面構成だった。1905年に、ヴュイヤールの装飾パネルをはじめて観る機会を得たアンドレ・ジッドは、「1905年の秋のサロン」で、「彼は色彩が背景のなかに、微妙に、美しく溶け込んだあとでなければ、決して次ぎの色を画面に置こうとはしない。あからさまな言い方を極端に嫌い、暗示的な物言いを続ける・・・。彼は決して輝くような効果を狙わない。色調の調和こそ第一に心がけたことであり、科学と直感的洞察とが、色の配置で二重の役割をはたしていて、それぞれの色は互いに隣の色に新たな光りを投げかけ、そしていわば告白を強いている」と書いている。さすがにジッドは最初の出合いでヴュイヤールの芸術の本質を見抜いたのだった。
 そしてこの方法こそは、マラルメの「文構成法」を絵画に応用したものといえるのではなかろうか。マラルメは1866年12月5日付のフランソワ・コペ宛の手紙で、「一つの詩にあっては、諸々の語が互いに他の語の上に映発し合って、もはやそれぞれの語本来の色彩をもっておらず、〔それらの語が〕一つの色階の推移でしかないように見える微妙な角的過程の集積にほかならないように思える」ものこそが完璧な詩句だと語ったことがある。一つ一つの語はパレットの上の絵具と同様に、それ自体として不完全であり、それ一語で、ある対象を再現することはできない。だからこそそうした不完全な語と語を組み合わせることで、対象を喚起する何ものかを再創造する、これが詩の存在理由だというのである。
 ヴュイヤールが目指した絵はまさにこうしたものにほかならなかった。前回紹介した《屋根裏の部屋》はこうした筆法の頂点に立つ作品で、憂愁をたたえた神秘的な雰囲気が横溢していて、観るものを魅了してやまない。
 だが皮肉なことに、このころからヴュイヤールの退行がはじまるともいえるのである。
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by monsieurk | 2012-06-18 12:54 | 美術 | Trackback | Comments(0)

