ムッシュKの日々の便り

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哲学小説(5)「わが西遊記」Ⅳ

 沙悟浄が次に出会ったのは、四辻で演説をする青年だった。彼はフランス思想家パスカルの『パンセ』の断章を思わせる思想を大声で叫んでいた。
 「我々の短い生涯が、その前とそのあととに続く無限の大永劫の中に没入していることを思え。我々の住む狭い空間が、我々の知らぬ・また我々を知らぬ・無限の大広袤の中に投げ込まれていることを思え。誰か、みずからの姿の微小さに、おののかずにいられるか。我々はみんな鉄鎖に繋がれた死刑囚だ。毎瞬間ごとにその中の幾人かずつが我々の面前で殺されていく。我はなんの希望もなく、順番を待っているだけだ。時は迫っているぞ。その短い間を、自己欺瞞と酩酊とに過ごそうとするのか? 呪われた卑怯者め! その間を汝の惨めな理性を恃んで自惚れ返っているつもりか? 傲慢な身の程知らずめ!」と、自己に執着する者を批判し、神を信じることこそが唯一の道だと説く。
 沙悟浄は白面の青年がいうことに共感を覚えるが、自分がいま求めているのは神の声ではないと思いかえして、彼の許を離れた。
 五番目は子輿〔しよ〕と名乗るせむしの乞食だった。悟浄はこの乞食こそあるいは真人〔しんじん、道教でいう道に達した人物〕かも知れないと思うが、この男の言葉や態度にどことなく誇張されたものを覚え、その醜さにも生理的な反撥を感じて立ち去る。
 子輿は自分は女偊の弟子で、師は北の方二千八百里にある流沙河が赤水と墨水とに落ち合うあたりに庵を結んでいるという。そこで沙悟浄はその方角を目指して旅をすることにした。その途中に目ぼしい道人修験者の類がいれば、必ずその門を叩くことにした。
 そうしてまず会ったのが鯰の妖怪である虯髯鮎子〔きゅうぜんねんし〕だった。この妖怪は貪食と強力で評判だった。鮎子は評判通りに、彼の眼の前を泳いでくる一尾の鯉をつかみ取ってムシャムシャかじりながら、「この魚が、なぜ、わしの眼の前を通り、しかして、わしの餌とならねばならぬ因縁をもっているか、をつくづくと考えてみることは、いかにも仙哲にふさわしい振舞いじゃが、鯉を捕える前に、そんなことをくどくどと考えておった日には、獲物は逃げていくばかりじゃ。まずはすばやく鯉を捕え、これをむしゃぶってから、それを考えても遅うはない。(中略)ばかばかしく高尚な問題にひっかかって、いつも鯉を捕えそこなう男じゃろう、お前は」という。要は形而上学的考察を加える前に、まずはぱくつくことだというのである。そして悟浄を見る眼を急に光らせると、喉をゴクリと鳴らした。そして貪食なその顔が近づいてきたのを見て、沙悟浄は強く水をけって泥煙を立てながら、鮎子が住む洞穴を抜け出した。彼は苛刻な現実精神を、身をもって学んだ思いだった。
 次には蟹の妖精にして隣人愛の説教者、無腸公子を訪ねる。この聖者が慈悲忍辱を説きながら、突然飢えに駆られて自分の子を食べるのを見て仰天してしまう。それでも公子のいう「本能的没我的瞬間」に学ぶべきものがあるかもしれないと感じ、いちいち概念的な解釈をつけなければ気のすまない自分を反省するのだった。
 八番目は蒲衣子の庵室はいわば同調者の集まる道場だった。四、五いる弟子は、師にならって自然の奥義を探求する者たちだが、自然の陶酔者といった方がよいかもしれない。自然を観て、その美しい調和のなかに透過することが彼らの目的であった。
 悟浄はこの庵室に一カ月ほど滞在し、その間彼は弟子たちとともに自然詩人となった宇宙の調和を讃え、自然の最奥の生命に同化することを願った。ある日、弟子のなかの美しい少年が、ひょいと水に溶けてしまう出来事が起こった。彼があまりに純粋だったからである。悟浄はこうした静かな幸福に惹かれつつ、やはり自分には場違いではないかと感じてここにも長く留まることはできなかった。
 九番目の班衣鱖婆〔はんいけつば〕は五百余歳を経た女怪だったが、肌のしなやかさは処女と異なるところはなく、肉欲を極めることを唯一の生活信条としている。
 「この世に生を享けるということは、実に、百千万億恒河紗劫無限の時間の中でも誠に遇いがたく、ありがたきことです。しかも一方、死は呆れるほど速やかに私たちの上に襲いかかってくるものです。遇いがたきの生をもって、及びやすきの死を待っている私たちとして、いったい、この道のほかに何が考えることができるでしょう。ああ、あの痺れるような歓喜! 常に新しいあの陶酔!」、「徳とはね、楽しむことのできる能力のことですよ」と説くのだった。
 沙悟浄はそれ以後も、自己および世界の究極の意味について尋ね歩くが、賢人たちの説くものはまちまちで、何を信じたらよいか混乱するばかりだった。
五年の遍歴のあとで、悟浄が見出したものは、賢くなった自分ではなく、さまざまなものを吸収したために、かえって空疎になった自分だった。目指す女偊に会えたのは、そんな混乱の果てのことだった。(続)
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by monsieurk | 2012-11-29 23:39 | | Trackback | Comments(0)

