ムッシュKの日々の便り

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エリック・ヌオフの小説

 不思議なことに、フランスで人気のある現代作家エリック・ヌオフ(Eric Neuhoff)のことは日本ではまったく知られていない。唯一の邦訳は、連れ合いが友人たちと一緒に、フランス語の勉強にと翻訳して自費出版した『かわいいフランス娘(La petite Française)』(1997)だけである。
 ヌオフは1956年に生まれ、南フランスのトゥールーズ大学を卒業したあと、映画評論を中心に、雑誌「マダム・フィガロ」に記事を寄稿するジャーナリストとしてデビューした。その後、小説を書くようになり、現在まで20冊の著書を出版している。
 彼の小説はみずみずしい感性と、子どもときから熱中した映画のように、具体的なイメージを喚起する文体に特徴があり、フランスでは多くの読者に愛読されている。その証拠に、これまで発表した作品は、すべてポケット版(文庫本)に収録されている。ヌオフは 1997年に発表した『かわいいフランス娘』で、重要な文学賞「アンテラリエ賞」を受賞したのをはじめ、『Barbe à papa(サンタクロース)』(1995年)で「ドゥ・マゴ賞」、『Un bien fou(おばかさん)』(2001年)で、2001年度の「アカデミー・フランセーズ小説大賞」を得た。さらに2003年には、アメリカの歌手で俳優のフランク・シナトラの伝記『Histoire de Frank(フランク物語』)』を書いて評判となった。ヌオフはいまやフランスの小説界で確固とした地位を得ている。
 『かわいいフランス娘』は、ベベ(これは渾名で、彼女の本名は最後まで明かされない)が泥棒に入られ、同じアパートの一階上に住む主人公の部屋を訪ねてくるところからはじまる。物語の時間は1980年代に設定され、パリをはじめ実在する場所が舞台として登場し、それが小説を生き生きとしたものにしている。この時代のパリの空気を吸った者にとっては大変なつかしいものである。
映画の愛するヌオフらしく、ゴダール監督の映画『軽蔑』が重要な狂言回しとして使われていて、女主人公がベベと呼ばれるのも、映画の主役を演じたブリジット・バルドーにちなんだものである。そしてこの小説に限らずヌオフの作品には、今日の生きたフランス語で書かれていて、辞書を引いても分からない表現や固有名詞が出て来るので、古典を読むのとはちがった難しさがある。
 『かわいいフランス娘』は、中年にそろそろ足がかかりつつある主人公と、若く、魅力的で、謎につつまれてもいる娘との恋物語で、せつない結末が待っているのだが、それには触れないことにしよう。この作品に限らず、エリック・ヌオフの作品の出版に関心を示すところはないだろうか。
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by monsieurk | 2012-10-30 07:30 | | Trackback | Comments(4)

不滅のメモリー

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 日立製作所は2012年9月24日にプレス・リリ-スを出して、京都大学工学部三浦清貴教授の研究室と共同して、石英ガラスを用いた新たな記録媒体(メモリー)を制作したと発表した。石英ガラスの内部にCD並みの容量のデジタル・データを記録・再生する技術を開発したもので、詳細は9月30日から10月4日まで東京で開催された International Symposium on Optical Memory で公開された。写真はその実物である。
 新しく開発された記憶媒体の素材はきわめて純度の高い石英ガラスで、これに特殊なパルスレーザーを用いて照射し、千分の数ミリほどの小さな点(ドット)を刻む。このドットの有無がデジタル・データに相当する。読み取りは市販の光学顕微鏡を使って行い、ドットの有無を画像処理して再生する仕組みだという。
 石英ガラスの特徴は、とてつもない寿命の長さである。マイクロフィルム、光ディスク、ハードディスクは高温や湿気に弱く、また化学薬品や放射線によっても破壊されやすく、寿命は長くて100年といわれている。
これに対して、石英ガラスは過酷な耐熱実験によってもデータにまったく変化はなく、理論的には3億年経ってもデータは保存される計算になるという。
 人類がこれまで手にした記録媒体の寿命としては、メソポタミヤ文明が開発した粘土板が最大5千年、中国文明が発明した紙(和紙)が1千年、ヨーロッパで長く用いられた羊皮紙も同じような寿命であるのに比べると、3億年という時間は途方もないものである。
 いま世界中の文字や映像は、CDやDVD、USBメモリーに記録しているが、文化的な価値の高いものを保存するのに、石英ガラスを記録媒体に採用する日は近いかもしれない。実用化の目途が一日も早くたつことを期待したい。
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by monsieurk | 2012-10-28 06:12 | 時事 | Trackback | Comments(0)

詩画集 Quelques poemes(詩篇いくつか)