画家ヴュイヤール XII 「ナタンソン夫妻」

 ヴュイヤールはこの頃、しきりに厚紙の上に油絵具や泥絵具をつかって描く試みを繰り返している。厚紙という素材は吸収性が高く、それだけ生の色が出にくいことに加えて、粉末状の絵具を油をつかわずに膠と水で溶くディステンパーの技法が、絵具が乾くのに一日、二日かかるためにすぐには次の色を重ねられないのに比べて、短時間で乾くために次々に色を重ねて、くすんだ色調を得られる利点があった。
 ヴュイヤールはこの技法をリュニェ=ポーが主宰する制作座の舞台装置を描く際に学びとったといわれている。1892年ころに制作された《部屋を掃く婦人》、93年作の《室内》、先に紹介した94年の《新聞を読むケル=グザビエ・ルーセル》などがそれである。
 これらの作品に加えて、カンヴァスに描かれたものとしては、《コルスティエールのアトリエ》(1891年)、《食後の画家の一家》(92年)、《画家の母と姉》(93年)、《公園》(94年)、《フェリックス・ヴァロトン》(94年)、《人のいる室内》(96年)、《ミシアとタデ・ナタンソン》(97年)、《屋根裏の部屋》(97年)といった作品の数々が、この時期のヴュイヤールが色面相互の関係や画面構成にいかに腐心していたかを示している。
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 画家はできるだけ描写的な側面を削ぎ落とし、いきおい画面は装飾的な傾向を強める。出来上がった絵はさらに抽象的なものが加わって、「装飾的」という形容ではおさまりきらない神秘的な雰囲気をただよわせることになる。
 そのよい例が《屋根裏の部屋》である。タデ・ナタンソン夫妻がヴァルヴァンにもっていた家の屋根裏部屋の情景を描いた作品は、全体が薄暗い青でおおわれている。青いガラスのランプシェードを透した光が屋根裏部屋の白壁を青く染めている。そのなかで、ランプの真上にあって、天上を十文字に区切っている太い垂木だけが、直接光をうけて茶色に光っている。画面左手、光の届かない部屋の隅にはピアノがあり、その上に影のような花束が置かれている。ピアノのかたわらには赤い錦織りの椅子、そのくすんだ赤だけが異色であり、天上を縦横にはしる垂木とともに、絵にアクセントをつける役をはたしている。ランプの置かれた机では、タデ・ナタンソンとミシアが向かい合って静かに読書に耽っている。
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 ヴァルヴァンのこの屋根裏部屋は、ヴュイヤールにとっては馴染みの場所であった。ナタンソン夫妻の別荘「ラ・グラングジェット(小納屋)」は、セーヌ河畔にあって、夫妻はよい季節になると、ここに滞在してはヴュイヤールやボナールたちを招待した。彼らはナタンソンが出版する雑誌「白色評論」にオリジナル版画を寄稿する常連だった。
 画面左に見えるピアノでは、ミシアがよくベートーヴェンやシューベルトの曲を弾いた。ミシアは天賦の才をそなえたピアニストで、リストには子どものように可愛がられ、ガブリエル・フォーレの弟子として将来を嘱望されていた。別荘の隣人だったマラルメは、暇さえあれば木靴を履いてやってきて、ミシアのピアノ演奏を聴くのを楽しみにしていた。
 ドビュッシーがマラルメの長篇詩「牧神の午後」に触発されて、『牧神の午後・前奏曲』を創作して、ソシエテ・デ・コンセールが初演したのも、ちょうどこの頃のことである。そしてミシアがドビュッシーの作品をよく弾いたのもこのピアノであった。