哲学小説(4)「わが西遊記」Ⅲ

 沙悟浄は文字が読めた。このことが彼の病の原因だというのが周囲の妖怪たちの意見だった。文字は人間の世界から伝わって、彼らの世界でも知られていたが軽蔑されていた。なぜなら文字は死物であって、そんなもので生きている知恵を書きとめられるはずがない。それは煙をそのままの形で手にすることができないのと同じで、愚かな考えだと信じられていた。文字を解することはかえって生命力の減退の徴候と考えられていたのである。沙悟浄がいつも憂鬱なのは、文字を解するせいだというのが妖怪たちの見立てだった。
 このように文字は評価されなかったが、思想は重んじられ、一万三千もいる妖怪のなかには哲学者も少なくなかった。彼らは流沙河の川底に店を張っていて、そのために川底には一種哲学的憂鬱がただよう気配だった。
 そうした哲学者たちのなかには、沙悟浄の病を耳にして、わざわざ彼の許を訪ねて来る者もあった。一人の聡明そうな怪物は、悟浄のむかって、「真理とはなんぞや?」と語りかけると、悟浄の返事も待たずに嘲笑を口の端に浮かべると去っていった。
また河豚の精である妖怪は、悟浄の病の原因が死への恐怖にあるとして、「生ある間は死なし。死至れば、すでに我なし。また何を懼れん」と託宣を述べた。だが沙悟浄の病の原因が死への恐怖ではないとわかると、失望して帰って行った。
 こうしたさまざまの意見を聞いても、悟浄の心の病は深まるばかりで、ついには肉体の苦痛にまでおよぶようになった。そこで彼は河底に住む賢人、医者、占星術師を訪ね歩いて、自分が納得できる教えを得られるまで遍歴しようと決意した。これは華厳経「入法界品」で、善財童子が教えを得ようと、人生を知り尽くした人びとを訪ね歩くのと同じである。
 沙悟浄が最初に訪ねたのは黒卵道人という幻術の大家だった。だが道人が口にするのは実用的な神変不思議な法術ばかりで、彼の病を直すのにはなんの役にも立たなかった。
次に訪ねたのは蝦〔えび〕の精である沙虹隠士である。腰が弓のように曲がり、河底の砂に半ば埋もれて生きている隠士は、「自己だと? 世界だと? 自己を外にしては客観世界など、在ると思うか。世界とはな、自己が時間と空間との投射した幻じゃ。自己が死ねば世界は消滅するわい。自己が死んでも世界が残るなどとは、俗も俗、はなはだしい謬見じゃ。世界が消えても、正体の判らぬ・この不思議な自己というやつこそ、依然として続くじゃろうよ」というが、これは悟浄の懐疑をますます大きくするだけだった。そして隠士はこの託宣を残すとすぐに死んでしまった。隠士はおそらく自分の死によって、客観世界を抹殺できることを喜んだと思われる。
 三番目は坐忘先生といった。彼は常に座禅を組んでいて、五十日目に一度目を覚ますだけで、あとは眠り続けている。悟浄が訪れたときも眠っていたが、悟浄は辛抱強く先生が目を覚ます日を待った。幸いにも四目に先生は目を開いた。悟浄はあわてて立ち上がると礼拝したが、先生の目には彼の姿が映じているのかどうかも定かでない。それでも意を決して、「先生、我とはなんでしょうか」と問うと、「時の長さを計る尺度が、それを感じる者の実際の感じ以外にないことを知らぬ者は愚かじゃ。人間の世界には、時の長さを計る機械ができたそうじゃが、のちのち大きな誤解の種を蒔くことじゃろう。大椿の寿も、朝菌の夭も、長さに変わりはないのじゃ。時とはな、我々の頭の中の一つの装置〔しかけ〕じゃわい」といった。
 座忘先生の言を信じれば、時間だけでなく、この世のすべてはそれを感ずる主体の主観に拠るもので、それ以外にはないということになる。先生はこれだけを言うと、また目を閉じてしまった。こうなったらまた五十日待たなくてはならなかったから、沙悟浄は眠りに入った先生に向かって恭しく頭をさげると、そこを立ち去った。(続)
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by monsieurk | 2012-11-27 23:29 | | Trackback | Comments(0)

哲学小説(3)「わが西遊記」Ⅱ

 沙悟浄はいうまでもなく中国の古典『西遊記』の副主人公である。
『西遊記』では、石から生まれた猿の孫悟空が、変化の術を学んで天上界で大いに暴れまわるが、お釈迦様の法力で五百年ものあいだ山の下敷きにされ、お経を求めて天竺へ行こうとする三蔵法師に救われてその弟子となり、豚のお化けの猪八戒、河童の精である沙悟浄と力をあわせ、ついに三蔵法師に三十五部五千四十八巻の経典を手にさせる波乱万丈の物語である。
 三蔵法師につき従う三人のうち、孫悟空は自らの力に自信をもつ自然人であり、猪八戒は人間的な欲望を体現している楽天家、沙悟浄はいつも傍観者の位置にいて、懐疑的な近代人の性格の持主である。中島敦はこの沙悟浄を自作の主人公として選んだ。
ただ『わが西遊記』で展開される思想は、中島の原体験にもとづくものであって、原作の『西遊記』の物語とは直接関係はない。その原体験とは、たとえば自伝的色彩の強い『狼疾記』に描かれたものである。
 「小学校の四年のときだったろうか。肺病やみのように痩せた・髪の長い・受持の教師が、ある日なにかの拍子で、地球の運命というものについて話したことがあった。いかにして地球が冷却し、人類が絶滅するか、われわれの存在がいかに無意味であるかを、その教師は、意地の悪い執拗さをもって繰返し繰返し、幼い三造達に説いたのだ。(中略)三造は怖かった。恐らく蒼くなって聞いていたに違いない。地球が冷却するや、人類が滅びるのは、まだしも我慢が出来た。ところが、そのあとでは太陽までも消えてしまうという。太陽も冷えて、消えて、真暗な空間をただぐるぐると誰にも見られずに黒い冷たい星どもが廻っているだけになってしまう。それを考えると彼はたまらなかった。それでは自分達はなんのために生きているんだ。自分は死んでも地球や宇宙はこのままに続くものとしてこそ安心して、人間の一人として死んでいける。それが、今、先生が言うようでは、自分達の生まれて来たことも、人間というものも、宇宙というものも、何の意味もないではないか。本当に、何のために自分は生まれて来たんだ? それからしばらく、彼は――十一歳の三造は、神経衰弱のようになってしまった。」(中島敦全集第一巻、筑摩書房、108頁。ただし新字新かなに変更)
 この体験は、主人公三造(幼い中島敦にほかならない)のうちに、人生の不確かさ、その偶然性についての不安を呼び起こさずにはいなかった。
「その正体が解らないが故にわれわれが恐怖の感情をもって偶然とよんでいるものが、ほんの一寸その動き方を変えさえしたら、そのような事が自分の起こらなかったと誰が言えよう。」(同、104頁)
 中島敦はこうした感情を沙悟浄に仮託して、小説的虚構のうちに表現しようとしたのである。彼は自らの内面的苦悩を、懐疑的で絶えず悩みに悩む沙悟浄と、その対極に悟空や八戒を置いて描いていく。
 沙悟浄の抱く懐疑は、周囲の妖怪たちにはどう思われているか。あるとき医者であり、占星術師であり、祈祷者でもある年老いた魚怪がやってきて、沙悟浄を因果な病にかかっていると見立てる。そして、この病にかかったが最後、百人のうち九十九人はみじめな一生を送ることになるという。こんな病は川の底に生きる妖怪たちのあいだにはなかったのだが、人間を喰らうようになってから、この病に取りつかれる者があらわれるようになった。
 ではこの病の特徴はなにか。「この病に侵された者は、すべての物事を素直に受取ることができぬ。何を見ても、何に出会うても、『なぜ?』とすぐに考える。究極の・正真正銘の・神様だけがご存知の『なぜ?』を考えようとするのじゃ。そんなことを思うては生き物は生きていけぬものじゃ。そんなことは考えぬというのが、この世の生き物の間の約束ではないか。」(同、293頁)
 とくに始末に困るのは、「俺とはいったいなんだ?」、こう考えはじめるのがこの病の一番悪い兆候で、この病には薬もなければ、医者も役に立たない。自分で治すよりほかはない、というのが魚怪のくだした診断だった。(続)
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by monsieurk | 2012-11-25 23:24 | | Trackback | Comments(0)