 音楽評論家の蘆原英了に次のような文章がある。
 「私の母の弟の藤田嗣治がパリへたったまま、世界大戦になって音沙汰が知れなくなってしまった。一九一九年、ベルサイユ条約が結ばれてから、少しずつ叔父の様子が知れてきた。それから間もなくの頃、私たち兄弟のところへ叔父から小さな品物が送られてきた。兄のところへは叔父が挿画を描いた薄い詩集が届いた。日本の局紙を四、五枚、葦のような草で綴じた、ほんとに十頁くらいのものだったが、その一枚一枚に叔父の、それこそ細い細い線で、女の顔や雪景色などが描かれていた。それははじめて見る叔父のパリへいってからの絵で、きわめて新鮮なおどろきを与えられた。これが後のフジタの独特の線画になるわけだが、墨一色で、なんともいえぬ美しさであった。
 その詩集の著者が小牧近江さんで、俳句のような短い詩が一頁に二、三行ずつあった。この詩集はたしか三十部ぐらいの限定版であったと思う。(中略)この詩集はわが家では戦災で焼けてしまった。・・・小牧さん自身、もうこの詩集を持っておられないとのことであるから、この詩集の稀覯価値はたいへんなものであると思う。」
 これは小牧近江の『イソップ三代目』(第三文明社、1973年)の「あとがき」に載ったものである。小牧近江(1894 -1978)については、2011年10月28日のブログ「ハノイ再訪」や2012年1月5日の「反戦小説としての『肉体の悪魔』」で紹介したが、本名を近江谷小駉(おうみや・こまき)といい、プロレタリア運動の魁となった雑誌『種蒔く人』の創刊者としてしられる。
 彼は1910年(明治43年)夏、16歳のときに暁星中学を中退して、ブリュッセルで開かれる第1回万国議員会議に出席する代議士の父栄次に連れられてフランスに渡り、アンリ四世校の寄宿生となった。だが帰国した父は事業に失敗し、仕送りが途絶えて授業料も払えなくなり、放校されてしまった。その後はパテ商会で働きながら、無料の夜間労働学校に通い苦学を続けた。そのうちに父の知人である石井菊次郎大使の口利きで、大使館で受け付けなどの雑用係として働くことになった。
 1914年6月には、大使館での仕事のかたわら、パリ大学法学部に入学することができた。ただこの年8月3日に第一次大戦が勃発。開戦後、旬日のうちにドイツ軍は国境をこえてフランスに侵攻した。大使館では急遽在留邦人を集めて戦況報告会を開き、会合には100人ほどが集まった。そこには商社の関係者にまじって、滞仏中の作家島崎藤村や在仏1年目の画家藤田嗣治などの顔があった。アヴニュ・オッシュにあった大使館には、石井大使、佐分利貞男二等書記官、杉村陽太郎外交官補など8名が勤務しており、情報の収集に大わらわだった。
 大使館としては非常時に在留邦人が危険なパリから退去することを望み、帰国する者には400フラン、他の地へ移住するなら200フランを貸し付けると伝えた。これによって多くの邦人が帰国するかロンドンなどへ避難したが、藤田嗣治は絵を描くためにフランスへ来たといって、パリに残る決断をした。そして集会の帰りがけに、それまで描きためた大切なスケッチブックを近江谷に預けたという。大使館にいる彼に託した方が少しは安全と考えたのであろう。このとき藤田は27歳、近江谷20歳で、彼らがいつ、どのようにして知り合ったのかは、詳細は不明である。ただこのエピソードからみて、二人が大戦前に知り合っていたのは間違いない。
 開戦から1カ月後、日本大使館は戦火を避けて、フランス政府とともにパリから南西部にあるボルドーへ移り、近江谷もパリを離れたために折角入学した大学へはしばらく通うことができなかった。
 パリに残った藤田は画家仲間の川島理一郎と14区の場末、シテ・ファルギエールに住んでいたが、開戦で日本からの送金が途絶え生活は困窮した。冬になると暖をとるためにキャンバスの枠を燃やすほどで、絵もさっぱり売れなかった。
 膠着状態が続いた戦争は、翌1915年になると英仏連合軍側が優勢となり、フランス政府や各国外交団もパリにもどった。近江谷もそれにともなって大学に復学し、1918年にはパリ大学法学部を卒業して学士号を得ることができた。
 藤田の方はこれより前の1917年6月、シェロン画廊で初の個展を開くことができた。展覧会をしきったのはフェルナンド・バレーで、藤田が結婚したばかりの相手だった。近江谷はこのとき画廊を訪ねて、二人の交流は再開した。
 1918年11月11日終戦。翌19年1月からパリで講和会議が開かれ、日本は戦勝国の一員として西園寺公望を首席全権とする代表団を送り、近江谷も語学の能力を買われて代表団に採用され、松岡洋右の下で新聞係として働いた。彼はこのころロマン・ロランの平和主義を通じて左翼思想に共鳴しており、新聞係のなかでは「ボルシェヴィキ」の渾名で呼ばれていた。
 パリ講和会議が1919年6月に終わると、近江谷は帰国を考えるようになった。そのとき藤田から一つの提案があった。二人の交友の記念に詩画集をつくろうというのである。近江谷の詩に藤田が挿画を描く。出版はフランソワ・ベルヌアール(François Bernouard)が興した「ラ・ベル・エディシオン(La Belle Edition)」が引き受けてくれることになった。
 ベルヌアールは生涯に400を超える本やプラケット(小冊子)を出版したが、当時のプラケットには、デユヒィ、ドラン、ローランサン、マチスなどが挿画を描いたものがあり、この名門出版社から無名に近い日本人の本が出版されたのは驚きである。藤田は初の個展に次いで、この年の秋の「サロン・ドトンヌ」に6点の絵が入選して、パリ画壇にデビューしたから、目利きのベヌアールが先行投資の意味で企画したのかも知れない。こうして詩画集《Quelques poèmes》が世に出ることとなった。巻末にナンバーを入れた210部の限定出版だった。
 冒頭の蘆原英了の記述にあるとおり、近江谷駉(小牧近江)の蔵書から、この記念すべき詩集は散逸してしまったが、近年になって孫の桐山香苗さんが精巧なレプリカ(複製版)をつくり、私にも一冊下さったのである。
 表紙には、Quelque poèmes / par Monsieur / Komaki Ohmia / décorés par Monsieur / Foujita./ se trouve / A LA BELLE Edition ? / 71, Rue des Saits-Peres, 71 / A PARIS とある。A5版(21.0×14.0cm)、表紙を含めて20ページ。ヤシ科の植物の繊維で中綴じした冊子には、各ページに近江谷のフランス語の詩と藤田の線描が、12ページにわたって1点づつ印刷されている。
 表紙にdécorésとあるとおり、藤田の素描は詩の内容とは直接関係なく、本を飾るイメージの役割をはたしている。写真で複製したように、一筆がきのような繊細な線で、女性の横顔、子どもを抱く母親、傘をもって綱渡りをする女、牡丹、鴨、馬、牛などを描き、漢字で「嗣治」の署名している。
 近江谷の詩はどれも数行の短いもので、写真のページの詩は、「en baisant / mes yeux mouillés / vous avez bu / tous mon sang / vous oublierez / est-possible? (涙で濡れた私の瞼に / くちづけしながら / 貴女は私の血をすべて / 飲みほした / 貴女はそのことを忘れてしまう / そんなことはありうるだろうか?)というものである。句読点を省いた詩が、ガラモン体を模した美しい活字で印刷されている。
 近江谷駉は、この詩画集を土産に1919年12月帰国の途についた。そして故郷である秋田県土崎で友人とともに『種蒔く人』を創刊し、日本にヨーロッパ反戦思想を紹介する。そしてパリでは「コマキ」と呼ばれていたことから、姓と名を逆にした小牧近江のペンネームを用いることになる。
 藤田はサロンでの成功をきっかけにパリ画壇へデビューをはたすが、彼を一躍有名にした白地に面相筆による線描を生かした画風は、そもそもこの小冊子からはじまったのである。その意味でもこの詩画集は貴重である。

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by monsieurk | 2012-10-26 08:00 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

田中冬二 詩心を語る(6)

柏倉 これまで数々の詩集をお出しになりましたが、ご自分ではどれが気に入っておられますか?
田中 高村光太郎賞をうけた『晩春の日に』、それから『葡萄の女』も好きです。
柏倉 たしかにこの二冊の詩集に収められた作品の持つ雰囲気は、それまでのものと若干違っているかもしれません。表現が適切かどうか分かりませんが、華やいだ、艶冶な感じがありますね。
 先に話が出た「池鯉鮒の女」もそうですが、詩集『晩春の日に』の中の、「美しい夕暮」、「ウヰスタリア」、「山猫のゐるホテル」、「コーカサスの女」、あるいは『葡萄の女』では、「虹のグラス」とか「新月」とか。
 私はこうした作品をひそかに田中さんの紙上恋愛と名づけているのですが・・・

  女はナプキンをたたんでゐる
  椅子にかけた その女は膝を重ねる
  すると腿のあたりが はっきりとして燃え上がるがやうだ

  食卓 頑丈で磨きのよくかかった栗の木の食卓に
  白い皿 ぎんのスプーン ナイフ フォーク 未だあかるい厨房では姫鱒をボイルしてゐる
  夕暮の空気に 女の髪の毛がシトロンのやうに匂ひ 快い興奮と 何かしら身うちに
  熱〔ほて〕るものをわきたてる
  山は美しい夕焼
  女はナプキンに 美しい夕焼をたたんでゐる       「美しい夕暮」