 1897年の夏、ヴュイヤールはナタンソン夫妻と一緒に、別荘で多くの時をすごした。ただし絵は、そうして目にする光景を再現したというよりは、画家が感じた歓びの翻訳とでもいうべきもので、象徴的なアンティミスムの真髄にまで昇華している。ここには純粋な何ものかが息づいている。
 ポール・シニャックはヴュイヤールについて、「彼は事物の色について信じがたい理解力をもっている。そこ〔彼のアパルトマン〕で観た多彩なパネル画は、まさにすぐれた画家の作品というべきもので、主調色は基本的に暗いのだが、常に明るい色の爆発を伴っていて、それがどこかで絵全体の新しい調和を回復させている。色調のコントラスト、巧みに仕上げられた明暗法(キアロスクロ)――こうしたものが色彩の配合に均衡をもたらしている」(木島俊介訳『ヴュイヤール』)と書いている。
 ヴュイヤールの微妙に変化していく同系色を使った大胆な画面構成は、当時のフランスの画家たちを虜にした日本の浮世絵、とりわけ北斎や広重の風景画の影響が著しかった。平面的で装飾的だといわれた浮世絵が、実際にはどれほどの空間性と色彩のレアリテをはらんでいるかを、彼らフランスの画家たちは直感したのである。
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by monsieurk | 2012-06-16 23:37 | 美術 | Trackback | Comments(0)

画家ヴュイヤール XI 「煙草を吸う男」

d0238372_1255412.jpgd0238372_12543880.jpg マラルメの構成意識を長々と論じたのは、同じ傾向がヴュイヤールの作品にも認められるからである。強い、明確な線で画面を分割し、それぞれの面を純粋な色で塗りつぶすことで得られる構成的な絵を、ヴュイヤールは一時期描き続けた。しかもヴュイヤールの場合は、純粋な色調とはっきりしたコントラストに対する嗜好が強い分だけ、マラルメに比べて、アラベスクな傾向はそれほど目立たないが、逆に構成への意欲は明らかに見てとれる。この特徴をよく示しているのが、《ランプの下の二人の女》や《食事》である。
 1889年の日付のある作品に、煙草をくゆらす男を描いた小品がある。絵を見せられないのが残念だが、画面全体は霞んだようにぼんやりとした雰囲気のなかにあって、顔の輪郭もぼやけ、眼も霞がかかったように視線の方向も定かではない。ただ一つ私たちの注意を引くのは、赤い小さな点。煙草を吸う男の唇の上で、いままさに燃え尽きようとしている火である。消えかけた煙草の火が、男の鼻孔や顎をぼんやりと照らしだしている。灰色の背景と、顔のくすんだバラ色のなかで、この赤い点は鋭いコントラストをなしている。
 この絵から私たちは、直ちに1895年に発表されたマラルメの一篇の詩を思い出す。「魂はすべて要約されて」ではじまるソネである。
 これらは1895年8月3日付の新聞「フィガロ」の文芸付録に発表されたが、その後マラルメの生前はどの版にも採録されなかった。おそらく即興的な調子が気に入らなかったためであろう。「フィガロ」紙は、オーギュスタン・ド・クローズが「自由詩と詩人」というアンケートを行い、マラルメも回答を寄せて、その中に掲載されたものである。
 マラルメはアンケートに答えて、「私にとって、古典的な詩句――私はそれを公式の詩句と呼ぼう――は、「フランスの詩」というこの聖堂の巨大な本陣です。一方、自由詩は魅力と神秘とまれな豊饒さをそなえた側室をなしています」と、両者を共に弁護している。ド・クローズはマラルメのこうした主張を紹介したあとに、「そしてこれは詩人がアンケートのために、われわれの注文を入れて、遊び半分に、書き送ってくれたものだ」と紹介しつつ、以下のソネを掲載した。