哲学小説(2)「わが西遊記」Ⅰ

 中島敦は日本の文学者としては珍しく、観念を小説に書いた人である。その代表作が、「わが西遊記」を総題とする『悟浄出世』と『悟浄歎異』で、作者が直面した「懐疑」をテーマにすえ、それを小説という具体的表現に結晶させた。これはジャン=ポール・サルトルの『嘔吐』(La Nausée、1938年)がそうであるように、まさしく哲学小説と呼ぶべきものである。
 「わが西遊記」は、単行本『南海譚』(今日の問題社、1943年)にはじめて発表されたが、実際に執筆された時期を確定する手立てはない。ただ昭和16年(1941年)5月8日付の中西ニ郎宛ての葉書で、「西遊記(孫悟空や八戒の出てくる)を書いてゐます。僕のファウストにする意氣込なり。どうして支那、日本の文學は此の材料に目をつけなかつたのかな?」とあり、また6月には、就職のために南洋へ行く直前に、第一高等学校の先輩である深田久弥の家を訪れたが、深田が留守だったために、「南洋へ行く前に書き上げようと思つて、西遊記(孫悟空や八戒の出てくる)を始めてゐますが、一向にはかどりません」と書置きを残した。こうした資料から、昭和17年(1942)年5月には、「悟浄出世」と「悟浄歎異」が最終的な形できあがったと推定される。
 『悟浄出世』の書き出しはこうである。
「そのころ流沙河の河底に栖んでおった妖怪〔ばけもの〕の総数およそ一万三千、なかで、渠〔かれ〕ばかり心弱きはなかつた。渠に言はせると、自分は今までに九人の僧侶を啖〔く〕った罰で、それら九人の骸顱〔しゃれこうべ〕が自分の頸の周囲について離れないのだそうだが、他の妖怪等には誰もそんな骸顱は見えなかった。「見えない。それは倆〔おまえ〕の氣の迷いだ」と言うと、渠は信じがたげな眼で、一同を見返し、さて、それから、なぜ自分はこうみんなと違うんだろうといったふうな悲しげな表情に沈むのである。他の妖怪らは互いに言合うた。「渠は、僧侶どころか、ろくに人間さへ咋〔く〕ったことはないだろう。誰もそれを見た者がないのだから。鮒やざこを取って喰っているのなら見たこともあるが」と。また彼らは渠に綽名して、獨言悟浄と呼んだ。渠が常に、自己に不安を感じ、身を切刻む後悔に苛まれ、心の中で反芻されるその哀しい自己呵責が、つい独り言となって洩れるがゆえである。遠方から見ると小さな泡が渠の口から出ているにすぎないようなときでも、実は彼が微かな声で呟いているのである。「俺はばかだ」とか、「どうして俺はこうなんだろう」とか、「もうだめだ。俺は」とか、ときとして「俺は堕天使だ」とか。(中略)
 事実、渠は病氣だつた。
 いつのころから、また、何が因〔もと〕でこんな病氣になったか、悟浄はそのどちらも知らぬ。ただ、気がついたそのときはもう、このような厭はしいものが、周囲に重々しく立罩〔たちこ〕めておった。渠は何をするのもいやになり、見るもの聞くものが凡て渠の気を沈ませ、何事につけても自分が厭わしく、自分に信用がおけぬようになってしもうた。何日も何日も洞窟に籠って、食も摂らず、ギョロリと眼ばかり光らせて、渠は物思いに沈んだ。」(中島敦全集第1巻、筑摩書房、291-292頁。ただし漢字の一部をひらき、新字新かなとした)
 中島は「西遊記」の主人公の一人、沙悟浄に託して自分の苦悩を語ろうとする。(続)
 
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by monsieurk | 2012-11-23 23:30 | | Trackback | Comments(0)

哲学小説(1) 嘔吐

 これまで多くの小説を読んだが、大きな影響を受けた作品の一つは、高校時代に出会ったフランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルの小説『嘔吐』(La Nausée「吐き気」)である。それ以来ことあるごとに再読、三読してきた。
 『嘔吐』が刊行されたのは1938年で、これを最初に翻訳した白井浩司は、その経緯を次のように述べている。
 「NRF誌の広告欄にサルトルの最初の長編小説『ラ・ノーゼ』の近刊予告が載ったのはいつのことだったか。忘れもしない一九三八年の初夏、三田の、いまで言えば八角塔のある旧図書館の前で、私は、佐藤朔氏に呼びとめられた。『きみ、丸善にラ・ノーゼが入っているよ』私は、授業に出席するのをやめて丸善に直行し、たった一冊残っていたラ・ノーゼ、すなわち私が『嘔吐』と訳する小説を買い求めた。丸善の洋書部では、見込み注文は三冊ときまっていたので、他の二冊は、春山行夫氏と佐藤朔氏の手に渡っていた。……一年以上かかって漸く完訳した『嘔吐』の原稿を原書とともに高橋〔広江〕教授に預けておいたところ、開戦日を少しすぎて創刊された雑誌「文化評論」に最初の部分が私の名前で掲載された。高橋教授の朱筆が入っているのにも拘らず、共訳ではなく、個人訳で発表して下さったのである。翌月に発行された第二号の雑誌に続編が載ったが、雑誌はその号で休刊となり、全訳は日の目を見なかった。」(「『嘔吐』との関係」)
 白井浩司訳の『嘔吐』は、戦後の1950年に京都の青磁社から出版された。この時すでにサルトルの名前は、哲学の主著『存在と無』とともに急速に高まり、日本でも前年に伊吹武彦氏の翻訳で短編の『水いらず』や『壁』が矢継ぎ早に出版されていた。哲学的な主題を盛った『嘔吐』(フランス語のタイトルNauséeは「吐き気」である)は、読書界に衝撃を与え、ゴンクール賞の候補にもなった。
 アントワーヌ・ロカンタンという中年の孤独な歴史研究家の内省の記録という形をとる『嘔吐』のテーマは、一人の人間の自己解体の危機である。アントワーヌは人間を「実存」として認識しようとすると、決まって生理的な吐き気に襲われる。この吐き気のきっかけとなるのは、ぐにゃぐにゃしたものの触覚や視覚である。たとえば拾い上げた小石の裏側、露出した木の根、泥水に落ちた紙切れなどを目にした瞬間に吐き気が襲ってくる。
 これらはすべて堅固なものの裏側にあるもので、アントワーヌはこれまで信じてきた堅固な世界が解体する瞬間、その裂け目が露出する瞬間に激しい吐き気を覚えるのである。
 これは一般に信じられているように、哲学から得た観念のイメージ化の結果ではなくて、サルトルのある原体験の反映であった。サルトルは詩人のボードレールについて、「彼は蛇口から流れる水や、石で固められた溝のなかを流れる水以外のものを嫌悪した」と書いているが、同じ生理的傾向がサルトル自身にもあったのである。
 パリのブルジョア家庭に育った彼らは、石造りの壮麗な街並みや堅固なものに囲まれて幼児期を過ごした。すべては秩序のなかに収まっていて当然だった。吐き気はこうした堅固で、秩序正しいものが崩壊するとき襲ってくる。これまでは意味をもつものとして、意識に映じていたものが、その本来の偶然性、無償性、醜悪さを突然むき出しにする瞬間である。モノは私の「意識」の外にあって、私の意識とは無関係に存在することを突きつける。モノのなかでも、机、花壜、書物といった、人間の手になり、生活に役立つもの(つまり人間にとってある意味をもつもの)には、さほど吐き気を覚えないのはそのためである。
 サルトルは『想像力』(1936年)などの哲学的著作のなかで、こうしたモノを「即自存在(l’être en soi)」と呼び、意識(「対自存在(l’être pour soi)」と対比しつつ、その本質を定義した。
 『嘔吐』は「偶然性の弁駁書」と題されたように、最初はエッセーとして構想されたが、ボーヴォワールの勧めで小説の形で書かれることになり、何度も推敲を重ねた上で完成した。つまりこの作品は、哲学的テーマを小説にしたのではなく、ある根源的な体験を解明する過程を小説という形式で表現したものなのである。
 『嘔吐』の主人公アントワーヌは、自己を救済するために小説を書こうと決心する。こうしてプルーストの『失われた時を求めて』を思わせる結末で小説は終わるが、小説の『嘔吐』は揺るぎないと思われた世界が、第二次大戦によって崩壊する現実を生理的に表現しているともいえる。
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by monsieurk | 2012-11-21 23:30 | | Trackback | Comments(0)