  ネズミ地に 赤い細縞のあるサキソニーの服
  それは南仏蘭西の避暑地を思はせる

  馬車はあかるい海の見える村へはひる
  よりかかってくる女の体重と触感と頭髪の匂ひ 眼鏡がくもる
  腋の下が汗ばむ
  膝かけがおちかける
  女の剪った花は もう萎れてゐる

  馬車は小さなホテルの前でとまる
  ホテルでは、カルカラという小怜悧〔こざか〕しさうな眼をしたアフリカ産の山猫を飼ってゐる
  女がベッドに腰かけて 靴下を脱いでゐると
  葡萄の葉を打つ音がして驟雨がやって来た
  カラカルが異様な声でなく              「山猫のゐるホテル」

   
田中 まあ、モデルがいなくもないのですがね・・・・。
柏倉 日本の詩にはエロティシスムの香りが欠けていたのですが、堀口大學氏が洗練されたエロティシスムを導き入れ、田中さんはそのあとをうけて、抑制のきいた言葉でエロスを詠われた。稀有のことだと思います。
 ところで田中さんの詩篇には、さきほども申しましたが、そのまま掌小説になるような題材が多いのですが、小説を書かれるお気持は本当になかったのですか。
田中 ありませんでしたね。たった一篇『四宮雨軒』というのを書きました。銀行のある同僚をモデルにしたのですが、どなたかが褒めてくださいましたが、私の場合はやはり詩ですね。
柏倉 話は変わりますが、田中冬二というペンネーム〔本名は田中吉之助〕の由来はどこにあるのですか。
田中 私の友人に「二」の字のついたのが多かったのです。『文章世界』の投書家にね。中川米二、紅風会の画家で尾崎仙二。それで私も冬二としたのです。別に冬が好きなわけではないのですけれど。むしろ冬は嫌いな方ですが。春二も夏二もおかしいですから。(笑)それと冬二というのは字が一番書きやすいのです。
柏倉 いいお名前ですね。
田中 一時は秀葉、しゅうようという名前を使ったこともあったのですが、短い期間でしたね。また時には田中夕立なんて名をつけたこともありましたよ。(笑)
柏倉 田中さんの詩は大分英訳もされていますね。
田中 ええ、カナダの人が私の詩を英訳してアンソロジーを編んでくれておりますし、ブルノー・タウト氏が私の詩を愛してくれましてね、幾篇か訳してくれました。アメリカのさる雑誌は特集号を出しまして、日本語のものと英訳とを並べて載せるようなこともしております。
柏倉 最近は外国の方の中にも、よく日本語の出来る人が多くなりましたね。フランス人のイヴ=マリー・アリューさんなどは、朔太郎、中原中也、富永太郎、三好達治を翻訳した上に、注釈を加える仕事をされていまして、その解釈が私たちにとっても説得的なのです。日本語に対応する正確なフランス語を探す過程が、そのまま解釈の深化につながるわけです。彼の本は『日本詩を読む』というのですが、田中さんの詩の翻訳にも挑戦してもらいたいと思いますね。
 ただ、田中さんの詩集は、いまやすべて稀覯本でして、なかなか手に入りませんで、選集に載ったもの以外は読む機会がありません。
田中 まあ、私も全集を出したいとは思っているのですが、出すからにはしっかりしたものを出したいですしね。
柏倉 ぜひ立派な装幀のもので、田中さんのものを全部読みたいと願っている人は多いのではないでしょうか。年輩の方もさることながら、若い人たちの中に、田中さんの詩が好きだという人が本当に多いですから。
ここで私の好きな詩をもう一篇引用させていただきます。「素描」という、『葡萄の女』の中にあるものです。

 土用の日ざかりの村は昼寝時だ
 板敷に敷いた薄べりの上に 風通しのよい広座敷に 納戸に
 桑の葉がつよい日を照りかえし胡麻の花が咲いてゐる
 村はづれの街道沿いの藤棚のある昔の立場茶屋に焼酎の匂ひがしている
 きりぎりすがないてゐる
 噴井〔ふきい〕の水が溢れてゐる
 そこの縁台に旅姿の一人の男が横たはって気持ち好さそうに眠ってゐる
 ――若き日の田中冬二だ

どうかこれからもよい詩をお書きいただいて、私たちの心をなごませていただきたいと存じます。
田中 まだまだ現役として精進いたしますよ。

 追記――詩人田中冬二氏は、この対談から2か月あまり後の、1980年(昭和55年)4月9日午後4時30分に亡くなられた。葬儀は東京都町田市の清柳寺で執り行われた。戒名は淨生院釈冬二。田中さんが刊行を望んだ全集は、箱入り布貼り装幀の全3巻として、筑摩書房から1984年12月から翌85年6月にかけて出版された。
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by monsieurk | 2012-10-24 07:46 | | Trackback | Comments(0)

田中冬二 詩心を語る(5)


柏倉 田中さんの場合、銀行にお勤めになったことを抜きにしては、何ごとも考えられません。1913年(大正2年)に19歳で安田系の第三銀行にお入りになり、その年の暮に出雲今市の支店に転勤されて以来、1949年(昭和24年)定年退職されるまで、銀行員生活をお続けになったわけですね。
田中 35年間勤めました。銀行に勤めていたことで、口に糊するために詩をつくる必要がありませんでしたから、その点では大変よかったと思っています。私は同人誌に参加したのも、『四季』以外はありません。同人誌というのは、往々にして仲間褒めになりがちでしてね。
柏倉 銀行を主題にした詩が意外に少ないですね。
田中 詠む気もしませんよ。それでもなん点かはありますけれど。
柏倉 『青い夜道』の中に、「新しい沓下」、「さびしい静物」といった詩篇がありますし、昭和10年に雑誌『四季』に発表された「銀行」では、

  驟雨が何遍もやって来た
  石造りの暗い銀行では 青い笠〔シェード〕の卓上電燈〔スタンドランプ〕を点した
  雨があがると 高い窓に四角に紺碧の海のやうな空があった
  つめたい麦酒を飲みたいと思った
  駒鳥〔ロビン〕をききたいと思った