  Toute l’âme résumée
  Quand lente nous l’expirons
  Dans plusieurs ronds de fumée
  Aboli en autres ronds

  Atteste quelque cigare
  Brûlant savamment pour peu
  Que la cendre se sépare
  De son clair baiser de feu

  Ainsi le chœur des romances
  A la lèvre vole-t-il
  Exclus-en si tu commences
  Le réel parce que vil

  Le sens trop précis rature
  Ta vague littéraure

  魂のすべてを凝縮して
  それをゆっくりと私たちが吐き出すとき
  煙のいくつもの輪が
  次の輪のなかに消えていき

  それが証明するのは 葉巻が
  巧妙に燃えながら わずかでも
  灰が落ちてくれればいいということだ
  その明快な火の接吻から

  かくしてロマンスの合唱が
  唇から飛び出るが
  もしお前がはじめるなら
  安直だから現実を排除することだ
  
  意味があまりに明確すぎては
  お前の朦朧とした文学を帳消しにしてしまう

 一つの句読点もない4節14行の詩は、喫煙の描写に託した一種の詩論である。葉巻をくわえて煙をゆっくりと吐きだすとき、煙は輪となって次々に立ちのぼる。その煙の輪も次第に崩れてやがては消えてしまう。だがその煙の輪には詩人の魂はすべて凝縮されているのだ。
 火が消えたように見える葉巻でも、燃え残りの灰を落としてみれば、そこにはたしかに「明快な火の接吻」が燃え続けている。詩人の魂はちゃんと燃焼し続けているのである。
 これと同じように、唇の上に歌が浮かんだときは、まず生な現実を排除すること。なぜならあまりに明確すぎる意味内容は、曖昧模糊とした神秘的な文学を帳消しにしてしまうからというのである。
 現実の忠実な描写ほど、マラルメの目指す詩とかけ離れたものはない。煙草の煙に象徴されるものこそ、詩の目指すものである。それゆえよい詩を書くためには、煙草の吸い方のように、ゆっくりと、上手に煙をただよわせる術を会得しなければならない。
 詩にうたわれている主題とその情景が、前に触れたヴュイヤールの小品といかに似ているか。詩も絵も、ぼんやりとした背景を前に、煙草を燻らせている一人の男のシルエットが浮かび上がる。吐き出される煙草の煙は、消えつつある先の輪を追うように次々と輪をつくる。こうした情景になかで、灰を落とした葉巻の先で赤く燃えている「火の明快な接吻」だけが、読者の感覚に強く訴えかけてくる。
 ただ、マラルメの詩にしてもヴュイヤールの絵にしても、これほど構図が単純化されている例は珍しい。それだけにこの小品では、ヴュイヤールがどこに心を砕いたかがよくわかる。画家の関心は画面全体をおおう色面の相互関係、この小品についていえば、ニュアンスに富む灰色が全体の基調となるなかで、一点の赤が強い効果を生んでいる。こうした色面構成が、この時期のヴュイヤールの最大の関心事であった。
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by monsieurk | 2012-06-14 13:10 | 美術 | Trackback | Comments(0)