中国語熱

 中国ブームは世界的な現象で、フランスも例外ではない。
 フランスの中等教育は、日本でいえば中学校と高等学校のレヴェルに相当し、学生はこの段階で、国語つまりフランス語の他に、第一外国語と第二外国語が必須である。フランスの英語教育は、いまは小学校2年生のときからはじまるので、2009年の統計を見ると、第一外国語は、学生の97.7%が英語を選択する。
 英語が世界の共通語なのはまぎれもない事実で、世界に支店を持つフランス資本の企業でさえ、社内の共通語をフランス語ではなく、英語としているところが圧倒的に多い。第一外国語に英語を選ぶのはこうした現実の反映だが、第二外国語はどうかといえば、1位がスペイン語の39.7%である。スペイン語はフランス語と同じくラテン語から派生した言葉だから、習得が比較的やさしく、スペインはもとより南米など多くの人たちがスペイン語を用いているから、スペイン語を話せれば便利だという実用的な側面が背景にある。次がドイツ語の15.4%。3位がイタリア語で4.2%。そして第5位がなんと中国語である。
 中国語を選択する学生はこのところ急増していて、2001年にはフランス全国で6,000人ほどだったものが、2007年には21,000人、2009年には25,685人の学生が中国語を学習している。パーセンテージとしては0.4%と、イタリア語の10分の1だが、アルファベットを使うポルトガル語やロシア語の上をいき、全国で485の高等中学校で中国語が教えられている。中国語の教師も388名と、2004年の135名から3倍に増えている。
 フランスではマンガが読まれるなど一種の日本ブームがあることは、以前のブログ(「Manga」、2011.07 .23 )で紹介した通りで、いまやフランスの地方都市でも本屋には日本のマンガ・コーナーがある。さらにブームはマンガだけでなく、日本の若者ファッションに関心が集まっている。そのために日本語を学びたいという若い人たちが増えているのは事実だが、日本語を正規の授業とし教えている学校はまだまだ少ない。
 外国に自国語を普及する機関としては、イギリスのBritish Council、ドイツのGoethe Institut、そしてフランスのAlliance françaiseなどが有名だが、中国もConfucius Institut(孔子学院)を世界中につくって、中国語の普及に努めている。これはHanbanという北京に本部がある、世界に中国語を普及する目的の組織「中国語国際協議会」が出資しているもので、フランス全国にすでに12校あり、一番新しいものは南フランスのトゥールーズに最近オープンした。
 Hanban、「中国語国際協議会」は、毎年1000人以上の中国語の教師を海外に送りだしていて、アメリカ、ヴェトナム、タイ、韓国などから講師の派遣要請が多いという。この他、最近では400人のアメリカ人の中国語教師が協議会の資金で中国に招待され、フランスからはここ毎年間25人の中国語の教師の一行が招待されているという。こうしたところにも、経済発展の著しい中国の気込みが感じられる。
 この点は日本文学の海外普及のための翻訳事業に出していた基金を取りやめにし、日本語の普及を民間の努力に頼っている日本とはおよそ逆である。言葉は文化の根幹をなすものであり、その普及は大きな意味を持っている。フランスにおける日本語の普及では、高等教育機関「東洋語学校」に教師を派遣して、これまでは優秀な日本語や日本文化の研究者が育ってきたが、中学校や高等学校のレヴェルで日本語を普及させるための日本側の協力が必要がある。ちなみにトゥールーズの、日本人が経営するフランス料理のレストランでは、「トゥールーズ日本人協会で日本語を教えます」という小さなアナウンスメントを見かけた。
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by monsieurk | 2012-11-19 23:30 | フランス(教育) | Trackback | Comments(0)

Kafu

 フランスにおける日本文学の翻訳、紹介がどれほど進んでいるか、ひとつの例をあげてみよう。以下は新書版の本の裏表紙に書かれた紹介文である。
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 Un original, séduit par le charme d’une ancienne maison de rendez-vous, l’achète et y fait quelque travaux. Il découvre, en grattant le papier d’origine des cloisons coulissantes, l’existance d’un texte écrit serré. Piqué par la curiosité, il se met à le déchiffrer et nous offre le récit d’une nuit passée avec une geisha.