 と詠われています。こうした詩句を読む限り、銀行は田中さんにとって、何より大切な詩作の時間を奪う厭うべきものだったようにも見えます。
田中 銀行を詩に詠むとすると、どうしても内幕みたいなものになってしまって、それがいやだったのです。銀行なんてものは、外から眺めていますと、立派できれいなように見えますが、内部に入りますと、ポストの争いでしてね。
柏倉 はあ。
田中 誰がどこの支店長になったとか、どこの課長になったとか。そういう話を聞くのが実にいやでした。そういう仲間に入るのがね。
柏倉 同僚の方たちは、田中さんが仕事のかたわら、詩を書いておられるのを知っていましたか?
田中 知ってはおりましたでしょう。ただ、私は銀行内では、文学のこことか芸術については、いっさい話したことはありません。誰にも話しませんでした。
 これはまったく私的な事柄ですが、私の母は安田銀行を創った安田善次郎の妹の娘です。このことも誰にも言ったことはありません。安田善次郎と血がつながっているのですが、そんなことは一個の私と何の関係もありませんもの。自分は自分で、よいものだけを書いていればよい、そう思って生きてきました。
柏倉 銀行を退職されてから・・・
田中 銀行をやめてから、『モダン日本』へ行ったのです。新太陽社というところですが、そこがどうも業績が振るいませんでね。専務ということで参ったんです。新太陽社というのは牧野英一さんといって、牧野信一さんの弟さんがやって、当時、吉行淳之介さんや石川利光さんがいたんです。二人とも後に芥川賞を受賞されましたね。それにフランス文学の渋沢竜彦さん、名和晴朗さんもおられました。
 こうした人たちと仕事をしていたのですが、借金でどうにもならないんですよ。紙屋にもあるし、印刷屋にもあるし、本当に弱ってしまいました。
 いま日本精工の会長をやっておられる今里広記氏と私と二人で、銀行から借りる金の保証人になったのです。ところが、その借金が返せないという事態になってしまいました。結局私は免除というか、知らん顔をしてしまいまして、今里さんがお払いになったわけです。今里さんには、本当にご迷惑をかけているわけです、私はね。
柏倉 当時の新太陽社のことを、吉行淳之介さんが、『私の文学放浪』で書いておられますね。
田中 私も記者のまねごとのようなことをやって、吉川英治さんのところへ原稿をもらいにいったこともありますよ。たしかお宅でお昼をご馳走になりましたかね。そんな記憶があります。
 それから一番困ったのは、ある作家から原稿をもらったのですが、その原稿を失ってしまったんです。いまだに申しわけない気持で一杯です。
柏倉 まったくの偶然でしょうが、吉行さんも『モダン日本』の編集記者時代に、原稿を紛失した経験があるようですね。吉行さんの場合は鵠沼の三橋一夫氏のところへ原稿を取りに行って、三橋さんは名にしおう酒豪ですから、お酒ということになって、飲んだ後東京に戻り、都電の中で原稿を読んだことまでは憶えているのですが、都電を降りて次に気がついてみると、上の二枚だけが手に残って、あとの原稿がなくなっていたというのです。悔恨の情をこめて、吉行さんはこの逸話を『私の文学放浪』の中に書いています。
田中 いや本当に申しわけないことをいたしました。
柏倉 文学関係で仲間の方々と仕事をされたというのは、その新太陽社時代だけでしょうか? 『四季』の同人ではおられたわけですが。
田中 そうですね。
柏倉 そういう意味では、最初からずっとお一人でやってこられたわけで、文学的な栄養は主に本から得られたことになりますか。
田中 そうですね。当時は本当によい本が沢山ありましたから。ロシア文学が続々翻訳され、北欧文学ですとストリンドベリとか、よい作品が翻訳で読めるようになりました。私はどちらかといえば、南欧のものよりも北欧の文学にひかれました。
柏倉 田中さんの作品には北欧の街を想像させるようなものが幾篇かございますね。
 例えば「古風なガス燈の町」と題された作品――

  古風なガス燈の点ってゐる町
  甃は苔蒸し処々窪んでゐた
  林檎の花のさかりで靄が下りてゐた
  そして靄の中にまたガス燈のかげがあった

 北欧への憧れはいつごろから田中さんの中に棲みついたのですか?
田中 最初は先ほど申し上げたような文学の影響があったと思いますが、そのうち未知の方からストックホルムの絵葉書帳を送っていただしたことがあるのです。市川彦太郎さんとおっしゃって、スウェーデンのストックホルム駐在の領事をされておられたのが、ヘルシンキへ公使として転任されるに際して、私がストックホルムに憧れているのを知って、美しい色刷りの絵葉書帳を、美術館や絵や彫刻の写真と共に送ってくださったのです。
 今でも大切に持っておりますが、その方はイランの方へ変わられてから、亡くなられたとうかがいました。お元気ならば、今でも手紙のやりとりなどさせていただいていると思うのですが。
柏倉 田中さんの詩がお好きだったのですね。
田中 そうだと思います。シベリア経由で封書をいただいたときは嬉しかったですよ。(続く)
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by monsieurk | 2012-10-23 08:33 | | Trackback | Comments(0)

田中冬二 詩心を語る(4)

柏倉 先ほども話に出ましたが、『サングラスの蕪村』という著書もおありですし、俳句についてはどうお考えですか?
田中 俳句というのはちょっと考えものですね。たしかに私は俳句を詩のデッサンにはしています。
柏倉 句集もお出しになりましたね。
田中 ええ、最初の句集は『行人』といいまして、昭和21年に出しました。その後も『麦ほこり』があり、詩の仲間とときどき集まって作りましたし、俳句雑誌『風流陣』にも加わっていました。現にいまもひねります。
 ただ、俳句というのは宗匠ばりのものですね。宗匠、俳句の先生というのは、門人の作品をやたらに添削いたしましょ。添削したらその作品はもう本人のものではないんです。手は義手になり、足は義足になってしまい、伸びるものも撓められてしまって、伸びないんです。
 先生は添削について、あくまで暗示を与えるのでなければなりません。そして作者自らに推敲させて、作品をとりあげるべきものと思います。そういうところが、俳句については不満ですね。
柏倉 俳句に限らず、詩についても添削指導がときとして行われたりしますが・・・
田中 詩の場合でも、一行二行の変更でとんでもないことになる例は少なくありません。
 先ほど俳句を詩のデッサンに使っていると申しましたけれど、私の詩の場合は、言葉を出来るだけ省略しようとするわけで、その点で俳句の勉強は役に立ちます。とくにSubject、主題をことさら省略するのです。
 一例を挙げますと――
 「屹立した山の中に紅葉が燃えるようだ。縁側では蜜蜂の壜にレッテルを貼っている。家の中で時計が十時を打った。」こうした章句の中で、誰がというところを省略してしまうのです。特称して、その家の娘さんであるとか、老人であるとか、あるいは作者自身であるとかは明らかにしないわけです。この欠けたところが面白いのです。
 そう露骨になんでもかんでも表現してしまうのではつまらないじゃありませんか。
柏倉 『セレニテの詩人』の中で、田中さんはご自身の詩作の要諦を、「凡そ詩や俳句には、ダイヤモンドの要件である4Cのように、Cect、Carat、Clarity、Colourが大切である。なかんずくカット――トリミングの巧拙こそ詩の手法として最も重要である。」と書いておられますが、この事ですね。
 もう一つ、詩作の心構えについて、「詩精神の真髄は、純粋性である。清冽性〔セレニテ〕である。不純であっては詩精神ではない。霞んでいては詩精神ではない。澄みきっていて、はじめて詩精神である。・・・極端に言えば、詩作の前には斎戒沐浴すべきであると思う。」(『私はこうして詩を作るⅡ』)とも述べられていますが・・・
田中 前半については今でも、その通りだと信じていますが、「斎戒沐浴」云々は間違いです。第一そんなことをしたって、詩はやって来はしません。机にしがみついて、さあ、詩を書くぞと構えてみても、良い詩なんか書けるものじゃない。詩という奴は、本当にふとした瞬間に我々をつかまえるのです。
柏倉 田中さんはお小さいときに、お祖父のところへ行かれて、そのお祖父がなかなか厳しかったとうことですね。その折の淋しさといったものが、後々、長く田中さんの作品に影を落としている気がするのですが。
田中 そうですね。私は過去のことは一切追及しないことにしているのですが、例えば私が中学校を卒業しまして、叔父の会社へ入ることが決まったのですが、その前に、皆は修学旅行で京都と奈良へ行ったのです。その修学旅行へ私はやらせてもらえなかったのです。それが未だに・・・反感というか、心残りですね。皆との別れのときでしたから。・・・私は父親にも早く別れ、母にも早く別れたものですから、逆境というのは言い過ぎかもしれませんが、人とは違った、嫌な思いもしてきましたよ。
 やっと今、好きな本を買うとか、色紙を書くとか、思うままの生活をしておりますよ。
柏倉 ただ田中さんの詩には、そうした悲しみは生の形であらわされてはおりませんね。
田中 そうした悲しみは、ある意味では恥かしいことでして、心に秘めておくものです。いくらあがいてみても、それをやり直す、取り戻すことが出来るといったものではありませんからね。ただ、作品によっては、自然に滲みでているところがあるかもしれません。子どもを亡くしたこともありました。親にとってはこんな悲しいことはありません。
柏倉 次女の立子さんですね。その時のお気持から生まれたのが、「寂しき夕暮――かへらぬもの――」です。