画家ヴュイヤール X 「文の構成法」

 マラルメは、「純潔で、真っ白な心でやってくる人なら、私が基本的に文構成主義者であることがわかるだろう」と、自からを規定したことがある。事実、彼の詩法は構成の意識に支えられていた。「詩の危機」の有名な一節で、人間の言葉は質料的に真実ではなく、一つの語の響きが、何らの必然性をもって意味に対応していないことを嘆いている。
 「不透明なombre(影)という語の傍らでは、ténèbre(闇)の暗さは感じない。jour(昼)とnuit(夜)のそれぞれに、意味とは裏腹に、前者には暗く、後者には明るい音色をあたえている倒錯を前にするのは、なんという失望であろう。輝きをあらわす語は光りを発し、逆の場合は光を消す、という風であってもらいたいという願いは、単純な明暗の交錯が問題である限りはもっともなことだ。」
 詩人は語の意味内容と形態や音の響きの乖離に失望する。しかし彼はすぐに、言語のもつこの欠陥のうちにこそ、詩の存在理由があることを悟るのだ。「だが、もしそうなら詩句は存在しないと知るべきだ。詩句とは、諸国語の欠陥を哲学的にあるいは歴史的に償う、高次の補完物なのである。」
 言語の欠陥とは、一つ一つの単語が、それが指し示す事物それ自体とは無縁である点をさす。それにもかかわらず、言語は事物を表象しようとする。こうした本質的矛盾を解決する手立てはあるのか。乖離を乗り越える方法は存在するのか。その方法こそが詩作の錬金術にほかならないと、マラルメは考えたのであった。
 「私は音楽をつくる。語と語の響きのよい並べ方から引き出されるものを音楽と呼ぶのではなく――この最初の条件は自明のものである――、言葉のある種の配置によって、魔術的につくり出された彼方のものを音楽と呼ぶのである。」
 ある語の感覚的形態と意味との間にはいかなる整合性もなく、「私たちの観念と、観念の一つ一つを喚起せしめる音の群れとの関係」が、まったく任意の、純粋に偶然の所産である以上、言葉の「肉体性(形態や響き)」とそれが示す意味を一致させようとするなら、語を組み合わせることによって、全体として意味と響きの調和をはかるほかに方法はない。こうして、言葉から偶然性を取り除き、その真実を保証するのは、語の配置、つまり「文の構成」如何にかかわることになる。
 「いくつかの単語を、一つのそれ自体で完結するような、まったく新しい、国語のなかにそれまで存在しなかった、呪文を形づくっているような語に作り変える詩句というものが、意味と音響とに交互に加えられた用語の焼入れ直しの技巧にもかかわらず用語に残る偶然性を、至高のひと息によって否定しつつ、言葉のこの孤立をなしとげる。そして〔こうした詩句が〕通常の語法の断片なのに、このような断片はこれまで耳にしたことがないという驚きを人びとにひき起こすのである。同時にそれは、詩句のなかで名指しされた対象のひそかな記憶が、まったく新しい雰囲気のなかにひたっているという驚きである。」
 「詩の危機」の結論であるこの一節に、マラルメの詩法の秘密と詩句への信頼が要約されている。言語の本質的欠陥を補うものこそが詩句であり、詩句の本質を、彼は「文構成法(シンタックス)」と呼んだ。「文構成」とはただ単に、詩句における個々の単語の配列だけではなく、一篇の詩全体における語同士の関係、さらには一冊の詩集を形成するそれぞれの詩篇相互の配列をも意味する。
 こうした広範な「構成」をふくめて、マラルメは詩法の基本を「文構成法(シンタックス)」にあるとした。「・・・一つの保証が必要である――文構成法」なのである。
 マラルメは実作でも新造語や綺語を多用して、読者を驚かせるタイプの詩人では決してなかった。〈i〉や〈y〉の音が頻出する、通常「白鳥の歌」と呼ばれるソネや、先に引用した「純な爪は高々とその縞瑪瑙をかかげ」などはむしろ例外であって、マラルメのソネは韻を追って詩句を重ねるように形成されている。脚韻と詩句中の子音とが織りなす音の唐草模様が、詩の構造を堅牢なものにしている。だからといって、そのために耳慣れない語を捜し求めることはしなかった。彼は新奇な言葉を選択するのではなく、日常的な語の新たな組み合わせから、読む者の感性をゆさぶる方法を用いたのである。実際、マラルメほど普通の言葉をつかって、神秘的な詩を創造した人は稀であった。
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 マラルメが用いた語の一覧については、〈Index des mots des poésies de Stéphane Mallarmé〉を参照のこと。『デマン版マラルメ詩集』に収録された全詩篇について、ある単語が詩句のどの文脈のなかで用いられているかを明らかにしている。
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by monsieurk | 2012-06-12 08:00 | 美術 | Trackback | Comments(0)