 (ある数寄者が出会い茶屋の古屋の魅力に誘われて、それを買い取り、若干の修理を施した。その折、もともとの襖紙をはがしたところ、そこに原稿が張り込んであるのを見つけた。彼は好奇心からそれをはがして、芸者とすごした一夜の物語を、私たちに提供してくれたのである。)

 これが何の翻訳であるか、もうお分かりだと思う。そう、永井荷風作とされる『四畳半襖の下張』(翻訳のタイトルは、“Le Secret de la petite chambre”「小部屋の秘密」)である。この本にはもう一篇芥川龍之介作とされる“La Fille au chapeau rouge”「赤い帽子の女」も収録されている。
 訳者はElisabethe SuetsuguとJacques Lalloz。出版社はEditions Philippe Picquier、2002年の刊行である。本の紹介を兼ねたイントロダクションをHiroshi Suetsuguが書いており、Elisabetheの連れ合いと思われる。Suetsuguの紹介によれば、のちに『四畳半襖の下張』とされる原稿が最初に世にあらわれたのは1940年のことで、著者に近い人物が、これをひそかに複写して数冊を古書店に持ち込んだ。1947年になって、2つの出版社(Hachisuba ShoboとSankidô Bunko)がこれを印刷して、荷風の愛好家だけに秘密に販売した。だがその後、秘密出版を手がける他社がこれを大量に印刷販売したために官憲の知るところとなり、翌1948年(昭和23年)5月、出版社が摘発され、永井荷風も警視庁の事情聴取を受けた。
 『断腸亭日乗』、5月7日の記述。「晴。東京朝日新聞に余の旧作襖の下張を秘密に印行せしもの警視庁に拘留せられし記事出づ。午前中買物に出でし後凌霜子来訪。余の帰るを待つ。ついで小瀧氏来る。市川署の巡査来りて即時警視庁へ出頭すべしと言う。主人小西氏余に代り小瀧氏と共に警視庁に行く。黄昏相携えて帰り来り事決して重大ならず来週月曜日係の刑事来りて調書を示すべしとなり。二君の親切寔に謝すべし。」
 この日荷風は病気と称して代理人の小西茂也(フランス文学者で荷風の下宿先の主人)と小瀧穆の両名が警視庁を訪れて事情を説明したが、当局は納得せず、10日月曜日の午前中に、警視庁の渡邊允夫警部と東景利警部補のふたりが荷風の市川の寓居を訪ねて事情を聴いた。
 秋庭太郎著『考証 永井荷風』(岩波書店)によると、荷風の没後の1959年(昭和34年)5月24日発行の『週刊明星』に渡邊警部がこのときの模様を詳細に述べているという。聴取は4時間ほど続き、荷風ははじめの部分はおおよそ自分が書いた文章だが、後は他人のもので自分は知らないと述べたという。だが聴取書に署名するとき、荷風のブルブル震えていたという。彼らはこれを書いたのは荷風であるとの心証を持っていたが、彼の人柄に免じてそれ以上の追及をしなかったという。荷風は「四畳半襖の下張」というタイトルの短篇を、雑誌「文明」(大正6年)に発表しているが、これは戯作を志す主人公がさまざまな経験をへて、最後に置屋の主人におさまるという筋で、問題の作とは別物である。
 月刊誌「面白半分」の編集長だった作家野坂昭如は、同誌1972年7号に、『四畳半襖の下張』を復刻掲載した。これが刑法175条の「猥褻物販布罪」にあたるとして、野坂と出版社社長の佐藤嘉尚は起訴された。これがいわゆる「四畳半襖の下張裁判」である。
 被告側は丸谷才一を特別弁護人に選任して、著名な文学者が次々に証人として出廷し出版の自由を訴えた。だが一審、二審ともに有罪。最高裁は最終的に二審を支持して、二人は罰金刑に処せられた。
 はたしてこの作品は猥褻かどうか。フランス語訳の一節を引用してみる。

・・・Nos chairs nues étaient collées l’une contre l’autre, les pointes de ses seins chatouillaient ma poitrine. Elle avait la moniche en feu et n’en pouvait plus d’attendre : encore un peu de patience et elle mourrait de plaisir. Je retenais ma respiration, j’avalais ma salive, et je tentais de détouner mes pensées de mon plaisir car, au point où j’en étais, je voulais la conduire au plus haut degré de la volupté. Il me fallait aussi jaillir, sans précipitation toutefois・・・D’un mouvement, je redressai la femme en la prenant par les aisselles et l’installai sur mes genoux. Tandis que je la pénétrais avec force, ma main partit à la conquête du bouton rose, le pouce de celle qui lui soutenait les fesses effleura l’orifice noir, fit mine d’entrer, puis s’enfonça à plusieure reprises. La femme gémissait d’une voix plaintive, comme si elle allait mourir, et me suppliait : “Je n’en peux plus, je vais jouir ! Je vous en prie, venez vous aussi ! Je t’en supplie, viens! ”Elle me criait d’avoir pitié d’elle, de lui faire grâce, à tout le moins d’abandonner un endroit sur trois que j’assaillais de front. Ses cheuveux étaient épars, son corps se tordait, elle gémissait. De mon côté, je n’étais plus maître de moi. La femme était revenue sur mes genoux et elle criait:“Je vais encore jouir, oui ça y est ! ”Sa rosée m’inonda pour la seconde fois. Puisque j’avais réussi à la faire jouir, je n’avais plus rien regretter et j’éclatai à mon tour, en douceur.

 これを読んで興奮を覚えた人は、ご自分のフランス語に少しは自信をもっていい。なお荷風作とされる原文は、雑誌「新潮45」の2010年10月号にも収録され、女性ナレーターが朗読するDVDまで付録についている。
 その後、古書で「四畳半襖の下張」を購入した。文庫本の大きさで、表紙の縁取りは岩波文庫の柄と同じ。本文は袋とじの27頁で、出版元は「刊行会」とあり、出版年月日はない。地下出版の一種と思われる。
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by monsieurk | 2012-11-17 23:00 | | Trackback | Comments(0)

評伝「ミシマ」続

 三島由紀夫の生涯をある意味で決定づけた事態は昭和20年2月に起きた。このとき三島は二十歳で、東京帝国大学法学部の学生だった。『仮面の告白』にはこう書かれている。
 「たまたま〔勤労動員先の工場の〕休日にかえった自宅で、私は夜の十一時に召集令状をうけとった。二月十五日に入隊せよという電文だった。
 私のようなひよわな体格は都会ではめずらしくないところから、本籍地の田舎の隊で検査をうけた方がひよわさが目立って採られないですむかもしれないという父の入知恵で、私は近畿地方の本籍地のH県で検査をうけた。農村青年たちがかるがると十回ももちあげる米俵を、私は胸までももちあげられずに、検査官の失笑を買ったにもかかわらず、結果は第二乙種合格で、今又令状をうけて田舎の粗暴な軍隊へ入隊せねばならないのであった。母は泣き悲しみ、父も少なからず悄気ていた。令状が来てみるとさすがに私も気が進まなかったが、一方景気のよい死に方の期待があるので、あれもよしこれもよしという気持ちになった。ところが工場で引きかけた風邪が行きの汽車の中で募って来、祖父の倒産以来一坪の土地もない郷里の、昵懇な知人の家に到着すると、はげしい熱で立っていることも叶わなかった。しかしその家の手厚い看護と、なかんずく多量に嚥んだ解熱剤が利目をあらわしたので、私は一応威勢よく人に送られて営門をくぐった。
 薬で抑えられていた熱がまた頭をもたげた。入隊検査で獣のように丸裸にされてうろうろしているうちに、私は何度もくしゃみをした。青二才の軍医が私の気管支のゼイゼイいう音をラッセルとまちがえ、あまつさえこの誤診が私の出たらめの病状報告で確認されたので、血沈がはかられた。風邪の高熱が高い血沈を示した。私は肺浸潤の名で即日帰郷を命じられた。」(『仮面の告白』、新潮文庫、112-113頁)
 この記述は伝記的事実をほぼそのまま踏襲していて、三島は入隊にあたって遺言書を書き、その写真が公表されている。