   ゆふぐれ、フランスの旗のやうなうつくしいゆふぐれ 
   夕餉時を外へでて takochan takochan と呼んでみ
   takochan はどこかから未だかへって来さうな気がする
   takochan takochan 呼んでみる 空しい・・・
   たかい木の梢 takochan はふかふかと木の葉に包まれた揺籃に
   もうやすらかにねむっているかもしれない
   彼女がのこしていった小さなスプーンと
   いちばん好きであった兎さんのおもちゃの夢をみて――
   ゆうばえのうつくしい夕暮、
   夕餉時 外へ出てtakochan takochan と私は何度も呼んでみる
   それだのに谺さへかへって来ない

田中 タコチャンというのが死んだ娘の愛称だったのです。(続く)

 *「ミュゼ浜口陽三」で先に行った講演「パリで取材した芸術家たち」の要旨が、同ミュゼのホーム・ページに掲載された。 http://www.yamasa.com/musee/ のトップのニュースから入り、「美術館通信vol.18」をクリックするとご覧いただける。
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by monsieurk | 2012-10-22 08:36 | | Trackback | Comments(0)

田中冬二 詩心を語る(3)

柏倉 田中さんがお書きになったものを拝見していましたら、訳詩集で最初に読まれたのは『珊瑚集』だったそうですね。
田中 永井荷風の。あの訳詩というのはなんとも立派なものですね。流麗な訳で、こんなことが出来るのかと思いましたね。『珊瑚集』、上田敏博士の『海潮音』、そして堀口先生の『月下の一群』、この三冊が日本の詩に与えた影響は量りしれないのじゃありませんか。
 ただ、大學先生は、「外国の詩を訳する、つまりフランスのエクランから日本の巻絵に移すときには、もうその香りは抜けている」と謙遜しておっしゃっていますが、そんなことはないでしょう。
柏倉 『月下の一群』の場合は、訳によって紹介されたフランスの新しい詩の精神もさることながら、訳に用いられた日本語自体が新鮮だったわけです。堀口さんは新詩社におられて、与謝野晶子、鉄幹の影響をうけられたことと、お父様が漢詩をよくされた方だったのですね。お父様の九萬一氏はグールモンの『ディヴェルティスマン(Divertissements)』という詩集から、二篇の詩を漢訳されたという方でした。(私はのちに大學の父九萬一について、『敗れし國の秋のはて 評伝掘口九萬一』、左右社、2008年を書いた。)
 ところで、話は堀口大學さんの評に戻るのですが、「田園詩人田中冬二」という定義はいかがですか。
田中 小さいときから自然が好きでした。それで中学生時代に、吉江喬松さんの『高原』や小島烏水さんの『日本アルプス』を読んだことが、そうした傾向に一層拍車をかける結果になったかも知れません。
 ともかく、タネをとるためによく旅行しました。それも一人で行きました。連れがあると具合が悪いのです。一人でもって、あっちの峠を越えたり、こっちの谷間の温泉へ行ったりしました。ですから家内は、いまだに私に嫌味を言うのですよ。
柏倉 お連れにならなかったから。(笑)
田中 ええ、自分は何処も知らない。日光も知らなければ、熱海も知らない・・・ですが私は言ってやるのです。「いいじゃないか、俺が旅行して詩を書いたおかげで、園遊会に招待されて、陛下にもお目にかかれたじゃないか。めったに行けないところへ行けたのだから」と申すのです。(笑)
柏倉 詩集をずっと拝見しますと、本当にいろいろなところへ行っておられますね。しかし、日本の自然はすっかり変貌してしまって、懐かしい田舎はいまや田中さんの詩の中にしか残っていないといった状況です。とくに鄙びた温泉がなくなってしまいましたね。
田中 本当に昔は鄙びた、いい温泉がどこにもあったのですがね。
柏倉 「フランシス・ジャム氏に」という詩が私は好きですが、――

   ほしぐさの中にねころび
   くれゆく空をながめながら
   山鳩をききながら
   ふと思う
   とおいフランスを
   そしてあなたを

   麦搗のうたに
   かなしく暮れゆく日本の村
   うす暗くなり、障子ばかりしろい家の庭には
   筵をたたく音
   縁先で洋燈の芯を剪っている娘
   それからしだいに黒いかたまりになってゆく桑畑 
   とうもろこしの畑
   こうしてしずかにくれてゆく日本の村

   ・・・・・
  フランシス・ジャム氏よ
  古い煤けた家
  立春や 八十八夜 はっせんや
  庚申待の暦や
  青い蚊帳をつる家
  梭の音のする家
  日本の田舎の人たちの

  黒い大鍋をかこんだ質素な夕餉など
  あなたは御存知ですか
  みんなの手にかすかにうごく二本の箸
  ああ わたしはこの国の
  田舎のひとたちの質朴そのままの人情を
  あなたにささげたい
  それはこの国の日に日に失われてゆく
  最も美しい愛すべきもののひとつであるゆえに
  ・・・・・
 フランシス・ジャムはお好きだったのですか?
田中 ええ、昭和3年に堀口先生の訳で『フランシス・ジャム詩鈔』という大変よい本が出ましてね。私は愛読しました。ジャムの詩は好きでしたね。
柏倉 田中さんの詩をよく『博物誌』を書いたジュール・ルナールと比較する論を見かけますが、私が思いますのは、アンリ・ボスコという南フランスの詩人のことです。日本にはあまり紹介されていませんが、南仏に住んで、地方の人びとの心と風物を詩や小説に書きこんだ詩人です。
 『青い夜道』に「くずの花」という詩がありますね。

   ぢぢいとばばあが
   だまって湯にはひっている
   山の湯のくずの花
   山の湯のくずの花     (黒薙温泉)