画家ヴュイヤール IX 「アンティミスム」

 マラルメは長く慣れ親しんだ物に取り囲まれて生活することを好んだ。ローマ通りの小さなサロンを飾っていた振り子時計や飾りのついた卓子も、若い日のロンドン滞在中に買い求めたもので、それぞれ思い出深いものばかりだった。
 「象徴主義」時代のヴュイヤールがすすんで描こうとしたのも、まさしく、こうした部屋の光景である。食事の終わりの雰囲気をとらえた《夕食の終わり》、自宅の廊下の片隅を描いた《二つの扉》。この《二つの扉》では廊下の突き当たりの扉が半開きになっていて、その奥には食卓と椅子、それに食器棚が垣間見える。さらに注意して見ると、廊下から左手の部屋につながる扉も半開きになっていて、そこから光線が射し込んでいる。この半開きの二枚の扉が、静寂が支配する室内に、なにかしら神秘的な雰囲気をつけ加えている。
 ところでヴュイヤールは、なぜこうした光景に心をひかれたのだろうか。彼は他の人なら何気なく見過ごしてしまう対象から独特の美を感じとった。
 ヴュイヤールの一家は、1887年から1893年まで、パリ8区ミロメニル通り10番地のアパルトマンに住んでいたが、彼はこの家の情景を繰り返し作品に描いた。1891年の《踊り場》もその一つである。台所の半開きの扉からのぞいた踊り場の光景。螺旋階段がシルエットをつくる一隅で、明り取りの窓から射し込む光が、踏み板や手すりの上に斑の縞模様をつくっている。ヴュイヤールの感性は、こうした何気ない情景をとらえ、そこから特権的な一瞬を抽出して画布に定着した。だがこの光景の本質が何かと問われれば、はたと当惑しかねない、きわめて微妙な何ものかなのである。
 ここで思い出される一つのエピソードがある。ある日、画家のドガがマラルメに訊ねた。「あなたのソネの一篇のなかに、すぐれた注釈家の一人は夕暮れを見、他の人は夜明けを見、あるいは絶対を見たというのは本当か。そして彼らがあなたに、謎の言葉の解明を懇願したとき、あなたは何も答えなかったというのは?」するとマラルメは、「いや、じつはあれはただの飾りダンスなのだ」と種明かしをしたというのである。
 問題の詩とは、「この夕べ、誇らしい自負心のすべては煙と消え(Tout Orgueil fume-t-il du soir,)」ではじまるソネの第三節と第四節のことである。
 
  Affres du passé nécessaires
  Agrippant comme avec des serres
  Le sépulcre de désaveu,

  Sous un marbre lourd qu’elle isole
  Ne s’allume pas d’autre feu
  Que la fulgrante console.

  過去からの必然の苦悶か、
  否認の墓を、猛禽の爪で
  しっかりと掴んで、

  孤立させている重い大理石板の下では、
  燦々と閃く卓子・コンソールのほかに
  なんの火も燃えてはいない。

 マラルメの詩は、ヴュイヤールが描いた数々の室内画や、デッサン帳に残した何気ない情景と同じ主題をうたっている。その選択に働いている二人の感性は驚くほどよく似ている。ともすれば俗に堕しかねない主題から、至上の美を抽出する術を知っていた点でも二人は共通していた。一度芸術家の眼を通過すると、退屈や苦悩は消え去り、日常は詩的な色合いを帯び、平凡な見かけから美が立ちあらわれる。
 こうした変貌の秘術をこころえている点で、ヴュイヤールはまちがいなくマラルメの弟子であった。彼はマラルメの詩の世界をそのまま絵にしようとしたことはなかったが、その精神を作品のなかに移しかえようと努めたことはまちがいない。マラルメの詩は、静寂な部屋、あるいは夕日に赤く染まった部屋を素晴しい詩的な場所に変える可能性を教えてくれた。それこそがアンティミスムの力にほかならなかった。
d0238372_17294870.jpg ただし、マラルメの詩とヴュイヤールの描く室内風景には、決定的な違いのあったことも見落としてはならない。ヴュイヤールは好んで部屋を掃除する女性や、お針子たち、あるいは食卓風景を描いた。これは母親が婦人服の仕立てを生業としていた環境のしからしめるところでもあったが、マラルメの世界には、こうした人間臭は希薄である。詩人は場面に人間が登場することを拒否する。さらに言えば、人間の不在がかもしだす劇的な感情を、逆に利用して、詩に緊迫感をもたらそうとしたのである。
 たとえば、マラルメが体験した精神的な死を描いたコント、『イジチュール(Igitur)あるいはエルベノンの狂気』の場合はどうだろう。純粋精神を一族の末裔である主人公イジチュール〔「ゆえに」の意味のラテン語〕の冒険は、暗く、閉ざされた部屋のなかで展開する。舞台の書割は、「真夜中」の断章で、次のように描写されている。
 「そして真夜中からは残っているのは、その現前(プレザンス)であり、時間の部屋のヴィジョンとなってであるが、そこでは、謎めいた家具が思考の莫とした戦慄の波動と、最初に拡大した波動の回帰の耀く破片を留めていた〔-〕一方(移動する限界のなかで)以前に時刻落下した場所は、長い間夢想された純粋な自我の麻酔にかけられた静けさのうちにあって動かない。しかし時間は、部屋の壁掛けとなっているが、次第に弱まっていく戦慄は、自らの輝きでそれを補いつつ、忘却のうちに停止してしまった、まるで、現前以外にいかなる意味も欠けている、部屋の主の、鏡に似た無そのもののような目をした、神秘に輝く顔のまわりのやつれた髪の毛のように。・・・それと確認された明かりが、影の中に沈んだその完成のなかに残って、テーブルが差し出す開かれた一冊の書物の青白さの上にその〔真夜の〕不毛さを要約している。」
 コントの主人公イジチュールは、肉体を備えた人間というよりも精神そのものであって、人間の存在は希薄である。若いヴュイヤールも闇に閉ざされた部屋を好んだ。ランプの薄明かりに照らされた静かな部屋こそ、彼が求めた避難所だった。しかしヴュイヤールが描く部屋には、夜空に輝く北斗七星を映す鏡はなく、イジチュールの部屋のような抽象的で凍りつく静けさはない。同じ室内でもそこには必ず人間の温もりが感じられる。d0238372_17294914.jpgd0238372_17295186.jpg