       遺言         平岡公威 印

一、御父上様
  御母上様
  恩師清水先生ハジメ
  學習院 並ニ東京帝国大學
  在學中薫陶ヲ受ケタル
  諸先生方ノ
  御鴻思ヲ謝シ奉ル
一、學習院同級及諸先輩ノ
  友情マタ忘ジ難キモノ有リ
  諸子ノ光栄アル前途ヲ祈ル
一、妹 美津子 弟 千之ハ兄ニ代リ
  御父上、御母上ニ孝養ヲ盡シ
  殊ニ千之ハ兄ニ續キ一日モ早ク
  皇軍ノ貔貅トナリ 〔貔貅:ヒキュウ、勇猛な将卒〕
  皇恩ノ万一ニ報ゼヨ

 天皇陛下萬歳 

 三島は前年9月、学習院高等科を首席で卒業し、天皇から恩賜の銀時計を拝領した。後日そのお礼に校長につれられて皇居を訪れ、天皇に拝謁していた。
 こうして遺書まで認めた三島だったが、虚弱な体質のゆえに入隊を許されなかったのである。このことは彼にとって屈辱であり、深く傷ついたことは想像に難くない。評伝を書いたジェニフェール・レシュールは、この出来事を次のようの要約している。
 「公威は型にのっとった遺書を残して出発する。それをすすり泣きしながら見送った倭文重〔母親〕は、仏壇の前に座り込んで一心に祈っていた。平岡親子は出頭の前夜に本籍地の兵庫県志方に到着する。
 風邪をひいていた公威の具合は翌日になると悪化し、入隊検査で屈強な農民たちに混じって丸裸のまま列を作っているときには、高熱を発し咳を繰り返していた。軍医から肺の既往症のある者は挙手をするように言われたので手を挙げたところ、結核による肺浸潤の診断が下される。軍務不適格、即日帰郷。別室で軍曹から、さぞ残念であろうが今後は銃後にあって常に第一線にいる気魄をもって尽忠報国にはげむように、といった訓示を長々と受けた公威が営門から出てくると、梓〔父親〕は息子の手を取るようにして一目散に兵営から逃げた。誰かが追いかけてきて、さっきのは間違いだ、立派な合格だ、おめでとう、などと言ってくるのではないか気が気ではなかった。
 家に帰ると、家族全員が大喜びだった。だが公威本人は何の感情も面にあらわさなかった。」(ジェニフェール・ルシュール『ミシマ』、65-66頁)
 三島が安堵と屈辱がない交ぜになった気持を味わったこの日から、1970年11月25日まで線を引いてみると、三島の行動のことごとくがこの直線上に並んでいるように見える。華麗な文学作品の数々、ボデービルによる自らの肉体の改造(ただ160センチという身長はどうしようもなかった)、剣道への打ち込み、裸体の写真集、映画主演、自衛隊への入隊体験、・・・文学の道では、優れた英訳者やアメリカの有力出版社と積極的にかかわりを持ち、晩餐会を開いて外国人記者を招待した。そのおかげで英語の翻訳が多く出版され、英米の有力紙は三島特集を組み、1965年から68年まで毎年ノーベル文学賞の有力候補と目された。だが皮肉なことに、彼が推薦文を書いた川端康成が1968年10月、日本人作家として初のノーベル賞を受賞したことで、三島のチャンスは潰えた。民族派学生を集めた「楯の会」は、奇しくも同じ月に結成されている。
 そして最後の作品となった大作『豊饒の海』の第一巻『春の雪』の刊行が1969年1月、第二巻『奔馬』が同2月、第三巻『暁の寺』、1970年7月。第四巻『天人五衰』の連載最終回の擱筆は事件当日とされていた。この日の午前中に、新潮社の編集者が取りに行くと、原稿は分厚い封筒に入って目につくところに置いてあった。
 清書された原稿の最後は、
 「・・・数珠を繰るやうな蝉の声がここを領してゐる。
 そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めてゐる。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところ へ、自分は来てしまつたと本多は思つた。
 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんといてゐる。

                       「豊饒の海」完。
                    昭和四十五年十一月二十五日」
 となっていた。軍人不合格の日からはじまった、三島の25年目の心境を映しているようである。
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by monsieurk | 2012-11-15 23:49 | | Trackback | Comments(0)