 たった四行の詩ですが、完成までには長い時間がかかったとうかがっていますが。
田中 一年か二年はかかったのではありませんか。
柏倉 最初はもっと長かったのですか?
田中 いや、初めから短いものにしようと思ったのです。これは黒薙温泉ですから、越中です、富山県の。仏教の盛んな処で、お湯の中で爺さんと婆さんが、念仏を唱えているところを入れようかと考えたのです。ですが念仏などは省略してしまったのです。「山」というところに念仏を象徴させて、心の裡で念仏を唱えつつ、じっと湯にはいっている。湯にひたりながら、心では念仏を唱えているんです。
柏倉 そのことは何気なく添えられた「黒薙温泉」という四文字から読みとらなければならないので、それがまた詩を読む面白さでもあるわけですね。
田中 小説で全部説明してしまっては、面白くないんです。
柏倉 田中さんの詩にはそのままでも一篇の短篇小説になるような素材が多いのですが、短篇小説をお書きになるつもりはなかったのですか。
田中 まったくありませんでした。最初から詩をやろうと思いました。詩という形式が自分の気質に一番あっていると思ったのです。それも、だらだらした詩ではなく、ぎりぎりまで切りつめた詩、そんなものが書きたかったのです。
 詩をつくるためには、思いきって切って行くんです。無駄が一番いけません。それと書いたものについては、いつまでも責任を持たなくてはいけません。こういう詩を書いたという――
 私は「池鯉鮒〔ちふり〕の女」について、今でもいろいろと考えているんです。
柏倉 昭和41年に出た第13 詩集『葡萄の女』に収められた作品ですね。

   しどけなく寝転んで春本を見てゐる女

   植付のすんだばかりの裏の田圃から
   懶い昼蛙の声

   名物 卯の花焼 木の芽田楽 鰌汁

   女の蹠〔あしうら〕がほんのりとさくら餅の色だ

 ――実に艶冶な作品です。
田中 いま考えているのは・・・・

   裏の田圃の稲が七、八寸
   懶い昼蛙の声がして

   女は春本をかたわらに昼寝している

   卯の花焼 木の芽田楽 鰌汁

   ささやかな小旗亭の昼さがり

 「しどけなく寝転んで」とか、「女の蹠がほんのりとさくら餅の色だ」などというのは、
みな切ってしまったんです。「春本をかたわらにしている」だけで充分なのですよ。
柏倉 これは「池鯉鮒の女」のヴァリアントというわけです。今日うかがったのが最初で、これまで何処にも発表されたことはありませんね。(続く)
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by monsieurk | 2012-10-21 08:42 | | Trackback | Comments(0)

田中冬二 詩心を語る(2)

柏倉 「蚊帳」というのは田中さんの文字通りの処女作ですが、これについては、『現代日本詩人全集』掲載の「自伝」に、「もしもこの『蚊帳』の一篇が詩聖に載らなかったら、おそらく以後私は詩を書かなかったろう」と述べておられますね。
田中 事実そうです。
柏倉 『詩聖』は玄文社から出ていて、その編集者が長谷川巳之吉氏だったわけですね。
田中 長谷川さんから激励されたことが、大きな励みになりました。ただ、長谷川さんと直接顔を合わせたのはずっと後のことです。私は大正11年に大阪から東京の銀座支店に転勤になったのですが、大正14年の春、銀行にたまたま用事で来られた長谷川さんにお目にかかり、初めて言葉をかわしたのです。
柏倉 そのときもう長谷川さんは第一書房をやっておられたのですか?
田中 いいえ、そのときはまだ玄文社の演劇部の記者だったです。演劇、芸能について非常にくわしい人だったですね。長谷川さんが銀行の窓口に来て、そこで激励されたんですね。「自分もいずれ出版をやるから、そのときは、詩集を出すから書きなさい」と言われて、激励されたのです。
 非常に潔癖な人でね、私の作品について一言もいいませんでしたね。ただ、「これはどうだかな、もう少し考えたらどうか」といった程度でしたよ。
柏倉 そういう経緯があって、長谷川さんが第一書房を創立し、文学史に残る数々の本を出版するわけです。何といってもその筆頭は、堀口大學氏の訳詩集『月下の一郡』、これが大正13年9月。その第一書房から、田中さんの処女詩集『青い夜道』が出版され、巻末に長谷川さんの有名な「あとがき」が書かれるわけです。ちょっと一節を読んでみますと――
 「田中冬二さん、愈々あなたの処女詩集を出版する時がきました。あなたも嬉しいでせょうが、私の喜びやうは、あなたよりも別な意味に於いて、或はもっと大きいかもしれません。・・・併しそれにしても、あの目まぐるしい、味気ない銀行の事務に、あなたは身をゆだねながら、弛まず、静かな詩作に耽って来られた事を惟ふと、その勇ましいあなたの感情と、その燻しをかけたプライドとに、私はいひ得ない一種の感激を催ほすのであります。・・・私は、あなたの詩集をもって日本の来るべき詩界の序幕を照し、その指標としたいのであります。惟ふに我々の詩界は、余りにも日本的な香りを失って仕舞ひました。・・・たとへ詩の本陣が時の勢に蹂躙られて、遂にトロヤの跡と化し去らうとも、あなたの、この絶好の贈物を、喜んで受けいれてくれる人達の多いことを、私は信じて疑はないものであります。本当にあなたの詩集は、私の感情に、限りなき滋味と慰めをもたらしてくれるのであります。」
 どうも引用が長くなりましたが、この処女詩集に附された評語ほど、田中さんのお人柄と詩の特質を適確に言い表したものは他にないのではありませんか?
田中 あの方は私の恩人です。私は今でもそう思っています。
柏倉 第一書房から当時「今日の詩人叢書」というのが出ましたね。岩佐東一郎さんとか菱山修三氏のものとか。あの選択も長谷川さんがなさったのですか?
田中 おそらく大學さんと相談したのではありませんか。
柏倉 堀口大學氏と知りあわれたきっかけはどんなことだったのですか?
田中 それこそ「今日の詩人叢書」で詩集をだす詩人たちの顔合わせが、帝国ホテルでありました、そのときお目にかかったのが初めてでした。それ以来、私はおそらく先生とは一番親しくなっていったでしょう。
 堀口先生の門人というのは、みな亡くなってしまいました。立派な先生ですよ。
柏倉 堀口大學さんが主宰された『パンテオン』や『オルフェオン』に、田中さんは次々と作品を発表されたのでしたね。
田中 そうです。『パンテオン』というのは、日夏耿之介、西条八十、それから堀口大學さんといった方々がやっておられたのですが、仲間割れしちゃったんです。それで堀口さん一人が編集する『オルフェオン』が刊行されることになったのです。
柏倉 当時の詩壇の雰囲気としては、主流を占めていたのは「エスプリ・ヌーボー」の運動ですか?
田中 あの時分は一方でシュールレアリズムが、『詩と詩論』を中心に華やかにやっていました。春山行夫であるとか、北川冬彦、近藤東といった人たちですね。もう一つにプロレタリアリズムがありましたが、私はいつも言うのですが、プロレタリアリズムの詩なんてものは詩ではない。あんなものは広告みたいなものだから、詩の形式などは使わずに、エッセーかなにかでやった方がいいのじゃないかと言うんです。
 やはり詩というものは、抒情がなくてはいけません。人の心を揺るがすものでなくてはいけません。しかも、それが何でもないようなものであって、そこに深みがあるものでなければならない。ただに何でもないものは、どうにもしょうがありません。例に挙げるのは悪いが、千家元麿みたいな、あんな詩じゃしょうがありません。
柏倉 田中さんは『詩と詩論』には関係されなかったですね。
田中 私は『四季』です。昭和8年に堀辰雄さんたちが始めたものですが、堀さんが誘ってくださって、客員同人になりました。私はずっと一人でやって来たものですから、『四季』の同人になれたことはうれしかったですね。
柏倉 『四季』には創刊号から書いておられますね。
田中 最初は客員で、頼まれて書いたのですが、後に同人になりました。私は今でも『四季』の全号を大切にとってあります。『四季』に一番書いた時代は、長野時代です。ですから長野を題材にしたものが多いですね。
柏倉 長野時代と申しますと、昭和14年から、17年に諏訪支店に転勤されるまでですね。時代的には前後しますが、第二詩集『海の見える石段』について、堀口大學氏が書かれた評があります・・・
田中 どこに書かれたものですか? 私は読んだことがありません。先生はめったに私の詩の批評をされませんでしたが。
柏倉 初出は不明ですが、その後『詩と詩人』に収録されたもので、こんなことが書かれています。「田中冬二君は都会に生活する田園詩人だ。彼の本領もまた其所にあるらしい。それかあらぬか私にとって、彼の詩の面白さもまた実にかかってここにある。彼の田園は日曜日の田園であり、祭日の田園である。文化人田中冬二の心で一度濾過されて、あくをぬき、滓を去り、粕を捨てた田園である。・・・田中冬二という霊媒者なしには、われわれには感じられない田園を感じさせてくれる。・・・『ロマンチックな夕暮』と題する章に収められた数篇の詩に散見する都会生活の感動や機智の試みは、田園風物を歌った君の作品ほど私の心を動かさない。・・・」しかし、ここに述べられている都会生活の感動や機智の試みこそ、田中さんが堀口大學氏から蒙った影響といえるのではありませんか。
田中 そうですね。先生の『月下の一群』あたりから、自然に影響を受けていますね。まあ、先生の人柄から受ける影響が一番の刺激だったのではありませんか。先生の詩精神ですね。本当に偉大なものを持っておられるんですね。あの先生は。旅行などもご一緒にしました。同じ宿にもよく泊りました。
柏倉 お酒の方も堀口先生ゆずりではありませんか。(笑)
田中 先生はお強いですからなあ。二合五酌でしょ、毎晩。自分でお燗するのですよ。そうでないと気に入らないの。お宅へうかがいますとね、大きなお盆に、盃を沢山並べて、どれでも取って飲みなさいとすすめられる。ご自分も好きなやつを取って飲まれる。酒を飲んでいて実に楽しいんです。ああいう先生とお近づきになったということは、私にとって一生の幸せですよ。(続く)