 ヴュイヤールはマラルメと同様に、室内で繰り広げられる光景に至福の瞬間を見出すが、それを抽象化する能力にはいささか欠けていたから、その絵はともすると単なる日常生活の描写に堕しかけない危険をはらんでいた。こうした危険から作品を救い出したのは、彼の類まれな感性にほかならなかった。
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by monsieurk | 2012-06-10 20:27 | 美術 | Trackback | Comments(3)

画家ヴュイヤール VIII 「火曜会」

 マラルメがアンリ・カザリスに宛てた手紙のなかの、「意味は語自身がもつ内在的蜃気楼によって喚起される。幾度かこの語を口ずさんでいると魔術的な感覚が湧いてくる」という一節は、彼の創作の秘密を解く一つの鍵である。
 低声に繰り返し呟いていると、言葉は現実性(レアリテ)を帯びてくる。こうした実在感は、イマージュには欠如したものである。なぜならイマージュは本質的に不在そのものとして措定されるからだ。現に私たちは、イマージュそのものを眼で見ることはできない。その一方、言葉は現実に耳で聞くことができる。
 「言葉は、それを私たちが口に出して発すれば、私たちはそれを聞くことができる。そして、もし私たちがうまく放心状態でいることに成功すれば、つまり言葉が私たちの口から出るときに、それを発する者が自分自身であるのを忘れることに成功すれば、言葉は、あたかも他人の口から発せられたかのように、それに耳を傾けることもできる。」
 こうして言葉は一種の客体性を獲得することになる。身内にある感覚は、言葉に書かれ、発音されることで現実性を具えたものとなるのだ。これは言葉のもつ身体性を再確認することにほかならない。言葉を駆使することで得られる存在感は、いまだ莫としていて、すぐにも消えてしまいそうなものではあるが、「地上に根をはやし、がっしりと立っている事物」に対抗して、倦怠に充ちた事物の世界をひっくり返す橋頭堡、人間が人間固有の道具を用いて虚構の世界を創造するきっかけを手に入れることに、私たちは成功するのである。
 マラルメは〈ix〉の詩において、不在となった世界の廃墟の上に、虚構の世界を築きあげようとした。そのためには、きっかけとなる現実は、あえかな、存在感の乏しいものほどよい。
 マラルメの詩作上のこうしたプロセスは、ヴュイヤールの絵の場合にもそのまま当てはまるように思える。事実、ヴュイヤールの室内画では、夜の室内やランプの下で俯いて仕事をする人たちが好んで取り上げられる。
 縞目の壁紙で壁や光をうけた家具類は、鏡に映ったものとして描かれる。そうした鏡に映りこんだ家具が、黄色や赤の色彩として絵全体のアクセントになっているのだが、黄色や赤は鏡に反射した分だけくすんだ色となり、それだけ存在感を希薄にしている。そのために絵全体から、マラルメの詩篇に照応するような夢の感じが立ち上ることになる。
 マラルメが好んで室内の情景を詩にうたったことは先に述べたとおりだが、同時に彼にとっては、詩が誕生する場として部屋は絶対に必要だった。その点、「踵に翼の生えた」と形容された自然児ランボーとはまさに対照的だった。
 マラルメは灯火のものとで、詩作に呻吟したトゥルノンの家にはじまって、56年の生涯で、ブザンソン、アヴィニョン、パリのローマ通りアパルトマン、さらには避暑地ヴァルヴァンの田舎家と住まいを変えたが、その度に書斎を簡素だが気に入りの家具や置物で飾った。一時滞在したロンドンからトゥルノンへ戻って間もなく、友人のユージェーヌ・フェビュールに宛てた手紙で、こう打ち明けている。
 「部屋は大きく、天井が高すぎて、まだ馴染めないし、私の思想や言葉で部屋を充溢させるまでには至っていない。」トゥルノンのアパルトマンは、城に隣接する建物の二階にあり、書斎として使っていた部屋は簡素な造りで、そこには古い戸棚が備えつけられていた。そのほかに、コルドバ革(金唐草)を張ったアンリ三世式の椅子と、綴れ織りの布を張ったルイ十三世式の椅子、振り子時計、古い糸レースのかかったベッドがあり、壁にはヴィクトル・ユゴーの肖像画が飾ってあった。マラルメはこうした部屋を、「自分の思想と言葉で充溢させて」詩作に打ち込んだのである。
 事情は「火曜会」の舞台となったローマ通り89番地のアパルトマンでも同じだった。有名な「火曜会」については、拙著『マラルメの火曜会――世紀末パリの芸術家たち』(丸善出版、1994年)、ゴードン・ミラン『マラルメの火曜会――神話と現実――』(拙訳、行路社、2012)で紹介したとおりである。
 訪問客は狭い階段を4階まで上って踊り場に出る。火曜会の客が踊り場に面した玄関の扉を叩くと、マラルメ自身が扉を開けてくれる。客は玄関の控えの間に続く、さして広くはない食堂に通される。ここは客間にも当てられていて、部屋の窓はローマ通りに面している。戸口から窓までの奥行きが部屋の幅より長い長方形をしていて、戸口を入ってすぐ右手の角に、斜めに陶製の暖炉があった。壁にはマネが描いたマラルメ自身の肖像画、《エルスヌールのテラスでのハムレット》と題されたもう一枚のマネ、ルドンのパステル画、それにホイスラーとベルト・モリゾの水彩画などが飾られていた。
 マラルメは多くの場合、暖炉のかたわらに立って、遅れてきた客を招じ入れたり、新たらしい客を皆に紹介したりした。
 部屋の中央には丸型の食卓があり、戸口から見て右側の壁に沿って籐の長椅子が置かれている。反対側の壁には、陶器を並べた食器棚と小さな本棚があり、食卓と食器棚の間に、木製と藁を編んだ椅子が数脚、訪問客は思い思いに位置を占めた。
 マラルメは会のあいだ中、暖炉に肘をついて、立ったまま、愛用の陶製のパイプを燻らしつつ一座の会話をリードするのだった。若いヴュイヤールもときどき足を運んだ「火曜会」の様子はこのようなものだった。
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by monsieurk | 2012-06-09 08:09 | 美術 | Trackback | Comments(0)