評伝「ミシマ」

 フランスの老舗出版社「ガリマール」は、新書版評伝シリーズ(Collection《Folio Biographies》)を出している。このシリーズの一冊として、“Jennifer Lesieur:Mishima”が刊行されたのは2011年で、このたびその邦訳が、ジェニフェール・ルシュール著 / 鈴木雅生訳『三島由紀夫』として祥伝社から出版された。フランス語原著が出版されたときの広告文は次のようなものであった。
「《私が閉じ込められているこの恐ろしい状態が一体何を意味するのか、私自身わからない、ただいえるのは、私は神の操り人形のように無頓着に行動しているということだ。》
 ミシマ・ユキオ、本名ヒラオカ・キミタケ(1925-1970)は、24歳のときに最初の自伝的作品『仮面の告白』を刊行するや、有名になるとともにスキャンダルを惹き起こした。多くの変化に富む著書の作者である彼は、40篇あまりの長篇小説、エッセー、戯曲、芝居、旅行記、短篇小説を発表した。才能豊かな作家、危険なイデオローグ、ナルシストの反逆者、贖罪の意識にとりつかれた不適応者? ミシマの顔は幾つもの仮面で覆われているが、ジェニフェール・ルシュールは、それを一つ一つ剝いでいく。ミシマは今日もなお多くの日本人にとって、毒をもった人物でありつづけている。彼は自分の命を詩に変えることを望むと語り、人間の存在を有限なものとみなし、永遠の生を得たいと告白していた。そして1970年11月25日、栄光の頂点にあったとき自死した。切腹のあと、仲間に斬首された。」
 ガリマールの新書版評伝シリーズは、ルイ16世やド・ゴールなど歴史上の人物をはじめ、各時代、各分野の人たちの評伝を350頁ほどで紹介し、その簡潔さが人気を呼んでいる。文学者で取り上げられているのは、スタンダール、ユゴー、ボードレールにはじまり、ロシア文学のチェーホフ、スペインのガルシア・ロルカ、イギリスの女性作家ヴァージニア・ウルフなど多彩な顔ぶれである。そんななか日本人の作家は三島由紀夫だけで、英仏語の翻訳が一番多く、愛読者も多いことの証である。
 著者のルシュールは1978年生まれの女性ジャーナリストで、パイロットだった父親と世界を旅し、タヒチで思春期をすごした。フランスに戻るとソルボンヌ(パリ第四大学)で現代文学を専攻。卒業後ジャーナリズムの世界でキャリアを積み、アメリカ人作家ジャック・ロンドンについてフランス語で書かれた最初の伝記で、2008年のゴンクール賞伝記部門の賞を得た。2010年には、アメリカの女性飛行家アメリア・イアハートの評伝を発表した。それに次ぐ作品がこの『ミシマ』である。
 日本語の出来ない彼女はこれを書くにあたって、英仏語に翻訳された三島作品とともに、英語で書かれた2冊の伝記、John Nathan:Mishima, A Biography(Little, Brown and Company, Boston, 1974) と、Henry Scott Stokes:The Life and Death of Yukio Mishima(Owen, London, 1975) から多くを得ている。これらの2作の著者は生前の三島と親交があり、作品の翻訳も行っているが、彼らの評伝の特徴は、日本人の三島論に比べて客観的な姿勢を保ちえている点である。
 私たちにとって三島の存在は、文学的成果とともに、1970年11月25日に起こった、自衛隊市ヶ谷駐屯地への乱入と自決、いわゆる「三島事件」と切っても切れないものである。ルシュールも「市ヶ谷の悲劇」の章でこの事件を取り上げているが、その姿勢はあくまで事実の紹介にとどめ、それが私たち日本人にあたえた衝撃に関する記述は最小限にとどめるなど、三島の文学と生涯を事実に沿って紹介している。
 訳者の鈴木雅生は、「三島が生きた時代を自らの身をもって生きた世代の日本人の論者にとって、三島は何よりもまずある種のカリスマ性を備えた一個の生身の人間である。彼らが共感と共にであれ反感と共にであれ、三島について語る際には、あまりに身近すぎて近視眼的な見方に囚われてしまう傾向が濃く見られる」と述べているが、外国人が書いた3冊の三島論はこうした傾向を免れていて、対象との距離に余裕があるのが特徴である。
 私は高校時代に『仮面の告白』を読んで感動し、『金閣寺』では、金閣寺に火をつける主人公、徒弟僧林承賢の、「美は・・・美的なものはもう僕にとっては怨敵なんだ」という告白に衝撃をうけた。だが三島のその後のイデオロギッシュな言動に、60年安保闘争に加わった者として違和感をおぼえ、次第に遠ざかっていった。
 そんな三島の存在が突然クローズ・アップされたのは、1970年11月25日だった。当時、新橋・内幸町にあったNHKの外信部に勤務しており、通信社が至急報で、三島由紀夫たち「楯の会」の5人が市ヶ谷の自衛隊駐屯地で、益田兼利総監を人質にして立て籠もったという情報を流してきた。正午近くテレビが自衛隊からの映像を伝えはじめた。外信部勤務の身としては現場に行くこともならず、中継に見入るほかなかった。歯がゆい思いだった。テレビ中継は当時麹町(赤坂プリンスホテル旧館の隣、現在NHK千代田会館のある場所)にあった日本テレビが一番早かったと記憶する。
 やがて正午丁度、「楯の会」の制服姿の三島が二階正面のバルコニーに姿を見せ、集まった自衛隊隊員たちを前に演説をはじめた。だがその声は野次や上空のヘリコプーの騒音にかき消されて、よく聞き取れなかった。やがて姿を建物のなかに姿を消した三島は切腹し、隊員の森田と古賀の介錯で落命した。この日の朝日新聞の夕刊には、三島と後を追った森田の首が片隅に写った写真が掲載された。朝日のカメラマンが総監室の廊下に面した天窓からカメラを差し入れて撮影したものだった。
 三島は前日の24日、友人のNHK記者伊達宗克とサンデー毎日の徳岡孝夫に電話をかけ、翌25日11時に自衛隊駐屯地の隣にある市ヶ谷会館へ、社の腕章をもってきてほしいと伝えた。理由は明かさなかった。さらに新潮社の編集者小島喜久江には、翌日10時半に自宅へ、『天人五衰』の最終稿を取りに来るように連絡していた。
 伊達と徳岡は約束の時間に市ヶ谷会館へ出向くと、「楯の会」の隊員田中健一が両者を確認した上で、三島から託された封筒を手渡した。なかには記念の写真、檄文のコピー、それに手紙が入っていた。檄文は自衛隊のバルコニーから撒かれたものと同じで、手紙には、檄文と写真を同封するのは警察の没収を恐れるからで、自由に発表してもらって構わないが、全文を発表してほしい。自分たちの企てが成功するかどうかはわからない。傍目には狂気の沙汰に見えるかもしれないが、自分たちは純粋な愛国の情から行動を起こすのであって、願うのはその真意が正しく世間に伝わることだと書かれていた。
 先輩の伊達記者は旧宇和島藩主伊達家の一族で、当時宮内庁を担当していた。私が三島からの私信の内容を知ったのは、氏から後日、個人的にコピーをもらったからである。いまもの書棚のどこかにしまってあるはずである。
 三島は決起をいつごろ決意したのか。1968年、フランスの「五月革命」に端を発し変革の波は世界に波及し、日本でも全共闘の反体制が盛り上がりをみせた。三島がこれに事態が切迫しているのを感じたとしても不思議ではない。彼は1969年(昭和44年)8月4日付で、下田東急ホテルから川端康成に宛てて暑中見舞いを出したが、その一節にはこう書かれている。
 「ここ下田に十六日までゐて、十七日には、又自衛隊へ戻り、二十三日迄自衛隊にゐて、新人会員学生〔楯の会〕の一ケ月の訓練の成果に立ち会う予定であります。ここ四年ばかり、人から笑はれながら、小生はひたすら一九七〇年に向つて、少しづつ準備を整へてまゐりました。あんまり悲壮に思はれるのはイヤですから、漫画のネタで結構なのですが、小生としてはこんなに真剣に実際運動に、体と頭と金をつぎ込んで来たことははじめてです。一九七〇年はつまらぬ幻想にすぎぬかもしれません。しかし、百分の一でも、幻想でないものに賭けてゐるつもりではじめたのです。・・・
 ますますバカなことを言ふとお笑ひでせうが、小生の怖れるのは死ではなく、死後の家族の名誉です。小生にもしものことがあつたら、早速そのことで世間は牙をむき出し、小生のアラをひろひ出し、不名誉でメチヤクチヤにしてしまふやうに思はれるのです。生きてゐる自分が笑はれるのは平気ですが、死後、子供たちが笑はれるのは耐へられません。それを護つて下さるのは川端さんだけだと、今からひたすら便〔ママ〕りにさせていただいております。」(『川端康成 / 三島由紀夫 往復書簡』、新潮社、1997年)
 頼りにされた川端康成も、事件から1年半後の1972年4月16日夜、ガス管を咥え自殺してはてた。ルシュールの新書版評伝『三島由紀夫』は、三島由紀夫の生きざまを直接知らない若い世代の人たちにとっては、格好の入門書となるはずである。
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by monsieurk | 2012-11-13 23:30 | | Trackback | Comments(0)