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by monsieurk | 2012-10-20 09:08 | | Trackback | Comments(0)

田中冬二 詩心を語る(1)

 前回のブログで紹介した田中冬二氏との対談は、雑誌『文芸広場』の、1980年(昭和55年)5月号と6月号に掲載した。以下、何回かにわたって再録する。

柏倉 大変お元気でいらっしゃいますが、お幾つになられましたか?
田中 明治27年、1894年生まれですから、もう85歳です。最近はすっかり足腰が弱くなりまして、めったに 都心へは出なくなりました。
柏倉 去年の暮に開かれた堀口大學さんの文化勲章受賞のお祝いの会にはご出席になられたそうですね。
田中 ええ、大変盛会でしたよ。あれで何でも400人ぐらい集ったんではないでしょうか。
 あの時の席の取り合わせは、どうやったんでしょうか。私は偉い人の間にはさまれてしまいましてね。私の両脇が山本健吉さんと吉田精一さん、このお二人だったものですから、どうも困りました。(笑)
  非常に楽しい会でした。ただ、どなたもスピーチが長うございましてね。あれじゃ先生もご退屈なさいますよ。それに余興も多すぎるんですよ。それでも堀口先生は大変うれしそうなご様子でした。
柏倉 詩をいまもお書きでいらっしゃいますか?
田中 詩はあまり書きません。詩はめったに書きません。
柏倉 そうですか。
田中 だいたいね、私、申し上げますと、詩を創るとかなんとか申しましょ。創るというのは、こしらえることです。つまり、飾りたてる、化粧をする、魚肉をさしみにする。詩というのは、そんなものではない私は言うのです。
  詩というものは、詩精神が直ちにポエムに推移するのではないかと思います。推移するとはどういうことかと言えば、殊更にやるもんじゃなくて、自然的にいかなくてはならない。ちょうど泉が湧くように、ね。
  いくら詩を創ろうと思っていても、詩というものは、そんなに簡単に来るものじゃないんです。電車の中でつり革につかまっているときに、予期もしないのに額に湧き上がってくるとか、食事をしている最中に、肩に手をかけてくる。
  それを逃さないことである。それにはどうしたらいいか。それはやはり、言葉の選択とトリミングでしょうね。
  現代いろいろな詩人がいますけれど、それらの詩人は言葉にたいして無頓着じゃないかと思います。言葉にたいする感受性、センシビリティーがない。センシビリティーを豊かにしていかなければなりません。
  ことばにはそれぞれ重量がある。例えば、機関車なぞという言葉は非常に重いですね。それに艨艟〔もうどう〕、昔の艦隊のことですが、これなどは重い言葉です。一方郵便切手や葉書などは大変軽い感じがいたしますね。言葉にはまた温度がありましょ。warm colourとcold colourと申しますか。例えば、それを食べ物で比較してみれば、蕎麦という言葉は冷たい感じがいたしましょ。
柏倉 たしかに、そうした一つ一つの言葉にたいする鋭敏な感覚が大切ですね。
田中 それが今の人たちは、どうも無頓着なんですね。それにもう一つ、詩をつくるに際しては、真実と虚構をミックスしなければならない。真実ばかりでは面白くありません。そうかといってフィクションばっかりでは、これは出鱈目になってしまう。そこを上手にミックスすることが必要なのです。
  これは芭蕉でも蕪村でも既にやっていることです。元禄時代の芭蕉は、もうあの時代にストローでソーダ水を飲んでいたんです。実際、芭蕉はそんな感じがするじゃありませんか。蕪村の方は、享保の世の中にサングラスをかけていた。そうした明るい感じが蕪村にはありますね。
柏倉 「サングラスをかけた蕪村」というのは『四季』に連載された散文集のタイトルでもあるわけですね。
田中 虚虚実実という言葉がありますが、要はそのミックスの如何でしょうね。
柏倉 まさしく「サングラスをかけた蕪村」というのは言いえて妙で、あのタイトルを読みましたとき、サングラス姿の蕪村が髣髴といたしました。
田中 まあ、私の専売特許ですかね。
柏倉 あの場合はタイトルそれ自体が一篇の詩ですね。
田中 本のタイトルというのは中々むつかしいですね。
柏倉 そうですか。
田中 むつかしいですよ。私は昭和4年に『青い夜道』を第一書房から刊行したのですが、この表題がどうも、何というか、稚拙なような気がしましてね。今は関心しませんが。第二詩集の『海の見える石段』というのは、皆様にほめられました。それから『山鴫』。『花冷え』なんていうのはいやですね。
柏倉 『花冷え』は感心しませんか。
田中 駄目ですね。「花冷え」というのは俳句の季語ですけれども、詩集の広告が最初に新聞に出たときから、いやだなと思いました。最近は『八十八夜』。これなどは良いと思っています。
柏倉 いま処女詩集『青い夜道』のことが話に出ましたが、あの刊行が昭和4年、1929年の12月でしたね。しかし、実際に詩をつくりはじめたのは、ずっと以前のこととうかがっていますが?
田中 ええ、それより7年ぐらい前から書いておりました。
柏倉 田中さんが立教中学を卒業されたあと、進学を断念され、安田系の第三銀行に就職され、島根県の今市へ赴任されたのが、大正3年、19歳のときですね。あのときはもう詩を書きはじめられておられたのですか?
田中 いいえ、まだ詩は書いておりません。その時分は散文を書いていました。新潮社に『文章学院』という投稿誌があって、そこに投稿して、大変ほめられたことがあります。その他『文章世界』に投稿した「旅にて」という短文は特賞に選ばれまして、たしか5円だかの賞金をもらった記憶があります。
  詩を書きはじめたのは今市から大阪に移ってからです。
柏倉 今市時代には文学仲間といった人たちはいたのですか?
田中 二、三人はいましたね。私は今市では髪結いを本業としている素人宿屋に下宿しました。椿屋という屋号だったものですから、私は戯れに「カメリヤホテル」と呼んでいたのです。そうしましたら、主人が「カメリヤホテル」とは何ですと聞きますから、「木賃宿という意味さ」と申しますと、オヤジは頭をかいていました。
柏倉 『晩春の日に』に載っている、「草愁詩社」にうたわれている話ですね。
田中 ええ、あれは実際にあった話なんです。今市では、友だちはいたといっても、それほど深いつきあいではありませんでした。一人で本ばかり読んでいました。そのために給料をつぎ込んで、沢山本を買いました。あの当時はまた随分と良い本がありましたよ。 そうして大阪へ転勤になったあと、『詩聖』という雑誌と『日本詩人』という雑誌がありまして、私は『詩聖』に最初の詩「蚊帳」を投稿して、掲載されたのです。(続く)