画家ヴュイヤール VII 「ixの詩」

d0238372_2359517.jpg 1869年、美術評論家のフィリップ・ビュルティは、書肆「ルメール」と共同して豪華本の詩画集『ソネと銅版画(Sonnets et eaux-fortes)』の出版を計画し、詩人と画家とに協力を依頼した。詩篇と銅版画を隣りあったページに掲載するというもので、依頼された詩人は、サント・ブーヴ、ポール・ヴェルレーヌ、テオドル・バンヴィルたち、画家としては、ブラックモン、コロー、マネなど当代一流の人びとが選ばれた。そしてマラルメにも友人のアンリ・カザリスを通して投稿の依頼があった。
d0238372_23591087.jpg このころ詩作への過度の集中から平衡保持性失神症に陥っていたマラルメは、医師でもあるカザリスにつき添われて、家族とともにバンドルへ転地療養に行っていたが、7月にアヴィニョンへ戻るとすぐに、春以来頭をはなれなかった〈ix〉というまれな韻をもつ単語についての研究から出発して詩を創作しようとこころみ、これを『ソネと銅版画』に載せてもらおうとした。
 今日の残されている手紙から、詩の萌芽はこの年の5月にまでさかのぼることができる。すなわち、1868年5月3日付のルフェビュールに宛てた手紙のなかで、創作の動機が次のように明かされている。
  「カザリスから、彼がハンモックを買った〔パリの〕ジャコブ通りの店を教えてもらってほしい。というのは、私も同じようなものを自宅の中庭の月桂樹に吊るして、もしまだ詩をつくることができないなら、せめて月桂樹の葉陰に愛撫されて眠りたいから・・・そして最後には、ハンモックの律動に揺られ、月桂樹に霊感をあたえられて、私は一篇のソネをつくるかもしれない。しかし、私はixという脚韻を三つしか知らないから、〔カザリスと〕相談の上でptyxという語の本当の意味を知らせてくれるか、あるいは、この単語はいかなる国語にも存在しないと、断言してほしい。もし後者ならなおさら私には都合がいい。脚韻の魔術によってこの単語を創造する魅力を自分にあたえることができるのだから。」
 手紙から明らかなように、この詩篇に関しては、創作の順序が常識とは逆なのである。詩人のなかには、〈ix〉の韻を持ついくつかの単語、〈onyx〉、〈phœnix〉、〈styx〉、〈ptyx〉をめぐる莫とした感覚が存在する。日常的で明瞭する言葉に翻訳しようとすると、たちまち霧散してしまうような微妙な感覚である。この「漠然とした期待の中心」を表現するには、語が主導権をとるのにまかせ、語の音が内容を生み出すようにする必要があるのだ。マラルメはこれとまったく同じ体験を、散文詩「類推の魔」でも語っている。
 マラルメは自分の創作の動機やプロセス、つまり創作の舞台裏を明かすことは滅多にないのだが、この詩篇については珍しく神秘的ともいえる創作の経緯を、カザリスに宛てた手紙で、こう解説している。
 「私はこの夏に一度考えたこのソネを、〈言葉(パロール)〉について計画した研究から抜き出すことにする。つまり、これは逆なのだ。意味は、もしこれが一つの意味を持つならば(しかし、これに封じ込まれたポエジーの含有量のせいで反対の意味になっても、私は甘受しようと思っている。どうもそうなっているような気がする)、それは語自体に内在する蜃気楼によって喚起されると言いたいのだ。何度も自分の声でこれを呟いていると、おのずと、かなり神秘的な感覚が得られるのだ。正直なところ、君が要求するようには〈造形的〉というわけにはいかないが、しかし少なくとも、この詩もまた、出来得る限り〈モノクローム〉であり、〈夢〉と〈空白〉とに満ちた銅版画には適しているように思われる。
 ――たとえば、一つの窓が夜、開かれている。窓には鎧戸が二枚ついている。ついているその鎧戸が表して落ち着いたたたずまいにもかかわらず、中には誰もいない部屋。そして不在と尋問とからなる夜の中に、なんとか見分けられる程度の小卓の素描と、奥に吊るされた鏡の、好戦的な、死に瀕した縁枠を除けば、いかなる家具もない。鏡は不可解にも星らしきものを映し出している。それは〈大熊座〉で、それが世界から見捨てられたこの住いを唯一、空に繋いでいる。」
 闇が領する部屋のこうした道具建ては、あくまで詩人の心を象徴するものであることは、この詩が当初は「それ自身の寓話的ソネ」と呼ばれていたことからも明らかである。つまり、「主題の不在」を詩の主題にすることで、詩人は自己の言語感覚そのものから一篇の詩を紡ぎだす方法を披瀝してみせたのである。
 闇にひたされ、星座が望める一つの部屋。わずかこれだけのものを契機に、詩人は詩を創造する。内在するかすかな感覚に照応する言葉をいかにして探し出し、それをどう配置して一篇の詩を構成するか。このプロセスこそが詩の主題であった、そこから浮かび上がるがらんとした部屋の情景はあくまで結果でしかない。詩を創作したこの当時のマラルメに思想を考え合わせれば、これは詩人自身の心の状態を著していると見て間違いない。
 マラルメはこのころ、心を無にすることによって、そこに一切の虚飾をはぎとられた現実の姿(マラルメはそれを美と呼ぶのだが)が映ると考えていた。したがって、詩の第四節でうたわれる情景、部屋の奥に吊るされた鏡に北斗七星が映るというイメージは、こうした彼の信念を表現するものだった。
 だがこうして創作された詩「それ自身の寓意的ソネ」は、難解にすぎるという理由で、詩画集には採用されなかった。
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by monsieurk | 2012-06-05 23:56 | 美術 | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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