パリの胃袋

 前回のブログで触れたパリ1区のレ・アル地区(les Halls)には、巨大なショッピング・センター、「フォーラム・デ・アール(Forum des Halls)」があり、地下5階レヴェルは3本のRER(郊外高速鉄道)と5本のメトロが乗り入れている交通の要で、毎日15万人の買い物客が訪れ、80万人がここを通過する。だが1969年、この地区の大改造計画が決まるまでは、ここにパリ市民の食欲をみたすための中央市場があったのである。
d0238372_22351068.jpg 歴史はシテ島に建つノートルダム寺院の建設よりも前にさかのぼる。1135年、「シャンポノ」と呼ばれる沼地だったこの場所に、ルイ6世(太っちょルイ)によってパリで最初の市場が設けられた。さらに1534年には、フランソワ1世が市場の周囲に柱を建てて屋根で覆い、本格的な屋内市場が出現した。このとき建てられた柱は1854年までそのまま使われていた。
 時代は下って18世紀になると、カミュ・ド・メジエールによって小麦市場(現在の証券取引所)が建設され、1789年の大革命のあとには、ジャック=ギヨーム・ルグランとジャック・モリノスの手で、イノサン修道院を解体した跡地に布地をあつかう市場がつくられた。
 そして1851年12月、共和制を否定してクー・デタを決行し、権力の座についたルイ・ナポレオンは、翌年の国民投票で圧倒的な支持を得てナポレオン三世として皇帝に即位した。それ以後20年にわたって第二帝政が続くが、この間フランスでも産業革命が進行し、都市への人口集中が進んで、パリは過密状態を呈した。それにもかかわらずパリの都市機能は中世以来さほど変わらず、不衛生、水不足、さらには犯罪の増加に苦しんでいた。
 こうした環境を変えるべく、ナポレオン三世はオスマンを県知事に任命し、道路や上下水道の整備など、パリの大改造に乗りだした。新しい中央市場建設もその一環で、建築家バルタールに、鉄骨とガラスでおおわれた10棟のパヴィリオンの建設を命じたのだった。ナポレオン三世はこのとき、「余に傘を・・・鉄以外のなにものでもない傘をつくれ」と言ったという。時代は鉄を用いた建築のブームで、東駅やセーヌ河畔のグラン・パレ、プティ・パレもこの時代に建てられたものである。
こうして誕生した中央市場は場所の名をとって「レ・アル」と呼ばれ、学問の中心である左岸のカルティエ・ラタンと同様に、中世以来同じ場所にあってパリ市民の胃袋を満たす役割をはたしてきた。  かつての中央市場の雰囲気を活写したのが、エミール・ゾラ(Ēmile Zora)の小説『パリの胃袋(le Vente de Paris)』(Charpentier et Cie、1873年)で、ゾラの連作「ルーゴン=マッコール叢書」の第3巻にあたる。小説の舞台はこの中央市場で、ここには活気と喧騒にみちていて、牛肉、豚肉、家禽、魚、野菜、果物、チーズなど各国各地からありとあらゆる食材が集まってくる。
 そうした市場に一人の痩せ細った若者が入り込む。彼はフロランといい、1851年のルイ・ナポレオンのクー・デタの折、無実の罪で南米ギアナに流され、苦難の末に脱走に成功してパリにもどって来たのである。異父弟クリュの世話で市場で働くようになり、やがて海産物部門の監督官になる。
 市場で働く人たちは彼の素性を知らぬまま最初は暖かく迎えるが、やがてその行動を胡散臭く思うようになり、隙あらば追い出そうとする。理想の共和国を夢見るフロランは、現状に満足し、生活を守ることに汲々としている周囲の人びとの敵意に苦しむあまり、第二帝政そのものの転覆をくえわだてる政治的陰謀に加担するようになる。・・・
 ゾラはこうした物語を、中央市場を背景に描いた。たとえばこんな一節がある。フロランがクリュの妻で美人の誉れ高いリザを見つめるシーンである。
 「今リザはカウンターのうえの肉越しに見えていた。前には白い陶器の皿が並べられ、そのうえにアルルやリヨンのソーセージの切りかけ、牛の舌、塩漬けにして煮た豚肉、ゼリー寄せにした豚の頭肉、開いたリエットの壺、蓋があいてたっぷりの油をみせているイワシの缶詰などが置かれている。左右の棚にあるのは、豚のレバーのパテ、頭肉のパテ、淡いバラ色のハム、それに幅広い脂肪層のしたに血のしたたるような肉を見せているヨークハムなどだ。そのほかにも丸い皿や楕円の皿があって、そのうえには舌の詰め物、トリュフが入ったガランティーヌ、ピスタチオ入りのユールなどが並べられている。さらに彼女のすぐそばの下の棚には、背脂を刺し込んだ子牛肉、レバーのパテ、ウサギのパテなどが黄色い陶器の鉢に入っている」(朝比奈弘治訳、藤原書店刊)。引用すればきりがない。
 中世から数えれば900年にわたり、この地にあった中央市場をパリの南の郊外ランジス(Rungis)に移すことが決ったのは1962年。建物の老朽化がすすみ、さらにパリの中心部を占めているため、交通の障害になるというのが理由だった。取り壊し作業は1969年にはじまり、やがてこの地に巨大な穴が出現した。
 最初のパリ滞在中は、毎日のようにこの穴を見て暮した。取材に出かけるときは大抵レ・アルを通ったし、調べ物をするための国立図書館はすぐ近くのリシュリュ通り(rue Richelieu)にあり、さらに19世紀末から20世紀初めにかけて刊行された前衛雑誌を多く持っている古本屋がすぐ近くにあったからである。もちろん美味いレストランも多いこともその理由だった。
 1972年にはじまった解体工事が終わり、そこに現在見るフォーラム・デ・アール(Forum des Halls)が出現したのは20世紀末のことである。なお解体されたバルタールのパビヨンの一部はノジャン=シュル=マルヌに移築され、もう一つは・・・・横浜の港が見える丘公園のフランス山(旧フランス領事館のあった場所)に移されている。
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by monsieurk | 2012-11-11 10:30 | フランス(生活) | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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