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by monsieurk | 2012-10-19 08:46 | | Trackback | Comments(0)

最後の訪問


 詩人の田中冬二氏を訪ねた日のことは、いまも鮮やかに憶えている。おそらく私たちが、生前の田中氏のお宅を訪れた最後の訪問者ではなかったろうか。その日、1980年(昭和55年)1月26日は、風は冷たいがよく晴れた日で、中央線沿線にある豊田のお宅からは、秩父の山並みが間近にくっきりと見えていた。
 濃い灰色のトックリセーターの上に、黒い背広を着た85歳の老詩人は、写真で見なれた口髭こそ真っ白なっていたが、お元気な様子だった。通された居間の畳の上には、短い詩句と、「田中冬二」と署名された色紙が数枚おかれてあった。私たちがうかがうまで、揮毫していたのだという。居間の片隅には、低い本棚が設えられていて、処女詩集『青い夜道』以来の詩集が並べてあった。そのどれもが稀覯本である。
 初対面の挨拶がすむ、炬燵の台の上にマイクがセットされ、対談がはじまった。雑誌『文芸広場』に掲載する対談をお願いしたところ、快諾されたのである。それから凡そ2時間のあいだ、詩人は語って倦むことがなかった。
 かつては詩の題材を求めて全国を歩きまわった脚もこのところめっきり衰え、滅多に都心へは出なくなった。ただ、10日ほど前に帝国ホテルで開かれた、堀口大學氏の文化勲章受賞を祝うパーティーには出席した。盛会で堀口先生も大層お喜びであったが、帝国ホテルの料理も不味くなりました、というのが話の切っかけであった。
 立教中学を卒業すると、家庭の事情ですぐに銀行に就職し、そのかたわら、ほとんど独力で独自の詩の世界をつくりあげた田中冬二氏にとって、堀口大學は師と呼ぶただ一人の人である。
 詩集『青い夜道』は、第一書房の「今日の詩人叢書」の一冊として世に出たが、この叢書を編纂したのが堀口大學であった。それから半世紀を経ても、田中氏は自らを「大學の門人」と呼んで憚らなかった。
 その堀口大學が田中冬二氏を評して、こう語ったことがある。「田中冬二君は都会に生活する田園詩人だ。彼の本領もまた其所にあるらしい。・・・彼の田園は日曜日の田園であり、祝日の田園である。文化人田中冬二の心で一度濾過されて、あくをぬき、滓を去り、粕を捨てた田園である・・・」
 堀口大學とは、よく旅行もし、酒も飲んだが、直接詩を云々された記憶はなく、『詩と詩人』に載ったこの批評も知らなかったという。対談のために私が用意していったコピーを、感慨深げに読んでおられた。
 対談の中で、もう一人名前があがったのが、第一書房を興した長谷川巳之吉である。長谷川のことを語る田中氏には、文字都通り襟を正すといった趣があった。
 田中氏は、大正11年玄文社から出ていた雑誌『詩聖』に、詩篇「蚊帳」を投稿して認められ、詩人としてデビューしたのは周知のことである。長谷川巳之吉は当時玄文社の演劇欄担当の記者であった。長谷川はその後、田中氏が勤めていた銀行をわざわざ訪ねてきて、「自分もいずれは出版をやる。その時は是非あなたの詩集を出したい。」と激励してくれたという。
 長谷川巳之吉は、その言葉通り第一書房をつくり、大正末から昭和にかけて、堀口大學の訳詩集『月下の一群』をはじめ、文学史に残る数々の本を出版した。田中冬二氏の『青い夜道』が出版されたのは昭和4年で、この処女詩集の巻末には、異例なことに出版主、長谷川巳之吉が自ら筆を執った「あとがき」がついている。「その誠意あふれる言葉の一つ一つに感激した、長谷川さんは私の恩人です」と、詩人は語るのだった。
 対談の内容は、19歳のときに出雲の今市からはじまった銀行員生活と詩作の両立、青年時代の勉強ぶり、18冊に及ぶ詩集一冊一冊の思い出など、多岐にわたった。
 田中冬二氏が、旧作を新たな詩集に入れるに当って、手を加えることはよく知られている。この日も、いま「池鯉鮒の女」の改作を考えているといって、披露されたのが次のような詩句である。

  裏の田圃の稲が七、八寸
  懶い昼蛙の声がして

  女は春本をかたわらに昼寝している

  卯の花焼 木の芽田楽 鰌汁

  ささやかな小旗亭の昼さがり

 第14詩集『葡萄の女』に収められている詩句と比較すると、このヴァリアントでは、説明的な要素がことごとく削られていることが分かる。
 しかし、この改作は詩人の手で定稿とされることなく終ってしまった。田中冬二氏は、私が録音テープから起こし、構成した対談の原稿に目を通され、内容には大変満足しているという私信を下さったが、その直後病床につかれた。そして校正の筆を入れる間もなく、4月9日卒然として逝かれたのであった。
 詩人の最後の声をおさめた録音テープは、葬儀の日にご遺族にお渡しした。対談を終えて、ウイスキーの盃を口に運ばれる、お元気だった姿が目に焼きついている。

 (田中冬二全集(筑摩書房刊)第2巻の付録に掲載したものに、若干手を加えた。)
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by monsieurk | 2012-10-18 10:23 | | Trackback | Comments(2)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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